20190522 映画のことなど

GWが終わり、風邪を引き、日立に行き、練習場所を見つけ、近所を探訪し、ソラマチに行き、三社祭に行き...要するに生活をしているうちに時間が経っていました。

 

家の周りのことや仕事のことなど、新鮮な事柄は多いはずですが、いちばんフレッシュなのは新居という環境それ自体で、なにせほぼ20年ぶりに部屋を新たにしているのだから、端的にキレイ。それなりに古い建物ですが、窓も広く見晴らしも日差しも清々しい。また新たな心持ちになったおかげか、積読や溜まりに溜まっていた録画を消化する、「いつか読む/見るだろう」というまさにその「いつか」のタイミングが巡ってきているのです。これがまたいい気分なんですな。

 

本当にしばらくぶりで毎日映画を観ていて、アルドリッチクワイヤ・ボーイズ』やゼメキス『ユーズド・カー』など、アメリカ映画はこれだからやめられないな、というものもあり、しかしなんといってもジョン・フォード『ギデオン』には心打たれてしまい、これこれ、「映画」ってこういうことですよと気持ちを浮き立たせていたのでした。フォードの映画ほど、何もかもがどうでもよくなってしまうくらい素晴らしい映画はないんじゃないか。あまりにも魅力的な役者たち...

 

時間は一気に戻って引っ越し前の4月下旬、仙台で三宅唱さんの映画講義に参加したのも、いい下準備だったかもしれません。トニー・スコットを題材に映画の見方を講義する三宅さんは、作り手と観客の視点を自由に行き来するようで、現場感覚に基づいた分析も、いやらしさのない手付きで爽やかかつ鮮やかなものでした。事実、それほど映画に詳しくない参加者の方も講義をかなり楽しんだというお話も。
そして個人的には『アンストッパブル』から見える、ある主題が、この映画に対する自分の印象を強く補強するもので大興奮。思わず講義後に三宅さんへあれこれ話しかけてしまったのでした。。『ワイルドツアー』の感想も、かなり踏み込んで伝えられたのが嬉しい限り。

 

そんな三宅さんの講義はあと2回残されているそう。
5月26日(日)14:00からカワムラビル3F bd bd bdにて...お、もうすぐじゃないか!仙台市民を中心に、ぜひ行ったほうがいいです、このイベントは。

 

f:id:keisukeyuki:20190522012738j:plain

主催菅原さんのFBより拝借

 

 

仙台と言えば、6月2-3日は昨年に続いてとおがった大道芸へ出演!そのあとも仙台での仕事が決まっております。ぜひぜひよろしくお願い申し上げます。

20190428 高円寺日記

ただ今中央線に乗って帰路、東京の民だ〜という感慨もそこそこに、まずは2日間のフェスでございました。飛び飛びとはいえ空転は関わってちょうど3年目になるグループですが、不慣れと不甲斐なさでうーむとなることも。むずかしい。

 

初日は雨と寒さに耐えつつでしたが、本日は晴天。お客さまもたくさんで、楽しくできました。何度でも言いますが、多くの方に見ていただけると素朴に嬉しいものです。高円寺のフェスが11年目のフェスということもあり、お客さまが慣れてらっしゃるのも大きいでしょう。

 

楽屋では久しぶりに会う方々に移住のご報告をしつつ、情報交換やじゃれ合いなど、いつもながらのフェスの風景。時間がなくて久々の高円寺の街歩きは満足にできずじまい。さすが古着屋さんも多くて、そのうち中に入りたい。15年前の仙台も、あんな感じでそこここに古着屋があったものだけどなあ。たまごの殻を背面にひょいと投げて籠に入れる店主が有名な天ぷら屋の「天すけ」には大行列。

 

 

んで、今日の1回目の本番、さてスタートだ!というところでポケットのiPhoneがバイブするのに気づいて、そのままリングを投げ出したのですが、終演後確認したらば・・・・・・・・・/RAY楽曲ディレクターのメロンちゃんさんから、パフォーマンスを見たとのLINE。なんとたまたま会場にいたそう!
その公園のすぐ脇、高円寺HIGHで、RAYの内山結愛さんが出演されるイベントがあったのは知っていたつもりなのに、まさか昼からいらっしゃるとは思わず。いやー嬉しい!フェス打ち上げ後、つまりさっきまた高円寺HIGHに戻ってご挨拶。ヲタクの方々もたくさんいらしてました。

 

チケットが無かったので、たまたま会場の外にいたヲタクの方と、割と長く雑談できたのも嬉しいものでした。ヲタクは人それぞれ美しい話を持っていて、それを聞いていたらば、誇張なしに疲れも軽くなりました。ヲタクというのはふざけた生き物であると同時に、筋を通し、愛に惑いつつも貫き、ナイーブに悩むものだ、というのを再確認。いい夜になりました。

20190421 引越し

引っ越しでした。


f:id:keisukeyuki:20190421092532j:image

2019年の上半期ほとんどを費やした一大企画(笑)がなんとか終わりました。

 

FBや、近しい関係の方々にはご報告済だったのですが、この度拠点を東京へと移します。いやはや、どうなるのか。

 

 

それに伴い、仙台でのジャグリング教室だけ一旦休講として、パフォーマンスや企画に関しては変わらずこちらでも行っていきます。6月にもすぐ戻ってくる仕事がありますし、今年もせんだいキッズジャグリングフェスティバルを行うつもりです。なので、今までと東京-仙台での仕事の比率が逆転するような感じでしょうか。

 

 

とまあ、これ以上何もお知らせすべきこともなく、話したいこともなかったのですが、唯一言っておかねばならないのは、ほんとーーーーに多くの方々に手助けをしていただいて成立した移住でした。もんたさんやえれぞうさん、仁くんにぽれぽれ、タゴマル企画のメンバー、その他有形無形の支援を頂きつつ、なんとか引っ越すことができた次第です。東京の不動産屋さんにも、大変に親身に動いていただけて、これも幸運でした。

 

 

東京のヲタクの友人からは「現場行き放題ですね!」の返答率100%という状態ではありますが、とりあえずソロのパフォーマンスをまとめようとしています。遊びに東京へ行くわけではないのです。しかし、さすが東京。目移りしてしまうものが多すぎる。特集上映や落語会にフェスに公演に講演においしそうなお店に街歩きに...まあまあ、楽しみながら生活していきます。

20190413 三宅唱『ワイルドツアー』を観て

special.ycam.jp

 

東京遠征中に三宅唱監督『ワイルドツアー』を観ました。ほぼ演技経験のない中高生が主演ということで、これは"間違いない"だろうという期待通りの映画でした。
昨年の『きみの鳥はうたえる』はもちろん、俳優の魅力を引き出すことにおいて三宅さんのディレクションは驚くほどで、撮影当時20代後半だった『Playback』など、ほとんど魔法のようにすら思ったものです。村上淳さんや渋川清彦さんの稚気めいた愛らしさと言ったら...とはいえ、『ワイルドツアー』はそうした役者の魅力もさることながら「映画」形式への挑戦もあり、全然一筋縄ではいかないのでした。

 

YCAMから「映画でなくてもいい」というオファーのもとに実験と「面白」さを兼ね備えた作品を目標に制作したとのこと。言うは易しでありますが、まさしく『ワイルドツアー』は実験と面白さ(素朴に劇映画として楽しめる)を両立した作品でありました。
 

realsound.jp

 

 

iPhoneの録画開始と思しき音がピコッと鳴り、木の枝や風に揺れる枯れ葉を映し出すファーストシーン。三宅さんの『無言日記』やHKT48山下エミリーさん自らのiPhoneを使った『エミリーの日記』の流れを継ぐものでありつつ、この主観ショット(というかダイレクトにカメラオペレーションしている)はぶっきらぼうに見えるものの、ふだん目を向けることのない細部という、別の世界への注視に促されています。
その世界の現れはYCAMでのWS「ワイルドツアー」に反映されます。身の回りの植物のDNAを採取し、またその植物が生えている周囲の環境を撮影記録すること(劇作上のiPhoneの映像はこのWSの記録映像でもある)、このWSに中高生が参加する様子をドキュメンタルな手触りで追う前半部に見え隠れします。採取し、植物の組成を科学的に知ることだけではなく、カメラを介して環境に触れ直し何気ない公園や荒れ地が冒険の場となること。こうした世界の変化は、当の本人たちの人間関係においても、「恋愛」という形で生じます。だが、『ワイルドツアー』が一筋縄ではいかないのは、その恋愛による世界の変化の両面を描くこと、つまり世界の開かれだけを描くわけではないことにあります。



中学生であるタケにシュン、そして二人に恋され、また自身も恋するYCAMスタッフのうめちゃんは、その恋心を実に率直に打ち明けながらも、想いがその恋する相手に理想的に受け取られることはありません。皆、微妙にすれ違っていく。シュンもまた同級生に恋心を打ち明けられる側でありながら、その心を受け止めるどころか、自分の恋にだけ思いを奪われ、女の子に「シュンは好きな人に告白しないの?」と問われると「フラれたら嫌じゃん」と、当の自分が相手にそうしていることは一切気づかないといった具合です。恋は、それぞれに新たな世界を開きながらも、そこに閉じ込めてしまいもする。トイレの個室でうめちゃんへの恋心を打ち明けるシュンとタケの間に壁があったように、ふたりもどこか各々の思いに閉じこもり、隔たっていくのです。想いが言葉となって形を持つことで、それぞれが別の世界に生きていることが、どんどん明るみにさらされていく。しかし、閉じられた世界も、また別の仕方で開かれていく繰り返し(映画は最初にうめちゃんが立っていた場所にシュンとタケが立っているシーンで終わる)には、息苦しさどころか感傷すらありません。それは、この映画が絶妙に視点をズラし続けているからにも見えます。



この映画では、複数のカメラが用いられています。WSに使われているiPhoneに、機材について明るくないのでおそらくではありますが、劇部分を撮影しているカメラも数種類あるように見えます。更に、iPhoneの画面は別のカメラで撮影され、同時に劇内で編集されるPCのディスプレイにも映し出される。複数の画面と複数の画面内画面。また、より重要なのは、それらが統一的な視点によって編集されきらないことです。無論、最終的に映画『ワイルドツアー』を作品たらしめる編集を施しているのは三宅監督自身なのですが、ところどころに奇妙な逸脱があるように感じます。
例えば、植物採集をする四人の女の子たちと、それに随伴するYCAMスタッフのザキヤマが撮影した動画を受信したうめちゃんのiPhoneが再生するシーンでは、動画は"編集されたひとつづきの映像"としてスクリーンに映写されます。おそらく複数のファイルをその場から送ったにすぎないはずの映像は、なぜか"編集"されているのです。この編集を行ったのは現実的には三宅監督なのですが、劇内においてはザキヤマの撮影した複数の動画ファイルであり、うめちゃんの主観ショット(准-主観ショット?)でもあるはずなのだが、スクリーンに映っている映像の流れそのものは、おそらくザキヤマが見たものでもうめちゃんが見たものでもない。ここでは映像そのものが遊離して浮遊する、非人称的ショットともいえる手触りをもたらします。


もうひとつ象徴的なシーンは、シュンとタケがうめちゃんと撮影素材を編集室で大型のディスプレイに映し出して眺めるシーンを"ディスプレイを透過して"カメラで捉えたショットです。薄布のような画面に映される自分たちの顔が、彼ら彼女らの顔に二重に重なる。当然このような視点は現実にはあり得ません。が、画面を見つめる彼ら彼女らを、観客もまた画面を挟んで見つめることで、互いが鏡合わせになるような関係が立ち上がります。お互いの視線が直に交わることはないが、この隔たりが我々を仮初めに結びつけ合いもするのです。
すれ違う恋のようなものとして我々は映画を見る、というとあまりにも気恥ずかしいものですが、やはりそうとしか言えない瑞々しさで満たされた映画であったと思います。

screenonline.jp

 

 

書ききれていなかったり書かなかったりしている点でも魅力的なシーンは多々ありまして、とくにカニパンを分け合う二人の男の子など、なんともいえない良さなのですよね...そしてラストのタケの変わり方(笑)




実にさり気なくではあるが、映画はこんなこともできるぜ!と見せてくれる三宅さんの映画、本当に得難いのですが、なかなかソフト化されているものが少ない現状なので、やってるな、と思ったら観ておくのがよいですね。

20190331 幽霊とどくんご

scarlet222.hatenablog.com

 

先般のドッツトーキョー9thワンマンで展示されていた絵画の作者笹田晋平が、なにゆえドッツトーキョーと関わり合うことになったのかというお話。
笹田さんは西洋古典主義的な絵画を再考し、またあり得たかもしれない日本美術史という「幽霊」に取り憑かれており、加えて「王道だがへんてこ」な点でもドッツと共振する、と最近お馴染みのscarlet222さんは指摘します。

 

しかし改めて「幽霊」というのは面白いものです。それは存在しないからこそ私自身の妄執として強く"取り憑かれる"だけでなく、私ではない他者として浮遊するもの。認識のフレームの外にあるようで、私のフレームに重なり合うもの。

 

この話をふんふんと読んでいたら、自分の過去に書いた記事を思い出しました。3年半ほど前。初ベビメタの後らしい。

 

keisukeyuki.hatenablog.com

 

ここで書いていたのは、例によってどくんごについて。
美術家の池田剛介さん(瀟洒な装丁の本が出たばかりで、すでに購入済。読むのが楽しみ。)の記事からの連想を広げていますが、はっきりと「幽霊」についてふれています。

 

そう、どくんごは私にとって「幽霊」を感じる場でした。

 

過去形で書いたのは、そう感じなくなってしまったからでなく、打ち上げで演出のどいのさんにそんな話をしていたら、旧団員の方に珍しく強い疑義を呈されたからで、ふーむ勘違いなのかなあと思うこともあったからですが、やはり今もって歴史の中で無名なまま死んでいった旅芸人たちの幽霊が、無数に呼び出されるような気配があるのです。

 

といっても、どくんごのテントは不穏な空気も懐古的な空気もなく、むしろ手作業のあとや生活の凡庸な跡がそこここに放り出されている。だからこそ「幽霊」がいる。「幽霊」たちは、特別な存在ではなく、我々と全く同じ存在であり・我々と全く違う存在...レトリックではありません。この私がワンオブゼムであると同時にユニークネスであるのと同じように、幽霊たちはかつての私であり、私ではない者たちの無限の重なりです。再度引用しましょう。保坂和志『朝露通信』。この本はどいのさんにあげてしまった。

 

僕はこの『氷川清話』を読んでて思った。僕のように寒さに弱く、ちょっとでも寒いとすぐに風邪をひくような人間は子どもの頃に死んでいた。昭和三十一年に僕が生まれる前、僕は何度生まれても小さいうちに死んでいた、勝海舟の言葉を読んでいたら幕末明治維新の空気が急に身近になることがあり、ああ、自分はこの頃やその前やそれよりずっと前の時代に生まれるたびに死んだんだなあ、と不意に納得した。

 

 

語り手の「僕」は当然生きている「僕」ですが、「僕のよう」な者たちは、過去何度も死んでいる。この世界において「僕」はただ一人だが、ワンオブゼムであり、であれば歴史の上でも同様にワンオブゼムとしての「僕」が死んでいる。唯一であり多数という矛盾の隙間を埋めるように「幽霊」が現れる。

 

 

 ドッツさんは、ラストワンマンという事実上の解散を経て、しかし変わらずSNSで・ちゃんたちの様子が動画やツイートを介して伺えるようになっています。これが奇妙で、なにかパラレルワールドで変わらず・ちゃんたちがライヴをしたりしているような、ひどく他愛ないのに強く心に訴えかけるような...ノスタルジアとでもいいますか、そんな感情を引き起こすのです。ここではないどこかに、・ちゃんたちがいる。やはりそれは「幽霊」のようです。当たり前で、特別ではないが、唯一でかけがえのないものとして、それぞれのタイムラインに浮遊する「・」という「幽霊」。

 

20190328 矢川葵さんのこと あるいは推しについて

解散やワンマンが続いたことで、ほとんどアイドルブログの様相を呈してきましたが、まあ気にすることはありません。その日その時関心のあることを書くと、こうなってしまうというだけの話。また、書ける範囲の話でもあるということ。

 

最近は特に、ジャグリングに関しては、私の誇るべき友人の一人と、オフライン・オンライン問わずときには夜を明かしてアホのように喋り散らかしていて、アウトプットの経路が違うというだけのことです。

 

といった予防線めいたものを張ったうえで何を書くかといえば、そりゃあアイドルです。

 

私は、アイドルカルチャーを音楽的にもパフォーマンス的にも"ヲタク"というファンベースのあり方にしても、好ましい/刺激的なものだと思って、他ならない私自身の仕事に強く関係/必要だと信じて付き合いを深めています。

 

が。

 

ドッツさんのワンマン後、某ヲタクと話していたら、普段知的な彼がニヤケ顔のヲタクフェイス丸出しで、いかにして普段から・ちゃんに癒やされ、心の支えにしているかを語り始めて、いやアナタそれオンラインでもっと書いてくださいよ...洗練されたヲタ芸ばかりがヲタクのアウトプットじゃないでしょう...と身勝手極まりない・かつ特大ブーメランな感想を抱いたものです。

 

そう、ヲタクがヲタクであるのは、いかにも素晴らしいコールやMIXにリフトといった技芸のみならず、一人乃至多数の「アイドル」に心底惚れ込むからこそ、でもあるのです。惚れ抜いたところで何が起こるわけでもありません。ヲタクは、ただただ"惚れ抜く"ことを目的にヲタクをまっとうするのです。その表現が、様々で愚かな広義のヲタ芸の数々なのです。

 

無論、そのような"惚れ抜く"過程で、自分自身にも真贋見分けがたい強い感情が起きることもあります。イラ立ったり、狼狽したり、果ては「ガチ恋」になったり...(先日耳にした「あいつは「ガチ」になったからもう笑えない。前と同じことしてるのに」という心温まる突き放しは、早くも今年の私的ベストヲタクエピソードに刻まれました)

 

 

で。お前はどうなんだというやつですよ。
まあ、待て。

 

文脈を提示しましょう。

 

何度か書いているのであっさり行きますが、私は在宅で2010年〜2013年頃までAKB/SKEを中心にチェックするヲタク最初期から、2015年秋頃のBABYMETAL発見に伴う2016年の海外遠征に端を発し、同年年末から2017年上半期にかけてメジャー/インディーのアイドルを渉猟、そのままThere There Theres(当時の表記)との出逢いにより、本格的にアイドル沼へ肩までズブズブになっていったのでした。

 

このとき、私は先述したような、アイドル固有のパフォーマンスや音楽的な面白さ、ある種のフィールドワーク的なヲタク生態学ともいうべき現象への関心に、"ヲタ活"を支えられていました。だから、ヲタクと知り合ったときにほとんど必ず聞かれる「推しは?」という質問に、うやむやにしか答えられなかったのでした。


そのことについて、別にいいじゃん、と思う自分と、カルチャーに対して斜に構えてるんじゃないか、と思う違和感の間に揺れていました。

 

だいたいにして「推し」ってなんすか? 顔が好みだなと思う人はもちろんいるけど、そのことはパフォーマンスや音楽に比して、全然下位の事象だし、パーソナリティーが魅力的な人もいるけど、それにしたって、わざわざお金を払って写真を撮ったり握手したりする気持ちにさっぱりならない。ステージを見れりゃあいいのです。

 

が。

 

が、なのです。

 

Maison book girlの矢川葵さんと遭遇してしまうのです...この方こそ我が「推し」...

 

 

しかし「推し」の話はしづらい。。ある人が特定のある人についていくら魅力を語っても、それが魅力であるという根拠は、基本的には自分自身の中にしかありません。たとえ推しが同じ者同士でも、微妙な着眼点の違いが際立ったりもします。いや、その特徴について記述することはできても、そこに強いリアリティを感じることができるかどうかは、まったく個々人の感性に委ねられている。そう、ヲタクにとってはその"リアリティ"こそが重要です。また、推しについて語るヲタクがしばしば「語彙力を失」ったりして、すぐにトートロジーめいてしまうのも、この根拠の弱さと、リアリティを言語化する困難に起因すると言えないでしょうか。
誰かを強く「推す」動機や原因には、他ならない私自身の根深いこだわりが反映されるに決まってるのです。要するに「推し」の話をすることは、間接的に「自分」の話をすることになるから、こんなにも語りづらい。語ろうとしても語りきれず、しかし語ることについて誘惑され続ける。こうしたものが、私にとっての「推し」なようです。

 

ああ、我ながら本当に面倒くさいな...

 

ここからは、私がいかにして矢川さんに"惚れ抜き"、名目ともに立派なヲタクとなったかの話です。いつにもまして一文の価値もない話だ。さっさとこのページを閉じて、各々の勉強や遊びに戻ったほうがいい。いや、矢川葵さんは値千金。興味がある奴は公式サイトに飛んで、MVを見て、ライヴのチケットを買うのがいい。ここに戻ってくる必要はない。だが私は続ける。推しの話は、アイドルカルチャーに興味を持ったけじめなのだ...!

www.maisonbookgirl.com

 

 

さてMaison book girlとは...とこれは前にも話したから割愛。サクライケンタさんの楽曲が超かっこよくて、ライヴもエモいし、どのメンバーも魅力的で、なんだったら今年あたりいよいよもってバーンと売れてしまいそうなグループです。 矢川葵さんは、この"ブクガ"のメンバーです。


Maison book girl / 鯨工場 / MV

 

私がブクガを見たのは1年10ヶ月ほど前。別のグループがお目当てで入ったライヴで、ついでにブクガも見れるなあ、位の感じでした。曲はいいけどねえ、パフォーマンスはどうなんでしょう?といつもどおり後ろで腕組みかまして偉そうにしてるところ、私の眼前に

矢川葵さんが現れたのです。

 

基本的に、「レス(フロアの特定の観客に視線や表情を送ること)」のうまいアイドルさんに不感症な私は、矢川さんの遠くを眼差してあたかも観客がそこにいないかのように振る舞うステージングに、グッと引き寄せられました。これは...めちゃめちゃにいいぞ...と。矢川葵さんはめちゃめちゃにいいのです。

 

 

ステージにあってパフォーマーは、パフォーマンスに集中しながらも、観客の様子をモニタリングするのが常です。飽きているのかノッているのか、私みたいに比較的そうした観客のコンディションに拘泥しなさそうにみえるスタイルのパフォーマーですら、かなり様子を探っています。そんな調子なので、知り合いが見にきていれば結構分かってしまうし、むろん、スマホなど見ていればバッチリ気づいています。
これを逆に考えると、パフォーマンスはモニタリングの影響を被っているし、同時に、あるアクションが、観客のテンションをコントロールしたり、指向性を持った意味へと誘導することに重きを置かれていることもある。
さらに翻って考えるならば、"同じステージに立つものとして"アイドルというパフォーマーが、"今どういうことをしているのか"が、実感を持って理解できるケースが多いのです。(もちろん、見巧者のヲタクは多く、わざわざ特殊性を持ち出すこともないのですが)

 

そのような文脈の中で、矢川葵さんの遠い視線は、意味するところが観客に差し向けられたそれではなく、もっぱら自分自身の深い集中の現れに見えてくるのです。それは、私には伺いしれない領域の表現に見えていますし、その場しのぎの何かを見せているわけでもなく、かといって安易に「全力」でもない。左右に振れることのない真っ直ぐな視線は、パフォーマンスを繰り出す自己という海へと深く降ろされた錨のように安定しており、それゆえにギアが入ってパフォーマンスに熱を持ち出す瞬間が、とてつもなくスリリングなのです。


また声、矢川さんは声が圧倒的に素晴らしい。ソロ楽曲のこちらをお聴きください。


Aoi Yagawa prod. Tomggg - ON THE LINE

 
幼い印象の声色だが、それに引きずられて未熟さを褒めそやすことはためらわれる、むしろ強い意志を感じる発声...いや主観ですよそりゃあ。でもねえ、矢川さんには、伏流しているが、滾るように生々しい情念が確かにある、と天下のもとに証明された(証明されました)のがこちら。 


Maison book girl / 狭い物語 / MV

この急くようで攻撃的なモード自体、ブクガにとっては新機軸なのですが、私に言わせればまず何より、矢川葵さんというパフォーマーの存在を世界に知らしめてしまったな...と慄くような代物なのです。3:33からの独唱に何も感じませんか。これこそが、私が1年10ヶ月間感じていたところの「矢川葵」なのです。

 

 

で、 これだけの「推し」になっても、接触に至るまでは約半年を要しました。まあいいじゃん?別に話したいこともないし、パフォーマンスを見られればそれで最高なのだよと。だがしかし...それでいいのか? こんなに熱狂させられた人に、なんの挨拶もなしで? そもそもアイドル文化につきものの「接触」を経験せずして、何がわかるのか? 

 

いいからさっさとチェキ券買えよと今なら思うのですが、まあまあ本当にこのくらい逡巡した後、仕組みもあやふやなまま、えいやと列に並んだのです。

 

ところで、これだけ熱い思いとこじらせた自意識を抱えた大人が、10歳くらい年下の、なんだったら芸歴とか持ち出したら大先輩だし、みたいな予防線張りまくりの男が、はじめての「推し」と会話するとどうなるか、わかりますか。私はあの日を忘れられない。パフォーマンスの話でもなく、はじめての推しだと告げるわけでもなく、SNSで触れていた、遠征先で矢川さんが食べたものについて雑談しただけで、終わったのです。

 

あんなに敗北感を感じる日が、今後も来るのでしょうか。人生は辛すぎる。

  


Maison book girl / karma / MV

 

 接触という自己ハードルを超えたあとは、パフォーマンス的な側面以外にも、ときおり見えるパーソナリティーにもめちゃめちゃに愛着が湧いてくるもので、パフォーマンスが見れればいい→このスケジュールじゃ接触行けないし厳しいな...とまで考えるようになるのです。ライヴ見たのにチェキ撮らないとか、考えらんない。矢川さんは自分からばーっと何らかのトピックについて話してくれるので、こちらが切り出す話題がなくとも、うんうんと頷いたりしてるだけで終わってしまうこともしばしばで、まあそれもいいんですよ。何がいいのかは知らないが、いいんです。

 

でもやはり、ステージ上で感じるような意志の強さや(こういってよければ頑固そうな)、クラシックなアイドルを愛しながら、その像に自分を重ねようと徹するよりも、隙を見せることも辞さない雰囲気が、SNSや会話から漏れ伝わってくるのも魅力的です。

 

ところで私には、ヲタクが推しについて不明な言葉で一方的な愛を呟いたり囁いたり叫んだりする一切が好ましいのですが、実はこの矢川さんも一人の"ヲタク"として元モー娘。工藤遥さんに熱を上げて、長文の感想をドロップしたりしているのです。推しが推しに対する想いを吐露するさまを見られる世界は本当に素晴らしい。(しかも推しの推しは推しを捕捉してリプを返したりするから、それに慌てる推しが見られるんですよ。凄すぎる)

 


【DVD】工藤遥FCイベント ~まるごと全部お祝いしちゃえ!~

 

 
ここでもう一度具体的に言わせてほしい。矢川葵さんのどこが素晴らしいのか。やはり私にとって矢川葵とはステージの人だ。
まず2017年の3rdワンマンから。今見ると被せがあって懐かしくもあります。いなかったけど、ここには。


Maison book girl 「lostAGE」LIVE @2017,05,09「Solitude HOTEL3F」@AKASAKA BLITZ


振付はBiSなどを手がけたことでも知られるミキティー本物。手振りが中心の振付は、ともすると凡庸な動きに終始しがちなものですが、ミキティー氏はボキャブラリの多さで飽きさせず見せている、といえるのでしょうか。私が際立って惹かれるのは3:17からの「消えた時間〜」で、時計の針を模したような腕の振りです。いや、正確に言うと、ステップや重心の移動を止め、ぴったりと立って腕だけを動かすところで、首も視線も揺らすことなく、文字通り身動ぎしないことによって、不思議と矢川葵さんの身体性がきわめて豊かに立ち上がる瞬間です。その魅力の原因は、身体を静止することで、あの特徴的な視線へとフォーカスが促されることにもよるかもしれません。これが矢川葵さんのクールネスの極点であります。次にこちら。

 


Maison book girl

 
昨年5月の「ビバラポップ」にて。ブクガ史上最大規模の会場SSAで、演出のモニターバグを逆手に取ってアウェーとも言えるステージを乗り切った、ファンの間でも評価の高いパフォーマンスです。10:25からの「karma」は特にすばらしい。クールネスを振り切って、ここまでドスの利いた矢川葵が現れるのかと、最高の惚れ直し案件だったわけですが、SU-METAL同様、自分自身にムチ入れをするようなパフォーマンスは、私の泣き所なのかもしれない。「何もかも許してよ」と吐き出すように歌いながら、全く許そうとはしない怒りにも似た感情を込めて腿を押し下げる振りの迫力。さっき言ったように、観客よりも自己への集中の結果がパフォーマンスに生々しく反映された形で、もっともわかりやすいステージの映像が、このビバラポップじゃないでしょうか。毎度これではおかしいし、こうしたものを目指すのが良いわけではないが、アイドルはライヴの環境をダイレクトに身体へ通して演じるという意味で、ベテランからは得難い生っぽさを何度も見せてくれます。なかでも矢川葵さんはもうかんぺき...

 

でもこうして、パフォーマーとして好きなのはもちろんのこと、パーソナリティーも、見た目も当然好きです。見た目に関しては、そうだな...

これを見たほうがいい。早いから。

 

ブルージュの瞳

 

ね?


(写真撮影を担当している友人様に、この場で最大級の感謝を捧げます。本当にいつもありがとうございます...) 

 

 

その素晴らしい矢川葵さん、現在ニューシングルのリリースに合わせた全国ツアー中。今度の土曜日に名古屋でリリースイベント/ワンマンライヴを行ったあと、4/13(土)にツアーファイナル「Solitude HOTEL 7F」を昭和女子大学 人見記念講堂にて開催。そのほか4月末にはFINAL SPANK HAPPYとの対バンがあったり、様々なアイドルイベントに出演したり、もうとにかくブクガチャンス/矢川さんチャンスがたくさんあります。我々はこの目で見られるんだ、矢川葵を。

www.maisonbookgirl.com

 


 なんなんだ一体、ここまでで6200字って!
なのに、質的には全く何も書けていない思いしかない...こうして人は推しについて語ることに失敗し続けるのです。少なくとも私に関しては。いや、誰が矢川葵さんの素晴らしさについて語り尽くせるというのか。そして、これから更に魅力を増していくだろう我が類稀なる推しについて、何度失敗しても構うことなく(できればもう少しカジュアルに)書いたり喋ったり、あるいは本人に伝えればいいんじゃないか。
 


Maison book girl / 言選り / MV

 

会いに行くことができるとはいえ、常にどこか遠い「憧れ」を感じさせてくれる、矢川葵さん。紛れもなく私にとって「アイドル」である矢川さんが、より多くの...いや、もう健康であればいい!ヲタクが推しに願うのは健康だけです。健康のうえで、世界へ羽ばたいたら言うことなし。でもきっと、多くの人に求められる人のような気がするのです。今回は触れられなかったけど、MVでのフォトジェニックなことといったら、もう抜群ですから、矢川さんを起用した映画監督たちがどれだけの成果を上げることか...スクリーンで推しを見てえな...はい、また言い出したらキリがないのでやめます...

 

 

 

 

...ここまで読んだ人、いるのか。
いるなら、ぜひライヴへ。そしてチェキへ。私にとっての矢川葵さんが、皆にとっての矢川葵さん、それぞれの矢川葵さんに変化していくとき、どこかの現場で「矢川葵は最高...」とため息をつきながら語彙力を失い合いましょう。その時まで、今はひとりでつぶやきます。矢川さん、最高...

 

  

f:id:keisukeyuki:20190328165717j:plain

 

20190325 「Tokyo in Natural Macine」

f:id:keisukeyuki:20190325152119j:image

 

諸々の実務とデザイン、演出をチームワークで行うべく「タゴマル企画」は去年の2月に始まりました。というのも、ドッツトーキョーさんをお招きするには、会場規模や広報でどうしても1人の作業に限界があるわけで「多夢多夢茶会」のようには行かないのが目に見えていたからです。

作ってしまえば、思った以上に色々なことができそうで、ドッツさんよりも早いタイミングで3776さんをお招きできたり、その後も純粋にフライヤーのデザインを請け負ったり、なんだか対外的には説明しづらい企画団体となりました。

 

2018年6月の『あるばとろす vol.1』は、塩竈市杉村惇美術館 大講堂で開催。6月というのに暑くて仕方ない会場でした。出演は私のユニット「マヤマ」に「非知ノ知」「ぽれぽれ」そして「・・・・・・・・・」。過去のイベントを後生大事に振り返るのもなんだかな、ですが、やはり私にとって意義深い企画です。こういう機会をもっと増やしたいですね。

 

イベントのほかに、個人的に嬉しかったのはドッツ運営のメロンちゃんさんから、我々のジャグリングに関してかなり好意的なコメントを度々頂いたことです。私が好きなものを作ってる人に、自分の仕事を気に入ってもらえるのは何よりのことですし、音楽や身体性について理解の届いた反応は、滅多にもらえないものです。

 

いきなり個人的な思い出話に終始してしまって、自分でも驚きですが、ひとまずその刺激に従うまで。

 

2017年の9月、かねてから噂を聞いていたドッツトーキョーを見ることが叶いました。音源は聴いていたものの、問題はパフォーマンスなんだよな、などと偉そうに腕組みしながら待ち構えていたら、いわゆるオリジナル曲である「エモ曲」とカバー/ノイズの「ヤバ曲」が織り交ぜられたセットリストで、特に「Bones」や「すきなことだけでいいです」のダンス中心のナンバーは、くやしさすら覚えるほどの楽しさで、そしてラストの「1998-」でアウトロを残してメンバーがステージから全員ハケて、袖から「ありがとうございました!」の声を聞いた時には、分かってる。この人たちは分かってるぞ!と(偉そうな態度は崩さないまま)すっかり心を開いてしまったのでした。

 

その1ヶ月後、改めてドッツを見たときは「文学少女」や「ソーダフロート気分」を軸に、熱量を惜しみなく発散する快活さとは違った、しかし観客を確かに引き込む振り幅を見せられ、このあたりで完全にヲタクとなった気がします。そのさらに1ヶ月後には出演のオファーを出しておりまして、タイミングもあったとはいえ、我ながらスピード感のある流れでした。

 

こうして、過去のことを振り返るのも故ないことばかりではないかもしれません。というのも、今回のワンマン会場に入って我々が最初に見えるのは、中空に吊るされた歴代の衣装とライヴ映像なのですから。

 

f:id:keisukeyuki:20190325152037j:image

 

受付ロビーからそのまま歩みを進めると、写真のような光景が目に入ります。フロアに8枚+ステージに1枚のスクリーン(ドッツの"・"の数とワンマンの回数に対応している)が、開演から終演に至るまで、観客の頭上に過去のライヴ映像を映写し続け、確か1stワンマンの時にも同様の演出があったと記憶してますが、BGMとして、様々なアイドルたちの楽曲が細切れでノイズと共に流されているのです。また、我々ヲタクがその楽曲のうち、強く反応してしまうのは、今年解散を発表したグループの楽曲であります。「asthma」に「韻果録」「蝉の声」...どうしたって"過去"と"終わり"が結びついてしまいます。無論、こうした新陳代謝が歴史となり、次へと続いていくには違いありません。実際、このBGMの中には、当のドッツさんの「サテライト」も含まれていました。我々もまたアイドルという歴史の一部へ還っていく、というごく真っ当で誠実なスタンスです。

 

そんな場でありながら、不思議と湿っぽくないのは、ヲタクの皆さんの雰囲気にもよるでしょう。

 

f:id:keisukeyuki:20190325153904j:image
f:id:keisukeyuki:20190325153900j:image

 

「卒業式の教室の雰囲気」なんて話が出たくらい、和やかな開演前。ちゃっかり私も集合写真に混ざったり。デビルマンのコスプレの人がいたが、一体なんだったんだ。

 

f:id:keisukeyuki:20190325154141j:image

 

ライヴが始まってしまえば、そこはヲタクの活躍の場です。ドッツトーキョーのライヴは、コンセプチュアルで知的な楽しみと、原始的といっていい、身体を震わせる興奮に満ち満ちています。そのどちらのあり方もが悦びとして肯定されているものの...知的であるがゆえの振り幅なのでしょうか、私には、ヲタクがステージに背を向け地面に向かってダミ声で吐き出すMIXや、マサイ、リフトといった一連のお約束が一際輝いてみえるのです。(塩竈で、変拍子に叩き込むMIXを聞いたときの感激たるや)大体にして、2時間超えのライヴで、最も泣かされたのが「Can You Feel The Change Of Seasons?」のサビで繰り出されたリフトです。ここぞというしかるべきタイミングで持ち上げられたヲタクの美しさ。。

 

横道に逸れますが、リフトという、文字通り人が騎馬戦のようにして人を持ち上げる動きは、形骸化してしまった部分も多々あるけれど、ステージから送られる"力"へ、衒いなしに反応した結果でしょう。その"力"は往々にして"推しのパート"が顕在化させるものであるが、今回のリフトは、間奏が明ける直前のドラムブレイクから、一瞬の間をおいて落ちサビへ移行するその瞬間を捉えた、極めて音楽的なタイミングとしかいいようのない間で行われたリフトです。音楽の盛り上がりと感情の高まりが、そこで完璧に出会ったのです。そんな"力"の顕れに、誰が涙せずにいられようか。そして、その"力"を確かに受け止めて投げ返すかのように絶唱する・ちゃんの超ロングトーンを、誰が忘れられるというのか!

 

f:id:keisukeyuki:20190325160832j:image

 

基本的にライヴは、コンセプチュアルな側面は後景に下がり、ストレートにライヴの盛り上がりを楽しむまま終えられました。今後のことや、都市に還ること、そうした諸々はひとまず宙吊りになっていたものの、終演後も長く長く続くチェキ会を見ていると、運営やメンバーの皆さんが何を優先したのか、語らずとも全員に共有されていたように思います。

 

が、仕掛けめいたことが等閑にされたわけではなく、上階に展示された絵画とメモや資料群、そしてラストにパフォーマンスされた新曲「ネモフィラ」。フライヤーやライヴ後半ステージのスクリーンに投影されていた"花"のイメージが、最後の新曲によって(ネモフィラは花の名前)、どうしたって"終わり"ではなく"始まり"に差し向けられているように見えることが、ほとんど確信めいた希望に感じられるのです。都市の歴史の積層の隙間に、気ままな風の運びによって思いがけない場所に根を張った花が密かに咲いて、誰かがきっと目を止める。都市=東京というシステムを庭にして、そんな花々があちこちに咲き出す可能性に賭けられた一手として、今回のワンマンがあったかのようです。

 

f:id:keisukeyuki:20190325163443j:image

 

 

さて、挨拶めいたことは、繰り返すとどうにも不恰好なので、再び個人的な思いで終わります。

 

 

ドッツ、本当に楽しかった!

お世辞にも"通った"とは言えないし、接触もしない不義理なヲタクでしたが、その面白さを十分に受け取ったつもりです。そして、早く帰って新しいアルバムを聴きたい!

 

以上!