20190911 Maison book girl 「yume」

発売当時に書いていたんだけど、公開に至らなかったのを、今更見つけた。
今年はざっくりでもなんでも形にしていくことが決め事なので、この際公開しちまおう。語尾など細かいところ以外はほぼリライトしてません。アルバムリリース以降、大きいワンマンも4本を重ね、シングルも2枚増やし、色々と状況に差もありますが。いや改めて、サイクルが早いな...

と、実は先日の記事よりも前からキーボードを叩きながらもまとまらない文章を公開させるための弾みにしようって魂胆...まあ勿論そんな大したもんじゃないんすけどね。 

 

 

 

ニューエイジ・ポップ・ユニット」を標榜する四人組グループ"ブクガ"ことMaison book girlのメジャー2ndアルバムがリリースされました。

 

www.maisonbookgirl.com

 

昨夜サブスクリプションで聴いたので、各クレジットや歌詞など曖昧なまま書いていますが、予想通りに予想を裏切られるアルバムになっていました。加えて、プロデューサーにして作詞・作曲のサクライケンタの作家性の総決算的な作品になっているようです。

 少し個人的な話をすると、このグループは音楽的な趣味やステージの魅力もさることながら、我が"推し"こと矢川葵さんが所属されているので、どちらかというと、メンバーへの思い入れがあったりする、のですが、このアルバムを聴くと、どうしてもサクライさんという一人の作家に思いを馳せることになりました。むろん、個別の楽曲での歌い方に新味があって(「影の電車」のファルセットとか)そういう部分もよいのですが。

 

ちょっとアルバムの曲目を確認します。

 

  • 01. fMRI_TEST#2
    02. 言選り_
    03. SIX
    04. 狭い物語
    05. MOVE
    06. ボーイミーツガール
    07. PAST
    08. rooms_
    09. MORE PAST
    10. 十六歳_
    11. NIGHTMARE
    12. 影の電車
    13. fMRI_TEST#3
    14. 夢
    15. ELUDE
    16. レインコートと首の無い鳥
    17. YUME
    18. おかえりさよなら
    19. GOOD NIGHT
    20. 不思議な風船
    21. fMRI_TEST#1

 

全21曲。曲名の末尾にアンダーバーのあるものが前レーベル在籍時に発表された楽曲(微妙にアレンジを施されている)だったり、その名の通りMRIの音が響く「fMRI_TEST」の#1~3と大文字のアルファベットのタイトルがインスト曲となっています。一曲ごとにインストが挿入され、歌の入っている楽曲がサンドイッチされている構成です。
例外的に、20曲目の「不思議な風船」はメンバー、コショージメグミ作詞のポエトリーリーディング。そして9曲目の「MORE PAST」は1stアルバムに収録されている「my cut」を、メンバーがアコースティックアレンジで歌う声に、レコードのノイズのような音が重なっている曲になっています。

 

インスト曲は、ピアノなどの楽器音だけでなく、サクライ作品に頻出するドアのノックや足音といった現実音の利用により、聴くもののイメージを膨らませつつ、映画を見るように作品世界へ没入していくような経験を与えます。実際映画好きらしいサクライさんなので、レオス・カラックス「ボーイミーツガール」とホセ・ルイス・ゲリン「影の電車(列車)」と、映画作品が楽曲のタイトルに引用されているよう(まさか「夢」は黒澤明ではないでしょうけど)でもあり、いずれにせよ表層的にポップ・ミュージックを消費するにとどまらない、深層的な経験を与えようという狙いが見えてきます。


そして映画というと、先日発表された「おかえりさよなら」のMVを想起させます。

 


Maison book girl / おかえりさよなら / MV

 

患者服のような白い衣装をまとったメンバーたちは、素足で街を歩き、映画館のような場所で、過去の自分たちのMVが粗く投影されるスクリーンを見つめ涙を流します(これもゴダール女と男のいる舗道」あるいはキューブリック時計じかけのオレンジ」のような映画史的記憶を喚起させる)。そして、ベッドに呼吸器をつけて横たわるメンバーのイメージ。 MV内の光景は、もしかするとこの昏睡した女性が見る無意識的なイメージ=夢なのではないか、という解釈が成り立つようにみえます。

 

MVでは無意識=夢が映画という表象を通じて過去に連絡されるのですが–––いかにも謎めいたこのMVがどういう意図なのか、そこには深入りしません。私が気にかかるとすれば、そもそもサクライケンタにとって無意識とは、夢とは、過去とは何なのか。単に審美的な嗜好なのか、作家としてのエレメントの価値です。この記事はそれに答えきれるものではありません。ただ、アルバムを聴くと、昨年発表された「言選り」という作品の重要さが際立ってきます。

 


Maison book girl / 言選り / MV

 

「言選り」は"AIとの共作"をキャッチコピーのようにして制作された楽曲です。具体的には、AIへサクライケンタが過去に作った詩を入力し、それをランダムに別なセンテンスとして吐き出したものを、またサクライさんが再構成するという方法でした。カットアップ的に、ランダムな言葉を再構成する技法自体は、特段珍しいものではありません。

 

サクライさんの詩作には、聞けばそれとすぐに分かる、いくつかの特徴的なモチーフや言葉遣いが複数の作品で反復されるパターンを持っています。"煙"や"ベッド"に"部屋"...このモチーフが、ある種の幻想的な趣を持っていました。謎めいていて、サクライさんのヴィジョンのような詩が、"Maison book girlの世界"を特徴づけてもいます。


しかし「言選り」においては、AIがサクライさんのモチーフはそのままに、"詩"として文脈付けられていた言葉のユニットを無作為かつランダムに吐き出すとき、かわらず謎めいたイメージを表しているかに見えて、文脈を持たない無意味なひとつのパターンへと変形させてしまいます。これを有意なものにするべく、再度言葉を"詩"へと組み直すことが「言選り」におけるサクライケンタの創作でした。ひとり孤独にヴィジョンを紡ぎあげるのではなく、すでに何度も見たヴィジョンを、他者を介して別の物語へと編集すること。

 

この作品でサクライさんは、自身のモチーフや反復するパターンを"詩"にする"私"を、AIという他者を介し、またそれを編集することで出会い直し、乗り越えようとした、とみることはできないでしょうか。"詩"として結晶する様々なモチーフは、サクライさんの審美的な趣味でありつつ、その美的な経験を支える無意識=夢の層に食い込んでいるでしょう。これはあくまでも仮の足場としての結論ですが、サクライケンタにおける夢や無意識、そして過去とは、乗り越えられるべき自分自身という限界についてのことでもないでしょうか。少なくとも「yume」という作品においては。

 

「言選り」が実質的な一曲目としてアルバムに配置されていることは、単なる偶然でないとします。その仮定の範囲内で、私には、アルバム「yume」がサクライさん自身の夢=無意識と出会い直す、つまりサクライケンタが"サクライケンタ"と対峙する物語のようなものにすら見えてきます。なぜなら、「言選り」のような出会い直しの物語が、アルバムに収められた楽曲にも起きているからです。私が「yume」をサクライケンタの作家性の総決算的作品と言ったのは、このような意味合いにおいてです。

  

今は全体に渡って細かい検証をしている時間がありませんが、一部分だけ見てみましょう。たとえば「PAST」がドアのノック音とともに「rooms_(部屋)」に繋がるとき、そのノックは"この部屋"のドアをノックする音と解釈できます。「rooms」とは一体どこの部屋なのか、何を歌っているのか、明確にはわかりません。しかしノックされた"この部屋"であると、構成的に位置づけられることで、とらえどころのない幻想へ輪郭が与えられます。この輪郭線をたどれば、サクライさんの詩が別の響きを持ち始めます。続く、アルバムで最も重要と思われる「MORE PAST」は過去作「my cut」を再利用することで、ベタに楽曲を享受することから距離を開きます。楽曲中盤、「なぜか15年前の」と歌われると、ノイズが重なりだし、その音像が徐々に前景化し「my cut」はあたかも過去として埋もれて消えていくようです。そして「十六歳_」へと連続すると、15/16という数字が互いを照らし合いつつ、"過去"という物語を露わにする。"きっと戻れない日々眺めてた"。
それぞれ全く別の時期に創作された作品が、意味/文脈を再構成することによって関係しあい、別の意味/文脈を生み出します。それらは、各部としてはサクライさん自身が無意識的に反復的するパターン=夢=症状でありながら、文脈の変化によって、違う別のパターンへと編み直されるのです。「言選り」で吐き出された言葉が、紛れもなくサクライさん自身の言葉/モチーフでありながら、別の詩になってしまうように。

 

もし「yume」が優れたアルバムであるとするなら、作家の反復的で自家中毒的なパターンを乗り越えようとする格闘の跡の生々しさに根拠のひとつがある、と言えないでしょうか。何より、このような自己の乗り越えが、新しい世界を開くことへ繋がっていくだろうことに、ファンは期待します。作家として作品そのものを、そして、プロデューサーとして、Maison book girlをまだ見ぬ誰かへと開いていくことに。

20190904 「テン年代アイドル論」、またはオタクであることについて

※ scaletさんにまさかの課金(月日さんとのチェキ代)ができるようになったそうです。これが都市計画の裏切りというやつか...
※ タイトル誤記を修正

 

5月の上旬、夜の渋谷のバスターミナルで、その後「推し」になるアイドルと初接触のチェキ(複数枚)を見せながら構想を語ってくれた文章がついに。

 

 

note.mu

 

しかしまあ、ひとりのアイドルがひとりのオタクの「推し」へと生成変化していく時間を共にした文章だと思うと、実に貴重でひとしお興味深い「オタ芸」といえるでしょう...

 

などという冗談はともかく、このscarletさんによる現代アイドル史では、東浩紀-宇野常寛-濱野智史-黒瀬陽平に代表される思想/批評の潮流が、AKB48-BiS-PIPと重なり合い、・・・・・・・・・によってその重なり合いがほとんど一つのものになるさまが描き出されます。見通しはきわめてクリア。我々はアイドルという正体不明の文化について、一望するツールを手に入れたかのようです。

 

もちろん、一望といっても、それは一つの視点からによるものです。つまるところ、その道具を使って何を見、フォーカスするかは道具の使用者に委ねられている。同じ望遠鏡を使っても、それぞれはまったく違ったものを見るでしょう。すなわち、これを読んでから・・・・・・・・・のオタクになることも、あずまんフォロワーになることも、はたまたアイドルプロデューサーになることも、すべてが可能です。では、私はどうするのか。私はアイドルと同じくらい、オタクとは何か、について考えてみたい。とりわけ濱野智史を通じて。

 

 

 ところで、文中に触れられているアイドルで私が全く知らないのはPIPのみです。プロデューサーの濱野が批評家で、・・・・・・・・・運営陣がこのグループのヲタクで、所属アイドルだった萌花さんがscarletさんの今の推し...ともかく、かなり限られた情報しかもっておらず、論考を通して最も勉強になったことのひとつです。

 

実のところ濱野の『前田敦子はキリストを超えた』も未読で、私の知るものは、ほぼ完全に「テン年代〜」に依存します。そのうえで。

 

 

テン年代〜」で冒頭から確かめられるように、アイドルにとってのゼロ年代AKB48の時代であり、今までの「アイドル」の前提を「会いに行ける」というコンセプトでもって覆し、現代的な「アイドル」のありようを一変させてしまいました。狭義のアイドル史的には、ファンとの直接的なコミニュケーションを含んだ文化のあり方の定着、また様々なグループの乱立によるマイナールールの改変を凄まじいサイクルで回転させるようになりました。そのことで前者は運営の収益化を容易にし、後者は表現の幅をかつてとは別の仕方で拡張していった、といえます。

広義に見れば、ファンサイドの受容の仕方も変え、かつてとは違った層に、ひとつの文化としてリーチし得るようになったのです。それが先述の濱野に代表される、批評/思想家などの知識人へのアピールなども、現象の一部に含まれます。彼らにとってアイドルは単なる消費物を超えて、彼らの批評的/思想的関心と響き合うものとして、知的な関心をも満たす対象なのです。それが具体的にはどういうことなのかは、直接論考に当たっていただくとして、先に進みます。問題は、濱野が自らの思想的関心の延長線上で、実践として「PIP(Platonics Idol Platform)」なるアイドルグループを発足させ、運営してみせたことです。

 

事実として運営の結果を先取るならば、PIPは失敗に終わりました。野心的なコンセプトにも関わらず、彼自身の思想を原因として内破したとscarletさんは指摘します。そもそも、濱野の関心は、「アーキテクチャ」としてのアイドルでした。ある構造・システムを介して、社会に影響を及ぼすこと。身近な例で言えば、大きなデモを組織し、実際の革命を可能にしたSNSなどが、そうした「アーキテクチャ」です。

 

しかしながら、アイドルは「アーキテクチャ」を含みながらも、「アーキテクチャ」そのものではありません。いくらAKBのファンがCDを大量に買い、それが別な公共性へと差し出されるとしても、そこには他ならない人間(!)としてのアイドルが存在し、音楽や映画に代表されるあまたの「アイドルによるコンテンツ」の質が不可欠なのでした。濱野の革命は、この革命可能性としての「アーキテクチャ」を愛しつつも、革命するところの人間たちのマネジメントを、いささか顧みなさすぎたことに失敗の一つの原因があったとされるのです。

 

ここでscarletさんは黒瀬陽平の「運営の思想」と「制作の思想」という概念を導入し、濱野的な「アーキテクチャ」への過度な期待が、他者という偶然性を奪い、そして更に、そんな偶然性を招き入れる思想そのものもまた、「運営の思想」に回収されかねない危険性について触れます。そこで・・・・・・・・・が、「制作の思想」を可能にする、またあるいは希望を感じさせるシステムとして、「都市の幽霊」としてアイドル史に現れるさまを書いていくのですが...

 

私は、ここで主に語られる、・・・・・・・・・の思想的な水準にも増して、"現場"での・ちゃんの有り様が、いや、具体的には"現場"のヲタクについて滑り気味に進む筆の荒ぶりに、まず目を引かれます。長くなるが、引用しましょう。

 

いくら曲中で「おーれーの○○ちゃん」と叫んだところで、自分の推しが自分だけの推しではないことを、オタクは嫌というほど知っている。そんなことは百も承知で、それゆえにこそオタクは「おーれーの○○ちゃん」と叫び続ける。しかしこれは別にオタクの自己卑下なんかではない。むしろこれはアイドルとオタクの関係の美点だろう。結婚という「ふつう」のゴールが想定されている異性愛規範のもとでの関係性とは異なって、アイドルとオタクの関係にゴールはない。こうした「遠さ」にオタクは時として苦しみながらも、どこかでそれをたまらなく愛してもいるはずだ。やろうとすればどこまでも、いつまででも、際限なく「つながる」ことができるこの時代に、一分もあるかないかの限られた時間で必死に思いを伝えようとするオタクの姿は、どこか美しいとさえおもえてしまう(いや、さすがにこれは美化しすぎたか…)。 

 

ここではいわば、オタクとは尋常な性愛関係によって収支を釣り合わせるような計算を度外視し、目の前にいながらも遠い「アイドル」へ向けてめいっぱいエネルギーを浪費する、無償の愛とでも言うべき戯れに興じる存在として祝福されています。


だが、同時にこうも書かれています。

 

ところで、アイドルとの出会いはいつも偶然だ。どんなに強い気持ちで推すことになるにせよ、最初のきっかけは偶然的なものでしかない。それに、数多いるアイドルたちのなかで、「この」アイドルでなければならない必然性など、初めのうちはない。それでもオタクは、事後的に、過去を再構成しながら、推しとの出会いを必然に、運命にしてしまう。 

 

オタクにあって偶然は、偶然が偶然のままであることを望まず、それがたとえ"お約束"としての遊びであるとは言え、しばしばそれを運命として、こう叫ばずにはいられません。

 

「やっと見つけたお姫様!」

 

 

 

話を少しばかり巻き戻します。

 

私は先に、AKB48の存在が、多くのアイドルを生み出し、マイナールールの改変を盛んにしたと書きました。このマイナールールというのは、先行する「アイドル」のイメージを裏切りつつ、その裏切り自体が「アイドル」の新規性と面白さを担保するような形になる、基礎的なコンセプトのあり方についてです。主にそれは、"アイドルらしからぬ"音楽ジャンルとの接合によってマナー化していったのですが、この流れにとって最も大きな一手を放ったグループが、文中にも触れられているBiSです。このグループが書き換えたルールは、実に数多くありますが、中心的メンバープー・ルイが言ったこの言葉にこそ、現在のアイドルをめぐる基層があります。すなわち「(BiSは)アイドルだと言い張るグループ」だ、と。

 

要するに、現在のアイドルは、–––批判者がよく揶揄するような–––プロデューサーの人形ですらなく、「わたし(たち)はアイドルだ」と言ってのけさえすれば、それが「アイドル」なのだという自律性を得たことに、かつての「アイドル」と最も大きな違いがあるのです。こうしたシーンの前提があるからこそ、濱野はPIPにおいて「アイドルを作るアイドル」というコンセプトに掛け金を置いたのでしょう。

 

 

一方その頃「オタク」はどうなっていたでしょう。アイドルが自律性を得たとき、オタクはどのようにして変化したのか...いや、オタクはかつてと変わらず「オタク」のままです。アイドルはアイドルであると宣言することによって自律的にアイドル足り得ても、要するにオタクなしに「アイドル」であることはあっても、オタクはアイドルなしに「オタク」であることはできません。「オタク」はどこまでも後発的で他律的な存在です。「やっと見つけた」などと寝言のようなことを言ってはみるが、姫は誰かに見つけられたから姫なのではありません。ここには非対称性がある。

 

再び濱野に登場してもらいましょう。彼はアイドルの「アーキテクチャ」をこそ愛したのでした。しかし、そこに「人間」を発見したから、アイドルというプラットフォームの制作に身を乗り出しました。さて「人間」とはなんでしょうか。これは、彼のプロデューサーではなく「オタク」としての側面を明らかにするでしょう。

 

アーキテクチャにしか興味のなかった濱野が、(再び東の言葉をかりれば)「現場的なものを嫌っていた」濱野が、なぜここまでアイドルという人間にのめり込んだのか。濱野は一貫して、「レスがあるから」だと答える。

 

「レス」とはステージのアイドルがフロアのオタクに向けて視線を送ることです。眼差しが今ここで確かに交わること、その確かさに「オタク」濱野は骨抜きにされたと言えるでしょう...だけども、何かがおかしい。視線の交錯が、どうしてそんなにも人を捉えるのか。どうして視線がぶつかり合うことが「人間」を「アイドル」たらしめるのか。ところで上の引用文は、・・・・・・・・・に関連する指摘として取り上げられたエピソードです。では、・・・・・・・・・にとって視線とは、レスとは何か。引用します。

 

・ちゃんの、「眼差しを交えることがつねに不可能であり続けるような眼差しによって見つめられていると感じる」とき、あくまでそれは「・ちゃんが自分を見つめているかもしれない」という可能性に留まっており、それゆえに「ほんとうは自分のことを見つめてはいないかもしれない」という別の可能性が、つまりは幽霊が、絶えず取り憑く。 

 

確認しておきますが、・・・・・・・・・のメンバーであるところの・ちゃんたちは、目にバイザーのようなものを(設定上はそれ自体が「目」)装着し、彼女たちの視線がどこに向いているのか、にわかに判断が付きづらいようになっています。だからこそ、オタクにとって・ちゃんの視線の行く末は常に「可能性に留まっ」たまま、オタクの願望と不安を幽霊化するのです。ここまでを確認して、濱野の件に戻りましょう。

 

濱野は、アイドルの「レス」によって"現場"へと取りさらわれていったのでした。今ここで、アイドルとオタクの視線が交わる場所、それが"現場"です。濱野にとってアイドルがアイドルであることを確認できる場所...私に向けられた彼女の視線こそが、何にも増して必要だったのです。ですが、私はそもそもこう思うのです、「その「レス」、本当にあなたへ送られてるの?」と。


先ほどBiSによって確かめたように、現在のアイドルは、自律的にアイドル足りうる術を手に入れたのでした。他方で、オタクは相変わらず他律的に、アイドルがあってこそのオタクとしての身分を変えることはできません。だが、そんな寄る辺なきオタクがオタクであることを保証される瞬間があります。それが「レス」です。つまり、一人のアイドルから、無数のオタクをかいくぐり、他ならないこの私=オタクが、アイドルであるあなたに眼差され、またアイドルも私=オタクの眼差しを受けること。ごく端的に言おう。「レス」とはアイドルがオタクをオタクとして身分保証するメッセージであると。そしてそれ故にこうも言えます。「レス」はその「レス」の宛先を確実なものにできないからこそ、メッセージの効果を発揮するのだと。常に当たり続けるスロットに、誰が金を賭けるのでしょうか。無論、濱野もそれを承知の上で、ギャンブルに興じるようにして「レス」の存在を愛したのかもしれません。だが。

 

もう一度整理します。


オタクは無数に存在します。対して、あるアイドルは一人です。違うアイドルは存在するが、固有のアイドルは常に一人です。ゆえに、あるアイドルの視線も一つです。だからその視線を受け取るオタクは常に一人のはずですが、視線の宛先は常に不安定です。私に送られたかもしれないし、隣のオタクに送られたかもしれない。物理的に確定できないのですから、それは原理的に「可能性に留ま」り続けるのです。しかし、オタクはその可能性自体に強く取り攫われるのです。だから時にオタクは逸脱的に"つながろう"としたり、バランスを失ったものはストーキングに手を染めたりもする。曖昧な可能性自体を燃料にして、確実性の方へ方へと向かっていく。それは極端な例かもしれませんが、「レス」を特権視することで強化される、リスクであるはずです。リスクを愛することは罪ではないが、少なくとも自分が何に惹かれているのか、知っておくべきではないか。

 

一般のアイドルによる「レス」が、そもそも不確実な可能性に基づいた行為であるなら、・・・・・・・・・のバイザーとは何なのでしょうか。視線は隠されようが露わであろうが、オタクにとっては原理的には同じことです。が、何かが質的に違いをもたらしているとするならば、おそらくこう言えるでしょう、・・・・・・・・・における・ちゃんのバイザーとは「「あらゆるレスは可能性のうちに留まる」ということの可視化」であると。オタクの欲望はバイザーという装置に折り返され、自覚的になることを促します。これによりオタクは偶然の戯れを引き受けて、寝言のような「運命」をいささかの気恥ずかしさとともに、だが大真面目に叫ぶことが可能になるのです。

 

幽霊とは実体を持たないもののことです。しかし見えてしまう。見えてしまうが、存在が疑われる。むしろ幽霊は、存在の確実性が常に不確実でもあることを教えてくれるのでしょう。

 

 

 

結論に代えて、個人的なアイドル観についての話をします。
私にとって「アイドル」とは何なのか。容易に言葉にできない、意味不明で、それゆえに惹きつけられる存在。さしあたってはそう言えます。しかしそもそもどうして言葉にしたいのか、彼女ら/彼らについて、どうしてそんなにも話したいのか。これが何に似てるかといえば「恋」に他なりません。また「恋」とは何か。「恋」とは投影です。自分自身の欲望というフィルムを、他者をスクリーンとして上映する映画のようなものです。こうした映画に熱中することは、一歩引いてみればひどく間抜けだが、当事者にとってはいたく真剣な時間を過ごしているのです。

 

私はその「恋」の根拠である自身の欲望について、「アイドル」という支持体を通じて多くのことを気付かされる。そして気付かされた私は、もはやかつての私ではない。「恋」は人を変える、というのは修辞ではなく、端的な事実です。オタクはどうして事後的にアイドルとの出会いを物語に、運命に変えるのか、それは何よりもアイドルを介して、自分自身と出会い直しているからです。

 

いくらアイドルが自律的になったとはいえ、アイドルとオタクは切り離せません。そして、私は今のところそう宣言するつもりも予定もありませんので、当然アイドルではないが、この文化に惹かれ、また推しという存在がいる限りにおいて、オタクです。また私の推しはステージから「レス」を送るタイプのアイドルではありませんが、しかし私をはっきりと固有のオタクと認識していて、つまり広い意味で「レス」を与えられた紛うかたなきオタクであります。同時に、無数のオタクのうちの一人として、その「レス」に一喜一憂するのです。

 

ただ私が彼女を推しとして安心していられるのは、そんな一喜一憂にコミットすることなく、どこまでもサラリと放っておいてくれるところでしょう。こういうと語弊がありますが、オタクに対してほどほどに無関心でいてくれること、それがかえって心地よい。アイドルとオタクの非対称性を、あらかじめはっきりと見せてくれることによって、どうでもよくなる。しかしながら、そんなあり方に惹かれる私自身の関心の深さに何度も出くわすのが、面白いものです。

 

私は、私の「恋」の熱情を、私の推しの冷却作用とでも呼ぶべき距離感によってマネジメントしつつ、だがやはりだらしなく一喜一憂したりする振れ幅を体験することを、自分自身の次なる「可能性」として、楽しんでいます。
でも、壮大に勘違いしたりする素朴なオタクや、はたまた冷めつつも熱っぽくガチ恋口上を入れてみせるオタク上級者にいささかのあこがれがないとは言えません。もしかしたら私は、アイドル以上に、オタクたちに惹かれ、時としてオタクたちをアイドルのようなものとして見てるのかもしれません。

20190825 フェスの楽屋話

さてさて、夏も終わりですか。早いような長かったような...いわゆる"夏らしい"ことなどはないままに、月日は去っていくようです。

 

などと、秋の始まりにありがちな心寂しさは傍らにして、フェスでございました。「アートタウンつくば」です。
今回は写真など、何ひとつ、ない!文字情報のみでお伝えしていきます。お伝えするといっても、どちらかというと楽屋話で、特にお見せするようなものもないのです。お見せするようなものはないというか、お見せできないというか。

 

いや、いくら夏とはいえね、何人裸でウロウロしてるんだと。ショーのために脱ぐ人、わけもなく脱いでいる人、趣味のボディビルのコンディションを確認してる人(なにかと脱ぎたがるので、脱ぐために服を着てるのかと思うほど)、と様々な理由はあるが、とにかく裸のおじさんたちが仕事前に酒を飲んでいたり、さすがの話芸で冗談をとばしていたり、ああ、ここはまともな社会じゃないんだなと再確認...
酒といえば、スタッフさんの用意してくれたドリンクを冷やす氷水の中に、どんどん私物らしいビールの缶が増えていき、2日目に至っては酒とその他の飲み物の割合が6:4で上回ってきた瞬間もあり。コーラかと思って引き抜いたら赤ワインのボトルだったのには笑ってしまった。

 

フェスはたいてい終わればスタッフさんを交えての打ち上げとなり、そこここで(また)アルコール片手に他愛ない冗談やらマジメな話やらが飛び交う気軽な、特に際立って芸人らしいそれのない(さすがに誰も、出しゃばって芸を見せたりはしないですよ)、まあごく普通の交流会です。これも「フェス」のリズムのひとつで、ここに参加していると、快く、あー、なんだか仕事をしたなと思ったりするのですけれど、それはいいとして。

 

今回は、たまにフェスでご一緒するフラメンコチームの「Los Ojillos Negros(ロス・オヒージョス・ネグロス)」の皆さんとお話するタイミングがあり。で、昨年埼玉へ観に行ったイスラエル・ガルバンの話を振ったらば、さすが皆さんも観に行かれていたようで、ここでひと盛り上がり。情報としては知っていた非古典派としてのガルバンについての評価などを伺えました。

ガルバンは、フラメンコ界におけるニジンスキーと評される、いわゆる天才ダンサーで、古典的なフォームから逸脱し、多様なアイディアを用いた舞台が国際的な評価につながっているようです。素人には、その古典からの距離が掴めないのですが、ただただ格好いい踊り手ということはわかります。私が見た『黄金時代』も、ギタリストとカンテと三人だけの編成で、かつキャリア初期の作品のようで、かなりレアな上演だったことが会話の中でわかりました。パンフレット読んだ気もするんだけどな...

面白かったのは、ロス・オヒージョスのギタリストさんが、ガルバンとご家族ぐるみで交流があり、スペイン留学時はガルバンと同じアパートに住んでいたとか...すごいなあ。
しかもそのガルバン、また来日するらしく、新宿は「ガルロチ」というショースペースで9月上旬にパフォーマンスするとか。調べたらなかなかいいお値段ですが、キャパは200席で、かなり間近であの踊りが見られるのは、得難い経験ではないでしょうか。気になる方はサクッと検索してみてはどうか。

 

そんな交流もさすがに日付が変われば翌日に備えてお開きに...なるはずもなく、多くのスタッフさんは朝が早いので帰られるものの、芸人はダラダラと長話に耽る人も少なくないもの。

私は、そとでタバコを吸っている加納真実さんを見つけて、だらだらと夜風のもとで、今は何を話したんだか思い出せないほど多岐に無為に話し込んだ。その横をスタッフさんが車も通らないような暗い道を、自分が泊まるという宿まで歩いて帰っていった。
だらだら話は止まらず、飲み物でも買いに近所のコンビニまで歩いていった。そのままコンビニの外で、たまたま買い物に来た某氏と、「好きなタイミングで死ねるスイッチがあったら押すか、また、押すとしたらいつか?」とかいうそれ自体が死ぬほどどうでもいい話題でコーヒーを啜った。横を見るとコンビニの窓には光に誘われたらしいセミがビビッビビッと音を立てて何度も体当りしていて、車の一台も止まっていない駐車場にはネパール人と日本人のおじさんが車座になって卑猥な冗談をさかなに酒を囲んでいた。

 

それでも朝になればもちろん皆時間通り起きて宿の朝食につく。隣の席になった、楽屋で一番裸になっていた山本さんが、常に変わらないテンションの高さでスマホの画面を見せてくる。そこには、午前4時に目が覚めたら過去最高のコンディションに思わず興奮してセルフタイマーで自撮りしたという筋肉、もとい40のおじさんのムキムキの全裸画像が写っていたのでした。ボディビルコンテスト、がんばってほしい。

20190816 3776と『歳時記』とワンマンについて、急ぎ足で

いつも通りのジーンズとチェックのシャツを羽織った石田さんが現れ、上手に要塞然と設えられた機材たちの前で手を動かし始めると、WWWのスピーカーから図太いキックが体に触れる。井出さんの高くかわいらしいあの歌声にそぐわない、ブーン、という低音。これだけで今日のワンマンがある種の"勝利"に終わるだろうと確信させるのでした。

  

3776のライヴは、多くのアイドルがそうであるような、エモーショナルさも確かにありながら、そのような現場主義的な熱狂にのみ回収されるわけではありません。かたや、ワンマンならではの凝った舞台装置などもほぼありません。では、何があるのか。その前に、心から驚かされる新作『歳時記』について。

 

 

今回の『盆と正月が一緒に来るよ!〜歳時記・完結編』では、3776のニューアルバムである『歳時記』の発売と合わせて開催されたライヴです。『歳時記』は2016年から現在に至るまで1~4巻まで販売されており、その名の通り季節折々の行事にちなんだ楽曲が収録されています。それぞれの内容については、ワンマンに先駆けて公開されたOTOTOYインタビュー記事から引用します。

 

「歳時記シリーズ」とは?
富士山ご当地アイドル3776と共に四季折々の日本を味わうシリーズ。
歳時記 第1巻には、師走(12月)の章「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」、睦月(1月)の章「正月はええもんだ」、葉月(8月)の章「盆唄音頭」が収録。 
歳時記 第2巻には、皐月(5月)の章「八十八夜」、水無月(6月)の章「ほたる来い」が収録。
歳時記 第3巻には、如月(2月)の章「2037年のバレンタイン」、卯月(4月)の章「さくらさくら」が収録。
歳時記 第4巻には、文月(7月)の章「リピーター」、霜月(11月)の章「秋祭り」が収録。
のこりは弥生(3月)、長月(9月)、神無月(10月)の章だが……?

https://ototoy.jp/feature/2019080501

 

 しかしながら、アルバムに収録されているのは以下。

 

ちなみに『歳時記』に記載された曲名はこちら……。

 


3776ニューアルバム『歳時記』
2019年8月28日発売
¥2,500 (税抜¥2,315)

1.睦月一拍子へ調
2.如月二拍子嬰へ調
3.弥生三拍子ト調
4.卯月四拍子嬰ト調
5.皐月五拍子イ調
6.水無月六拍子嬰イ調
7.文月七拍子ロ調
8.葉月八拍子ハ調
9.長月九拍子嬰ハ調
10.神無月十拍子二調
11.霜月十一拍子嬰二調
12.師走十二拍子ホ調

 

 

もとの原型をとどめていないタイトルは、一見してどれがどの曲なのか、にわかには判別できません。これは、記事中の石田さんの発言にもあるように、このアルバムは「DJミックスみたいな作品」であることに起因しています。すべての曲は間断なくシームレスに連続するよう、再構成されています。加えて、井出さんのカウントする「1月1日,1月2日,1月3日...」という日付と「子・牛・寅・卯...」という干支の名が並行してバックトラックに流れ続けます。これによって、より強く全体の連続性が保証される仕組みです。
またこの作品では、日付・干支・楽曲が三層のレイヤーを成しつつ73分12秒ノンストップで構成されているのですが、楽曲内で井出さんのナレーションとコーラスが同時に進行するような曲もあり、ひと筋縄ではいきません。「楽曲」という単位は揺さぶりにかけられ、レイヤーはより細かく、パートごとに増減を繰り返します。そもそも日付も干支も常にプレーンなトラックではなく、エフェクトを掛けられ、その他の楽器と等価な音素として楽曲と相互浸透的に関係を結びます。しかしまた、それらの要素を統合する井出さんの「声」という唯一性に帰着する。それは3776が他ならない「アイドル」であるからこその帰結です。が、その「アイドル」は絶対的な不可侵の、盲目的な信頼ではなく、ある種ストレステストのような、「アイドル」がどこまで「アイドル」であることに耐えられるか試すような実験にも思えます。
そして、ワンマンライヴは、この『歳時記』をライヴ当日である8月15日を起点にスタートする、再びの"再現ライヴ"でなのでした。ライヴハウスの音響で再現されるこの『歳時記』は、ほとんどカオティックな音の渦に飲み込まれつつ、視線は井出さんのストイックなダンスに焦点化させる、かと思えば時折背後の石田さんの妙にキュートなダンスにも脇目を振ってしまう、やはり視聴覚ともにかき乱される体験です。

 

だが、これだけなら、ある種強度の問題と言えなくもない。また、いくら楽曲の質的にハイクオリティであり実験的であっても、「アイドルとオルタナティヴな音楽ジャンルとの融合」は、それ自体もはや、安定的な一定の効果が予想できる、一般的な方法論でしかありません。というか、そもそも3776は、その活動と表現の奇矯さを知る人達が思うほどには、異質なもの同士の出会いを演出する類のアイドルではないかもしれません。3776はあくまでも3776自身に、あるいはアイドルに内在するのみではないでしょうか。また3776がより先進的であるとするならば、それは「アイドル」というジャンルを構成するもの、限りなく雑多な諸要素について自覚的であるからに他ならないはずです。

 

 

 3776はその名の通り「富士山」と関係の深い、いや「富士山」と等価なものとして「3776」の活動をしています。(『歳時記』のジャケットを見よ)3776さんのあらゆる表現に富士山が存在しないことはなく、常に富士山への言及が欠かせないのです。それはライヴでも変わりません。

WWWのステージ正面の壁面には時折「富士山を構成するもの」と上下にテロップのついた、井出さん筆になる富士の絵が投射されました。富士山の構成物は「太陽」や「雲」、また「樹海の蛙」や「茶畑」そして「富士山」そのものであると、宣言されます。つまりそれは自然科学的な「富士山」の定義ではなく、我々にとって「富士山」を「富士山」たらしめている「富士山のイメージ」のようなものといえばいいかもしれません。「富士山」は唯一であり、また同時に、これらの諸要素によって複数でもある(LINKモードという、富士山の"表裏"に注目したプロジェクトも思い出す)のです。

これは言うまでもなく、「アイドルを構成するもの」として置き換えてみてもわかることです。「アイドル」とはなにか? 歌手か、ダンサーか、女か、男か、かわいい者か、美しい者か、映画俳優か、画家か、小説家か、バラエティのバカ担当か、モデルか、地域の人気者か、簡単なことです。その全てが「アイドルを構成するもの」なのです。アイドルは唯一であり、同時に複数である。井出ちよのというアイドルの唯一な声はサンプラーによって多重化され、歪み、複数化されながら、「アイドル」としての揺るぎなさを失うことはありません。私たちは、3776の表現を介して、この揺るぎなさの現れにこそ揺すられるのかもしれません。

 

 

 

急ぎ足に結論めいたものを付け加えるのに忸怩たる思いもあるのですが、ようやく富士登頂に一歩踏み出せた、という思いです。とにかくねえ、石田さんも井出さんもとんでもないのです。また相変わらずの気負いのなさも、ほとんど驚異です。

 

言わずもがなの付言をするならば、3776さんの仕事は「アイドル」というジャンルの内側の出来事にとどまらないインパクトです。と同時に、人に「アイドル」とは何なのか、真摯に振り返らせる強さがあるでしょう。この幸福を取り逃すことのないよう、皆で、3776に驚こう。

 

ototoy.jp

20190725 八戸遠征のこと

ようやく梅雨明けも間近。今年は本当にうっとうしい雨続きでした。


色々と停滞気味になっていましたが、先日は八戸へ。
「第1回 マチニワ大道芸フェスティバル」です。

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マチニワはご覧の通りのフリースペース。通りすがりに誰でも立ち寄れて、お茶を飲んだり勉強したりと、市民の憩いの場になっていました。半屋外というのも心地よく。
大道芸フェスティバルは、こちらのオープン一周年記念イベントなのでした。


八戸へは前日入り。そこで、共演するもんたさん、おっとちゃん、メランコリー鈴木さんとサバ料理専門店「サバの駅」へと。サバのヅケ丼、サバの竜田揚げ、サバの串焼き、そしてサバの棒寿司の天ぷら(!)とまさにサバづくしで、青魚の好きな私には最高のお店。

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食事の後は繁華街を散歩。先程のマチニワの裏手に大小様々な路地が。かねてから友人に面白い土地と聞いていたとおり。酔客は多くとも、街が清潔に保たれているのが印象的です。

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滞在記は「はっち」。通常はアーティストの滞在制作に宿泊スペースを貸し出している模様。場所もマチニワのすぐ向かいで好立地。実はこの建物、元職員と設計した人物とが友人という縁もあり、何事も興味深く見ておりました。知り合いが設計した建築、というものが初めてですから、よくわかりもしないが、あちこち眺めては、なるほど...とつぶやいてみたり。現代的な装いのなかに、民俗的な展示と、普段使いのレストラン、趣味の良いお土産屋さんなど、地域に根づいた施設なのが伺えます。いい場所でした。

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そんで本番。おっとちゃんとメランコリーさんはスティルトとスタチュー。私ともんたさんが定点のパフォーマンス。写真はオープニングステージの一コマ。まだまだ八戸ではこうしたパフォーマンスなど見慣れないはずですが、確かな好奇心で暖かく迎えていただけました。とくにメランコリーさんのスタチューなんかは、老若男女問わず不思議そうに眺めて、ひとりの子供などはもう食わんばかりにべったりと張り付いて、それがまた面白い風景になっていました。

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@hacchi_staffから借用

 

パフォーマンスの合間には、裏手にある、はちのへブックセンターへ。
確かな品揃いもうれしく、ついつい本を購入。本棚の合間にちょっとしたスペースがあり、フランス語講座を開催していました。おもしろい。

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本格的なWSも。子供から大人まで、90分みっちり。誰も手を休めず、夢中で(特に大人が)技を覚えてくれました。1時間半あるとここまで上達するのだなー、とこちらも勉強になりました。最後は緊張しながらも、階段の踊り場をステージにして発表会。

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こうして報告してしまうと通り一遍な感じもしますが、スタッフさんの「ぜひ八戸に大道芸を!」という熱意たるや、並々ならぬもので、ひとりの方の情熱をきっかけに、ものごとは動いていくのだなと改めて。また八戸の街、はっちにマチニワという、ローカルな条件の組み合わせが、今後の展開を期待させます。

 

こうしたスペースや企画の立案があっても、なかなか大道芸というジャンルにお鉢が回ってくることは、必ずしも多くありません。まして、馴染みのない土地では、どのようなお客さまが足を運ぶか、全く見えないのですから、会議にかけられたとしても、最終的に二の足を踏んでしまうことも想像に難くありません。

 

逆に言えば、未知の可能性が多くある我々の世界は、誰かの手によって、あらぬほうへとバトンが回されていく楽しみがまだまだあるわけで。八戸という街は、そんな躍るような期待を抱かせてくれる場所なのでした。東北に足をお運びの際は、ぜひ八戸へも。

 

20190701 BABYMETAL AWAKENS -THE SUN ALSO RISES- ベビメタ再始動について

昨年の重すぎるYUIMETALの脱退について、また藤岡幹大さんの逝去について、ついに何も触れないままここまでやってきました。

 

確かに熱量それ自体が落ちたといえばそれは否定しがたく、とはいえ幕張・SSAと2公演"ダークサイド"のベビメタも観ていました。しかし外野が憶測するにはあまりにセンシティヴなすべてについて、最大限に斟酌しつつも、煮え切らない感想しか抱けないものでした。だからといっておさらばできるほど切り替えも早くないし、虚心に肯定できるわけでもなく...そうこうしているうちに、半年以上の時間が過ぎ、横浜アリーナでのライヴになりました。圧倒的な期待感とともにはじめてのベビメタを観に行った2015年とは違って、気軽な散歩程度の気持ちで会場へ向かったのですが...

 

これもまた遠回りせず、結論から言いましょう。おかえりなさい!これからもよろしく!です。私はまたBABYMETALをかなり熱心に見ていくことになるでしょう。それはともかく。

 

きっと多くの人が感じたことだろうと架空の同士を想定しますが、2曲目「メギツネ」冒頭でSU-METALが日本語で、それもかなり心情を素朴に吐露するように「会いたかったよー!今日は最高の一日しようね!」とフロアへ語りかけた瞬間、お互いに抱えていたわだかまりが水に流されるようでした。
この喋りが、予め決められていたことなのか、それとも突発的に口をついて出てきたことなのか知る由もありませんが、厳格なコンセプトに基づいてグループとショーを構成する『BABYMETAL』としては、異例なことですし、なによりそのコンセプチュアルな"厳格さ"が齟齬をきたしているように見えた昨年の展開が、打ち消し合うように、チャラになってしまう...あまりにも簡単に懐柔されすぎなのかもしれないけれど、あのタイミングでステージ上からあの言葉を投げかけられて心が頑なな人は、もうベビメタと袂を分かたざるを得ないでしょう。それはそれで悪いことではない。

 

 また何より、SU-METALの無防備な笑顔も印象に残ります。今までもパフォーマンス中に笑わないではなかったけれど、なにかと頬がゆるむようにしている姿は、ときに憑依系などと言われもした姿と全く逆に、憑き物が落ちたとでも言いたいほどです。この余裕ともつかない、自信の現れともつかない、自然体と言っていいのかもわからない、ステージでのあり方は、私自身は確実に見たことのない姿でした。「SU-METAL」が限りなく「中元すず香」に近い状態でパフォーマンスしていた、と言ってみるくらいしか、その不思議な感触を伝えられません。かつてのようにギラギラと持て余す力を開放するのではなく、さりとて達人めいた脱力があるともいえず、この魅力はどこからやってきているのだろうと掴もうとしても掴みきれない。

 

私にとってBABYMETALは快楽というよりは謎の対象–––我知らず没入してしまう深い集中への誘い–––です。この謎に手招きされるようにして、さらに数々のアイドルに出会っては、何かを納得したつもりになってきたタイミングでまた入口に引き戻されてしまった。

 

そして鞘師里保さん、藤平華乃さんら「サポートダンサー」たち。特に鞘師さんの話題は、横浜アリーナのライヴと昨日のグラストンベリーでの全世界中継を発端に、ハロプロ界隈やその他ドルヲタたちの衆目を集めることになった。私自身、娘。についてなにひとつ知らないので、当日もさっぱり気づかないのでしたが、様々な情報が集まってくるうちに練り上げられている強い物語性と、その磁力に驚いています。「アイドルと物語」という、いまだ古びない受容の形式は、意識せずとも忍び込んで消費のモチベーションに作用するでしょう。書きぶりの通り、自分はこの物語性に少し警戒しています。が、鞘師さんやさくら学院の現生徒会長がステージに上る、ということの面白さにも抗えないで、むしろ楽しんでいる。何なのだろうかこれは。

 

 そもそもBABYMETALとは、「何だこれは!」という驚きと違和感をもって世に出てきたのでした。メタルというマーケットの広さ、クールジャパン(死語ですね)的な文脈から成功が分析され、メンバーの歌唱力やダンスのスキルの高さ、楽曲のクオリティに基づく技術論が連なり、そのインパクトを解き明かそうとした有名無名の人々の言葉はすでに山と積み上がっている。それらに目を通して、何かがわかった気になる。が、こうしてBABYMETALが「再出発」したかに見える今、私は積み上げられた分析と論理の山の上で、改めてもう一度驚き直すしかありません。「何だこれは!」と。

 

 ...これは横アリ初日の翌日に途中まで書いていた文章なのですが、昨晩のグラストンベリーの映像を見ていて、久しぶりにBABYMETALでしか感じられない、もはや"ゾーン"とでも言ったほうがいいような深い集中を感じたのでした。あれは、ベビメタにしかない時間なのです。どうしてそうまで見てしまうのか、本当にわからない...今回は「わからない」、ということを2000字もかけて繰り返してるだけなのですけど...

 

 

BABYMETALは10月の新譜を控えて、その前にUK・USと実に長いツアーが始まります。きっと何か賑やかなニュースを運んでくれることでしょう。楽しみだな〜!

20190627 上半期好きだったものたち

今日は、タイトル通り、上半期に好きだったものを選ぶ回です。
まあ、常から好きなものの話しかしていないのだが、それは酒飲みが何かと口実作るようなもので。
 

とりあえず音楽から。

 

 

 

  

アイドル曲からはキリがないんで、思いついたものだけ。・・・・・・・・・『Points』とカイ『ムーンライト・Tokyo』が二強という感じ。ドッツさんのアルバムはすでに触れていたので、ここはカイちゃん。元THERE THERE THERESのメンバーがTRASH-UP!!に移籍してソロ活動開始。デビューマキシシングルは趣味性を全開にしつつ、新旧のバランス感が絶妙としかいいようがない曲ばかり収められたパッケージで、すばらしい1枚になっています。またライヴは圧倒的なセンスで、毎回絶対に一度は笑わされてしまう...こんなすごいアイドルがいることを、世の中の人は知らなさすぎるわけで、いやはやです。カイちゃんにあっては作為と無作為の境界は常に曖昧、そもそもどうでもいいやとなります。

 

ちなみに、たこやきレインボー『軟体的なボヤージュ』にCY8ER『デッドボーイ、デッドガール』、クマリデパート『ココデパ!』などもよく聴きました。ブクガは相変わらずめっちゃ好きなのですが、自分にしては繰り返し聴かなかったなと。とはいえ他に比べればリピートしたのだから、ある意味殿堂入りみたいなものです。

 

 

てなことを書いてましたらRAYから初MV『バタフライエフェクト』が。いいっすねえ。私はシューゲイザーが苦手で、ほとんど聴いてこなかったんですけど、こうしてアイドルを介して聴けるようになってしまう。

  

その他はやはりヒップホップが多めでした。ゆるふわギャング『CIRCUS CIRCUS』を一番聴いたかな。Norah JonesとPanda Bearは自分でも意外なほど聴いていました。
しかし基本的にロックは全然探してもいないという感じに...Suchmos『THE ANYMAL』はめちゃ良かったのですが。Vampire Weekend『Father of the Bride』もいい印象ながら、今はリピートに至らず。作品の出来不出来(そもそもそんなものは私に判断できない)と関係なく、何かがツボにはまったものをリピートしてしまう聴き方なので、いつ聴きたくなるかわかりません。最近でもBon Iver『22, A Million』がリリースの1年後くらいにどハマリするということもあったり。Hot Chipは久しぶりにライヴ動画を見たら、やはりタイト。来日公演行こうかなあ...

 

 

 映画はなんといっても『嵐電』と『ワイルドツアー』。

イーストウッドはもちろんすごいけれど、この2本の瑞々しさと冒険心みたいなものが今の私にヒットしているということでしょう。とくに『嵐電』は、ショックのせいか、以降映画を観なくてもいいやと思わされてしまい、それはそれで困った話。

 

 

本や漫画はぜんぜん読めていないので、特に選べるものもなく...いや、三浦哲哉さん『食べたくなる本』ですね。良い映画の本であればその映画を見たくなる、良い旅の本であればそこに行きたくなる、しかしこれは、そんな良い食の本、すなわち「食べたくなる本」についての本であります。読みやすいエッセイとして読めるだけでなく、料理研究家の作家性や社会的な事象にまつわる批評意識にも刺激を受け、さながら知的好奇心の方まで舌なめずりを誘うといった形で、なんども再読したくなる本でした。
個人的には「サンドイッチ考」が特におもしろかったです。サンドイッチとは、肉や野菜をパンで上下から挟むことで、食材が口中にとどまる時間が伸び、その結果、肉の「味わい」を再発見させる、という指摘には、構成とそれによる関係性・認識の再編という、批評的な制作のあり方を、ごくシンプルに摘出された感触でした。

 

食べたくなる本

食べたくなる本

 

 

 

ライヴパフォーマンスは、驚かされたものについては常々書き散らしてるので、ここでは割愛。下半期は地の利を生かして、もう少し落語会に通いたいところ。

 

 

という具合でしょうかね。なんと言っても上半期は引っ越しが一大事で、これでもものを見たり聞いたりは控えめでした。

 

 

急に仕事の話になりますが、東京は大道芸やジャグリングが好きなお客さんが沢山いらしてて、私のパフォーマンスをご覧頂いた感想などこっそり拝見してると、ありがたいお言葉が多くあります。転地してみてどうなるのか、分からないことばかりで、これからもしばらくはそんな調子ですが、たいへん励まされております。

 

梅雨時期でパフォーマンスのキャンセルもありそうですが、引き続きよろしくお願い致しま〜す!