6月に気になったものと上半期よかったもの

...ハッと気づくと1ヶ月近く時間が経っていました。日々が過ぎ去るのは早いですね...(ゲームをしているから)
パフォーマンス活動の報告は変わらずできそうにないのですが、動きがありそうなことはいくつかあり、追ってお知らせできれば。今日はこの1ヶ月で気になったものなど、それぞれ短く。

 

 

『『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊』
土曜にたまたま配信されていることを知り、途中から観覧。翌日も見逃したところだけ見ました。テキストについては途中までということもあり、よくわかっていない部分が多いのですが、配信のあり方についてはさすがのひとこと。すごいなーと思わされました。
どこかカフェやギャラリーのようなスペースの窓/壁際に据えられたテーブルのうえに、長方形と正方形の簡易スクリーンがフォトスタンドのようなものに貼られて、スタッフの手によって配置されます。謡と音楽の七尾旅人さんと内橋和久さんが冒頭から終わりまでテーブル上に映されていて、その他の出演者は出番が来るとスタッフが所定の位置に設置したり撤去したり。その手にスクリーンへ投影している映像が重なる瞬間も。
要するにミニチュア的にテーブル上で舞台を再現しているわけですが、画面内にはテーブル・スクリーン・スピーカー・スタンド照明・カレンダー(日付もグリッド)と矩形の連鎖があり、ご丁寧に木枠が鎖状に連結しているらしい飾りが吊るされて(おそらく元々スペースにあったものだろうか)揺れていたりするのに気付かされます。こうした矩形のフレームは、視聴上の画面とも重なりあいますし、プロセニアム舞台からの遊離=幽霊的な上演を想起させれられもします。そもそも「幽霊」とは認識のフレームの外側に生起するものでしょう。また、テーブルが接する窓は路面に面していて、ときおり通行人や車の姿が見えたり、上演前・転換中・終演後には近くの横断歩道のメロディ音が聞こえてきます。フレームの外、認識の外で飛び交う幽霊たち。能を模しつつ扱う主題がザハとその建築であり高速増殖炉もんじゅであったりするわけだから、そうした"降霊術"は必然的なものだったのでしょう。
くわえて録音もすばらしく、パッケージした映像を配信したほうがベターなのは、ほとんど固まってきている気がする。配信コンテンツは、そこに動員的な効果はあるにせよ、やたらな生配信の臨場性に頼らずしてやってほしい。

 

グランド・セフト・オートV

さいこうです。RDR2と違って、市民の命はスラップスティックな暴走運転に巻き込まれるギャグとして消費されます。その倫理性の乏しさも、そもそも異常者と狂人しかいないロス・サントスという街では切実な意味を持ちません。主人公たちの延命は誰かの絶命でしかないという底の抜けた倫理的徹底は、ゲームにおいて最も重要なアイテム(ゲームプレイ時間のほとんどは車を運転している)であり、同時に最もどうでもいいアイテム(すぐに壊れるしすぐに修復されるし、すぐに盗んで手に入れられる)である「車」に最も強大な敵を押し込んで、海に突き落とすことで実にそっけないクライマックスを迎えるのです。
憎たらしい奴らはそれなりに悲惨な死に様(まあそれもギャグなのですが)だったりするのだけど、このクライマックスに至るまでの殺人ミッションのいっそ作業的で淡々とした雰囲気こそ、GTA5の良さであり、かたやオンラインでとてつもなく荒れ放題になってるらしい一因なのではとおもったり。葛藤や煩悶が雲散霧消することで、ただ行為の快楽だけが残るような。
それにしても無駄口の軽妙さといい、ラストシーンといい、スタッフにタランティーノのファンが相当いるのか、あるいは今アウトローを描くときタランティーノは内面化されてしまっているのか、気になるところ。2本プレイしただけですがRockstarのゲーム、大好きですね。『L.A.ノワール2』を期待しています。

BLACKPINK「How You Like That?」とビヨンセ
ティザーが細かく何本も出てからのMV。ブルピンの曲は相変わらず楽しい。テレビ番組のパフォーマンスもアップされていましたが、メンバーたちがずいぶんイメチェンしている様子。日本のアイドルが同一性を確保するためなかなか髪型を変えないらしいのと好対照ではないでしょうか。
あいかわらずK-POPは横目でチラチラ確認する程度ですが、ブルピンはとくにビヨンセを参照してるらしいことに意識が向かざるを得ません。女性をエンパワメントするような歌詞と自律的で挑発的なメンバーのキャラ(たぶんオフショットではそれとのギャップが楽しまれたりするのでしょう)。久々になんとなく「Run The World(Girls)」のMVを見たけど、ビヨンセのすごいことは、圧倒的なリーダーシップを誇りながら、周りに居並ぶ女性たちにも溶け込むこと。オンリーワンでありワンオブゼムであるといえばいささか陳腐だけども、たとえばコーチェラでもピラミッド型のステージを見せつけて、ヒエラルキーは視覚的にも明らかなのに、そこに集められた彼女ら彼らと常に連帯がある感じ...なんなのでしょうね。

 

『デッド・ドント・ダイ』
自粛明け初の映画館ということで。金曜の夕方ということもあって、観客は一桁。仙台か?
ジャームッシュがゾンビものを撮るということでまったく期待していませんでしたが、その通りでした。昼間の警察署内の明暗が絶品中の絶品てなくらいです。メタ的なゾンビたちというネタがめちゃめちゃベタな資本主義批判に決着するので、それすらもメタな何かでないと、どう受け取ったらいいものかさっぱりわからない。ストレートに受け取るべきと言うなら、間に合ってますの一言になってしまう。でもジャームッシュってこういう人だっけか、とも思うし。まあいいか。

 

『Fiction』

ブクガのベスト盤。フラゲ日にタワレコに駆けつけて棚になかったのを店員さんにバックヤードから出してもらって購入。アキバ店の店員さん、とても親切でした。
新曲と再録が目当てだったけど、通して聞けばまあ全部いい曲。サクライさんの天才はメロディメーカーぶりにあると個人的には思ってますが、どうなんでしょうか。
そんなに好きでなかった「Snow irony」の再録がとてもいい。ボーカルの技術力の問題なのか、原曲にない疾走感のようなものが加えられている印象です。新曲はいっしゅん戸惑ったけど、いい曲です。

 

上半期ベスト

映画もライヴも当然ないので、音楽を中心に。あと冬はけっこう小説を読んでいたのでそれも。新作も旧作も特に関係なく。

 

[音楽]
GEZAN『狂』
16FLIP vs SEEDA『Roots & Buds(ReMastered)』
踊ってばかりの国『光の中に』
mei ehara『Ampersands』
lyrical school『OK!!!!!』
RAY『Pink』
クマリデパート『サクラになっちゃうよ!』
Moment Joon『Passport & Garcon』
Terrace Martin『Impedance』
Tentenko『Deep & Moistures』シリーズなど
von.E『Rehearsal 3』

 

あと宇多田ヒカル「誰にも言わない」が圧倒的ベストソングでした。

 

[小説]

マルカム・ラウリー『火山の下』

サミュエル・ベケット『モロイ』

吉田健一『東京の昔』

松浦理英子『最愛の子ども』

横田創『落としもの』

横田創『丘の上の動物園』

山下澄人『壁抜けの谷』

阿部和重シンセミア

 

[配信]

lyrical school『REMORT FREE LIVE vol.1,2』
cero『Contemporary http Cruise』
NILKLY『AQBISION♯3 NILKLY 1周年記念スペシャル』ダンスパート

NILKLY配信を見てのメモ

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 AqbiRec所属のアイドルグループ「NILKLY」が結成一周年を記念した生配信を行いました。見たのはダンスパフォーマンスパートだけですが、ひさしぶりにアイドルの"ライヴ"の力強さに、素朴に感激しました。。

 

ところでこの配信、衣装ではなくレッスン着のようにラフな服装でパフォーマンスされているんですけど、衣装ではないからこそダンスの線がはっきりする部分もあって、それも興味深かったのです。以前、コンテンポラリーダンサーの勅使川原三郎さんも「練習風景」と題した動画で、ジャージ姿で踊っているのがかえって生々しく、妙に印象深くもあり。

 

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しかしそれより思い出すのはやはり、「ダンス・プラクティス」動画でしょう。普段カット割で映らない振付の全容が見られる機会として、またファンにとってはオフショット的のリラックス(してるにも関わらずキレキレだったりすることで技巧に惚れ直すなど)してる様子もたのしめる企画です。

 

www.youtube.comやはり三浦大知さん、すごいっすね。

 

 

で、NILKLYの配信ではさらに具体的に連想したものがあって、それがこちら。

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K-POPアーティスト「BLACKPINK」のダンス・プラクティス動画*1 です。うえの三浦さんの動画と違い、かつNILKLYと同様なのは、カメラが動くこと。タイトルにも"Moving"とあります。その動きは大胆な前進・後退をベースにしたカメラワーク。このカメラワークは、ほぼパフォーマンスの構造とは無関係に、カメラの動きだけ際立たせて、ともすれば単調になる1台のカメラによるフレームを揺らし続けて生々しさを失わないように務めているかのようです。

 

しかし自律的なカメラの動きは、カメラを操作するオペレーターに意識が向かざるを得ませんから、一見すると目障りに見えるときもあります。NILKLYの配信も、最初は少しカメラの動きが気になっていたのですが、気づくとカメラの動きを忘れてしまっているときがある。こうした没入感の高まりをふしぎに思いましたが、さきのBLACKPINKの動画と比べれば、すこしその理由がわかった気もします。

  

BLACKPINKのダンスプラクティス動画*2では、カメラはほとんどクロースアップを選びません。なぜならこの動画ではメンバーの振り、あるいはプロポーションこそがもっとも見せるべき対象であるからでしょう。とはいえ、固定のカメラだけでは味気なくもある。こう考えると、前進・後退するカメラの動きは、映すべき対象を捉えつつも、あくまでも画面を退屈なものにさせないためにある戦略であるといえます。



いっぽう、NILKLYの動画では時に振りやプロポーションの視認性を犠牲にしたクロースアップがしばしば訪れます。ごく単純に比較した結果から得られものを確認するなら、前者で優先されたものが犠牲にされることで、われわれが「アイドルのライヴで見ているもの」が浮かび上がります。それは小規模なライヴハウスの視界のシミュレートであり、かつ、われわれがアイドルの表情を重視している、という当たり前ではあるものの、なかなか映像で再構成しづらい要素です。


またクロースアップは、あらかじめ与えられている前進・後退のリズムのうちで半ば偶然的に発生する(かのようにみえる)のも見逃せません。こうしたリズムの存在によって、カメラがその表情へと寄り切ってわかりやすい意味へと落ち着かせようとするまえに、スッとそこから離れてしまう。常に微妙な距離が担保され、カメラは必ずしも、アイドルの表情がもたらすエモーショナルな見せ場に同期しきるわけではありません。しかし逆説的に言えば、この距離の押し引きがあるからこそ、視聴者はアイドルの表情との出会いを果たすのではないでしょうか。
今回の配信で使われた「ダンス・プラクティス」ふうのカメラワークは、単調さの回避以上に、機械的な反復運動によってメンバーのパフォーマンスを、より積極的に生々しく捉えることに成功している例でしょう。つまるところ、配信がライヴの次善手段ではなく、じゅうぶんにパフォーマンスの快楽を得られる手段として成立しているようにも思います。

 

 

と、だいたいこんなようなことを考えてましたら、ディレクターの田中さんが配信についてコメントしている動画が配信されました。現場至上主義に疑義を呈しています。「気持ちが乗っかる」という言い方で、映像も現場もそれぞれに変わりない面白みがある、という話です。

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ごく個人的な話で結ぶと、映画が好きということもあるし、そもそもごく初期のジャグリング体験のほとんどが映像であったこともあり、生の現場だけがほんとうに素晴らしいのだ、とは思いきれないのが、この状況でまた浮かび上がってきています。パフォーマンスの経験にだけ限って言えば単に別なメディア、というだけです。映像ではわからないこともあれば、生ではわからないこともある。そういうだけでは面白くともなんともないので、いまは生ではわからないことを積極的に楽しみたいなあ、と、そんな具合でひとまず締め。

*1:とくにK-POPでよく見られるコンテンツです。K-POPファンの方のブログによれば、これが広まっているのは偶然の産物であるよう。https://ameblo.jp/kpopknowledge101/entry-12455993366.html

*2:とはいえ、今回改めて調べると、ほんとうにいろいろな形の映像があることがわかりました。単純にライヴ感を与えるだけではないさまざまなデザインの志向性が伺えます。簡単にリストにまとめたので、よければ。https://www.youtube.com/playlist?list=PLz4921MXpetCKs2LoNeLezgJOewZEisL7

マヤマは7年間、何を考えて制作してきたのか

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販売スタートから、さっそく購入・サポートを頂いております。ほんとうにありがとうございます。

 

しかしいっぽうで、静かなすべり出しであることも事実。わかってはいましたが、すこしばかりさみしい。そもそも露出が少ない・なんとなくわかりづらい、という感じでしょう。露出が少ないのは今後の課題として、わかりづらいところをちょっと補っていこうじゃないかとキーボードを叩く次第です。
とはいえ、結局ややこしい話ではあるかもしれないので、もっと早わかりの動画も最後に貼ります!

 

 

ジャグリングと音楽

マヤマはミュージシャンの南部大地を誘って結成されたユニットです。おのずから、ジャグリングパフォーマンスに音楽を使う、ということに自覚的になっています。なんでジャグリングパフォーマンスに音楽を使うのか批評的に見ている、といってもいいかもしれません。そして、ふたりの「身体」が音を鳴らし運動を描いている事実にも、もちろん目を向けています。お約束ではなく、それが作られている前提を疑いつつ、自分たちの実感に根ざして進んでいく...こういい切ってしまうと、とたんに理想論に近づいていくので、あわてずお話します。

マヤマにとってジャグリングと音楽の関係は多くの場合(本編でいうとno title_1,2のパフォーマンスは違います)"ズレ"を意識しながら構築しています。ふたつの関係が"ぴったり"しすぎないように、設計します。しかし、"ズレ"とはなんでしょうか。その話に行く前に、むしろ"ぴったり"することについて、映像作品で例をあげつつ説明します。

 

同期する

たとえばダンス。特にダンスバトル。これらを見たことのある方は、"音ハメ"という概念をご存じかと思います。DJが流す音源に、即興的に反応して、歌詞やビート、あるいは音が鳴り止む瞬間をとらえて、なにかムーブをキメること。これがうまく決まれば、観客は盛り上がります。反射神経の良さが、音楽との「同期」によって証明される形です。
ジャグリングパフォーマンスでも、同様の考え方があります。ダンスバトル的なとらえかたもありますし、フィギュアスケートのプログラムのような、流麗さの中にアクセントとなるような「同期」がみえることによって、より豊かな表現になる、という考え方。

ところで、音と運動が「同期」するとはどういうものかについて、われわれはその極北ともいえる例をよく知っています。 それがこちら。

 

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そう、いわゆるディズニーアニメなどで見る、動きと音楽がピッタリと合っているこれ。すなわち「同期」モデルです。劇伴のコミカルなメロディーに、掃除を手伝うリスのしっぽがほこりをはたくリズムがアクセントとなって加わり、非現実的な世界の強度を高めています。音楽と運動の「同期」には、夢見心地な、非現実的な世界の輪郭を太くするような効果があります。

ですが、逆を言えばリアリスティックな表現でディズニー作品のように音と映像が「同期」するスタイルを使ったとすれば、想像するにこっけいな印象を催すでしょう。あまりにぴったりと合ってしまうことは、なにかおかしい。そう、そして「同期」のこっけいさは、現代ではこんなおふざけも生んでいます。

 

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これは、Perfume「レーザービーム」をインド映画『Ashok』のダンスシーンに合わせて"シンクロ"しているさまを楽しむ遊びです。

 

元動画

こうしたシンクロムービーはさまざまなバリエーションをもっているだけでなく、試しに自分で適当な音楽を選んでかけてみても、けっこう"合ってみえる"ものです。だからこそ、その"合ってみえる"ことの組み合わせの妙が見えたとき、とりわけ大きな効果を与えるのかもしれません。


非同期から亜同期へ

他方、音と運動が全く合っていないもの...いわば「非同期」モデルもあるはずです。
はずです、というのは、今言ったように、たいていの音と運動は"合ってみえる"ため、その例を探すのは、「同期」モデルに比べて簡単ではない、といいたいところですが、我々はその非常にレアなケースをつい最近目の当たりにしています。

 

 

この圧倒的「非同期」に、初見のときはおもわずのけぞってしまったほどですが、批判されているそもそもの市民感情との"ズレ"もあいまって、ひじょうに高度な達成を得てしまった形です。

 

  

こうして、いくつかの極端な例をあげましたが、概ねはこの極端と極端の幅の合間で音と運動は、同期と非同期のバランスを"自然に"保っています。そう、ふだん私たちは音楽と運動の関係をまったくといっていいほど意識しない。パフォーマンスはもちろん、映画であれテレビであれ、どんな音楽がかかっているか気にすることはあっても、その関係までは気にしないものです。通りがかったドラッグストアの店内で何が流れていたか、マクドナルドで何が流れていたか、いや、そもそもなぜこの音楽は流されているのか、そんなことをいちいち考えていては身が持ちません。"そういうもの"でしかない。*1
ですが、ある表現はそうした無自覚さにいくらかの批評性を持たねばならない、と思います。批評性の向け方はさまざまですが、マヤマはこの音楽と運動の関係を、どちらかといえば「非同期」的方向で捉えていました。最初に制作した「b.a.p」などは、ジャグラーとミュージシャンのお互いが、本来的には無関係であることをつよく強調した傾向があります。が、「非同期」は徹底すれば単にバラバラというだけです。やはり「同期」といくらかのバランスを保たねばならない。けれども、感触としてはディズニーのような方向でもない。

ということで試みに、マヤマの音楽と運動を捉えるスタイルを「亜同期」的スタイルと呼んでみることにします。くっついているわけでも、はなれきっているわけでもない。別な仕方での同期。あるいはズレ方に、表現すべき必然性ともちろん快楽を感じているのです。

 

www.youtube.com「b.a.p」では参照先をリストにしてまとめてあります。
手探りで進むとき、これらを緒に考え、南部くんにも勘所を伝えていました。



もちろん「亜同期」的なものは、我々の発見ではありません。菊地成孔さんの『服は何故音楽を必要とするのか?』ではファッションショーのウォーキングと音楽の非同期的なありかたに優雅さを見出したり、(リストから削除されてしまった)『ロシュフォールの恋人たち*2のあっけらかんとしたズレの清々しさなど、すでにして拓かれた道筋でもあります。


 

おわりに


しかしながら、どうして亜同期的なものがジャグリングパフォーマンスにおいて、また私にとって切実な問題なのか、充分に言葉にできないあやふやさを含んでいます。ただわかるのは、そういう方向からでないと、ジャグリングについて考えることができなさそうだという抜き難い実感が先行するのみです。これがおもしろいのかそうでないのかは、観客と時間がすべてを判断することです。
ただコメンタリーでおふざけの自画自賛を繰り返しつつも、自分ではまあまあ気に入っているものばかりです。

 

なかなか買うまでには至らないものですが、不明な好奇心に動かされる方が増えるのを待ちます。アーカイヴはなされ、文通はまだ続きます。いつご覧いただいても、大丈夫です。
もし見てになにか言葉にできそうなことがあれば、それはインターネットにでも放流していただければ幸いです。



で、本編はこんな感じ!という動画です。
参考にしてくださいな〜。

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*1:ピアニストのキース・ジャレットはホームセンターで買い物しているときに流れている音楽があまりに醜いので店員に気にならないか尋ねてみたり、坂本龍一も常連のレストランのBGMが気に入らないとして自分で選曲したり、さすが音楽家は音楽に意識的にならざるを得ないようです。

*2:友人の真山さんと話していて思い出した。多謝。

マヤマが動画を販売します

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大事なことなので2回、というやつです。

 


この企画はnote開始以前からうっすらとスタートしており、1ヶ月半かけて着地しつつある現況です。
個人的にはコロナウイルスの(一次的)流行の過程でうまれる流れの記録のようなつもりでも、やっておりました。noteもその一部というかんじです。noteは別の職場に就いてから更新頻度が減るなど、そうした生活の変化も反映されていたりします。

 

動画については、バズったり、ステイホームで楽しもうとかだったり、あまり関係ないものになっていますが、マヤマでできることはこれかな、という確信にはたどりつけた気がしています。

 

ところで動画パフォーマンスの内容は、いわば小品をめざして制作しています。けっこう地味だと思う。(もとより地味を志向しがちではある)その理由はnoteにも書いたとおり。どう受け取られるかはわからないとはいえ、そうすべきであると判断した結果です。

 

 

www.hayakawabooks.com

 

そして、この労作というべき記事で提出されている「ディスタンス・アート」という枠に連なるものになりました。ただおそらく、良し悪しは別として、ここに含まれていない方法論で行われている制作でもあります。

 

しかし文中にある星野・安倍のコラボ動画について、記事中にあるのと同様の話を南部くんなどにもしていて、じつは今制作のインスピレーション源のひとつであったりもします。音楽と映像(運動)は、どうにかして"つながってしまう"ものにも関わらず、星野・安倍動画には信じられないほどの非同期/断絶があり、期せずしてスリリングという皮肉なものに仕上がっています。


なにかとレファレンスをだすのが好きなので、別記事でそういう話をしようかな。

 

 

では、販売スタートしたらまたお知らせします。

3776『閏日神舞』または「天地創造MIX説」について

※3/5表記等を若干修正
東京キネマ倶楽部で行われた3776×OTOTOY 企画vol.8『閏日神舞』は一部・二部に分かれ、メインイベントは、6組12名で演じられる第二部「富士山神話 LINK MIX」。かねてから日本神話に材をとってアイドルたちが"神"を演じ、またLINKモードで設定された、富士山を中心軸とした「静岡/山梨」の二項対立に則ったふたつの神話が語られるとSNS等で情報が出ており、3776の異様な企画にまたしてもオタクたちはざわついていましたが、それはひとまず置くとして。第一部「宵の宮」は通常の対バンらしいことも伝わってきており、広瀬愛菜/O'CHAWANZ/彼女のサーブ&レシーブ/963/XOXO EXTREME/井出ちよのという、好事家の評価も高いアイドルたちの出演それ自体がフェスのような雰囲気を醸しています。私としても、久しく見ていないグループが多く、また第二部との関連はありやと穿った期待もありましたが、まずは素直に楽しむことができました。

いや素直に、どころか特筆大書して楽しかった!という時間でした。対バンイベントで、この数年で私的トップ3に入る現場であったとすら思います。良質な音楽と、雰囲気も含め開放感のある会場、大勢の観客だがパーソナルスペースはしっかり確保できる密度、脱力と緊張の入り交じるパフォーマンス、(やや控えめだったが)オタクの奇行...これがアイドル現場のすべてだ!と言いたいほどです。そして出演順に各組の人数をみると1-2-3-3-2-1と第二部の伏線なのか奇妙な対称が作られているらしいことにもニヤリとさせられます。

そんな勘ぐりはともかく、構成の妙は図式的なフォームにとどまりません。前半、広瀬愛菜~彼女のサーブ・レシーブ~O'CHAWANZと振付や照明演出もゆるやかなソロ/ユニットが続き(ことに彼女の~とO'CHAWANZのサブステージをめぐるグタグダな進行!)、それとは好対照なXOXO EXTREMEがサブステージ上で、作り込まれた照明と振付でパフォーマンスに入る瞬間は鮮やかでした。意図せざる試みかもしれませんが、プログレッシヴ・ロックを主な楽曲のジャンルに取り込むキスエクが、イベント自体の"転調"に寄与していることを一際興味深く思います。
963のぴーぴるによる「こんなに人が集まってたら"アレ"にかかるのも時間の問題ですね」井出ちよのの「高校生活最後のライヴになる予定が、昨日急遽めっちゃあっさりした卒業式をしました!なので高校卒業後初ライヴでーす!」といった、時事ネタのライトすぎる扱いもまた、アイドルならではの洒脱さでしょう。

しかしぜんたいに、ひどく平和というか、それを物足りなく思う向きもあるかもしれません。同様に、"良質な音楽"(3776/井出ちよの、あるいはキスエクは留保が入るかもしれないが)は、時にアイドルの免罪符となるジャンルミュージックの先鋭的な融合からも、微温的撤退がなされているといえなくもない。が、彼女彼らが守ってきただろう現場にこそ、アイドルがアップデートされ続ける現在が色濃く反映されてもいます。年齢や地域性といったアクチュアルな主題はもちろん、わかりやすくキッチュだったりエモかったりはしないことで見過ごされてしまう、いわば"不燃性のアイドル"が持つアイドル性をいま一度考えてみることができるかもしれません。

***
 

第二部「富士山神話 LINK MIX」は日本書紀古事記から採られたエピソードを翻案した...音楽劇といっていいでしょう。いつもどおり複数のコンテクストが重なり合った3776のワンマンですが、今回は私が日本神話に不案内なので、神々の名前を改めて飲み込むのにもちょっと突っかかるほどです。そして、そもそもの公演経験がずいぶんと複雑かつ、アイドルの演劇表現にやや慣れきらないまま全編が過ぎてしまった感もあり、どうもうまく受け止め損ねた気がしてなりません。広瀬愛菜さんの浄瑠璃の素晴らしさや、あるいはその他の出演者陣も普段どおりのキャラクターが活きている、どころか、もうありのままといってもいいくらいで、公演の複雑さが、楽天的なアイドル性をいささかも損なっていないのを愉しめば十分、という気もします。だがやはり3776のライヴをそれだけで終わらせるのはもったいないぞと思うわけです。そんな予感があったからか、公演の理解の助けになるとアナウンスされていたパンフレットを買っておきました。が、情報量!公演の間に読むにはなかなかに気合がいる分量です。フロアのそこここから「これはもう読むの諦めたよ…」と嘆息が伝わってきます。

それにしても、「演劇的」と称される公演を行うアイドルグループ...たとえばMaison book girlのワンマンライヴが説明を極力回避することで観客の解釈の自由度を保証しつつ、提示されるイメージそれ自体の効果を美的/詩的に消費するのだとしたら、3776は極端なまでに説明的であり、むしろその徹底した説明的態度は予断的な解釈を許さず、だが丁寧にロジックを追った結果現れる多義的な構造こそが、アイディアの異様さを際立たせてしまうのだと、パンフレットをいたずらにパラパラしつつ、改めて思わされました。

 パンフレットは左右どちらから開いても、見開きに跨って富士山の写真が収められています。駿河國富士山記側から右開きに開くと、右ページ上に縦書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに安心して、足を踏み入れことができる」とあり、甲斐國富士記側から左開きに開くと左ページ上に横書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに、足を踏み入れてはいけないのです」と、まったく同一の前提ながら引き出される結論は正反対の文言が並びます。微妙にズレを伴ったふたつの文言は、実はそのまま、公演のオープニングに左右のスピーカーから同時に歌として、(おそらく)数拍のズレを伴って再生されます。聞こえ方は、まさしくミキサーのフェーダーがセンターに合わせられた状態と思っていただければよいでしょう。

ステージもまた、センターを軸に上手(甲斐國)と下手(駿河國)が分離しています。出演者はそれぞれ袖からゆっくりと奥を歩いて、半分になったステージのまたそのセンターで面へ向かって歩き、拝礼を行うような身振りを行います。が、こうした対称性は、駿河國の出演者だけ拝礼の後、サブステージへかけあがってポーズをキメる、というルーティンが組まれることで崩されています。そうした不均衡な世界のなかで、ふたつの神話が浄瑠璃の導きによって同時並行で進むかに見えたなか、突然、演者のメタ的なコメント「このままじゃ分かりづらい!巻き戻し!」という言葉を合図に"巻き戻し"のSEに合わせて逆回転するようなアクションをしつつ、一方の物語に光を当て直し(物理的にも照明によって)した形で、すぐさまそのシークエンスが頭から再演されることを繰り返すのです。
そう「富士山神話 LINK MIX」では、視覚や物語さえもミキシングの対象となって、左右それぞれにフェーダーを振り分けるようにして語り直されるのです。いや、そればかりか、センターを軸に侵されないかと思われたステージもまた、やがては中心線を踏み越えられるようになり、神々や怪物はわちゃわちゃとドタバタ劇のようにあちこちを行き来し、ついには神話的世界さえも乗り越えて「在宅」「観覧逃げ」などといったアイドルのジャーゴンが神々のエピソードと響き合うようにすらなります。「富士山神話 LINK MIX」においては物理的な事象のみならず、舞台空間に現象する世界の一切がミキシングの対象になっているのです。あるいは、制作することの基底部に存在する「ミキシング」が、「富士山神話 LINK MIX」の方法意識のもと、あらためて浮かび上がってくるといったほうがいいかもしれません。 

ミキシングという行為が基底となった世界において、そもそもミキシングとはなにか、ということもパンフレットにしっかりと書かれております。「一般的な音楽用語」としての「MIX」の解説に拠れば「一般的な音響装置で音楽を聴くために、複数の音声を混ぜ合わせること」(下線筆者)とあります。ごく穏当な解説です。だが、すこしの飛躍を許すならば、混ぜることで生成する世界について…そう「富士山神話 LINK MIX」あるいは日本神話においての物語の起点を思い出さずにはいられません。すなわちイザナギ/イザナミによる天沼矛を使った「天地創造」のエピソード。神々が未成のどろどろとした油のような世界をかき混ぜて天と地が誕生したことについてです。このようにして3776的世界において「天地創造」と「MIX」することは重なり合います。ある世界は、混ぜ合わせることによって発する。ですから「富士山神話 LINK MIX」の理路に則るなら、こう言えるはずです。「世界とはMIXだ」。そして、常に富士山とアイドルとを重ね合わせ続けてきた3776なら、もう一つこう加えることはできないでしょうか。アイドルもまたMIXだと。

アイドルは、我々が知るように様々な文化のMIXです。どれか単一のジャンルのプロフェショナルであることを肯んじず、常にミキシングの具合でしかない。音楽も演劇もアートもバラエティも飲み込んでしまう、それがアイドルです。ここで最後の問いが生まれることでしょう。アイドルをMIXする神とは誰か。が、答えは予め用意されているのです。再びパンフレットに舞い戻ります。出演者と彼女たちが演じる神々の紹介がなされるページ、「天照大神」紹介欄下部。

この「祭り」の主役は、芸能の女神であり日本最古の踊り子、天宇受売命(アメノウズメ)だが、この大芝居を企画した総合プロデューサーの思金神(オモイカネ)の存在も忘れてはならないだろう

 我々が想像するように、アイドルをMIXする神とは、プロデューサーに他なりません。そして同時に忘れてはならないのが、プロデューサーが「神」であるとするなら絶対的存在としての「神」ではなく、アイドルもまた同等に「神」である多神教の世界で、です。アイドルとプロデューサーは相互に世界を作っていくわけですが、その世界には、もうひとつの要素が入るはずでしよう。つまり、観客=オタクです。
そしてアイドルの世界において、音響的操作よりも、はるかに前景化しているもうひとつの「MIX」があることを、あの意味不明な言葉を喚き散らす、理解不能なまでに様々なヴァージョンをもった「MIX」があるじゃないかと、誰しもが連想せずにはいられない。フロアの我々もまた、期せずして制作の一端を担う可能性が、常に開かれているはずです。もちろん狭義の「MIX」を入れずとも、アイドルという文化的MIXに与する限り、可能性は常に。だがもちろん、こんなことは私が言うまでもなく、やはりまたパンフレットに書かれていることでもあります。「LINK MIXとLINKモード」を解説する項には、こうあります。

ステージAとB間は自由に行き来できるので、観客は自分の好きなように音楽を「MIX」できる。観客一人一人は言わばDJミキサーのクロスフェーダーのようになり、どちらをいつどのバランスで聴くのか全て観客に委ねられる。

 

–––LINKモード基本概念

「LINK MIX」では自分でミックスを楽しむ自由はないが、どんなミックスを聴かせてくれるのだろう?という別の楽しみ方はできる。DJプレイを楽しむように。

 

–––LINK MIX

厳密で多義的な3776の世界を分け入れば、私たちにはあらゆる形での自由が保証されていることに気づきます。アイドルと、プロデューサーと、オタクが作り上げる「MIX=世界」。3776が、圧倒的に異様でありながらアイドルの正道を歩んでいるとしか思えないのは、こうしたアイドルを介した観客の自由のあり方を、執拗なまでに見せ、創出しようとしてくれるからだと、何度でも受け止め続けることになるからなのです。

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こうした作業も片付きつつあり、閑散期のゆったりモードも手伝って、映画を観たり本を読んだりするリズムが帰ってきました。しばらくぶりにレンタルショップでまとめてDVDを借りてきて、見落としていた新作群を何本か観るなか、際立っていたのはしかし旧作。1956年公開のバット・ベティカー『七人の無頼漢』です。80分に満たない西部劇ですが、各シークエンスの圧縮された演出は、ついに決闘のシーンで"主人公が銃を抜くさまを見せない"という大胆な省略に結実します。それだけではなく、岩の間を這いながら敵と撃ち合う場面や、雨のなか馬車の車体の下で眠る身振りなど、特異なアクションも眼を引かれます。無駄のない進行のうちに、平準化されない身体の動きが画面を魅力的にします。また、反復的に現れるコーヒーを飲むシーンなども、全体の流れのうちにリズムを刻んで妙に忘れがたいのです。

 

などと話し始めれば例によってキリがありません。
ひとまず今日はここまで。