20190816 3776と『歳時記』とワンマンについて、急ぎ足で

いつも通りのジーンズとチェックのシャツを羽織った石田さんが現れ、上手に要塞然と設えられた機材たちの前で手を動かし始めると、WWWのスピーカーから図太いキックが体に触れる。井出さんの高くかわいらしいあの歌声にそぐわない、ブーン、という低音。これだけで今日のワンマンがある種の"勝利"に終わるだろうと確信させるのでした。

  

3776のライヴは、多くのアイドルがそうであるような、エモーショナルさも確かにありながら、そのような現場主義的な熱狂にのみ回収されるわけではありません。かたや、ワンマンならではの凝った舞台装置などもほぼありません。では、何があるのか。その前に、心から驚かされる新作『歳時記』について。

 

 

今回の『盆と正月が一緒に来るよ!〜歳時記・完結編』では、3776のニューアルバムである『歳時記』の発売と合わせて開催されたライヴです。『歳時記』は2016年から現在に至るまで1~4巻まで販売されており、その名の通り季節折々の行事にちなんだ楽曲が収録されています。それぞれの内容については、ワンマンに先駆けて公開されたOTOTOYインタビュー記事から引用します。

 

「歳時記シリーズ」とは?
富士山ご当地アイドル3776と共に四季折々の日本を味わうシリーズ。
歳時記 第1巻には、師走(12月)の章「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」、睦月(1月)の章「正月はええもんだ」、葉月(8月)の章「盆唄音頭」が収録。 
歳時記 第2巻には、皐月(5月)の章「八十八夜」、水無月(6月)の章「ほたる来い」が収録。
歳時記 第3巻には、如月(2月)の章「2037年のバレンタイン」、卯月(4月)の章「さくらさくら」が収録。
歳時記 第4巻には、文月(7月)の章「リピーター」、霜月(11月)の章「秋祭り」が収録。
のこりは弥生(3月)、長月(9月)、神無月(10月)の章だが……?

https://ototoy.jp/feature/2019080501

 

 しかしながら、アルバムに収録されているのは以下。

 

ちなみに『歳時記』に記載された曲名はこちら……。

 


3776ニューアルバム『歳時記』
2019年8月28日発売
¥2,500 (税抜¥2,315)

1.睦月一拍子へ調
2.如月二拍子嬰へ調
3.弥生三拍子ト調
4.卯月四拍子嬰ト調
5.皐月五拍子イ調
6.水無月六拍子嬰イ調
7.文月七拍子ロ調
8.葉月八拍子ハ調
9.長月九拍子嬰ハ調
10.神無月十拍子二調
11.霜月十一拍子嬰二調
12.師走十二拍子ホ調

 

 

もとの原型をとどめていないタイトルは、一見してどれがどの曲なのか、にわかには判別できません。これは、記事中の石田さんの発言にもあるように、このアルバムは「DJミックスみたいな作品」であることに起因しています。すべての曲は間断なくシームレスに連続するよう、再構成されています。加えて、井出さんのカウントする「1月1日,1月2日,1月3日...」という日付と「子・牛・寅・卯...」という干支の名が並行してバックトラックに流れ続けます。これによって、より強く全体の連続性が保証される仕組みです。
またこの作品では、日付・干支・楽曲が三層のレイヤーを成しつつ73分12秒ノンストップで構成されているのですが、楽曲内で井出さんのナレーションとコーラスが同時に進行するような曲もあり、ひと筋縄ではいきません。「楽曲」という単位は揺さぶりにかけられ、レイヤーはより細かく、パートごとに増減を繰り返します。そもそも日付も干支も常にプレーンなトラックではなく、エフェクトを掛けられ、その他の楽器と等価な音素として楽曲と相互浸透的に関係を結びます。しかしまた、それらの要素を統合する井出さんの「声」という唯一性に帰着する。それは3776が他ならない「アイドル」であるからこその帰結です。が、その「アイドル」は絶対的な不可侵の、盲目的な信頼ではなく、ある種ストレステストのような、「アイドル」がどこまで「アイドル」であることに耐えられるか試すような実験にも思えます。
そして、ワンマンライヴは、この『歳時記』をライヴ当日である8月15日を起点にスタートする、再びの"再現ライヴ"でなのでした。ライヴハウスの音響で再現されるこの『歳時記』は、ほとんどカオティックな音の渦に飲み込まれつつ、視線は井出さんのストイックなダンスに焦点化させる、かと思えば時折背後の石田さんの妙にキュートなダンスにも脇目を振ってしまう、やはり視聴覚ともにかき乱される体験です。

 

だが、これだけなら、ある種強度の問題と言えなくもない。また、いくら楽曲の質的にハイクオリティであり実験的であっても、「アイドルとオルタナティヴな音楽ジャンルとの融合」は、それ自体もはや、安定的な一定の効果が予想できる、一般的な方法論でしかありません。というか、そもそも3776は、その活動と表現の奇矯さを知る人達が思うほどには、異質なもの同士の出会いを演出する類のアイドルではないかもしれません。3776はあくまでも3776自身に、あるいはアイドルに内在するのみではないでしょうか。また3776がより先進的であるとするならば、それは「アイドル」というジャンルを構成するもの、限りなく雑多な諸要素について自覚的であるからに他ならないはずです。

 

 

 3776はその名の通り「富士山」と関係の深い、いや「富士山」と等価なものとして「3776」の活動をしています。(『歳時記』のジャケットを見よ)3776さんのあらゆる表現に富士山が存在しないことはなく、常に富士山への言及が欠かせないのです。それはライヴでも変わりません。

WWWのステージ正面の壁面には時折「富士山を構成するもの」と上下にテロップのついた、井出さん筆になる富士の絵が投射されました。富士山の構成物は「太陽」や「雲」、また「樹海の蛙」や「茶畑」そして「富士山」そのものであると、宣言されます。つまりそれは自然科学的な「富士山」の定義ではなく、我々にとって「富士山」を「富士山」たらしめている「富士山のイメージ」のようなものといえばいいかもしれません。「富士山」は唯一であり、また同時に、これらの諸要素によって複数でもある(LINKモードという、富士山の"表裏"に注目したプロジェクトも思い出す)のです。

これは言うまでもなく、「アイドルを構成するもの」として置き換えてみてもわかることです。「アイドル」とはなにか? 歌手か、ダンサーか、女か、男か、かわいい者か、美しい者か、映画俳優か、画家か、小説家か、バラエティのバカ担当か、モデルか、地域の人気者か、簡単なことです。その全てが「アイドルを構成するもの」なのです。アイドルは唯一であり、同時に複数である。井出ちよのというアイドルの唯一な声はサンプラーによって多重化され、歪み、複数化されながら、「アイドル」としての揺るぎなさを失うことはありません。私たちは、3776の表現を介して、この揺るぎなさの現れにこそ揺すられるのかもしれません。

 

 

 

急ぎ足に結論めいたものを付け加えるのに忸怩たる思いもあるのですが、ようやく富士登頂に一歩踏み出せた、という思いです。とにかくねえ、石田さんも井出さんもとんでもないのです。また相変わらずの気負いのなさも、ほとんど驚異です。

 

言わずもがなの付言をするならば、3776さんの仕事は「アイドル」というジャンルの内側の出来事にとどまらないインパクトです。と同時に、人に「アイドル」とは何なのか、真摯に振り返らせる強さがあるでしょう。この幸福を取り逃すことのないよう、皆で、3776に驚こう。

 

ototoy.jp