20190911 Maison book girl 「yume」

発売当時に書いていたんだけど、公開に至らなかったのを、今更見つけた。
今年はざっくりでもなんでも形にしていくことが決め事なので、この際公開しちまおう。語尾など細かいところ以外はほぼリライトしてません。アルバムリリース以降、大きいワンマンも4本を重ね、シングルも2枚増やし、色々と状況に差もありますが。いや改めて、サイクルが早いな...

と、実は先日の記事よりも前からキーボードを叩きながらもまとまらない文章を公開させるための弾みにしようって魂胆...まあ勿論そんな大したもんじゃないんすけどね。 

 

 

 

ニューエイジ・ポップ・ユニット」を標榜する四人組グループ"ブクガ"ことMaison book girlのメジャー2ndアルバムがリリースされました。

 

www.maisonbookgirl.com

 

昨夜サブスクリプションで聴いたので、各クレジットや歌詞など曖昧なまま書いていますが、予想通りに予想を裏切られるアルバムになっていました。加えて、プロデューサーにして作詞・作曲のサクライケンタの作家性の総決算的な作品になっているようです。

 少し個人的な話をすると、このグループは音楽的な趣味やステージの魅力もさることながら、我が"推し"こと矢川葵さんが所属されているので、どちらかというと、メンバーへの思い入れがあったりする、のですが、このアルバムを聴くと、どうしてもサクライさんという一人の作家に思いを馳せることになりました。むろん、個別の楽曲での歌い方に新味があって(「影の電車」のファルセットとか)そういう部分もよいのですが。

 

ちょっとアルバムの曲目を確認します。

 

  • 01. fMRI_TEST#2
    02. 言選り_
    03. SIX
    04. 狭い物語
    05. MOVE
    06. ボーイミーツガール
    07. PAST
    08. rooms_
    09. MORE PAST
    10. 十六歳_
    11. NIGHTMARE
    12. 影の電車
    13. fMRI_TEST#3
    14. 夢
    15. ELUDE
    16. レインコートと首の無い鳥
    17. YUME
    18. おかえりさよなら
    19. GOOD NIGHT
    20. 不思議な風船
    21. fMRI_TEST#1

 

全21曲。曲名の末尾にアンダーバーのあるものが前レーベル在籍時に発表された楽曲(微妙にアレンジを施されている)だったり、その名の通りMRIの音が響く「fMRI_TEST」の#1~3と大文字のアルファベットのタイトルがインスト曲となっています。一曲ごとにインストが挿入され、歌の入っている楽曲がサンドイッチされている構成です。
例外的に、20曲目の「不思議な風船」はメンバー、コショージメグミ作詞のポエトリーリーディング。そして9曲目の「MORE PAST」は1stアルバムに収録されている「my cut」を、メンバーがアコースティックアレンジで歌う声に、レコードのノイズのような音が重なっている曲になっています。

 

インスト曲は、ピアノなどの楽器音だけでなく、サクライ作品に頻出するドアのノックや足音といった現実音の利用により、聴くもののイメージを膨らませつつ、映画を見るように作品世界へ没入していくような経験を与えます。実際映画好きらしいサクライさんなので、レオス・カラックス「ボーイミーツガール」とホセ・ルイス・ゲリン「影の電車(列車)」と、映画作品が楽曲のタイトルに引用されているよう(まさか「夢」は黒澤明ではないでしょうけど)でもあり、いずれにせよ表層的にポップ・ミュージックを消費するにとどまらない、深層的な経験を与えようという狙いが見えてきます。


そして映画というと、先日発表された「おかえりさよなら」のMVを想起させます。

 


Maison book girl / おかえりさよなら / MV

 

患者服のような白い衣装をまとったメンバーたちは、素足で街を歩き、映画館のような場所で、過去の自分たちのMVが粗く投影されるスクリーンを見つめ涙を流します(これもゴダール女と男のいる舗道」あるいはキューブリック時計じかけのオレンジ」のような映画史的記憶を喚起させる)。そして、ベッドに呼吸器をつけて横たわるメンバーのイメージ。 MV内の光景は、もしかするとこの昏睡した女性が見る無意識的なイメージ=夢なのではないか、という解釈が成り立つようにみえます。

 

MVでは無意識=夢が映画という表象を通じて過去に連絡されるのですが–––いかにも謎めいたこのMVがどういう意図なのか、そこには深入りしません。私が気にかかるとすれば、そもそもサクライケンタにとって無意識とは、夢とは、過去とは何なのか。単に審美的な嗜好なのか、作家としてのエレメントの価値です。この記事はそれに答えきれるものではありません。ただ、アルバムを聴くと、昨年発表された「言選り」という作品の重要さが際立ってきます。

 


Maison book girl / 言選り / MV

 

「言選り」は"AIとの共作"をキャッチコピーのようにして制作された楽曲です。具体的には、AIへサクライケンタが過去に作った詩を入力し、それをランダムに別なセンテンスとして吐き出したものを、またサクライさんが再構成するという方法でした。カットアップ的に、ランダムな言葉を再構成する技法自体は、特段珍しいものではありません。

 

サクライさんの詩作には、聞けばそれとすぐに分かる、いくつかの特徴的なモチーフや言葉遣いが複数の作品で反復されるパターンを持っています。"煙"や"ベッド"に"部屋"...このモチーフが、ある種の幻想的な趣を持っていました。謎めいていて、サクライさんのヴィジョンのような詩が、"Maison book girlの世界"を特徴づけてもいます。


しかし「言選り」においては、AIがサクライさんのモチーフはそのままに、"詩"として文脈付けられていた言葉のユニットを無作為かつランダムに吐き出すとき、かわらず謎めいたイメージを表しているかに見えて、文脈を持たない無意味なひとつのパターンへと変形させてしまいます。これを有意なものにするべく、再度言葉を"詩"へと組み直すことが「言選り」におけるサクライケンタの創作でした。ひとり孤独にヴィジョンを紡ぎあげるのではなく、すでに何度も見たヴィジョンを、他者を介して別の物語へと編集すること。

 

この作品でサクライさんは、自身のモチーフや反復するパターンを"詩"にする"私"を、AIという他者を介し、またそれを編集することで出会い直し、乗り越えようとした、とみることはできないでしょうか。"詩"として結晶する様々なモチーフは、サクライさんの審美的な趣味でありつつ、その美的な経験を支える無意識=夢の層に食い込んでいるでしょう。これはあくまでも仮の足場としての結論ですが、サクライケンタにおける夢や無意識、そして過去とは、乗り越えられるべき自分自身という限界についてのことでもないでしょうか。少なくとも「yume」という作品においては。

 

「言選り」が実質的な一曲目としてアルバムに配置されていることは、単なる偶然でないとします。その仮定の範囲内で、私には、アルバム「yume」がサクライさん自身の夢=無意識と出会い直す、つまりサクライケンタが"サクライケンタ"と対峙する物語のようなものにすら見えてきます。なぜなら、「言選り」のような出会い直しの物語が、アルバムに収められた楽曲にも起きているからです。私が「yume」をサクライケンタの作家性の総決算的作品と言ったのは、このような意味合いにおいてです。

  

今は全体に渡って細かい検証をしている時間がありませんが、一部分だけ見てみましょう。たとえば「PAST」がドアのノック音とともに「rooms_(部屋)」に繋がるとき、そのノックは"この部屋"のドアをノックする音と解釈できます。「rooms」とは一体どこの部屋なのか、何を歌っているのか、明確にはわかりません。しかしノックされた"この部屋"であると、構成的に位置づけられることで、とらえどころのない幻想へ輪郭が与えられます。この輪郭線をたどれば、サクライさんの詩が別の響きを持ち始めます。続く、アルバムで最も重要と思われる「MORE PAST」は過去作「my cut」を再利用することで、ベタに楽曲を享受することから距離を開きます。楽曲中盤、「なぜか15年前の」と歌われると、ノイズが重なりだし、その音像が徐々に前景化し「my cut」はあたかも過去として埋もれて消えていくようです。そして「十六歳_」へと連続すると、15/16という数字が互いを照らし合いつつ、"過去"という物語を露わにする。"きっと戻れない日々眺めてた"。
それぞれ全く別の時期に創作された作品が、意味/文脈を再構成することによって関係しあい、別の意味/文脈を生み出します。それらは、各部としてはサクライさん自身が無意識的に反復的するパターン=夢=症状でありながら、文脈の変化によって、違う別のパターンへと編み直されるのです。「言選り」で吐き出された言葉が、紛れもなくサクライさん自身の言葉/モチーフでありながら、別の詩になってしまうように。

 

もし「yume」が優れたアルバムであるとするなら、作家の反復的で自家中毒的なパターンを乗り越えようとする格闘の跡の生々しさに根拠のひとつがある、と言えないでしょうか。何より、このような自己の乗り越えが、新しい世界を開くことへ繋がっていくだろうことに、ファンは期待します。作家として作品そのものを、そして、プロデューサーとして、Maison book girlをまだ見ぬ誰かへと開いていくことに。