20191108 『青野文昭 ものの, ねむり, 越路山, こえ』

仙台滞在中の時間を使って『青野文昭 ものの, ねむり, 越路山, こえ』をせんだいメディアテークで観てきました。

 

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結論的に言うと、近年こんなに感動させられた展覧会もなく、あわや落涙せんばかりのインパクトです。現代美術に昏い私でも、あるいはまたそんな者にこそ訴えかける展覧会かもしれません。

 

青野文昭さんは「修復」をモチーフに作品を制作する作家です。打ち捨てられていたモノをなおし、また拡大解釈的に延長してしまう、そこはかとなくユーモラスでもある作品群が特徴です。

 

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写真はすべて11/6の展覧会にて撮影

 

こうした作品の主題は現在まで一貫しつつも、3.11後を大きな境目として、修復される器物に人型が浮かび上がるようになったといいます。*1

 

今回の作品群でも、場内でひときわ目につくのは、箪笥や車が融解するように接合するオブジェと、そこに浮かび上がる人の姿や衣服たちです。

 

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こうした「人」の影はどこか幽霊めいており、一方で器物たちも互いを補い合いながら勝手に動き出しそうな、付喪神よろしく妖怪のような雰囲気を醸しています。よく見れば車は地を離れ、樹木は中空から根を伸ばし、私たちとは重力圏を別にした、この世ならぬどこかで浮遊しているような、奇妙な感覚を与えます。
しかしながら、それらが不気味でなく、むしろ笑ってしまうような間抜けさを大いにはらんでいるのが、心地よくあります。(上の写真の首輪に繋がれた犬=碁盤!)

 

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今回の展覧会では写真撮影がOKとのことで、こうしてiPhoneでパシャパシャ撮っていたりしたのですが、どうにもしっくりきませんでした。
というのも、会場にある作品群は、大きいもので車や船、あるいは箪笥といった人体と同等かそれ以上のスケールをもったオブジェですから、実は写真で捉えるようなフレーミングとはまったく違った形でのフレームが与えられます。
たとえばすぐ上の写真の場所で私は、開かれた引き出しに入っている一葉の白黒写真–––結婚式の写真–––に目を引かれ、やがて右手の箪笥に直接穿たれた穴が目になるへのへのもへじ、さらに祭り半纏を纏ったのっぺらぼうへと、段階的に、徐々にカメラが引くようにしてフレームが生起したのでした。

 

多段階のフレーミングは、会場を回遊している間、様々な水準で生じます。ひとつところに目を奪われて注視しようとすると、足元に人の足(!)が生えていたり、それに促されて視線を上げると実際の自転車の前輪があり、導かれるように運転手の方へ目をやると、消え入りそうな輪郭線が箪笥の地と融解し、全体を眺めようとすれば、さっき歩いてきたエリアにある遠景のオブジェ群が、また違ったスケールを与えたり...こうした運動は、ほとんど無限に思われるリズムで観客の身体を異なる世界へ攫っていきます。更には、そうした即物的な運動感だけでなく、顔のない(目鼻が描かれていない/頭部がない)人々という匿名的な「人」と、先ほどのような写真を介しての記名的な「人」とが混在することで、実在・想像の境界を乱してしまうことにも気付かされます。

 

 

展覧会の白眉とも言える八木山にちなんだエリアでは、青野さん自身の経験と記憶を参照しつつ、古代から3.11以降の時間までを、恐ろしい密度で圧縮します。動物園のトイレで出くわした少女や金魚の死、動物たち、脱走した動物たち、青野さんの部屋、そして部屋にあった怪獣の人形、祖先、鯨、蛇、蛇取りのおじさん、ダイダラボッチ...こうして書き並べると、たとえばコーネルのような私秘的でミクロコスモス的なオブジェを想起しかねませんが、先程言ったような身体と同等・それ以上の物量は、強く見るものを巻き込んで数千万年のタイムスケールに誘うのです。また、このエリアを構成する、やはり箪笥たちが、生活に根ざした器物であるのも、純化しきれない、言いしれないものを与えていることでしょう。更に付け加えるなら、青野さん自身の記憶を参照しつつも、青野さんがイメージを統合する主体ではなく、あくまでも八木山という霊的な磁場に絡め取られるひとつのファクターでしかない、という手触りを、決して忘れてはいけない気がしています。

 

そしてこのエリアを抜けた最後に現れる光景に、思わず胸を打たれてしまったのですが、こればかりはぜひ実際にご覧いただきたいものです。

 

  

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それにしても、この会場には犬たち(をはじめとする動物たち)が沢山いて、最後の最後まで犬が傍らにいます。私が大の犬好きだということを差し引いても、魑魅魍魎や幽霊たちが跋扈する会場にひときわの温かみを与えてくれているのが彼らでしょう。記憶と歴史の片隅で、名もなき人/モノたちを慰撫するようにして、ただ存在してくれた獣たちの魂の慰霊の場としても、少し特別な感情を呼び起こされたかもしれません。

*1:書本&cafe magellan店主高熊さんとの会話より