友人のこと

一昨日、7月14日の朝に20年付き合いのある友人が急逝。35歳。同じ日の午後いちばんに連絡があり、そこからは心当たりに連絡し通しでした。さっきまで仕事の連絡を取ってた人にも、数年ぶりに声を聞く人も、仕事中で電話に出られないと分かってるはずの人にも何度もリダイヤルしたり、もしかしたら、もう少し落ち着いてから連絡しても良かったかもしれないと、その日は考えていました。結局のところ、そんなに急いで伝えなければいけないと考えてるのは、おそらく、他ならない自分のためであるからです。

 

20年の付き合いのなか、特にここ数年は、彼にイベントごとのスタッフワークをお願いする機会が非常に多かった。仕事を辞め、時間に自由が効くのもあるし、頼めばふたつ返事で引き受けてくれる、ということにひたすら甘えていた自覚もあります。彼独特のノリというか優しさから「ジョリオ(古い付き合いの友人は私をこう呼びます)のお願いだから聞いてるんだよ。他だったら面倒くせえし」と言ってくれたこともある彼、しかし二人きりで出かけることもなかったし、こまめに連絡を取ることもなかった。

いつだか、いつものようにイベントの手伝いの合間、カレーにハマってるらしいので、近くのまあまあ美味しいカレー屋に一緒に行ったことを思い出します。彼はそこでいつも通り、様々なトピックを、あの切れ目ない喋り方で喋っていたような気もするし、それは別の時だったかもしれません。

 

こうして彼について書いているけど、彼はこういう文章を読まない気がしているし、自分がこういう書き物をしていることも知らなかった気がする。だから、彼に向けて書いてるわけではないし、ほんとうに自分が勝手に書いているだけです。

 

彼の急逝は、辛いとか悲しいという実感より、自分のパーツのどこかが、取り返しようもなく破壊された、という感触がいちばん近い。深く落ち込むのではなく、ただただ、時間の隙間ごとに彼の記憶が、領域を修復するかのように反復されます。それは、意識的な作業でなく、自動的に行われているようで、だから意識的には仕事にも戻ったし、家事もこなして、本を読んだりバラエティ番組を見たりも普通にしていました。ただ、思い出す作業はまだ止みません。

 

彼に向けて演劇的に語りかけてみたり、儀礼的に冥福を祈ったり、どれもできそうもない。もう一度同じことを言うと、くだらないニュースに腹を立ててるし、せっかく取り寄せて買った本がつまらなくて途中で投げたりしたし、寝る前にすこし眺めた配信のクオリティに触発されて何かを考えたりしている。至って普通にもしている。

 

この文章では「彼が死んでしまった自分」についてしか書くことができません。それを書く意味についての自問もあったけれど、プライベートのみならず、何度も仕事に協力してくれた友人について無言でいることのほうが私には不自然で、書く時期については早いかもしれないと思うものの、葬儀が終わったら、初七日があけたら、四十九日があけたら、と外在的な基準はそぐわず、繰り返すように、もっぱら私自身の尺度と必要で書いているだけです。あとから、尚早であったと不明を恥じるかもしれません。

 

ただ、これも個人的な経験から、誰かの死は、そこに関係していないまったくの他人によっても悼まれ得る、ということを強く経験しています。これを読む誰かがほんの瞬間、知らないであろう彼の死を頭に描くとしたら、それをかすかな免罪の手触りとして、ここに記します。