『のぼる小寺さん』の感想

『のぼる小寺さん』を観てきました。

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若手俳優がたくさん出ていて、なおかつ恋愛が主題の学園モノとなると、やや腰が引けてしまうのですが、予告編の塩梅がよさそうなのと、京アニ山田尚子監督と何本も傑作をものした吉田玲子さんの脚本ということで、ゴーサイン。

ただ、予告編でも工藤さんの脚にクロースアップしてるショットがあるなど、うーんどうかなという不安もあったけれど、それも見事本編で回収してくれました。品を保ったまま100分間にわたって、物語にも風景にも頼り切ることなく、彼ら彼女らの視線をスリリングに追いかけてくれました。

 

実に慎ましいストーリーへ大きく関係してくるのは主に5人。惰性で卓球部を続けている近藤、カメラが好きだが友人にそれを大っぴらにはしない田崎、不登校気味でギャル風の倉田、ボルダリングにひたむきな小寺、シャイだが小寺に惹かれて同じ部に入った四条。共通しているのは全員が進路表を白紙で提出していることです。

 

彼ら彼女らは、それぞれの仕方で自分の欲望(性的欲望と自己実現の欲求が曖昧に混ざり合う)を取り扱いかねているが、例外的に小寺だけは、目の前の壁を登り続けることにに専心し、周囲の雑音もまったく耳に入らないようす。件の進路表も「クライマー」と書きつけて教師に現実との折り合いをたしなめられるも、「嘘を書くんですか?」と虚心に尋ね返して困らせるような、映画の中では、いわば超越的な存在です。

 

そんな小寺に、四人はそれぞれの形で引き寄せられます。すでに書いた通り、四条は小寺に薄らかな恋慕の情があり、田崎はついカメラで小寺を盗み撮り、近藤はひたすら小寺を窃視します。とくに近藤は、5人の中でもっとも自分の欲望の在り処が不確かで、小寺への視線は四条のような恋慕に近いようでいて、むしろ小寺のひたむきなボルダリングへの集中=欲望それ自体へのあこがれと混ざり合っているように思います。この近藤のはっきりしなさにとどまり続けることが、脚本・演出の品の良さでもありますが、田崎といえば、そうした近藤の欲望を先まわるかのようにして小寺の肢体にクロースアップした映像を見せようとしたりもします(予告編の視点は、田崎のメタ的な視点でもあったわけです)。しかし近藤はそれにのめり込むでもなく、目を背けるでもありません。(とはいえここのあたり、ちょっと記憶が定かでない。だいぶ自分の力が落ちてるなと感じるなど...)

思春期とは、あるいは人間一般は、自分の欲望の不確かさに耐えられず、しばしば手近な欲望にすり替えて結論づけようとするものです。ですから、近藤は四条に小寺との関係を聞き出そうとしたりもする。しかし、そのなかで四条は近藤がつねに小寺を見ていることを指摘し、そのうえで小寺への無理解を批判もします。
近藤の視線は、田崎によって形を与えられようとするが像を結びきらず、四条によって不徹底を責められたりもする。が、もちろん、田崎にしても四条にしても、そうして批判的な他者への視線をもっているからといって、自分の欲望に向き合えているわけではない。それぞれの不確かさが、小寺という謎に引き寄せられるのみです。

ですが、彼ら彼女らが小寺という謎=自分の欲望をどう扱うのか、映画はこの葛藤に深入りはしません。この呼吸もすばらしい。シーンが変われば、近藤はとつぜんのように卓球へ打ち込み始めるのです。それは小寺の視線が自分に折り返される(小寺に欲望される)、かっこいいところを見せたい、という期待ではなく、まず「小寺(のよう)になること」で欲望を昇華させはじめるのです。

 

ですが、別様ではあるけれども、小寺もまた不確かさを持っています。それは偶然出くわした倉田に、豆だらけの手を指摘され、倉田の手によってネイルアートを施されれば、自分の手の別な姿に新鮮な驚きを得たりする。他の4人に比べれば微かかもしれないけれど、たしかに小寺も他人に影響され、また誰かを眼差していることが、映画の後半に明らかになっていくのです。また、ふたりは独特な距離感で、三度目に会えばいつの間にか「さん」づけから「ちゃん」呼びに変化していたり、いやあ、こういう描き方のうまさよ!となりますよね。。

 

そうした視線の関係...といっても、その関係性は画面内でダイレクトに描かれきるというより、画面と画面の間で想像的に補完されるものであり、その手付きの繊細さが映画を複雑にしています。
ほかにも、サブキャラクターであるボルダリング部の先輩が、やたら1年生の事情に明るかったり(ふたりの先輩もじつにすばらしいキャラクターです)、近藤の腐れ縁的友人と、じつに微妙な関係の調停を行うシーンは、これぞ吉田節!(原作にあったらすみませんが...)とうならされますし、しばしば障害物をひょいと飛び越える小寺のアクション(担任がベランダに佇む小寺を呼びつけ、また小寺がベランダに戻るとき、2回も窓を飛び越えるのだけど、ここがすばらしい)の華やかさなどなど、豊かな細部がフィクションの強度を支えています。

 

 

また、これはいわゆるネタバレというやつですが、クライマックスでそれぞれが、小寺の応援を介して自分の欲望と向き合えたかに見えた直後、田崎と倉田の自己実現が、必ずしもスムーズに行くわけではなく、他人の視線と折り合いをつけていく行く先が代表的に描かれていることに、ふかく納得させられもします。安易な結論へ先走ることのなかった物語は、最後までその微妙さを手放そうとしません。それだけに、小寺と近藤が交わすベンチのシーンの緊張感(極端な被写界深度の浅さに背景は金色に歪んで、いっそ異世界でのやり取りにすら見える)を、われわれはどのようにして受け取るべきか、実はそれほど簡単なように思えなかったことが、なによりも、『のぼる小寺さん』を見逃せない作品足らしめている気がします。

 

 

いやはや、書いてると整理が追いつかなくて、映画を見る体力が落ちてることに嫌でも気付かされるし、まあそんなことより、もう一回くらい観たいなあとなってきますね。
ともあれ、ふだんなら怠惰から見逃してしまっただろう作品へ出会うきっかけをくれた「推し」と、その「推し」の「推し」である工藤遥さんへ、ささやかに感謝します。