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8月3日の雑談

先ほどこのようなニュースを。

<訃報>出口裕弘さん86歳=作家、元一橋大教授


澁澤龍彦の盟友。ボードレールシオラン、レリス、ロートレアモンバタイユと、その著作に翻訳を通じて教えられた作家は数知れません。遺著は安吾についてのものでしょうか。辰野隆の評伝なども面白く読んだことを思い出します。

奇しくも澁澤龍彦の命日と遠からぬ日付。種村季弘も松山俊太郎も金子國義まで鬼籍に入って、もちろん生前の知己を得た方など一人もいるはずが無いですが、わたしの濃密な読書体験を築いた人たちがぞろぞろとこの世を去っていくのは、なにか遠い世界に置いて行かれたような気すらしてきます。

ご冥福をお祈りします。


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昨年読んで、それから一気にファンになってしまった志村貴子さんの『放浪息子』を読み返しました。

どんな話か、この作品を知らない向きに簡単に言いますと、少年少女たちの青春を描いた作品と、ひとまずはいえるでしょう。とはいえ、部活に精を出すわけでも、爽快な権力争いの殴り合いに興じたり、日々の退屈さにダレたりするわけでもなく、ひたすら揺れ動く欲望の葛藤に身を投じるさまを、誠実に描き抜きます。

性自認について、異性装について、同性/異性愛について、美醜について、卑屈さ、ナイーヴさ、攻撃性、そんな子供たちの煩悶と大胆な踏切を、刺すような切実さをもって描写します。とはいえ、流麗な描線(とりわけそのほつれた髪の美しさ!)や愛らしいキャラクターの成長は、あらゆるジャンル的な消費や紋切り型を回避して紛れも無い「志村貴子」の刻印を押しています。


一般に、志村貴子さんの登場人物が抱く欲望は、つねに具体的です。なにより、愛する人への肉体的な欲求を隠しません。今ここでそれが何故なのか考える余裕がありませんが、「さわりたい」と思うその欲望は、性行為へと差し向けられるよりも、よりずっと強い欲望の形に感じます。それは、性行為という形式を相互了解のもと消化する術をまだ知らない子供だからこその特権かもしれません。欲望をどのような形へ落としこむかまだ知らない者たちの、それが故のスリリングさ。


自身の欲望を知ることは –––それが性的なトピックに限った話でないのは当然として––– ひどく重要な事柄に思います。
わたしは何をしたいのか、どのように望むのか、この運用が、欲望に生かされることが、いつも必要とされているでしょう。
ちょうど今日読み終えた『買い物難民を救え!』という本もまた、欲望のデザインについての本であった気がします。