20191201 第2回 せんだいキッズジャグリングフェスティバルがおわりまして ※12/7写真追加


『第2回 せんだいキッズジャグリングフェスティバル』がおわりました!

 

昨年に続いて2回目、しかし後ろ盾のない完全な自主企画としての2回目は、想像以上に困難であったものの、どうにかやり通すことができました。

 

裏話を話しだしたら際限のないことなので、まずは将監けやきっこ放課後教室の職員、父兄の方々、なにより子供たちに助けられました。そもそも、今年は子供たち自身に継続の意思を確認しての出発でした。私の転居、事業予算など、本当に出来るのか最初はかなり不安がありました。くわえて、新しい挑戦に対する練習期間の短さ...これが可能だったのも彼ら彼女らが「やる」と口にしたからこそです。美化しても仕方ないので正直に言いますが、けっして常に勤勉な練習態度だったとは言えない(笑)ものの、ジャグリングの技術力だけでなく、意図するものの理解力に、飛躍的な成長を見せてくれたのでした。本番後の、出来への少し不満げな顔にも、それを感じ取ります。

 

ひとつレファレンスを。三部構成になっていた子供たちの発表の第一部では・・・・・・・・・「サイン」のPD版インストの一部を使用しました。四つ打ちに合わせてディアボロをトスし、シンプルながら様々なかたち・リズムを刻むというだしもの。こうしたパフォーマンスを子供に行ってもらうとき、ともすれば軍隊式のキビキビと規範的にすぎる身体運動がむしろいやらしくあるのですが、楽曲の快楽的で爽やかなサウンドが、それらを避けることに大きく作用したと思っています。ちなみに、ひとりは気に入って家で繰り返し聴いていたようです。都市の幽霊よ永遠に飛び交い続けろと言った塩梅に、世代も場所も超えたささやかな誤配を促した次第です。

 

dots.tokyo

 

 

ゲストの山村佑理さんは、2013,2014年のホゴノエキスポ以来。浅からぬご縁を頼りにまたお力添えどころかイベントの背骨を通してくれた、というほどにご活躍いただきました。WSは参加せず近くで見ていた方々にすらご好評いただいておりました。彼のジャグリングがまたこうして近くで見られること、それを多くの方と分かち合う場ができたことを嬉しく思っています。それにしても、フロアで遊んでたクラブがめっちゃうまかったな。

 

 

個人的に、今年は悔しい思いをする物事が少なからずあり、このフェスティバルにしても反省事はつきませんが、2年続けられてよかったなと思うばかりです。そして各所へ直にチラシを配り話してくれたホゴノプロフィス代表の本郷、そしてタゴマル企画で一緒に動いてくれているぼたもち堂くんがいなくては、まったく成立しません。さらに、子供たちに「手本」となる動画撮影を行ってくれた石橋くん、翔くん、谷くん、水戸さん、当日のWS講師を請け負ってくれた長瀬さん、竹林さん、協賛していただいたジャグリングショップナランハ、RADFACTOR各位のご厚意に改めて感謝致します。

 

また来年お会いしましょう!

 

 

 



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そう、来年もやるぞ! きっと!!

 

 

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撮影:本郷仁一
 

 

 

 

 

 

 

 

 

このまま終わればそれらしいのですが、つとめてそれらしくしたくないし、昨日の晩にへとへとなまま聴いたこちらについてだけ。

 

 

www.bureaukikuchishop.net

 

なんということか!酒も入りくわえて夜行明けの疲れたはずの体が、2時半まで繰り返し聴いてしまうほどの素晴らしさ。拝み倒したいほど愛すべきアルバムであり、また、こんな作品が作られてしまっていることに、身を焦がすほどの嫉妬の炎に苛まれる。今年ベストどころか、生涯のフェイヴァリット・アルバムになりかねません。音楽なんて皆さんが考えるよりずーっと簡単じゃないっスカ〜と嘯くODさんの言葉には、ありふれた物言いを超えた爽快さすら感じます。いや〜ちょっとこれはすごいじゃないっスカ!!

 

20191108 『青野文昭 ものの, ねむり, 越路山, こえ』

仙台滞在中の時間を使って『青野文昭 ものの, ねむり, 越路山, こえ』をせんだいメディアテークで観てきました。

 

www.smt.jp

 

結論的に言うと、近年こんなに感動させられた展覧会もなく、あわや落涙せんばかりのインパクトです。現代美術に昏い私でも、あるいはまたそんな者にこそ訴えかける展覧会かもしれません。

 

青野文昭さんは「修復」をモチーフに作品を制作する作家です。打ち捨てられていたモノをなおし、また拡大解釈的に延長してしまう、そこはかとなくユーモラスでもある作品群が特徴です。

 

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写真はすべて11/6の展覧会にて撮影

 

こうした作品の主題は現在まで一貫しつつも、3.11後を大きな境目として、修復される器物に人型が浮かび上がるようになったといいます。*1

 

今回の作品群でも、場内でひときわ目につくのは、箪笥や車が融解するように接合するオブジェと、そこに浮かび上がる人の姿や衣服たちです。

 

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こうした「人」の影はどこか幽霊めいており、一方で器物たちも互いを補い合いながら勝手に動き出しそうな、付喪神よろしく妖怪のような雰囲気を醸しています。よく見れば車は地を離れ、樹木は中空から根を伸ばし、私たちとは重力圏を別にした、この世ならぬどこかで浮遊しているような、奇妙な感覚を与えます。
しかしながら、それらが不気味でなく、むしろ笑ってしまうような間抜けさを大いにはらんでいるのが、心地よくあります。(上の写真の首輪に繋がれた犬=碁盤!)

 

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今回の展覧会では写真撮影がOKとのことで、こうしてiPhoneでパシャパシャ撮っていたりしたのですが、どうにもしっくりきませんでした。
というのも、会場にある作品群は、大きいもので車や船、あるいは箪笥といった人体と同等かそれ以上のスケールをもったオブジェですから、実は写真で捉えるようなフレーミングとはまったく違った形でのフレームが与えられます。
たとえばすぐ上の写真の場所で私は、開かれた引き出しに入っている一葉の白黒写真–––結婚式の写真–––に目を引かれ、やがて右手の箪笥に直接穿たれた穴が目になるへのへのもへじ、さらに祭り半纏を纏ったのっぺらぼうへと、段階的に、徐々にカメラが引くようにしてフレームが生起したのでした。

 

多段階のフレーミングは、会場を回遊している間、様々な水準で生じます。ひとつところに目を奪われて注視しようとすると、足元に人の足(!)が生えていたり、それに促されて視線を上げると実際の自転車の前輪があり、導かれるように運転手の方へ目をやると、消え入りそうな輪郭線が箪笥の地と融解し、全体を眺めようとすれば、さっき歩いてきたエリアにある遠景のオブジェ群が、また違ったスケールを与えたり...こうした運動は、ほとんど無限に思われるリズムで観客の身体を異なる世界へ攫っていきます。更には、そうした即物的な運動感だけでなく、顔のない(目鼻が描かれていない/頭部がない)人々という匿名的な「人」と、先ほどのような写真を介しての記名的な「人」とが混在することで、実在・想像の境界を乱してしまうことにも気付かされます。

 

 

展覧会の白眉とも言える八木山にちなんだエリアでは、青野さん自身の経験と記憶を参照しつつ、古代から3.11以降の時間までを、恐ろしい密度で圧縮します。動物園のトイレで出くわした少女や金魚の死、動物たち、脱走した動物たち、青野さんの部屋、そして部屋にあった怪獣の人形、祖先、鯨、蛇、蛇取りのおじさん、ダイダラボッチ...こうして書き並べると、たとえばコーネルのような私秘的でミクロコスモス的なオブジェを想起しかねませんが、先程言ったような身体と同等・それ以上の物量は、強く見るものを巻き込んで数千万年のタイムスケールに誘うのです。また、このエリアを構成する、やはり箪笥たちが、生活に根ざした器物であるのも、純化しきれない、言いしれないものを与えていることでしょう。更に付け加えるなら、青野さん自身の記憶を参照しつつも、青野さんがイメージを統合する主体ではなく、あくまでも八木山という霊的な磁場に絡め取られるひとつのファクターでしかない、という手触りを、決して忘れてはいけない気がしています。

 

そしてこのエリアを抜けた最後に現れる光景に、思わず胸を打たれてしまったのですが、こればかりはぜひ実際にご覧いただきたいものです。

 

  

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それにしても、この会場には犬たち(をはじめとする動物たち)が沢山いて、最後の最後まで犬が傍らにいます。私が大の犬好きだということを差し引いても、魑魅魍魎や幽霊たちが跋扈する会場にひときわの温かみを与えてくれているのが彼らでしょう。記憶と歴史の片隅で、名もなき人/モノたちを慰撫するようにして、ただ存在してくれた獣たちの魂の慰霊の場としても、少し特別な感情を呼び起こされたかもしれません。

*1:書本&cafe magellan店主高熊さんとの会話より

20191016 第2回 せんだいキッズジャグリングフェスティバルを開催

どうにもタスクが増えすぎたのと夏バテなんてものにやられていたらしく、先月末から月初めにかけ、休めども慢性的な疲労感抜けず、ケアレスミスも頻発の、あらこれはまずいぞというシグナルがビシバシと発せられていて、2日ほど「全く何もしない」という古典的な療法で平常のリズムに復帰しました。ところで、巨大台風です。加えて週末に悪天候が続いて、仕事にならずの、噛み合わず。もうひたすらBABYMETALの3rdアルバム『METAL GALAXY』(2019年のアイドル音楽における屈指の傑作にして、1stと2ndの弁証法的関係を止揚した、感動的かつ、実に実に真摯な葛藤と飄々たる馬鹿らしさを内包する2枚組アルバムです)を聴き続けるくらいしかありません。

 

そんな状況ですが、いよいよとリリースしました『第2回 せんだいキッズジャグリングフェスティバル』開催します。

 

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ジャグリング体験を軸に、昨年に続いて将監けやきっこ放課後教室の子供たちと、私と南部大地のユニット"マヤマ"と、盛岡からはゲストに山村佑理さんをお招きしてのスペシャルパフォーマンスもあります。よろしくですよ。

 

ゆーり君、と急に親しげに呼びかけてしまう不躾を許していただくとして、彼はおよそジャグリングというものにマジメに付き合っている人なら、その考えの深さと実践におののきつつ、あまりにもできた人柄に卑屈になったりしながらも目をそらすことはできない人物でして、端的に必見なのですが、先だってはヘブンアーティスト試験にも合格し、ますます活動範囲が広がっていくことで、世の「ジャグリング」に対するイメージは滲むようにして彼の「ジャグリング」に塗り替わりゆくことでしょう。私にしてから、彼の影響は免れません。だからこそ、子供たちが集まる場でゆーり君にパフォーマンスしてほしいのです。わかる/わからないの前に、いや後に、実のところゆーり君の生成するジャグリングのリズム/線に身体をハッキングされていることに、いつか気づく。気づかなくとも、それはすでに行われている...

 

くわえて、将監小学校の子供たちにまた私が振付を行っています。今年は私が転居したこと・基金事業から独立した予算体系のもと行っていることの2点から、皆きつきつの予定でうんうんと呻りながら稽古を...いや、のんきにボール遊びとかしてる。。
というのは冗談。今年は今年で新チャレンジを折り込みながら進んでいます。補われつつ苦手分野に挑んだり、得意分野を活かしたりの、紛れもない共同制作です。

 

マヤマも、こっちは全く想定外に、部分的ではあるが、わりと新しい領域に突っ込まざるを得ないことがわかり、急加速的に制作を進めています。てなわけで、てんやわんやですよ。

 

 

 

 

 

東京国際映画祭で一足先に公開される『フォードvsフェラーリ』が当面の楽しみです。'10年代以降で最もお気に入りのひとつで大大大好きな『ナイト・アンド・デイ』のジェームズ・マンゴールド監督ですから、これはきっと、という期待が高まるというもの。

www.youtube.com

 

20190915 「asthma」について、だけ

Odyssey - Single

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  • ¥600

music.apple.com

 

今回は「asthma」の話しかしません。なぜか。「asthma」がどうしようもなくいい曲だからです。なぜどうしようもなくいい曲の話をするのか。どうしようもなくいい曲の話をすると気分がいいからです。

 

沿革を端的に。

 

「asthma」はBELLRING少女ハートが2015年に発表した、 空五倍子作詞・タニヤマヒロアキ作編曲による、アイドル史に刻まれた大大大名曲です。その評価の正当性については、多くのオタクたちが同意してくれることを信じて書いていますが、エヴィデンスはともかくとして、オタク語り的な文脈において、すなわち評価語彙のインフレとしてひとまず受け取ってください。特に意味はない。マジ卍、みたいなやつです。批評が書きたいわけじゃないから。

 

「asthma」を知らない人がいたら、お手元のデジタルデバイスで、Youtubeを開いて検索してみてください。おそらくこの動画が現れる。

 

youtu.be

 

歌の下手さは聞くに耐えないでしょうか。暴れまわる観客は見るに耐えないでしょうか。ひとまずどちらでもいい。少なくとも私は、初見で聞くに耐えないと思いました。それが何故こうして、暇つぶしとはいえ、ひとつの記事を書くに至ったのか。

 

 

「asthma」は録音時期の差によって、いくつかのバージョンを持ちますが、私が一番聴いたのはこちらです。

 

soundcloud.com

 

ここで何度か書いていますが、ベルハーは未体験なので、後追いで最も手に入りやすかった音源がこれ、というだけでした。このベスト盤では、ほかの曲を先に気に入って聴いていて、「asthma」としっかり出会うのはもう少しあとです。といっても、なにか決定的なイベントがあったわけではなく、何回か繰り返しているうちに、そして実際にライヴで聴くようになって、徐々に特別な曲になっていったのです。だが、少なくとも気にかかるファースト・ステップはあった。それは、メロディやフロアの盛り上がりではなく、歌詞です。すべてを引用してしまいたい誘惑に駆られますが、サビだけ抜き出します。


 

だから、ぼくらは命からがらで

すがるように出会うのさ

夜空の星は灼熱で溶ける

だから、ぼくらは喉もからからで

叫ぶように笑うのさ

さみしげな雲を振り払うために

 

 

そのとき青春が二人を捉えた––––とは、やはり私が最も好きな詩人にして小説家のマルセル・シュウォッブ「大地炎上」の一節ですが、この短編、あるいは散文詩と言っていい10ページ足らずの掌編は、世界の終わりに残されたふたりの少年少女が、終末の迫るその瞬間まで逃げ、最後に愛を交わす約束をだけして終わる、ただただ刹那的な美しさを結晶したような作品ですが、やはり「asthma」にもまた、というか、「asthma」を聴くとき、私はひとり「大地炎上」の美しさを重ねて透かすようにしてしまうことを避けられません。

 


ここで歌われている、とにかく高みへと目指す運動の切迫感は、ついに夜空の星々を溶かしてしまうような熱情であり、いささか「セカイ系」めいた短絡がなくもないのですけれども、自意識のもつれを解消するよりも、なにかもっと即物的な煌めきに着地します。驚くべき最後のセンテンス、すなわち

 

だから、ぼくらの喉はからからで

汗に濡れた君の頬が

果実のように輝いて好きさ

 

からからになるほど叫び走り続けたぼくらは、だから、となにかを言いかけて、ふと彼/彼女の横顔の汗に目を奪われます。ひたすら外へ、高みへと目指された運動が、息を整えるかのようにして、他者の身体への視線として留まること。いっそ闇雲な、あてのない気持ちや高ぶりが、他者への愛を自覚することで結ばれていること。なんとロマンティックなのでしょう。私は、これほど青春が持て余したエネルギーについて乱暴さを隠さない音楽を聞いたことがないし、これほど青春を美しいものとして表現した歌詞を、ほとんど知りません。繰り返しますが、これは批評でもなんでもない。ただただ、私がこの曲を愛してやまない、ということを熱のまま書いているに過ぎないのです。そうすることを許してくれる音楽だと思いこんでいる、という話です。

 

 

そんな特別さを纏った「asthma」は、ベルハーの崩壊後、後継グループのゼアゼアことTHERE THERE THERESに引き継がれましたが、ゼアゼアもまた今年2月末に解散。「asthma」は封印されたかに思われました、が、やはりゼアゼアの後継的グループNILKLYによって、この度リアレンジを施され、シングルリリースに収録されたのです。

 

 いやあ...よりによって「asthma」を再編曲して、ちょっと考えてもグループの現在の方向性と沿っているように思えないこの曲を、わざわざデビューシングルに入れるなんて...と考えていた私は、とにかく愚かでした。常に愚かであることを自認しつつも、「asthma Nil Version」はそんな自覚を大きく上回る愚かさだと教えてくれました。とにかく素晴らしかった。感動したと言っていい。


一応もう一回リンクを貼っておこうか。聴いてみよう、そして比べてみよう。わからない人は、それでいい。なぜなら私は説得したいわけでも、わかって欲しいわけでもない。ただただ、話を聞いてほしいだけだからだ。

 

Odyssey - Single

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オープニング、ストリングスが響いた瞬間、すべての疑念がすっ飛び、リアレンジャーにして作曲者のタニヤマさんが、そして作詞者にしてディレクターの空五倍子=田中さんが、いかにして「asthma」を届け直すか、結論として「asthma」が持っている輝かしさを失わせないままに届け直すことを選択した、作家的判断の総合が、もうバチバチに、ほとんど電波的な勢いを持って侵入してきてしまい、うっかりして泣いてしまうほどです。原バージョンのティンパニのようなパーカッションがダラララと鳴り響き、加わるピアノが速さを増していくイントロは、どこか重力や重み自体から解き放たれようとして駆け出していく力強さを感じさせる。スッタッタ、スッタッタとドラムがはっきりと刻むビートは、確かに地を踏んでいる。しかしNil Versionはイントロからして彼ら/彼女らを言祝ぐようにして軽やか、そして、息を切って走り抜けた原バージョンと完全に違った、実に贅沢でエレガントなブレイクまであるのです。「トランジスタラジオから溢れる ラブソング 空へ」と同じく歌っていても、Nil Versionでは、自分がその高みに駆け上がろうとするより先に、なにか達観的に空へと見送るようなニュアンスとして聞こえます。それらをどんな変化として見るのか、また具体的な音楽的な知見を持って判断するのか、手の及ばない無知の恥を忍ぶしかありませんが、美しくあろうとすることに何一つ衒いのない姿勢をだけ、何より私に必要なこととして受け取れれば十分すぎるのです。

 


あまりにも素晴らしい「asthma」を作り直すという、ただただ驚くしかない作業を終えたタニヤマさんと田中さん、そしてNILKLYのメンバーに...お疲れ様などというのも似合わない。もう最高に好きだよ!

 

 

あ、いっこだけ「asthma」以外の話をします。

「Odyssey」も「REM」も、ほんとーーーーーーに最高!好きだよ、あなたたちの音楽が!

 

 


ご清聴、ありがとうございました。

20190911 Maison book girl 「yume」

発売当時に書いていたんだけど、公開に至らなかったのを、今更見つけた。
今年はざっくりでもなんでも形にしていくことが決め事なので、この際公開しちまおう。語尾など細かいところ以外はほぼリライトしてません。アルバムリリース以降、大きいワンマンも4本を重ね、シングルも2枚増やし、色々と状況に差もありますが。いや改めて、サイクルが早いな...

と、実は先日の記事よりも前からキーボードを叩きながらもまとまらない文章を公開させるための弾みにしようって魂胆...まあ勿論そんな大したもんじゃないんすけどね。 

 

 

 

ニューエイジ・ポップ・ユニット」を標榜する四人組グループ"ブクガ"ことMaison book girlのメジャー2ndアルバムがリリースされました。

 

www.maisonbookgirl.com

 

昨夜サブスクリプションで聴いたので、各クレジットや歌詞など曖昧なまま書いていますが、予想通りに予想を裏切られるアルバムになっていました。加えて、プロデューサーにして作詞・作曲のサクライケンタの作家性の総決算的な作品になっているようです。

 少し個人的な話をすると、このグループは音楽的な趣味やステージの魅力もさることながら、我が"推し"こと矢川葵さんが所属されているので、どちらかというと、メンバーへの思い入れがあったりする、のですが、このアルバムを聴くと、どうしてもサクライさんという一人の作家に思いを馳せることになりました。むろん、個別の楽曲での歌い方に新味があって(「影の電車」のファルセットとか)そういう部分もよいのですが。

 

ちょっとアルバムの曲目を確認します。

 

  • 01. fMRI_TEST#2
    02. 言選り_
    03. SIX
    04. 狭い物語
    05. MOVE
    06. ボーイミーツガール
    07. PAST
    08. rooms_
    09. MORE PAST
    10. 十六歳_
    11. NIGHTMARE
    12. 影の電車
    13. fMRI_TEST#3
    14. 夢
    15. ELUDE
    16. レインコートと首の無い鳥
    17. YUME
    18. おかえりさよなら
    19. GOOD NIGHT
    20. 不思議な風船
    21. fMRI_TEST#1

 

全21曲。曲名の末尾にアンダーバーのあるものが前レーベル在籍時に発表された楽曲(微妙にアレンジを施されている)だったり、その名の通りMRIの音が響く「fMRI_TEST」の#1~3と大文字のアルファベットのタイトルがインスト曲となっています。一曲ごとにインストが挿入され、歌の入っている楽曲がサンドイッチされている構成です。
例外的に、20曲目の「不思議な風船」はメンバー、コショージメグミ作詞のポエトリーリーディング。そして9曲目の「MORE PAST」は1stアルバムに収録されている「my cut」を、メンバーがアコースティックアレンジで歌う声に、レコードのノイズのような音が重なっている曲になっています。

 

インスト曲は、ピアノなどの楽器音だけでなく、サクライ作品に頻出するドアのノックや足音といった現実音の利用により、聴くもののイメージを膨らませつつ、映画を見るように作品世界へ没入していくような経験を与えます。実際映画好きらしいサクライさんなので、レオス・カラックス「ボーイミーツガール」とホセ・ルイス・ゲリン「影の電車(列車)」と、映画作品が楽曲のタイトルに引用されているよう(まさか「夢」は黒澤明ではないでしょうけど)でもあり、いずれにせよ表層的にポップ・ミュージックを消費するにとどまらない、深層的な経験を与えようという狙いが見えてきます。


そして映画というと、先日発表された「おかえりさよなら」のMVを想起させます。

 


Maison book girl / おかえりさよなら / MV

 

患者服のような白い衣装をまとったメンバーたちは、素足で街を歩き、映画館のような場所で、過去の自分たちのMVが粗く投影されるスクリーンを見つめ涙を流します(これもゴダール女と男のいる舗道」あるいはキューブリック時計じかけのオレンジ」のような映画史的記憶を喚起させる)。そして、ベッドに呼吸器をつけて横たわるメンバーのイメージ。 MV内の光景は、もしかするとこの昏睡した女性が見る無意識的なイメージ=夢なのではないか、という解釈が成り立つようにみえます。

 

MVでは無意識=夢が映画という表象を通じて過去に連絡されるのですが–––いかにも謎めいたこのMVがどういう意図なのか、そこには深入りしません。私が気にかかるとすれば、そもそもサクライケンタにとって無意識とは、夢とは、過去とは何なのか。単に審美的な嗜好なのか、作家としてのエレメントの価値です。この記事はそれに答えきれるものではありません。ただ、アルバムを聴くと、昨年発表された「言選り」という作品の重要さが際立ってきます。

 


Maison book girl / 言選り / MV

 

「言選り」は"AIとの共作"をキャッチコピーのようにして制作された楽曲です。具体的には、AIへサクライケンタが過去に作った詩を入力し、それをランダムに別なセンテンスとして吐き出したものを、またサクライさんが再構成するという方法でした。カットアップ的に、ランダムな言葉を再構成する技法自体は、特段珍しいものではありません。

 

サクライさんの詩作には、聞けばそれとすぐに分かる、いくつかの特徴的なモチーフや言葉遣いが複数の作品で反復されるパターンを持っています。"煙"や"ベッド"に"部屋"...このモチーフが、ある種の幻想的な趣を持っていました。謎めいていて、サクライさんのヴィジョンのような詩が、"Maison book girlの世界"を特徴づけてもいます。


しかし「言選り」においては、AIがサクライさんのモチーフはそのままに、"詩"として文脈付けられていた言葉のユニットを無作為かつランダムに吐き出すとき、かわらず謎めいたイメージを表しているかに見えて、文脈を持たない無意味なひとつのパターンへと変形させてしまいます。これを有意なものにするべく、再度言葉を"詩"へと組み直すことが「言選り」におけるサクライケンタの創作でした。ひとり孤独にヴィジョンを紡ぎあげるのではなく、すでに何度も見たヴィジョンを、他者を介して別の物語へと編集すること。

 

この作品でサクライさんは、自身のモチーフや反復するパターンを"詩"にする"私"を、AIという他者を介し、またそれを編集することで出会い直し、乗り越えようとした、とみることはできないでしょうか。"詩"として結晶する様々なモチーフは、サクライさんの審美的な趣味でありつつ、その美的な経験を支える無意識=夢の層に食い込んでいるでしょう。これはあくまでも仮の足場としての結論ですが、サクライケンタにおける夢や無意識、そして過去とは、乗り越えられるべき自分自身という限界についてのことでもないでしょうか。少なくとも「yume」という作品においては。

 

「言選り」が実質的な一曲目としてアルバムに配置されていることは、単なる偶然でないとします。その仮定の範囲内で、私には、アルバム「yume」がサクライさん自身の夢=無意識と出会い直す、つまりサクライケンタが"サクライケンタ"と対峙する物語のようなものにすら見えてきます。なぜなら、「言選り」のような出会い直しの物語が、アルバムに収められた楽曲にも起きているからです。私が「yume」をサクライケンタの作家性の総決算的作品と言ったのは、このような意味合いにおいてです。

  

今は全体に渡って細かい検証をしている時間がありませんが、一部分だけ見てみましょう。たとえば「PAST」がドアのノック音とともに「rooms_(部屋)」に繋がるとき、そのノックは"この部屋"のドアをノックする音と解釈できます。「rooms」とは一体どこの部屋なのか、何を歌っているのか、明確にはわかりません。しかしノックされた"この部屋"であると、構成的に位置づけられることで、とらえどころのない幻想へ輪郭が与えられます。この輪郭線をたどれば、サクライさんの詩が別の響きを持ち始めます。続く、アルバムで最も重要と思われる「MORE PAST」は過去作「my cut」を再利用することで、ベタに楽曲を享受することから距離を開きます。楽曲中盤、「なぜか15年前の」と歌われると、ノイズが重なりだし、その音像が徐々に前景化し「my cut」はあたかも過去として埋もれて消えていくようです。そして「十六歳_」へと連続すると、15/16という数字が互いを照らし合いつつ、"過去"という物語を露わにする。"きっと戻れない日々眺めてた"。
それぞれ全く別の時期に創作された作品が、意味/文脈を再構成することによって関係しあい、別の意味/文脈を生み出します。それらは、各部としてはサクライさん自身が無意識的に反復的するパターン=夢=症状でありながら、文脈の変化によって、違う別のパターンへと編み直されるのです。「言選り」で吐き出された言葉が、紛れもなくサクライさん自身の言葉/モチーフでありながら、別の詩になってしまうように。

 

もし「yume」が優れたアルバムであるとするなら、作家の反復的で自家中毒的なパターンを乗り越えようとする格闘の跡の生々しさに根拠のひとつがある、と言えないでしょうか。何より、このような自己の乗り越えが、新しい世界を開くことへ繋がっていくだろうことに、ファンは期待します。作家として作品そのものを、そして、プロデューサーとして、Maison book girlをまだ見ぬ誰かへと開いていくことに。

20190904 「テン年代アイドル論」、またはオタクであることについて

※ scaletさんにまさかの課金(月日さんとのチェキ代)ができるようになったそうです。これが都市計画の裏切りというやつか...
※ タイトル誤記を修正

 

5月の上旬、夜の渋谷のバスターミナルで、その後「推し」になるアイドルと初接触のチェキ(複数枚)を見せながら構想を語ってくれた文章がついに。

 

 

note.mu

 

しかしまあ、ひとりのアイドルがひとりのオタクの「推し」へと生成変化していく時間を共にした文章だと思うと、実に貴重でひとしお興味深い「オタ芸」といえるでしょう...

 

などという冗談はともかく、このscarletさんによる現代アイドル史では、東浩紀-宇野常寛-濱野智史-黒瀬陽平に代表される思想/批評の潮流が、AKB48-BiS-PIPと重なり合い、・・・・・・・・・によってその重なり合いがほとんど一つのものになるさまが描き出されます。見通しはきわめてクリア。我々はアイドルという正体不明の文化について、一望するツールを手に入れたかのようです。

 

もちろん、一望といっても、それは一つの視点からによるものです。つまるところ、その道具を使って何を見、フォーカスするかは道具の使用者に委ねられている。同じ望遠鏡を使っても、それぞれはまったく違ったものを見るでしょう。すなわち、これを読んでから・・・・・・・・・のオタクになることも、あずまんフォロワーになることも、はたまたアイドルプロデューサーになることも、すべてが可能です。では、私はどうするのか。私はアイドルと同じくらい、オタクとは何か、について考えてみたい。とりわけ濱野智史を通じて。

 

 

 ところで、文中に触れられているアイドルで私が全く知らないのはPIPのみです。プロデューサーの濱野が批評家で、・・・・・・・・・運営陣がこのグループのヲタクで、所属アイドルだった萌花さんがscarletさんの今の推し...ともかく、かなり限られた情報しかもっておらず、論考を通して最も勉強になったことのひとつです。

 

実のところ濱野の『前田敦子はキリストを超えた』も未読で、私の知るものは、ほぼ完全に「テン年代〜」に依存します。そのうえで。

 

 

テン年代〜」で冒頭から確かめられるように、アイドルにとってのゼロ年代AKB48の時代であり、今までの「アイドル」の前提を「会いに行ける」というコンセプトでもって覆し、現代的な「アイドル」のありようを一変させてしまいました。狭義のアイドル史的には、ファンとの直接的なコミニュケーションを含んだ文化のあり方の定着、また様々なグループの乱立によるマイナールールの改変を凄まじいサイクルで回転させるようになりました。そのことで前者は運営の収益化を容易にし、後者は表現の幅をかつてとは別の仕方で拡張していった、といえます。

広義に見れば、ファンサイドの受容の仕方も変え、かつてとは違った層に、ひとつの文化としてリーチし得るようになったのです。それが先述の濱野に代表される、批評/思想家などの知識人へのアピールなども、現象の一部に含まれます。彼らにとってアイドルは単なる消費物を超えて、彼らの批評的/思想的関心と響き合うものとして、知的な関心をも満たす対象なのです。それが具体的にはどういうことなのかは、直接論考に当たっていただくとして、先に進みます。問題は、濱野が自らの思想的関心の延長線上で、実践として「PIP(Platonics Idol Platform)」なるアイドルグループを発足させ、運営してみせたことです。

 

事実として運営の結果を先取るならば、PIPは失敗に終わりました。野心的なコンセプトにも関わらず、彼自身の思想を原因として内破したとscarletさんは指摘します。そもそも、濱野の関心は、「アーキテクチャ」としてのアイドルでした。ある構造・システムを介して、社会に影響を及ぼすこと。身近な例で言えば、大きなデモを組織し、実際の革命を可能にしたSNSなどが、そうした「アーキテクチャ」です。

 

しかしながら、アイドルは「アーキテクチャ」を含みながらも、「アーキテクチャ」そのものではありません。いくらAKBのファンがCDを大量に買い、それが別な公共性へと差し出されるとしても、そこには他ならない人間(!)としてのアイドルが存在し、音楽や映画に代表されるあまたの「アイドルによるコンテンツ」の質が不可欠なのでした。濱野の革命は、この革命可能性としての「アーキテクチャ」を愛しつつも、革命するところの人間たちのマネジメントを、いささか顧みなさすぎたことに失敗の一つの原因があったとされるのです。

 

ここでscarletさんは黒瀬陽平の「運営の思想」と「制作の思想」という概念を導入し、濱野的な「アーキテクチャ」への過度な期待が、他者という偶然性を奪い、そして更に、そんな偶然性を招き入れる思想そのものもまた、「運営の思想」に回収されかねない危険性について触れます。そこで・・・・・・・・・が、「制作の思想」を可能にする、またあるいは希望を感じさせるシステムとして、「都市の幽霊」としてアイドル史に現れるさまを書いていくのですが...

 

私は、ここで主に語られる、・・・・・・・・・の思想的な水準にも増して、"現場"での・ちゃんの有り様が、いや、具体的には"現場"のヲタクについて滑り気味に進む筆の荒ぶりに、まず目を引かれます。長くなるが、引用しましょう。

 

いくら曲中で「おーれーの○○ちゃん」と叫んだところで、自分の推しが自分だけの推しではないことを、オタクは嫌というほど知っている。そんなことは百も承知で、それゆえにこそオタクは「おーれーの○○ちゃん」と叫び続ける。しかしこれは別にオタクの自己卑下なんかではない。むしろこれはアイドルとオタクの関係の美点だろう。結婚という「ふつう」のゴールが想定されている異性愛規範のもとでの関係性とは異なって、アイドルとオタクの関係にゴールはない。こうした「遠さ」にオタクは時として苦しみながらも、どこかでそれをたまらなく愛してもいるはずだ。やろうとすればどこまでも、いつまででも、際限なく「つながる」ことができるこの時代に、一分もあるかないかの限られた時間で必死に思いを伝えようとするオタクの姿は、どこか美しいとさえおもえてしまう(いや、さすがにこれは美化しすぎたか…)。 

 

ここではいわば、オタクとは尋常な性愛関係によって収支を釣り合わせるような計算を度外視し、目の前にいながらも遠い「アイドル」へ向けてめいっぱいエネルギーを浪費する、無償の愛とでも言うべき戯れに興じる存在として祝福されています。


だが、同時にこうも書かれています。

 

ところで、アイドルとの出会いはいつも偶然だ。どんなに強い気持ちで推すことになるにせよ、最初のきっかけは偶然的なものでしかない。それに、数多いるアイドルたちのなかで、「この」アイドルでなければならない必然性など、初めのうちはない。それでもオタクは、事後的に、過去を再構成しながら、推しとの出会いを必然に、運命にしてしまう。 

 

オタクにあって偶然は、偶然が偶然のままであることを望まず、それがたとえ"お約束"としての遊びであるとは言え、しばしばそれを運命として、こう叫ばずにはいられません。

 

「やっと見つけたお姫様!」

 

 

 

話を少しばかり巻き戻します。

 

私は先に、AKB48の存在が、多くのアイドルを生み出し、マイナールールの改変を盛んにしたと書きました。このマイナールールというのは、先行する「アイドル」のイメージを裏切りつつ、その裏切り自体が「アイドル」の新規性と面白さを担保するような形になる、基礎的なコンセプトのあり方についてです。主にそれは、"アイドルらしからぬ"音楽ジャンルとの接合によってマナー化していったのですが、この流れにとって最も大きな一手を放ったグループが、文中にも触れられているBiSです。このグループが書き換えたルールは、実に数多くありますが、中心的メンバープー・ルイが言ったこの言葉にこそ、現在のアイドルをめぐる基層があります。すなわち「(BiSは)アイドルだと言い張るグループ」だ、と。

 

要するに、現在のアイドルは、–––批判者がよく揶揄するような–––プロデューサーの人形ですらなく、「わたし(たち)はアイドルだ」と言ってのけさえすれば、それが「アイドル」なのだという自律性を得たことに、かつての「アイドル」と最も大きな違いがあるのです。こうしたシーンの前提があるからこそ、濱野はPIPにおいて「アイドルを作るアイドル」というコンセプトに掛け金を置いたのでしょう。

 

 

一方その頃「オタク」はどうなっていたでしょう。アイドルが自律性を得たとき、オタクはどのようにして変化したのか...いや、オタクはかつてと変わらず「オタク」のままです。アイドルはアイドルであると宣言することによって自律的にアイドル足り得ても、要するにオタクなしに「アイドル」であることはあっても、オタクはアイドルなしに「オタク」であることはできません。「オタク」はどこまでも後発的で他律的な存在です。「やっと見つけた」などと寝言のようなことを言ってはみるが、姫は誰かに見つけられたから姫なのではありません。ここには非対称性がある。

 

再び濱野に登場してもらいましょう。彼はアイドルの「アーキテクチャ」をこそ愛したのでした。しかし、そこに「人間」を発見したから、アイドルというプラットフォームの制作に身を乗り出しました。さて「人間」とはなんでしょうか。これは、彼のプロデューサーではなく「オタク」としての側面を明らかにするでしょう。

 

アーキテクチャにしか興味のなかった濱野が、(再び東の言葉をかりれば)「現場的なものを嫌っていた」濱野が、なぜここまでアイドルという人間にのめり込んだのか。濱野は一貫して、「レスがあるから」だと答える。

 

「レス」とはステージのアイドルがフロアのオタクに向けて視線を送ることです。眼差しが今ここで確かに交わること、その確かさに「オタク」濱野は骨抜きにされたと言えるでしょう...だけども、何かがおかしい。視線の交錯が、どうしてそんなにも人を捉えるのか。どうして視線がぶつかり合うことが「人間」を「アイドル」たらしめるのか。ところで上の引用文は、・・・・・・・・・に関連する指摘として取り上げられたエピソードです。では、・・・・・・・・・にとって視線とは、レスとは何か。引用します。

 

・ちゃんの、「眼差しを交えることがつねに不可能であり続けるような眼差しによって見つめられていると感じる」とき、あくまでそれは「・ちゃんが自分を見つめているかもしれない」という可能性に留まっており、それゆえに「ほんとうは自分のことを見つめてはいないかもしれない」という別の可能性が、つまりは幽霊が、絶えず取り憑く。 

 

確認しておきますが、・・・・・・・・・のメンバーであるところの・ちゃんたちは、目にバイザーのようなものを(設定上はそれ自体が「目」)装着し、彼女たちの視線がどこに向いているのか、にわかに判断が付きづらいようになっています。だからこそ、オタクにとって・ちゃんの視線の行く末は常に「可能性に留まっ」たまま、オタクの願望と不安を幽霊化するのです。ここまでを確認して、濱野の件に戻りましょう。

 

濱野は、アイドルの「レス」によって"現場"へと取りさらわれていったのでした。今ここで、アイドルとオタクの視線が交わる場所、それが"現場"です。濱野にとってアイドルがアイドルであることを確認できる場所...私に向けられた彼女の視線こそが、何にも増して必要だったのです。ですが、私はそもそもこう思うのです、「その「レス」、本当にあなたへ送られてるの?」と。


先ほどBiSによって確かめたように、現在のアイドルは、自律的にアイドル足りうる術を手に入れたのでした。他方で、オタクは相変わらず他律的に、アイドルがあってこそのオタクとしての身分を変えることはできません。だが、そんな寄る辺なきオタクがオタクであることを保証される瞬間があります。それが「レス」です。つまり、一人のアイドルから、無数のオタクをかいくぐり、他ならないこの私=オタクが、アイドルであるあなたに眼差され、またアイドルも私=オタクの眼差しを受けること。ごく端的に言おう。「レス」とはアイドルがオタクをオタクとして身分保証するメッセージであると。そしてそれ故にこうも言えます。「レス」はその「レス」の宛先を確実なものにできないからこそ、メッセージの効果を発揮するのだと。常に当たり続けるスロットに、誰が金を賭けるのでしょうか。無論、濱野もそれを承知の上で、ギャンブルに興じるようにして「レス」の存在を愛したのかもしれません。だが。

 

もう一度整理します。


オタクは無数に存在します。対して、あるアイドルは一人です。違うアイドルは存在するが、固有のアイドルは常に一人です。ゆえに、あるアイドルの視線も一つです。だからその視線を受け取るオタクは常に一人のはずですが、視線の宛先は常に不安定です。私に送られたかもしれないし、隣のオタクに送られたかもしれない。物理的に確定できないのですから、それは原理的に「可能性に留ま」り続けるのです。しかし、オタクはその可能性自体に強く取り攫われるのです。だから時にオタクは逸脱的に"つながろう"としたり、バランスを失ったものはストーキングに手を染めたりもする。曖昧な可能性自体を燃料にして、確実性の方へ方へと向かっていく。それは極端な例かもしれませんが、「レス」を特権視することで強化される、リスクであるはずです。リスクを愛することは罪ではないが、少なくとも自分が何に惹かれているのか、知っておくべきではないか。

 

一般のアイドルによる「レス」が、そもそも不確実な可能性に基づいた行為であるなら、・・・・・・・・・のバイザーとは何なのでしょうか。視線は隠されようが露わであろうが、オタクにとっては原理的には同じことです。が、何かが質的に違いをもたらしているとするならば、おそらくこう言えるでしょう、・・・・・・・・・における・ちゃんのバイザーとは「「あらゆるレスは可能性のうちに留まる」ということの可視化」であると。オタクの欲望はバイザーという装置に折り返され、自覚的になることを促します。これによりオタクは偶然の戯れを引き受けて、寝言のような「運命」をいささかの気恥ずかしさとともに、だが大真面目に叫ぶことが可能になるのです。

 

幽霊とは実体を持たないもののことです。しかし見えてしまう。見えてしまうが、存在が疑われる。むしろ幽霊は、存在の確実性が常に不確実でもあることを教えてくれるのでしょう。

 

 

 

結論に代えて、個人的なアイドル観についての話をします。
私にとって「アイドル」とは何なのか。容易に言葉にできない、意味不明で、それゆえに惹きつけられる存在。さしあたってはそう言えます。しかしそもそもどうして言葉にしたいのか、彼女ら/彼らについて、どうしてそんなにも話したいのか。これが何に似てるかといえば「恋」に他なりません。また「恋」とは何か。「恋」とは投影です。自分自身の欲望というフィルムを、他者をスクリーンとして上映する映画のようなものです。こうした映画に熱中することは、一歩引いてみればひどく間抜けだが、当事者にとってはいたく真剣な時間を過ごしているのです。

 

私はその「恋」の根拠である自身の欲望について、「アイドル」という支持体を通じて多くのことを気付かされる。そして気付かされた私は、もはやかつての私ではない。「恋」は人を変える、というのは修辞ではなく、端的な事実です。オタクはどうして事後的にアイドルとの出会いを物語に、運命に変えるのか、それは何よりもアイドルを介して、自分自身と出会い直しているからです。

 

いくらアイドルが自律的になったとはいえ、アイドルとオタクは切り離せません。そして、私は今のところそう宣言するつもりも予定もありませんので、当然アイドルではないが、この文化に惹かれ、また推しという存在がいる限りにおいて、オタクです。また私の推しはステージから「レス」を送るタイプのアイドルではありませんが、しかし私をはっきりと固有のオタクと認識していて、つまり広い意味で「レス」を与えられた紛うかたなきオタクであります。同時に、無数のオタクのうちの一人として、その「レス」に一喜一憂するのです。

 

ただ私が彼女を推しとして安心していられるのは、そんな一喜一憂にコミットすることなく、どこまでもサラリと放っておいてくれるところでしょう。こういうと語弊がありますが、オタクに対してほどほどに無関心でいてくれること、それがかえって心地よい。アイドルとオタクの非対称性を、あらかじめはっきりと見せてくれることによって、どうでもよくなる。しかしながら、そんなあり方に惹かれる私自身の関心の深さに何度も出くわすのが、面白いものです。

 

私は、私の「恋」の熱情を、私の推しの冷却作用とでも呼ぶべき距離感によってマネジメントしつつ、だがやはりだらしなく一喜一憂したりする振れ幅を体験することを、自分自身の次なる「可能性」として、楽しんでいます。
でも、壮大に勘違いしたりする素朴なオタクや、はたまた冷めつつも熱っぽくガチ恋口上を入れてみせるオタク上級者にいささかのあこがれがないとは言えません。もしかしたら私は、アイドル以上に、オタクたちに惹かれ、時としてオタクたちをアイドルのようなものとして見てるのかもしれません。

20190825 フェスの楽屋話

さてさて、夏も終わりですか。早いような長かったような...いわゆる"夏らしい"ことなどはないままに、月日は去っていくようです。

 

などと、秋の始まりにありがちな心寂しさは傍らにして、フェスでございました。「アートタウンつくば」です。
今回は写真など、何ひとつ、ない!文字情報のみでお伝えしていきます。お伝えするといっても、どちらかというと楽屋話で、特にお見せするようなものもないのです。お見せするようなものはないというか、お見せできないというか。

 

いや、いくら夏とはいえね、何人裸でウロウロしてるんだと。ショーのために脱ぐ人、わけもなく脱いでいる人、趣味のボディビルのコンディションを確認してる人(なにかと脱ぎたがるので、脱ぐために服を着てるのかと思うほど)、と様々な理由はあるが、とにかく裸のおじさんたちが仕事前に酒を飲んでいたり、さすがの話芸で冗談をとばしていたり、ああ、ここはまともな社会じゃないんだなと再確認...
酒といえば、スタッフさんの用意してくれたドリンクを冷やす氷水の中に、どんどん私物らしいビールの缶が増えていき、2日目に至っては酒とその他の飲み物の割合が6:4で上回ってきた瞬間もあり。コーラかと思って引き抜いたら赤ワインのボトルだったのには笑ってしまった。

 

フェスはたいてい終わればスタッフさんを交えての打ち上げとなり、そこここで(また)アルコール片手に他愛ない冗談やらマジメな話やらが飛び交う気軽な、特に際立って芸人らしいそれのない(さすがに誰も、出しゃばって芸を見せたりはしないですよ)、まあごく普通の交流会です。これも「フェス」のリズムのひとつで、ここに参加していると、快く、あー、なんだか仕事をしたなと思ったりするのですけれど、それはいいとして。

 

今回は、たまにフェスでご一緒するフラメンコチームの「Los Ojillos Negros(ロス・オヒージョス・ネグロス)」の皆さんとお話するタイミングがあり。で、昨年埼玉へ観に行ったイスラエル・ガルバンの話を振ったらば、さすが皆さんも観に行かれていたようで、ここでひと盛り上がり。情報としては知っていた非古典派としてのガルバンについての評価などを伺えました。

ガルバンは、フラメンコ界におけるニジンスキーと評される、いわゆる天才ダンサーで、古典的なフォームから逸脱し、多様なアイディアを用いた舞台が国際的な評価につながっているようです。素人には、その古典からの距離が掴めないのですが、ただただ格好いい踊り手ということはわかります。私が見た『黄金時代』も、ギタリストとカンテと三人だけの編成で、かつキャリア初期の作品のようで、かなりレアな上演だったことが会話の中でわかりました。パンフレット読んだ気もするんだけどな...

面白かったのは、ロス・オヒージョスのギタリストさんが、ガルバンとご家族ぐるみで交流があり、スペイン留学時はガルバンと同じアパートに住んでいたとか...すごいなあ。
しかもそのガルバン、また来日するらしく、新宿は「ガルロチ」というショースペースで9月上旬にパフォーマンスするとか。調べたらなかなかいいお値段ですが、キャパは200席で、かなり間近であの踊りが見られるのは、得難い経験ではないでしょうか。気になる方はサクッと検索してみてはどうか。

 

そんな交流もさすがに日付が変われば翌日に備えてお開きに...なるはずもなく、多くのスタッフさんは朝が早いので帰られるものの、芸人はダラダラと長話に耽る人も少なくないもの。

私は、そとでタバコを吸っている加納真実さんを見つけて、だらだらと夜風のもとで、今は何を話したんだか思い出せないほど多岐に無為に話し込んだ。その横をスタッフさんが車も通らないような暗い道を、自分が泊まるという宿まで歩いて帰っていった。
だらだら話は止まらず、飲み物でも買いに近所のコンビニまで歩いていった。そのままコンビニの外で、たまたま買い物に来た某氏と、「好きなタイミングで死ねるスイッチがあったら押すか、また、押すとしたらいつか?」とかいうそれ自体が死ぬほどどうでもいい話題でコーヒーを啜った。横を見るとコンビニの窓には光に誘われたらしいセミがビビッビビッと音を立てて何度も体当りしていて、車の一台も止まっていない駐車場にはネパール人と日本人のおじさんが車座になって卑猥な冗談をさかなに酒を囲んでいた。

 

それでも朝になればもちろん皆時間通り起きて宿の朝食につく。隣の席になった、楽屋で一番裸になっていた山本さんが、常に変わらないテンションの高さでスマホの画面を見せてくる。そこには、午前4時に目が覚めたら過去最高のコンディションに思わず興奮してセルフタイマーで自撮りしたという筋肉、もとい40のおじさんのムキムキの全裸画像が写っていたのでした。ボディビルコンテスト、がんばってほしい。