マヤマが動画を販売します

note.com

 

大事なことなので2回、というやつです。

 


この企画はnote開始以前からうっすらとスタートしており、1ヶ月半かけて着地しつつある現況です。
個人的にはコロナウイルスの(一次的)流行の過程でうまれる流れの記録のようなつもりでも、やっておりました。noteもその一部というかんじです。noteは別の職場に就いてから更新頻度が減るなど、そうした生活の変化も反映されていたりします。

 

動画については、バズったり、ステイホームで楽しもうとかだったり、あまり関係ないものになっていますが、マヤマでできることはこれかな、という確信にはたどりつけた気がしています。

 

ところで動画パフォーマンスの内容は、いわば小品をめざして制作しています。けっこう地味だと思う。(もとより地味を志向しがちではある)その理由はnoteにも書いたとおり。どう受け取られるかはわからないとはいえ、そうすべきであると判断した結果です。

 

 

www.hayakawabooks.com

 

そして、この労作というべき記事で提出されている「ディスタンス・アート」という枠に連なるものになりました。ただおそらく、良し悪しは別として、ここに含まれていない方法論で行われている制作でもあります。

 

しかし文中にある星野・安倍のコラボ動画について、記事中にあるのと同様の話を南部くんなどにもしていて、じつは今制作のインスピレーション源のひとつであったりもします。音楽と映像(運動)は、どうにかして"つながってしまう"ものにも関わらず、星野・安倍動画には信じられないほどの非同期/断絶があり、期せずしてスリリングという皮肉なものに仕上がっています。


なにかとレファレンスをだすのが好きなので、別記事でそういう話をしようかな。

 

 

では、販売スタートしたらまたお知らせします。

散歩

晴れたので散歩に出た。目的地を、行ったことのない場所に定めて電車に乗った。一度の乗り継ぎをへて移動は30分程度。駅を出るとなだらかな坂が左手に向かって下っていた。駅は坂の中腹に位置していた。地理的教養がないどころか、方角感覚も危ういので、引き出せる情報は少ない。それは地図、Googleマップを開いたところで変わらない。散歩といいつつ、古書店巡りに目的を変えてしまったので、それはもはや散歩の資格を欠いている気もするが、差し当たって問題はさっそく道を誤ったことだ。だが無用の通りを歩いたことで事後的に散歩は叶えられた。大学生の街らしくそれらしい若者が多い。「男なら歌え!」という、時流に逆らった、あるいは逆手に取った誘い文句が書かれた看板が門前にかかっている。もし私がこの大学を卒業していたら、この道を毎日歩いたことを今思い出しているのだろう。本流に戻り、坂を登るかたちで古本屋を巡った。黴臭い古本屋、清潔な古本屋、老婆がうつらうつらしている古本屋、親子で値付けをしている古本屋、常連が昔話をしている古本屋、それをあいまいに受け流す古本屋、銀行員が商談を持ちかけている古本屋、本で道がふさがって本が見られない古本屋、そのほとんどの古本屋でラジオが流れている。どこかの通販会社では、70万円分の辞書と近代文学が何十冊だかが入った端末にエネループをつけて23,800円で売っているらしい。

「すいません、これ著者署名入なんですけど…ここ書き込みがあって、これ〇〇さんの書き込みですかね?」「あー、うーん?」「買取先が、、名前忘れたけど結構有名な方で、その人だったら署名入でも書き込むかなあ、でもこの字〇〇のですかね?」「こんな字と言われればこんな字かーってなるけど、これは違うんじゃないかなあー」「ですかね」「……」「今朝これ流れてきて聴いてたんですけど、変な歌で、嫁と子供も反応してたんですけど、いいっすよね」「あーこれ、当時〇〇のアルバムに入ってて、これはそのカバーだね」「マジっすか、あ、本当だ。オリジナルは〇〇だって」「で、それを〇〇が番組でカバーしてたのがあって、YouTubeで見たんだけど…あ、まだ見れるんだ。これ」「これっすか。〇〇が干されちゃう前か。何年前だろ?」「〇〇のすぐ後だから2013年ころかな。」「カバーっていうかモノマネすね。モノマネうまいすね」店内は整理されて、ところどころアメリカ製らしい人形などの小物が飾ってある。洋書も揃えて、近刊の文学書も棚に並ぶ。しかし会話に気を取られてしまって、なんの本があるのか、それ以上はそぞろな気分で眺めてしまい、そのまま店を離れた。

そうして坂を下っていく。けっこう歩いたから、薄手のコートでも暑くなってボタンを開けて前を開いた。脇道に目をやるとマンションがある。脇道の都度、マンションがみえる。真っ昼間ということで生活はみえづらく、マンションがある。もしかするとマンションすらないのかもしれない。その道は、今このときも歩かず、また今後も歩くことはないかもしれない。そう思うと、引き返して歩いてみたほうがいいかもしれない。でもそうしない。そうするときもある。

3776『閏日神舞』または「天地創造MIX説」について

※3/5表記等を若干修正
東京キネマ倶楽部で行われた3776×OTOTOY 企画vol.8『閏日神舞』は一部・二部に分かれ、メインイベントは、6組12名で演じられる第二部「富士山神話 LINK MIX」。かねてから日本神話に材をとってアイドルたちが"神"を演じ、またLINKモードで設定された、富士山を中心軸とした「静岡/山梨」の二項対立に則ったふたつの神話が語られるとSNS等で情報が出ており、3776の異様な企画にまたしてもオタクたちはざわついていましたが、それはひとまず置くとして。第一部「宵の宮」は通常の対バンらしいことも伝わってきており、広瀬愛菜/O'CHAWANZ/彼女のサーブ&レシーブ/963/XOXO EXTREME/井出ちよのという、好事家の評価も高いアイドルたちの出演それ自体がフェスのような雰囲気を醸しています。私としても、久しく見ていないグループが多く、また第二部との関連はありやと穿った期待もありましたが、まずは素直に楽しむことができました。

いや素直に、どころか特筆大書して楽しかった!という時間でした。対バンイベントで、この数年で私的トップ3に入る現場であったとすら思います。良質な音楽と、雰囲気も含め開放感のある会場、大勢の観客だがパーソナルスペースはしっかり確保できる密度、脱力と緊張の入り交じるパフォーマンス、(やや控えめだったが)オタクの奇行...これがアイドル現場のすべてだ!と言いたいほどです。そして出演順に各組の人数をみると1-2-3-3-2-1と第二部の伏線なのか奇妙な対称が作られているらしいことにもニヤリとさせられます。

そんな勘ぐりはともかく、構成の妙は図式的なフォームにとどまりません。前半、広瀬愛菜~彼女のサーブ・レシーブ~O'CHAWANZと振付や照明演出もゆるやかなソロ/ユニットが続き(ことに彼女の~とO'CHAWANZのサブステージをめぐるグタグダな進行!)、それとは好対照なXOXO EXTREMEがサブステージ上で、作り込まれた照明と振付でパフォーマンスに入る瞬間は鮮やかでした。意図せざる試みかもしれませんが、プログレッシヴ・ロックを主な楽曲のジャンルに取り込むキスエクが、イベント自体の"転調"に寄与していることを一際興味深く思います。
963のぴーぴるによる「こんなに人が集まってたら"アレ"にかかるのも時間の問題ですね」井出ちよのの「高校生活最後のライヴになる予定が、昨日急遽めっちゃあっさりした卒業式をしました!なので高校卒業後初ライヴでーす!」といった、時事ネタのライトすぎる扱いもまた、アイドルならではの洒脱さでしょう。

しかしぜんたいに、ひどく平和というか、それを物足りなく思う向きもあるかもしれません。同様に、"良質な音楽"(3776/井出ちよの、あるいはキスエクは留保が入るかもしれないが)は、時にアイドルの免罪符となるジャンルミュージックの先鋭的な融合からも、微温的撤退がなされているといえなくもない。が、彼女彼らが守ってきただろう現場にこそ、アイドルがアップデートされ続ける現在が色濃く反映されてもいます。年齢や地域性といったアクチュアルな主題はもちろん、わかりやすくキッチュだったりエモかったりはしないことで見過ごされてしまう、いわば"不燃性のアイドル"が持つアイドル性をいま一度考えてみることができるかもしれません。

***
 

第二部「富士山神話 LINK MIX」は日本書紀古事記から採られたエピソードを翻案した...音楽劇といっていいでしょう。いつもどおり複数のコンテクストが重なり合った3776のワンマンですが、今回は私が日本神話に不案内なので、神々の名前を改めて飲み込むのにもちょっと突っかかるほどです。そして、そもそもの公演経験がずいぶんと複雑かつ、アイドルの演劇表現にやや慣れきらないまま全編が過ぎてしまった感もあり、どうもうまく受け止め損ねた気がしてなりません。広瀬愛菜さんの浄瑠璃の素晴らしさや、あるいはその他の出演者陣も普段どおりのキャラクターが活きている、どころか、もうありのままといってもいいくらいで、公演の複雑さが、楽天的なアイドル性をいささかも損なっていないのを愉しめば十分、という気もします。だがやはり3776のライヴをそれだけで終わらせるのはもったいないぞと思うわけです。そんな予感があったからか、公演の理解の助けになるとアナウンスされていたパンフレットを買っておきました。が、情報量!公演の間に読むにはなかなかに気合がいる分量です。フロアのそこここから「これはもう読むの諦めたよ…」と嘆息が伝わってきます。

それにしても、「演劇的」と称される公演を行うアイドルグループ...たとえばMaison book girlのワンマンライヴが説明を極力回避することで観客の解釈の自由度を保証しつつ、提示されるイメージそれ自体の効果を美的/詩的に消費するのだとしたら、3776は極端なまでに説明的であり、むしろその徹底した説明的態度は予断的な解釈を許さず、だが丁寧にロジックを追った結果現れる多義的な構造こそが、アイディアの異様さを際立たせてしまうのだと、パンフレットをいたずらにパラパラしつつ、改めて思わされました。

 パンフレットは左右どちらから開いても、見開きに跨って富士山の写真が収められています。駿河國富士山記側から右開きに開くと、右ページ上に縦書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに安心して、足を踏み入れことができる」とあり、甲斐國富士記側から左開きに開くと左ページ上に横書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに、足を踏み入れてはいけないのです」と、まったく同一の前提ながら引き出される結論は正反対の文言が並びます。微妙にズレを伴ったふたつの文言は、実はそのまま、公演のオープニングに左右のスピーカーから同時に歌として、(おそらく)数拍のズレを伴って再生されます。聞こえ方は、まさしくミキサーのフェーダーがセンターに合わせられた状態と思っていただければよいでしょう。

ステージもまた、センターを軸に上手(甲斐國)と下手(駿河國)が分離しています。出演者はそれぞれ袖からゆっくりと奥を歩いて、半分になったステージのまたそのセンターで面へ向かって歩き、拝礼を行うような身振りを行います。が、こうした対称性は、駿河國の出演者だけ拝礼の後、サブステージへかけあがってポーズをキメる、というルーティンが組まれることで崩されています。そうした不均衡な世界のなかで、ふたつの神話が浄瑠璃の導きによって同時並行で進むかに見えたなか、突然、演者のメタ的なコメント「このままじゃ分かりづらい!巻き戻し!」という言葉を合図に"巻き戻し"のSEに合わせて逆回転するようなアクションをしつつ、一方の物語に光を当て直し(物理的にも照明によって)した形で、すぐさまそのシークエンスが頭から再演されることを繰り返すのです。
そう「富士山神話 LINK MIX」では、視覚や物語さえもミキシングの対象となって、左右それぞれにフェーダーを振り分けるようにして語り直されるのです。いや、そればかりか、センターを軸に侵されないかと思われたステージもまた、やがては中心線を踏み越えられるようになり、神々や怪物はわちゃわちゃとドタバタ劇のようにあちこちを行き来し、ついには神話的世界さえも乗り越えて「在宅」「観覧逃げ」などといったアイドルのジャーゴンが神々のエピソードと響き合うようにすらなります。「富士山神話 LINK MIX」においては物理的な事象のみならず、舞台空間に現象する世界の一切がミキシングの対象になっているのです。あるいは、制作することの基底部に存在する「ミキシング」が、「富士山神話 LINK MIX」の方法意識のもと、あらためて浮かび上がってくるといったほうがいいかもしれません。 

ミキシングという行為が基底となった世界において、そもそもミキシングとはなにか、ということもパンフレットにしっかりと書かれております。「一般的な音楽用語」としての「MIX」の解説に拠れば「一般的な音響装置で音楽を聴くために、複数の音声を混ぜ合わせること」(下線筆者)とあります。ごく穏当な解説です。だが、すこしの飛躍を許すならば、混ぜることで生成する世界について…そう「富士山神話 LINK MIX」あるいは日本神話においての物語の起点を思い出さずにはいられません。すなわちイザナギ/イザナミによる天沼矛を使った「天地創造」のエピソード。神々が未成のどろどろとした油のような世界をかき混ぜて天と地が誕生したことについてです。このようにして3776的世界において「天地創造」と「MIX」することは重なり合います。ある世界は、混ぜ合わせることによって発する。ですから「富士山神話 LINK MIX」の理路に則るなら、こう言えるはずです。「世界とはMIXだ」。そして、常に富士山とアイドルとを重ね合わせ続けてきた3776なら、もう一つこう加えることはできないでしょうか。アイドルもまたMIXだと。

アイドルは、我々が知るように様々な文化のMIXです。どれか単一のジャンルのプロフェショナルであることを肯んじず、常にミキシングの具合でしかない。音楽も演劇もアートもバラエティも飲み込んでしまう、それがアイドルです。ここで最後の問いが生まれることでしょう。アイドルをMIXする神とは誰か。が、答えは予め用意されているのです。再びパンフレットに舞い戻ります。出演者と彼女たちが演じる神々の紹介がなされるページ、「天照大神」紹介欄下部。

この「祭り」の主役は、芸能の女神であり日本最古の踊り子、天宇受売命(アメノウズメ)だが、この大芝居を企画した総合プロデューサーの思金神(オモイカネ)の存在も忘れてはならないだろう

 我々が想像するように、アイドルをMIXする神とは、プロデューサーに他なりません。そして同時に忘れてはならないのが、プロデューサーが「神」であるとするなら絶対的存在としての「神」ではなく、アイドルもまた同等に「神」である多神教の世界で、です。アイドルとプロデューサーは相互に世界を作っていくわけですが、その世界には、もうひとつの要素が入るはずでしよう。つまり、観客=オタクです。
そしてアイドルの世界において、音響的操作よりも、はるかに前景化しているもうひとつの「MIX」があることを、あの意味不明な言葉を喚き散らす、理解不能なまでに様々なヴァージョンをもった「MIX」があるじゃないかと、誰しもが連想せずにはいられない。フロアの我々もまた、期せずして制作の一端を担う可能性が、常に開かれているはずです。もちろん狭義の「MIX」を入れずとも、アイドルという文化的MIXに与する限り、可能性は常に。だがもちろん、こんなことは私が言うまでもなく、やはりまたパンフレットに書かれていることでもあります。「LINK MIXとLINKモード」を解説する項には、こうあります。

ステージAとB間は自由に行き来できるので、観客は自分の好きなように音楽を「MIX」できる。観客一人一人は言わばDJミキサーのクロスフェーダーのようになり、どちらをいつどのバランスで聴くのか全て観客に委ねられる。

 

–––LINKモード基本概念

「LINK MIX」では自分でミックスを楽しむ自由はないが、どんなミックスを聴かせてくれるのだろう?という別の楽しみ方はできる。DJプレイを楽しむように。

 

–––LINK MIX

厳密で多義的な3776の世界を分け入れば、私たちにはあらゆる形での自由が保証されていることに気づきます。アイドルと、プロデューサーと、オタクが作り上げる「MIX=世界」。3776が、圧倒的に異様でありながらアイドルの正道を歩んでいるとしか思えないのは、こうしたアイドルを介した観客の自由のあり方を、執拗なまでに見せ、創出しようとしてくれるからだと、何度でも受け止め続けることになるからなのです。

往復

仕事。地下鉄に乗る。目的地によって乗り込む車両はそれぞれであるが、今日の場合は最後尾であり、わざわざ席に座るまでもない時間しか乗らないから、車掌室の壁にもたれてメッセージに返信をする。そうでなくもう少し長距離移動したり乗り換える必要があれば、ふさわしい車両を選び、ふさわしい車両を知らない、また調べようともしない場合は気分で適当な車両に乗り込む。
荷物を積んだ二輪のキャリーカートは、車両に乗り込むとき、まず人間が後ろ向きに車両へ入り、ホームと車両の段差にかかった車輪を引っ張り上げるようにして車内へ持ち込む。そのまま空いている手すりの下へ淀みなく、明確な意志を言外に伝えながら滑りこませて、すぐ側の角の座席に腰掛ける。そうでないときは目の届く範囲の席に座る。またそうでないときはキャリーカートの横にあるいは前に立つ。そしてiTunesをまさぐって音楽をかけるかあるいは本を読むかやっぱりiPhoneSNSを眺める。昨日は『シンセミア 下』を20ページ読んだ。だいたい1ページを1分で読むから、20分前後移動したことになる。図書館で借りた単行本は厚くて全然持ち運びたくない大きさだったけど、そろそろ返却期限が迫っているので優先的に読まなければいけなかった。都営浅草線だった。『シンセミア 下』はさっき読み終わったが、とてもおもしろかった。繰り返すが、今日はわざわざ座るほどの時間もないくらいしか乗らなかったので本は読まなかったが、家を出たときからカネコアヤノ『燦々 ひとりでに』を聴いていた。カネコさんの声にはどうも人を昂奮させる何かが含まれているのか、身体が奮い立つような気がする。

 

久しぶりに薄曇りの今日は寒くて人がいなかった。雨はもつらしいから、とりあえず現場に行こう、とそれで地下鉄に乗ったわけだが、結局雨に降られたので、何もできず一時間で撤収した。荷物を片付け終わる頃に雨は小降りになったので、いつも通り歩いて家まで帰る。駅の中を通過すると階段しかないことを去年の春に学んだので、やや遠回りだが、駅を迂回して、その後はまっすぐ歩いていく。仕事をしていないのだから控えるべきなのだが、こういうときに限って食欲に押されてしまうので、入ったことのないラーメン屋を思い出して、いつも通らない反対側の通りへ渡った。平坦で広い道は、大きな荷物を運ぶのにストレスがなく、だから歩いて帰っていい気にもさせている。その結果、ラーメン屋に寄ることになったのだが。


あまり歩かないほうの歩道であるから、見慣れない店をいくつも見た。意外なチェーン店なんかも見つけたが、もしかすると目当てのラーメン屋を通り過ぎたかもしれない、と思った。記憶と照らし合わせて、こんなに駅から離れるはずはない、と思ってGoogleマップを開いた。現在地を示す青い点と、目的のマークの間を点線が繋ぐ。まったく通り過ぎていないどころか、まだ5分くらい先に歩く場所に目当ての店はあった。ほどなくしてそのラーメン屋が見つかって、看板でメニューをたしかめて、その脇のスペースにキャリーカートを置かせてもらった。やや不用心だが、狭い店内に持ち込むのも気詰まりだし、なによりあんなものをいきなり持ち去ろうとする人もなかなかいない。そしてアレはけっこうなれていないと動かしづらいのだ。醤油ラーメン(太麺)のボタンを押下した。食券を手渡し、カウンター席に付く前に石鹸で手洗いをした。
ややあとから入ってきたお兄ちゃんが食券機にお札を通せないでいた。「”へ”の字に曲げて入れてもらっていいすか?」「え?」「”へ”の字に、こう曲げて」ローストポークの弾力に気を取られたので顛末を聞き届けなかったが、隣の隣の席にお兄ちゃんが来たので、”へ”の字に曲がった札は食券機を通った。食券を受け取った店員さんは醤油ラーメン(太麺)いただきました!と言ったような気もするし醤油ラーメン(太麺)一丁!だった気もするが、いずれにせよ自分は着々と丼の中身を嚥下し、レンゲでスープをすくって、最後には両手で丼を持ち上げてスープを飲み干した。また少し雨が戻っていた外に出て、キャリーカートを傾けたとき、麺が入っていたらしい青いケースに少しぶつかってしまった。キャリーカートを一旦立てて、ケースを元の位置に直してから、歩いて帰った。

癖にふりまわされる

ホームページ新調に当たって、ブログのデザインも変えてみた。はてなブログは公式テーマのほか、ユーザー投稿のテーマを選ぶことができる。なにをどう選んだって実際のところ、そう変わりはしないけれど、漠然と気持ちのわるい思いはしたくない。なんとなくでいいから、しっくりくるものを探す。

写真はめったに投稿しないので、写真映えがするようなテーマにはさしあたって用事がない。次に、書かれた文章がドンとセンターを占領しているもの、これはいけない。たかが雑文がディスプレイの多くを埋めるのが気に食わない。そして、検索性が低いのもダメだ。最近の記事、アーカイブ、その他キーワード検索にスムーズに移行できないと、ストレスを感じる。となれば2カラムのデザインが選ばれる。あとは、文字のポイントがいくぶん小さいもの。視認性より、文字が大きいことからくる野暮ったさのほうが気になる。そこで選ばれたのが、essayというテーマだ。上記の条件を満たし、またベースが白ではないのも面白そうに思ったのだが、本文が右側に表示されているのは引っかかる。プレビューで何度も確かめ、いたずらに上下にスクロールし、自分の中の違和感と照合する。左詰めで書かれる文章が、右側のブロックに収まること…どうにもすっきりしない。

映画館に入るとき、よほどのことがない限りは左側に座る。中央より前方を選ぶこととセットになっているが、縦の距離よりは横の位置が重要である。大道芸のときも、環境が許す限り、音響機器は左側に設置する。これらはジンクスや験担ぎの類でなく、ただ個人の癖にすぎない。たかが癖、されど癖で、癖は侮れない。映画を見ることや大道芸を行うことがこのとき、癖に乗っ取られている。癖が私をスムーズに動かす。

しかし、と思い直したのは、こうしてリニューアルするのだから、あえて違和感を残してみるのもいいかもしれない、ちょっと違った書き物ができるかもと気まぐれがよぎった。まあいいか、とインストールする。ひとつ記事を更新する…違和感に耐えられず別のテーマをインストールしなおした。

 

だが結局は些事も些事。左だ右だということに取り付かれるのは、いかにも生物として弱いという感じがしてしまう。こんなもの、どうだっていい、とにかくガツガツやるんだよ、という人のほうがどう考えてもたくましい。たくましいから良いわけではないが、最低限のたくましさは身につけたほうがいいのではないか。じゃあまずはブログの本文を右側表示に戻すところから、となればさすがにバカである。むろんバカでもいいのだが、そのバカさ加減は今のところ必要だと思われない。しかるべきときにたくましくあり、思いがけないときにバカであることを恥じないこと、要はバランスだと何ひとつ面白くない結論に着地する。

それでもバランスを逸してしまうから、想像上のつまらない理想を設定して安心しておく。要はバランスだ、と何もない道路の上で躓いて傾いた体の軸と乱れた歩行のリズムを立て直しながら、誰にともなくつぶやく。額から汗が流れる、拭う。すぐに忘れようとして、事実次の信号あたりで躓いたことなど忘れる。いつものではないドトールに入って、アイスコーヒーを頼んだら、空いているソファを探して一口コーヒーを啜ったらPCを開いてfreewifiに繋ぐ。イヤホンを差し込み、BGMを決めたらてきとうにSNSを眺めてから、この文章を書くのだった。

ホームページ更新

www.keisukeyuki.com

 

ホームページをリニューアルしました。これからもご愛顧くださいの一言につきます。

 

 

こうした作業も片付きつつあり、閑散期のゆったりモードも手伝って、映画を観たり本を読んだりするリズムが帰ってきました。しばらくぶりにレンタルショップでまとめてDVDを借りてきて、見落としていた新作群を何本か観るなか、際立っていたのはしかし旧作。1956年公開のバット・ベティカー『七人の無頼漢』です。80分に満たない西部劇ですが、各シークエンスの圧縮された演出は、ついに決闘のシーンで"主人公が銃を抜くさまを見せない"という大胆な省略に結実します。それだけではなく、岩の間を這いながら敵と撃ち合う場面や、雨のなか馬車の車体の下で眠る身振りなど、特異なアクションも眼を引かれます。無駄のない進行のうちに、平準化されない身体の動きが画面を魅力的にします。また、反復的に現れるコーヒーを飲むシーンなども、全体の流れのうちにリズムを刻んで妙に忘れがたいのです。

 

などと話し始めれば例によってキリがありません。
ひとまず今日はここまで。