作業の寄り道:ミグマシェルター

本日は喫茶室るのあーるからの更新です。コーヒーが600円超って、誰が行くか!と貧乏根性丸出しの忌避感を抱いてたるのあーる、先週適当なお店がなくてひさしぶりに入店したら、快適さに驚いた次第。椅子もテーブルの高さも塩梅がいい。wifiも連続3時間つながる。作業が捗りました。

昨日も無駄話に2000字使った甲斐があってか、同じくらいの分量の進捗がありました。とはいえ、全部消すほどリライトしないとまだ使い物にならないのですが。

 

 

しかしミグマシェルターの配信は良かったですねえ〜。以前からのレパートリーパート→新作パート→MEGAMIXパートの三部構成で、尻上がりに集中が深まっていくのに、なぜか幸せいっぱいにも笑っているメンバーたちのパフォーマンスは、アクビレックならではの雰囲気ですし、また体力的な追い込みがステージに強度をもたらすという、シンプルな事実を再確認させてくれます。あと今回印象を新たにしたのが活休になるナーナナラさん。MCでも大活躍だし、ステージ上ではいっそ貫禄すら漂っていました。

 

配信そのものもNILKLYの配信でもカメラを持っていたりんご太郎さんや、界隈ではお馴染みの加賀さんのスイッチング、リキッドの照明等含め、その他配信と単なるクオリティの高低の差というだけでなく、演者とスタッフがチームとして協同していることが感じられ、それはダイレクトに現場のポジティヴな「空気」としてディスプレイ側にいても受け取れるものだなと思いました。

 

唯一、ごく個人的な、重箱の隅の隅の隅を突くような、ほとんど共感を得られないだろう違和感(まあ元から多くの共感を得るようなことなどひとつも書いてきてませんが)だけ書くと、わざわざエンドステージでパフォーマンスが行われることの必然性が掴めなくなるなと、そのステージの縁が映るたびに思いました。なんでわざわざ狭い長方形のステージ上に収まっているのか。かといってパフォーマーが安易にフロアに降りればいいものでもありません。そうしたところでステージ/フロアという図式は崩れませんし、むしろ「降りた」という行為が両者の区別を強化すらするわけで。要するに最初からフルフラットな場所(NILKLYのダンスパフォーマンス配信はダンススタジオからだったので、この意味で効果的に見えたのもある)で、照明もイチから組んで...もちろんなんの現場感覚もない素人の妄言です。音響問題も考慮してませんしね。

 

それにしても新作『Alice』から発表された新曲たち。前半は不思議の国のアリスのイメージに寄り添った楽曲、後半は比較的ベタにサイケトランスに準じた楽曲、という印象でした。そのどちらもいい曲だったけど、これはアルバムを頭から聴き通すことで見えてくる経験を前提にしているだろうなと予想され、今回の断片的な印象でいうと、ディレクターの田中さんはつくづく見せる/踊らせるという矛盾に引き裂かれている人なのだなと。

というのも、前半に披露された「Egg Head」などに顕著に思いましたが、なかなかサイトランスとは呼びづらそうな(サイトランスで準拠してるだろう曲をご存じの方は教えて下さい)、ティンパニのデンドンデンドンした音から始まるマーチングふうのアレンジと、鶏の鳴き声のSE、そして上下に3:3で別れてぶりっ子(?)ダンス組と深く腰を落として頭を振り回す組が交互にパフォーマンスするパートは、やはり踊るというより、ステージ上の成り行きを見るシーンではあると思います。もちろんオタクがすぐにこうしたパフォーマンスに同期していく流れも想像できますが、頭がぶっ壊れるまで踊らせるコンセプトを追求する中で、むしろノイズに感じられる劇的要素が混入してくることに、田中Dの作家性みたいなものを感じずにはいられません。(そういえば1stワンマンに続いて今回も小芝居がありました)

そもそもベルハーが、そうした見せる/踊らせることを同時に一身へ引き受けたパフォーマンスグループであったはずだし、その後のミグマシェルターとゼアゼアの発足は、この引き受けを棲み分けることにもテーマがあったはずなのに、結果ゼアゼアの後期ではひじょうにダンサブルな楽曲がレパートリーに加わっていったり、見せる/踊らせることは、田中さんのなかでどうしても根っから分かちがたく混ざり合ってしまうものなのでしょう。おそらくミグマシェルターの『Alice』では、そうした避けがたい混在が「サイケデリック」という主題と融和していくのではないか、という希望的な見通しもたちます。

アルバム、今年イチ楽しみにしていると言っても過言ではないので、7/23の先行配信がまちどおしい。いっちばんシビアな時期だったのでクラファンに参加できなかったのが今になって響いてるぜ!

 

それにしても7月、このあとNILKLYがあってKIRINJIがあって...そこにまさかの達郎さんまで配信に参加ということでさすがに懐が気になってきます。だがどれも外し難い...あと『Ghost of Tsushima』も来るし...締切もあるし...どうにかなんないっすか。ならないですね。

 

作業の寄り道:配信の話

今日はマックではなく、主現場である近所のタリーズからお送りしています。向かいの席ではホットコーヒーのカップを置いた女性が一心不乱にスマホを操作しています。
タリーズは価格帯こそ若干高めですが、椅子とwifiの環境に優れているのですきです。

 

 

ほとんどあらゆるライヴコンテンツ(コンテンツって言い方嫌いですけどね)が配信に代替されている現状を比較的関心を持って眺めているつもりですが、ことアイドルとなると及び腰になっていて、なんだかんだと「現場主義」的な自分たちがいるなーなどと友人とzoomで会話していた先日、たしかにそういう側面はあるものの、よく考えたら転居以来さまざまな理由で現場の数は減って、そもそも配信だろうが現場だろうが、最近はあまり関わってなかったなと気づきました。まあ、そもそもあいつら(知り合いのオタク)が通い過ぎなのである。

 

とはいえ、アイドルが配信でどう状況に応答していくのか、もうちょっとまともに見ていかんと、と思ってさっそく昨日の「エクストロメ」の生配信チケットを購入。まずいちばん最初のRAYだけみました(アルバイトの都合上、9時には寝てしまうので)。

 

映像の形式的にはライヴハウスでのパフォーマンスを複数台のカメラで追う、という、音楽ライヴ配信といえばこういったかたち、と想像される一般的なスタイルでしたが、まあやはり個人的にはライヴでも配信でも、そんなに変わらないなあと印象を変えずにいました。

前も少し書いたけど、映像文化にも親しんでいるし、そもそも映像を介した経験のほうが現場での経験を圧倒的に数で上回っているので、なんの違和感もありません。どちらでも面白いときもあれば、そうでもないときもある。RAYに関していうなら、初パフォーマンスの楽曲群は、音源とは違った"ライヴならではの"新鮮な印象のもと、楽しむことができました。「オールニードイズラブ」は先行発表のときに、その良さを掴みかねていましたけれど、アルバムの流れで聞くこと、そして"ライヴで見ること"で、どんどん楽しみ方がわかるようになってきています。

 

しかし逆に言えば、ライヴ経験において現場も生配信もそう変わらないとしたら、配信だから積極的に見る理由もないし、現場が解禁されたところで勇んで行く理由にもならないという、在宅でも出不精というのは発揮されるのだという2020年ならではの発見があるのみです。いわずもがな、これはコンテンツを提供してくれる(繰り返しますがコンテンツって言い方嫌いです)側にはなんの責もないことです。また人前に出て飯を食べている端くれとしても、お客さんがなんとなく腰が重く感じてしまう心持ちを、逆の立場からもうっすらと理解しているつもりです。

ただいずれにしても、現場と配信を二項対立化して現場主義を強化していくような流れには、わずかでも疑義を呈して抵抗していきたいものです。個人的にささやかなアイディアがあるとすれば、いろいろ都合はあるのでしょうが、配信の枠をもう少しゆるやかに設計したいなと思っています。たとえば出番前からテストを兼ねて配信をスタートし、どこかに据えたカメラへ出演者が自由に絡めるようにしておく、とか。配信ではないものの、これはAKB48がオマケ映像でよくやっていました。
結局、実際の現場はきっちり縁取られた枠内でのパフォーマンス経験にとどまらないノイジーなものなので(わたしは枠内でのパフォーマンス経験を重視しているので、ライヴと配信で差異が大きく働かないということでもある)、事前と事後のだらだらした時間も配信内に入れ込みたい。そこはさまざまアイディアが出せるし、面白いところなんじゃないかなと思います。また、テレビなんかに相当な蓄積がある気がします。

 

 

じぶんもテレビをあまり見なくなってしまったものの、いまはTVerのおかげでいくつかはチェックしてます。「テレビ千鳥」「千原ジュニアの座王」「ゴッドタン」あと、たまに見たいときは「アメトーク」も録画したり、要するに芸人色の強いバラエティ番組は結構見ています。このブログでは、雑然とさまざまなものについて書いてきたけど、お笑いについて書くのはかなり抑圧していたので、初めて書くような気がしますね。

 

先日「ガキの使いやあらへんで」でリモート大喜利という企画をやっていまして、これが面白いというか、松本さんの芸のほんとうに天才的な感覚を見せつける30分でした。

キャスティングされたのは、いわゆる大喜利が得手ではない芸人と、レギュラーメンバーの計9名。出されたお題に全員が連続「正解」したら賞金が出るという体裁です。むろん、大喜利に「正解」も何もなく、ただただ松本さんの采配でそれがコントロールされるわけです。
くわえて、大喜利が得手ではない芸人たちが出す答えは、微妙にズレています。さらにその"ズレ"は、リモート環境による状況がもたらす、本来あるはずの空気のまとまりからの"ズレ"と重なり、なぜか妙な面白みを持ってしまう(浜田さんがしばしば顔を背け笑ってしまう姿がワイプで抜かれ続ける)、という複雑な前提を、スタジオで成否を判定する松本さんが完全にコントロール(スタッフとの協同もあるのでしょうが)しているのです。
つまり、つまらない答えでもあえて正解を出し続けて「流れ」を作りつつ、どこかで不正解を理不尽にあたえることで、その「流れ」をぶったぎる。番組で見られる、この「流れ」のハンドリングはどう考えても名人芸としかいいようがありません。リモートという、ダイレクトな臨場性がないからこその縛りゲーを悠々とクリアしてみせる芸人たちの姿は、ちょっと驚くべきものに思えました。あんなのちょっとできないよなー。

 

 

 などと、ここに費やした文字数を本来の仕事に当てればずいぶんな進捗なのですが。

さーどうするかな...

作業の寄り道:ダンスの話

7月に入ったら急にやることが増えました。今日も朝からノマドワーカーよろしくマックでPCのキーボードを叩いていたのに、気づいたらYoutube見てましたね。

 

それより昨日公開されたブルピン新曲のダンス動画。手数多すぎませんか。3分間でフレーズの使い回しがほぼ出てこない。
特に、下の2:02〜2:04の動きの当て方の細かさにびっくりした。ふりまわされるような視線誘導もあるし、ラストはジェニーが前方に出てくることへのフリとしても機能している。うーん、すごい。
こんな感じで面白がって20回以上リピートして見てます。マックでも見てます。

youtu.be

さらに概要欄でダンスカバーコンテストを開催しているらしいことを知ったので、これも検索していくつかチェック。韓国はもちろん、ベトナムにロシア、フランス...と要するに世界中で行われてるわけですな、と了解。(めちゃオーディエンスが「密」になってる動画があって、おおらかでした)わたしはダンスをやらないのでテクニカルな事がほとんどわかりませんが、こんなに手数の多いダンスをあっという間に完コピ出来てしまう人たちがたくさんいて驚きです。見た限りでは映像も手が込んでます。

と同時に、本家の巧みさにあらためて気付かされてしまうことも。ことにリサの踊りをもっとも目で追ってしまうことにも気づきました。身体のコントロールの切れ味はもとより、そのスキルでビートを乗りこなして音楽が視覚化される感触が確かに伝わるのと、たとえば0:58~あたり「Look at you now look at me」と繰り返されるシーンでの視線の使い方など、表情の水準でもダンスに豊かな彩りをあたえて、そりゃ世界のアイドルですわ...と今さらに感嘆。
日本のアイドルに親しんでいるとK-POPとの表現の差に乗り切れなさを感じることのほうが多いけど、BLACKPINKはまあ、ちょっと見ちゃうよなーと毎回新曲が出るたび思ってしまいます。(最近はITZYも気に入って聞いてたりした)

 

そうそう、ここ1ヶ月くらい武藤大祐さんのオンライン講義「舞踊概論」を受講していて、やっぱりダンスは面白いよなとなっているところでもあります。

 

 

特に前回は振付とゲームデザインの相似性が展開されていて、目下の関心とも重なりが大きい回でした。そのなかでちらっと触れられてたのですけど、DDRのようなダンスとゲームの見分けがつかなくなってるようなもののプレイヤーの一部には、これはゲームプレイだからダンスではなく、ゆえに恥ずかしさがない、というような考えがあるらしく、結構新鮮な驚きでした。ゲームセンターとかでヘタな大道芸より集客してしまうプレイヤーを見かけたりしますが、そういう人たちの中に自意識の免罪(?)があったりするのだなあと。そして同時に、ダンスとは自意識の絡む、いわば「自己表現」という一般的な理解が根強くあるのかなと。

 

講義内でも紹介されたフォーサイスインスタレーションが、オブジェクトを介して参加者から非意識的な「ダンス」を引き出してくるように、DDRもまたゲーム上のタスクが非意識的なダンスを生成するわけですが、そうしたダンスと一般的に理解されるダンスのイメージが区別される要素に自意識(自己表現的?)の存在が大きいのは、その他の領域でもすぐ思い浮かびそうな、ある種現代の特徴なのかもしれません。

 

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となると、ブルピンのような複雑で手数の多い振付は、まさしく過剰なタスクが踊り手にゲーム性をもたらして、そのことが自意識との乖離をあたえて参入障壁を下げてる側面もあるのかもしれません。表現すべき自己がダンスの形をまとうのでなく、あらかじめ振り付けられたフォームが、参加者=ダンサーの内面をメイクしてくれるような。tiktokのダンス動画の流行とかも、そうした線で見られる気がしています。自分の世代から見ても既にすごい不思議な文化なんですけどね。

 

自意識性と非自意識性は、実はアイドルを考えるのに欠かせないテーマだと思っているのですが、こうした補助線を引きつつのちのち何か考えられればね。

 

さて、そうこうしてるうちにマックの厨房が忙しない雰囲気になってきた。ウーバーイーツの配達員がひっきりなしにやってきている。

 

では、そろそろ帰って作業...あ、今日は読書会だ!

6月に気になったものと上半期よかったもの

...ハッと気づくと1ヶ月近く時間が経っていました。日々が過ぎ去るのは早いですね...(ゲームをしているから)
パフォーマンス活動の報告は変わらずできそうにないのですが、動きがありそうなことはいくつかあり、追ってお知らせできれば。今日はこの1ヶ月で気になったものなど、それぞれ短く。

 

 

『『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊』
土曜にたまたま配信されていることを知り、途中から観覧。翌日も見逃したところだけ見ました。テキストについては途中までということもあり、よくわかっていない部分が多いのですが、配信のあり方についてはさすがのひとこと。すごいなーと思わされました。
どこかカフェやギャラリーのようなスペースの窓/壁際に据えられたテーブルのうえに、長方形と正方形の簡易スクリーンがフォトスタンドのようなものに貼られて、スタッフの手によって配置されます。謡と音楽の七尾旅人さんと内橋和久さんが冒頭から終わりまでテーブル上に映されていて、その他の出演者は出番が来るとスタッフが所定の位置に設置したり撤去したり。その手にスクリーンへ投影している映像が重なる瞬間も。
要するにミニチュア的にテーブル上で舞台を再現しているわけですが、画面内にはテーブル・スクリーン・スピーカー・スタンド照明・カレンダー(日付もグリッド)と矩形の連鎖があり、ご丁寧に木枠が鎖状に連結しているらしい飾りが吊るされて(おそらく元々スペースにあったものだろうか)揺れていたりするのに気付かされます。こうした矩形のフレームは、視聴上の画面とも重なりあいますし、プロセニアム舞台からの遊離=幽霊的な上演を想起させれられもします。そもそも「幽霊」とは認識のフレームの外側に生起するものでしょう。また、テーブルが接する窓は路面に面していて、ときおり通行人や車の姿が見えたり、上演前・転換中・終演後には近くの横断歩道のメロディ音が聞こえてきます。フレームの外、認識の外で飛び交う幽霊たち。能を模しつつ扱う主題がザハとその建築であり高速増殖炉もんじゅであったりするわけだから、そうした"降霊術"は必然的なものだったのでしょう。
くわえて録音もすばらしく、パッケージした映像を配信したほうがベターなのは、ほとんど固まってきている気がする。配信コンテンツは、そこに動員的な効果はあるにせよ、やたらな生配信の臨場性に頼らずしてやってほしい。

 

グランド・セフト・オートV

さいこうです。RDR2と違って、市民の命はスラップスティックな暴走運転に巻き込まれるギャグとして消費されます。その倫理性の乏しさも、そもそも異常者と狂人しかいないロス・サントスという街では切実な意味を持ちません。主人公たちの延命は誰かの絶命でしかないという底の抜けた倫理的徹底は、ゲームにおいて最も重要なアイテム(ゲームプレイ時間のほとんどは車を運転している)であり、同時に最もどうでもいいアイテム(すぐに壊れるしすぐに修復されるし、すぐに盗んで手に入れられる)である「車」に最も強大な敵を押し込んで、海に突き落とすことで実にそっけないクライマックスを迎えるのです。
憎たらしい奴らはそれなりに悲惨な死に様(まあそれもギャグなのですが)だったりするのだけど、このクライマックスに至るまでの殺人ミッションのいっそ作業的で淡々とした雰囲気こそ、GTA5の良さであり、かたやオンラインでとてつもなく荒れ放題になってるらしい一因なのではとおもったり。葛藤や煩悶が雲散霧消することで、ただ行為の快楽だけが残るような。
それにしても無駄口の軽妙さといい、ラストシーンといい、スタッフにタランティーノのファンが相当いるのか、あるいは今アウトローを描くときタランティーノは内面化されてしまっているのか、気になるところ。2本プレイしただけですがRockstarのゲーム、大好きですね。『L.A.ノワール2』を期待しています。

BLACKPINK「How You Like That?」とビヨンセ
ティザーが細かく何本も出てからのMV。ブルピンの曲は相変わらず楽しい。テレビ番組のパフォーマンスもアップされていましたが、メンバーたちがずいぶんイメチェンしている様子。日本のアイドルが同一性を確保するためなかなか髪型を変えないらしいのと好対照ではないでしょうか。
あいかわらずK-POPは横目でチラチラ確認する程度ですが、ブルピンはとくにビヨンセを参照してるらしいことに意識が向かざるを得ません。女性をエンパワメントするような歌詞と自律的で挑発的なメンバーのキャラ(たぶんオフショットではそれとのギャップが楽しまれたりするのでしょう)。久々になんとなく「Run The World(Girls)」のMVを見たけど、ビヨンセのすごいことは、圧倒的なリーダーシップを誇りながら、周りに居並ぶ女性たちにも溶け込むこと。オンリーワンでありワンオブゼムであるといえばいささか陳腐だけども、たとえばコーチェラでもピラミッド型のステージを見せつけて、ヒエラルキーは視覚的にも明らかなのに、そこに集められた彼女ら彼らと常に連帯がある感じ...なんなのでしょうね。

 

『デッド・ドント・ダイ』
自粛明け初の映画館ということで。金曜の夕方ということもあって、観客は一桁。仙台か?
ジャームッシュがゾンビものを撮るということでまったく期待していませんでしたが、その通りでした。昼間の警察署内の明暗が絶品中の絶品てなくらいです。メタ的なゾンビたちというネタがめちゃめちゃベタな資本主義批判に決着するので、それすらもメタな何かでないと、どう受け取ったらいいものかさっぱりわからない。ストレートに受け取るべきと言うなら、間に合ってますの一言になってしまう。でもジャームッシュってこういう人だっけか、とも思うし。まあいいか。

 

『Fiction』

ブクガのベスト盤。フラゲ日にタワレコに駆けつけて棚になかったのを店員さんにバックヤードから出してもらって購入。アキバ店の店員さん、とても親切でした。
新曲と再録が目当てだったけど、通して聞けばまあ全部いい曲。サクライさんの天才はメロディメーカーぶりにあると個人的には思ってますが、どうなんでしょうか。
そんなに好きでなかった「Snow irony」の再録がとてもいい。ボーカルの技術力の問題なのか、原曲にない疾走感のようなものが加えられている印象です。新曲はいっしゅん戸惑ったけど、いい曲です。

 

上半期ベスト

映画もライヴも当然ないので、音楽を中心に。あと冬はけっこう小説を読んでいたのでそれも。新作も旧作も特に関係なく。

 

[音楽]
GEZAN『狂』
16FLIP vs SEEDA『Roots & Buds(ReMastered)』
踊ってばかりの国『光の中に』
mei ehara『Ampersands』
lyrical school『OK!!!!!』
RAY『Pink』
クマリデパート『サクラになっちゃうよ!』
Moment Joon『Passport & Garcon』
Terrace Martin『Impedance』
Tentenko『Deep & Moistures』シリーズなど
von.E『Rehearsal 3』

 

あと宇多田ヒカル「誰にも言わない」が圧倒的ベストソングでした。

 

[小説]

マルカム・ラウリー『火山の下』

サミュエル・ベケット『モロイ』

吉田健一『東京の昔』

松浦理英子『最愛の子ども』

横田創『落としもの』

横田創『丘の上の動物園』

山下澄人『壁抜けの谷』

阿部和重シンセミア

 

[配信]

lyrical school『REMORT FREE LIVE vol.1,2』
cero『Contemporary http Cruise』
NILKLY『AQBISION♯3 NILKLY 1周年記念スペシャル』ダンスパート

膝をつくマイアミ

 

 

上のツイートは、ミネアポリスの警官デレク・ショーヴィンによるジョージ・フロイド殺害から再燃しているBlack Lives Matterの運動のなか、抗議に駆けつけた市民*1へマイアミ警察署員がニーダウンによって示した差別への抗議*2の姿です。

 

恥ずかしながら政治に疎く、どう思っているかは別に、そうした発言をすることも趣味ではない(まさしく"趣味"の問題でしかない)ので、これ以上アメリカの情勢にコメントするわけではありません。が、言うまでもなく構造的・直接的差別はあってはならないが、警察権力によってそれが暴力として顕在化し、またアメリカ大統領が、戯言をもって抵抗勢力とその他を分断しようとしている、最低限の状況認識くらいは持ち合わせています。

 

また抵抗勢力の略奪行為や現下の状況については、以下の記事から知見を得ました。

 

 

略奪行為の擁護論jfissures.wordpress.com

 

miyearnzzlabo.com

 

とにかく、外野が白か黒かの二元論でことを単純化・矮小化して「平和的解決を」などと言ってみたところで何よりも虚しいのは自明です。

 

しかし当然、こうした緊張状態は解決へと向かわねばなりません。最終的に「敵」が殲滅されるわけでも、それが望まれるわけでもない。そのなかで、マイアミ警察署員たちのニーダウンが(それがもしかしたらお為ごかしに過ぎないかもしれないという不安はありつつも)、圧倒的な説得力を持ったこと、連帯の意志が"身振り"によって、千万言を尽くすよりも明瞭に現れることに、有り体に言って感動しました。

 

あるタイミングで、人はどう振る舞うべきか。私とあなたは敵ではない、私とあなたの非対称性をどのようにして埋められるか、あるいは埋めようとしてることが伝わるか。

 

私はアメリカに行ったことがないけれども、アメリカで作られた映画に深く影響を受けています。昨日90歳を迎えたクリント・イーストウッドスティーブン・スピルバーグに、何よりもジョン・フォードの映画の中で、誰かの死に向き合うとき、切実な何かに対峙するとき、映画の中の彼らがどのような身振りでそれを行ったか、その影が今日まで私に伸びていることを意識しないことはありません。

 

願わくば、身振りによる敬意が表れること、そしてその敬意を正しく受け取ることができるよう。

 

*1:トランプ大統領が引用したマイアミ警察署長ウォルター・ハドリーの「略奪が始まるとき、銃撃が始まる」への直接的抗議でもあるのでしょうか

*2:日本語のツイートで「謝罪」とされているものがいくつかありましたが、アメリカンフットボールの試合中の出来事から派生した仕草(

https://bit.ly/2zWdysh

)で、「差別への抗議」というニュアンスが強いようです。謝る主体としてのマイアミ警察としてではなく、同じ市民としての連帯を示した形とみます

NILKLY配信を見てのメモ

youtu.be

 AqbiRec所属のアイドルグループ「NILKLY」が結成一周年を記念した生配信を行いました。見たのはダンスパフォーマンスパートだけですが、ひさしぶりにアイドルの"ライヴ"の力強さに、素朴に感激しました。。

 

ところでこの配信、衣装ではなくレッスン着のようにラフな服装でパフォーマンスされているんですけど、衣装ではないからこそダンスの線がはっきりする部分もあって、それも興味深かったのです。以前、コンテンポラリーダンサーの勅使川原三郎さんも「練習風景」と題した動画で、ジャージ姿で踊っているのがかえって生々しく、妙に印象深くもあり。

 

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しかしそれより思い出すのはやはり、「ダンス・プラクティス」動画でしょう。普段カット割で映らない振付の全容が見られる機会として、またファンにとってはオフショット的のリラックス(してるにも関わらずキレキレだったりすることで技巧に惚れ直すなど)してる様子もたのしめる企画です。

 

www.youtube.comやはり三浦大知さん、すごいっすね。

 

 

で、NILKLYの配信ではさらに具体的に連想したものがあって、それがこちら。

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K-POPアーティスト「BLACKPINK」のダンス・プラクティス動画*1 です。うえの三浦さんの動画と違い、かつNILKLYと同様なのは、カメラが動くこと。タイトルにも"Moving"とあります。その動きは大胆な前進・後退をベースにしたカメラワーク。このカメラワークは、ほぼパフォーマンスの構造とは無関係に、カメラの動きだけ際立たせて、ともすれば単調になる1台のカメラによるフレームを揺らし続けて生々しさを失わないように務めているかのようです。

 

しかし自律的なカメラの動きは、カメラを操作するオペレーターに意識が向かざるを得ませんから、一見すると目障りに見えるときもあります。NILKLYの配信も、最初は少しカメラの動きが気になっていたのですが、気づくとカメラの動きを忘れてしまっているときがある。こうした没入感の高まりをふしぎに思いましたが、さきのBLACKPINKの動画と比べれば、すこしその理由がわかった気もします。

  

BLACKPINKのダンスプラクティス動画*2では、カメラはほとんどクロースアップを選びません。なぜならこの動画ではメンバーの振り、あるいはプロポーションこそがもっとも見せるべき対象であるからでしょう。とはいえ、固定のカメラだけでは味気なくもある。こう考えると、前進・後退するカメラの動きは、映すべき対象を捉えつつも、あくまでも画面を退屈なものにさせないためにある戦略であるといえます。



いっぽう、NILKLYの動画では時に振りやプロポーションの視認性を犠牲にしたクロースアップがしばしば訪れます。ごく単純に比較した結果から得られものを確認するなら、前者で優先されたものが犠牲にされることで、われわれが「アイドルのライヴで見ているもの」が浮かび上がります。それは小規模なライヴハウスの視界のシミュレートであり、かつ、われわれがアイドルの表情を重視している、という当たり前ではあるものの、なかなか映像で再構成しづらい要素です。


またクロースアップは、あらかじめ与えられている前進・後退のリズムのうちで半ば偶然的に発生する(かのようにみえる)のも見逃せません。こうしたリズムの存在によって、カメラがその表情へと寄り切ってわかりやすい意味へと落ち着かせようとするまえに、スッとそこから離れてしまう。常に微妙な距離が担保され、カメラは必ずしも、アイドルの表情がもたらすエモーショナルな見せ場に同期しきるわけではありません。しかし逆説的に言えば、この距離の押し引きがあるからこそ、視聴者はアイドルの表情との出会いを果たすのではないでしょうか。
今回の配信で使われた「ダンス・プラクティス」ふうのカメラワークは、単調さの回避以上に、機械的な反復運動によってメンバーのパフォーマンスを、より積極的に生々しく捉えることに成功している例でしょう。つまるところ、配信がライヴの次善手段ではなく、じゅうぶんにパフォーマンスの快楽を得られる手段として成立しているようにも思います。

 

 

と、だいたいこんなようなことを考えてましたら、ディレクターの田中さんが配信についてコメントしている動画が配信されました。現場至上主義に疑義を呈しています。「気持ちが乗っかる」という言い方で、映像も現場もそれぞれに変わりない面白みがある、という話です。

youtu.be

 

 

ごく個人的な話で結ぶと、映画が好きということもあるし、そもそもごく初期のジャグリング体験のほとんどが映像であったこともあり、生の現場だけがほんとうに素晴らしいのだ、とは思いきれないのが、この状況でまた浮かび上がってきています。パフォーマンスの経験にだけ限って言えば単に別なメディア、というだけです。映像ではわからないこともあれば、生ではわからないこともある。そういうだけでは面白くともなんともないので、いまは生ではわからないことを積極的に楽しみたいなあ、と、そんな具合でひとまず締め。

*1:とくにK-POPでよく見られるコンテンツです。K-POPファンの方のブログによれば、これが広まっているのは偶然の産物であるよう。https://ameblo.jp/kpopknowledge101/entry-12455993366.html

*2:とはいえ、今回改めて調べると、ほんとうにいろいろな形の映像があることがわかりました。単純にライヴ感を与えるだけではないさまざまなデザインの志向性が伺えます。簡単にリストにまとめたので、よければ。https://www.youtube.com/playlist?list=PLz4921MXpetCKs2LoNeLezgJOewZEisL7

ゲームにハマりだしてしまった

ゲームをやっています。

 

ポケモンGOはリリース当時から昨年秋頃まで続けていたり、完全にやってなかったわけではないのですが、およそ20年ぶりに意識的にゲームをしています。大まかなきっかけはこちらに書いています。

 

ここ3週間ほどでだいたい7〜8本のソフトをプレイして、実況動画にレビューサイトもそれなりにチェックしている状況は、アイドルとは比べられないものの、久々に"ハマりたて"の感触です。プレイしたソフトは、どれもさすがに新鮮で、かつオススメと勘に従ったので面白く(『デス・ストランディング』だけは数時間さわって放棄中。)、なかでも『Red Dead Redemption 2』は素晴らしかった。

 

いや、正直にいえば、あまりに操作しづらいのと、一向に雪山から進まない閉塞感、かと思えばチャプター開けての極端なまでの自由度に、何をどうしていいやら。馬と無辜の人々がずいぶん死んだものです。で、少し置いておいたくらい。最後までプレイしないのでは...と思ったけれども、勘所を掴みはじめ、チャプター3のクライマックスまでくれば、アウトローたちのドラマに目を見張らざるを得ませんでした。ことに、タランティーノの影響も濃い襲撃シーンは、悪の魅力がこれでもかと溢れて漂い、屋敷へと向かう一本道をギャング団が横一列に並ぶ後ろ姿には、これだよ!と快哉を叫ぶなど...

 

個人的な好みも相まって、ストーリーの魅力も素晴らしいのですが、ギャング団のリーダーに忠誠を誓う主人公が少しずつ葛藤を見せるにしたがって、プレイヤーもまた、いくらか自棄になりかけるのに気づきます。
そう、最初に書いたように、このゲームでは盗みはおろか、仲間以外のあらゆる人物・動物をほとんどいつでも任意に殺してしまうことが可能なシステムになっています。明確な殺意がなくとも、うっかり馬で轢き殺してしまったり、ボタンの操作を過てばショップの店主の頭を撃ち抜いてしまうことすらある。


それは、もちろん単に私のプレイヤースキルの極端な低さによりますが、多くのユーザーが共通認識的に感じてもいる操作感の鈍さから、いくらか、ほんのいくらかはそうしたアクシデントによる「死」が、いかにも軽く訪れてしまうようデザインされてはいまいか、と勘ぐってさえしまう。なぜなら、そうした「死」は、すぐさま主人公の「死」をもって贖うことになる。法執行官に賞金稼ぎは、驚くほど簡単に主人公の命を奪ってしまう。また、何もしていなくても強盗に遭う。あらゆる人間が平等に奪い、奪われる無法地帯の軽さのなかで、主人公≒プレイヤーは生き延びねばなりません。
いっぽう「名誉度」なるゲームプレイ上のファクターが、主人公を善行に差し向けます。強盗よりも多く、道中には様々な困りごとに苛まれたキャラクターが現れ、メインイベントを留保しても、彼ら彼女らを助けてあげることが、しばしば起こる。もちろん、助ける必要はほとんどなく、彼ら彼女らからも直ちに金銭、命を奪うこともできる。

 

私も基本的には善行を施す方向で進めていました。(殺すのは縛りプレイとしてでもなければ、実は単調なプレイになってしまうのです)が、先にふれたように、メインストーリーで展開される葛藤の果てに、いくらか自棄になるのです。善行を施すことの無力さを時たま感じさせずにはおかない。酒場でも荒らしてやろうかと、一瞬、何もかもどうでもよくなる。私と主人公の感情的な同期に気づいたとき、おどろくほどの自由度があたえられたゲーム内世界と、ストーリーで絞られていく物語の筋とが、分かちがたく結びついてきます。私は自由だが、自由さゆえに、自由を奪われつつある。この気付きで、ゲームの面白さに出会い直したといっていいかもしれません。

  

物語を最後まで追うことは避けますが、主人公の背負う運命の哀切きわまること、彼が尽くすリーダーの、ごくごく微妙に積み上げられては後戻りできなくなる変節と弱さの描き方の複雑さには唸らされます。そしてメインストーリーの最初と最後がきれいに対応する関係になっている構成の妙とダイナミズム...これがもしドラマだったらば、もしや『ブレイキング・バッド』にすら比肩するのでは、と思ってしまうほどの満足度です。

 

だがまあ時間を使うこと使うこと...はじめたばかりの『ウィッチャー3』をクリアしたら一段落か、と考えてはいるものの、できそうもない『SEKIRO』も気になるし、ハードが手に入らないとはいえ『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』『スプラトゥーン2』もいちおう触っておきたい。