『のぼる小寺さん』の感想

『のぼる小寺さん』を観てきました。

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若手俳優がたくさん出ていて、なおかつ恋愛が主題の学園モノとなると、やや腰が引けてしまうのですが、予告編の塩梅がよさそうなのと、京アニ山田尚子監督と何本も傑作をものした吉田玲子さんの脚本ということで、ゴーサイン。

ただ、予告編でも工藤さんの脚にクロースアップしてるショットがあるなど、うーんどうかなという不安もあったけれど、それも見事本編で回収してくれました。品を保ったまま100分間にわたって、物語にも風景にも頼り切ることなく、彼ら彼女らの視線をスリリングに追いかけてくれました。

 

実に慎ましいストーリーへ大きく関係してくるのは主に5人。惰性で卓球部を続けている近藤、カメラが好きだが友人にそれを大っぴらにはしない田崎、不登校気味でギャル風の倉田、ボルダリングにひたむきな小寺、シャイだが小寺に惹かれて同じ部に入った四条。共通しているのは全員が進路表を白紙で提出していることです。

 

彼ら彼女らは、それぞれの仕方で自分の欲望(性的欲望と自己実現の欲求が曖昧に混ざり合う)を取り扱いかねているが、例外的に小寺だけは、目の前の壁を登り続けることにに専心し、周囲の雑音もまったく耳に入らないようす。件の進路表も「クライマー」と書きつけて教師に現実との折り合いをたしなめられるも、「嘘を書くんですか?」と虚心に尋ね返して困らせるような、映画の中では、いわば超越的な存在です。

 

そんな小寺に、四人はそれぞれの形で引き寄せられます。すでに書いた通り、四条は小寺に薄らかな恋慕の情があり、田崎はついカメラで小寺を盗み撮り、近藤はひたすら小寺を窃視します。とくに近藤は、5人の中でもっとも自分の欲望の在り処が不確かで、小寺への視線は四条のような恋慕に近いようでいて、むしろ小寺のひたむきなボルダリングへの集中=欲望それ自体へのあこがれと混ざり合っているように思います。この近藤のはっきりしなさにとどまり続けることが、脚本・演出の品の良さでもありますが、田崎といえば、そうした近藤の欲望を先まわるかのようにして小寺の肢体にクロースアップした映像を見せようとしたりもします(予告編の視点は、田崎のメタ的な視点でもあったわけです)。しかし近藤はそれにのめり込むでもなく、目を背けるでもありません。(とはいえここのあたり、ちょっと記憶が定かでない。だいぶ自分の力が落ちてるなと感じるなど...)

思春期とは、あるいは人間一般は、自分の欲望の不確かさに耐えられず、しばしば手近な欲望にすり替えて結論づけようとするものです。ですから、近藤は四条に小寺との関係を聞き出そうとしたりもする。しかし、そのなかで四条は近藤がつねに小寺を見ていることを指摘し、そのうえで小寺への無理解を批判もします。
近藤の視線は、田崎によって形を与えられようとするが像を結びきらず、四条によって不徹底を責められたりもする。が、もちろん、田崎にしても四条にしても、そうして批判的な他者への視線をもっているからといって、自分の欲望に向き合えているわけではない。それぞれの不確かさが、小寺という謎に引き寄せられるのみです。

ですが、彼ら彼女らが小寺という謎=自分の欲望をどう扱うのか、映画はこの葛藤に深入りはしません。この呼吸もすばらしい。シーンが変われば、近藤はとつぜんのように卓球へ打ち込み始めるのです。それは小寺の視線が自分に折り返される(小寺に欲望される)、かっこいいところを見せたい、という期待ではなく、まず「小寺(のよう)になること」で欲望を昇華させはじめるのです。

 

ですが、別様ではあるけれども、小寺もまた不確かさを持っています。それは偶然出くわした倉田に、豆だらけの手を指摘され、倉田の手によってネイルアートを施されれば、自分の手の別な姿に新鮮な驚きを得たりする。他の4人に比べれば微かかもしれないけれど、たしかに小寺も他人に影響され、また誰かを眼差していることが、映画の後半に明らかになっていくのです。また、ふたりは独特な距離感で、三度目に会えばいつの間にか「さん」づけから「ちゃん」呼びに変化していたり、いやあ、こういう描き方のうまさよ!となりますよね。。

 

そうした視線の関係...といっても、その関係性は画面内でダイレクトに描かれきるというより、画面と画面の間で想像的に補完されるものであり、その手付きの繊細さが映画を複雑にしています。
ほかにも、サブキャラクターであるボルダリング部の先輩が、やたら1年生の事情に明るかったり(ふたりの先輩もじつにすばらしいキャラクターです)、近藤の腐れ縁的友人と、じつに微妙な関係の調停を行うシーンは、これぞ吉田節!(原作にあったらすみませんが...)とうならされますし、しばしば障害物をひょいと飛び越える小寺のアクション(担任がベランダに佇む小寺を呼びつけ、また小寺がベランダに戻るとき、2回も窓を飛び越えるのだけど、ここがすばらしい)の華やかさなどなど、豊かな細部がフィクションの強度を支えています。

 

 

また、これはいわゆるネタバレというやつですが、クライマックスでそれぞれが、小寺の応援を介して自分の欲望と向き合えたかに見えた直後、田崎と倉田の自己実現が、必ずしもスムーズに行くわけではなく、他人の視線と折り合いをつけていく行く先が代表的に描かれていることに、ふかく納得させられもします。安易な結論へ先走ることのなかった物語は、最後までその微妙さを手放そうとしません。それだけに、小寺と近藤が交わすベンチのシーンの緊張感(極端な被写界深度の浅さに背景は金色に歪んで、いっそ異世界でのやり取りにすら見える)を、われわれはどのようにして受け取るべきか、実はそれほど簡単なように思えなかったことが、なによりも、『のぼる小寺さん』を見逃せない作品足らしめている気がします。

 

 

いやはや、書いてると整理が追いつかなくて、映画を見る体力が落ちてることに嫌でも気付かされるし、まあそんなことより、もう一回くらい観たいなあとなってきますね。
ともあれ、ふだんなら怠惰から見逃してしまっただろう作品へ出会うきっかけをくれた「推し」と、その「推し」の「推し」である工藤遥さんへ、ささやかに感謝します。

 

NILKLY配信を見て その2

現在大別してA~Dを並行して作業していて、今日は作業Aに従事。6時間くらい動いて、ちょっとずつ掴めてきたところと、まったく分かってなかったことが分かってきて、ひとまず来週に持ち越し。なんてこれ、そろそろ告知が始まりますが...

 

で、その作業の前に(先に作業をしろ)NIKLYの有料生配信 『FIVE DRIFTERS LIVE』をアーカイブで見ました。やはりジェニシーさんがいるとゴージャスだな〜、とか曲のアレンジ色々変わった?とか思いつつ首を振って見てたら、そのままうっかり最後まで通してしまいました。しかたない、面白いから。しかたない。。

 

冗談はともかく、生配信時は寝る前の時間にスタートしたので、様子だけでもと思ったら楽屋(見慣れたコインロッカーの前だけど)の様子が。...これこれ!こういうことですよ。出番前から配信はスタートしてほしいんですよ、とまさに我が意を得たりで、しかも一台のカメラでそれを追い続けてるわけだから、これはどうステージに上るのか見届けねばと思いつつ歯など磨いていたけども、これがまた絶妙なタイミングでカメラがスイッチされたのは見逃しませんでした。楽屋からステージへのシームレスな移行に見えて、その実しっかりと切断があるのは、技術上進行上の必要もさることながら、パフォーマーのオンとオフの切替、まさしく場の空気が変わることに寄り添ったスタンスでもあるでしょう。

 

さて配信本編、りんご太郎さんの前後移動するカメラオペレーションは今回も健在。カウントに同期しつつ前後しているかに見えて、時々そのリズムが微妙に変化し、また曲が変わればそれに応じて前後移動のシークエンスも長短を変じます。
こうしたフレキシブルなスタンスの持ちようが、後半の「odyssey」などでは、ここはパフォーマンスの熱にノってもOKと言わんばかりに、前後だけでなく左右へもグイグイと動き出すことになり、ここぞというときはメンバーの顔とガッツリ対峙することも辞さないありかたにライヴ感がありました。

 

こういうカメラの動きを見ると思い出すのは、友人のオタクが撮っていたファンカムなのですが、フロアのテンションというか自分のテンションに忠実な画面の揺れ動きは、対象を正しく捉えるということの幅広さについて、いつも考えさせられます(ただ、この方は後に、意識的にしっかりした画作りに傾倒していくのですが)。

 

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こうしたアクビレックの生配信では、擬似的な臨場性だけが武器になるのでなく、がっちり視覚的にデザインされたパッケージを積極的に見せていくスタンスといえます。またそれが装飾的というより、ライブ感をどう映像に翻訳するかへ賭けられているようにも見えることも重要でしょう。これは、現在の音楽界の配信状況の中でも、わりと特異なあり方なのではないでしょうか。
そしてまた、アクビレックの配信チームは、素人目にも相当なクオリティを誇っているようにも見えます。(とくに、弛緩した画面とダイナミックな動きのある画面を瞬間的に采配する、ふたつの意味で無数の現場経験のあるらしいスイッチャー加賀さんの仕事ぶりは際立っています)実際、配信を見た観客の反応も絶賛といっていいものでしたし、繰り返すなら、もちろん私もとても楽しませてもらいました。

 

...ただ私は、評価が高まると、どこかで逆にも振りたくなる癖があるので、クオリティが高いことが即、すぐれた配信になるわけではないという話もしておきたくなってしまう。

 

ということで、こうした状況以前から、わりとカジュアルに生配信を行っていたアイドル、3776の存在を今いちど確認したいものです。ライブに限らず、旅先で、それもとくにティピカルな風景でもないどこかで、じつに絶妙なやり取りを見せてくれる井手さん・石田さんコンビ(あえてこう言ってしまいますが)の空気感。また、音響もごくミニマムなセットで行われていた全国行脚シリーズの配信も、たいてい固定カメラのみの簡易なものでした。一見するとロークオリティな弱い表現も、実は常に相対的なものでしかありません。3776においては、後のワンマンライブで「ダイナミズムへの誘い」というコンセプトへと、その弱さが回収されていった部分もあります。

 

ですから、アクビレックのハイクオリティな配信を楽しみ驚きつつ、そこから直ちに「ハイクオリティだから良い」という論理に流されきることなく、どこかひ弱ですらある配信にも、積極的なおもしろさが生まれうると期待したくなるのが、私にとってのアイドル文化であります。
ないものねだりというかわがままというか、そういうのも見たいなあ。たぶん、見てないだけであるんだとは思う。

 

 

あ、タイトル「その2」にしたけど、前は微妙に違うのよね。まったくどうでもいいし、いきなり最後に言うようなことでもない。

友人のこと

一昨日、7月14日の朝に20年付き合いのある友人が急逝。35歳。同じ日の午後いちばんに連絡があり、そこからは心当たりに連絡し通しでした。さっきまで仕事の連絡を取ってた人にも、数年ぶりに声を聞く人も、仕事中で電話に出られないと分かってるはずの人にも何度もリダイヤルしたり、もしかしたら、もう少し落ち着いてから連絡しても良かったかもしれないと、その日は考えていました。結局のところ、そんなに急いで伝えなければいけないと考えてるのは、おそらく、他ならない自分のためであるからです。

 

20年の付き合いのなか、特にここ数年は、彼にイベントごとのスタッフワークをお願いする機会が非常に多かった。仕事を辞め、時間に自由が効くのもあるし、頼めばふたつ返事で引き受けてくれる、ということにひたすら甘えていた自覚もあります。彼独特のノリというか優しさから「ジョリオ(古い付き合いの友人は私をこう呼びます)のお願いだから聞いてるんだよ。他だったら面倒くせえし」と言ってくれたこともある彼、しかし二人きりで出かけることもなかったし、こまめに連絡を取ることもなかった。

いつだか、いつものようにイベントの手伝いの合間、カレーにハマってるらしいので、近くのまあまあ美味しいカレー屋に一緒に行ったことを思い出します。彼はそこでいつも通り、様々なトピックを、あの切れ目ない喋り方で喋っていたような気もするし、それは別の時だったかもしれません。

 

こうして彼について書いているけど、彼はこういう文章を読まない気がしているし、自分がこういう書き物をしていることも知らなかった気がする。だから、彼に向けて書いてるわけではないし、ほんとうに自分が勝手に書いているだけです。

 

彼の急逝は、辛いとか悲しいという実感より、自分のパーツのどこかが、取り返しようもなく破壊された、という感触がいちばん近い。深く落ち込むのではなく、ただただ、時間の隙間ごとに彼の記憶が、領域を修復するかのように反復されます。それは、意識的な作業でなく、自動的に行われているようで、だから意識的には仕事にも戻ったし、家事もこなして、本を読んだりバラエティ番組を見たりも普通にしていました。ただ、思い出す作業はまだ止みません。

 

彼に向けて演劇的に語りかけてみたり、儀礼的に冥福を祈ったり、どれもできそうもない。もう一度同じことを言うと、くだらないニュースに腹を立ててるし、せっかく取り寄せて買った本がつまらなくて途中で投げたりしたし、寝る前にすこし眺めた配信のクオリティに触発されて何かを考えたりしている。至って普通にもしている。

 

この文章では「彼が死んでしまった自分」についてしか書くことができません。それを書く意味についての自問もあったけれど、プライベートのみならず、何度も仕事に協力してくれた友人について無言でいることのほうが私には不自然で、書く時期については早いかもしれないと思うものの、葬儀が終わったら、初七日があけたら、四十九日があけたら、と外在的な基準はそぐわず、繰り返すように、もっぱら私自身の尺度と必要で書いているだけです。あとから、尚早であったと不明を恥じるかもしれません。

 

ただ、これも個人的な経験から、誰かの死は、そこに関係していないまったくの他人によっても悼まれ得る、ということを強く経験しています。これを読む誰かがほんの瞬間、知らないであろう彼の死を頭に描くとしたら、それをかすかな免罪の手触りとして、ここに記します。

作業の寄り道:銀座線の車窓から

ひー、ワークライフバランスってやつが極端すぎて、毎日ゲーム三昧から毎日仕事三昧へ180°転換。どれも慣れない作業で、それほど複雑でないはずのことも、寝ぼけた毎日のリズムに叩き込まれた何重ものポリリズムで、脳がミシミシ言っております。そこに毎日の家事雑事バイトも折り重なって、学業とアイドルの両立、俺は無理!卒業します!と意味不明に飛躍した仮定で慰めにならない慰めを行うばかりです。

 

昨夕、休憩がてらと久々にアニメを観たら、これがぶっ飛んだクオリティで、ああいずこは更に大変なのかなと、かなり余計な時間でした。地震で完全倒壊した自宅から、夕刻でもはっきりと分かる光量のLEDライト(と何らかの発電装置)を山の裏へ大量に運んだお父さん、何者なんだ。次の話では爆死(比喩でなく)するとネタバレを読みましたが、残念ながらその勇姿を拝むことはなさそうです。

 

ではと趣向を変えて座右の本をまさぐれば、カール・シュミットの入門書だの『公開性の根源』だの、平時でも頭のリソースが削られそうな本が借りられており、やはり判断がバグっている。

 

ゲーム関係の話も、噂通り『ブレイキング・バッド』の「ガス」ことジャンカルロ・エスポジートが『FarCry6』のヴィランに決定とのニュースに、そもそも『FarCry5』が積みゲーとなっているのに、そんなこと知るか!と理不尽な怒りを覚えたので、AIがサジェストしてくれたBLACKPINKのメンバーが他愛もないことを喋ってる動画に日本語字幕がついてるものを再生してみたら、編集がプロ!ファンベースの仕事じゃねえ!と、何をみてもカッとなるので、このまま若き坂本龍一よろしく往来の汚いショーケースなどを破壊しないよう、より一層の自制が求められます。

 

いま手を動かしてるのが、こなすのでなく、どれも相応に「試したいこと」がある内容なので、切り替えの鈍い現行の脳みそに頼らず、もうひとつフレッシュな詰め替え用の脳みそが補助にほしいところ。

 

はやく梅雨あけろー。

作業の寄り道:ミグマシェルター

本日は喫茶室るのあーるからの更新です。コーヒーが600円超って、誰が行くか!と貧乏根性丸出しの忌避感を抱いてたるのあーる、先週適当なお店がなくてひさしぶりに入店したら、快適さに驚いた次第。椅子もテーブルの高さも塩梅がいい。wifiも連続3時間つながる。作業が捗りました。

昨日も無駄話に2000字使った甲斐があってか、同じくらいの分量の進捗がありました。とはいえ、全部消すほどリライトしないとまだ使い物にならないのですが。

 

 

しかしミグマシェルターの配信は良かったですねえ〜。以前からのレパートリーパート→新作パート→MEGAMIXパートの三部構成で、尻上がりに集中が深まっていくのに、なぜか幸せいっぱいにも笑っているメンバーたちのパフォーマンスは、アクビレックならではの雰囲気ですし、また体力的な追い込みがステージに強度をもたらすという、シンプルな事実を再確認させてくれます。あと今回印象を新たにしたのが活休になるナーナナラさん。MCでも大活躍だし、ステージ上ではいっそ貫禄すら漂っていました。

 

配信そのものもNILKLYの配信でもカメラを持っていたりんご太郎さんや、界隈ではお馴染みの加賀さんのスイッチング、リキッドの照明等含め、その他配信と単なるクオリティの高低の差というだけでなく、演者とスタッフがチームとして協同していることが感じられ、それはダイレクトに現場のポジティヴな「空気」としてディスプレイ側にいても受け取れるものだなと思いました。

 

唯一、ごく個人的な、重箱の隅の隅の隅を突くような、ほとんど共感を得られないだろう違和感(まあ元から多くの共感を得るようなことなどひとつも書いてきてませんが)だけ書くと、わざわざエンドステージでパフォーマンスが行われることの必然性が掴めなくなるなと、そのステージの縁が映るたびに思いました。なんでわざわざ狭い長方形のステージ上に収まっているのか。かといってパフォーマーが安易にフロアに降りればいいものでもありません。そうしたところでステージ/フロアという図式は崩れませんし、むしろ「降りた」という行為が両者の区別を強化すらするわけで。要するに最初からフルフラットな場所(NILKLYのダンスパフォーマンス配信はダンススタジオからだったので、この意味で効果的に見えたのもある)で、照明もイチから組んで...もちろんなんの現場感覚もない素人の妄言です。音響問題も考慮してませんしね。

 

それにしても新作『Alice』から発表された新曲たち。前半は不思議の国のアリスのイメージに寄り添った楽曲、後半は比較的ベタにサイケトランスに準じた楽曲、という印象でした。そのどちらもいい曲だったけど、これはアルバムを頭から聴き通すことで見えてくる経験を前提にしているだろうなと予想され、今回の断片的な印象でいうと、ディレクターの田中さんはつくづく見せる/踊らせるという矛盾に引き裂かれている人なのだなと。

というのも、前半に披露された「Egg Head」などに顕著に思いましたが、なかなかサイトランスとは呼びづらそうな(サイトランスで準拠してるだろう曲をご存じの方は教えて下さい)、ティンパニのデンドンデンドンした音から始まるマーチングふうのアレンジと、鶏の鳴き声のSE、そして上下に3:3で別れてぶりっ子(?)ダンス組と深く腰を落として頭を振り回す組が交互にパフォーマンスするパートは、やはり踊るというより、ステージ上の成り行きを見るシーンではあると思います。もちろんオタクがすぐにこうしたパフォーマンスに同期していく流れも想像できますが、頭がぶっ壊れるまで踊らせるコンセプトを追求する中で、むしろノイズに感じられる劇的要素が混入してくることに、田中Dの作家性みたいなものを感じずにはいられません。(そういえば1stワンマンに続いて今回も小芝居がありました)

そもそもベルハーが、そうした見せる/踊らせることを同時に一身へ引き受けたパフォーマンスグループであったはずだし、その後のミグマシェルターとゼアゼアの発足は、この引き受けを棲み分けることにもテーマがあったはずなのに、結果ゼアゼアの後期ではひじょうにダンサブルな楽曲がレパートリーに加わっていったり、見せる/踊らせることは、田中さんのなかでどうしても根っから分かちがたく混ざり合ってしまうものなのでしょう。おそらくミグマシェルターの『Alice』では、そうした避けがたい混在が「サイケデリック」という主題と融和していくのではないか、という希望的な見通しもたちます。

アルバム、今年イチ楽しみにしていると言っても過言ではないので、7/23の先行配信がまちどおしい。いっちばんシビアな時期だったのでクラファンに参加できなかったのが今になって響いてるぜ!

 

それにしても7月、このあとNILKLYがあってKIRINJIがあって...そこにまさかの達郎さんまで配信に参加ということでさすがに懐が気になってきます。だがどれも外し難い...あと『Ghost of Tsushima』も来るし...締切もあるし...どうにかなんないっすか。ならないですね。

 

作業の寄り道:配信の話

今日はマックではなく、主現場である近所のタリーズからお送りしています。向かいの席ではホットコーヒーのカップを置いた女性が一心不乱にスマホを操作しています。
タリーズは価格帯こそ若干高めですが、椅子とwifiの環境に優れているのですきです。

 

 

ほとんどあらゆるライヴコンテンツ(コンテンツって言い方嫌いですけどね)が配信に代替されている現状を比較的関心を持って眺めているつもりですが、ことアイドルとなると及び腰になっていて、なんだかんだと「現場主義」的な自分たちがいるなーなどと友人とzoomで会話していた先日、たしかにそういう側面はあるものの、よく考えたら転居以来さまざまな理由で現場の数は減って、そもそも配信だろうが現場だろうが、最近はあまり関わってなかったなと気づきました。まあ、そもそもあいつら(知り合いのオタク)が通い過ぎなのである。

 

とはいえ、アイドルが配信でどう状況に応答していくのか、もうちょっとまともに見ていかんと、と思ってさっそく昨日の「エクストロメ」の生配信チケットを購入。まずいちばん最初のRAYだけみました(アルバイトの都合上、9時には寝てしまうので)。

 

映像の形式的にはライヴハウスでのパフォーマンスを複数台のカメラで追う、という、音楽ライヴ配信といえばこういったかたち、と想像される一般的なスタイルでしたが、まあやはり個人的にはライヴでも配信でも、そんなに変わらないなあと印象を変えずにいました。

前も少し書いたけど、映像文化にも親しんでいるし、そもそも映像を介した経験のほうが現場での経験を圧倒的に数で上回っているので、なんの違和感もありません。どちらでも面白いときもあれば、そうでもないときもある。RAYに関していうなら、初パフォーマンスの楽曲群は、音源とは違った"ライヴならではの"新鮮な印象のもと、楽しむことができました。「オールニードイズラブ」は先行発表のときに、その良さを掴みかねていましたけれど、アルバムの流れで聞くこと、そして"ライヴで見ること"で、どんどん楽しみ方がわかるようになってきています。

 

しかし逆に言えば、ライヴ経験において現場も生配信もそう変わらないとしたら、配信だから積極的に見る理由もないし、現場が解禁されたところで勇んで行く理由にもならないという、在宅でも出不精というのは発揮されるのだという2020年ならではの発見があるのみです。いわずもがな、これはコンテンツを提供してくれる(繰り返しますがコンテンツって言い方嫌いです)側にはなんの責もないことです。また人前に出て飯を食べている端くれとしても、お客さんがなんとなく腰が重く感じてしまう心持ちを、逆の立場からもうっすらと理解しているつもりです。

ただいずれにしても、現場と配信を二項対立化して現場主義を強化していくような流れには、わずかでも疑義を呈して抵抗していきたいものです。個人的にささやかなアイディアがあるとすれば、いろいろ都合はあるのでしょうが、配信の枠をもう少しゆるやかに設計したいなと思っています。たとえば出番前からテストを兼ねて配信をスタートし、どこかに据えたカメラへ出演者が自由に絡めるようにしておく、とか。配信ではないものの、これはAKB48がオマケ映像でよくやっていました。
結局、実際の現場はきっちり縁取られた枠内でのパフォーマンス経験にとどまらないノイジーなものなので(わたしは枠内でのパフォーマンス経験を重視しているので、ライヴと配信で差異が大きく働かないということでもある)、事前と事後のだらだらした時間も配信内に入れ込みたい。そこはさまざまアイディアが出せるし、面白いところなんじゃないかなと思います。また、テレビなんかに相当な蓄積がある気がします。

 

 

じぶんもテレビをあまり見なくなってしまったものの、いまはTVerのおかげでいくつかはチェックしてます。「テレビ千鳥」「千原ジュニアの座王」「ゴッドタン」あと、たまに見たいときは「アメトーク」も録画したり、要するに芸人色の強いバラエティ番組は結構見ています。このブログでは、雑然とさまざまなものについて書いてきたけど、お笑いについて書くのはかなり抑圧していたので、初めて書くような気がしますね。

 

先日「ガキの使いやあらへんで」でリモート大喜利という企画をやっていまして、これが面白いというか、松本さんの芸のほんとうに天才的な感覚を見せつける30分でした。

キャスティングされたのは、いわゆる大喜利が得手ではない芸人と、レギュラーメンバーの計9名。出されたお題に全員が連続「正解」したら賞金が出るという体裁です。むろん、大喜利に「正解」も何もなく、ただただ松本さんの采配でそれがコントロールされるわけです。
くわえて、大喜利が得手ではない芸人たちが出す答えは、微妙にズレています。さらにその"ズレ"は、リモート環境による状況がもたらす、本来あるはずの空気のまとまりからの"ズレ"と重なり、なぜか妙な面白みを持ってしまう(浜田さんがしばしば顔を背け笑ってしまう姿がワイプで抜かれ続ける)、という複雑な前提を、スタジオで成否を判定する松本さんが完全にコントロール(スタッフとの協同もあるのでしょうが)しているのです。
つまり、つまらない答えでもあえて正解を出し続けて「流れ」を作りつつ、どこかで不正解を理不尽にあたえることで、その「流れ」をぶったぎる。番組で見られる、この「流れ」のハンドリングはどう考えても名人芸としかいいようがありません。リモートという、ダイレクトな臨場性がないからこその縛りゲーを悠々とクリアしてみせる芸人たちの姿は、ちょっと驚くべきものに思えました。あんなのちょっとできないよなー。

 

 

 などと、ここに費やした文字数を本来の仕事に当てればずいぶんな進捗なのですが。

さーどうするかな...

作業の寄り道:ダンスの話

7月に入ったら急にやることが増えました。今日も朝からノマドワーカーよろしくマックでPCのキーボードを叩いていたのに、気づいたらYoutube見てましたね。

 

それより昨日公開されたブルピン新曲のダンス動画。手数多すぎませんか。3分間でフレーズの使い回しがほぼ出てこない。
特に、下の2:02〜2:04の動きの当て方の細かさにびっくりした。ふりまわされるような視線誘導もあるし、ラストはジェニーが前方に出てくることへのフリとしても機能している。うーん、すごい。
こんな感じで面白がって20回以上リピートして見てます。マックでも見てます。

youtu.be

さらに概要欄でダンスカバーコンテストを開催しているらしいことを知ったので、これも検索していくつかチェック。韓国はもちろん、ベトナムにロシア、フランス...と要するに世界中で行われてるわけですな、と了解。(めちゃオーディエンスが「密」になってる動画があって、おおらかでした)わたしはダンスをやらないのでテクニカルな事がほとんどわかりませんが、こんなに手数の多いダンスをあっという間に完コピ出来てしまう人たちがたくさんいて驚きです。見た限りでは映像も手が込んでます。

と同時に、本家の巧みさにあらためて気付かされてしまうことも。ことにリサの踊りをもっとも目で追ってしまうことにも気づきました。身体のコントロールの切れ味はもとより、そのスキルでビートを乗りこなして音楽が視覚化される感触が確かに伝わるのと、たとえば0:58~あたり「Look at you now look at me」と繰り返されるシーンでの視線の使い方など、表情の水準でもダンスに豊かな彩りをあたえて、そりゃ世界のアイドルですわ...と今さらに感嘆。
日本のアイドルに親しんでいるとK-POPとの表現の差に乗り切れなさを感じることのほうが多いけど、BLACKPINKはまあ、ちょっと見ちゃうよなーと毎回新曲が出るたび思ってしまいます。(最近はITZYも気に入って聞いてたりした)

 

そうそう、ここ1ヶ月くらい武藤大祐さんのオンライン講義「舞踊概論」を受講していて、やっぱりダンスは面白いよなとなっているところでもあります。

 

 

特に前回は振付とゲームデザインの相似性が展開されていて、目下の関心とも重なりが大きい回でした。そのなかでちらっと触れられてたのですけど、DDRのようなダンスとゲームの見分けがつかなくなってるようなもののプレイヤーの一部には、これはゲームプレイだからダンスではなく、ゆえに恥ずかしさがない、というような考えがあるらしく、結構新鮮な驚きでした。ゲームセンターとかでヘタな大道芸より集客してしまうプレイヤーを見かけたりしますが、そういう人たちの中に自意識の免罪(?)があったりするのだなあと。そして同時に、ダンスとは自意識の絡む、いわば「自己表現」という一般的な理解が根強くあるのかなと。

 

講義内でも紹介されたフォーサイスインスタレーションが、オブジェクトを介して参加者から非意識的な「ダンス」を引き出してくるように、DDRもまたゲーム上のタスクが非意識的なダンスを生成するわけですが、そうしたダンスと一般的に理解されるダンスのイメージが区別される要素に自意識(自己表現的?)の存在が大きいのは、その他の領域でもすぐ思い浮かびそうな、ある種現代の特徴なのかもしれません。

 

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となると、ブルピンのような複雑で手数の多い振付は、まさしく過剰なタスクが踊り手にゲーム性をもたらして、そのことが自意識との乖離をあたえて参入障壁を下げてる側面もあるのかもしれません。表現すべき自己がダンスの形をまとうのでなく、あらかじめ振り付けられたフォームが、参加者=ダンサーの内面をメイクしてくれるような。tiktokのダンス動画の流行とかも、そうした線で見られる気がしています。自分の世代から見ても既にすごい不思議な文化なんですけどね。

 

自意識性と非自意識性は、実はアイドルを考えるのに欠かせないテーマだと思っているのですが、こうした補助線を引きつつのちのち何か考えられればね。

 

さて、そうこうしてるうちにマックの厨房が忙しない雰囲気になってきた。ウーバーイーツの配達員がひっきりなしにやってきている。

 

では、そろそろ帰って作業...あ、今日は読書会だ!