ある踊り子

持て余すほどの幸福に預かるとき、何も考えずにそれに浸り切るのでなく、それをどうにか誰かに分け与えられないかと思う。
その幸福の中身は、各々によって様々であるだろうが、私はある踊り子を介して得られた幸福を等分することはできないか、やはり考えてしまう。
ただ惚けたようにしてられないのは、やはりそれが私以外の誰かにとっても、同じように強い幸福を与える可能性を思うからだろう。すると結論は決まってくる。その幸福は、劇場にしかない。だから、人を劇場に差し向けなければいけない。どうすれば人は劇場に向かうのか? それがわかっていれば苦労はない。
試しにいったん視点を移そう。「私はなぜ劇場に向かったのか」。ひとまず、これには答えられる。

                 

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3連続で書いた見聞記以降、どのくらいのペースで観劇に行くか決めかねていた。
ストリップという芸能がもつ強度と特異性に惹かれつつ、私的な文脈からとりわけ「音楽と踊り」の関係が特に気になってはいた。振付によって楽曲を解釈するという点において、ストリップの踊りは、その形式性も手伝って、独特なものがある。手当たりしだいに観に行くこともできるけれど...さすがに許されない現実的な事情がいくつもある。
こうして、自分がストリップを視野に入れたきっかけになった武藤大祐さんが高く評価していた踊り子の名前が思いだされた。武藤さんによれば、この踊り子ほど構成力があり、音楽の扱いにも優れている人にはまだ出会っていないとのこと。なるほど、どんな演目がおすすめなのかだけでも聞いておこうと、教えを頂いた。
ある踊り子こと「宇佐美なつ」の名前が上がるのは、この文脈においてだった。


宇佐美なつの名前は『イルミナ』で見ていた。宇佐美の書いた文章も読み、ふとしたきっかけの観劇体験が高じて業界に飛び込んだというプロフィールも知っていた。珍しい背景への関心もあったし、文章に書かれていたことも気になっていた。
とはいえ、生まれながらの踊り子としかいいようのない友坂麗に打たれていたので、どこか懐疑的な気分もあった。一方で、武藤さんがあれほど言うなら...という思いもあり、結果、気になってしまったので、演目について情報を頂いた翌朝、突発的に渋谷に向かった。観劇ペースも許されない事情もへったくれもない。
つくづく思うが、自分にとって一番強い行動原理は「確認」である。大きい出来事では、海外のフロアがどうなってるのか「確認」したくてBABYMETALのEUツアーに参加した。渋谷など、話にならない。他に誰が出るのかもよくしらないまま、二週間ぶりの道頓堀劇場に向かった。

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そこで見たものには、動揺させられた。面白い、とか、美しい、とかでなく、動揺。
動揺のまま、混み合うポラはスルーして、ロビーで武藤さんにメッセージを送りつける。いまログを見ると「凄すぎました!!!!」と「!」が4つもある。
動揺の由来は私的に過ぎて伝わるとも思えない。端的にいえば、同じパフォーマーとして心からの敗北、爽快そのものの敗北を覚えた。その爽快さは熱になって––ほとんど悪癖のようになっている––勢いのままに感想を連続でツイートした。言葉を留めておく余裕はまったくなかった。劇場に向かったのは、あくまでも「確認」の意味のはずだったが、つまるところ「予感」だったのではないかと、今は思う。


私が劇場に向かった理由は、大まかにはこうした話。人にはそれぞれの必然性があり、その必然性が噛み合う限りで行動に変化する。私にあった必然性の説明は、相変わらず人を差し向ける理由には足らない。

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では、宇佐美なつとは、どんな踊り子なのか、どんなふうに優れているパフォーマーなのかを話さないとならない。

宇佐美が、あまたの踊り子、パフォーマーと一線を画しているとするなら。その特質は簡単に指摘できる。宇佐美のずば抜けた能力は、抜群の「耳の良さ」である。
「耳の良さ」とは楽曲を楽曲足らしめているひとつひとつの音を拾い上げる細やかさと、それらひとつひとつの音が織りなす曲の流れを見極める力(耳の話に目の比喩は不適当だが)のことだ。
その耳の良さは、当然、振付を介して感受される。踊り手が聴いている音が、振付という視覚情報に変換されるわけだ。


振付には、スタイルというものがある。私が今までに見た3作品にかんして言うなら、宇佐美の振付はアイドルのダンスが下地にあるスタイルだった。
アイドルのダンスとはなにか。手振りを中心とした、当て振りを多く含むダンスだ、とひとまず言っておく。アイドルのダンスには、あまり高級なイメージはないかもしれない。いや、はっきり言ってしまえば、低級なダンスではないかという疑いさえ向けられる。技術的に熟達していなくても習得でき、観客も容易に反復可能なダンス...「アイドルのダンス」の実際がそうしたものかどうか、ここでは問わない。また、問の立て方もふさわしくない。いずれにせよ問題は、宇佐美のダンスには、どこか凡庸な香りが漂っていることなのだ。


凡庸さとはなんだろうか。端的には平凡で、取り柄がないこと。見るべきものがない、ということを指す。ところで、見るべきものがないという判断はどこで働くのか。
何気なく顔を向けた電車の車窓から、こんなが風景が見えたとする。狭苦しく肩を寄せて居並ぶ家々と、経年を感じる低層アパート。剥き出しの階段は錆び付いている。遠くには建築中のタワーマンション。目を落とせば整備も行き届かない歩道の隅からは雑草が茂って、その横に犬を連れた老人がゆっくり歩いて、自転車に乗った子供が軽快に追い抜く...おそらく、特に胸が浮き立つ光景ではない。ありきたりで、どんな色形の建物があったか、子供や老人の顔がどうだったかなど、車窓の彼方に思い出せもしない。そんな風景を私たちは実際に何度も見てきただろう。
ただ、そうして「何度も見た」と思う心性は、しばしば、ただの先入観と見分けがつかないのではないだろうか。家々の意匠を見逃し、生活の多様さにも想像を働かせず、草の名も犬の種類も知らない。「ただの風景」に塗り込めてしまうのは、私たちがそれについてあえて考えずに済むものと思い込んでいるからにすぎない。
先入観とは、かように予断のことである。予断とは、現実に即していない判断のことである。あるいは、現実に向き合う手間を諦めてしまった思考のことである。凡庸さは、対象を誠実に眺めることを捨ててしまった、現実に即していない我々の判断の結果に現れるものではないだろうか。

われわれの多くは宇佐美ほど耳が良くない。目に頼りすぎていると——裸体を巡る視覚的なショーにも関わらず——宇佐美がなぜそうした動きを行っているのか、意味を掴みそこねるかもしれない。私たちは、他ならない私たち自身の凡庸さによって、そのダンスがどこかで見たような「アイドルのダンス」だと、凡庸なダンスだと、思いこんでしまうかもしれない。
宇佐美が振付を介して証明する耳の良さは、楽曲という現実の細かさに分け入るデリケートさだ。楽曲に鳴り響く無数の音は、あとから恣意的に付け加えられたものではなく、あらかじめ先に存在している。それをひとつずつ着実に拾い上げていくこと。宇佐美の振付は、この事実と対応している。その限りにおいて、いかに宇佐美のダンスが凡庸さと踵を接しているかにみえても、宇佐美自身に凡庸さは全くない。

しかし、一方で宇佐美の振付には「当て振り」が頻出する。「当て振り」とは、当の楽曲の歌詞が指示するイメージに対応する。
たとえば「泳ぐ」という歌詞があるとする。それに応じて、振付で、水をかくような動きがあてられてるとする。すいすいと平泳ぎのようにするかもしれないし、クロールを模した形になるかもしれない。重要なのは、そこでは、動作の正確さは問われないということだ。ここでは「泳ぐ」ことにある具体性、水の抵抗に応じる筋肉その他組織の仔細な再現があるわけではない。ここでは"だいたい"で「泳ぐ」ことが伝われば充分なのだ。
つまり宇佐美の振付にはその持ち前の聴力で細やかな現実(=楽曲)に分け入りつつ、同時にざっくりとした現実(=当て振り)が混ざり込むことを排除しない。宇佐美の踊りには、細やかさと大雑把さとを、一枚岩でない綜合的な「現実」として広く取り込む力が働いているのではないだろうか。
宇佐美の振付において凡庸さが感じられるとして、それは完全な誤りではない。凡庸さは、現実のひとつのありかたを受け入れる、可能性のあらわれでもある。だいたいのことは、だいたいで動いている。一方で、そのだいたいのありようを受け入れる繊細さがある。宇佐美は予断の残り香を濃厚に纏いつつ、微細な現実に向かって踊る。

 

けれども、まだ「ストリップ」は始まっていない。 

 

宇佐美の踊りは、前半から後半にかけ、大きく展開する。すなわち、脱衣が始まれば、空気は変わる。それが上半身から始まるにせよ下半身から始まるにせよ、脱衣の時間には芸のすべてが注ぎ込まれているかにもみえる。宇佐美の脱衣には、われわれが裸体を眼差す欲望の視線をアクロバットに飛び越えるような、あるいは綱渡るようなスリルを、絶対に欠くことがない。また、裸体があらわになってもなお、どこかに緊張を残している。それは当然、切れることない音楽の聴取への集中も変わらず続いているからでもあるが、惜しみなく与えつつも観客との関係に線を引き続ける感触がある。あるいは、互いの関係に線を引き直す感触が。

 

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ストリップとは当然、女性の裸体を眼差す芸能のことである。男性が脱衣する芸があるにせよ、現在の多くのストリップではそうではない。
なぜ女性を眼差すのか。言うまでもなく、快楽が引き出せるからだ。その快楽は性的であり、多数派に準じるなら、それは男性にとっての性的な快楽だ。
性的な快楽は、他者を必要とする。しかし、基本的な合意をがとれた関係を前提としても、性の場で互いが均等にずっと対称的な関係を築けるわけではない。SMのようにまで偏ったものを想像するまでもなく、バランスの不均衡それ自体に快楽が生じることは当たり前でもあるだろう。わたしたちは性をめぐるやりとりにおいて、平等の基準を探り合う。
けれども、性をめぐるやりとりは、常にバランスを取り合うわけではない。ともすれば非対称な関係に傾きすぎてしまう。むしろ、その非対称性は社会においては前提としてスタートすらしている。
たとえば一般に、性器を名指すことは社会的に退けられている。しかし、しばしばその習わしは破綻する。問題は、この習わしの破綻が、多く男性によって行われることである。男性には、性器を名指すことの禁止を破る権利が過分に与えられている。このささいな禁止の侵犯は僅かずつではあっても快楽を備給する。非対称性そのものを性的に啜り上げる公然とした後ろめたさがそこにあるだろう。

                  

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私は、宇佐美がポラの時間に客とやりとりをする中で、直截に性器及び性器の部位の名称について口にする瞬間が、とてつもなく好きだ。
私は同性異性問わず、性器の俗称を口にすることも、性的なことがら一般について話すのも苦手だが、宇佐美の振る舞いに、快いものを感じる。
これは女性による、一般社会で男性だけが持っている踏み越えの権利の奪取が起きていて、それが痛快なのかというと、必ずしもそうではない、と感じる。宇佐美は逆張りとして"あえてそう言って見せてる"わけではないはずだ。この感覚がどういう根拠に基づくことなのか、私にもまだ分かっていない。
その場が、男たちの視線が快楽を求めて漂う場であることは、前提のままである。事態はとくに何も変わっていない。しかし、いつの間にか、ほんの瞬間に価値の転倒も生じている。性器をとりまく、実に保守的な欲望の場は、ふとした瞬間にずらされている。あれほど人が執着し、本国においてはプレーンな表象すら避けられる対象となる性器の価値は、乗り越える以前に、さしあたっていったんどうでもよいものになる。宇佐美と(あるいはすべての踊り子たちと)性器をめぐってかすかに笑い合うとき、空気は確かに動いているかに感じる。私は触れ合うことなく、何かを可能にする希望だけ受け取っている。
でもそれは、劇場にいるすべての人にとってではない。あいかわらず性器を特別なものとして見たい欲望は残っているし、やはり一枚岩ではない。そのバラバラさを保ちつつ、岩肌を縫って線が引かれ直す。
    

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昨今の忌々しい"浄化作戦"の余波か、一部の劇場にではオープンショーには縛りがあった。踊り子たちは笑いながら困ったようにしていたが、ある回の宇佐美は、本来のそれと違う、素足の指を広げて、客に足を向けて見せて回って、ラストは司会のいれた茶々通りに、舞台の中央で鼻の穴を指で広げて帰っていった。
オープンショーという形式を即興的に利用して、パフォーマーの勘として、即座にこの一連の振る舞いが導き出されたことにいたく感動したし、とても楽しかった。私もようやくオープンショーの楽しさを掴みかけていたところだったが、宇佐美の足指オープンショーがこの時間の豊かさを決定的にしてくれたと思う。
裸になる、ということの内実は、その言葉ほど簡単なことではない。私たちは何かとそれを見たがるが、とくに見たいとは思わない足の指の間(フェティッシュがある人はたまらないかもしれないが、こちらの想像の埒外である)を見せられて笑っていることと、どう関係しあっているだろうか。

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本当は、宇佐美の芸の細部がどれほど豊かで、また、今後にどんな可能性を感じるかについて話がしたい。その衣装の使い方がいかに巧みか、本舞台からベットへと展開するドラマトゥルギーがどれほど大胆か、選曲の一貫性、曲間のコントロール、音楽の高まりを余すところなく捉えたポーズがどれだけ感動的か、下着の処理がどれほど完璧か、話したくて仕方がない。「Positive」のラスト、歌詞に合わせて両腕を開き、後ろへ向き直って飛ぶように踊る姿が、なぜあれほど感動的になるかについて、「黒煙」でのヘアアクセサリーの取り外しが、肌に触れずとも演出によって脱衣に特有のサスペンスを成立させていることについて、「Spring Vision」で暗転中に流れているだけの音楽が、どうしてこんなに胸を詰まらせるのかについて、考えたくて仕方がない。

 

私はこの文章を、「宇佐美なつを観に行け」という"動員"のつもりで書いてきたはずだった。それは幸福を分け与えるためのつもりだったが、むしろこうした悩ましさを共有したいからなのかもしれない。

 

いや、いっそ、誰かを拙く促すことなど、諦めてしまえばいいのかもしれないとすら思い始める。もっとも必要なのは、宇佐美もまた他の誰かから受け取ったはずのストリップの幸福が、私へとまた分け与えられている喜びに湯浴みするように、少なくともその心においてくらいは、裸になってみせることかもしれない。

 

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私は、宇佐美なつを見てくれといいつつ、最初からいっこうに核心に届きそうもない蛇行を繰り返した気がする。たどり着くも気なかったのかもしれないと、今は思う。あれこれと喋っていても、その実、宇佐美の芸が死ぬほど好きだということを、頭からおしまいまで言い換えながら飽きずに繰り返しているだけに過ぎなかったのではないか。
まだそのことについて充分に話す術を持っていない、漫然と移り変わる日々を刺し貫いてしまう、あの決定的な脱衣の瞬間の強度に、私は何度も連れ戻されている。そして、その堂々巡りのようすは、おそらくほとんど呪いか、あるいは恋と見分けがつかない。

 

恋が人を多弁にする不滅の歴史に少しも違うことなく、不毛な高鳴りが無闇に響くだけのようなこれは、結局のところ、出来の悪いラブレターでしかなかったのかもしれない。

ストリップ見聞記(3)

正直に言えば、この記事まで出すことは、あらかじめ考えていた。
というのも、自分がアイドル文化に軸足を置きつつ、ストリップ文化へと片足を踏み込んだのだから、その逆、つまりストリップ文化に軸足のある人々へ、アイドル文化から差し出せるものを伝えたかった。
前回の更新時でストリップ再見の目処は立っていたので、観て再確認したものを含めて更新しようとしたのだが...劇場を再訪してみると、得るものが多くてほとんどプンラスとなった。

というわけで、そのことについて、先に書く。

 


ストリップ劇場再訪 

訪ねたのは川崎ロック座。
かつて「シネマ大道芸フェスティバル」に出演した思い出もある川崎。くしゃくしゃの競馬新聞を片手にした歯がなくて顔の真っ黒いおじさんに「がんばれよ!」と10円の投げ銭をもらった記憶がある。こういうおじさんに身銭を切ってもらうのは嬉しいものだ。

 

ロック座は川崎駅前から徒歩で10分かからないくらいの、裏道にある。早朝料金で割引を受け、入口で検温消毒。マスクの配布まであった。
前回の渋谷道頓堀劇場に比べると圧倒的に広くて天井も高く、ライヴハウス然としていたのが渋谷なら、川崎はいわゆる劇場のようなたたずまいである。青みのある黒い壁には大きく「Rock」の透かし文字...の脇に赤字で自慰厳禁の張紙。開演前にと用足しに行くと、男性用小便器は驚くほど位置が低くて、しかも赤外線センサーの機械のせいでなにも見えない。そのせいで的を外すことが絶えないのか、足元にペットシーツが敷いてあった...と、こうして不要な描写を重ねていると先に進めないので、特に書きたいことだけ書いてしまう。

 

香山蘭

あらかじめ『イルミナ』編集のうさぎいぬさんから、おすすめの踊り子さんとしてうかがっていた。なるほど、たしかに素晴らしい踊り子だった。
特に脱衣からのベットショーは絶品中の絶品であった。露出された乳頭に、性感帯としての感覚が宿っていることをこちらにトレースさせるような、しびれるような繊細な指の動きがある。直に触れるわけでも、凡庸に付近をなぞるわけでもないのに、裸の胸と宙を揺れる指が同じ視界に入ると、なぜかそう感じさせられる。しかし、そうした感覚は一部にとどまることなく、ぜんたいに見るだけでひんやりと滑らかに触られているような不思議な感覚に陥ってしまう。
また、ベットショーでは、かなり具体的に性交を描写するタイプの踊りがあるが、今回演じられた「花魁HR」*1もそうした演目だった。
口淫から体を重ねるように寝そべり、唇の端からハンパに(ペコちゃんのような)出して、床に顔を近づける。そして正常位から後背位に移行していくのだが、このそれぞれの動作はかなり生々しくある。しかし、リアリズムに徹するというわけではなく、実際、それぞれのポーズからポーズへの移行はなめらかで、いつの間にか起きている印象だった。身体が床に接しているとき、支点は手・肘・腰・膝など大きな関節各部位が関係しているはずなのに、ふしぎと大きく体を動かす印象がなかった...ポーズの移行はあたかも映画のように編集されている。
たとえば正常位から後背位に体勢を移すとき、尻を持ち上げた形に肘は立ててうつ伏せてから、いちど尻の方に大きく体重を移して、もういちど伸びをするようにして身体を伸ばす動きがあった。ここに現実の性行為には起きる必要がない動きがある(性器の挿入の強調とも読みうるけれども、そうしたニュアンスの動きはのちに起きていたはずだ、と思う)。こうした動きが、あたかも絶妙なカット割りとして機能していることはないだろうか。あるいは小津安二郎が人物を立たせる/座らせるときに行う、いわゆる「アクションつなぎ」のような、カメラ位置の変化が起こっているのでは...ということ。しかし、それも2回目のときにようやく感じたことなので、もう一度確かめる機会を待ちたい。

 

武藤つぐみ

GSM」は大きく「武藤くん」と書かれた大判のスケッチブックを背に、手にはなんらかの「力」を封じるためか厨二病の典型表現よろしく包帯が巻かれている、学ラン姿の武藤つぐみがマイムまじりに踊るシーンから始まる。深くかぶった制帽で目を隠す姿はマイケル・ジャクソンを想起させる。こうしたジェンダーを異にした表現じたいは珍しくない趣向ではあるが、この演目は徹底していた。
まず、一曲目を踊り終えると、後ろのスケッチブックを取って盆まできてあぐらがきにどかっと座ると、客を見渡してやおら似顔絵を描き出して、完成したものをモデルにプレゼントする。舞台からここまではっきりと客に干渉する芸は、かなり少ないのではないだろうか。観客はそのイメージを介して舞台上に上げられてすらいる。しかもそれは、一見して男性を演じる者から繰り出される。一連の出し物はジェンダーとストリップという芸能の構造が持つ非対称性を、手早く転倒させる。
しかし、そうした批評性の理が勝ちすぎることはなく、芸は具体的な動きにも宿る。脱衣が始まると、「力」を抑えていた手の包帯は、胸にもさらしとして巻かれていた事がわかる。それを巻き取ると、ズボンは勢いよく降ろされる。下着はボクサーブリーフ。パンツをひろげて中を覗き込んだかと思えば、前開きからにょきっと指を出してみせたりする。脱ぎきってしまっても、足首にボクサーパンツが引っかかっている。「厨二病」という自意識のこじれを、セクシャリティの揺らぎに重ねる武藤が体現する性のあり方は、知的であると同時にユーモラスで、かつシリアスでもある。
一転、ラストは流行り物の鬼滅ネタ。見せ場のポーズでは、ファリックな刀を観客の視線とぶつかるように鋭く差し向ける。鞘に収めた刀を床に立て捧げ持ったかと思えば、しなしなとすぐ横倒しになる。

身体的には、とにかく腰の柔らかい人で、バックベンドすると後頭部が尻に近づくくらい曲がったりする。ためらいなく反り返る動きが実に爽快だった。


観客への絡み方(学ランの上着を盆の面から振り回したりするのだけど、ほんとうに顔ギリギリなので、かなりスリリング)や注意の向け方は、ほとんどクラウニングともいえるそれで、既視感というか親近感もあった。

 

 

友坂麗

「Jumping」はこの日で都合三回鑑賞をしたことになったが、二回目はボロ泣き、三回目は泣きこそしないものの、やはり全身を持っていかれるような経験をした。
3曲目中頃に、先に履いていたブーツを脱ぎ、ヒールの靴に履き替えるシーンがある。左足はふつうに履くのだが、右足の靴を取るとき、目の前に置いて、うつぶせになって眺めて、ヒールに手をかけて、客席に目を向ける。この瞬間(確か)、赤い照明が舞台を埋める。フェードインなのかカットインなのか、覚えていない。正確には、照明が変わるより前に、友坂麗の何かが...何かとしかいいようのないそれが、空間のすべてをロックしてしまう。音楽の進行とも、まったく関係がない。いや、核心的な出来事に、うまく視線が向けられない。出来事は観客が把握できない(=困難な)タイミングで、生じている。
これは『イルミナ』の座談会でも、すこし別の文脈で例にされていて興味深かったのだが、友坂のある踊りには、柔道の技に掛かる感じがある。
柔道で圧倒的な上級者に技をかけられるとき、自分の身体が「投げ」の場に巻き込まれていく具体的な感覚がある。体重を「崩」されて、自立が乱れた身体が刹那に浮き、体を預ける重みを感じる前に、すでにして天地はひっくり返っているのだ。
けれども、この靴を巡る「瞬間」には、体重を崩された感じすらしない。手応えなしに、こちらの天地だけひっくり返ってる。
以降、友坂麗が何をしても、あるいはしなくても、そこに踊りが動き続けている。これにかんしては前回も書いたので繰り返さない。繰り返して話したいのだが。あ、いや、オープンショーのとき、曲の拍子をとる手が、気散じにパタつく猫のしっぽの動きそのもの*2で、実にすばらしいということだけ、取り急ぎ書き残しておく。

 


ところで、周年期間ということで、豪華な冊子をいただいた(しれっと初のポラ)。
膨大な演目リストを眺めていると「紅月 -あかつき-」の題が。これは...もしや...と思ってすかさず訊いて確認(2回目のポラ)すると、やはりその通りだとのこと。お気に入りの作品とおっしゃっていたので、再演の機会を逃さないようにしたい。

 

 

 アイドルの話

本題。
多様な背景を持った者たちが集まっているのだから、技巧が排されているわけでもないが、アイドルは「芸」の卓越では語りづらい*3芸能である。けれども、一部でよく言われるように「未熟さ」を愛でるに終始するものでもない。あるアイドルの観客はベタにステージの強度に打たれ、熱狂し、涙を流し、それぞれが何を見たのか語り合う。それでは、アイドルの観客は何を見ているのか。あえて言うならば、アイドルもまた、ステージ上で剥き出し=裸であり、観客はそれを目撃している。
アイドルが扇情的に、「疑似恋愛」的に情欲を掻き立てているという話などではない。歌も踊りも途上のまま、持たざるものがただ、あらん限りに力を尽くすこと、このことにおいてアイドルは裸であり続ける。
それは形には置き換えられない。しかし不可視の現れを感じるものたちが、「現場」で熱を伝えあって、あるいはそこから距離をおいて、バラバラな仕方で狂っていく。


もちろん、そうしたあり方のアイドルは少数派かもしれない。けれども、私がアイドルとその可能性に引き込まれたとするなら、不可視の現れを剥き出し=裸と語りたくなる、言いがたい感覚があったからだ。

 

手早く進もう。
実は、最も最初に手渡したかったものは、すでに失われている。「アイドル」は本当に脆い。手遅れになる前にまずは観に行って、「沼」に落ちるなり、自分の人生に関係ないか判断するなりすべきである。


www.youtube.com

 

この動画はすでに何度か貼っている。Aqbi Rec所属のBELLRING少女ハートによる、日本最大規模のフェスティバル「Tokyo Idol Festival」に出演した際のパフォーマンス映像だ。
ステージと客席が無法に乱れていくありようが(この撮影動画がアップロードされているという事自体も含めて!)、端的に収められている。17分付き合うのが億劫なら、12分40秒あたりから狂乱のクライマックスになる。

このグループは既に5年前に解散し、さらに紆余曲折を経てふたりはアイドル活動を引退している。
しかし、ひとりはSSW「ん・フェニ」として独立したが、もうふたりは変わらず「アイドル」である。有坂玲菜はレーレと名前を変え、同事務所の6人組サイケデリックトランス・アイドルグループ「MIGMA SHELTER」のメンバーとして、朝倉みずほは移籍後、唯一残ったオリジナルメンバー寿々木ここねとふたりで「SAKA-SAMA」として活動している。私が見る限り、ふたりは今でもステージの上で生の輝きを少しも減じることなく、多くの、また少ない観客を剥き出しのパフォーマンスで強く巻き込んでいる。
そして"黒い羽"を継いだグループは「NILKLY」として活動を再開したばかりだ。


こうして異なる世界の誰かを誘うのには理由がある。端的には文化の持続のためだが、アイドルの文化圏では、観客がゲームバランスを変えうる。数の問題ではない。特異な誰かが紛れ込むことで、驚くほど「現場」の空気は変る。こうしたダイナミズムは、外から見ていては絶対に分からない。
そして、うっかり入り込んだ"誰か"が自分ではないと、必ずしも言い切れない。好奇心で一度ライブを見にきただけなのに、いつの間にかそこに欠かせない観客の一人に変化した例は、いくらでもある。


ストリップとアイドルは似ているかもしれない。あるいは似ていないのかもしれない。
少なくとも、見てみなければ話は始まらない。
互いを行き来する風通しの良さだけ、ここにわずかながら確保しておきたい。

 

  

おわりに

私は今後もライヴハウスに行きつつ(今年はK-POPの勉強に振り切ったのでもっぱら在宅なのだけど)、おそらく劇場にも行くだろうし、ストリップについても書きたいことができればここに勝手に記録していだろうが、見聞記はひとまず終わりにする。

あまり読んでいる人のことは気にせず書いているけれど、今回はたくさんのストリップファンの方々にお目通しいただいた。門外漢の長々しい文章にも関わらず、好意的なご感想を嬉しく思います。

さいごに蛇足ながら、そして状況からなかなか難しいものの、自分自身もまた別の文化圏で、立場を違えて演者として活動している。ここにももちろん、数え切れない具体的な営みがあり、多様な表現がある。よければ、遊びに来てください。

*1:同日出演の赤西涼の演目に手を加えたものとのこと。

*2:保坂和志ではないが、この「猫」は比喩ではない。とかく意味を持たされすぎてしまう「猫」ではなく、猫の"あの"しっぽのパタつきが、人の手に宿って、友坂麗のオープンショーのリラックスした空気を陰に支えているのではないか、という話。

*3:ひとまず日本の非メジャーアイドルに話を絞る。韓国のように、そもそもダンスやラップスキルに優れた者たちが「アイドル」として活動することになる市場もあり、統一的に「アイドル」を語る困難が常にある

ストリップ見聞記(2)

すべてのパフォーマンスを見終わって、道玄坂を下りながら、ストリップは(すくなくとも道頓堀劇場においては)、かなり形式性の強い芸能だということを理解した。なるほど、と声には出さなかったが、見てみてはじめて深く納得できることが、とにかく多かった。かわりに、体も頭もひどく疲れている。さっきまで見たものをほとんど自動的に反復しながら、乗客の少ない銀座線で帰るのだった。

そういうショースタイルもあるのかもしれないが、個々のショーに連続性は特にない。連続性はないものの、同じ形式の中で演じる踊り子ごとの個性を対照しやすいので、それぞれが印象に残りやすい。出演5人でひとり15〜20分の持ち時間というサイズもちょうどいい。ストリップの形式性は、ひとりがパフォーマンスを終えるたびごとに、こちらをリセットしてくれる。
これがインディーズのアイドルの対バンだと、持ち時間こそ近いものの、ひどいイベントになると一日中せまいライヴハウスの中で20組以上が五月雨式に出てきてガヤガヤやってるので、個々の印象もへったくれもない。そんな環境でそもそも全部見通すなどということができないし(ストリップでも観客の出入りはあったが)、主催側も想定していない。目当てを2,3あるいは1組だけ観て、「特典会」*1まで通路で時間を潰していたりするような客もめずらしくない。

出だしから余計なことまで書いたが、急に前回から大きく話をとばしたのは、この形式性にも理由がある。


初の観劇後、受け取ったものの多さに疲労困憊しつつも、形式がかっちりあるおかげで、記憶が混乱することはなかった。メインショーの演出の差、ポラショーの観客とのやり取り、オープンショーの空気感...記憶はこうした場面ごとにフォルダ分けされて定着した。こまかに記憶が整理されたのは、前回書いたように、自分がまずアイドルの「現場」的なものに関心があって、ある程度最初からアイドル文化と対比的に見ていたせいもあるだろう。だけど、私が疲労困憊するほど「持っていかれた」感覚には、やはり整理された表面的な記憶だけではたどり着けない。そしてこの日会った出来事を順に追うだけでも、核心を掴むにはスピードが足りない。帰りの地下鉄で、考えるというより再上映されるように、細部の感触がよみがえり続ける。
ゆえに今回は、ストリップに備わった形式性を手がかりにしつつ、それぞれのパフォーマーの個性をあえて見逃し、5組のステージを重ね合わせ、いくらか抽象化したうえで、ストリップに何を見たのか、その曰く言いがたい感覚をわずかでも文字に移し替えるように、ひとつのノートとして書く。

 

 

・・・

 


各人の出番は三部構成。
本舞台〜盆をつかったメインのショー、客が踊り子と写真を撮るポラショー、そしてそのあと盆で行われるオープンショー(知らないなりに語感で察していたが、その通りではあった)である。
本舞台を中心とする最初のシークエンスは、盆に至るまでを含めた番組の基調となることが多かったが、対照的なトーンで構成されていることもあった。ここは主に着衣の状態ではじめられるが、いずれ「脱ぐ」ことは分かっていても、「脱ぐ」という動詞の単純さには収まりきらない展開があった。たとえば「脱ぐ」に至る動機がストーリーのうちにある程度整合的に示されていることもあれば、形式的な芸能一般にある"そういうもの"性によって支えられていることもあった。"そういうもの"性は、落語で枕から噺の本題へ移行する時に急変化するようなモードを思い出せばいいだろう。前後が筋道を立てて合理的に連続するのでなく、やるからやる、脱ぐから脱ぐ、というだけの世界も、またある。いずれにせよ着衣の仕方は一様ではない。最初から下着だけつけていないこともあれば、着物姿で何枚も布をまとっていることもある訳で、そこから脱衣の仕方にも差が生まれる。この脱衣の仕方が芸と呼ばれるだろう。

しかしまた、「芸」と呼ぶことで、期待としての露出をじらして遅延させる巧みさのようなものを、漠然と想像するかもしれない。少なくとも私は、ストリップはなんとなくそういうものなのかと思っていた。もちろん、そうした芸もあるにはあるが、期待としての露出をあっさり裏切るようなあっけらかんとした脱衣もあるし、部分的な脱衣が、続く盆のシークエンスへと伏線的な効果を与える場合もある。ともあれ、盆のシークエンスに至る前には、暗転を伴った衣装替えがある。本舞台で一度脱いだとしても、盆のシークエンスではもう一度あらためて服が着られるのだ。ストリップでは、服は"何度も脱がれる"。かように、ストリップは期待としての露出を最終的な目的にしたものでなく、露出の仕方をアレンジするバリエーションの芸を見る。

けれども同時に、ストリップには特権的な中心がある。私たちの身体において、腕や脚や腹、あるいは胸さえも超えて、法的な禁止の対象という特権をしめるそれ*2をめぐる身体の編成が、ストリップという芸の核心であることは揺らがないだろう。単純な芸術性の称揚(=免罪)がストリップの評価にふさわしくないように思われるのは、この禁止を前提とした特権を維持していることにつきる。ストリップはやはり、無毒な芸能ではないだろう。

とくに盆のシークエンスでは、それをめぐってパフォーマンスが構成される。回転する舞台で見えたり見えなかったりするそれは、確実にこの時間の中心であり続ける。
観客は見えたり見えなかったりすることで、窃視に浸れるわけではない。見えるかどうかは偶然ではなく、踊り子が組織した視線の誘いによってコントロールされている。このコントロールを結果として発生させる運動の流れをこそ、踊りと呼べるだろうか。
見えたり見えなかったりさせることは、それがより扇情的であるから、と言えなくもない。そうした側面は、拭い去ることができないし、拭い去ろうともしていない。だが、踊りという運動に巻き込まれた視線が目的地への迂回を甘い遅延で満たすいっぽう、突然の着地が驚きによって期待を上書きして私を振り回すうちに、扇情性では片付かない震えが与えられる。これを端的に言葉にできればどれだけ楽かしらないが、言葉にならない場所で、踊りは踊られる。いや、その物言いは不正確だ。むしろ、特権的な中心をめぐる、いたってありきたりな私の欲望が、ストリップという踊りの中で再編成されること。私たちが内面化している、エロティシズム、あるいはエロ、官能、ポルノ、何と言ってもいいが、踊りはそれの特権を使って、それらの価値観を解体していく。そうした可能性を与えるのは、ストリップ=踊りがひとつの詩的言語だからだろう...
すこし筆がすべりすぎたきらいがあるが、先に進む。

ストリップを踊りとしてみるとき、特権的な中心をめぐる詩的言語としての身体の編成が、その他の踊りと表現の質を隔てている。観客は幾何学的な形態を鑑賞するのでなく、律動する身体に同期するのでもなく、踊りを介して中心をめぐる意味の組み換え・上書きへと参加する。ただ、そうはいっても身体運動であるから、やはり直接的にはその筋肉や骨がめまぐるしく作り出す動きに目を奪われている。形態的な美も、律動的な同期も、排除されているわけではない。総じて、踊り=運動を観る強い喜びがある。だがそうしたとき––たとえばオープンショーは特にそうだが––意味を持つ部位としては特権的なそれは、豊かに動くその他の部位と違って、ほとんどまったく動きがない唯一の場所でもあることが、際立ってくる。

踊りを観る喜びといいつつ私は、どうかすると踊り子の顔ばかり見ていた気もする。正確に言うと、その視線。極度に形式化された視線、まだ迷いのある視線、力みのない自然な視線、あるいは力強い状態が自然であるような視線、踊り子が何を見ているのかに誘われた。でも、オープンショーはどこまでいっても、踊り子が明快にイニシアチブを取った"見せる"時間である。踊り子と客。互いの視線はすれ違う。ひとりの客が、ぐっと身を乗り出してのぞきこむ。踊り子は指を使ってみる。踊り子がそこへ視線を以て促すようなことは、たぶん一度もなかった気がする。観客は、何を見るのか選ばねばならない時間でもある。私はどこを見たらいいのか迷ってしまった。けれども、誰しもが何を見ればいいかはっきりわかっている。だが目を向けた先に、動きはない。展開がない。なぜそれを見るのか。かといって、顔をあげてまじまじと見つめ合うこともできない。ごくプライヴェートな場で手触りとともに交わされるはずの交歓が舞台に持ち込まれるとき、舞台/客席に備わった非対称性は逆転するかに思える。見る私を、舞台から見られている。ただそれは不快でも退屈でもない。ショーを締めくくるにふさわしい確かな充実がある。
オープンショーとは何なのか、あまりにもそのままで、かえって何も分からない時間でもあった。


...もうひとつ、ストリップの音楽について、これもメモ程度に書いておきたい。


ストリップに使われる音楽は、ビートの明瞭なダンスミュージックもあれば、メロディの質感が優先された歌謡曲もある。ただ、そのどちらも、特に盆のシークエンスに至れば、音楽と身体運動との同期性はいったん棚上げにされているかに見えた。音楽的な効果が、踊りに随伴するという意味では、ほとんど放棄されていることもあった。盆という場では、あくまでも身体の特権的な中心があるからだろう。音楽もそれ以外の身体も、そこを巡って動いている。ただし、単純に奉仕するわけでもない。非同期的に、オートマティックに音楽は回り続けている。
菊地成孔『服はなぜ音楽を必要とするか?』では、パリコレのファッションショーで、しばしば歩行のリズムとは無関係な四つ打ちのダンスミュージックが選ばれていることを指摘している。この無関係さは「エレガンス」という概念に接続されているが、その"無関係の関係"は、雑誌連載という性格のゆえか、明確な結論に迫るには至っていなかったと記憶している。
ともあれ、ストリップにおいても、この衣服・歩行(身体運動)・音楽の関係のあり方を見直す大きな必要を感じた。

 


ここまで、具体的なパフォーマーの話を回避して進めてきたが、最後に、私がこの日もっとも強く印象に残った踊り子のことについても、やはり書いておく。

 


私がこの日見た踊り子全員には、つよく涙腺を刺激された。それがどうしてなのか、なかなか分からない。上にずらずらと書いてきたことは、その原因に迫るための、ひとまずの整理だ。
けれど、そんな整理への欲求も追いつかないほどだらだらと泣いてしまったのは友坂麗だけだった。盆の上に来てから、脱いだハイヒールの片方をセンターに据えて、這うような四つん這いで、そのハイヒールにふれたとき、場の空気はハイヒールに向かって吸い込まれていくように集中していく。脱衣に進んでも、ありきたりな官能表現は何もなく、身体の充実だけを見せられる。比較的律動の強い音楽から、瞬間、リズムへの囚われから抜け出すようにして体が動く。そのたびに、どうしても泣いてしまう。暗転が行われてもまだ涙が止まらなかった。たぶん、ストリップという芸能のもつ強度に打たれた部分を差し引いても、これほど凄いパフォーマーを、今まで何人観ただろうかと思う。その何が凄いのか、一回見ただけですらすら言えるなら世話はないし、こちらが言語に分節できる精度を遥かに超えた領域で踊りがあるのだから、仕方なく、ただただ泣くしかないのだ。

それでも何かを言おうとするなら、友坂麗はポーズの人だ、と言おう。ポーズといっても、それらしい形の均整を指すのではなく、急降下するようなスピードが内在したポーズなのだ。そのポーズは、いつも突然にあらわれる。ただ単に急に止まるわけではない。でも、気づいたらそれはすでにポーズだ。それは、びくともしないほど強固に動きっぱなしのポーズなのだ。たぶん...想像がつかないだろう。さらにあの、天井の梁に手をかけた姿のエレガンスと、髪を振り払うように仰け反る身体のためらいのなさ、にもかかわらず、柔和さを常に携えるバランス感覚...友坂麗をこの日観なかったなら、ストリップ再訪の機会は、いくらか遅くなったか、あるいは日々に紛れてずっと遠のいたかもしれない。

そのほうがよかったこともあるかもしれない。でも、見てしまったのだから、仕方がない。仕方がないと言い聞かせて、また劇場に行くだろう。

*1:ストリップにおけるポラショーはアイドル文化における「特典会」と似ているように見えた。しかしストリップのポラショーは、すべてのステージが終わってから行われる「終演後物販」、別の出演者のステージ中に行われる「並行物販」、ステージが始まる前に行われる「前物販」のどれにもあてはまらない、いわば「都度物販」のような形であったことがおもしろく思えた。

*2:直截にしたいところをなかば迂遠な書き方にしているのは新参者の軽率さで安易に権力へ言質をとられまいとするための配慮なのだが、ふつうに書いてあるところには書いてあるので、単に考えすぎかもしれない。

ストリップ見聞記 (1)

縁があってストリップを観に行くことにした。
といっても、誰に手をひかれるでもなく、ひとりで勝手に行ったのだが、これにはきっかけがある。

ひとつには『イルミナ』。ストリップについて書かれた同人誌である。この本を、ストリップを観る前日の文学フリマ東京で買って読んだ。つまり『イルミナ』を読んでから24時間も経たずに劇場へ向かったことになる。そうした行動に促すほど力強い本なのか、といわれれば、そうである、といえる。

ただ、これには私があらかじめアイドルへの関心と、さらにアイドルの「現場」へ強い興味があるという前提があった。『イルミナ』は私の関心領域と重なるようにアイドル文化の相似形をなぞっている部分が多く見え、また、その似姿だけでは追えないだろう差異を確認したくて、観に行くことにした。

もうひとつ。かねてから共通の知人もあり、同じ『劇団どくんご』の受け入れという立場にもある、舞踊研究者の武藤大祐さんが、ストリップについてのツイートを頻繁にされているのを眼にしていたのが大きい。常からダンスにまつわる様々なことを武藤さん経由で情報を得ている。埼玉で観たフラメンコダンサー、イスラエル・ガルバンも武藤さんから知ったような気がする。ガルバンのフラメンコも忘れがたいし、大道芸フェスティバルの打ち上げで、ガルバンと同じアパートに住んでいたというギタリストの方と話したことも、懐かしく思い出す。つくばの夜は、いい夜だった。

話の筋道をそらしたが、昨年オンラインでされていた武藤さんの舞踊学講義をしばらく聴講してもいた。僭越ながら、私のなかに武藤さんと近しい視点もあるかもしれないと思っていた。なので、ストリップも見れば得るものは多いのだろうなというあたりはついていたわけだ。このように、けっこう下準備は整っていた。思いつきの突発的な行動ではなく、たんに機が熟したということだったと思う。ストリップを観る必然性が生まれていた。必然性、というと大げさかもしれないけれど、しかし、結果から言えばそうでしかない経験だった。


文学フリマ東京からくたくたになって帰ってきた晩。気軽に読み始めた『イルミナ』を開いたまま机に伏せて、PCを起動させる。明日、ストリップ観てみよう。Google Chromeのアドレスバーに「ストリップ 浅草」と打ち込む。ホームページから香盤表を目で追うが、あいにく見覚えのある名前はない。料金。6,000円とある。なるほど。歩いていけるから浅草がいいのだが、絶賛開店休業中の身には少し重みのある数字ではある。河岸を変えて、真反対の渋谷を探る。ライヴハウスや映画館へ向かうのに何度も通った道玄坂のあそこに劇場があるのは分かっていた。料金。午前割4,000円。なるほど。香盤表には見覚えのある名前...この段階では頭に入っていなかったが、『イルミナ』で言及されていた踊り子さんがふたり出演されていた。新宿や池袋まで調べる必要は感じない、ここで決まりでいいだろう。大きくは金額、というきわめて無粋な理由を支えに、渋谷へ行くことにした。そして、渋谷に来た。

東急のジュンク堂で新刊を流し見して、『宗教社会学』は面白そうだけど読む時間がないな、とか、隣の棚に面陳してあった本で棋士のなんとかひふみさんがクリスチャンであることを知って、へ〜となったりとか、でも結局何も買わずに用便を済まし、がらっがらの1階をすり抜けて、東急のそばでビッグイシューが売られていたので、なんとなく、それも初めて買い、円山町を抜ける。途中、ホテルから出てくるカップルとぶつかりそうになりながら、はやめの昼食を取りにきたサラリーマンたちが中華料理屋の前に並んでいるのが見えるところまで来た。あ、ついたと思って左手の下り坂へ向かって折れると道頓堀劇場だ。
一段上がった入口の向こうに敷かれたふるめかしい赤いカーペットは遠目にも時代がかっていて、かつ淫靡に思える。淫靡さは人を惹きつけもするが、跳ね返しもする。繁華街のごく近くで育った身には、懐かしくもあり、同時に幼なごころに後ろめたいような気恥ずかしさも覚えたことを、こうした場所を通るといまだに思い出す。
とはいえ、さすがに恥ずかしいもなにもない歳なので、ためらいなく入店した。張り紙で顔の見えない受付から、窓越しにチケットを買う。さらに中へ入ろうとするときクロネコヤマトの配達とかちあわせてまごつくが、劇場の人にうながされて先行する。検温・消毒。バーカウンターが奥に見えたがスルーして左手の階段を地下に降りると、出演者のポスターやら何やらあるようだが、ともかく開け放ってあるドアを早々にくぐった。

こうも長々とわざわざ無関係なことも書いているのは、なんだかんだとずっと緊張していたからだ。行きつけない場所..."他現場"であることはもちろん、恥ずかしいもなにもないと言いつつ、行われる事柄と目の当たりにする事を思うと、さすがにどきどきする。ただ『イルミナ』にはさまっていた初心者への行き届いた案内が載った小冊子があったおかげで、よけいな緊張をすることがなくて助かった。場内はスマホの取り出し厳禁。大丈夫、本がある。本は時間も潰せれば、視線をそこに落としている限り、なにか余裕めいたものすら漂わせることができる。ところで14歳のころ、映画館の待合席でバタイユを読んでいたりしたのだが、さすがにわざとらしかった気がする。澁澤龍彦訳『エロティシズム』。何が書かれていたのか。今は手元にない。

場内は四方とも黒い壁。床は板張りで、とにかく狭い。ライヴハウスでいうとO-nestを三分の一くらいに縮めたくらいの広さ、と思った。壁の色と床の材質、後方が一段高くなってる形からの連想だろう。だがそんなことより、目の前にはあの特徴的な花道と出島である「盆」があり、それを半円形に囲む長椅子が四重に設えられている。シートは年期がはいってて、テープの補修が目立つ。先客として紳士ふたりがいて、ふたりとも下手の二列目・三列目に座っている。私は、なんでも下手側で観る癖があるので、彼らとほどちかい、下手最後方の端に席を取る。

座れば座ったで、バルト、リンギス、森崎東...と自分が引き出せる範囲のストリップに関係のある固有名がいたずらに頭を行き来する。ゆえあって読み返している『存在論的、郵便的』はほとんど頭に入ってこないし、だいたい、寒いんだけど!空調の風がずっと背中に当たり続けて、さすがにつらいので上手側に移動して、また森崎東、リンギス、バルト...とやっている。スピーカーからはうっすらとスティングが聞こえている。いや、ポリス時代だったか? シャザムすることもできないので、ただただ曲は流れ去って、しらないR&Bに変わる。気づけば客が増えていた。1,2,3...8人?全員男で、私がまぎれもなく最年少である。文庫を開いている人がいる。ビールの缶を開ける音が聞こえる。アサヒスーパードライの350ml缶。すでにうつらうつらしている人がいる。手紙か何かをていねいに折りたたんでいる人がいる。タンバリンの音が聞こえる。三味線の音が聞こえる。三味線を持った男がよいしょっと言いながら舞台に上がる。なるほど、前座さんがいるのか!

どう考えてもきつい現場だ。無愛想ではないけど、いわゆる演芸を楽しみに来たわけではない客。めずらしく精一杯笑ってみせたりした。演奏の合間に、時事ネタや小ネタ。コロナも怖いけど、今は何よりガサ入れにあったら怖いですね!というギャグが頭に残る。生まれてこの方、警察権力の介入を受けた記憶がない。初のストリップでガサに遭ったらウケるな。三味線を持った芸人は持ち時間の10分を過不足なくクリアして、よいしょっと言いながら降りていく。芸の間、ときどき、幕の向こうで足音が聞こえた。たぶん、裸足の音だろう。あるいは違うかもしれない。

芸人が退出したあとも、しかし、こんな場で、自分だったら前座で何ができるのだろうと考える。すぐ、楽しそうだな、と思ったけど、いやいや、それはいまこの場に好奇心を持って座っているからだろうと思い直す。でも、どうだろう。盆の上で何をしたら面白いかしばらく想像していると、女性のアナウンスが入って、完全暗転。
音楽が流れ出した。

 
(つづく)

booth.pm

大山エンリコイサム『夜光雲』を観てきた

観てきた。たいへん面白かった。

 

美術にも美術展にもリテラシーが足りず、へんに緊張して腰が重くなるのを、晴天の勢いも借りて、横浜まで1時間ちょっとかけて出かけた。遠いのも嫌なのだが。しかし横浜は好きなので、さきに横浜美術館で「トライアローグ」を眺めてから、神奈川県民ホールまでも歩いて移動した。
道中、有名な新興宗教施設の入口(通るたびになんとなく見てしまう)に「コロナ撲滅祈願」というような貼紙があって、たしかに祈願としておけば、実効性が先送りされるから、長引いたところで、かえって新規信者の獲得に繋がるのかもしれないと思った。祈願の連帯に巻き込むという。

で、会場。

感染追跡の情報登録をすると、順路は階下に促される。これもいつもだけど、順路というのが苦手で、べつに好き勝手に見たいというわけでなく、連続性があるのかと思うと個別の作品体験にくわえて、展示構成との関連も把握せねばという圧力を過剰に感じることがあるので、不得手だ。
しかし、地下に促されるというのは、知的な結構だけでなく、なにかもっとダイレクトな体感覚に訴えるようなものがあると思った。まだ階段を降りる前なのだが。

 

最初の作品は、長テーブルに敷かれた巻物のような作品。配布されていた資料によると83×586cmの大きさを持つ。それが、仕切りをまたいでふたつある。
言語・書体・時代を隔てた手紙類が切り取られちぎられ重ねられ、形ばかりでなく意味もまた「雲」のように不安定にゆれつつ連なったまとまりとなっている。中央付近には、署名か落款のように「QTS」がかかれている。
ところで「かく」というひらがなの表記は、作者の意図するところの多義性、「書く」「描く」「掻く」などが内包される文脈によるものらしいが、この《レタースケープ》と題された「雲」も、作品を眺めていると自然に「Clowd」とただちに英語に翻訳されつつ、それが日本語で「雑踏」を意味する文脈を引き出し、またネット上の保存システム「クラウド」のような文脈も連想させられることに気づく。作品自体にリテラルに存在する「文字」が「言葉」となって頭にしのびこんで浮遊するような感じ、といえばいいだろうか。そんなふうに連想が働きはじめた。

作品に用いられている手紙は、おそらくすでに用が済んだもの(送り先に届けられ、読まれ、なんらかの事情で手を離れた)であり、そうした意味では、いくぶん手紙の亡骸であり亡霊でもあるように思える。すると、雲-Clowd-雑踏とゆらぎつつ連想された人間の足音も、どこか遠いもののように思えてくる。事実、街から人が減って一年以上になる。いっぽう、こうした状況へ即座にレファレンスをもつように解釈するのは、どこか品のないことのように思いもする。そうした引き戻しが与えられるのは、作品の力かもしれない。

などと刺激されつつ、次のスペースに進むと《FFUGARATI》のコーナー。QTSのシリーズが片面の壁に間隔をおいて7点掛けられている。先の作品のベースが和紙であったことを思うと、書か水墨画のような連想も働く。それぞれ211.7×135×3cm。

そういえばこの数字は「縦または高さ、横または幅、厚みまたは奥行き」の順である。つまりさっきの《レタースケープ》は横長の作品ということになる。記憶では《レタースケープ》の端は巻かれて展開しきらず、その先があることがうかがわれる形だったはずだ。何が言いたいのかというと、作品の表面に多層的にコラージュされている手紙が雲のように無志向なゆらぎをもつ一方、支持体には巻物のように横軸に展開していく力も含まれているということだ。それはたしか絵巻物では時間軸に相当するはずだ。《レタースケープ》には、無志向的にゆらぐ雲のようにあいまいな漂いだけでなく、横に展開する時間がある。それだけでなく手紙の物質的劣化や書体の歴史性から想起される縦軸の時間もある。これらが力として錯綜しながら重なっている。ということかもしれない。
さらに何が言いたいのかというと、この作品から自分が読み取った力のようなものは、次なるQTSの展示コーナーでも、というか、作品が掛けられている背後の壁に、巻物がもっていた横の展開の反復を読み取った。あるいは、QTSのかかれたキャンパスが並ぶことで、壁がもうひとつの支持体として横軸の力を持ち始めるような。そうなれば7つのキャンパスは、そうした横の動線に縦の力を加えてリズムを作る、句点乃至読点のようなものにも見えてくる。むろん、キャンパスにかかれた個別の線の動きを追えば、そうした単純な作用だけでない、べつの力学が働く。けれども、壁に繁茂するような(実物は表参道のJINSでしか見たことがないが)QTSと違って、キャンバスの外を志向するような動きがあっても、フレーム内に静かに佇むような印象があった。
いずれにせよ静的な展示でなく、環境を巻き込んだインスタレーションのようなものとしても、このスペースが機能しているのではないかと思った。

こうして、順路が苦手だとか言いつつ(それが見当外れであったとしても)、すでに展示のグルーヴに飲まれている。たぶん、あとでこうやって何か書きたくなりそうだから、いちおう写真を撮っておいた。やましいことはないのだけど、こういうとき、職員の方々の視線が気になる。


うっかりさきに《Closs Section》の部屋に進んでしまう。順路としては、薄暗い地下とひかえめな白色の展示照明の明暗から放たれて、一面の窓から自然光の差すサンクンガーデンのわきに設えてある《スクエアプレッシャー》が先にあり、これが異音のような低音を出していたので、気づいて戻った。サウンドアーティストの大和田俊との共作らしい。ブーンという音とともに、「セスキ炭酸ナトリウム」というらしい細かいプラスチックみたいな粒が躍っている。またつまらない連想としてシャーレのなかで培養されているウイルスの動きのようなものを思った。作品から有意な引き出しができない、というより、外の天気のよさや、ここから外に出るとどこに繋がるのかという、関係ない気の散りがおきて、早々に先に進んだ。

一転して蛍光灯が影なく照らす通路には、黒い板「スタイロフォーム」というらしい建材が三体積まれている。200枚。この板の黒はエアロゾル塗料と墨で塗ったものだという。でこぼこに積まれた重なりが大樹の幹のようなうねりを持ついっぽう、熱線カッターで切断したという断面が露出している。自分で出した比喩から続けて換言するなら、数えられない年輪があらわになっている、というような。
配布されていた鑑賞の手引きによるなら「ライブペインティングなどで腕を振り抜いて即興的な線を引く行為と、両手に持ったハンドルで熱線カッターを上下に動かし、大量のスタイロフォームを切り落とす行為は、身体の次元で共通する感覚があ」ると。自分はエアロゾルスプレーで線を引いたことも熱線カッター(どんな形のものかも知らない)を持ったこともないので、その身体感覚にシミュレートして同期することは難しいが、視覚性だけでない水準の出来事が、簡素な展示に絶えず自覚的に連続しているようだ。

メインの展示スペースである第5展示室は《FFIGURATI (アンストレッチドキャンパス)》が5点並ぶ。並ぶ、といっても、吹き抜けに置かれ、掛けられ、吊るされるキャンパスは、名の通り木枠に貼られず、端など見るとを巻き上がっていたりもする。

ここには、QTSのパターンをもつ作品だけがあるわけではない。鑑賞者がおそらく最初に目にするのは単純な円のかかれた作品である。円は輪郭から黒い滴りを作って、記号的でない、それこそ具体的で身体的な痕跡を喚起するかにみえる。と同時に、近寄ってみると、それが円をかいた時のダイレクトな痕跡かというと、そうでもないらしい(勘違いかもしれないが)。つまり、かき足された滴りであり、シミュレートされた痕跡である。かくことに身体運動の痕跡は欠かせないが、この作品においては、かかれたものがかく運動にのみ還元されるわけではない。つまり、一元的な時間に引き戻されるわけではない。焦点をあわせる距離によって、時間は様々に浮かび上がる。
他にもよく見ると、近くの作品の床に墨のような黒い液体の痕が見える。場内はかなり暗いので見落としそうになったが、吊るされているキャンパスの下部に、キャンパスをはみだすような滴りが見える。それに促されて床を見ると、先の液体がある。ただ、その痕も、画面の滴りと対応しているものではないように見えた。というか、これも円の滴りと同じで、たんなる作業の反映でなく、一部はかきたされたものであるように見えた。

吹き抜けの階段を昇って展示を見下ろして、もう一度降りて見上げて、昇って、最初にいた一階に出る。例によって、出てからもうひとつ作品があることに気づいて、戻って《スノーノイズ》を見る。タブレットを使った作品だ。離れているとアナログテレビの砂嵐のように見えるが、近くに寄るとディスプレイにQTSのパターンが密集して高速で回っているのが分かる。なんらかのメディアで再生されているということでは《スクエアプレッシャー》(どうでもいいが、変換するとやはり「スクエアプッシャー」に直されてしまう)と、また細かいモチーフが間断なく運動している点でも、対応しているように思う。
しかし、《スクエアプレッシャー》が見下ろすような鑑賞形式だったのに対し、《スノーノイズ》は壁に設置されたiPadに正対する形だ。これは第2展示室《レタースケープ》と第3展示室《FFIGURATI》の鑑賞の形を反復するように重なるものだとも思った。それと知らずして、違うものを見ながら、身振りが繰り返されている。反復がさまざまな水準で韻を踏むように、またあえて外すように、しかけられている。

ところで、いま会場図を見ていて気づいたのは、地下の展示順路が中央の展示に向かって左回りに巻き込む形であることだ。それだけでなく最初に階段を下降して、再び一階に昇ってくることを考えると、鑑賞者は螺旋状に動かされている。視覚性だけでない身体感覚は、作品の中にだけでなく、作品をとりまく環境にも埋め込まれて、鑑賞者に作用している。 

その運動の最後に待つのが、第1展示室の《エアロミュラル》だ。壁の仕切りにわけられた(ここでも最初の展示スペースとの反復がある)まっしろな部屋がふたつあり、手前の部屋には一組の、奥の部屋には二組の小ぶりなスピーカーが部屋の隅々に置かれて、エアロゾルスプレーを吹き付け、また缶を鳴らす球の音が再生され続けている。つまり、見るものはない。サウンドインスタレーションがある。

QTSの線の長さは、持続するスプレー音の長さと対応する。シューーッと長い音が聞こえるとき、長い線がかかれている。シュッ、シュッ、と短い音であれば、短い線だ。そこから、ここにはない線の軌跡を想像するわけだが、あいにく、具体的な線の形はやはり、想像しようがない。どのような方向で、どのように絡みあっているのか、それは音からは再現できない。また、スペースで同時再生され複数に重なり合う音源からは、そうした想像的な再現の正確性はそもそも期待されていないとも思う。

仕切りをまたいでスペースを何度か行き来していると、いっぽうのスペースからは音源が確認できないことに気付かされる。しかし、音は聞こえてくる。そして、壁の向こうで再生される音から(タネを知っているのに引っかかるマジックのようだが)、そこに「かく身体」がいるのではないかという期待が生まれている。何もないのに、不可視の暗部が作られることで、別のフレームが喚起される。それは視覚ではない。音から遡行して線を想像することでもない。ここではないどこかで何かが起きていることの手触り–––それは制作することそのものの手触りかもしれない–––が生々しくも、雲のように発生している。


会場を出て、なにげなくTwitterを開くと、ちょうど大山エンリコイサムからRTされた来場者のツイートが目に入った。タイムスタンプを見ると、直近で1時間くらい前のものだった。それらが何個かTL上に表示される。このツイートをした人がさっきまでいた。ということを思うと、へんな感じだった。

 

そのままGoogleマップのアプリを開いて、駅の方向を確認するが、何年かぶりに中華街ものぞいてみるかと遠回りを決めた。中華街は驚くほど人がいなくて、手相見の誘いだけ熱心だった。月餅をおみやげに買って、関内駅に向かう。

駅前のスタジアムが工事中で、防音壁に何枚も「オリンピックの準備で大変ご迷惑をおかけてしています」と貼られてあって、他意もないのに別の含みを感じた。

 

 

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yakouun.net

ITZYのリレー動画が面白い

年が明けてからというもの、何度も繰り返して見ている映像がある。

 

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特に断りも入れていないが、ひとつではなく、上のふたつ。

 

Twiceの「Eyes wide open」がなければ2020年の私的ベストK-POP音源だったITZYの二枚のミニアルバムから、それぞれ表題曲がパフォーマンスされているこの動画は、見て分かるように、スマートフォンの縦型の画面を想定した9:16のアスペクト比で、メンバーひとりひとりが順繰りに前へ出てワンフレーズずつ踊っていくのを繰り返す「リレー動画」という企画のもの(この企画を考えた人に心からの拍手をしたいくらい、好きだ)。
どうしてこれを何度も見ているかというと、楽しいからに尽きるのだが、何が楽しいのかと言われると、けっこう説明が難しい。

 

ここでついでにもうひとつ見てほしいのだけれど、ITZYの振付師であり、Twice,NiziUらJYPのアイドルだけでなくPSYからBLACKPINKまで担当する売れっ子Kiel TutinがBLACKPINK「How You Like That」をWSで踊る(ユニゾンが前提になっていてフレーズは違うが、一部のフレーズが制作段階で使われていた)映像がある。

 

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前後するが、BLACKPINKの踊りを見てから見たほうが、よりおもしろい。

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Kiel Tutin、ちょっと笑ってしまうほど踊りがうまい。
もちろん、素人なので、なにがどうと言う具体的な説明はできないし、いや、こんなのは別にそこまで大したことない、ということもあるかもしれない。
にしても、BLACKPINKに与えている振付が、段違いの明瞭さ(「ハッ」と息を引き込むような音でなされている両手を開くポーズが、KielとWS参加者で、どのように違っているのかを確かめるとおもしろい)で再現されているのは明らかで、くわえて異様な内股のフォーム、そしてそのコントロールなど、単純にあまり見たことがない。この動画もしつこく20〜30回くらいは見た。この話も、飽きることなく、様々な細部をねぶるようにして話していくこともできるが、問題は、というか気になるのは、あくまでも前出のITZYのほう。

Kielのダンスに関しては、すでに書いたように、「ダンス」としてその線や力の働きを追っていくことで、関心の在りどころを掴むことが、それなりに可能だ。
けれども、ITZYのリレーダンスでは(抜群の「ダンス」の精度を楽しみつつも)、そうした表層を追いかけるだけでは足りない、と感じる。自分は何を見ているのだろう、と思いつつ何度も見ている。
もちろん、何を見ているのか、端的に書いてしまうことはできる。たとえば縦一列のフォーメーションに対応された振付のアレンジだとか、振付の途中に挿入される、ちょっとしたポーズだとか、ユナ(「Not Shy」のトップで踊るメンバー)が、列からはみだして、あるいはメンバーが屈んだりすることで空いた隙間をとらえて、何度もカメラに顔を見せる......そう、こう書いてしまうと、ユナがカメラに向かって顔を見せていることで、何を見ているか、わからなくなっていることに気づく。ダンスパフォーマンスに含まれるさまざまな階層の、どこに位置づけられるものなのかが。

これもまた、とりあえずの簡単な結論を出してしまうこともできる。つまり、5人で踊られるパフォーマンスの総合的な空間乃至リズム(をカメラはフィックスで収めようとしている)からユナがひとり脱してしまうことで、空間乃至リズムの持つ方向を多方にブレさせ(ちょっとした仕草やポーズもこうしたベクトルに対応する)、予定調和ではない華やぎやかるい驚きが与えられる...などと。わかったようなわからないような。
ようするに、Kielのそれ自体大量の情報を含むようなダンスと、また違った階層の情報が一緒くたに混ざっているリレーダンス(これもまた言及したように、動画のスタイルもダンスと不可分である)とを重ね合わせて、重なりきらない剰余にあらわれる「アイドル」の姿に、いまだ飽きないのだな、ということでしかないかもしれない。

以前書いたけれど、「How You Like That」のダンスプラクティス動画では、LISAのダンスが絶品である。ダンスもだけど、表情、特に視線の使い方がとりわけすばらしいと思う。対して、Kielは、マスク姿であるからという側面はあるにしても、表情も視線もまったく使っていない。異様な身体のコントロールだけで、(逆説的だが)アニメのようなリアリティを表している。
寄り道して細部に入るなら、たとえば冒頭、深く落とした重心が、その深い重さに反してパキパキと内転する両膝によって霧散するのを、いっそう早くに振り払うような腕の速さにつられて持ち上がる左足がつくる瞬間のエアポケットと、全身を支える右足の強さ、に促されてやはり強く踏み込む左足による力の連鎖があり、他方で、腰というにはあまりに自在な回転に突き出し、双子のように近づきあう膝頭が結果的に形成する内股のそれらフォームが、ありきたりな「女性」像を引用しつつも、過剰さにおいて定型を崩してしまうような、その強度に宿っているリアリティに巻き込まれることが、彼のダンスを見る経験だと思う。

 

では、と、またITZYに話を戻すと、彼女たちがもっぱら「アイドル」の系において私を巻き込むとしたら、そうした力の働きとはなんなのか、やはりよく分からないままだ。分からない、というのは、ひとつには「形」に基づいた根拠の遡りがむずかしい、ということだ。ユナが列からはみ出て顔を見せたり、他のメンバーがちょっと振付以外のポーズをしたりするのを「形」の問題として考えていくと、無理が出ると思う。
すくなくとも、かわいいから、とか、尊いから、というのは、あるにしてもそんなにピンとこない。それにしても、かわいい、ということについて、充分に(というのは、しつこく、ということ)考えられた文章を、ほとんど知らない。かわいい、ということが人をひきつけてダンスや歌を見ることに招き入れるなら、そこに何があるのか、とても知りたい。かわいい、とは別にそういうことではない、ということもあるだろうし、それであればそれで気にはなる。かわいい、ということは、よく分からない。あるにしても、自明のことではない。当然、自分が括弧付きで書いた「アイドル」というものの内実が何なのかも、不十分なままだ。そんなに考えるようなことでもない、のかもしれないけど、面白いと思って見てるものが何なのか、言葉に置き換えられるならそうしたいというのが癖なので、ちょっと仕方ない。何か別の仕方があるのかもしれない。



年末からこうしてしばらくK-POP漬けで、MVも他愛なくダベっている動画もそれなりに見ていて、気づくとライブ映像はあまり見ていない。いいものに当たっていないのか、ツボを外してるのか、面白いと思うことがほとんどない。たいていダンスプラクティス動画よりも精度が下がって、リレー動画よりも華やぎに欠ける印象だ(状況が許すようになったら、ぜったい現場に行きたい)。

というので、久々に日本のアイドルのライブ映像を見ると、やっぱり面白い。当たり前だが、これは単純に比較して日本のアイドルを持ち上げたいわけでなく、「ライブ」によって感じられる、やはり根拠付けがむずかしい固有のリアリティが、日本の一部のアイドルグループにたくさんある、という話にひとまずしてしまう。

 

このとき、やはり以前書いた記事のことを思い出す。K-POPのダンスプラクティス動画に範をとりながら、徐々に違いをみせるカメラの動きから、日本のアイドルが主にライブで見せようとしている、あるいは観客が見ている"何か"が現れる。
ありていに言ってしまえば、それは「情動」だろう。だが、喜怒哀楽で単純に捌ききれる形式的な感情ではなく、情動に伴う、微妙な表情その他の筋肉の変化が、おそらくある(ダンスだけでなく、声帯にも影響があるだろう)。そして、それを見ている。コントロール埒外にある動きを、見尽くすのではなく、感覚的にキャッチする。Aqbirecの無観客配信であればカメラの押し引きに反映され、旧来であればオタクのMIXやコール、モッシュにフィードバックされる。それが「現場」となっていく、とするのはいささか我田引水のきらいがある(『かいわい』買ってください)けれど、いったんそうしておく。

 

 

もろもろいったんの落ち着きが出てきたので、今は結論も何もなくてもどうでもいいのだが、当然また、今年も何かとこういうことを書いていくと思う。

 

 

 

ちなみに、ですます調は廃止。一、二年前から思ってたけど、どうしても書きづらくてなー。

 

 

 

 

2020年のまとめ 観たもの聴いたもの編

毎年、その年に良かったものをずらずらっと並べるのが楽しみだったのですが、どうも今年はいまいち興が乗らず。趣向を変えて、各ジャンルひとつのものだけにしぼってから、話してみようかなと。そうしよう。

 

音楽

 

Twice 「Eyes wide open」

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※1/3注を追記
今年はいよいよK-POPカルチャーを見ていくぞという条件が揃ったかなあという年にもなりました。BTS,NCT,ITZY,BLACKPINK,MAMAMOO,LOONA,aespa,Weki Meki......既知のグループも未知のグループも、次々に好みの音楽に行き当たりだしたのを最も大きい要素としつつ、リリスクのminanさんのバースデーライブでK-POPから「Feel Special」「Any song」「Dynamite」をバンドセットで聴けたのも現場の多幸感と相まって後押し、その流れでチェックしたTwiceの新譜が、かつてのキラキラしたポップさとは別のイメージで上書きされたのが決定打でした*1
貼付けた「I CAN'T STOP ME」の、いささか懐古趣味もあるサウンドも趣味ですが、「BRING IT BACK」のように大胆で、トレンドも抑えつつ、かつそうした目配せにとどまらない"K-POP"固有の手触りをおもわせるに充分な楽曲群が、ピアノバラードという個人的な鬼門をクリアした上で13曲も連続する幸福。聴き始めたのこそ今月ですが、今年のベストアルバムといっていいほどリピートしています。
ちなみに、これを聴くまではITZYの2枚のミニアルバムがベストで、グループダンスの精確さに関心の薄い私ですら目を引く精度と、一転して、まるで日本のアイドルのようにくだけた企画–––ポジションチェンジや衣装チェンジによるダンスプラクティス動画–––のグダグダ感も身近で、K-POPにおける"推しグループ"の様相です。

 

こうして楽曲/パフォーマンスから離れた側面にコミットできるようになると、いよいよという構えができてきます。しかし、現場はもちろん、しっかりコミュニティに属してないと見落とす様々が多すぎて何もわからないまま、修行時代は続きます。
K-POPとはなんなのか、というそれ自体外野だからこそ口にできてしまう目の粗い疑問は、たとえばブルピンのNETFLIXドキュメンタリー『Light Up The Sky』などを見ていても、違和感に重なって浮かび上がります。
K-POPは(日本のアイドル文化に深くコミットしている立場からすると特に)、どうしても優れた部分だけがピックアップされて語られがちにみえます。ゴシップめいた話題は論外としても、ひたすらハードなトレーニングを誰でもないものとして数年間続けた先に、ひとたびデビューすれば突如として世界中が自分たちを大スターとして認識してしまうこの光景には、かつては『ローマの休日』によって瞬く間に大スターになってしまった「オードリー・ヘップバーン」を生んだ時のような、むしろ"古さ"の回帰を見てしまいますし、ありていに言って恐ろしさに似たものも感じました。またそもそも、技巧の修練を徹底するその方法論が手放しで褒めそやされるような価値観へのコミットも、いったん距離をとりたいと思います。

これらは単純な批判ではなく、私自身の知識不足から判断留保しつつも、今後K-POPを見ていくときの寄す処となるような感覚の問題です。いつか、単なる勘違いだったなとすべてひっくり返しうる。文化とは、マクロに見てもミクロに見ても一面的にはなりえず、その多様さの混合体の縫い目を辿っていくことにしか、確かさは現れません。そのとき、やはり様々な言葉が必要になってくるでしょう。
だが、身を切って文化に関わっていない人間の「ひとまず」の理解は、さしあたって自分には必要ありません。同時に、首までズブズブに浸りきった人間の言葉だけがリアルなのかといえば、それもどうでしょう。

 

というとき、この大和田俊之さんの連載は非常に助けになりました。BTSアメリカで成功したことに生じている歴史性を、政治的/文化的要素を取りこぼすことなく描き出しています。

www.webchikuma.jp

 

どのくらい関心が続くのかちょっと分からないけれど、この年末年始は特にK-POPまわりを見てみようかなーというところでした。

 

映画

 

もう「映画を観ている」とは言えないほど低調が続いていますが、わすれがたい映画に出くわしてしまいました。



エリア・スレイマン『時の彼方へ』

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10年越しに見ることができたスレイマンの映画は、オールタイム・フェイヴァリット級の作品でした。『D.I』もお気に入りの作品だっただけに、期待は随分高まっていたというのに、そんなハードルなどやすやす越えて、このまま映画が終わらないでほしいと思ったほどです。言葉少なな役者たちとは裏腹に、画面は運動にあふれて止みません。
予告編中にも映っている花火のシーンの美しさたるや、映画史に登録されてしかるべきものでしょう。ラストシーン、スレイマン本人の主観ショットとして繰り広げられる眼前に往来する人間たちの姿も、忘れ得ないものです。
パレスチナ出身の監督が父の半生を描くことで逃れがたい、彼の地の政治的な諸問題について、ほとんど何も知らない恥を忍びつつも、まず「映画」として酔ってしまう。


新作『天国にちがいない』も素晴らしく、年明けにはようやく全国で劇場公開もされます。大掛かりな無人のパリでのロケシーンと対照的な小鳥とのダンス(?)シーンは必見と言えます。

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tengoku-chigainai.com

 

ここは思ったより言葉が続かないけども、映画はいまだに最も好きな自覚のあるジャンルです。しかるべきタイミングでまた向き合うだろうし、だけど、もしかしたらそういう時期はなかなか来ないのかもしれない。

 

 

近藤聡乃『A子さんの恋人』

www.kadokawa.co.jp

 

もっぱらこちらの頭の問題で、大変なので通読しないけどおもしろい、みたいな本と、通読したけど全部忘れた、みたいな本が山程あります。

 

そんななかで、唯一買っていた漫画『A子さんの恋人』が無事完結(いまの自宅に漫画は、この作品と『わたしは真悟』『放浪息子』くらいしかない。それらに並ぶくらい好きだということ)。さすがに5年の付き合いとなれば忘れがたく、印象も未だ鮮やかです。完璧な結末には落涙。。
一筋縄ではないタイトルであることをいちいち感じさせるストーリーは、美しく簡潔的確な線描に縁取られたキャラクターのドライな意地悪さと生々しい煩悶によって、快くもそればかりではない緊張感を保ち続けます。人に恋し、愛そうとするさまは滑稽で、その出来事の表面をスケートのようにして軽やかに滑っていくだけでも、それはそれで清々しい小品として私は好きだったはずですが、厚い氷を突き崩して、取り返しがつかないことを引き受ける切実さに迫った作品でした。あまり好まない言い回しですが、誠実さが支える表現の強度に、あらためて驚かされます。いや、ひどく抽象的な言い方をしてるのは、めずらしく「ネタバレ」を避けているからです。いわゆるショッキングなラスト、というわけではないけど、頭からもういちど読み返さずA太郎のことを書いてやれる気がしない笑ということでもあります。
A子さん、そしてその「恋人」であるA太郎と呼ばれる登場人物が、どのようにしてラストをむかえるのか、あるいはどのように作品を支えていたかを、ぜひ読んでいただきたいです。

 

恋愛を主題にしたコメディで、同じような切実さから逃げなかった作品として、古沢良太脚本の『デート』も思い出していました。

 

ライブ

 

BABYMETAL 「LEGEND - METAL GALAXY」幕張メッセ

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書くのもむなしいような1年に思えるけれど、いやいや1月のベビメタは、5年間のベビメタ経験のなかでも指折り3本に入るものです。YUIMETAL不在のダークサイド期から、YUIMETALの正式な脱退発表という谷を越え、横アリでは元モーニング娘。鞘師里保が非公式に加入する驚きと新曲の連打(私がはじめてベビメタを見たのがこの横アリで、さらに同じように1曲目が新曲という、回帰ぶり)、なにより笑顔のSU-
METALという大歓喜のライブすら上回って、幕張のライブは素晴らしかった。

新作から未パフォーマンスの楽曲をやるのは、まあ予想通りとはいえ、やはり大大大歓喜。忘れられないのは、なんといってもラストの、2017年末、広島でやはりYUIMETAL不在で行われた以来の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、5人+東西の神バンド全員集合という蒲田行進曲のラストかというような大盤振る舞いの姿でパフォーマンスされたこと。ピアノイントロが流れ出した場内のざわめき、そして千々に乱れた興奮がまとまりなくそちこちで歓声や跳躍に還元される「現場」の熱。2014年来、毎年海外遠征に行ってゆうに通算100回はベビメタを見ている友人ですら、この日の特別さを話していたものです。

また、そうした興奮を支えていたのは、フルフラットでけっしてライブ向きではない幕張メッセのどこからでもステージを視認できる、なんていうものではない、背面すべてを覆う超巨大高解像度パネルと、その映像演出に触れないわけにはいきません。直後のEUツアーでもついにバックドロップを排してまで携行された高解像度パネルは、ベビメタのライブがいよいよ映像と分かちがたく、また能動的かつ積極的に映像/身体の共存を目指しはじめたことを示唆していました。

ことに、「Distortion」での、SU-METALの睥睨するような視線と観客を煽動する指先(かきまぜるようにして、フロアにサークルピットを生成する)がスローモーションのなかでディゾルヴする場面など、ほとんどリーフェンシュタールの映画のように危うげな強度まで感じるほどでした。

ベビメタのステージ上の身体は、多くの場合、会場の広さから直接視認することが難しい。我々観客は、BDや動画を介し、ベビメタの映像的身体を見ています。これが、リアルタイムで、ステージと並走的に発生していること。ベビメタのライブにあって映像は補助的な要素ではなく、まるごとライブ経験を担うファクターになりつつありました。このことを考えたくあるし、本当であれば1年かけて様々なライブで展開される部分であったと想像します。

 

映像と身体のテーマは、配信活況の状況で期せずして豊富に考えることになりました。なぜある配信がつまらなく、またある配信が面白いのか。映像/編集によって再編される身体/ライブのありかたには、望むと望まざるとに関わらず、来年もまた多く向き合わざるを得ないでしょう。 

 

おわりに

 

ということで、大まかには、いまだにアイドルを中心に関心がめぐっている1年には変わりなかったようです。

他にもビデオゲームをはじめて、触発されることがかなりあり、そういった話もなくはないけど、「アメリカン・ダンスアイドル」以降すっかり飽きてしまったオーディション形式の番組(なのでラストアイドルは一瞬も見たことがない)であるところの「虹プロ」をこの年末年始でぼちぼち見てみようということにしたので、残念、時間がありません。

 
言いたいことはだいたい言い終わりました。
それでは、よいお年を。

*1:もう一度あらためて過去の楽曲も聴かなきゃなあと『Twicetagram』に『TWICEcoaster LANE:1』『LANE:2』とさかのぼったらば、いやー全然いい。スルーしてたのは、こちらのタイミングが整ってなかったということに尽きます。もしくは、MVのきらびやかさが聴取を鈍らせてたところはあるかもしれない。