日記 20210725

ストリップのスケジュールと制作のスケジュールを照合。朝から焦る。

冷房がないとやってられないが、冷房に当たり続けるのもやってられない体調になる。スロースタートで読書をはじめる。


一章でパトリス・ルコントの映画に即して「話すこと」が取り上げられていたベルサーニの本は、二章に差し掛かると男性同性愛者同士のベア・バッキング(避妊具なしの肛門性交)の話題に移る。こちらの話題はどうしても当事者性がないので、「話すこと」のほうに頭が引っ張られる。


おそらく自分の一番強い欲求のひとつが他人と話すこと、それも一対一で話すことである。人と会って話すという行為がとにかく好きだ。話すことができない相手とは人間関係を構築できないし、話す声色やリズム感が合わないと、ひどく疲れてしまう。


会って話して、別れれば何を話したのかまったく覚えていない、ということがしばしば、どころかほとんど常にある。それは読書もまた変わらない。本棚に詰まった本のそれぞれに何が書かれていたかどうかなんて、ほとんど覚えていない。それでも読むし、人とも話す。


ベルサーニの本に書かれている「話すこと」は別にこういう話ではないのだが。


ところでこの日記は、オフラインで韓国語で数ヶ月継続していたものが、オンラインで日本語に変化したものでもある。
もちろんこんなに長い文の韓国語がすらすら書けるわけもないから、小学生の日記程度のものを継続していた。さっさと韓国語に戻るべきなのだが、すでに書いたように、ちょっと今は戻りがたい。


劇場に通ってすばらしい踊りを見て、なごやかな場内の空気を味わい、外に出てひとり、あるいは誰かと帰り路につくとき、まあこのまんまなんかの間違いで死んでもそれほど後悔はないなと考えている。
同時に、自分にできることがまだありそうで、どうやら楽しむだけでは足りなさそうだ、と思う部分が生を支えている。
言っておくけど、べつに抑鬱的な気分になっているわけではない。


文章を書くだとか、パフォーマンスを制作するだとか、もしくは『勉強の哲学』にならえば何かを学ぶこと(制作も同じことだ)は、その質にもよるが、基本的には自己破壊的な側面がある。常にちょっとずつ死んで、ちょっとずつ生まれ直すプロセスの繰り返し。


ストリップ文化との出会いは、その破壊的なプロセスを一気に進めるものでもあった。ストリップは面白いだけでなく、明確に体に負荷をかけているし、自ら強く負荷をかけに行ってもいる。
おそらく1~2年かけて、ずいぶん変わっていけると踏んでいる。変わりたい、ということでなく、すでに変わり始めている自分に適した輪郭を得る、という感じだ。それには外国語もまた役立つはず、なのだが。


頭の中の出来事を書く日は、ろくでもない。

日記 20210724

昨夜、寝る機を逸してしまい、人が深夜しかやらないような、深夜のテンションそのものの、深夜LINEを友人とやりとりする。


それでも朝が早いのでさっさと起床。新宿で武藤さんをアイドル現場にアテンド。多くのひとがスマホを構えてるので気づいたが、話題の3Dの猫が映る街頭ビジョンがあった。猫は見れないまま、ロフトに到着。開場前に7中で起きていた場外のイベントをあれこれ話す。


アイドル現場はストに比べて圧倒的にチューニングしづらい。そもそもアイドル現場は「観る」ばかりのものではないから、能動的にフロアに入っていかなければ、いい経験になりづらい。しかし構わずじっと見る。SAKA-SAMA「終わりから」の相変わらずのキラーチューンぶりに揺れ、くぴぽで一気に変わるフロアの空気を楽しむ。抑制されてるものの、コロナ前の懐かしさがあった。
くぴぽの空気感の良さは武藤さんにも伝わったようす。


特典会をフィールドワークよろしく眺めてから、近くのてきとうなカレー屋に入って、ダンスやスト話。そして、下ネタの基準が大幅に更新されていることなど。レストランでの会話ですらギリギリアウトだったかもしれない。


新宿駅で武藤さんと別れてから、渋谷に移動して道劇。回数券の割引につられ、存じ上げない踊り子さんたちが観られるならと1公演だけ。しかし自分には実りうすく、なんだか疲れる。その時間、確実にロスが悪化する。
押し進行のせいで、もしやいけるかと思ったMIGMA SHELTERには間に合わず。まあこちらは次の機会でよい。


ベテランになってくると、いろいろと図々しくなる。図々しさの獲得は必要欠くべからざるものだ。ずっと繊細でいようとしてはいけない。けれども、手放してしまった繊細な手つきは、いつかどこかで取り戻す必要が出てくる。
いま、その取り戻しの作業を行っている最中であることを、あらためて確認する。


バトラーに疲れてベルサーニを読み出す。いずれも目下の作業に何も関係しない。せめてもと手を付けはじめた企画が、これまた積まれた仕事の消化にひとつも寄与しない。

日記20210723

起きようと思った時間より一時間早く目覚めて、布団でぼんやりしてしまう。


ちょっとした宿題になっていた『彼女は夢で踊る』をアマプラで観る。冒頭から粗雑な移動撮影と湿っぽさたっぷりのナレーションでいろいろと諦める。内容も全編これセンチメンタリズムで辟易。踊りを映すことからも裸体を映すことからも逃げていて、まともに金を払える水準でない。
それでも腹が立たずに済んだのは広島第一劇場がふんだんに映されているからで、レポートで読んだ小宮山せりなさんや望月きららさん、そして宇佐美なつさんが乗っていたときのことを想像する。それにしても矢沢ようこさんを早く観に行かねばならない。


昼前に南部くんから曲が届く。さすがの仕事。


午後から高円寺へむかう。笹田晋平さんの個展初日。
最初、何も考えず北口にむかったら別のギャラリー。ノースとサウスの区別があった。南のほうへ引き返すと、「高圓寺」という寺がある。じっさいに寺があるのはしらなかった。
道すがら、民家の窓からNHKのアナウンサーらしい声でオリンピックの何事かを伝えるニュースが聞こえた。


ギャラリーに着くと先客が数名。笹田さんがワンオペで応対しているのでしばし絵を眺めるが、飽きずに見ていられる。いつまでも美術には疎いままだが、画面を前に体を調整するのはおもしろい。
笹田さんの体が空いたところで、作品について話を聞く。点描について、アクチュアリティについて、カンバスの形について、構図について、典拠について一時間ほど。作家から作品について惜しまず話をしてもらえるのは本当に愉快。
ストリップに誘うと「最近すごい熱ですね」と言われる。皆さんよくご存知で。


せっかくだから古着屋でも見たかったが、暑さで歩く気になれず。駅前の居酒屋のにぎわいを横目に日本橋へ。丸善で新刊チェック。何も買わず。上野のドトールでバトラーを少し読もうとする。栞代わりに使っていた宇佐美さんの周年ステッカーと笹田さんの展示DMが隣り合っていた。
さて、と腰を入れようとしたところで母から電話。マルイで落ち合って浅草で寿司。長年の目標らしかった、タトゥーを腕に増やした日。


そういえば、年長のイトコふたりにもタトゥーがあった。


自分には身体改造、というには小規模すぎるが、ピアスのたぐいも一切ないどころか、体毛に介入することすらほぼない。髭を剃るくらい。しかし、死ぬ前にバダサイみたいな体になるのも悪くないなとはおもう。

日記 20210722

昨日のワクチンの副反応なのか暑さにバテたせいなのか劇場通いの疲れなのか、ひさびさに通して長い時間眠っていた。今週は劇場で多幸感に満たされているから目覚めは抜群で、今日もふわふわしながら体を起こす。


といいたいところだが完全にロスがキマってしまって、ものさびしい気分も入り混じっている。あーいやだ、と思いつつ、朝食を済ませたら、さっさと勉強に向かう。喪失感はあるにせよ、あらゆる意味でそこに関わりたくない。バトラー『問題=物質となる身体』をぼちぼち進める。


昼からは亀戸で稽古。曳舟の図書館で本を返してから、東武亀戸線に乗る。深い緑の車体が好ましい。車内で、お金にまつわることを考えてツイートする。こうして言葉数が多いことを、とても恥ずかしく思う。そして多分、ロスを埋めるために言葉が多く出てるのもわかっている。よけい恥ずかしい。


稽古は月末の仙台公演のリハと、10月のための新作。新作はひとまずペアのディアボロで、ボキャブラリからリサーチ。相性がいいのと葵くんの頭が切れるので、ずんずん動きが出てくる。
音楽についても軽く打ち合わせ。自分ひとりでやるときは、音楽が先行していないと何もできない。すべては選曲作業からスタートしていく。


いま、ちょうど選曲を行っている。同時に、作曲も。自分が作るわけではないが、いちから進めているところ。


『かいわい』のための論考も進めて...はいない。1500字書いて、詰んでいる。


ハルカくんが、人文系知識人たちの「推す」ことに対するツイートに反応している。ハルカくんとは「推す」ことについて大きくスタンスが違っている。
自分はそこにオルタナティブな価値を認めていないし、何より、個々の複雑な感情が「推す」という言葉に縮減され、あまつさえ「推し活」「推しに課金」なんて言葉がポジティブな概念として行き渡っている状況は、最低だとすら思っている。資本主義に簒奪されようとする各々の感情について、言葉について、各々はきびしく抵抗すべきである。
けれども、ハルカくんが「推す」ことに見ている可能性は、ハルカくんと接しているとなんとなく分かってくるし、「推す」ことにこだわることがハルカくんの抵抗線なのだということも分かる。


韓国語になかなか戻っていけない。体に強い経験を叩きこめばまず母語があやうくなるから、外国語が入ってくる余地がまだない。


小腹がへって、買い置きしていた冷凍のピザをあたためて食べた。

ストリップのきろく 2021年 7月

※7/19体裁・タイトル等変更

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

7月2日(金) [渋谷道頓堀劇場]


美月春(1-4)
愛菜(1-4)
浅葱アゲハ(1-4)
黒井ひとみ(1-4)
六花ましろ(1-4)


朝からすごい雨。それでも劇場に入れば当然お客さんはいる。めずらしくど真ん中で観てみることに。
後半は更に前へ。久々に二列目なんて距離で観たけど、やはり自分には"良くみえすぎる"感じがするので、初見はやはり少し離れようかなという確認ができた。同時に、この道劇の近さでもう一度、誰それの何を観たいものだなあと考えたり...

先週の栗橋では初出しの新作だけしか観られなかった、黒井さんの別の演目を観るのを主な目的にしつつ、よく名前をお見かけする踊り子さんが多いので、あとストリップが観たいので、来た。
美月春さん。たまたまそういう方にめぐり合っていないだけなのか、めずらしく胸が豊かな方で、偶数回の演目でバッと胸を露わにすると、はっきり胸に揺れが起きて、それがなんとも格好いい。ちょっと微妙な話題というか、扱いがうまくできないところだが、ふつうのダンスで想定外に動きが出てしまい、かつそこに不要な意味が生じてしまいやすい部位だけに、こういう胸の動きが強みに変えられるのも、ストリップのよさだと思った。袖に処理したTシャツが見つからないとか、かぶりのご年配の方が熟睡してるとか、アクシデンタルな出来事へのリアクションに慣れがあって信頼感。
愛菜さんは2演目とも選曲に個性があり、おもしろい。偶数回演目では、衣装選びも合っていたし、白い肌にヴァーガンディーのシースルーガウンが映えて、それだけで持つような感じも。
浅葱アゲハさんは、2演目共にエアリアルのシーンが。しかし奇数回演目の浴衣姿での性交シーンがよかった。仰向けになりながら、浴衣をはだけきるわけではない程度に、しかしガッと前を開ける動きで、演目のギアが変わるような感じ。
黒井さん。新作がおどろくほどブラッシュアップされている。ギミック類が削られて、ディティールがいくつか増やされていた。数でいえばそれほど多くはない変更が、演目全体の印象を全く変えるという現象を久々に体験。ベッドでは、ティアラについたイミテーションの宝石のチープな輝きがなぜか感動的。ストリップにおける、光を反射するボディチャームの強さとはなんなのだろう。
「Black Lily」「エスケープ」共にマジのマジで傑作じゃん...といったんラフに処理しておかないと、またずっと考えたくなってしまうようなすばらしい演目。「Black Lily」では思わず泣いてしまう。ストリップをはじめて観る人に勧めたいパフォーマンスが増えた。「ストリップ」というジャンルの中で何が可能なのか、黒井さんの演目に端的に表されている。

六花ましろさんは周年作「鯨」が美しい。ことにベッドでのポーズが美しく、ここでも泣きそうになる。ネガティブな事柄でなければ(ネガティブな話をすることに臆しているというより、それなりの理由・芸がない限り、こうした場でそれをしても、たいてい書き手の"見巧者"的なポジションを示威するパフォーマンスにしかならない)見えたもの、感じたものを書くようにしているので、しかしこうしてエクスキューズをつけないとまだ書けないのだけど、六花さんは驚くほど脚がすらっと綺麗で、脚を伸ばすポーズ全般に、他の人では感じたことのない涼やかさを覚えた。

...いまだに「脚がすらっと綺麗」ということすらスムーズに書けないのはどうなのだろうか。。

 

7月4日(日) [渋谷道頓堀劇場]

美月春(2-3)
愛菜(2-3)
浅葱アゲハ(2-3)
黒井ひとみ(1-3)
六花ましろ(1-3)

 

黒井ひとみさんをもう一度観たくなって、再訪。
午前中にアイドル現場で久々に会ったオタクが急遽、一緒に来ることに。他にも友人(オタク)がさらに初見の友人(オタク×3)を伴って観劇に。それぞれ楽しんだようす。
この日は六花さんの周年イベントもあり、満員。それだけに美月春さんのアゲ系の新作「板の/上の/魔物」が大ウケ。ご本人もあきらかにノリノリであったし、トリプル・ダブルの進行も手伝って、直後のOPではチップが乱れ舞う。
それにしても、早いビート、早いラップでも盆が回っていれば、へたに身じろぎせずいたほうが、よほど音楽的な官能が高まるというストリップならではの効果はうらやましい限り。"動き"を作るのは体ばかりではない。
浅葱さんは3回目で初見の「ダンボ」を。舞台奥から手前に向かってティシューを広げると、狭い舞台にさすがに視覚的効果が高い。ストリップではしばしば衣服ではない布が使われるけれど、それぞれ効果の高さに目を見張る。どくんごの背景幕を思い出したりもする。
六花さんの「鯨」ではまた、サビでポーズを取るたび、全身に鳥肌が走る。ポーズは、なんでこんなに感動的なのだろう。と、いちいち考える気を失う地点まで何度も引き戻される。思考と共存できない、外来種的官能の強さ。
黒井さん「Black Lily」はやはり傑作の類いと確信。トルソーは同性愛の想像的なパートナーでなく、トルソーがそのまま性愛の対象であるような、よりもっと広く倒錯的な世界すら肯定する懐の広さがある。それがラストの楽曲によっていっさいの衒いなしに、言祝がれる。
身振り手振りよりもはるかに踊っているのは黒井さんの絶妙な表情。顔を大きく崩しても品があるし、"プク顔"のかわいらしさはアイドルも顔負けであり、「エスケープ」で母親役を演じれば所帯感も出せてしまう。

黒井さん曰く"ツイ廃"とのことで、ポラに行くと「ジャグリングすごかったよ」などと言われる。どこまでひとのツイッターを見てるのでしょうか。少なくとも、その真下にあったはずの某踊り子さんのコース告知のRTも見ているということである。いや、別にいいんですが...

 

7月9日(金)[池袋ミカド劇場]

玉(1,4)
海野雪妃(1,4)
eye(1,4)
望月きらら(1-4)
川越ゆい(1,3) 

 

雨。劇場内はほどほどの混み合い方。
武藤さんが初見さんを伴って来る。今日は結構混んでますねと立ち話していると、今日は混んでないほうだよと突然、近くの客が言う。そうなんだ。
今回はゆったりモードで外出多めに、お目当ての望月さんを軸に観劇。望月さんは4個出しでその都度に多様な演目の方向性を見せてくれるが、「望月きらら」が持つ「踊り子/芸人」という中心が強固で、アイドル曲でも、浴衣着の夏演目でも、スーツスタイルで決めたレビュー的なショースタイルでも、コントでも、何をやっても成立してしまう。

そのどれをも貫いているのが度外れな"エロ"なのだが、望月さんのエロはある意味今までの誰とも似ていない。むしろ分かりやすぎるくらいに局部に攻め入ったり官能的な仕草をしてみせたりするのだけど、なにか過剰さがあって、エロさにある湿度が乾ききったあとに残る即物性すら感じてしまう。
それは、ボディラインの見せ方や衣装の大見得を切るがごとき扱いや、小道具全般に対する感性がことごとくシャープな形、あるいは画を作っていて、そのエッジが際立つから、観ていても感覚が同期する以前でカットアウトされるようなところから起きているのかと思う。
たとえば「歯科助手の浅川さん」では、電動歯ブラシを使って、「蝉」では団扇を使ってあれこれ(あれこれ)するのだけど、動きの遷移が多くて、感覚を添わせる前に、視覚的な鋭さに切り込まれる。既存の語彙で名指すなら「卑猥」としかいいようのないムーブなのだけど。

また、望月さんはとにかく観客を「見る」。望月さんは「見る」ことで、視線の相互作用に巻き込まれることを受け入れている。シリアスなベッド中、観客のちょっとした行動で吹き出したりしているのには、びっくりした(まあ確かに笑っても仕方ないようなことではあったが...)。もちろん、ごく一部の観客しか気づいていない程度で、演技の進行も破綻しない。けれどそもそも、シリアスな演技中に、何か観客に動きがあってもふつうは演技を優先してスルーしてしまうし、そこで視線のコミュニケーションは取らない。自分が視線を向けることで観客に変化を与えることは当然やるにしても、自分も観客から影響を被ることをここまで自然に受け入れている人はなかなかいないのではないだろうか。
いっけんフレンドリーに視線を合わせにいっているように見えても、その実、いっこうに変わる気がない身体というのがある。それはそれで覚悟のあり方だろうけど、望月さんの融通無礙を知ったあとにどの程度信頼できるものなのか、少なくともかすかに疑いは抱かざるを得なくなる。

それにしてもOPもポラも本当にひどくて、ずっと笑わされてしまった。

 

7月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-3)
箱館エリィ(1-3)
るあん(1-4)
星野結子(1,2,4)
宇佐美なつ(1-4)

 

観に行く予定の日に別用が入ってしまい、待ちきれず初日に。友人ふたりを誘って行く。あとから、たまたまもうひとりが合流。引き寄せられるオタクたち。

この記録は、たいてい観劇の翌日に書き溜めているのだけど、この文字を打ち込んでる段階では、「書く」という行為に、ぐっと固い抵抗を感じる。
それは、宇佐美さんの周年作があまりにも挑戦的で、また、こちらの心身をかなり削ってくる演目だったからだ。いま、ものすごく肩が凝っている。

先に、その他の踊り子さんで印象的だった方について。

箱館エリィさんの奇数回演目は、ベタの強さ。プロレス/筋肉推しの、いい意味でバカでしょうもない演目なのだけど、誰しもが知る"あの曲"の強さを思い知る。ラスト、掛け声とともに暗転するのも、間が抜けててなんともいい。

もうひとり、るあんさんが素晴らしかった。踊りそのものが巧みなのはもちろんだが、ポーズにフォーエイトくらいたっぷり使う余裕は見もの。起動から静止までじつにじっくりと音楽を支え続ける。たぶん、ストリップではじめて自然な手拍子の発生を聞いたかもしれない。
OPもBPMの速い曲で、かなりゆったり間を使っていた。チップをくれた観客に対するリアクションもひとつひとつ丁寧でおもしろい。


さて、宇佐美さん。
名演と聞いていた「Bubble」は、初回ぜんぜん入ってこなくて、軽く落ち込む。いつも通り振付の妙は感じられるのに、さっぱりチューニングを合わせられなかった。
3回目は身体がほぐれたのもあるのか、一転してグイグイ入ってくる。手数の多さがひとつひとつ着実にグルーヴの形成に寄与していく。立ってノりながら観るのに切り替えたのも手伝ったかもしれない。思わずチップを差し出す。

周年作。のっけからウエディングドレス姿で白いブーケを持った出立ち。選曲から明らかだけど、どう考えてもその晴れやかさは転倒することが目に見えている。その祝賀の表象として「結婚」が選ばれるとき、そんなものをストレートに肯定する作家ではないという確信がある。では、どう転ばせるのか。

結論からいえば、このめでたい周年作は、ベッドでのおよそ8分にわたる、ガチンコの「オナベ」で締め括られる。「オナベ」とは言うまでもなく自慰行為を模した振付である。それは多く(おそらくは)男性を想起するドラマの中で官能的に演じられる。行為の直接性もあいまって、ストリップのなかでも際立って"風俗"的な側面を担っているだろう。

自分はこの「オナベ」について、初見以降は別に興味を引くことがなかったし、それを形式的に演じることに、いくらか冷めた目もあった。けれども、この周年作では、その尺の長さ、迫真性、身振りのリアリティ、しかし踊りであることを忘れない様式化のバランスで、異様な、異様にも程がある緊張感を持続させる。ストリップが風営法以降に芸の洗練に向かい、結果的には部分的な無毒化を受け入れたことで生きながらえたとするなら、ほとんどそうした歴史をひっくり返すほどに猥褻で、他人の性行為を眼前にすることの恐ろしさすら感じてしまう。

また、選曲された歌詞との対照によるなら、スタートに示された、ある2人の関係を法的に保証する「結婚」という制度に潜むロマンティックラヴイデオロギーを叩き落とすようですらある。歌詞の中で成就しているはずの関係の祝言はセックスでなく、オナニーによる、ひとりだけの快楽の表現になり、ラヴソングはどこか上滑っていく。行為が続く中、トラックのストリングスが甘く皮肉っぽく響き続ける。

同時にこの「私とあなた」を歌う歌詞は「ファンとパフォーマー」の関係になぞらえて読むこともできる。友人でも恋人でもないけれど、私とあなたが、何かの偶然で代え難い関係を紡ぐことの歌として聞こえてくるとき、目の前ではその偶然を最上のオカズとして舞台上で快楽を貪るような、他ならない唯一のあなたの姿と、ただ呆然と見守るしかない無数の私(たち)とが存在する。あらためて思い出しておくなら、この演目がなされているのは、多くファンが集う「宇佐美なつ デビュー2周年記念興行」である。
それをどう見ればいいだろうか。さわることも声をかけることもできず、ただただ見守るしかないでいる私(たち)。ほとんど性器そのもののようなピンクの照明に照らされる身体は、露悪と悲痛のギリギリで、衆人環視のなかでどこまでもひとり孤独を勝ち取ろうとするようにして厳しく悶え続ける。あるいは、尋常な愛し方の加減が分からない、ひとりの人間が剥き出しに晒されている。

周年の楽天的なめでたさは退いて、ほとんどアンチ・周年作になっているこの演目に賭けられたものの重さに反して、ポラになると、手がパンパンになるから腱鞘炎になるかも〜!と明るく話してくれるので(本当に体力的にもたいへんそうなのでお大事に...)気が紛れるが、帰り道に最後まで残っていた友人と「疲れた」「削られる」と連発してしまう。しかし、ふたりともまた観に行くことは決まっているのだった。

 

7月13日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-2)
箱館エリィ(1-2) 
るあん(1-2) 
星野結子(1-2) 
宇佐美なつ(1-2)

 

ふと、宇佐美さんを見るとき誰かと一緒のことが多くて、あまりひとりで見れていないなと気づき、じゃあ今日行くかと決めた。突発行動しかしていない。
場内さすがのゆったりした塩梅で、センター三列目に構える。映画や演劇ではまず避ける位置だけど、平面も奥行きも取れるので、案外いい。

 

箱館さんの奇数回演目はあいかわらず変。楽しい。
このとき、客席にいた男性が理想的なウケ方をしていて、ついそちらを何度も見てしまった。笑い顔がじつにチャーミングで、それと舞台を交互に見ているうち、自分が今舞台に立ってるような錯覚に陥る。あんなお客さんがいたら、絶対ノってしまう。

 

宇佐美さん。
「Bubble」バカ最高。体に入りまくる。ダンスという、音楽を介した身体間の同期は、振付による意想外な音楽解釈=部分的非同期が生じることで、埋めがたい他者性があらわになる。このズレ、あるいは剥離こそが、より強い官能。
振付の押韻的な形態・フレーズの反復がM1,M2を繋いで、深く、そして太いグルーヴを練り上げていく。終わったら即、もう一度観たくなる。無理ですか。

周年作。ラストに気を取られていた一昨日とちがって、M2,M3の良さをしみじみ感じる。それにしても、宇佐美さんの選曲における歌詞の比重は相当。踊りを見て、メロディやリズムも体感しながら、同時に歌詞の意味も取ろうとするチャンネルが同時並行で動いてしまうので、一回では見切れる感じがしない。から、こうして来てしまう。言い訳か、いや、そんなことは...

 

場内、ゆったりながらカップルも二組いて女性も観ていたのだけど、ラストのオナベのハードさを見守る姿を見ていると、必ずしもスッとは受け取れない表現へ立ち会ってること自体への感動が起きてしまう。しかしそれも同時並行的なことだった。宇佐美さんのパフォーマンス中の表情を観ていると、なにか強い感情移入が起きて、ものすごく引っ張られてしまい、涙が出てしまう。とはいえこのくらいなら、と思っていたのだけど、ラストの立ち姿があまりに美しくて、堪えきれないものがせり上がってしまう。それでも抑えたほうだと思う。皆泣いてなさそうなので、怖がらせてもなんですし...(昔、あるダンスの公演で、終演の暗転後にいきなり大声で嗚咽しだしたお客さんがいてびっくりしたことがあった。私も変わらない...)
こうしたディティールがなぜそんなにも刺してくるのか、ということは必ずしも説明可能ではないのだけど、片手に持たれたヨレたパンツが絶妙の鍵でもあって、あれが捨てられてるのと、ちゃんと持たれているのとでは、まったく違う出来事なのではないかと感じた。

演目がもつ強さ、パフォーマンスの強さはもちろん揺るぎないものだと思いつつ、宇佐美さんに関してはちょっと強く肩入れして観てしまっているから、持っていかれがちなのかもしれない。


ポラのとき(不明に泣いているのでバタバタさせてしまった)、他の人の感想を訊いてみたらば、わりと率直に興奮したという人たちもいるらしく、なるほどなあと思った。

自分はぜんぜんエロに対して感度が違うというか低いというか、それがふつうに興奮したりそそられるものだったりする可能性を、ほとんど考えられていない。そういう趣味がなさすぎるので不適当なのかもしれないけれど、オナベ中は「寝取られ」のような、そこにいる(肉体がある)のに、そこにいない(心がここにない)感じというか、ややネガティブな分離感を感じたりはする(からこそ、前回のような印象に繋がってる)。
当然、「ストリップはエロでなく芸術」なんて思うはずもないけど、ストリップからエロを感じる具体性はすごーく低い。Aセクシャルだとか、そういうことでもない。

あるいは、ダンスそのものや劇的構造から、強い情動なり興奮を引っ張ってこれる、ということを性的な体験のバリエーションとして理解したほうがいいのかもしれない。以前もツイートしたことがあるが、音楽を聴くということの官能は、ストリップを見ることで、もともとがセクシャルなものだと断言されるような感覚になるし、自分は自分で官能を非性器的にガンガン感じまくってる、ということなのだろう、か?

このやり取りで、「そういう感想(自分のような込み入った感想と率直な興奮の報告が同列に)もあるのがストリップのいいところだと思う」と宇佐美さんは言ったけれど、ほんとうにそのとおりだと思う。

 

7月16日(金)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-2)
箱館エリィ(1-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

朝からうきうきで道劇へ。3回目ともなれば飽きてもよさそうだけど、今日は武藤さんに加え『イルミナ』編集のうさぎいぬさんもいらっしゃるとのことで、宇佐美さんも含め自分を「ストリップに叩き落とした」原因の3名が一堂に会することで、ことに楽しみだった。
前半は中央3列目下手寄りから、後半空いたところで更に下手奥へ移動。
こうやって同じ週に通い続けることで、やはりいろいろなことが見えてくる。演目のみならず、それぞれのコンディションや、客席の空気によって変わるライブ感、また自分自身の受け取りの変化等々。いまはコロナ関係なしに旅を休んでいる、どくんご以来の感覚。

変とかおもしろいと言い続けてる箱館エリィさん「炎のファイター」は、いよいよキレも増してきている。
これは演目のおもしろさばかりでなく、箱館さんの裸のよさが際立ってもいる。実際に筋肉質であるというかっこうよさばかりでなく、じつに堂々とした裸で、ユーモアを支えきれる強い裸という印象。あの誰もが知る有名曲でポーズのLを作るとき、ほんとうに爽快で、同時に笑えてしまう。

宇佐美さんに関しては、もういちいち書くことがないのでは、ということはまったくなくて、毎回何かしら発見がある。
そもそも「Bubble」なんて、何回観たって飽きるはずがないすっ飛ばし方。お手製のプレイリストを聴き込んで(訊けば教えていただけるのだけど、自分で探す労くらい取らないと、というへんな気持ちが芽生えはじめた)、どの音に何の動きが当てられているのかを確かめるように見る。そんなふうにしたからといって、観察的に身体が引っ込んでしまうわけではなく、ぐいぐい入り込んでしまう。"振りコピ"をしたくなる気持ちになる。
宇佐美さんの選曲は、自分の趣味とまったく違っていて、その曲を聴いても、いっこうに動きが立ち上がってこない種類の曲ばかりといってもいい。だからかえって、思いもよらない気づきが与えられるし、宇佐美さんに見えている動きの線が、曲を介してこちらにも理解できるようになる。また、繊細に音を拾うだけでなく、無理に拾いきらず、ある程度は手数で間を埋めてしまう押し引きがやはり巧み。初見のときにも書いたけど、宇佐美さんのダンスは超絶スキルのゲーマーのプレイを見てるような気分にもなる。コース取りが的確かつ大胆で、それを見てるだけで、とにかく気持ちよくなれる。

周年作は、見るたび前半のよさがしみじみと深まっていく。とくに4回目は踊りの力加減が心地よく、小さい音がはっとするほど鮮やかに耳に入ってくる。その積み重ねだけで、涙が出てしまう。
ベッドは、かなり見慣れてきて、その振付としての再現性の高さに驚いていたりする。だからといって、演技っぽいとか嘘くさいということでもないし、リアリティを押し付けられている感じもない。

大前提として、宇佐美さんの踊りが好きだから何回も観に行っているわけだけど、必ずしもその「好き」の同質を反復したいわけではなく、どちらかというと自分の体を使って人体実験にかけているニュアンスのほうが強い。
たとえば周年作も、初見では手に力が入っていたのがわかったし、2回目ではより強く全身凝ってしまうほど力み、1日空けての3回目は、慣れや環境も手伝って逆にリラックスしたために"入りまくって"泣いてしまったりする。それを見ることによる身体の反応は毎回異なっているし、この異なりを探しに行っている。
これは単なる観客のコンディションの問題としてだけ済ませられることではなく、どうやっても見通すことができない大きな作品に対して、その都度ちょっとずつ角度を変えて接し直すような、地味な作業を試しているということ。

宇佐美さんの踊りを見るとき、最近はより表情にフォーカスしていることに気づく。基本的にそれすらも振付の一部である宇佐美さんのくるくる変わる表情がオナベに捧げられるとき、固く閉じた眼と半ばに開く口をずっと維持し続ける。長いつけまつ毛が鋭く宙に立つ。
その顔からエロさより悲しげなものを見てしまうのはこちらの投影だけなのかなんなのか、5回観ても全然分からない。投影だとして、どうして悲しげなものを見てしまう自分がいるのか、分からない。そして、全然分からない気持ちを維持し続けることでしか、演目との距離は測れない。
しかし、どうでもいいことだけど、独りよがりな行為を指して「あれはオナニーだ」と言うのが、品がなくて昔からとても嫌いだったのだけど、こういうパフォーマンスを観てしまうと、品がどうこうすらぶっ飛ばして、そもそもそんな事を言うやつは、オナニーに対して本気の人間を観たことがないだけに過ぎない、と胸を張って言えるようになる。



慣れてきたとはいえ、パフォーマンスが終わって暗転から明転してもスッと現実の時間に戻れないでいる。この演目に関しては「観ている」というか「立ち会っている」気持ちにさせられるし、パフォーマンスとしてあまりにもまっとうすぎて、ふだんの曖昧で雑な自分を立て直すのに時間がかかる。
そんな気持ちになっているところに、外を歩こうものなら一撃で逮捕されそうな衣装でカラッと舞台に戻ってくる宇佐美さんを見ると「何なんだよ!」と理不尽な思いが湧いたりする。

 

7月17日(土) [横浜ロック座]

mico(1)
安田志穂(1,3)
友坂麗(1-4)
中条彩乃(1-3)
早乙女らぶ(1-2)

 

友坂さんを観に行く。梅雨明けの空が青々として、好きな野毛周辺の雰囲気もにわかに華やいでみえる。そういえば横浜ロック座の姿は記憶にある。
入ればかなり手狭な箱。バーに肘をついて観劇。

友坂さんは一発目から新作。LEDロープや電飾の付いた傘、ブラックライトで光る下着などを取り入れた前半で視覚的に攻めつつ、盆に乗ればいつもの、しかしいつみてもその都度に身体を捉えて離さないとてつもない踊り。指が鍵で、強烈なフォーカスが当てられたと思うとすでに意識が指先のゆらぎに連動して、身体もつられて動いてしまう。かなりわかりやすく「アゲる」曲にもかかわらず、ひたすら粘るように、溶け出すように立位から臥位へと遷移していく。魔術のような踊りが続くと、曲のサビが近づき、強すぎるくらいの"来る!"という先触れが起きると、あのためらいない振り切りで、ポーズを切る。信じられない、と毎回思う。
残り少ない装具をひとつひとつ外していくポーズ+ティーズのシークエンスでは、テンションのかかった身体と、力を失って脱落していくような下着類がコントラストを成して、異常な感動を催させる。最後、チョーカーを外して口に咥えて、片膝付きにあの視線を客席に向ける。ただそれだけ、それだけとしかいいようのないそれだけが、観る者の身体を砕いてしまう。
友坂さんの踊りを見ると、毎回信じられない、信じられないとパニックになってしまう。

2回目は「GTR」。この回はかなりキャラの立ったお客さんが目立っていて、かぶりの常連たちもそれに連動して、笑い多く和やか。友坂さんもだいぶつられて笑ってしまう、かなりラフな感触。それでも、あの指揮棒に早く差されたい、という気持ちになるラストの素晴らしさは当然あった。

この日、自分が最も信頼しているパフォーマーが観に来ていた。
初見からずっと友坂さんを見せたかっただけでなく、特に「GTR」が見せたかった演目なので、絶好のタイミング。袖から脚を突き出すオープニングで、「(見せたかったのは)これです」と小声で伝えると、「もうすでに面白そう」とのレスポンス。さすが!
ストリップ観劇経験もあり、すぐポラに並んでいただけでなく、周年作「弦月」も素敵すぎる、と漏らしていて、バッチリ届いたようす。新作だけ都合で観られなかったけれど、9月以降に見てもらえるのではないかと思う。

 

その他の方では、中条彩乃さんが印象的だった。踊りそのものもさることながら、ポラのときの明るさは、誰もが心をひらいてしまうようなポジティブさがあった。OPもポーズ込みで手数多く踊ってくれるし、裸から私服を着ていく「逆ストリップ」も、観客とのコミニュケーションが豊かで、学ぶことが多い踊り子さんだった。

 

帰る前、タイミングが合えば行ってみて、と声をかけていた友人が初ストで道劇に行き、とくに宇佐美さんが良かったという連絡が入る。これはうれしい...

 

7月18日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2,3)
箱館エリィ(2,3)
るあん(1-4)
星野結子(1-3)
宇佐美なつ(1-4)

 

友人たちを誘って。3回目前後あたりで3人来てくれる。うち1名は昨日のパフォーマー。どうせなら宇佐美さんも観たい、と言ってくれたので。更に1名は、昨日連絡をくれた友人。周年作は観られなかったというので、わざわざ。

 

この日はもともと、別な友人が来てくれることになり、それに合わせてダメ押しのもう一回...という観劇だったが、その友人は体調不良で大事をとってキャンセル、からの3名召喚という流れ。アテンドがメインといえばそうだけど、そろそろこちらも再見が怖くなってくるタイミング。
日参するのが目的ではないし、そうならないように通っているので、演目を見て何も感じられなくなったら本末転倒である。自分より通っている方はたくさんおられるとはいえ、そんなに何回も何回も観る人間を目指して演目を考えるわけではないだろうし、そんなことで慣れから退屈を感じたら、本当に最低。

が、結果的には杞憂であって、ちゃんと毎回面白いし、それだけじゃない新しい感覚が生じもする。
周年作は、前回も書いたけどもベッドでの振付の精度の高さに驚かされるし、それだけでなく、行為の生っぽさの違いが見えてくる。振付が見えてくるようになると、再現に収まらないライブ感にえぐられてしまう。しかも、行為の性質上なのか、ちょっとした違いが、予想外に大きな振り幅として感覚される。「胸が締め付けられる」というのはこれで、何回観ても、ほとんど毎回ちゃんと疲れる。
こんな強度のある演目なので、てっきりもう舞台にかからないと思いこんでいたら、今後のコースでも上演されるらしい。新参者がこう思うのは不遜にすぎるけど、これがあちこちで観られることになれば、不可避的にストリップの流れのなにかが変わっていくのかもしれない、というふうに思ってしまった。

 

この日印象的だったのは、初回の「Bubble」がなんともいえず好みのパフォーマンスだったこと。このくらいの湯加減の「Bubble」もそれはそれでいいなあと。ギア入りまくりの、燃やし尽くすような演技は絶対得難いし、それがすばらしいのは当たり前だけど、抜け感のある演技もまた魅力があるし、実際M1-2では何だかやたらにかわいくみえてしまう。メイクの変化があったり(そんなことに気づく自分に引いてしまう...)、そういう表面的な違いも影響はあるかもしれない。...たぶん、普段より若干おとなしめのメイクに変化してたと思うのだけど、となると、自分の内なる保守的な好みが観劇に影響していることになり、そのダサさのあまり消え入りたくなってしまう。
※ご本人から「どちらかといえば強めのメイクでした」と訂正入りました!ダサくなくてよかったですね! 

 

ストリップの感想では、芸の性質に従って、見えたものとか感じたものを極力隠さず伝える方針にしているから、かわいくみえたら「かわいかったですね」と伝えるのだけど、こちらが芸にしか関心のない機械かなんかと思われてるらしく、ひどく驚かれたあげく「かわいいとか思う感性あるの?」などと失礼極まりない応対をされる。ありますわ!
いくらなんでもおかしくて、1日通してことあるごとに思い出して笑ってしまった。

 

7月20日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2-4)
箱館エリィ(2-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

楽日。
実は前日、もういっそ7中は観まくってやろうかなとニューアートに行くつもりで地下鉄に乗りこんだところで、体調や生活の崩れを予感的に察して「あ、やめたほうがいいな」という判断が働いて、帰ってきてしまった。突発参加もあれば突発中止もある。
なんで、楽日をどうするかは翌日の感じ次第だったわけだが、行ってもよさそうな雰囲気があり、出かける。頭から見通すつもりでいたが、あれこれしていて遅れてしまう。

センター三列目中央に座る。
偶数回演目だったるあんさんの「海月」が1回目から行われる。これ、とてもシャープな演目で完成度の高いことに初見から好感があったが、この回みょうにフィットして、ダンスもひときわ素晴らしく感じられた。
客観的な判断ではないが、自分にとって、この演目はここまで感じ入る可能性がある演目だったのだなということが分かる。
OPで、あの指をくるくるして息を吹きかける仕草を受ける。やられる側になると結構間が長くて、照れずに耐えることが難しい。

1回目の「Bubble」。今週に限ったことではないが、再見に際しては、ギリギリまで見方を決めておくようなことはせず、明転して動きだしてから、こちらの構えを調整することにしていた。
今回は、いつもノってしまいながら観てるのをとどめて、わざと身体を動かさないようにして、背もたれに肘をつきながら眺めていた。が、とにかく身体がむずむずしてくる...ノることで発散される感覚が、出口を失って体内を迷走して、あちこちをつつきだすような事が起きる。
「Bubble」は、M1のBPMが速く、振りの手数も多いが、表情の変化も秒単位で起きるから、その表情の変化を律儀に追うと同期が追いつかず、自分の現在地を見失いかける。顔はやはり、表情の意味を追いかける作業が加わるからだろうか。べつにそれぞれの表情に感情表現としての意味があるわけではなく、表情のハイスピードな変化それ自体のスラップスティックな効果があるだけ、ではあるのだが。

宇佐美さんを見るまで、表情はそのとき自ずから発生するものがあればよい、と思っていた(アクターズ・スタジオの「メソッド」演技への反発)が、現実に自分が感じることは、そういう理念的な前提を裏切っていく(むしろハリウッド黄金期の俳優たちの、ただ単にそうでしかない断言的な演技の再来)。またK-POPでは「表情管理」という、いささか下品な語彙があるが、そんなことは宇佐美なつをまず見てから言えと言いたくなる。そしてそれは、表情による内面の記号的な処理ではなく、紋切り型の表情にも関わらず、音楽や振付、また裸体との関係によって、多義的に開かれて機能するありようを見せてくれる。

ところでこれらの感想は、本人がどこまで自覚的かということとはまったく無関係で、だから、自分が「分かっている」ということを意味していない。表情の変化は素朴に「かわいい」ものでもあるし(実際、おとといはそう書いた)、あくまでも自分の中にある「分からなさ」に向けて、溝に橋渡すように、バカみたいに文字を費やしている、ということ。

3回目の「Bubble」は途中で、ああこれがしばらく見納めなんだと気づいてから、シンプルに堪能。とにかくクソたまらん、クソ最高と思う。

 

周年作は、1人で見るとリラックスしてるからか、また泣いてしまう。「何回目やねん!」と言われるが、何回見たって美しいものは美しいし、それだけの反応を保ってられるうちは、何度でも泣いてやるからな、と訳の分からない挑戦心を抱く。

とくに隠したわけではなく、明転してしまうと別の感情に切り替わってしまうから言いそびれてしまったことだけど、オナベ中は、心からのガチ恋みたいな感じになってしまう。もしかしたら、過去の失恋を思い出してる、という話を聞いたことで、自分の経験もどこかで照らし合わせてしまってるからかもしれない。あるいは、そもそも感じている宇佐美さんへの好感が、マックスに引き上げられるからなのかもしれない。だがなぜ人の性行為(の演技)を見るとそんなに強い感情が湧き出てくるのかは分からないままで、いっぽうで「性行為は美しい」という短絡はぜったいに違っていると感じる。演目は単純な美化にとどまっていない。
そして、ストリングスがガーンと鳴り響いてくる音楽的効果のベタっぷりに、ぜんぜん嫌な感じがしないのが、ずっと不思議でもある。あんなの、もし映画でやられたら殺意すら覚えるはずなのに。

一点だけ、ラストに後ろを向いて歩み去るところだけ、ベッドでの振付とライブ感がせめぎ合う緊張感から外れて、一気にふつうの「振付」に振り切ってしまっているように感じつつあるのは、演目を一貫した物語として読む気が無いせいで何かを見落としてるからなのか、それとも観すぎたせいの無いものねだりなのか、どうなんでしょうか?(エアリプをするな) 
それは余韻としての時間でもあるはずだけど、余韻を演者が用意してやらなくても、各々が暗転のなかで勝手に感じ入るような突き放しを、勝手にこの演目に求めてしまっている、というのは大いにあるだろう。
 

・・・


ところで、周年作を観た影響もたぶん手伝って、「ストリップとエロ」というより「ストリップとセックス」まで進んで考えたほうがいいんだろうなと思いはじめている。エロ(ティシズム)という、渇きや欲望の生起でなく、セックス=性/性行為という、所与のどうしようもなさのこと、他者との協同のことを、衒いなくストレートに与えられるので、アイドルでは不十分にしか向き合えなかったテーマに、真っ向から考えられる機会をもらっている気がする。

 

もっとミクロには、この7中は、ふだんなら自分が仕事現場で繰り返していたはずの、他人の同じ演技を何度も観る、という日常の回復にも思えた。誰かがそこで、日々の繰り返してとしてパフォーマンスしていることを、コロナ以降にはじめてちゃんと受け止め直すことができた。だからこれは宇佐美さんだけでなく、他の踊り子の皆さんにも感謝しています。そして演技だけでなく、お客さんとの関係も含めた、いろいろなものが、劇場の中にある。これもまた、自分が取り戻したいと思うことの一つに間違いない。

そういうことが感じられる、道劇という場所自体もどんどん好きになってきたのだけど、でもまあ、ミカドでもそう思ったし、宇佐美さんを観た場所が好きになっていっているだけかもしれない。
じゃあ蕨もそうなるのか?

 

7月24日(土)[渋谷道頓堀劇場]

KAERA (2)
坂上友香 (2)
有沢りさ(2)
虹歩 (2)
愛野いづみ(2)

 

アイドル現場の帰り、回数券割引につられて。
こういう勘は何に根拠があるのか、入場した途端の空気感に、うーむこれは...と思うと概ねそのとおり。勉強になりました。

 

有沢さんの表情がよい。
顔というのはつくづく不思議で、特に何を交わしたわけでもなく信頼に値する顔つきというのがある。逆にいうと顔つきに不信感があると、芸だけでない部分もたいていは残念なもので、つらい。

 

宇佐美さんも、初めて見た瞬間から、「あ、これは」と信頼できる顔つきだった。当然友坂さんにしても、あの目であるから、ぜんぜん段階の違う人なんだということはパッとわかる。
そして、それは当たり前の前提であって、それ自体を褒めても仕方ないことだけど、おふたりともどれだけストリップのことを考え、どれだけ工夫と鍛錬を重ねたのだろうか、ということに思いを巡らせて耐えるような時間があった。

 

わ、蕨...

観たもの聴いたもの - 2021年上半期

思い立って1月からK-POPの勉強を始めた。楽曲の重複を含む独特なリリース形態のあるK-POPで音源の数を数えることにそれほど意味はないが、iTunes(いまは「ミュージック」だっけ)で+300前後。

次いで、Vliveを知り、そこで「Run BTS!」を遡りはじめる。これがめっちゃおもしろい。逆コンプリート癖というか、全体の9割くらいをさらうと止めてしまうクセがあり、すべてを見たわけではないけど、ファンの間で特筆して流通するエピソードが理解できる程度には見た、と思う。
以降、BTSのファンになった。しょうもないこと(ペットボトルの蓋を飛ばすゲームとか、UNOとか)で火がつくグルーヴをもつ7人は、わかりやすく欠点があり、わかりやすく補い合いあい、ほどほどに不干渉だったりする。やはり、チームとしてひとつの理想形にみえる。
アルバムでは『LOVE YOURSELF '結' Answer』が好きで、ライヴ映像では同作のサンパウロツアーが最高だった。ブラジルの観客の異様な大歓声のうねりに身を任せて7人があきらかにハイテンション。大掛かりなライヴは気を使い過ぎというか、段取りが勝ってるように見えることが多いなか、このライヴの中盤ほどまでは、ほんとうに生っぽい。

女性グループでは引き続きITZYが好き。ダサい上に節操もない「마.피.아. In the morning」は今でも聴いているし、バラエティ番組もVラもぼちぼち見ている。ここも関係性とそれぞれのキャラクターがいい。
なかでもリュジンは、韓国の女性アイドルのなかでは一番好きかもしれない。見た目もさることながら、大雑把な振る舞いが多くてとてもいい。くわえて、ITZYのメンバーそれぞれが、アイドル活動をするに至って抱える思いや悩みを吐露する動画では、リュジンだけ「女性にしては」ダンスがうまい、などとカッコつきで評価される業界の空気を変えたい、という趣旨の発言していて、ぐっときてしまう。しかし、ITZYを見てそうした発言が出てしまうプロの現場というのはなんなのだろうかと思ってしまうが...(とはいえ出番が続くとダンスがゆるくなる印象はある。ハードスケジュールすぎるのか、相対的にはパフォーマンス経験が少ないからなのか、両方なのか)

ところで韓国のアイドルは、比較的、大雑把な振る舞いをみせてくれることが多い。ソロ音源も今年のベスト級に好みだったEXOのベッキョンは、ほんとうに雑な配信をしてくれていて一発で好きになったし、BTSのナムジュンにしたって不器用すぎる(性格的な意味でなく)のが愛らしいし、Twitterで見た、サイン会中に駄菓子の袋を逆さにして残りを口に入れていた宇宙少女のソラ、メンバーへのスキンシップがやたらハードなwekimekiのキム・ドヨンなどもいい。
韓国にしたって、アイドルは規範意識を強く引き受けてしまい、ことは全くかんたんではないのだが、そこからすっと逃れるような彼ら彼女らの大雑把さは、こちらを鷹揚な気分にさせてくれる。
他者の目がある場で繰り出される雑さ、いい加減さは、自信の裏返しであり、その自信の表現は必ずしも細心で完璧な立ち居振る舞いを通過するわけではない、というのが、私が信じたいアイドルの大きな美点である。

 

日本のアイドルでは、変わらずlyrical school。ツアーファイナルは作り込みが強すぎるように感じてめずらしく乗り切れなかった(でも「BTTF」にちなんだ、まさかの3部構成はさすが!とおもった)が、地方ツアーは定点の配信が500円という英断だったのと、いちいちおもしろいアクシデントが毎回起きていて素晴らしかった。
たまに現場に足を運ぶと、NILKLYは見違えるようにスポーティーな印象に様変わり。けれど、曲間0秒の繋ぎを久々に聞けば「これこれ!」となる。現体制解散間際に見たグーグールルは、フロアが相変わらず創意に満ちていて笑ってしまうし、一年半以上ぶりに見たRAYは、瑞々しい印象にびっくり。ひとの表情、顔つきがかわるというのはどういうことなのだろう。

 

その他の音楽では、ラナ・デル・レイ、Tohji、C.O.S.A.に宇多田ヒカル、シルクソニック「Leave The Door Open」にBALLISTICK BOYZ「Animal」をよく聴いた。旧譜ではセレーナ・ゴメス「Rare」にカリ・ウチス「Sin Miedo」など。

 

さて、ストリップについてはずいぶん書いたし、今後もいっぱい書くだろう。宇佐美なつが...友坂麗が...とはじめると、また独立した記事に相当する文字数を書いてしまう。とにかく上半期ラストは怒涛の1ヶ月だった。下半期も人生めちゃくちゃにしていくことでしょう。
10頭の小倉、行きたいけど、さすがにスケジュール厳しいだろうな...などと書いておくと、実際10月頭になるとなぜか福岡にいたりするから困ったもんだ。予定は未定。


本は、韓国文化への接近もあって関連書を読むことが多かった。とはいえ、近現代の日韓関係の基礎となる日露戦争についてなど、まだまだ何も知らない。
そして、日韓のアイドルに関心を持ったことによる、こうした近現代史への遡りが、いよいよ天皇制との対峙を間近にしている気がしてくる。日本に限っていても、アイドルに興味を持ったら天皇制との対峙は必定に思われる。
昨年自分が書いた論考も、まさにそのグレーゾーンの中心たる天皇制を結局は擁護するところの枠組みでもあろうし、今後それが自己批判的に展開されるのか、あるいは積極的容認に傾くのか、まだ全くわかっていない。ことが重要に思われれば思われるだけ、それを考えるのを遠ざけてきていたので、何ひとつわかっていない。
万世一系の男性至上主義など、部分的な不同意はあるにせよ、いまのところ自分の天皇制に対する態度は、微温的な保守でしかない。
同時に、金井美恵子が鋭く批判するような、吉増剛造高橋睦郎ら詩人のナイーヴさに納得しきれないものもある。

 
韓国関係の本で面白かったものは以下。

www.iwanami.co.jp

www.iwanami.co.jp

honto.jp

 

千葉雅也『オーバーヒート』が印象深い。
冒頭の濃密さとざっくばらんさを行き来するような交錯的なモードにうっとりさせられつつ、底を抜いたような「何でも書く」態度にショックも覚えた。同性の年下の恋人が女性と夏祭りにデートをしていたことについて、かなりウェットなメッセージを送ること、献本を開封もせずバンバン処分すること、ツイートの反応を無感動に計算すること、SNSで絡んできた研究者のプロフィールを熱心に調べ上げること、それらは些細でことさらに取り上げることでもないのかもしれないが、意図された露悪性よりよっぽどショッキングだし、ただ単に「何でも書く」ことの真の徹底を見せられた気がしている。

あとは今更、『オーバーヒート』は文学的な「ストリップ」としても読めたのではないか、と考えたり(ストレージの都合で、本を手放すサイクルが早くなっている。単行本で買い直すか...)。

www.shinchosha.co.jp

 


映画を観ることは、今年はもう意図的に諦めていた。ようやくキム・ギヨン『下女』を観たくらいか。
しかし、ストリップを見だすと、なぜか映画を介していろいろ気になることが増えてきている。たとえば宇佐美なつの、完璧ながらも機械的ではない、しっかり人間味もある感覚は、まさか山中貞雄...などとうっかり思ってしまうし、しかしいや、山中は結局あの省略のしかただし、となると、どこからああした感覚が拾えるか......と、結局は映画というか宇佐美なつやストリップのことしか考えられていない、7月のはじまりだった。

ストリップのきろく 2021年 6月

※7/19 体裁・タイトル等変更

14歳から取り続けている映画の鑑賞記録を例外として、大したログがない。
図書館の貸出記録など、いま見直せばなるほどとおもうこともあったろうに、半端なものしかない。
つよく肩入れして見てきた「劇団どくんご」も初見の感想はどこにもなく、漠然たるインパクトだけが記憶にあるのみ。中途半端な在宅期をはさんで2015年に「現場」デビューしたアイドルも、特定のグループ以外はどこでいつ何を見たかの記録はない。

 

まあ、忘れようにも忘れられないことだけ記憶に残ってれば充分なのだが、せっかく初見からの感想を書いていたし、個人的なインパクトの大きさを考えると、今後起きるだろう自分の視点の移り変わりがあとから参照できることに意味を感じた。
ということで、Twitterとはべつに、まとまったストリップの月例記録を残すことにした。いずれ観劇頻度が減ったとして、それはそれでひとつの記録でもある。

 

 

5月17日(月) [渋谷道頓堀劇場] 

星愛美(1)
愛あられ(1)
JUN(1)
翔田真央(1)
友坂麗(1)

初見。文フリ東京で『イルミナ』を購入後の翌日、いきおいで観劇。その流れは別記事にした。それにしても、人生初のストリップを日本トップクラスのベテランから洗礼を受けたことになる。ベッドショー(という呼称もまだ馴染まなかったが)では、どうしてか泣けてくるのに驚き。愛さんは本舞台の踊りが「よさこい」調で、どうしたものかとおもってみていると、ベッドで大きく転調。馴染み深い曲だったこともあり、これも不思議と持っていかれる感覚に。胸の周りにただようような指の置き方が印象深い。友坂さんの踊りには、声こそ出さないものの、ほとんど号泣。ただ立って、赤い照明を受けているだけなのに、場が"キマって"しまう。対して、ポーズの入り方は全身を投げ出すようで、そのたびに大きく涙が落ちる。
慣れないことで目の向けどころがさだまらないこともあったが、なぜか踊り子さんの表情を追ってしまう自分に気づく。どこを眼差しているのか分からない視線の束。かといって無表情だったり機械的であったりするわけでもない、特有の視線を記憶にとどめて、疲労困憊して帰宅。
今思えばもったいないが、もう一公演見るという発想がなかった。


6月4日(日) [川崎ロック座] 

沢村れいか(1-3)
香山蘭(1-4)
武藤つぐみ(1-4)
友坂麗(1-4)
小宮山せりな(1-3)
西涼(1-3)

ひどい雨風のなか、11時頃に川崎着。入場時、マスクの種類などまでしっかり管理している。広々した劇場。盆にちかい、下手側の端に位置どる。個別に記憶に残った踊り子さんについてはこれも別記事がある。
記憶というか経験とはおもしろいもので、このとき3回目までうまく入ってこなかった小宮山さんのハキハキした動きを今はよく思い出す。よく汗が散る「健康的」な姿。演目で使った椅子の背にも汗の跡が残っている。
はじめて"リボンさん"を見る。キュッと引き戻されるリボンの動きと、それを素早く巻取り、次の投擲に備える仕事人のような顔つき。
この日はじめて、舞踊研究者の武藤大祐さんとお会いする。共通の話題である「どくんご」や、アイドル現場のこと、友坂さんの踊りはとにかくわけが分からない、などという話をする。

 

6月6日(日) [渋谷道頓堀劇場] 

ささきさち(1-2)
漆葉さら(1-2)
宇野莉緒(1-2)
宇佐美なつ(1-2)
鈴木千里(1)

 

「宇佐美なつを観た日」として刻まれてしまった道劇は、前回のガラガラ具合は何だったのかというほどの混雑。ずっと後方柵で立見。この日、かなり重要な連絡を並行して行っており、脳が慌ただしいことになる。
ともあれ、ささきさんの2回目の演目が記憶に残る。デビューから2作目とのこと。ベンチや花などの小道具を用いて、雨のSEなども使った、トータリティを考えた演目、なのだが、1回目にはまったく素振りも見えなかった、ベッドでのギラつきに自分がよく見知ったライブアイドルのパフォーマンスを想起させられる。今以て、もっとも生々しく感じた演技であるし、その楽曲をどうしても使わねばならない、と思わされる強い必然性を感じた。もう一度観たい。
宇佐美さんは「黒煙」が初見。とにかく何もかもが巧すぎてひっくり返る。2回目は「spring vision」。とにかく何もかもが巧すぎてもう一回ひっくり返る。この日以来、完全に頭がおかしくなる。またこのとき「ID」を見逃してしまい、すぐに後悔することになる。
のちに、自分と入れ替わりで道劇に来た武藤さんが、宇佐美さんに「なんか熱狂的な人きませんでした?」と言っていたことがわかる。

 

6月11日(金) [池袋ミカド劇場]

山口百華(1-4)
JUN(1-4)
浅井ひなみ(1-3)
宇佐美なつ(1-4)
あらきまい(1-4)

頭がおかしくなったので、いっそしばらくクールダウンしようかと思ったのもつかの間、やはりと思い直して二度目の宇佐美さんを観に行くことに。朝からアホほど気分が浮き立っていた。劇場前でまた武藤さんと出くわす。挨拶もそこそこに「ヤバいですね」と言われる。ヤバい...この日、いわゆる「プンラス」を初経験。
開演前、本舞台にモニターが置かれていて、ソフトAV?のようなものが流されている。特に誰が目を向けているわけでもなく、なんともいえない空気。下手3列目端につくが、なにか見づらいので上手側に移動。
山口さんは笑顔がとにかく際立つ。語弊をおそれずあえて直截にいえば、明るい美人さんが踊っている、ということだけで舞台をもたせる力がある。なにかしきたりに基づくのかわからないが、フィナーレで他の人が出入りしやすいよう袖幕を持っていたり、人柄が伺えるような気に。
あらきまいさんは、ポラのときのやりとりが純度100%のアイドルのよう。女性ファンが多そう、とおもうと、やはり常連さんとお見受けする女性の方々がいらしていた。
宇佐美さんは「spring vision」と「positive」。後者は1曲目で大笑い。まさか!
思いがけず背景を共有する部分がわかり、ご縁というか必然性というか、深く納得してしまった。「positive」も、何もかも完璧としかいいようがなく、とにかくステージを見る幸福に打たれてしまい、白痴化してしまう。酒でも入ってるのかと思われたほうがいっそマシなほどで、あとから我が身を振り返って恐ろしくなるなど。
客の入り具合も塩梅よく、香盤も多彩で、ストリップ現場の良さを味わい尽くす。
また武藤さんだが、帰りがけに「ツイート期待してます」などと唆される。ならばと意気込んでるうち、地下鉄を大幅に乗り過ごす。銀座で降りる予定が、気づけば東高円寺などと言っている。

6月17日(木)[池袋ミカド劇場

山口桃華(4)
JUN(4)
浅井ひなみ(3)
宇佐美なつ(1-4)
あらきまい(1-4)

朝から雨。この日ははじめて(半ば強引に)友人を伴っていく。雨のド平日なのに満員。最後方上手側の柵に位置どる。
ほかの用事もあったので、少しゆったり目に入場していて、ほとんど宇佐美さんから観始める。1回目の「spring vision」が終わって明転すると、となりの友人から「推しメンかもしれん...」というつぶやきが漏れる。なにかに勝利した気分。
あらきさんが印象深い。この日、はじめて「体」の美しさをうまく受け取れた気がする。明確な扇情性が、気品と矛盾なく同居しているありかたに、脳が揺れる。オープンショーで客を見つめる視線が忘れがたい。
何回目かの合ポラで山口さんが変面の衣装で登場。ひとりだけ厚着に仮面をつけたよく分からない人が混ざっていて場内一同笑う。
宇佐美さんは、さすがにもう冷静に観られるだろう、いや、念には念を入れてと、相当不親切に構えてみてると、ことごとくそうした不純さをアンロックしていく。構築された芸が起動させる「踊りを見ることの喜び」を、秒単位で叩き込んでくる。ラストの「positive」では少し泣く。
ポラに並ぶのに財布から札を出すと友人から「流れがスムーズすぎて板についている」などと言われる。ポラを撮るのは3現場目だし、そもそもアイドルの特典会もめったに行かないというのに、なぜ。
言い残したことがあって、はじめて脱衣でもポラを撮ることになるが、まったく慣れないので本当にただ単にダメな人間になる。ちょっと込み入った感想も伝えたけど、うまくフェアネスを保てる気がしなくて少し自分に落ち込む。
JUNさんのムード歌謡的な曲で揃えられた演目に陶然。音楽の快楽を増幅してくれる踊り。


6月19日(日) [新宿ニューアート] 

秋月穂乃果(1-3)
友坂麗(1-3)
木葉ちひろ(1)
小春(1)
笠木いちか(1)
西涼(1)


この日はストリップ初観劇の友人らを連れて行く。雨というのに大大大混雑。かぶりつきの席を譲って、一番うしろの壁にひっついて観劇。
トップの秋月さん。まさかのカオナシの扮装で現れ、初のストリップがトリッキーすぎる経験になったことを思って笑ってしまう。しかし、そのままポールを掴むと、ああこれは、とすぐ納得がいったので、幸福な出会いになるだろうと予感する。ベッドはエアリアルのティシューのような布を纏いつつの演技。選曲が趣味にバッチリだったのもあるが、相当に良い。そして、意外にも素直にまだ感じたことがない「綺麗だな」という素朴な感想を抱く。とても綺麗だった。加えて、3回目はなぜか舞台奥の鏡面を見せる演出が加わっていて、さらに良い景色に。
友坂さんは夏の演目「恋花火」。出てきた瞬間からまったく違う。ほとんど催眠にかかるように、体が揺れる。団扇の揺らぎは極端に遅く・小さく、存在しないはずの風が体の内に立って、自律を巻き込んでいく。気づくと泣いている。
女教師風の役を演じる「GTR」は、友坂さんという人間の広さというか、芸に身を投じる人としての、あまりの格の違いに愕然。ストリップという芸能を、一方的な鑑賞ではなく、協働として成立する場として理解しているから、そこに衒いなく我々を招き入れる。指し棒で会場の全員を指し示し、確実な「1人」としてそれぞれを受け止める。満足気にほほえみながら合計人数を大きな声でコールすると、目つぶしのライトがあたり、暗転へと移る刹那に友坂さんのシルエットが浮かぶ。その全身の輪郭と上がった口角のかたちを、たぶん私は生涯忘れることがない。
新人の笠木さん。衆人環視のもと新人さんのステージを見ることに、妙に居心地の悪い思いをする。人が「裸になる」という出来事を見るには、やはり大まかには「芸」と呼べるものが、間を取り持つ必要があるのだなと改めて思う。2作目以降、笠木さんを見る自分の視線がどう変化するだろうか。

 

6月25日(金) [ライブ・シアター栗橋] 

御幸奈々(1-2)
黒井ひとみ(1-2)
蟹江りん(1-2)
悠木美雪(1-2)
望月きらら(1-2)


地元でよくこういうところに仕事に来たな...と感慨にふけりつつ田んぼを横目に歩いて到着。遠くにスーパーの看板が見えたので食料調達、とおもいきやまさかの物流センター。何もない!
中に入るとおじさんが何か食いながら応対。中に入って下手側につく。ベンチとかでなく、普通の椅子。たしか消防法のとおり、それぞれの脚は結束バンドで連結されている。嫌な予感があったので冬のランニング用ナイロンジャケットを持参したが、場内異様な寒さ。というか、位置どったところが送風口ジャスト。席を移るにも微妙に混み合っている...なんとか耐えに耐えて2回で離脱。
今回は、黒井ひとみさんを観にきていた。開演前に客の声で聞こえたけど、どうやらこの日が初出しの新作。この少ない観劇経験からも同パターンのテーマを2回見たので、ストリップでは定番ネタなのだろう。コントふうのシーンもあり、コミカルな印象もあるが、ベッドは濃い性交のシーン。
香山さんがウルトラスムースな編集の妙で性交を処理するなら、黒井さんは引きの固定長回しでといった塩梅。体位の変更の間延びした姿勢もひとつの時間として取り込む。
望月きららさんが圧倒的に良かった。1本目はドルオタ(?)にはサンバイザーのおじさんがうろついている絵面が思い浮かんで仕方ない呪いにかかってるアレからはじまり、最後までアイドルで突っ切る。
止め画の作り方がキマってて、カメラマンだったら楽しいだろうなと思うなど。衣装を翻したりするのも、いい具合の「形」になるよう狙ってるようにみえる。2本目は椅子やムチなどのギミックを必要十分に使い切る。やはり、うまいひとはここが違う気がする。
2演目ともすごい充実感。はじめて抱いた感想だけど、どちらもヘアアレンジが眼を惹く。帽子やアクセサリを取ったあと、髪型がすごく際立ってみえる不思議さがあった。

そして、当たり前かもしれないが、自分がいいなと思った踊り子さんはポーズの精度が圧倒的に高くみえる。形や形に入るまでのタメもそうだけど、音楽をきっちり聴いてるからこそ成立するタイミングで、ポーズがなされる。まあ、友坂さんの自在さは例外的だとしても。