京都旅行に行った

気づくとストリップのことしか書いてない...ので、京都旅行の話。

過日、家族の祝いを兼ねて京都旅行に行った。とくにこれといった目的のない旅は久々。街を歩き、食事をするだけ、である。宿も京都駅目の前でこりゃ便利、と思いきや、駅周辺にまともな飲食店が本当に少ない。
唯一、ラーメン屋の第一旭は超がつくほどの行列。早朝営業が売りの一つの店だが、朝ならいけんじゃねと甘く見ていたら夜より行列。さようなら。しかしなんと神保町に支店ができるとのこと。気が向いたら。

1日目は市街地を歩き回るだけでこれといった収穫もなし。唯一、シャレたような"カフェ"に入ったら、なめくさったような量のたいしたこともない味のケーキがひじょうな暴利をむさぼっていて呆れてしまう。が、それも旅のイベントと思えばまあ、ギリおもしろい。
夕食を祇園の「いづう」で。いかにも"祇園"といった店構えだがお値段も手頃。店内まったくの無音ですばらしい。飲食店からすべての無用なBGMを駆逐したい。
それにしても恐れ入るのは接客の丁重なこと。といっても無駄に格式張るのでなく、カジュアルで冗談など交えつつ、しかし見送りのときなど深々と頭を下げられていたりする。自分も広義の接客業といっていい部分もあり、勉強になった。人として扱われる、というのはどうしてかくも清々しいものなのか。

 

2日目は朝から嵯峨嵐山まで電車移動。京都駅の動線がだだっぴろく快適。
数年ぶりに会う、アメリカ人の友人(流暢な関西弁話者)と共に竹林や寺などを車で案内してもらう。彼のパートナーと娘さんも途中から合流。
自分のパフォーマンスのあと、僕もジャグリングをやってるんですと声をかけられたのが初対面。大学にジャグリングサークルもあるし、また海外の方はしばしば大学の研究員だったりするので、そうなのか訪ねたら、ふたりとも「無職です!」と明るく応えたのに、ああこの人達とは仲良くなれるなという勘の通り、長い付き合いが続いている。
娘さん(3歳)には初めて会った。ふたりの子供らしい、ごきげんで明るい子供でかわいらしかった。贈り物に小石をもらった。

今回の旅最大の収穫は庭園。
じつのところ、ジル・クレマン『動いている庭』を面白く読んだのをはじめ、なんとなくスペインのアパートなどにあるパティオに惹かれていたり、断片的ではあるが「庭園」という空間にひそかに関心があった。
彼の家にほどちかい竹林散策の途中、天龍寺へ横寄り。ここの庭園がとんでもなくおもしろい。最初は階段を登ってよくわからないまま進んで行ったのだが、開けたところの池に出て先程歩いてきたほうを眺めると、一気に意匠が了解された。
まず、植栽によって歩いてきた動線は完全に隠されている。このレイヤーが一番手前で、その奥にまたべつの山があり、そこからさらにもう一つ奥、嵐山を臨む形になる。池の端に立ってそちらを見上げると、こうした三層のレイヤードがあることが明瞭にわかる。当然このレイヤードは、自然の山を軸に、手前二層を構成しているものである。また、距離によって中景に霞がかかってその層の感覚を強めもする。
くわえて、池には出島のようなものがあり、この突き出しは山の方へと伸びている。こうした視線誘導が付与されているのは、現代の目による思い違いなのか、それともそうした作為は室町期にもあったのか、浅学にしてしらない。とはいえ、誤読であったとしても、そうしたダイナミズムが感じられる事自体は否定しきれない。
池の水は山の上の及川から引かれているらしい。この水流も庭に大きな動きを作っているが、それだけでなく、寺の本堂へ向かう渡り廊下と所々で交わったり、動線も多層化している。
こうした運動のレイヤードは、やがて植栽に舞う蝶の存在を介して、季節の花々へと思いを至らせた。つまり、「四季」と呼ばれる時間分節のフレームが、諸植物の変化にやはり複層的に内蔵されていること。この庭が、また別の時間フレーム(=春夏秋冬)によって、その姿を変えるだろうことが、イメージとして召喚される。今はここにないが、かつて、そしてこれからここ=庭で循環していくという、また別のスケールの運動を想像的に呼び足すのだ。

この庭園で完全に興奮してしまったので、予定外にガンガン寺巡りさせてもらう。見たのは愛宕寺・大覚寺龍安寺金閣寺龍安寺がやはり別格で、あまりにも有名な石庭は、その石の島のユニット群を一望できる視座が与えられず、常に視野の外にいくつかのユニットが漏れてしまう。またそれぞれのユニットの外周を刷毛で掃いたように同心円状に砂利が仮の囲いを作っているから、ひとつひとつの島がミクロコスモスを成すように感じられもして、個々に凝縮的にフォーカスが向きやすくもなっている。
まったく無知なのではじめて知ったが、来る客来る客「15個の石を全部見られる視点がないんだって!」と話している。へー。だがそれは、身体を使ってみれば、だいたいそういうことになっているというのは、感じられるようになっているはずだ。皆が皆ではないにせよ、そうした雑学的な前提の確認に時間を費やしているのを見ると、ひじょうにもったいない気がしてしまう。もちろん、一般的な読解や歴史的なコンテクストをほぼ無視している自分も、もったいない見方の一つではあるのだが。

 

最終日はふたたび街歩き。『たまこまーけっと』のロケ地でもある出町柳商店街をぷらぷら。以前も見たことあるのだが、たまこともち蔵の家が向かい合う通り(実際にそうした家はない)は、ちょっと感動的。ここで紙コップを投げあったわけだ...
目当てのうどん屋もふたばの大福もとてつもない行列で早々に訪店を放棄。アーケード端にあるいい感じの店でいい感じのご飯を食べる。店の前にたまことデラがいた。

そのまま祇園四条のほうへ再び移動。以前訪れたときもテーマパーク然とした陳腐さに辟易したが、花見小路は相変わらずどころか輪をかけて観光地化されている。ウブロとかラデュレとかが平然とある。また政権与党のポスターがそこここに張り出されており、まあそりゃそうだろと言う感じではあるのだが、共産党の強い土地だけに意外さもありつつ、花柳界がその"文化"をいかにして保ってきたかが察される。
とはいえ、政治権力と親しいならまだマシで、先斗町なんかはガワだけそれっぽくてほとんどフードビジネスやツーリズムという名の資本主義に蹂躙され尽くしているようですらあって、悲惨であった。
そんななか、たまたま入り込んだ宮川町はそれらと違ってシンとした空気が漂って、どこか閉域をなしている空気が強くあった。店前に掲示されている案内の類も実に楚々としていて、あるべき姿を保っているかに思える。この旅はじめての舞妓さんが通りすがり、常連らしい客と、おそらく非番の芸者さんが連れ立って歩き、準備中の店に入っては挨拶して回ったりしている。おきばりやす、という。
そして、この空気感は各所の風俗街、とりわけ飛田や吉原などにひじょうに近いものと思ったのだが、あとで調べるとまさしくそのとおり、遊郭街だったことが分かる。自分の勘も捨てたものでない。若衆歌舞伎が盛んな地域で、陰間もあったらしいが、驚くのは、けっこう最近まで近くには立ちんぼの男娼がいたらしい。自分が知らないだけで新宿などにもいるのだろうか。

締めくくりは東華菜館。ヴォーリズ建築のいかにも洋館といった佇まいに、日本最古の手動エレベーターが稼働している。4階に促される。
東京にもどこにあるのだろうかというゆったりした天井の高い空間で、鴨川のむこうにある南座を窓越しに眺めつつ、まずまずの味の料理を食べた。

 

こうした京都旅行の帰り道、建築家の友人といろいろとLINEをした。京都の寺や街の話をするうち、商業主義に簒奪された空間への批判や、建築をめぐる視座や公共空間のありかたなどなど、話題が広がって既にして旅の効用があった。翌日、よし本棚に眠らせている建築・庭園関係の本を読み直すぞと引っ張り出して、まずは中谷礼仁『近代建築史講義』を再読し始め、これは面白いと勢いづいたところで、宇佐美さんの「アンビバレント」を見てそれ以外すべての関心が水泡に帰した。

 

パフォーマンスを終えて

その1回のために制作されるものという意味ではおそらく5年ぶりのソロパフォーマンスを終えた。率直な吐露として、今回はずいぶん苦労した。
本番を含めた出来不出来に関してはとうぜん、細々思うところはある。加えてそういえばと思い出したのはいくら本番が過ぎてもこれといった解放感などはなく、むしろ課題めいたものが片付けきれずに部屋の隅に積まれてる感覚が残ることだ。

ただ、面白かったのは、会場にいた知己のジャグラーからふしぎな感想をもらったことだ。具体的になんと言われたかは伏せる。それは私達の間でだけ意味を成す言葉のやり取りであるし、感想を発した本人にしてもそれがいったい何なのか、なぜそう感じたのか判然としていないから、ということもある。

この感想は、少なくとも自分の意識でしている範囲を超えていることについてだった。さらに言えば「作品」(自分のパフォーマンスは「作品」とあまり思ってないけども)が機能させるものでもないはずだった。
それでもそう感じられ、感想として共有されるとき、けっしてはっきりと意味が分節されているわけでない言葉が選ばれているのは、おそらく個人的な文脈もふくんだ密かな触発がなされたと思える。そうしたとき、パフォーマンスとしての役割は充分に果たせたと安心しもする。

演者と観客は、しばしば、あるいはほとんど常にどこかですれ違う。
意図の水準ではもちろん、こちらの無意識ですらなさそうな「何か」としか呼びようのない触発が、観客の内で勝手に生じる。それは良し悪しでなく、ただ生じてしまう。
この「生じ」に対して、パフォーマーはほとんど責任がないとも言えるが、それが起きたことを知り、分け合ったとき、こちらはずっと冷静でも、その「生じ」がわたしにも浸透してくる感じがある。言葉を媒介にしつつも、言葉未然の感覚の輪郭を互いに探るような時間が、ほんの短い間にもあり、実際こうして忘れがたい印象を与えもする。既にして、その「生じ」は観客だけのものではなく、お互いの謎としてそれぞれが引き受け直すことになりもする。
私は、言われたことを、ぼんやり頭に浮かべてみる。心当たりのない言葉をもてあそぶように、私の内に引き受ける。私はいくぶん私の観客になる、とさえ言える。


 

こちらの意図・意識している質を分け合うことができる喜びもある。それが具体的に何なのかは、これも伏せておくにしても、ストレートに伝わる感触は特別なものがある。

自分のパフォーマンスから、狭義のジャグリングの技巧の巧拙を読み取るだけでなく、微量ずつ存在する諸要素を、また各々の感度の高さに準じてキャッチしてもらえることがある。たとえばダンサーからダンス的なものを、ミュージシャンから音楽的なものを引き出してもらえると、単純な技巧への驚きを越えた私固有の質感が届いたのだなと了解できる。

今回はそうした固有性に関する感想を知人からもらうこともできた。くわえて、それは最大限私に好意的な観客の一部が時おり伝えてくれる類の感想であり、私が言われて最もうれしく感じるものでもある。
どうもはっきりせず、匂わせるような物言いになってしまうが、あまりそれを前提というか経験の指針にしかねないのもおかしいので、ぼかしておく。

 

パフォーマンスを制作・実演することは、単純に仕事であり、同時に喜びのひとつでもあり、それはある程度まで自己完結しているが、こちらの投げかけを誰かが捉えて、また投げ返してもらえることで、そうした完結性がにわかにゆらぐ。自己判断がくずれて、まあそれほど悪くないじゃないかと許せるような気分になる。

ことほど左様に、パフォーマンスの経験とは、パフォーマンスを媒介にした相互行為でもありうる。パフォーマンスの根拠はパフォーマーである私だが、その出来事は私だけのものではなくなる。あるいは「私」という領域が更新される。
「私」は身体や意識だけでなく「私」を見て、聞いて、感じる他者によっても作られている。舞台と客席で「私」たちは互いを見て、聞いて、感じ合っている。

この互いの"作られ"を豊かにすることがパフォーマンスの務めであり、喜びであるだろう。
そのことを、久しぶりに確認したのだった。

ストリップ劇場、愛の対象について

つい先日、武藤大祐さんとだらだら(210分間)ツイキャスでストリップの話をする配信をした。だれが見るのかと思いつつ、ある程度発言に責任を持つためにも公開していたら、アーカイブをご覧になった方からご感想のツイートをいただいたりした。いただいたりした、というか勝手に見つけのだが。

配信の後半では、武藤さんと自分の共通項である「どくんご」の話題が出てきていた。そして、ご感想のツイートでもどくんごとストリップの、劇場や旅にかんする共通性を挙げてくださっていた。
劇場という非日常空間が、そこに出演する者たちにとってはいたって日常的な生活の場であり、またその日常性が観客の非日常性に染み出しているかのようにも感じられる、という点で、寄席にも増してストリップ劇場はどくんごのテントにずっと近しい。
私がストリップを見るようになって3ヶ月、異様なほど急速にこの文化に入り込んでしまっているのは、ウェルギリウスめいた踊り子さんたちの手引が何よりの力とはいえ、そうした非日常と日常が見分けがたく絡み合った、ストリップ劇場という場の魅力によるものだろう。どくんごのテントもまた魅力的だが、ストリップ劇場にはどくんごのテントに希薄な、性の香りがある。

 
個人的な話題に踏み込むなら、自分は遠征先で夜の繁華街を散策する癖がある。大阪や名古屋の粘り強い客引きを鮮明に覚えているし、大宮や川崎に泊まればひっそりしたソープ街まで歩いてみる。近所でも、あまり用もないので機会は少ないが、わざわざ吉原を横切って目的地に向かうこともある。とくに個々の店に立ち寄るわけでもないが、なんとなくそうした地域を歩かずにはいられない。冷やかしといえば冷やかしで、褒められた動きはでないから、あまり書くべきではないのだが。
個人史として、仙台は国分町に限りなく近いところに育ち、家の周りに水商売の男女の姿を見ながら過ごしていた記憶も、こうした癖に響いているのかもしれない。いずれにせよ自分は性的な香りのする場所にシンパシーを感じている。そして、そのシンパシーの意味を自分はとても高く位置づけているが、ここでこれ以上書くつもりはないような事柄による理由も、もちろんある。

しかしながら、そうしたシンパシーには、いわゆる一方的な幻想が根強く張り付いてもいる。歓楽街に漂う特異な空気にどこか居心地のいい思いをすることには、そこにあるはずの個々の現実の程度の見積もりがない。ただイメージがあるだけだ。

    

 

どくんごは、自分たちの活動をしばしば「旅」と呼んできた。これは打ち上げの中でのおぼろな会話の記憶でしかないが、演出家のどいのさんは、自分たちはいかにして旅を実践するかであって、作品を作るかではない、というようなことを話していた気がする(そんなことは言っていない、と言われるかもしれない)。
いずれにせよ「上演」がなされるその100分に活動が収斂されていくのではなく、より広く、生活と移動のすべてに、どくんごの活動は賭けられていた。これは確信を持って思い出せるのだが、バラシの後のあまりにも見事な積み込みをみんなで眺めながら、どいのさんが、うちらが一番上手いのは積み込みだからと珍しく自慢気に話していた。

私がどくんごに対して純然たる客だったことは最初の1日だけで、翌日からは打ち上げでジャグリングをしたり、翌年は前夜祭や幕間の舞台に出たり、更に翌年からは受け入れとして制作の手伝いも行っていた。
だから、打ち上げの場で純然たる観客の人たちが、年に一度の祭りのようなものとしてどくんごに接しているのを、やや距離を持ってみていたこともある。私にとっても既にどくんごはいくらか日常的で、過ぎ去ってしまう感傷や、どくんご自体が自称しつつも「旅」というイメージからファンタジーのようなものが消費されていることに対する微妙な反感が入り混じってもいた。どうして芸人はしばしばひとの感傷を引き受けなければならないのか。むしろどくんごはそんな感傷からこそ遠い場ではないか、と考えていた。

 
自分は義務教育から早々にドロップアウトして高等教育も大学教育も受けずにここまできて、いわば「プロ」としての生活を20年近く続けたことになる。こういうと大層だけど、10代の頃なんて何ができるわけでも何をするわけでもなく、今もかわらずダラダラとやっているだけで、漠然と短くはない時間が過ぎただけだった。
時々こうした来歴を人に話すと、驚きとともに反応は2つに分かれる。ひとつはよく親が許しましたね、とか、言葉にしないまでも、そんなやつが実際にいるのかという、規範から逸脱していることへの驚き。もうひとつは、学校なんか行く必要ないよ!とか、夢のために生きていてすごい!という賛意。
どちらの反応にも慣れているので、どちらでもべつにどうでもいいといえばどうでもいいのだけど、どちらかといえば後者のほうが引っかかる、というか、認識に乖離はある。そこには、そう発言している人の何かが投影されていて、私の現実が見られていない、という感覚がある。私がこの職業をしているのは夢だったからでもないし、学校は嫌になることがあるから行かなかっただけで、あらためて他人にその意味を肯定してもらう必要もない。ただ、そう言われたからといって、今さらべつに腹が立つわけではない。

 

他方で、自分がストリップに向ける視線はどうだろう。
たぶん私は、思ってもみないほどにこの文化や場所を深く愛してしまっているし、そのとき、私が誰かに向けられるような幻想を投影していないとは、当然言い切れない。というか、しているだろう。ましてここが、自分がこだわってもいる「性」の場である限り、必定であると思う。

また、ストリップ劇場では、見る/見られるの関係が十全に機能し、日々そこへ見ることを愛する観客が集まり、その観客たちの高い集中力が舞台上に注がれる。舞台ではそれに淡々と、かつおそらく充実を感じながら応える仕事をこなす踊り子たちがいる。
私は自分の仕事をしながら、それをこそ求めていたことに、ここで気づかざるを得ない。私の仕事において、多くの場合観客の視線の存在は前提でなく、結果としてしか存在しない。職業的には当然のこの事柄について、いっこうにフィットしないところが強くあり続けたと思う。ストリップ劇場という場では、私の日々にあった欠落へと嵌るピースが揃い、一枚の絵が完成している。
日々更新される演目は、それを見てくれる観客 - 視線があることを知っているから可能なのであり、くわえて観客もまた、踊り子たちの肌に視線を向けてふざけあっているようで、踊り子が表現している/しようとしている固有の質を確かに受け取ってもいる。やたらな言葉にせずとも、"それ"がたしかに何度も起きていることを、わずか3ヶ月の間に何度も見ている気がする。

       

 

劇場に行くたび、深く幸せや感動を感じる。道玄坂を下りながら、気づけば無意識に鼻唄など歌っているとき、こんな自分がいたのかと驚かされたりする。そのことを友人たちに話せば、呆れつつも祝福があったりする。そんな出会いがなされることは、誰にもあることではないからと。
私をこんなふうにさせてくれるストリップ劇場という場には非日常な魔法があるが、退屈な日常もあるはずだ。いいこともあれば悪いこともある、単なる日々の繰り返し。これが混ざり合ってるのが劇場だった。ただ私にとっては、その混ざり合いから非日常的な側面を、あるいは日常すらひとつの幻想として汲み取っている部分がある。
この「私」というものがこの文化や場に入り込むとき、あまりにも多くの歴史や感情、立場までもが絡まり合っている。その絡まり合いをほぐすことなく一足飛びに「愛の対象」と呼んでいるストリップ劇場、ストリップ文化への幻想から「私」はどの程度逃れきることができるのだろうか。愛の対象からイメージという重責を取り払うこと、とバルトがどこかで書いていた気がする。

 

こう書いてきて、最後になにか決意があるわけでも何でもない。通えば、変わらず劇場にときめくような思いがあり、好きな踊りを見たなら幸福に打たれるに決っている。そうした経験に自分の幻想がフィルタのように張り付いていて、いっこうにふさわしい現実を見せてくれないままなのも変わらないだろう。しかしいつか、そうしたものも色褪せて、落ち着きをみせてくるに決まっている。


その時にあらためて出てくる言葉や足取りに期待がある。その言葉や足取りこそが、よりいっそう自分には本当らしいものになるだろう期待。それが、今はある。

観たもの聴いたもの - 2021年上半期

思い立って1月からK-POPの勉強を始めた。楽曲の重複を含む独特なリリース形態のあるK-POPで音源の数を数えることにそれほど意味はないが、iTunes(いまは「ミュージック」だっけ)で+300前後。

次いで、Vliveを知り、そこで「Run BTS!」を遡りはじめる。これがめっちゃおもしろい。逆コンプリート癖というか、全体の9割くらいをさらうと止めてしまうクセがあり、すべてを見たわけではないけど、ファンの間で特筆して流通するエピソードが理解できる程度には見た、と思う。
以降、BTSのファンになった。しょうもないこと(ペットボトルの蓋を飛ばすゲームとか、UNOとか)で火がつくグルーヴをもつ7人は、わかりやすく欠点があり、わかりやすく補い合いあい、ほどほどに不干渉だったりする。やはり、チームとしてひとつの理想形にみえる。
アルバムでは『LOVE YOURSELF '結' Answer』が好きで、ライヴ映像では同作のサンパウロツアーが最高だった。ブラジルの観客の異様な大歓声のうねりに身を任せて7人があきらかにハイテンション。大掛かりなライヴは気を使い過ぎというか、段取りが勝ってるように見えることが多いなか、このライヴの中盤ほどまでは、ほんとうに生っぽい。

女性グループでは引き続きITZYが好き。ダサい上に節操もない「마.피.아. In the morning」は今でも聴いているし、バラエティ番組もVラもぼちぼち見ている。ここも関係性とそれぞれのキャラクターがいい。
なかでもリュジンは、韓国の女性アイドルのなかでは一番好きかもしれない。見た目もさることながら、大雑把な振る舞いが多くてとてもいい。くわえて、ITZYのメンバーそれぞれが、アイドル活動をするに至って抱える思いや悩みを吐露する動画では、リュジンだけ「女性にしては」ダンスがうまい、などとカッコつきで評価される業界の空気を変えたい、という趣旨の発言していて、ぐっときてしまう。しかし、ITZYを見てそうした発言が出てしまうプロの現場というのはなんなのだろうかと思ってしまうが...(とはいえ出番が続くとダンスがゆるくなる印象はある。ハードスケジュールすぎるのか、相対的にはパフォーマンス経験が少ないからなのか、両方なのか)

ところで韓国のアイドルは、比較的、大雑把な振る舞いをみせてくれることが多い。ソロ音源も今年のベスト級に好みだったEXOのベッキョンは、ほんとうに雑な配信をしてくれていて一発で好きになったし、BTSのナムジュンにしたって不器用すぎる(性格的な意味でなく)のが愛らしいし、Twitterで見た、サイン会中に駄菓子の袋を逆さにして残りを口に入れていた宇宙少女のソラ、メンバーへのスキンシップがやたらハードなwekimekiのキム・ドヨンなどもいい。
韓国にしたって、アイドルは規範意識を強く引き受けてしまい、ことは全くかんたんではないのだが、そこからすっと逃れるような彼ら彼女らの大雑把さは、こちらを鷹揚な気分にさせてくれる。
他者の目がある場で繰り出される雑さ、いい加減さは、自信の裏返しであり、その自信の表現は必ずしも細心で完璧な立ち居振る舞いを通過するわけではない、というのが、私が信じたいアイドルの大きな美点である。

 

日本のアイドルでは、変わらずlyrical school。ツアーファイナルは作り込みが強すぎるように感じてめずらしく乗り切れなかった(でも「BTTF」にちなんだ、まさかの3部構成はさすが!とおもった)が、地方ツアーは定点の配信が500円という英断だったのと、いちいちおもしろいアクシデントが毎回起きていて素晴らしかった。
たまに現場に足を運ぶと、NILKLYは見違えるようにスポーティーな印象に様変わり。けれど、曲間0秒の繋ぎを久々に聞けば「これこれ!」となる。現体制解散間際に見たグーグールルは、フロアが相変わらず創意に満ちていて笑ってしまうし、一年半以上ぶりに見たRAYは、瑞々しい印象にびっくり。ひとの表情、顔つきがかわるというのはどういうことなのだろう。

 

その他の音楽では、ラナ・デル・レイ、Tohji、C.O.S.A.に宇多田ヒカル、シルクソニック「Leave The Door Open」にBALLISTICK BOYZ「Animal」をよく聴いた。旧譜ではセレーナ・ゴメス「Rare」にカリ・ウチス「Sin Miedo」など。

 

さて、ストリップについてはずいぶん書いたし、今後もいっぱい書くだろう。宇佐美なつが...友坂麗が...とはじめると、また独立した記事に相当する文字数を書いてしまう。とにかく上半期ラストは怒涛の1ヶ月だった。下半期も人生めちゃくちゃにしていくことでしょう。
10頭の小倉、行きたいけど、さすがにスケジュール厳しいだろうな...などと書いておくと、実際10月頭になるとなぜか福岡にいたりするから困ったもんだ。予定は未定。


本は、韓国文化への接近もあって関連書を読むことが多かった。とはいえ、近現代の日韓関係の基礎となる日露戦争についてなど、まだまだ何も知らない。
そして、日韓のアイドルに関心を持ったことによる、こうした近現代史への遡りが、いよいよ天皇制との対峙を間近にしている気がしてくる。日本に限っていても、アイドルに興味を持ったら天皇制との対峙は必定に思われる。
昨年自分が書いた論考も、まさにそのグレーゾーンの中心たる天皇制を結局は擁護するところの枠組みでもあろうし、今後それが自己批判的に展開されるのか、あるいは積極的容認に傾くのか、まだ全くわかっていない。ことが重要に思われれば思われるだけ、それを考えるのを遠ざけてきていたので、何ひとつわかっていない。
万世一系の男性至上主義など、部分的な不同意はあるにせよ、いまのところ自分の天皇制に対する態度は、微温的な保守でしかない。
同時に、金井美恵子が鋭く批判するような、吉増剛造高橋睦郎ら詩人のナイーヴさに納得しきれないものもある。

 
韓国関係の本で面白かったものは以下。

www.iwanami.co.jp

www.iwanami.co.jp

honto.jp

 

千葉雅也『オーバーヒート』が印象深い。
冒頭の濃密さとざっくばらんさを行き来するような交錯的なモードにうっとりさせられつつ、底を抜いたような「何でも書く」態度にショックも覚えた。同性の年下の恋人が女性と夏祭りにデートをしていたことについて、かなりウェットなメッセージを送ること、献本を開封もせずバンバン処分すること、ツイートの反応を無感動に計算すること、SNSで絡んできた研究者のプロフィールを熱心に調べ上げること、それらは些細でことさらに取り上げることでもないのかもしれないが、意図された露悪性よりよっぽどショッキングだし、ただ単に「何でも書く」ことの真の徹底を見せられた気がしている。

あとは今更、『オーバーヒート』は文学的な「ストリップ」としても読めたのではないか、と考えたり(ストレージの都合で、本を手放すサイクルが早くなっている。単行本で買い直すか...)。

www.shinchosha.co.jp

 


映画を観ることは、今年はもう意図的に諦めていた。ようやくキム・ギヨン『下女』を観たくらいか。
しかし、ストリップを見だすと、なぜか映画を介していろいろ気になることが増えてきている。たとえば宇佐美なつの、完璧ながらも機械的ではない、しっかり人間味もある感覚は、まさか山中貞雄...などとうっかり思ってしまうし、しかしいや、山中は結局あの省略のしかただし、となると、どこからああした感覚が拾えるか......と、結局は映画というか宇佐美なつやストリップのことしか考えられていない、7月のはじまりだった。

ある踊り子

持て余すほどの幸福に預かるとき、何も考えずにそれに浸り切るのでなく、それをどうにか誰かに分け与えられないかと思う。
その幸福の中身は、各々によって様々であるだろうが、私はある踊り子を介して得られた幸福を等分することはできないか、やはり考えてしまう。
ただ惚けたようにしてられないのは、やはりそれが私以外の誰かにとっても、同じように強い幸福を与える可能性を思うからだろう。すると結論は決まってくる。その幸福は、劇場にしかない。だから、人を劇場に差し向けなければいけない。どうすれば人は劇場に向かうのか? それがわかっていれば苦労はない。
試しにいったん視点を移そう。「私はなぜ劇場に向かったのか」。ひとまず、これには答えられる。

                 

***

 

3連続で書いた見聞記以降、どのくらいのペースで観劇に行くか決めかねていた。
ストリップという芸能がもつ強度と特異性に惹かれつつ、私的な文脈からとりわけ「音楽と踊り」の関係が特に気になってはいた。振付によって楽曲を解釈するという点において、ストリップの踊りは、その形式性も手伝って、独特なものがある。手当たりしだいに観に行くこともできるけれど...さすがに許されない現実的な事情がいくつもある。
こうして、自分がストリップを視野に入れたきっかけになった武藤大祐さんが高く評価していた踊り子の名前が思いだされた。武藤さんによれば、この踊り子ほど構成力があり、音楽の扱いにも優れている人にはまだ出会っていないとのこと。なるほど、どんな演目がおすすめなのかだけでも聞いておこうと、教えを頂いた。
ある踊り子こと「宇佐美なつ」の名前が上がるのは、この文脈においてだった。


宇佐美なつの名前は『イルミナ』で見ていた。宇佐美の書いた文章も読み、ふとしたきっかけの観劇体験が高じて業界に飛び込んだというプロフィールも知っていた。珍しい背景への関心もあったし、文章に書かれていたことも気になっていた。
とはいえ、生まれながらの踊り子としかいいようのない友坂麗に打たれていたので、どこか懐疑的な気分もあった。一方で、武藤さんがあれほど言うなら...という思いもあり、結果、気になってしまったので、演目について情報を頂いた翌朝、突発的に渋谷に向かった。観劇ペースも許されない事情もへったくれもない。
つくづく思うが、自分にとって一番強い行動原理は「確認」である。大きい出来事では、海外のフロアがどうなってるのか「確認」したくてBABYMETALのEUツアーに参加した。渋谷など、話にならない。他に誰が出るのかもよくしらないまま、二週間ぶりの道頓堀劇場に向かった。

***

 

そこで見たものには、動揺させられた。面白い、とか、美しい、とかでなく、動揺。
動揺のまま、混み合うポラはスルーして、ロビーで武藤さんにメッセージを送りつける。いまログを見ると「凄すぎました!!!!」と「!」が4つもある。
動揺の由来は私的に過ぎて伝わるとも思えない。端的にいえば、同じパフォーマーとして心からの敗北、爽快そのものの敗北を覚えた。その爽快さは熱になって––ほとんど悪癖のようになっている––勢いのままに感想を連続でツイートした。言葉を留めておく余裕はまったくなかった。劇場に向かったのは、あくまでも「確認」の意味のはずだったが、つまるところ「予感」だったのではないかと、今は思う。


私が劇場に向かった理由は、大まかにはこうした話。人にはそれぞれの必然性があり、その必然性が噛み合う限りで行動に変化する。私にあった必然性の説明は、相変わらず人を差し向ける理由には足らない。

***

 

では、宇佐美なつとは、どんな踊り子なのか、どんなふうに優れているパフォーマーなのかを話さないとならない。

宇佐美が、あまたの踊り子、パフォーマーと一線を画しているとするなら。その特質は簡単に指摘できる。宇佐美のずば抜けた能力は、抜群の「耳の良さ」である。
「耳の良さ」とは楽曲を楽曲足らしめているひとつひとつの音を拾い上げる細やかさと、それらひとつひとつの音が織りなす曲の流れを見極める力(耳の話に目の比喩は不適当だが)のことだ。
その耳の良さは、当然、振付を介して感受される。踊り手が聴いている音が、振付という視覚情報に変換されるわけだ。


振付には、スタイルというものがある。私が今までに見た3作品にかんして言うなら、宇佐美の振付はアイドルのダンスが下地にあるスタイルだった。
アイドルのダンスとはなにか。手振りを中心とした、当て振りを多く含むダンスだ、とひとまず言っておく。アイドルのダンスには、あまり高級なイメージはないかもしれない。いや、はっきり言ってしまえば、低級なダンスではないかという疑いさえ向けられる。技術的に熟達していなくても習得でき、観客も容易に反復可能なダンス...「アイドルのダンス」の実際がそうしたものかどうか、ここでは問わない。また、問の立て方もふさわしくない。いずれにせよ問題は、宇佐美のダンスには、どこか凡庸な香りが漂っていることなのだ。


凡庸さとはなんだろうか。端的には平凡で、取り柄がないこと。見るべきものがない、ということを指す。ところで、見るべきものがないという判断はどこで働くのか。
何気なく顔を向けた電車の車窓から、こんなが風景が見えたとする。狭苦しく肩を寄せて居並ぶ家々と、経年を感じる低層アパート。剥き出しの階段は錆び付いている。遠くには建築中のタワーマンション。目を落とせば整備も行き届かない歩道の隅からは雑草が茂って、その横に犬を連れた老人がゆっくり歩いて、自転車に乗った子供が軽快に追い抜く...おそらく、特に胸が浮き立つ光景ではない。ありきたりで、どんな色形の建物があったか、子供や老人の顔がどうだったかなど、車窓の彼方に思い出せもしない。そんな風景を私たちは実際に何度も見てきただろう。
ただ、そうして「何度も見た」と思う心性は、しばしば、ただの先入観と見分けがつかないのではないだろうか。家々の意匠を見逃し、生活の多様さにも想像を働かせず、草の名も犬の種類も知らない。「ただの風景」に塗り込めてしまうのは、私たちがそれについてあえて考えずに済むものと思い込んでいるからにすぎない。
先入観とは、かように予断のことである。予断とは、現実に即していない判断のことである。あるいは、現実に向き合う手間を諦めてしまった思考のことである。凡庸さは、対象を誠実に眺めることを捨ててしまった、現実に即していない我々の判断の結果に現れるものではないだろうか。

われわれの多くは宇佐美ほど耳が良くない。目に頼りすぎていると——裸体を巡る視覚的なショーにも関わらず——宇佐美がなぜそうした動きを行っているのか、意味を掴みそこねるかもしれない。私たちは、他ならない私たち自身の凡庸さによって、そのダンスがどこかで見たような「アイドルのダンス」だと、凡庸なダンスだと、思いこんでしまうかもしれない。
宇佐美が振付を介して証明する耳の良さは、楽曲という現実の細かさに分け入るデリケートさだ。楽曲に鳴り響く無数の音は、あとから恣意的に付け加えられたものではなく、あらかじめ先に存在している。それをひとつずつ着実に拾い上げていくこと。宇佐美の振付は、この事実と対応している。その限りにおいて、いかに宇佐美のダンスが凡庸さと踵を接しているかにみえても、宇佐美自身に凡庸さは全くない。

しかし、一方で宇佐美の振付には「当て振り」が頻出する。「当て振り」とは、当の楽曲の歌詞が指示するイメージに対応する。
たとえば「泳ぐ」という歌詞があるとする。それに応じて、振付で、水をかくような動きがあてられてるとする。すいすいと平泳ぎのようにするかもしれないし、クロールを模した形になるかもしれない。重要なのは、そこでは、動作の正確さは問われないということだ。ここでは「泳ぐ」ことにある具体性、水の抵抗に応じる筋肉その他組織の仔細な再現があるわけではない。ここでは"だいたい"で「泳ぐ」ことが伝われば充分なのだ。
つまり宇佐美の振付にはその持ち前の聴力で細やかな現実(=楽曲)に分け入りつつ、同時にざっくりとした現実(=当て振り)が混ざり込むことを排除しない。宇佐美の踊りには、細やかさと大雑把さとを、一枚岩でない綜合的な「現実」として広く取り込む力が働いているのではないだろうか。
宇佐美の振付において凡庸さが感じられるとして、それは完全な誤りではない。凡庸さは、現実のひとつのありかたを受け入れる、可能性のあらわれでもある。だいたいのことは、だいたいで動いている。一方で、そのだいたいのありようを受け入れる繊細さがある。宇佐美は予断の残り香を濃厚に纏いつつ、微細な現実に向かって踊る。

 

けれども、まだ「ストリップ」は始まっていない。 

 

宇佐美の踊りは、前半から後半にかけ、大きく展開する。すなわち、脱衣が始まれば、空気は変わる。それが上半身から始まるにせよ下半身から始まるにせよ、脱衣の時間には芸のすべてが注ぎ込まれているかにもみえる。宇佐美の脱衣には、われわれが裸体を眼差す欲望の視線をアクロバットに飛び越えるような、あるいは綱渡るようなスリルを、絶対に欠くことがない。また、裸体があらわになってもなお、どこかに緊張を残している。それは当然、切れることない音楽の聴取への集中も変わらず続いているからでもあるが、惜しみなく与えつつも観客との関係に線を引き続ける感触がある。あるいは、互いの関係に線を引き直す感触が。

 

***


ストリップとは当然、女性の裸体を眼差す芸能のことである。男性が脱衣する芸があるにせよ、現在の多くのストリップではそうではない。
なぜ女性を眼差すのか。言うまでもなく、快楽が引き出せるからだ。その快楽は性的であり、多数派に準じるなら、それは男性にとっての性的な快楽だ。
性的な快楽は、他者を必要とする。しかし、基本的な合意をがとれた関係を前提としても、性の場で互いが均等にずっと対称的な関係を築けるわけではない。SMのようにまで偏ったものを想像するまでもなく、バランスの不均衡それ自体に快楽が生じることは当たり前でもあるだろう。わたしたちは性をめぐるやりとりにおいて、平等の基準を探り合う。
けれども、性をめぐるやりとりは、常にバランスを取り合うわけではない。ともすれば非対称な関係に傾きすぎてしまう。むしろ、その非対称性は社会においては前提としてスタートすらしている。
たとえば一般に、性器を名指すことは社会的に退けられている。しかし、しばしばその習わしは破綻する。問題は、この習わしの破綻が、多く男性によって行われることである。男性には、性器を名指すことの禁止を破る権利が過分に与えられている。このささいな禁止の侵犯は僅かずつではあっても快楽を備給する。非対称性そのものを性的に啜り上げる公然とした後ろめたさがそこにあるだろう。

                  

***

 

私は、宇佐美がポラの時間に客とやりとりをする中で、直截に性器及び性器の部位の名称について口にする瞬間が、とてつもなく好きだ。
私は同性異性問わず、性器の俗称を口にすることも、性的なことがら一般について話すのも苦手だが、宇佐美の振る舞いに、快いものを感じる。
これは女性による、一般社会で男性だけが持っている踏み越えの権利の奪取が起きていて、それが痛快なのかというと、必ずしもそうではない、と感じる。宇佐美は逆張りとして"あえてそう言って見せてる"わけではないはずだ。この感覚がどういう根拠に基づくことなのか、私にもまだ分かっていない。
その場が、男たちの視線が快楽を求めて漂う場であることは、前提のままである。事態はとくに何も変わっていない。しかし、いつの間にか、ほんの瞬間に価値の転倒も生じている。性器をとりまく、実に保守的な欲望の場は、ふとした瞬間にずらされている。あれほど人が執着し、本国においてはプレーンな表象すら避けられる対象となる性器の価値は、乗り越える以前に、さしあたっていったんどうでもよいものになる。宇佐美と(あるいはすべての踊り子たちと)性器をめぐってかすかに笑い合うとき、空気は確かに動いているかに感じる。私は触れ合うことなく、何かを可能にする希望だけ受け取っている。
でもそれは、劇場にいるすべての人にとってではない。あいかわらず性器を特別なものとして見たい欲望は残っているし、やはり一枚岩ではない。そのバラバラさを保ちつつ、岩肌を縫って線が引かれ直す。
    

***

 

昨今の忌々しい"浄化作戦"の余波か、一部の劇場にではオープンショーには縛りがあった。踊り子たちは笑いながら困ったようにしていたが、ある回の宇佐美は、本来のそれと違う、素足の指を広げて、客に足を向けて見せて回って、ラストは司会のいれた茶々通りに、舞台の中央で鼻の穴を指で広げて帰っていった。
オープンショーという形式を即興的に利用して、パフォーマーの勘として、即座にこの一連の振る舞いが導き出されたことにいたく感動したし、とても楽しかった。私もようやくオープンショーの楽しさを掴みかけていたところだったが、宇佐美の足指オープンショーがこの時間の豊かさを決定的にしてくれたと思う。
裸になる、ということの内実は、その言葉ほど簡単なことではない。私たちは何かとそれを見たがるが、とくに見たいとは思わない足の指の間(フェティッシュがある人はたまらないかもしれないが、こちらの想像の埒外である)を見せられて笑っていることと、どう関係しあっているだろうか。

***

 

本当は、宇佐美の芸の細部がどれほど豊かで、また、今後にどんな可能性を感じるかについて話がしたい。その衣装の使い方がいかに巧みか、本舞台からベットへと展開するドラマトゥルギーがどれほど大胆か、選曲の一貫性、曲間のコントロール、音楽の高まりを余すところなく捉えたポーズがどれだけ感動的か、下着の処理がどれほど完璧か、話したくて仕方がない。「Positive」のラスト、歌詞に合わせて両腕を開き、後ろへ向き直って飛ぶように踊る姿が、なぜあれほど感動的になるかについて、「黒煙」でのヘアアクセサリーの取り外しが、肌に触れずとも演出によって脱衣に特有のサスペンスを成立させていることについて、「Spring Vision」で暗転中に流れているだけの音楽が、どうしてこんなに胸を詰まらせるのかについて、考えたくて仕方がない。

 

私はこの文章を、「宇佐美なつを観に行け」という"動員"のつもりで書いてきたはずだった。それは幸福を分け与えるためのつもりだったが、むしろこうした悩ましさを共有したいからなのかもしれない。

 

いや、いっそ、誰かを拙く促すことなど、諦めてしまえばいいのかもしれないとすら思い始める。もっとも必要なのは、宇佐美もまた他の誰かから受け取ったはずのストリップの幸福が、私へとまた分け与えられている喜びに湯浴みするように、少なくともその心においてくらいは、裸になってみせることかもしれない。

 

***

私は、宇佐美なつを見てくれといいつつ、最初からいっこうに核心に届きそうもない蛇行を繰り返した気がする。たどり着くも気なかったのかもしれないと、今は思う。あれこれと喋っていても、その実、宇佐美の芸が死ぬほど好きだということを、頭からおしまいまで言い換えながら飽きずに繰り返しているだけに過ぎなかったのではないか。
まだそのことについて充分に話す術を持っていない、漫然と移り変わる日々を刺し貫いてしまう、あの決定的な脱衣の瞬間の強度に、私は何度も連れ戻されている。そして、その堂々巡りのようすは、おそらくほとんど呪いか、あるいは恋と見分けがつかない。

 

恋が人を多弁にする不滅の歴史に少しも違うことなく、不毛な高鳴りが無闇に響くだけのようなこれは、結局のところ、出来の悪いラブレターでしかなかったのかもしれない。

ストリップ見聞記(3)

正直に言えば、この記事まで出すことは、あらかじめ考えていた。
というのも、自分がアイドル文化に軸足を置きつつ、ストリップ文化へと片足を踏み込んだのだから、その逆、つまりストリップ文化に軸足のある人々へ、アイドル文化から差し出せるものを伝えたかった。
前回の更新時でストリップ再見の目処は立っていたので、観て再確認したものを含めて更新しようとしたのだが...劇場を再訪してみると、得るものが多くてほとんどプンラスとなった。

というわけで、そのことについて、先に書く。

 


ストリップ劇場再訪 

訪ねたのは川崎ロック座。
かつて「シネマ大道芸フェスティバル」に出演した思い出もある川崎。くしゃくしゃの競馬新聞を片手にした歯がなくて顔の真っ黒いおじさんに「がんばれよ!」と10円の投げ銭をもらった記憶がある。こういうおじさんに身銭を切ってもらうのは嬉しいものだ。

 

ロック座は川崎駅前から徒歩で10分かからないくらいの、裏道にある。早朝料金で割引を受け、入口で検温消毒。マスクの配布まであった。
前回の渋谷道頓堀劇場に比べると圧倒的に広くて天井も高く、ライヴハウス然としていたのが渋谷なら、川崎はいわゆる劇場のようなたたずまいである。青みのある黒い壁には大きく「Rock」の透かし文字...の脇に赤字で自慰厳禁の張紙。開演前にと用足しに行くと、男性用小便器は驚くほど位置が低くて、しかも赤外線センサーの機械のせいでなにも見えない。そのせいで的を外すことが絶えないのか、足元にペットシーツが敷いてあった...と、こうして不要な描写を重ねていると先に進めないので、特に書きたいことだけ書いてしまう。

 

香山蘭

あらかじめ『イルミナ』編集のうさぎいぬさんから、おすすめの踊り子さんとしてうかがっていた。なるほど、たしかに素晴らしい踊り子だった。
特に脱衣からのベットショーは絶品中の絶品であった。露出された乳頭に、性感帯としての感覚が宿っていることをこちらにトレースさせるような、しびれるような繊細な指の動きがある。直に触れるわけでも、凡庸に付近をなぞるわけでもないのに、裸の胸と宙を揺れる指が同じ視界に入ると、なぜかそう感じさせられる。しかし、そうした感覚は一部にとどまることなく、ぜんたいに見るだけでひんやりと滑らかに触られているような不思議な感覚に陥ってしまう。
また、ベットショーでは、かなり具体的に性交を描写するタイプの踊りがあるが、今回演じられた「花魁HR」*1もそうした演目だった。
口淫から体を重ねるように寝そべり、唇の端からハンパに(ペコちゃんのような)出して、床に顔を近づける。そして正常位から後背位に移行していくのだが、このそれぞれの動作はかなり生々しくある。しかし、リアリズムに徹するというわけではなく、実際、それぞれのポーズからポーズへの移行はなめらかで、いつの間にか起きている印象だった。身体が床に接しているとき、支点は手・肘・腰・膝など大きな関節各部位が関係しているはずなのに、ふしぎと大きく体を動かす印象がなかった...ポーズの移行はあたかも映画のように編集されている。
たとえば正常位から後背位に体勢を移すとき、尻を持ち上げた形に肘は立ててうつ伏せてから、いちど尻の方に大きく体重を移して、もういちど伸びをするようにして身体を伸ばす動きがあった。ここに現実の性行為には起きる必要がない動きがある(性器の挿入の強調とも読みうるけれども、そうしたニュアンスの動きはのちに起きていたはずだ、と思う)。こうした動きが、あたかも絶妙なカット割りとして機能していることはないだろうか。あるいは小津安二郎が人物を立たせる/座らせるときに行う、いわゆる「アクションつなぎ」のような、カメラ位置の変化が起こっているのでは...ということ。しかし、それも2回目のときにようやく感じたことなので、もう一度確かめる機会を待ちたい。

 

武藤つぐみ

GSM」は大きく「武藤くん」と書かれた大判のスケッチブックを背に、手にはなんらかの「力」を封じるためか厨二病の典型表現よろしく包帯が巻かれている、学ラン姿の武藤つぐみがマイムまじりに踊るシーンから始まる。深くかぶった制帽で目を隠す姿はマイケル・ジャクソンを想起させる。こうしたジェンダーを異にした表現じたいは珍しくない趣向ではあるが、この演目は徹底していた。
まず、一曲目を踊り終えると、後ろのスケッチブックを取って盆まできてあぐらがきにどかっと座ると、客を見渡してやおら似顔絵を描き出して、完成したものをモデルにプレゼントする。舞台からここまではっきりと客に干渉する芸は、かなり少ないのではないだろうか。観客はそのイメージを介して舞台上に上げられてすらいる。しかもそれは、一見して男性を演じる者から繰り出される。一連の出し物はジェンダーとストリップという芸能の構造が持つ非対称性を、手早く転倒させる。
しかし、そうした批評性の理が勝ちすぎることはなく、芸は具体的な動きにも宿る。脱衣が始まると、「力」を抑えていた手の包帯は、胸にもさらしとして巻かれていた事がわかる。それを巻き取ると、ズボンは勢いよく降ろされる。下着はボクサーブリーフ。パンツをひろげて中を覗き込んだかと思えば、前開きからにょきっと指を出してみせたりする。脱ぎきってしまっても、足首にボクサーパンツが引っかかっている。「厨二病」という自意識のこじれを、セクシャリティの揺らぎに重ねる武藤が体現する性のあり方は、知的であると同時にユーモラスで、かつシリアスでもある。
一転、ラストは流行り物の鬼滅ネタ。見せ場のポーズでは、ファリックな刀を観客の視線とぶつかるように鋭く差し向ける。鞘に収めた刀を床に立て捧げ持ったかと思えば、しなしなとすぐ横倒しになる。

身体的には、とにかく腰の柔らかい人で、バックベンドすると後頭部が尻に近づくくらい曲がったりする。ためらいなく反り返る動きが実に爽快だった。


観客への絡み方(学ランの上着を盆の面から振り回したりするのだけど、ほんとうに顔ギリギリなので、かなりスリリング)や注意の向け方は、ほとんどクラウニングともいえるそれで、既視感というか親近感もあった。

 

 

友坂麗

「Jumping」はこの日で都合三回鑑賞をしたことになったが、二回目はボロ泣き、三回目は泣きこそしないものの、やはり全身を持っていかれるような経験をした。
3曲目中頃に、先に履いていたブーツを脱ぎ、ヒールの靴に履き替えるシーンがある。左足はふつうに履くのだが、右足の靴を取るとき、目の前に置いて、うつぶせになって眺めて、ヒールに手をかけて、客席に目を向ける。この瞬間(確か)、赤い照明が舞台を埋める。フェードインなのかカットインなのか、覚えていない。正確には、照明が変わるより前に、友坂麗の何かが...何かとしかいいようのないそれが、空間のすべてをロックしてしまう。音楽の進行とも、まったく関係がない。いや、核心的な出来事に、うまく視線が向けられない。出来事は観客が把握できない(=困難な)タイミングで、生じている。
これは『イルミナ』の座談会でも、すこし別の文脈で例にされていて興味深かったのだが、友坂のある踊りには、柔道の技に掛かる感じがある。
柔道で圧倒的な上級者に技をかけられるとき、自分の身体が「投げ」の場に巻き込まれていく具体的な感覚がある。体重を「崩」されて、自立が乱れた身体が刹那に浮き、体を預ける重みを感じる前に、すでにして天地はひっくり返っているのだ。
けれども、この靴を巡る「瞬間」には、体重を崩された感じすらしない。手応えなしに、こちらの天地だけひっくり返ってる。
以降、友坂麗が何をしても、あるいはしなくても、そこに踊りが動き続けている。これにかんしては前回も書いたので繰り返さない。繰り返して話したいのだが。あ、いや、オープンショーのとき、曲の拍子をとる手が、気散じにパタつく猫のしっぽの動きそのもの*2で、実にすばらしいということだけ、取り急ぎ書き残しておく。

 


ところで、周年期間ということで、豪華な冊子をいただいた(しれっと初のポラ)。
膨大な演目リストを眺めていると「紅月 -あかつき-」の題が。これは...もしや...と思ってすかさず訊いて確認(2回目のポラ)すると、やはりその通りだとのこと。お気に入りの作品とおっしゃっていたので、再演の機会を逃さないようにしたい。

 

 

 アイドルの話

本題。
多様な背景を持った者たちが集まっているのだから、技巧が排されているわけでもないが、アイドルは「芸」の卓越では語りづらい*3芸能である。けれども、一部でよく言われるように「未熟さ」を愛でるに終始するものでもない。あるアイドルの観客はベタにステージの強度に打たれ、熱狂し、涙を流し、それぞれが何を見たのか語り合う。それでは、アイドルの観客は何を見ているのか。あえて言うならば、アイドルもまた、ステージ上で剥き出し=裸であり、観客はそれを目撃している。
アイドルが扇情的に、「疑似恋愛」的に情欲を掻き立てているという話などではない。歌も踊りも途上のまま、持たざるものがただ、あらん限りに力を尽くすこと、このことにおいてアイドルは裸であり続ける。
それは形には置き換えられない。しかし不可視の現れを感じるものたちが、「現場」で熱を伝えあって、あるいはそこから距離をおいて、バラバラな仕方で狂っていく。


もちろん、そうしたあり方のアイドルは少数派かもしれない。けれども、私がアイドルとその可能性に引き込まれたとするなら、不可視の現れを剥き出し=裸と語りたくなる、言いがたい感覚があったからだ。

 

手早く進もう。
実は、最も最初に手渡したかったものは、すでに失われている。「アイドル」は本当に脆い。手遅れになる前にまずは観に行って、「沼」に落ちるなり、自分の人生に関係ないか判断するなりすべきである。


www.youtube.com

 

この動画はすでに何度か貼っている。Aqbi Rec所属のBELLRING少女ハートによる、日本最大規模のフェスティバル「Tokyo Idol Festival」に出演した際のパフォーマンス映像だ。
ステージと客席が無法に乱れていくありようが(この撮影動画がアップロードされているという事自体も含めて!)、端的に収められている。17分付き合うのが億劫なら、12分40秒あたりから狂乱のクライマックスになる。

このグループは既に5年前に解散し、さらに紆余曲折を経てふたりはアイドル活動を引退している。
しかし、ひとりはSSW「ん・フェニ」として独立したが、もうふたりは変わらず「アイドル」である。有坂玲菜はレーレと名前を変え、同事務所の6人組サイケデリックトランス・アイドルグループ「MIGMA SHELTER」のメンバーとして、朝倉みずほは移籍後、唯一残ったオリジナルメンバー寿々木ここねとふたりで「SAKA-SAMA」として活動している。私が見る限り、ふたりは今でもステージの上で生の輝きを少しも減じることなく、多くの、また少ない観客を剥き出しのパフォーマンスで強く巻き込んでいる。
そして"黒い羽"を継いだグループは「NILKLY」として活動を再開したばかりだ。


こうして異なる世界の誰かを誘うのには理由がある。端的には文化の持続のためだが、アイドルの文化圏では、観客がゲームバランスを変えうる。数の問題ではない。特異な誰かが紛れ込むことで、驚くほど「現場」の空気は変る。こうしたダイナミズムは、外から見ていては絶対に分からない。
そして、うっかり入り込んだ"誰か"が自分ではないと、必ずしも言い切れない。好奇心で一度ライブを見にきただけなのに、いつの間にかそこに欠かせない観客の一人に変化した例は、いくらでもある。


ストリップとアイドルは似ているかもしれない。あるいは似ていないのかもしれない。
少なくとも、見てみなければ話は始まらない。
互いを行き来する風通しの良さだけ、ここにわずかながら確保しておきたい。

 

  

おわりに

私は今後もライヴハウスに行きつつ(今年はK-POPの勉強に振り切ったのでもっぱら在宅なのだけど)、おそらく劇場にも行くだろうし、ストリップについても書きたいことができればここに勝手に記録していだろうが、見聞記はひとまず終わりにする。

あまり読んでいる人のことは気にせず書いているけれど、今回はたくさんのストリップファンの方々にお目通しいただいた。門外漢の長々しい文章にも関わらず、好意的なご感想を嬉しく思います。

さいごに蛇足ながら、そして状況からなかなか難しいものの、自分自身もまた別の文化圏で、立場を違えて演者として活動している。ここにももちろん、数え切れない具体的な営みがあり、多様な表現がある。よければ、遊びに来てください。

*1:同日出演の赤西涼の演目に手を加えたものとのこと。

*2:保坂和志ではないが、この「猫」は比喩ではない。とかく意味を持たされすぎてしまう「猫」ではなく、猫の"あの"しっぽのパタつきが、人の手に宿って、友坂麗のオープンショーのリラックスした空気を陰に支えているのではないか、という話。

*3:ひとまず日本の非メジャーアイドルに話を絞る。韓国のように、そもそもダンスやラップスキルに優れた者たちが「アイドル」として活動することになる市場もあり、統一的に「アイドル」を語る困難が常にある

ストリップ見聞記(2)

すべてのパフォーマンスを見終わって、道玄坂を下りながら、ストリップは(すくなくとも道頓堀劇場においては)、かなり形式性の強い芸能だということを理解した。なるほど、と声には出さなかったが、見てみてはじめて深く納得できることが、とにかく多かった。かわりに、体も頭もひどく疲れている。さっきまで見たものをほとんど自動的に反復しながら、乗客の少ない銀座線で帰るのだった。

そういうショースタイルもあるのかもしれないが、個々のショーに連続性は特にない。連続性はないものの、同じ形式の中で演じる踊り子ごとの個性を対照しやすいので、それぞれが印象に残りやすい。出演5人でひとり15〜20分の持ち時間というサイズもちょうどいい。ストリップの形式性は、ひとりがパフォーマンスを終えるたびごとに、こちらをリセットしてくれる。
これがインディーズのアイドルの対バンだと、持ち時間こそ近いものの、ひどいイベントになると一日中せまいライヴハウスの中で20組以上が五月雨式に出てきてガヤガヤやってるので、個々の印象もへったくれもない。そんな環境でそもそも全部見通すなどということができないし(ストリップでも観客の出入りはあったが)、主催側も想定していない。目当てを2,3あるいは1組だけ観て、「特典会」*1まで通路で時間を潰していたりするような客もめずらしくない。

出だしから余計なことまで書いたが、急に前回から大きく話をとばしたのは、この形式性にも理由がある。


初の観劇後、受け取ったものの多さに疲労困憊しつつも、形式がかっちりあるおかげで、記憶が混乱することはなかった。メインショーの演出の差、ポラショーの観客とのやり取り、オープンショーの空気感...記憶はこうした場面ごとにフォルダ分けされて定着した。こまかに記憶が整理されたのは、前回書いたように、自分がまずアイドルの「現場」的なものに関心があって、ある程度最初からアイドル文化と対比的に見ていたせいもあるだろう。だけど、私が疲労困憊するほど「持っていかれた」感覚には、やはり整理された表面的な記憶だけではたどり着けない。そしてこの日会った出来事を順に追うだけでも、核心を掴むにはスピードが足りない。帰りの地下鉄で、考えるというより再上映されるように、細部の感触がよみがえり続ける。
ゆえに今回は、ストリップに備わった形式性を手がかりにしつつ、それぞれのパフォーマーの個性をあえて見逃し、5組のステージを重ね合わせ、いくらか抽象化したうえで、ストリップに何を見たのか、その曰く言いがたい感覚をわずかでも文字に移し替えるように、ひとつのノートとして書く。

 

 

・・・

 


各人の出番は三部構成。
本舞台〜盆をつかったメインのショー、客が踊り子と写真を撮るポラショー、そしてそのあと盆で行われるオープンショー(知らないなりに語感で察していたが、その通りではあった)である。
本舞台を中心とする最初のシークエンスは、盆に至るまでを含めた番組の基調となることが多かったが、対照的なトーンで構成されていることもあった。ここは主に着衣の状態ではじめられるが、いずれ「脱ぐ」ことは分かっていても、「脱ぐ」という動詞の単純さには収まりきらない展開があった。たとえば「脱ぐ」に至る動機がストーリーのうちにある程度整合的に示されていることもあれば、形式的な芸能一般にある"そういうもの"性によって支えられていることもあった。"そういうもの"性は、落語で枕から噺の本題へ移行する時に急変化するようなモードを思い出せばいいだろう。前後が筋道を立てて合理的に連続するのでなく、やるからやる、脱ぐから脱ぐ、というだけの世界も、またある。いずれにせよ着衣の仕方は一様ではない。最初から下着だけつけていないこともあれば、着物姿で何枚も布をまとっていることもある訳で、そこから脱衣の仕方にも差が生まれる。この脱衣の仕方が芸と呼ばれるだろう。

しかしまた、「芸」と呼ぶことで、期待としての露出をじらして遅延させる巧みさのようなものを、漠然と想像するかもしれない。少なくとも私は、ストリップはなんとなくそういうものなのかと思っていた。もちろん、そうした芸もあるにはあるが、期待としての露出をあっさり裏切るようなあっけらかんとした脱衣もあるし、部分的な脱衣が、続く盆のシークエンスへと伏線的な効果を与える場合もある。ともあれ、盆のシークエンスに至る前には、暗転を伴った衣装替えがある。本舞台で一度脱いだとしても、盆のシークエンスではもう一度あらためて服が着られるのだ。ストリップでは、服は"何度も脱がれる"。かように、ストリップは期待としての露出を最終的な目的にしたものでなく、露出の仕方をアレンジするバリエーションの芸を見る。

けれども同時に、ストリップには特権的な中心がある。私たちの身体において、腕や脚や腹、あるいは胸さえも超えて、法的な禁止の対象という特権をしめるそれ*2をめぐる身体の編成が、ストリップという芸の核心であることは揺らがないだろう。単純な芸術性の称揚(=免罪)がストリップの評価にふさわしくないように思われるのは、この禁止を前提とした特権を維持していることにつきる。ストリップはやはり、無毒な芸能ではないだろう。

とくに盆のシークエンスでは、それをめぐってパフォーマンスが構成される。回転する舞台で見えたり見えなかったりするそれは、確実にこの時間の中心であり続ける。
観客は見えたり見えなかったりすることで、窃視に浸れるわけではない。見えるかどうかは偶然ではなく、踊り子が組織した視線の誘いによってコントロールされている。このコントロールを結果として発生させる運動の流れをこそ、踊りと呼べるだろうか。
見えたり見えなかったりさせることは、それがより扇情的であるから、と言えなくもない。そうした側面は、拭い去ることができないし、拭い去ろうともしていない。だが、踊りという運動に巻き込まれた視線が目的地への迂回を甘い遅延で満たすいっぽう、突然の着地が驚きによって期待を上書きして私を振り回すうちに、扇情性では片付かない震えが与えられる。これを端的に言葉にできればどれだけ楽かしらないが、言葉にならない場所で、踊りは踊られる。いや、その物言いは不正確だ。むしろ、特権的な中心をめぐる、いたってありきたりな私の欲望が、ストリップという踊りの中で再編成されること。私たちが内面化している、エロティシズム、あるいはエロ、官能、ポルノ、何と言ってもいいが、踊りはそれの特権を使って、それらの価値観を解体していく。そうした可能性を与えるのは、ストリップ=踊りがひとつの詩的言語だからだろう...
すこし筆がすべりすぎたきらいがあるが、先に進む。

ストリップを踊りとしてみるとき、特権的な中心をめぐる詩的言語としての身体の編成が、その他の踊りと表現の質を隔てている。観客は幾何学的な形態を鑑賞するのでなく、律動する身体に同期するのでもなく、踊りを介して中心をめぐる意味の組み換え・上書きへと参加する。ただ、そうはいっても身体運動であるから、やはり直接的にはその筋肉や骨がめまぐるしく作り出す動きに目を奪われている。形態的な美も、律動的な同期も、排除されているわけではない。総じて、踊り=運動を観る強い喜びがある。だがそうしたとき––たとえばオープンショーは特にそうだが––意味を持つ部位としては特権的なそれは、豊かに動くその他の部位と違って、ほとんどまったく動きがない唯一の場所でもあることが、際立ってくる。

踊りを観る喜びといいつつ私は、どうかすると踊り子の顔ばかり見ていた気もする。正確に言うと、その視線。極度に形式化された視線、まだ迷いのある視線、力みのない自然な視線、あるいは力強い状態が自然であるような視線、踊り子が何を見ているのかに誘われた。でも、オープンショーはどこまでいっても、踊り子が明快にイニシアチブを取った"見せる"時間である。踊り子と客。互いの視線はすれ違う。ひとりの客が、ぐっと身を乗り出してのぞきこむ。踊り子は指を使ってみる。踊り子がそこへ視線を以て促すようなことは、たぶん一度もなかった気がする。観客は、何を見るのか選ばねばならない時間でもある。私はどこを見たらいいのか迷ってしまった。けれども、誰しもが何を見ればいいかはっきりわかっている。だが目を向けた先に、動きはない。展開がない。なぜそれを見るのか。かといって、顔をあげてまじまじと見つめ合うこともできない。ごくプライヴェートな場で手触りとともに交わされるはずの交歓が舞台に持ち込まれるとき、舞台/客席に備わった非対称性は逆転するかに思える。見る私を、舞台から見られている。ただそれは不快でも退屈でもない。ショーを締めくくるにふさわしい確かな充実がある。
オープンショーとは何なのか、あまりにもそのままで、かえって何も分からない時間でもあった。


...もうひとつ、ストリップの音楽について、これもメモ程度に書いておきたい。


ストリップに使われる音楽は、ビートの明瞭なダンスミュージックもあれば、メロディの質感が優先された歌謡曲もある。ただ、そのどちらも、特に盆のシークエンスに至れば、音楽と身体運動との同期性はいったん棚上げにされているかに見えた。音楽的な効果が、踊りに随伴するという意味では、ほとんど放棄されていることもあった。盆という場では、あくまでも身体の特権的な中心があるからだろう。音楽もそれ以外の身体も、そこを巡って動いている。ただし、単純に奉仕するわけでもない。非同期的に、オートマティックに音楽は回り続けている。
菊地成孔『服はなぜ音楽を必要とするか?』では、パリコレのファッションショーで、しばしば歩行のリズムとは無関係な四つ打ちのダンスミュージックが選ばれていることを指摘している。この無関係さは「エレガンス」という概念に接続されているが、その"無関係の関係"は、雑誌連載という性格のゆえか、明確な結論に迫るには至っていなかったと記憶している。
ともあれ、ストリップにおいても、この衣服・歩行(身体運動)・音楽の関係のあり方を見直す大きな必要を感じた。

 


ここまで、具体的なパフォーマーの話を回避して進めてきたが、最後に、私がこの日もっとも強く印象に残った踊り子のことについても、やはり書いておく。

 


私がこの日見た踊り子全員には、つよく涙腺を刺激された。それがどうしてなのか、なかなか分からない。上にずらずらと書いてきたことは、その原因に迫るための、ひとまずの整理だ。
けれど、そんな整理への欲求も追いつかないほどだらだらと泣いてしまったのは友坂麗だけだった。盆の上に来てから、脱いだハイヒールの片方をセンターに据えて、這うような四つん這いで、そのハイヒールにふれたとき、場の空気はハイヒールに向かって吸い込まれていくように集中していく。脱衣に進んでも、ありきたりな官能表現は何もなく、身体の充実だけを見せられる。比較的律動の強い音楽から、瞬間、リズムへの囚われから抜け出すようにして体が動く。そのたびに、どうしても泣いてしまう。暗転が行われてもまだ涙が止まらなかった。たぶん、ストリップという芸能のもつ強度に打たれた部分を差し引いても、これほど凄いパフォーマーを、今まで何人観ただろうかと思う。その何が凄いのか、一回見ただけですらすら言えるなら世話はないし、こちらが言語に分節できる精度を遥かに超えた領域で踊りがあるのだから、仕方なく、ただただ泣くしかないのだ。

それでも何かを言おうとするなら、友坂麗はポーズの人だ、と言おう。ポーズといっても、それらしい形の均整を指すのではなく、急降下するようなスピードが内在したポーズなのだ。そのポーズは、いつも突然にあらわれる。ただ単に急に止まるわけではない。でも、気づいたらそれはすでにポーズだ。それは、びくともしないほど強固に動きっぱなしのポーズなのだ。たぶん...想像がつかないだろう。さらにあの、天井の梁に手をかけた姿のエレガンスと、髪を振り払うように仰け反る身体のためらいのなさ、にもかかわらず、柔和さを常に携えるバランス感覚...友坂麗をこの日観なかったなら、ストリップ再訪の機会は、いくらか遅くなったか、あるいは日々に紛れてずっと遠のいたかもしれない。

そのほうがよかったこともあるかもしれない。でも、見てしまったのだから、仕方がない。仕方がないと言い聞かせて、また劇場に行くだろう。

*1:ストリップにおけるポラショーはアイドル文化における「特典会」と似ているように見えた。しかしストリップのポラショーは、すべてのステージが終わってから行われる「終演後物販」、別の出演者のステージ中に行われる「並行物販」、ステージが始まる前に行われる「前物販」のどれにもあてはまらない、いわば「都度物販」のような形であったことがおもしろく思えた。

*2:直截にしたいところをなかば迂遠な書き方にしているのは新参者の軽率さで安易に権力へ言質をとられまいとするための配慮なのだが、ふつうに書いてあるところには書いてあるので、単に考えすぎかもしれない。