雑記 たまこラブストーリー (5月27日追記)


つい先だってから公開された、TVシリーズ『たまこまーけっと』の映画化である『たまこラブストーリー』を観てきました。
80分ほどの尺にこれでもかと情報が詰め込まれ、かつ、プログラムピクチャー的な需要をも何ら拒むことのない達成に頭がさがるばかりでした。

もともとアニメにはとんと疎く、よくお邪魔する書本&cafe magellanの店主高熊さんにオススメされたものなど(高熊さんもまた美術作家の青野さんからお勧めされてアニメウォッチャーに)を観ていくうちに、京都アニメーション制作の作品で表現される動きやフレーミングの洗練に今更ながら目を開かれることになったのですが、ことにこの『たまこラブストーリー』は表現かくたるべしといった細心さに満ち満ちています。

なにせ一度きりの鑑賞で印象を整頓するにもままならず、諸々を統合して語る芸がないのが残念(今一番引っかかっているのはみどりというキャラクターの表現の奥行きの深さとデリケートさで、あれ、グッとくるんですよねえと言うくらいしか踏み込めない)ですが、映画のなかで運動の主題となっている「受け止めること」に付随して表現される、映画前半に頻出する「落ちる/落とす」こと、映画後半にかけて、主人公たまこに恋を告げるもち蔵が、あるものを落とさなかったことをポイントに「(舞い)上がる/昇る」ことに切り替わる運動の徹底した配置を見るに、私は十何年もものを投げたり受けたりを繰り返しているにもかかわらず、ここまで物が落ちることや舞い上がることについて考えられていないことに気付かされます。

そうそう「落ちる」ことの表現で一際感激したのが、学校の教室で教師が黒板に向かって、生徒への注意を促す意味で「インフルエンザ」と書きつけるそのチョークが、「ザ」の最後の一画を書き上げて黒板から離れるときに、白い粉がごく微妙にその黒板の表面に引っかかりながらはらはらと落ちていく描写です。それはこれまで数えきれないほど繰り返され、数えきれないほどの人々がその場に居合わせたにも関わらず、きっと『たまこラブストーリー』が描くまで誰も見ることのできなかった瞬間ではないでしょうか。その表現の微妙さとは不釣り合いを承知で、チョークの粉がハラハラと落ちていく瞬間を「目撃」することになる描写であると、書き付けておきたいです。
また、それが細部への異常なこだわりというある種のフェティッシュに堕すことなく、作品全体へ有機的に作用していて、もうこんな表現が作品の全体に溢れかえっているのですからたまりません。
しかしそれにしてもたまこともち蔵の間にピンと張られた糸電話の線と対照的な切れ切れに並ぶ川の飛び石(夕景の美しさ!)、そしてその川辺を上下反転するかのようなラストの駅のホームという場の対比。具体的には書けないけれど、ラストシーンの惚れ惚れするような格好良さ…!

・・・「落ちる」ことや「上がる」ことからジャグリングに結びつけていろいろ考えを進めようかと思ったのですが、どうも「『たまこラブストーリー』礼賛」に終始してしまいました。まあいいでしょう。


申し訳程度に書き足しておくと、今、とある場所でのパフォーマンスに向けていろいろと準備したり考えているところです。「分離」すること、が、いつからか私の中のテーマとして育ちつつあるようで、そうした問いに少しでも近づければと思っています。


文中のマゼランの店長、高熊さんによる『たまこラブストーリー』礼賛が!