12月14日の雑談

BABYMETALのライヴを横浜アリーナで観てきました。いやはや、ファンになってから二ヶ月半、期せずしての参加です。もはや20年ぶりくらいの大会場(その時はB'zでした)の慣れなさもあり、諸手を挙げて素晴らしい!という感想にはなりませんでしたが、こんなにも早く実際にパフォーマンスを観られる機会がやってきたのは幸運でした。というか、二ヶ月半前までその存在をなんとなく知る程度だったものに、ここまで入れ込んで横浜まで足を伸ばして観に行っている自分に驚きすらないのがなんともはや、です。
二日目は二日目とて、かねてより囁かれていた2ndアルバムと東京ドーム公演など、期待といささかの不安が交じる発表がありましたが、わたしが勝手に芸能の神様がやってきているに違いないと踏んでいるこのバンド、願わくば着実な歩みを進めてほしいものです。本当に本当に素晴らしいパフォーマーたちですが、フロントはまだ17歳ひとりと16歳がふたり。彼女たちが歌うように、「戦い」の途上なのでしょう。

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以前もここでふれたことのある池田剛介さんの「アートと地域の共生についてのノート」の台湾編がふたつ公開されたようです。都市の経済圏と屋台という経済圏の重なりに触れた第一回と、古書店で偶然に見つけた、荘子について書かれたフランスと日本の本を基に展開される、わたしと他者の共生を探る第二回。
そのどちらも興味深く、マクロな都市論に見えて、台湾という場で生じている共生のあり方として極めて具体的な屋台が観察され、また、荘子についてのジャン・フランソワ・ビルテールと中島隆博の本では、その互いの経験的な次元への接近を共生のヒントとして読み解きます。
このように書くと、池田さんは一貫して観察者にとどまるかのようですが、しかし、異国の台湾で偶然的に荘子の本、しかも日本語で書かれ、一冊はフランス語の邦訳書であるという、何重の意味にも文化的漂流物を手に取り得るということそれ自体が、池田さんの、漂流者でもある立場を露わにしながら、このような出来事が起こる文化的背景や歴史の積層を思わせ、「台湾」のスケールに変換が起こります。すなわち、池田さん自身もまた「台湾の楽しみ」の前に晒されており、このエッセイを読むわたしたちは、既にして、思いがけないリズムを刻む、「共生」の緩やかな連鎖の可能性を目撃しているわけです。


いろいろ連想が起こるままに「共生ノート」を読みながら、いつもながら思いは、劇団どくんごに至りました。そもそも、台湾の屋台について書かれている「ローカルにして根なし、しかし根なしにして地域性との一定の関係を保つ」ものとは、まず私にとってはどくんごの、自前のテントを自力で建て、そこで演じ、解体し、積み込み、移動し、またテントを建てる、この短期的なサイクルを、さらに一年というもう一つ大きなサイクルの中で繰り返す彼らの生活のことについての言葉のように読めてしまいます。
しかし、加えてそこにわたしのごく個人的な感触を付け加えるなら、そのテントの中で芝居を観て、打ち上げを行うその時間のうちに、かつていた無数にして無名の旅芸人たちの姿が重なることについて、毎回気付かされます。意匠としての旅芸人ではなく、その「根なし」性の実践において、自然に、旅芸人のリアリティを獲得するのです。とはいえ、そのリアリティは近接のリアリティではなく、むしろ旅芸人の幽霊を呼び出すリアリティのようなものです。生活の実践のみならず、どくんごの舞台を通してそうした幽霊がうごめいている予感がする。
幽霊のリアリティとは、いかにも飛躍かもしれませんが、何かが、出来事の背後にある凡庸な時間の縮約としての幽霊を感じさせることに、とても引っかかっています。わたし自身、この中身について何も考えられていないので、ひとまず妄言のようなものとして読み流してください。ですが、そうした感触について書かれていると思う、保坂和志の『朝露通信』から一節を引用します。今年は、この文章の前で何度となく立ち止まったように思います。


僕はこの『氷川清話』を読んでて思った。僕のように寒さに弱く、ちょっとでも寒いとすぐに風邪をひくような人間は子どもの頃に死んでいた。昭和三十一年に僕が生まれる前、僕は何度生まれても小さいうちに死んでいた、勝海舟の言葉を読んでいたら幕末明治維新の空気が急に身近になることがあり、ああ、自分はこの頃やその前やそれよりずっと前の時代に生まれるたびに死んだんだなあ、と不意に納得した。