せんだいキッズジャグリングフェスティバル、その後の考えごと

もう少し「せんだいキッズジャグリングフェスティバル」の話を。こだわるようですが、それだけ私にとって重要な仕事になりつつあることを、日に日に意識させられております。そして、来年も開催に向けて子供たちと動き始めていて、みんな実に頼もしくやる気があって、これはひょっとすると...と期待しています。

 

 

今日は、前々回の更新にもう少し突っ込んだ話をします。子供たちを通して、自分も改めてジャグリングについて考えさせられています。

 



先日の発表の記録映像を、数人の知り合いに見てもらっていました。概ね肯定的な反応で安心していましたが、共通して「今後も続けて見てみたい」という感想が自然に出てきていて、それだけイベントのポテンシャルがあるのかなと感じていますし、素朴に嬉しい反応でした。また、子供たちの発表が面白いとするなら、一意専心して目標に向かう熱さや、キビキビと全員で演じきるのではない、ユルさからくる好ましさがあるという話になりまして、これが大きいポイントだなと。それはジャグリング(とうか私のジャグリング観)が持つユルさの側面の表れとも思います。

 


ジャグリングには、ミスがつきものです。練習していればうまくいくことよりうまくいかないことが多いは当然ですし、人に見せる段になっても、できるはずの事ができなかったり、かなりカジュアルにミスが近くにあります。それだけに、ジャグリングのパフォーマンスでは、うまくやってみせることに価値が生まれ、いかにしてミスしそうなことをミスせずにやるか、という線にパフォーマンスが回収されていくこともあります。良し悪しではないんですが、相対的なものでしかないにもかかわらず、なにかパフォーマンスの本質的なものにすら見えてしまうときもあり、そうなれば受け取りの幅を狭めます。ここで"ミス"は、"成功"を阻むものとして退けられるわけですが、しかし、ぽろぽろと道具を取りこぼしてしまうこともまた、ジャグリングの一部ではあるまいか、とも私なんかは思うわけでして。上手くやりたいし、ミスは減らしたいと思いつつも、まあ落とすし失敗するし、しょうがないよね、こんなもんでしょう、という気持ちも拭いがたくあります。道具が重力に従ってボトボト地面に落ちる間抜けさは、人を脱力させてしまいます。もちろん、そんな諦念を甘く受け取るばかりでなく、ミスというエラーを通過することで思いがけない発見があるのは、他のあらゆる出来事と共通していますし、そういう意味でも、頻繁かつカジュアルにミスというエラーに接触することに、ジャグリングの面白さのひとつがあるのでは、とすら思います。ジャグリングでパフォーマンスするにしたって、そんなふうにミスを受け入れてしまえば、ちょっと違うものが作れるのではないか、と。

 

 


Shoebox Tour America 2012 Video (trailer) Jay Gilligan Wes Peden Erik Nilsson

動画後半に見られる、ジャグリングのミス/成功という対立を別の形で乗り越えたアプローチである"道具の取りこぼし自体が予め取り込まれている"彼らのジャグリング。ボロボロと手から溢れていくボールやリングの姿は、妙に爽快かつ痛快。

 

 

 

以前タゴマル企画でお招きした・・・・・・・・・の楽曲担当メロンちゃんさんが、私のユニット『マヤマ』を評するのに、そもそもジャグリングは「身体性の緩い表現」と指摘されていたことがあり、それはまさしくそのとおりで、フィジカルな芸に見えて、その実ジャグリングは、先ほどのような事情から「"ミスしないこと"を成功する」という点において非常に観念的であったりもします。

 

 

指摘の通り、『マヤマ』の場合は音楽とジャグリングとが関係を結ぶことに焦点を合わせているので、そこに「身体がノって」しまうような"身体性" が表れるようにしていますが、子供たちの発表においては、子供たちの身体のユルさ、だらだらしたりぼんやりしていたかと思えば途端に溌溂としたりする、不安定さを固有の"身体性"として残していました。それは、そもそも彼ら彼女らの身体が "そういうもの"だからですし、その不安定さは当然ジャグリングの道具のコントロールにも及ぶわけで、ミスしたからといってまあ"そういうもの"と、大きな瑕にはならない(そりゃあミスだらけも困ったものですが)、パフォーマンスにしたつもりです。つまり、ミスは子供たちの身体性の一部として抱合され、観客はその身体が作るユルさのグルーヴに巻き込まれることを楽しむ、という塩梅です。そもそも子供が主体のパフォーマンスにおいて、私が一番避けたかったのは、観客席で「子供を見守る大人」という役割が固定してしまうことでした。舞台であるからには、パフォーマンスであるからには、観客の身体にも影響を及ぼしてほしいし、そうでなければ子供たちは半年もジャグリングのパフォーマンスを学んだ甲斐がないというものです。

 

 

このようにして、子供たちのジャグリングパフォーマンスが「ミス/成功」という軸から「道具の取りこぼしを含む不安定でユルい身体性」の軸へフォーカスを移すことで、ジャグリングの理解のみならず、"子供の発表会"としても枠を広げられるのではないかと考えました。それは観客がメタ的に、発表が成功するか否か(あるいは勝つか負けるか)の成り行きを見守るのではなく、子供のグルーヴにノってしまう場にすることへ向けられています。少なくとも、そんな場は日本になかなか少ないと言えるでしょう。だからこそ、続ける価値があります。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは余談。

 

途中で・・・・・・・・・の話が出てきましたが、実はこれも無関係ではないのでして、とある友人は、子供たちのパフォーマンスが、私の一連のアイドル文化への接近の影響が見えると指摘しました。私自身も頷けるもので、要するに形式的な完成度や技巧の巧拙ではない部分でパフォーマンスを見る見方が反映されているということです。

 

同時にそれは諸刃の剣でもあって、私自身アイドルの「未成熟さ」を逆手に取って称揚する言説に微妙な違和感を持っているからなのですが、そもそもなにか「成熟」した形が設定されていて、アイドルがそれに対するアンチとして面白さが成立しているジャンルとするなら、非常に貧しい感じがするのです。もっと単純に、パフォーマンスは万人に開かれていて、それぞれが固有のニュアンスを持っており、そのニュアンスをパフォーマンスとしてどう組織するかという話だと思うのです。私で言うなら、子供は身体を統御できないから、ふらふらしてしまう"それだけのこと"にフォーカスしてみるのであって、ふらふらしてしまうことに例えば"あどけなさ"を読み込んで価値化しているわけではない。実際の動きが作る実際のリズムやグルーヴがあるのみ、ではないでしょうか。アイドルもまた、彼女らが作る固有のリズムやグルーヴにおいて、稀有な表現を見せる時がある。というだけ。ある表現の典型から逸脱しているが、その逸脱のみではなく、そもそもアイドル自身が切り拓いている表現の領域があると、ひとまず乗っかってしまうことで、自分はずいぶん楽しませてもらっています。

 

端的に、自分の身体を噛ませずメタっぽくアイドルを"面白がってる"ようなスタンスに見られるのは本意でないし、実際見ないと、あるいは実際見たとしてもすんなりと納得の行くような文化ではないとも思いますが、子供たちへの振付に、その文化を享受した結果が、ようやくフィードバックでき始めたのかもしれないのです。もしかしたら、私はこの予感にこだわっているのかもしれません。