20190202 『息の跡』を観る

閑散期なので、休日というのに映画を観に。

 

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今日は小森はるか監督『息の跡』『空に聞く』を。特に『息の跡』はよかった。主な被写体である「佐藤たね屋」ご主人の貞一さんは、被災されたのちセルフビルドによってたね屋を再建。また被災経験を独学で英語・中国語・スペイン語で著し、かつての陸前高田の震災記録を渉猟するという方。「わかるだろ?」「伝わってる?」とカメラの手前にいるだろう小森監督に何度もくりかえす口癖は、震災をきっかけに突き動かされた"この経験"を書き残し伝えようとする、佐藤さんの行動力学を反映しているかのよう。

 

この佐藤さんの書き残す/伝える情熱は、映画中盤ほど、土地のご神木の樹齢を算定するシーンに際立っていて、土地の言い伝えによっては、1000年とも言われる神木だが、そうではない。なぜならば、スペインにある記録によれば、この土地には1611年に津波が来ている。ここにこの木が生えているということは、少なくともそれ以後に植えられたからだ、と実際に手を動かしパフォーマンスしながら仮設を導き出す佐藤さんは、自著のとおり、端的な事実のみを求めています。しかし同時に、だからといって皆が樹齢1000年のご神木だと思って敬う気持ちを否定してはならないと言う。事実と感情の間を揺らぎつつバランスをとるその姿は、震災の経験を書き残すにあたって、日本語が曖昧な語彙で感情ばかり漏出させることに違和感を覚え、英語ならばと筆を執ったものの、事実の記述にとどまらず感情面をも記録/伝えるべき対象に変化していった過程と重なるかのようです。

 

そうは言ってもどこまでも飄々とした佐藤さんと、それに負けないほど素朴な声で受け答えする小森監督の構えは、純粋な観察者にとどまりません。ファーストシーンで置かれた、外と内の境のような場所に置かれたカメラポジション(画面左上にカメラの前ではためく何かのビニールから、完全な店外ではないことがわかります)は、まさしく監督の立場を端的に表現しているようです。またその微妙なポジショニングが、佐藤たね屋という場所を、陸続きではない、ひとつの浮島のように見せているような気がします。確かに映画の中でも冬から夏になり、また冬が来る時間の変化ははっきり捉えられているのに、どこか外部から切り離されている感触が残ります。これがおもしろかった。

 

映画は、最後に佐藤さん自身が店を解体する様子を映します。言葉の端々から、移転することが伺えますが、井戸に手をかけネジを外し、ポンプをばらし、壊しちゃった!と感心したような悲嘆するような声を上げつつ、土中のパイプをするすると抜き出し、それが曇った空に伸びていくさまをカメラが捉えるとき、それを見る我々は、こんなにも遮るものなく高く伸びたパイプがある空間も、かつて波に沈み、やがて土に埋まるだろうことを思わずにいられません。刹那、パイプが倒れこみ、それを追ったカメラが揺れたとき、画面は暗転して映画は終わる。突然切実さが露わになるシークエンスです。

 

 

 

この映画を見ていて、判明でないこと、分かりづらいことはなにもないのですが、こうして感想を書こうとしていると、おそろしく複雑で多義的な出来事が重なっている映画であることがわかってしまいます。明確に何という言葉を与えていいかわからない。むしろ、人が天災に際して何らかの意味を与えようとしてしまうその生理を、映画を介して経験してしまうといったほうがいいのかもしれない。