20190203 『二重のまち/交代地のうたを編む(仮)』を観る

休日だというのにまたも映画を観に。

 

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昨日は一昨日に引き続き、小森はるか・瀬尾夏美の映画と、濱口竜介岡田利規両名をゲストに交えたレクチャー&トークも。

 

小森・瀬尾の連名の共作『波のした、土のうえ』『二重のまち/交代地のうたを編む(仮)』は、どちらも撮影編集を小森さんが、テキストを瀬尾さんが書く、という形式のよう。後者は今日が世界初公開、ということで、場内もにぎわい、なにやら遠征してきた方々も少なくない様子。

 

とりあえず新作の『二重の〜』について、ざっくばらんに書いておこう。

 

まず『息の跡』で断片的に見えていた、思わず目を惹くショットの魅力が、ファーストシーンから息づいていて、バスの椅子に座る少女(古田春香さん)の姿を逆光気味に捉える最初のショットには、思わず心を掴まれた。トークで濱口監督が開口一番「傑作であることを確信した」と語るのも頷ける素晴らしいショット。加えて、そのカメラが古田さんの主観ショットのようなポジションに移り、さらに逆位置から切り返される流れがまた、いかにも「映画」という手触りなんです。
そして、ちょっと違うことに気を取られて、どこが最初だったか見落としてしまったけれども、少なくとも前半に無人ショットが出てこない。画面には常に人がいて、何かを語っている。そして、女子高生がすべり台から滑り落ちてきたり(カメラはすべり台の着地点を横から低く捉えていて、そこにいきなり足がニュッと現れるのが、なんともおかしみがある)、子供がテレビの画面にペンを突き立て、タブレットのようにして扱おうとするさまなどが、余白というには贅沢なほど、際立つ細部として画面に残されている。

 

この映画は、陸前高田へ15日間の滞在制作を行って制作したものとのこと。出演者は、公募によって集まった"震災の非当事者"四名。先述した古田春香と米川幸リオン、坂井遥香、三浦碧至のそれぞれが、被災された方々から、そのお宅に寝泊まりしながら直接話を聞き、聞いた話をカメラの前で語り直すまでが前半部と言えるだろう。このカメラの前での語り直しは、ブラックバックのスタジオのような場所で撮影されており、カメラに正対する形で行われている。正直、私はそこで語られていた話をほとんど覚えていないのだが、全員がとにかく「なんか」「なんだろう」と言いよどみつつ語ろうとする姿は、生々しさの残るものとして印象に残った。
ちなみに、レクチャーで瀬尾さんが説明するところによると、この映画のプロジェクトは、被災から七年という時間を経て、今だからこそ被災者の語りを"継承"すべきではないか、そしてまたそれは被災から遠く離れた(時間的にも空間的にも)人たちにこそ、伝わりうるのではないか、という発端から企画されたものと、おおよそそのように理解した。だから、その「なんか」「なんだろう」という言いよどみは、今まさに"継承"が行われている身体の現前として、記録されているかのようだ。

 

映画は後半、瀬尾さんの「二重のまち」という陸前高田を舞台にしたテクストを朗読するパートに移行する。このテクストは、2031年の未来に語られる物語という設定ではあるが、実際のモデルの経験が下敷きになっている。春夏秋冬の四つの物語が並ぶ構成になっており、それらは出演者四名に振り分けられ、一人が一つの物語を朗読する役割を与えられる。映画では基本的にすべてナレーションによって処理されるが、実際は陸前高田の住民の方々を集め、屋外で朗読会を行っている。映画は、すべての過程を経て、四人が一つの部屋に改めて集い、15日間の体験を振り返ることで終えられる。語られるすべてを聞き届け、理解することの困難、あるいは不可能について吐露する。

 
それにしても「夏」を担当する米川幸リオンさんの、夜景のシーンがまた絶品。たしか冒頭に"夏"とナレーションがかかるとき、画面が昼から夜に切り替わって、陰るリオンさんの顔を仰角気味に捉えるショットの絶妙なタイミング、そして誰もいない陸前高田の夜の街を歩く姿を横移動のトラベリングショットで映すシーンがめちゃくちゃに素晴らしいのです。

 

 

だがまあ、書いていてもそうなのだけど、画面から得る"映画"としての魅力と、プロジェクトの狙いが、私の中でひとつのものにならない。それはそれでよい、ということかもしれないけど、やはりいくらか引っかかるものがあった。もしかしたら、プロジェクトは書籍や展覧会にもわたるものだから、映画はサブテキストのひとつなのかもしれない。少なくとも、映画を観ただけでは、レクチャーなどで繰り返される"継承"行為に関わった感触はないし、"継承"行為を試みた人たちのドキュメンタリーという記録とみればいいのかもしれないが、いまいち腑に落ちない。映画は実際に被災地へ赴くきっかけなのだろうか、それとも想像を介して"継承"行為に近づくということなのか。

 

濱口監督の感想ばかりで気が引けるが、私も、最後の振り返りのシーンが、やはり違和感のもとの気がしている。そこで起こったことの記録としては重要なのかもしれないが、わかり切ることができない、完全に聞くことはできないという煩悶から彼ら彼女らの誠実さを見ることで、私は妙に居心地の悪い安心感を覚える。こう言ってはなんだが、結論として与えられたそれは、予め分かっていたことだからだ。観客として、映画を見ることで、最終的に自分の足場が揺れることはなかった。

 

 それでも、やはり観る喜びに乏しい映画ではないと思う。すでに書いたように、画面に映されている細部の魅力には、とても力がある。慌ただしく前日ギリギリまで編集を行っていたとのことなので、今後別のバージョンが公開されるかもしれない。

 

 

 

帰ったあと、先日イベントでいただいた豆があったので、撒いた。
それで思い出して、値引きされた恵方巻きを目当ての卑しい目的で近所へでかけたら、どこもすっかり売り切れていた。風習が浸透したのか、入荷数を減らしたのか、卑しい同類が多いのか。