20190413 三宅唱『ワイルドツアー』を観て

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東京遠征中に三宅唱監督『ワイルドツアー』を観ました。ほぼ演技経験のない中高生が主演ということで、これは"間違いない"だろうという期待通りの映画でした。
昨年の『きみの鳥はうたえる』はもちろん、俳優の魅力を引き出すことにおいて三宅さんのディレクションは驚くほどで、撮影当時20代後半だった『Playback』など、ほとんど魔法のようにすら思ったものです。村上淳さんや渋川清彦さんの稚気めいた愛らしさと言ったら...とはいえ、『ワイルドツアー』はそうした役者の魅力もさることながら「映画」形式への挑戦もあり、全然一筋縄ではいかないのでした。

 

YCAMから「映画でなくてもいい」というオファーのもとに実験と「面白」さを兼ね備えた作品を目標に制作したとのこと。言うは易しでありますが、まさしく『ワイルドツアー』は実験と面白さ(素朴に劇映画として楽しめる)を両立した作品でありました。
 

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iPhoneの録画開始と思しき音がピコッと鳴り、木の枝や風に揺れる枯れ葉を映し出すファーストシーン。三宅さんの『無言日記』やHKT48山下エミリーさん自らのiPhoneを使った『エミリーの日記』の流れを継ぐものでありつつ、この主観ショット(というかダイレクトにカメラオペレーションしている)はぶっきらぼうに見えるものの、ふだん目を向けることのない細部という、別の世界への注視に促されています。
その世界の現れはYCAMでのWS「ワイルドツアー」に反映されます。身の回りの植物のDNAを採取し、またその植物が生えている周囲の環境を撮影記録すること(劇作上のiPhoneの映像はこのWSの記録映像でもある)、このWSに中高生が参加する様子をドキュメンタルな手触りで追う前半部に見え隠れします。採取し、植物の組成を科学的に知ることだけではなく、カメラを介して環境に触れ直し何気ない公園や荒れ地が冒険の場となること。こうした世界の変化は、当の本人たちの人間関係においても、「恋愛」という形で生じます。だが、『ワイルドツアー』が一筋縄ではいかないのは、その恋愛による世界の変化の両面を描くこと、つまり世界の開かれだけを描くわけではないことにあります。



中学生であるタケにシュン、そして二人に恋され、また自身も恋するYCAMスタッフのうめちゃんは、その恋心を実に率直に打ち明けながらも、想いがその恋する相手に理想的に受け取られることはありません。皆、微妙にすれ違っていく。シュンもまた同級生に恋心を打ち明けられる側でありながら、その心を受け止めるどころか、自分の恋にだけ思いを奪われ、女の子に「シュンは好きな人に告白しないの?」と問われると「フラれたら嫌じゃん」と、当の自分が相手にそうしていることは一切気づかないといった具合です。恋は、それぞれに新たな世界を開きながらも、そこに閉じ込めてしまいもする。トイレの個室でうめちゃんへの恋心を打ち明けるシュンとタケの間に壁があったように、ふたりもどこか各々の思いに閉じこもり、隔たっていくのです。想いが言葉となって形を持つことで、それぞれが別の世界に生きていることが、どんどん明るみにさらされていく。しかし、閉じられた世界も、また別の仕方で開かれていく繰り返し(映画は最初にうめちゃんが立っていた場所にシュンとタケが立っているシーンで終わる)には、息苦しさどころか感傷すらありません。それは、この映画が絶妙に視点をズラし続けているからにも見えます。



この映画では、複数のカメラが用いられています。WSに使われているiPhoneに、機材について明るくないのでおそらくではありますが、劇部分を撮影しているカメラも数種類あるように見えます。更に、iPhoneの画面は別のカメラで撮影され、同時に劇内で編集されるPCのディスプレイにも映し出される。複数の画面と複数の画面内画面。また、より重要なのは、それらが統一的な視点によって編集されきらないことです。無論、最終的に映画『ワイルドツアー』を作品たらしめる編集を施しているのは三宅監督自身なのですが、ところどころに奇妙な逸脱があるように感じます。
例えば、植物採集をする四人の女の子たちと、それに随伴するYCAMスタッフのザキヤマが撮影した動画を受信したうめちゃんのiPhoneが再生するシーンでは、動画は"編集されたひとつづきの映像"としてスクリーンに映写されます。おそらく複数のファイルをその場から送ったにすぎないはずの映像は、なぜか"編集"されているのです。この編集を行ったのは現実的には三宅監督なのですが、劇内においてはザキヤマの撮影した複数の動画ファイルであり、うめちゃんの主観ショット(准-主観ショット?)でもあるはずなのだが、スクリーンに映っている映像の流れそのものは、おそらくザキヤマが見たものでもうめちゃんが見たものでもない。ここでは映像そのものが遊離して浮遊する、非人称的ショットともいえる手触りをもたらします。


もうひとつ象徴的なシーンは、シュンとタケがうめちゃんと撮影素材を編集室で大型のディスプレイに映し出して眺めるシーンを"ディスプレイを透過して"カメラで捉えたショットです。薄布のような画面に映される自分たちの顔が、彼ら彼女らの顔に二重に重なる。当然このような視点は現実にはあり得ません。が、画面を見つめる彼ら彼女らを、観客もまた画面を挟んで見つめることで、互いが鏡合わせになるような関係が立ち上がります。お互いの視線が直に交わることはないが、この隔たりが我々を仮初めに結びつけ合いもするのです。
すれ違う恋のようなものとして我々は映画を見る、というとあまりにも気恥ずかしいものですが、やはりそうとしか言えない瑞々しさで満たされた映画であったと思います。

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書ききれていなかったり書かなかったりしている点でも魅力的なシーンは多々ありまして、とくにカニパンを分け合う二人の男の子など、なんともいえない良さなのですよね...そしてラストのタケの変わり方(笑)




実にさり気なくではあるが、映画はこんなこともできるぜ!と見せてくれる三宅さんの映画、本当に得難いのですが、なかなかソフト化されているものが少ない現状なので、やってるな、と思ったら観ておくのがよいですね。