20190607 魔法のような映画、『嵐電』

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シネフィルと言えるほどではないものの、それなりに長い時間を映画に費やしてきましたが、「映画」を観る快楽にここまで浸らせてくれた作品はいつ以来なのか、まったく思い出せません。


『ジョギング渡り鳥』『ゾンからのメッセージ』も見逃していて、鈴木卓爾監督について何も分からないといっていい状況ですが、『うさぎの楽隊』はもちろん『ゲゲゲの女房』の素晴らしさを知っていたからこそ、この『嵐電』も観に行ったので...いやはや、ひさしぶりに分析する気も起きなければ、そもそもこの映画で試されていることに追いつくのも精一杯というありさま。体感にして9割近いショットに入り込む「嵐電」の車体、不意をつくような編集、大胆極まりないフレーミング、生々しく魅力の脈打つすべてのキャスト...こうした褒め言葉をいくら積み重ねようとも、映画の一端をも明らかにしないでしょう。しかし、まずは『嵐電』がどれだけ素晴らしいのか、うわ言のように繰り返すくらいしかない。もし現代にも「魔法」があるとしたら、この映画は紛れもなくその名に値する作品でしょう。

 

これはね、少なくとも私程度の者には、一度観た程度で何かが分かるような水準の映画ではないです。しかし、黙り込んでしまいたくなるわけでもなく、観た人と、あの井浦新さんによるベランダと踏切を結びつける"切り返し"について、大西礼芳さんの涙の唐突さとキスシーンの美しさについて、上映会中ひっきりなしに到着し続ける嵐電について、京都という波間を切って進む嵐電が、確かに観客の耳に波音を届けた瞬間の陶酔感について、べらべらと語り明かしたい気持ちが抑えられない映画です。

 

そう、ひとつだけ書き残しておきたいとしたら、『嵐電』にあっては「音」が印象的に演出されていたように感じたことです。先に書いた、そこにないはずの波の音、駅の回転バーが回る重い金属の音、衛星の妻の突く杖の音、8mmカメラの音、改札パンチをカチカチ合わせる音。電車という、映画作家ならば誰でもその視覚性に淫してしまいたくなる対象は、あくまでも認識の限界というフレームを境界づける役割のようでもあり、その圏内で響いてくる「音」に耳を澄ませるときこそ、狐と狸の誘いよろしく我々はここではないどこかに飛び去ってしまうような、奇妙な感覚に陥るのです。

 

 

映画において未知を体験したいならば、それは『嵐電』、ここにあると断言して擱筆