3776『閏日神舞』または「天地創造MIX説」について

※3/5表記等を若干修正
東京キネマ倶楽部で行われた3776×OTOTOY 企画vol.8『閏日神舞』は一部・二部に分かれ、メインイベントは、6組12名で演じられる第二部「富士山神話 LINK MIX」。かねてから日本神話に材をとってアイドルたちが"神"を演じ、またLINKモードで設定された、富士山を中心軸とした「静岡/山梨」の二項対立に則ったふたつの神話が語られるとSNS等で情報が出ており、3776の異様な企画にまたしてもオタクたちはざわついていましたが、それはひとまず置くとして。第一部「宵の宮」は通常の対バンらしいことも伝わってきており、広瀬愛菜/O'CHAWANZ/彼女のサーブ&レシーブ/963/XOXO EXTREME/井出ちよのという、好事家の評価も高いアイドルたちの出演それ自体がフェスのような雰囲気を醸しています。私としても、久しく見ていないグループが多く、また第二部との関連はありやと穿った期待もありましたが、まずは素直に楽しむことができました。

いや素直に、どころか特筆大書して楽しかった!という時間でした。対バンイベントで、この数年で私的トップ3に入る現場であったとすら思います。良質な音楽と、雰囲気も含め開放感のある会場、大勢の観客だがパーソナルスペースはしっかり確保できる密度、脱力と緊張の入り交じるパフォーマンス、(やや控えめだったが)オタクの奇行...これがアイドル現場のすべてだ!と言いたいほどです。そして出演順に各組の人数をみると1-2-3-3-2-1と第二部の伏線なのか奇妙な対称が作られているらしいことにもニヤリとさせられます。

そんな勘ぐりはともかく、構成の妙は図式的なフォームにとどまりません。前半、広瀬愛菜~彼女のサーブ・レシーブ~O'CHAWANZと振付や照明演出もゆるやかなソロ/ユニットが続き(ことに彼女の~とO'CHAWANZのサブステージをめぐるグタグダな進行!)、それとは好対照なXOXO EXTREMEがサブステージ上で、作り込まれた照明と振付でパフォーマンスに入る瞬間は鮮やかでした。意図せざる試みかもしれませんが、プログレッシヴ・ロックを主な楽曲のジャンルに取り込むキスエクが、イベント自体の"転調"に寄与していることを一際興味深く思います。
963のぴーぴるによる「こんなに人が集まってたら"アレ"にかかるのも時間の問題ですね」井出ちよのの「高校生活最後のライヴになる予定が、昨日急遽めっちゃあっさりした卒業式をしました!なので高校卒業後初ライヴでーす!」といった、時事ネタのライトすぎる扱いもまた、アイドルならではの洒脱さでしょう。

しかしぜんたいに、ひどく平和というか、それを物足りなく思う向きもあるかもしれません。同様に、"良質な音楽"(3776/井出ちよの、あるいはキスエクは留保が入るかもしれないが)は、時にアイドルの免罪符となるジャンルミュージックの先鋭的な融合からも、微温的撤退がなされているといえなくもない。が、彼女彼らが守ってきただろう現場にこそ、アイドルがアップデートされ続ける現在が色濃く反映されてもいます。年齢や地域性といったアクチュアルな主題はもちろん、わかりやすくキッチュだったりエモかったりはしないことで見過ごされてしまう、いわば"不燃性のアイドル"が持つアイドル性をいま一度考えてみることができるかもしれません。

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第二部「富士山神話 LINK MIX」は日本書紀古事記から採られたエピソードを翻案した...音楽劇といっていいでしょう。いつもどおり複数のコンテクストが重なり合った3776のワンマンですが、今回は私が日本神話に不案内なので、神々の名前を改めて飲み込むのにもちょっと突っかかるほどです。そして、そもそもの公演経験がずいぶんと複雑かつ、アイドルの演劇表現にやや慣れきらないまま全編が過ぎてしまった感もあり、どうもうまく受け止め損ねた気がしてなりません。広瀬愛菜さんの浄瑠璃の素晴らしさや、あるいはその他の出演者陣も普段どおりのキャラクターが活きている、どころか、もうありのままといってもいいくらいで、公演の複雑さが、楽天的なアイドル性をいささかも損なっていないのを愉しめば十分、という気もします。だがやはり3776のライヴをそれだけで終わらせるのはもったいないぞと思うわけです。そんな予感があったからか、公演の理解の助けになるとアナウンスされていたパンフレットを買っておきました。が、情報量!公演の間に読むにはなかなかに気合がいる分量です。フロアのそこここから「これはもう読むの諦めたよ…」と嘆息が伝わってきます。

それにしても、「演劇的」と称される公演を行うアイドルグループ...たとえばMaison book girlのワンマンライヴが説明を極力回避することで観客の解釈の自由度を保証しつつ、提示されるイメージそれ自体の効果を美的/詩的に消費するのだとしたら、3776は極端なまでに説明的であり、むしろその徹底した説明的態度は予断的な解釈を許さず、だが丁寧にロジックを追った結果現れる多義的な構造こそが、アイディアの異様さを際立たせてしまうのだと、パンフレットをいたずらにパラパラしつつ、改めて思わされました。

 パンフレットは左右どちらから開いても、見開きに跨って富士山の写真が収められています。駿河國富士山記側から右開きに開くと、右ページ上に縦書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに安心して、足を踏み入れことができる」とあり、甲斐國富士記側から左開きに開くと左ページ上に横書きで「山には神が、宿っています。だから人はそこに、足を踏み入れてはいけないのです」と、まったく同一の前提ながら引き出される結論は正反対の文言が並びます。微妙にズレを伴ったふたつの文言は、実はそのまま、公演のオープニングに左右のスピーカーから同時に歌として、(おそらく)数拍のズレを伴って再生されます。聞こえ方は、まさしくミキサーのフェーダーがセンターに合わせられた状態と思っていただければよいでしょう。

ステージもまた、センターを軸に上手(甲斐國)と下手(駿河國)が分離しています。出演者はそれぞれ袖からゆっくりと奥を歩いて、半分になったステージのまたそのセンターで面へ向かって歩き、拝礼を行うような身振りを行います。が、こうした対称性は、駿河國の出演者だけ拝礼の後、サブステージへかけあがってポーズをキメる、というルーティンが組まれることで崩されています。そうした不均衡な世界のなかで、ふたつの神話が浄瑠璃の導きによって同時並行で進むかに見えたなか、突然、演者のメタ的なコメント「このままじゃ分かりづらい!巻き戻し!」という言葉を合図に"巻き戻し"のSEに合わせて逆回転するようなアクションをしつつ、一方の物語に光を当て直し(物理的にも照明によって)した形で、すぐさまそのシークエンスが頭から再演されることを繰り返すのです。
そう「富士山神話 LINK MIX」では、視覚や物語さえもミキシングの対象となって、左右それぞれにフェーダーを振り分けるようにして語り直されるのです。いや、そればかりか、センターを軸に侵されないかと思われたステージもまた、やがては中心線を踏み越えられるようになり、神々や怪物はわちゃわちゃとドタバタ劇のようにあちこちを行き来し、ついには神話的世界さえも乗り越えて「在宅」「観覧逃げ」などといったアイドルのジャーゴンが神々のエピソードと響き合うようにすらなります。「富士山神話 LINK MIX」においては物理的な事象のみならず、舞台空間に現象する世界の一切がミキシングの対象になっているのです。あるいは、制作することの基底部に存在する「ミキシング」が、「富士山神話 LINK MIX」の方法意識のもと、あらためて浮かび上がってくるといったほうがいいかもしれません。 

ミキシングという行為が基底となった世界において、そもそもミキシングとはなにか、ということもパンフレットにしっかりと書かれております。「一般的な音楽用語」としての「MIX」の解説に拠れば「一般的な音響装置で音楽を聴くために、複数の音声を混ぜ合わせること」(下線筆者)とあります。ごく穏当な解説です。だが、すこしの飛躍を許すならば、混ぜることで生成する世界について…そう「富士山神話 LINK MIX」あるいは日本神話においての物語の起点を思い出さずにはいられません。すなわちイザナギ/イザナミによる天沼矛を使った「天地創造」のエピソード。神々が未成のどろどろとした油のような世界をかき混ぜて天と地が誕生したことについてです。このようにして3776的世界において「天地創造」と「MIX」することは重なり合います。ある世界は、混ぜ合わせることによって発する。ですから「富士山神話 LINK MIX」の理路に則るなら、こう言えるはずです。「世界とはMIXだ」。そして、常に富士山とアイドルとを重ね合わせ続けてきた3776なら、もう一つこう加えることはできないでしょうか。アイドルもまたMIXだと。

アイドルは、我々が知るように様々な文化のMIXです。どれか単一のジャンルのプロフェショナルであることを肯んじず、常にミキシングの具合でしかない。音楽も演劇もアートもバラエティも飲み込んでしまう、それがアイドルです。ここで最後の問いが生まれることでしょう。アイドルをMIXする神とは誰か。が、答えは予め用意されているのです。再びパンフレットに舞い戻ります。出演者と彼女たちが演じる神々の紹介がなされるページ、「天照大神」紹介欄下部。

この「祭り」の主役は、芸能の女神であり日本最古の踊り子、天宇受売命(アメノウズメ)だが、この大芝居を企画した総合プロデューサーの思金神(オモイカネ)の存在も忘れてはならないだろう

 我々が想像するように、アイドルをMIXする神とは、プロデューサーに他なりません。そして同時に忘れてはならないのが、プロデューサーが「神」であるとするなら絶対的存在としての「神」ではなく、アイドルもまた同等に「神」である多神教の世界で、です。アイドルとプロデューサーは相互に世界を作っていくわけですが、その世界には、もうひとつの要素が入るはずでしよう。つまり、観客=オタクです。
そしてアイドルの世界において、音響的操作よりも、はるかに前景化しているもうひとつの「MIX」があることを、あの意味不明な言葉を喚き散らす、理解不能なまでに様々なヴァージョンをもった「MIX」があるじゃないかと、誰しもが連想せずにはいられない。フロアの我々もまた、期せずして制作の一端を担う可能性が、常に開かれているはずです。もちろん狭義の「MIX」を入れずとも、アイドルという文化的MIXに与する限り、可能性は常に。だがもちろん、こんなことは私が言うまでもなく、やはりまたパンフレットに書かれていることでもあります。「LINK MIXとLINKモード」を解説する項には、こうあります。

ステージAとB間は自由に行き来できるので、観客は自分の好きなように音楽を「MIX」できる。観客一人一人は言わばDJミキサーのクロスフェーダーのようになり、どちらをいつどのバランスで聴くのか全て観客に委ねられる。

 

–––LINKモード基本概念

「LINK MIX」では自分でミックスを楽しむ自由はないが、どんなミックスを聴かせてくれるのだろう?という別の楽しみ方はできる。DJプレイを楽しむように。

 

–––LINK MIX

厳密で多義的な3776の世界を分け入れば、私たちにはあらゆる形での自由が保証されていることに気づきます。アイドルと、プロデューサーと、オタクが作り上げる「MIX=世界」。3776が、圧倒的に異様でありながらアイドルの正道を歩んでいるとしか思えないのは、こうしたアイドルを介した観客の自由のあり方を、執拗なまでに見せ、創出しようとしてくれるからだと、何度でも受け止め続けることになるからなのです。