マヤマは7年間、何を考えて制作してきたのか

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販売スタートから、さっそく購入・サポートを頂いております。ほんとうにありがとうございます。

 

しかしいっぽうで、静かなすべり出しであることも事実。わかってはいましたが、すこしばかりさみしい。そもそも露出が少ない・なんとなくわかりづらい、という感じでしょう。露出が少ないのは今後の課題として、わかりづらいところをちょっと補っていこうじゃないかとキーボードを叩く次第です。
とはいえ、結局ややこしい話ではあるかもしれないので、もっと早わかりの動画も最後に貼ります!

 

 

ジャグリングと音楽

マヤマはミュージシャンの南部大地を誘って結成されたユニットです。おのずから、ジャグリングパフォーマンスに音楽を使う、ということに自覚的になっています。なんでジャグリングパフォーマンスに音楽を使うのか批評的に見ている、といってもいいかもしれません。そして、ふたりの「身体」が音を鳴らし運動を描いている事実にも、もちろん目を向けています。お約束ではなく、それが作られている前提を疑いつつ、自分たちの実感に根ざして進んでいく...こういい切ってしまうと、とたんに理想論に近づいていくので、あわてずお話します。

マヤマにとってジャグリングと音楽の関係は多くの場合(本編でいうとno title_1,2のパフォーマンスは違います)"ズレ"を意識しながら構築しています。ふたつの関係が"ぴったり"しすぎないように、設計します。しかし、"ズレ"とはなんでしょうか。その話に行く前に、むしろ"ぴったり"することについて、映像作品で例をあげつつ説明します。

 

同期する

たとえばダンス。特にダンスバトル。これらを見たことのある方は、"音ハメ"という概念をご存じかと思います。DJが流す音源に、即興的に反応して、歌詞やビート、あるいは音が鳴り止む瞬間をとらえて、なにかムーブをキメること。これがうまく決まれば、観客は盛り上がります。反射神経の良さが、音楽との「同期」によって証明される形です。
ジャグリングパフォーマンスでも、同様の考え方があります。ダンスバトル的なとらえかたもありますし、フィギュアスケートのプログラムのような、流麗さの中にアクセントとなるような「同期」がみえることによって、より豊かな表現になる、という考え方。

ところで、音と運動が「同期」するとはどういうものかについて、われわれはその極北ともいえる例をよく知っています。 それがこちら。

 

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そう、いわゆるディズニーアニメなどで見る、動きと音楽がピッタリと合っているこれ。すなわち「同期」モデルです。劇伴のコミカルなメロディーに、掃除を手伝うリスのしっぽがほこりをはたくリズムがアクセントとなって加わり、非現実的な世界の強度を高めています。音楽と運動の「同期」には、夢見心地な、非現実的な世界の輪郭を太くするような効果があります。

ですが、逆を言えばリアリスティックな表現でディズニー作品のように音と映像が「同期」するスタイルを使ったとすれば、想像するにこっけいな印象を催すでしょう。あまりにぴったりと合ってしまうことは、なにかおかしい。そう、そして「同期」のこっけいさは、現代ではこんなおふざけも生んでいます。

 

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これは、Perfume「レーザービーム」をインド映画『Ashok』のダンスシーンに合わせて"シンクロ"しているさまを楽しむ遊びです。

 

元動画

こうしたシンクロムービーはさまざまなバリエーションをもっているだけでなく、試しに自分で適当な音楽を選んでかけてみても、けっこう"合ってみえる"ものです。だからこそ、その"合ってみえる"ことの組み合わせの妙が見えたとき、とりわけ大きな効果を与えるのかもしれません。


非同期から亜同期へ

他方、音と運動が全く合っていないもの...いわば「非同期」モデルもあるはずです。
はずです、というのは、今言ったように、たいていの音と運動は"合ってみえる"ため、その例を探すのは、「同期」モデルに比べて簡単ではない、といいたいところですが、我々はその非常にレアなケースをつい最近目の当たりにしています。

 

 

この圧倒的「非同期」に、初見のときはおもわずのけぞってしまったほどですが、批判されているそもそもの市民感情との"ズレ"もあいまって、ひじょうに高度な達成を得てしまった形です。

 

  

こうして、いくつかの極端な例をあげましたが、概ねはこの極端と極端の幅の合間で音と運動は、同期と非同期のバランスを"自然に"保っています。そう、ふだん私たちは音楽と運動の関係をまったくといっていいほど意識しない。パフォーマンスはもちろん、映画であれテレビであれ、どんな音楽がかかっているか気にすることはあっても、その関係までは気にしないものです。通りがかったドラッグストアの店内で何が流れていたか、マクドナルドで何が流れていたか、いや、そもそもなぜこの音楽は流されているのか、そんなことをいちいち考えていては身が持ちません。"そういうもの"でしかない。*1
ですが、ある表現はそうした無自覚さにいくらかの批評性を持たねばならない、と思います。批評性の向け方はさまざまですが、マヤマはこの音楽と運動の関係を、どちらかといえば「非同期」的方向で捉えていました。最初に制作した「b.a.p」などは、ジャグラーとミュージシャンのお互いが、本来的には無関係であることをつよく強調した傾向があります。が、「非同期」は徹底すれば単にバラバラというだけです。やはり「同期」といくらかのバランスを保たねばならない。けれども、感触としてはディズニーのような方向でもない。

ということで試みに、マヤマの音楽と運動を捉えるスタイルを「亜同期」的スタイルと呼んでみることにします。くっついているわけでも、はなれきっているわけでもない。別な仕方での同期。あるいはズレ方に、表現すべき必然性ともちろん快楽を感じているのです。

 

www.youtube.com「b.a.p」では参照先をリストにしてまとめてあります。
手探りで進むとき、これらを緒に考え、南部くんにも勘所を伝えていました。



もちろん「亜同期」的なものは、我々の発見ではありません。菊地成孔さんの『服は何故音楽を必要とするのか?』ではファッションショーのウォーキングと音楽の非同期的なありかたに優雅さを見出したり、(リストから削除されてしまった)『ロシュフォールの恋人たち*2のあっけらかんとしたズレの清々しさなど、すでにして拓かれた道筋でもあります。


 

おわりに


しかしながら、どうして亜同期的なものがジャグリングパフォーマンスにおいて、また私にとって切実な問題なのか、充分に言葉にできないあやふやさを含んでいます。ただわかるのは、そういう方向からでないと、ジャグリングについて考えることができなさそうだという抜き難い実感が先行するのみです。これがおもしろいのかそうでないのかは、観客と時間がすべてを判断することです。
ただコメンタリーでおふざけの自画自賛を繰り返しつつも、自分ではまあまあ気に入っているものばかりです。

 

なかなか買うまでには至らないものですが、不明な好奇心に動かされる方が増えるのを待ちます。アーカイヴはなされ、文通はまだ続きます。いつご覧いただいても、大丈夫です。
もし見てになにか言葉にできそうなことがあれば、それはインターネットにでも放流していただければ幸いです。



で、本編はこんな感じ!という動画です。
参考にしてくださいな〜。

youtu.be

 

*1:ピアニストのキース・ジャレットはホームセンターで買い物しているときに流れている音楽があまりに醜いので店員に気にならないか尋ねてみたり、坂本龍一も常連のレストランのBGMが気に入らないとして自分で選曲したり、さすが音楽家は音楽に意識的にならざるを得ないようです。

*2:友人の真山さんと話していて思い出した。多謝。