一昨日、Loft9 Shibuyaで行われた"アイドルを存分に語れるBAR"という配信をみました。南波一海さん、吉田豪さん、ぱいぱいでか美さんという盤石の布陣に、さいきんアイドル界隈への関心著しい(元?)批評家の佐々木敦さんが加わるかたち。
沼(佐々木さんのパンチラインに拠るなら「湖」)に入りたての佐々木さんの微笑ましい姿を見るだけでなく、話題が多岐にわたり、120分間ダレないトークイベントで、アーカイブで見ようかなと思ってたのが、ついつい最後まで見てしまったほどです。ハマりたての人を見ると、それが意外性のある人であればあるほど、つつきがいもあるし、何より自分の初心を思い返して楽しいものです。
しかし、自分の初心であるAKB48は、ハロプロ好きが並ぶこのメンツにあってはいささか分が悪いようす。あまり親しくないどころか、批判的な文脈で登場することも多く、まあそのほとんどがうなずけるものですが、ここはひとつバランスをとりたいもの。とはいえAKBに関しては、こんないいところがある、という話より、悪いところが過大評価だと思うことが多かったものです。トーク内でも言及されたドキュメンタリー映画での"過酷"な西武ドーム公演や、その公演でもしばしば代表的に言及される「フライングゲット」のパフォーマンスだって、主催の熱中症対策不足にも大きな原因のあるバカバカしい(意味不明な美化)シーンだし、そこに限って言うなら、観客がもつ残酷さの欲求を刺激する水準のことですらないと思います。
大体において、今もって地下アイドルの運営がしばしばバカをさらしている(吉田豪さんをフォローしているなら、月一回は破綻した日本語でなされる様々に愚かな報告文を読むことができる)ように、AKBだって秋元さんの名前を抜きにすれば、実績もノウハウも乏しいなか、なんとか世に出てきたチームなのだ、という評価もあり得るのではないでしょうか。西武ドーム公演時において活動7年目、ミリオンヒットを飛ばしているグループに対する評価としては甘すぎるかもしれませんが、単にバカだよそれは、と言ってあげるほうが、シリアスにすぎる受け取りをするよりか健康的ではと思ったことも。(逆に言えば、そうした運営のノウハウが充分に蓄積されただろう果てに起きているNGT48の問題、欅坂46の不安定さは、各運営に分離があるという言い訳すら立たないほどには深刻だと思います)また、"ガチ"さを売りにして、それがインフレを起こしていったのも事実ですが(しつこいですが、欅坂はこれに絡め取られすぎたと思う)、じゃんけん選抜のような、すべてを偶然に委ねてしまう別の極に振られた"ガチ"さ、もまた見逃したくないものです。すべてがおよそバカバカしい偶然で決定してしまうバカさ加減と"残酷"さはギリギリのところで背中を合わせていた。そもそも過剰にシリアスな選抜総選挙も、当の仕掛け人である秋元さんにとって、どこか他人事のような側面はなかったでしょうか。歌唱メンバーがじゃんけんで決まることも、オタクの投票で決まることも、等しく自分の責任から離れた出来事です。秋元さんのこのバランス感を理解することなしに一面的な批判、また感覚的に引いてしまうことで、何か取りこぼしてしまうものが多い気がしてしまう。まともにやりあって敵う相手ではないというか。
まことに失礼ながら、私は秋元さんの仕事に対する尊敬がほとんどなく、「初日」「お待たせセットリスト」のような歌詞を読むと、あまりの他人事ぶり、あるいは乖離したまま憑依するような人ならぬ距離感に理解不能な恐ろしさを覚えます(本当にくどいですが、欅坂46「二人セゾン」なんかは秋元さんの作家的良心の頂点だと思うし、マイフェイバリット・アイドルソングとしてこれからも上位を占め続けるはずです)。が、最初に言ったように、秋元康というプレイヤーが作ったゲーム盤のうえで起きていた様々に、どうしようもなく惹かれていた数年がありました。秋元さんの現場からの乖離と表裏一体な権威性の隙間を縫って表れてくるメンバーたちの輝きに注視していたような数年、です。
かといって、私が楽しんだ数年は、やはり様々な愚かさとセットです。ただ、私がAKB48から得た大きいもののひとつは、愚かさを外部から断じるのではなく、当事者性において都度にグレーゾーンから微妙に判断する重要性です。愚かだが素晴らしいし、輝いているがどうしようもなく駄目、という両立が、とにかく多かった。今もって"オタク"であることに脳天気な開放感ではなく、葛藤を保持することを基本姿勢にさせたのは、間違いなくAKB48です。しばしば48グループなどに批判的だったアイドルに免疫のない人が突然オタクになったとき(当然、佐々木さんのことではありません)、あまりにも単純な賛美を繰り返し、各々が落ち着く運営やメンバーに過度な信頼をよせてみたかと思えば、突然掌を返して攻撃に転じる姿を見ると、気の毒に思うことすらある。大人たちは、あまりにもウブにすぎる。グレーゾーンで踏ん張る自力を身に着けられたのは、皮肉ではなく、秋元さんに感謝したいところです。いや、皮肉かもしれない。
トークで言及された楽曲の質について、好みの問題を超えたうえでAKB48にどの程度「いい曲」があるのか、 素人である私にその判断はつけられません。主観的なことで言えばAKBの現場デビュー–––当時は完全在宅だったので、去年はじめて友人について行った全握で見た–––で流れた「ポニーテールとシュシュ」のイントロには鳥肌が立ちましたし、SKE48「片想いFinally」はMステ初出演時の気合の入りようとともに忘れがたく、そして欅坂(けやき坂)46の1st~4thシングルのカップリングには、捨て曲があった試しがない。ただ、こんなことを言っても仕方ないし、そもそも私は楽曲のクオリティ論に終始するアイドルの評価に懐疑的でもあるし、楽曲の質がアイドルを推す免罪符になっている側面の功罪について、もう少し語られてもいいと思っている。
そうそう、大きく脱線させますが、配信内で佐々木さんにAqbirecのアイドルをチェックしてくれ、とコメントを送って南波さんに拾っていただいたのは、他に同様の質問がなければ間違いなく私で、佐々木さんからはあまり好みでない旨の発言を引き出したあと、驚くほどスムーズにハロプロの話にスライドしてコメントの本筋に戻ってきませんでしたが(笑)、そのことで読まれなかったコメントの続きで、私はカッコに入れて「ライブ配信」をチェックしてください、と書いたはずです。
つまり、佐々木さんには演劇・ダンス等に近い水準でアイドルの"パフォーマンス"を見てみてほしい、という願い(笑)を込めたのです。
もちろん、アイドルのパーソナリティーや物語を楽しんでいらっしゃるのも充分すぎるほど伝わっているし、アイドルにおいて、大きくともパーツのひとつにすぎない楽曲にウェイトが置かれすぎているようにみえるのも、非現場派の佐々木さんの立場上矛盾はないはずですが、昨今の配信活況のなか、Aqbirecの踏ん張りないし抵抗は、もし未見であれば見ていただきたいものです。映像でライブパフォーマンスや現場の空気感を再組織化することに腐心している、という点においても、面白がってもらえるような気がするんだけどなあ...そのうえで、なお関心には引っかからなさそうな気もしてはいますが、ひとまずコメントの本意として。
閑話休題。
私にはAKB48において、決定的に万人へ開いておきたいエピソードがひとつあります。それは、例の問題含みのドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』に捉えられています。
AKB48は2011年の5月から毎月、被災地支援のため避難所などでイベントを行っていました。頻度こそ年に一度程度となったものの、昨年まで変わらず支援活動は続いています。そして、2011年当時の様子が上のドキュメンタリーに収められています。メンバーのインタビューでは、被災地を訪れることで生じた心境の変化やインパクト、また現地の記録では笑顔をまじえた現地の方々との交流も記録されています。そのなかで私が今もって強く印象強いのは、峯岸みなみさんのインタビューです。
AKB48の被災地支援は、簡素化を目指したステージトレーラーでライブを行っています。トラックの荷台が仮設のステージとなるそれは、手狭ではあるものの、通常のステージよりも高さを持ち、ゆえに多くの人が観覧しやすい、という環境を作っています。あるシーンで、ライブのトーク中にちいさい女の子が花を携えてステージに近寄って、それに気づいた峯岸さんが、ステージに腹ばいになって手を伸ばし、花を受け取るさまが記録されています。しかし、インタビューでそれを振り返る峯岸さんは、強い後悔とともにそのエピソードを語ります。それも大粒の涙を流しながら。どうして自分はあのときステージから降りて花を受け取らなかったのだろう、絶対にそうすべきであったと。アイドルというパフォーマーが担っている緊張感と誠実さは、このエピソードにおいてひとつの極にふれていると思います。飛躍と論証のなさを自覚しつつ、またどの程度の人に伝わるか心もとないながらも、この後悔に含まれているものが、人前に立つもののすべてだと断言します。誰かがこうした緊張感に触れうることを示しただけで、私は、AKB48が全幅的に批判されうる対象ではない、とします。それはやはり、甘いのだろうか。
個人的な話になるけれども、私も同時期、被災三県の避難所で、通算30~40公演近く慰問公演を行っていました。私が広義の被災者であることをのぞいても、仮とはいえ生活の場に踏み込んでパフォーマンスすることには、それだけで語り尽くせないほどのエピソードがありますし、現在に至るまで私を形作る貴重な経験の一つになっています。だからこそ余計に共振するのかもしれませんが、峯岸さんの後悔、または感受性が、アイドルという立場からドキュメンタリーに残されていることの重要さを、何度でも考えさせられます。ひとりの花を正しく受け取ることへ差し向けられた、アイドル=パフォーマーの問いは、「国民的アイドル」のメンバーであったからこそより強く身に響いたでしょう。こうした微妙で重要なエピソードを見えづらくしているのは、当の48グループの責任でもあるが、確かに語るべきエピソードは、きっと埋もれているし、48/46グループから離れてしまった今も、きっと起きているだろうという希望は変わりません。
と、例によって長くなりましたが、ここまで読んでくれた方がいるなら宣伝していいでしょうか。10月中にアイドル批評誌『かいわい』が創刊。編集と論考、座談会に参加しています。私の論考はここでもふれたような「グレーゾーン」の問題をめぐって書いています。よしなに。