大山エンリコイサム『夜光雲』を観てきた

観てきた。たいへん面白かった。

 

美術にも美術展にもリテラシーが足りず、へんに緊張して腰が重くなるのを、晴天の勢いも借りて、横浜まで1時間ちょっとかけて出かけた。遠いのも嫌なのだが。しかし横浜は好きなので、さきに横浜美術館で「トライアローグ」を眺めてから、神奈川県民ホールまでも歩いて移動した。
道中、有名な新興宗教施設の入口(通るたびになんとなく見てしまう)に「コロナ撲滅祈願」というような貼紙があって、たしかに祈願としておけば、実効性が先送りされるから、長引いたところで、かえって新規信者の獲得に繋がるのかもしれないと思った。祈願の連帯に巻き込むという。

で、会場。

感染追跡の情報登録をすると、順路は階下に促される。これもいつもだけど、順路というのが苦手で、べつに好き勝手に見たいというわけでなく、連続性があるのかと思うと個別の作品体験にくわえて、展示構成との関連も把握せねばという圧力を過剰に感じることがあるので、不得手だ。
しかし、地下に促されるというのは、知的な結構だけでなく、なにかもっとダイレクトな体感覚に訴えるようなものがあると思った。まだ階段を降りる前なのだが。

 

最初の作品は、長テーブルに敷かれた巻物のような作品。配布されていた資料によると83×586cmの大きさを持つ。それが、仕切りをまたいでふたつある。
言語・書体・時代を隔てた手紙類が切り取られちぎられ重ねられ、形ばかりでなく意味もまた「雲」のように不安定にゆれつつ連なったまとまりとなっている。中央付近には、署名か落款のように「QTS」がかかれている。
ところで「かく」というひらがなの表記は、作者の意図するところの多義性、「書く」「描く」「掻く」などが内包される文脈によるものらしいが、この《レタースケープ》と題された「雲」も、作品を眺めていると自然に「Clowd」とただちに英語に翻訳されつつ、それが日本語で「雑踏」を意味する文脈を引き出し、またネット上の保存システム「クラウド」のような文脈も連想させられることに気づく。作品自体にリテラルに存在する「文字」が「言葉」となって頭にしのびこんで浮遊するような感じ、といえばいいだろうか。そんなふうに連想が働きはじめた。

作品に用いられている手紙は、おそらくすでに用が済んだもの(送り先に届けられ、読まれ、なんらかの事情で手を離れた)であり、そうした意味では、いくぶん手紙の亡骸であり亡霊でもあるように思える。すると、雲-Clowd-雑踏とゆらぎつつ連想された人間の足音も、どこか遠いもののように思えてくる。事実、街から人が減って一年以上になる。いっぽう、こうした状況へ即座にレファレンスをもつように解釈するのは、どこか品のないことのように思いもする。そうした引き戻しが与えられるのは、作品の力かもしれない。

などと刺激されつつ、次のスペースに進むと《FFUGARATI》のコーナー。QTSのシリーズが片面の壁に間隔をおいて7点掛けられている。先の作品のベースが和紙であったことを思うと、書か水墨画のような連想も働く。それぞれ211.7×135×3cm。

そういえばこの数字は「縦または高さ、横または幅、厚みまたは奥行き」の順である。つまりさっきの《レタースケープ》は横長の作品ということになる。記憶では《レタースケープ》の端は巻かれて展開しきらず、その先があることがうかがわれる形だったはずだ。何が言いたいのかというと、作品の表面に多層的にコラージュされている手紙が雲のように無志向なゆらぎをもつ一方、支持体には巻物のように横軸に展開していく力も含まれているということだ。それはたしか絵巻物では時間軸に相当するはずだ。《レタースケープ》には、無志向的にゆらぐ雲のようにあいまいな漂いだけでなく、横に展開する時間がある。それだけでなく手紙の物質的劣化や書体の歴史性から想起される縦軸の時間もある。これらが力として錯綜しながら重なっている。ということかもしれない。
さらに何が言いたいのかというと、この作品から自分が読み取った力のようなものは、次なるQTSの展示コーナーでも、というか、作品が掛けられている背後の壁に、巻物がもっていた横の展開の反復を読み取った。あるいは、QTSのかかれたキャンパスが並ぶことで、壁がもうひとつの支持体として横軸の力を持ち始めるような。そうなれば7つのキャンパスは、そうした横の動線に縦の力を加えてリズムを作る、句点乃至読点のようなものにも見えてくる。むろん、キャンパスにかかれた個別の線の動きを追えば、そうした単純な作用だけでない、べつの力学が働く。けれども、壁に繁茂するような(実物は表参道のJINSでしか見たことがないが)QTSと違って、キャンバスの外を志向するような動きがあっても、フレーム内に静かに佇むような印象があった。
いずれにせよ静的な展示でなく、環境を巻き込んだインスタレーションのようなものとしても、このスペースが機能しているのではないかと思った。

こうして、順路が苦手だとか言いつつ(それが見当外れであったとしても)、すでに展示のグルーヴに飲まれている。たぶん、あとでこうやって何か書きたくなりそうだから、いちおう写真を撮っておいた。やましいことはないのだけど、こういうとき、職員の方々の視線が気になる。


うっかりさきに《Closs Section》の部屋に進んでしまう。順路としては、薄暗い地下とひかえめな白色の展示照明の明暗から放たれて、一面の窓から自然光の差すサンクンガーデンのわきに設えてある《スクエアプレッシャー》が先にあり、これが異音のような低音を出していたので、気づいて戻った。サウンドアーティストの大和田俊との共作らしい。ブーンという音とともに、「セスキ炭酸ナトリウム」というらしい細かいプラスチックみたいな粒が躍っている。またつまらない連想としてシャーレのなかで培養されているウイルスの動きのようなものを思った。作品から有意な引き出しができない、というより、外の天気のよさや、ここから外に出るとどこに繋がるのかという、関係ない気の散りがおきて、早々に先に進んだ。

一転して蛍光灯が影なく照らす通路には、黒い板「スタイロフォーム」というらしい建材が三体積まれている。200枚。この板の黒はエアロゾル塗料と墨で塗ったものだという。でこぼこに積まれた重なりが大樹の幹のようなうねりを持ついっぽう、熱線カッターで切断したという断面が露出している。自分で出した比喩から続けて換言するなら、数えられない年輪があらわになっている、というような。
配布されていた鑑賞の手引きによるなら「ライブペインティングなどで腕を振り抜いて即興的な線を引く行為と、両手に持ったハンドルで熱線カッターを上下に動かし、大量のスタイロフォームを切り落とす行為は、身体の次元で共通する感覚があ」ると。自分はエアロゾルスプレーで線を引いたことも熱線カッター(どんな形のものかも知らない)を持ったこともないので、その身体感覚にシミュレートして同期することは難しいが、視覚性だけでない水準の出来事が、簡素な展示に絶えず自覚的に連続しているようだ。

メインの展示スペースである第5展示室は《FFIGURATI (アンストレッチドキャンパス)》が5点並ぶ。並ぶ、といっても、吹き抜けに置かれ、掛けられ、吊るされるキャンパスは、名の通り木枠に貼られず、端など見るとを巻き上がっていたりもする。

ここには、QTSのパターンをもつ作品だけがあるわけではない。鑑賞者がおそらく最初に目にするのは単純な円のかかれた作品である。円は輪郭から黒い滴りを作って、記号的でない、それこそ具体的で身体的な痕跡を喚起するかにみえる。と同時に、近寄ってみると、それが円をかいた時のダイレクトな痕跡かというと、そうでもないらしい(勘違いかもしれないが)。つまり、かき足された滴りであり、シミュレートされた痕跡である。かくことに身体運動の痕跡は欠かせないが、この作品においては、かかれたものがかく運動にのみ還元されるわけではない。つまり、一元的な時間に引き戻されるわけではない。焦点をあわせる距離によって、時間は様々に浮かび上がる。
他にもよく見ると、近くの作品の床に墨のような黒い液体の痕が見える。場内はかなり暗いので見落としそうになったが、吊るされているキャンパスの下部に、キャンパスをはみだすような滴りが見える。それに促されて床を見ると、先の液体がある。ただ、その痕も、画面の滴りと対応しているものではないように見えた。というか、これも円の滴りと同じで、たんなる作業の反映でなく、一部はかきたされたものであるように見えた。

吹き抜けの階段を昇って展示を見下ろして、もう一度降りて見上げて、昇って、最初にいた一階に出る。例によって、出てからもうひとつ作品があることに気づいて、戻って《スノーノイズ》を見る。タブレットを使った作品だ。離れているとアナログテレビの砂嵐のように見えるが、近くに寄るとディスプレイにQTSのパターンが密集して高速で回っているのが分かる。なんらかのメディアで再生されているということでは《スクエアプレッシャー》(どうでもいいが、変換するとやはり「スクエアプッシャー」に直されてしまう)と、また細かいモチーフが間断なく運動している点でも、対応しているように思う。
しかし、《スクエアプレッシャー》が見下ろすような鑑賞形式だったのに対し、《スノーノイズ》は壁に設置されたiPadに正対する形だ。これは第2展示室《レタースケープ》と第3展示室《FFIGURATI》の鑑賞の形を反復するように重なるものだとも思った。それと知らずして、違うものを見ながら、身振りが繰り返されている。反復がさまざまな水準で韻を踏むように、またあえて外すように、しかけられている。

ところで、いま会場図を見ていて気づいたのは、地下の展示順路が中央の展示に向かって左回りに巻き込む形であることだ。それだけでなく最初に階段を下降して、再び一階に昇ってくることを考えると、鑑賞者は螺旋状に動かされている。視覚性だけでない身体感覚は、作品の中にだけでなく、作品をとりまく環境にも埋め込まれて、鑑賞者に作用している。 

その運動の最後に待つのが、第1展示室の《エアロミュラル》だ。壁の仕切りにわけられた(ここでも最初の展示スペースとの反復がある)まっしろな部屋がふたつあり、手前の部屋には一組の、奥の部屋には二組の小ぶりなスピーカーが部屋の隅々に置かれて、エアロゾルスプレーを吹き付け、また缶を鳴らす球の音が再生され続けている。つまり、見るものはない。サウンドインスタレーションがある。

QTSの線の長さは、持続するスプレー音の長さと対応する。シューーッと長い音が聞こえるとき、長い線がかかれている。シュッ、シュッ、と短い音であれば、短い線だ。そこから、ここにはない線の軌跡を想像するわけだが、あいにく、具体的な線の形はやはり、想像しようがない。どのような方向で、どのように絡みあっているのか、それは音からは再現できない。また、スペースで同時再生され複数に重なり合う音源からは、そうした想像的な再現の正確性はそもそも期待されていないとも思う。

仕切りをまたいでスペースを何度か行き来していると、いっぽうのスペースからは音源が確認できないことに気付かされる。しかし、音は聞こえてくる。そして、壁の向こうで再生される音から(タネを知っているのに引っかかるマジックのようだが)、そこに「かく身体」がいるのではないかという期待が生まれている。何もないのに、不可視の暗部が作られることで、別のフレームが喚起される。それは視覚ではない。音から遡行して線を想像することでもない。ここではないどこかで何かが起きていることの手触り–––それは制作することそのものの手触りかもしれない–––が生々しくも、雲のように発生している。


会場を出て、なにげなくTwitterを開くと、ちょうど大山エンリコイサムからRTされた来場者のツイートが目に入った。タイムスタンプを見ると、直近で1時間くらい前のものだった。それらが何個かTL上に表示される。このツイートをした人がさっきまでいた。ということを思うと、へんな感じだった。

 

そのままGoogleマップのアプリを開いて、駅の方向を確認するが、何年かぶりに中華街ものぞいてみるかと遠回りを決めた。中華街は驚くほど人がいなくて、手相見の誘いだけ熱心だった。月餅をおみやげに買って、関内駅に向かう。

駅前のスタジアムが工事中で、防音壁に何枚も「オリンピックの準備で大変ご迷惑をおかけてしています」と貼られてあって、他意もないのに別の含みを感じた。

 

 

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