だらしなくふらつく

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ITZYの新曲が公開されて1週間が経ち、MVの再生回数は6800万回を超えている。
私はといえば4月30日13:00のプレミア公開から張り付いて見ていて、各番組のショーケースもほとんどチェックし、音源もヘビーローテーションしている。端的に、気に入っている。他方で、自分がK-POPに何を期待しているのか分からなくもなっている。

「마.피.아. In th Morning」がここまでベタなトラップになるとは想像していなかった。すでにトレンドともいえないほど標準的な作法になりつつあるミーゴスフロウもふんだんに取り入れられているような、ザ・トラップ。
しかしサビ前、メインボーカルのリアが入ってくれば、とたんにメロディアスな——ティザーで流されていた——フレーズが入り込んでくる。木に竹を接いだような、とはこれのことではないか。だいたいラップだって、こなれているかといえば、そうではないだろう。また根本的に(多くの指摘がある通り)、"今"トラップなの? という話にだって、なる。いささか無理を承知で擁護してみるなら、陳腐化したトラップは歌謡曲的(耳あたりの良いメロディ、くらいの意味で)に扱いうる、という解釈を示したことに...あるだろうか。通俗化ではない、むしろ先鋭性を骨抜きにしてしまうことのラディカルさ...本気でこう言えるかどうか、かなり心もとない。

だが、そうした一周まわったズレ感、ちょっと田舎くさいダサさが、そもそもJYPの良さである......そうは思った。また実際、そうだと思う。YGのBIGBANGやBLACKPINKのような、イケてる感じは、あまりない。ブランディングの方向が違う。
アイドルがファンの心を掴むありようをマフィアゲーム(日本でいうところの人狼ゲーム)になぞらえる、という趣向自体がかなり保守的かつ、いかにもどんくさくダサい(どうでもいいが、私は「ダサい」という言葉を使うたび、『あまちゃん』で、アイドルを目指すことを諦めてふてくされる橋本愛能年玲奈が向ける「だせぇくらいなんだ!」という言葉を思い出す)。ダサい、けれど、それがいい。

それでも拭い去れない違和感がある。ダサい、けれど、それがいい。どこかで聞いたような口ぶりだ。考えるまでもない。アイドルの「幼さ」「未熟さ」「フェイク感」を持ち上げる言説とほとんど見分けがつかない。これらは、日本のアイドル文化の文脈において、数多く、今でも繰り返されている。私の「마.피.아. In the morning」に対する感想は、これと何も変わらない。個人的な受容において、それが大きな問題かといえば、そんなことはないだろう。そんなことは、別にどうでもいいことだ。だが、K-POPを見ていて、私の受容の幅が変わっていないこと、そしてその変わらなさが結局、保守的なK-POP像(スキルフルで「完成度」が高い云々)との対立を強化してしまうことに、つまらなさを感じる。そう、いかにもつまらない。
K-POPは面白い。それはいくぶん日本のアイドルたちのようで、いくぶんはまったく違ったアイドルたちがいるからだ。これらの領域は画定できるものではない。それぞれがゆらぎつつ混ざり合う。混ざりようを追うことが、文化への参入だ。際の滲みをなぞり得る指が、現場に属していること。けれども、やはり自分はぜんぜん、「마.피.아. In the morning」の不十分さをネガティヴに判じうる眼を持っていない。これでいい、これがいいと思ってしまう。気づけば、単色の世界に属していることが分かる。

愛着の湧き始めたメンバーたちのパフォーマンスやインタビュー、Vliveを目を細めて眺める。まもなく寮を引っ越す彼女たちが、くじ引きで部屋割を決める。リュジンが一人部屋を勝ち取り、他方、もともと一人が好きなチェリョンが、生活ペースの合わないリュジンと同部屋にならなかったことに安堵する。そのやり取りは、リアのVliveに乱入したリュジンがスマホに録画した映像を見せることで確認される。そのあとリュジンはイェジのVliveにも顔を出す。他日、ユナはファンへの感謝を涙ながらに伝える。自分が納得できないことでも、自分楽しみさえすればファンも楽しんでくれる、そして1位も獲得できた、そのことに感謝しかないと言う。私はそれらを見る。作品というクールなフレームはガタガタ音を立てて、もはや建て付けが悪い。いっそ窓を開け放ってしまえばさわやかな風が通り抜ける。それを心地いいと思う。けれど、解決にはなっていない。作品の経験と人間的な魅力に陥落することの間で、だらしなくふらついている。ダサいのがいい、結局好きだからいい、それでいいのだ。それでいいのか?