ストリップ見聞記(2)

すべてのパフォーマンスを見終わって、道玄坂を下りながら、ストリップは(すくなくとも道頓堀劇場においては)、かなり形式性の強い芸能だということを理解した。なるほど、と声には出さなかったが、見てみてはじめて深く納得できることが、とにかく多かった。かわりに、体も頭もひどく疲れている。さっきまで見たものをほとんど自動的に反復しながら、乗客の少ない銀座線で帰るのだった。

そういうショースタイルもあるのかもしれないが、個々のショーに連続性は特にない。連続性はないものの、同じ形式の中で演じる踊り子ごとの個性を対照しやすいので、それぞれが印象に残りやすい。出演5人でひとり15〜20分の持ち時間というサイズもちょうどいい。ストリップの形式性は、ひとりがパフォーマンスを終えるたびごとに、こちらをリセットしてくれる。
これがインディーズのアイドルの対バンだと、持ち時間こそ近いものの、ひどいイベントになると一日中せまいライヴハウスの中で20組以上が五月雨式に出てきてガヤガヤやってるので、個々の印象もへったくれもない。そんな環境でそもそも全部見通すなどということができないし(ストリップでも観客の出入りはあったが)、主催側も想定していない。目当てを2,3あるいは1組だけ観て、「特典会」*1まで通路で時間を潰していたりするような客もめずらしくない。

出だしから余計なことまで書いたが、急に前回から大きく話をとばしたのは、この形式性にも理由がある。


初の観劇後、受け取ったものの多さに疲労困憊しつつも、形式がかっちりあるおかげで、記憶が混乱することはなかった。メインショーの演出の差、ポラショーの観客とのやり取り、オープンショーの空気感...記憶はこうした場面ごとにフォルダ分けされて定着した。こまかに記憶が整理されたのは、前回書いたように、自分がまずアイドルの「現場」的なものに関心があって、ある程度最初からアイドル文化と対比的に見ていたせいもあるだろう。だけど、私が疲労困憊するほど「持っていかれた」感覚には、やはり整理された表面的な記憶だけではたどり着けない。そしてこの日会った出来事を順に追うだけでも、核心を掴むにはスピードが足りない。帰りの地下鉄で、考えるというより再上映されるように、細部の感触がよみがえり続ける。
ゆえに今回は、ストリップに備わった形式性を手がかりにしつつ、それぞれのパフォーマーの個性をあえて見逃し、5組のステージを重ね合わせ、いくらか抽象化したうえで、ストリップに何を見たのか、その曰く言いがたい感覚をわずかでも文字に移し替えるように、ひとつのノートとして書く。

 

 

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各人の出番は三部構成。
本舞台〜盆をつかったメインのショー、客が踊り子と写真を撮るポラショー、そしてそのあと盆で行われるオープンショー(知らないなりに語感で察していたが、その通りではあった)である。
本舞台を中心とする最初のシークエンスは、盆に至るまでを含めた番組の基調となることが多かったが、対照的なトーンで構成されていることもあった。ここは主に着衣の状態ではじめられるが、いずれ「脱ぐ」ことは分かっていても、「脱ぐ」という動詞の単純さには収まりきらない展開があった。たとえば「脱ぐ」に至る動機がストーリーのうちにある程度整合的に示されていることもあれば、形式的な芸能一般にある"そういうもの"性によって支えられていることもあった。"そういうもの"性は、落語で枕から噺の本題へ移行する時に急変化するようなモードを思い出せばいいだろう。前後が筋道を立てて合理的に連続するのでなく、やるからやる、脱ぐから脱ぐ、というだけの世界も、またある。いずれにせよ着衣の仕方は一様ではない。最初から下着だけつけていないこともあれば、着物姿で何枚も布をまとっていることもある訳で、そこから脱衣の仕方にも差が生まれる。この脱衣の仕方が芸と呼ばれるだろう。

しかしまた、「芸」と呼ぶことで、期待としての露出をじらして遅延させる巧みさのようなものを、漠然と想像するかもしれない。少なくとも私は、ストリップはなんとなくそういうものなのかと思っていた。もちろん、そうした芸もあるにはあるが、期待としての露出をあっさり裏切るようなあっけらかんとした脱衣もあるし、部分的な脱衣が、続く盆のシークエンスへと伏線的な効果を与える場合もある。ともあれ、盆のシークエンスに至る前には、暗転を伴った衣装替えがある。本舞台で一度脱いだとしても、盆のシークエンスではもう一度あらためて服が着られるのだ。ストリップでは、服は"何度も脱がれる"。かように、ストリップは期待としての露出を最終的な目的にしたものでなく、露出の仕方をアレンジするバリエーションの芸を見る。

けれども同時に、ストリップには特権的な中心がある。私たちの身体において、腕や脚や腹、あるいは胸さえも超えて、法的な禁止の対象という特権をしめるそれ*2をめぐる身体の編成が、ストリップという芸の核心であることは揺らがないだろう。単純な芸術性の称揚(=免罪)がストリップの評価にふさわしくないように思われるのは、この禁止を前提とした特権を維持していることにつきる。ストリップはやはり、無毒な芸能ではないだろう。

とくに盆のシークエンスでは、それをめぐってパフォーマンスが構成される。回転する舞台で見えたり見えなかったりするそれは、確実にこの時間の中心であり続ける。
観客は見えたり見えなかったりすることで、窃視に浸れるわけではない。見えるかどうかは偶然ではなく、踊り子が組織した視線の誘いによってコントロールされている。このコントロールを結果として発生させる運動の流れをこそ、踊りと呼べるだろうか。
見えたり見えなかったりさせることは、それがより扇情的であるから、と言えなくもない。そうした側面は、拭い去ることができないし、拭い去ろうともしていない。だが、踊りという運動に巻き込まれた視線が目的地への迂回を甘い遅延で満たすいっぽう、突然の着地が驚きによって期待を上書きして私を振り回すうちに、扇情性では片付かない震えが与えられる。これを端的に言葉にできればどれだけ楽かしらないが、言葉にならない場所で、踊りは踊られる。いや、その物言いは不正確だ。むしろ、特権的な中心をめぐる、いたってありきたりな私の欲望が、ストリップという踊りの中で再編成されること。私たちが内面化している、エロティシズム、あるいはエロ、官能、ポルノ、何と言ってもいいが、踊りはそれの特権を使って、それらの価値観を解体していく。そうした可能性を与えるのは、ストリップ=踊りがひとつの詩的言語だからだろう...
すこし筆がすべりすぎたきらいがあるが、先に進む。

ストリップを踊りとしてみるとき、特権的な中心をめぐる詩的言語としての身体の編成が、その他の踊りと表現の質を隔てている。観客は幾何学的な形態を鑑賞するのでなく、律動する身体に同期するのでもなく、踊りを介して中心をめぐる意味の組み換え・上書きへと参加する。ただ、そうはいっても身体運動であるから、やはり直接的にはその筋肉や骨がめまぐるしく作り出す動きに目を奪われている。形態的な美も、律動的な同期も、排除されているわけではない。総じて、踊り=運動を観る強い喜びがある。だがそうしたとき––たとえばオープンショーは特にそうだが––意味を持つ部位としては特権的なそれは、豊かに動くその他の部位と違って、ほとんどまったく動きがない唯一の場所でもあることが、際立ってくる。

踊りを観る喜びといいつつ私は、どうかすると踊り子の顔ばかり見ていた気もする。正確に言うと、その視線。極度に形式化された視線、まだ迷いのある視線、力みのない自然な視線、あるいは力強い状態が自然であるような視線、踊り子が何を見ているのかに誘われた。でも、オープンショーはどこまでいっても、踊り子が明快にイニシアチブを取った"見せる"時間である。踊り子と客。互いの視線はすれ違う。ひとりの客が、ぐっと身を乗り出してのぞきこむ。踊り子は指を使ってみる。踊り子がそこへ視線を以て促すようなことは、たぶん一度もなかった気がする。観客は、何を見るのか選ばねばならない時間でもある。私はどこを見たらいいのか迷ってしまった。けれども、誰しもが何を見ればいいかはっきりわかっている。だが目を向けた先に、動きはない。展開がない。なぜそれを見るのか。かといって、顔をあげてまじまじと見つめ合うこともできない。ごくプライヴェートな場で手触りとともに交わされるはずの交歓が舞台に持ち込まれるとき、舞台/客席に備わった非対称性は逆転するかに思える。見る私を、舞台から見られている。ただそれは不快でも退屈でもない。ショーを締めくくるにふさわしい確かな充実がある。
オープンショーとは何なのか、あまりにもそのままで、かえって何も分からない時間でもあった。


...もうひとつ、ストリップの音楽について、これもメモ程度に書いておきたい。


ストリップに使われる音楽は、ビートの明瞭なダンスミュージックもあれば、メロディの質感が優先された歌謡曲もある。ただ、そのどちらも、特に盆のシークエンスに至れば、音楽と身体運動との同期性はいったん棚上げにされているかに見えた。音楽的な効果が、踊りに随伴するという意味では、ほとんど放棄されていることもあった。盆という場では、あくまでも身体の特権的な中心があるからだろう。音楽もそれ以外の身体も、そこを巡って動いている。ただし、単純に奉仕するわけでもない。非同期的に、オートマティックに音楽は回り続けている。
菊地成孔『服はなぜ音楽を必要とするか?』では、パリコレのファッションショーで、しばしば歩行のリズムとは無関係な四つ打ちのダンスミュージックが選ばれていることを指摘している。この無関係さは「エレガンス」という概念に接続されているが、その"無関係の関係"は、雑誌連載という性格のゆえか、明確な結論に迫るには至っていなかったと記憶している。
ともあれ、ストリップにおいても、この衣服・歩行(身体運動)・音楽の関係のあり方を見直す大きな必要を感じた。

 


ここまで、具体的なパフォーマーの話を回避して進めてきたが、最後に、私がこの日もっとも強く印象に残った踊り子のことについても、やはり書いておく。

 


私がこの日見た踊り子全員には、つよく涙腺を刺激された。それがどうしてなのか、なかなか分からない。上にずらずらと書いてきたことは、その原因に迫るための、ひとまずの整理だ。
けれど、そんな整理への欲求も追いつかないほどだらだらと泣いてしまったのは友坂麗だけだった。盆の上に来てから、脱いだハイヒールの片方をセンターに据えて、這うような四つん這いで、そのハイヒールにふれたとき、場の空気はハイヒールに向かって吸い込まれていくように集中していく。脱衣に進んでも、ありきたりな官能表現は何もなく、身体の充実だけを見せられる。比較的律動の強い音楽から、瞬間、リズムへの囚われから抜け出すようにして体が動く。そのたびに、どうしても泣いてしまう。暗転が行われてもまだ涙が止まらなかった。たぶん、ストリップという芸能のもつ強度に打たれた部分を差し引いても、これほど凄いパフォーマーを、今まで何人観ただろうかと思う。その何が凄いのか、一回見ただけですらすら言えるなら世話はないし、こちらが言語に分節できる精度を遥かに超えた領域で踊りがあるのだから、仕方なく、ただただ泣くしかないのだ。

それでも何かを言おうとするなら、友坂麗はポーズの人だ、と言おう。ポーズといっても、それらしい形の均整を指すのではなく、急降下するようなスピードが内在したポーズなのだ。そのポーズは、いつも突然にあらわれる。ただ単に急に止まるわけではない。でも、気づいたらそれはすでにポーズだ。それは、びくともしないほど強固に動きっぱなしのポーズなのだ。たぶん...想像がつかないだろう。さらにあの、天井の梁に手をかけた姿のエレガンスと、髪を振り払うように仰け反る身体のためらいのなさ、にもかかわらず、柔和さを常に携えるバランス感覚...友坂麗をこの日観なかったなら、ストリップ再訪の機会は、いくらか遅くなったか、あるいは日々に紛れてずっと遠のいたかもしれない。

そのほうがよかったこともあるかもしれない。でも、見てしまったのだから、仕方がない。仕方がないと言い聞かせて、また劇場に行くだろう。

*1:ストリップにおけるポラショーはアイドル文化における「特典会」と似ているように見えた。しかしストリップのポラショーは、すべてのステージが終わってから行われる「終演後物販」、別の出演者のステージ中に行われる「並行物販」、ステージが始まる前に行われる「前物販」のどれにもあてはまらない、いわば「都度物販」のような形であったことがおもしろく思えた。

*2:直截にしたいところをなかば迂遠な書き方にしているのは新参者の軽率さで安易に権力へ言質をとられまいとするための配慮なのだが、ふつうに書いてあるところには書いてあるので、単に考えすぎかもしれない。