ストリップ見聞記(3)

正直に言えば、この記事まで出すことは、あらかじめ考えていた。
というのも、自分がアイドル文化に軸足を置きつつ、ストリップ文化へと片足を踏み込んだのだから、その逆、つまりストリップ文化に軸足のある人々へ、アイドル文化から差し出せるものを伝えたかった。
前回の更新時でストリップ再見の目処は立っていたので、観て再確認したものを含めて更新しようとしたのだが...劇場を再訪してみると、得るものが多くてほとんどプンラスとなった。

というわけで、そのことについて、先に書く。

 


ストリップ劇場再訪 

訪ねたのは川崎ロック座。
かつて「シネマ大道芸フェスティバル」に出演した思い出もある川崎。くしゃくしゃの競馬新聞を片手にした歯がなくて顔の真っ黒いおじさんに「がんばれよ!」と10円の投げ銭をもらった記憶がある。こういうおじさんに身銭を切ってもらうのは嬉しいものだ。

 

ロック座は川崎駅前から徒歩で10分かからないくらいの、裏道にある。早朝料金で割引を受け、入口で検温消毒。マスクの配布まであった。
前回の渋谷道頓堀劇場に比べると圧倒的に広くて天井も高く、ライヴハウス然としていたのが渋谷なら、川崎はいわゆる劇場のようなたたずまいである。青みのある黒い壁には大きく「Rock」の透かし文字...の脇に赤字で自慰厳禁の張紙。開演前にと用足しに行くと、男性用小便器は驚くほど位置が低くて、しかも赤外線センサーの機械のせいでなにも見えない。そのせいで的を外すことが絶えないのか、足元にペットシーツが敷いてあった...と、こうして不要な描写を重ねていると先に進めないので、特に書きたいことだけ書いてしまう。

 

香山蘭

あらかじめ『イルミナ』編集のうさぎいぬさんから、おすすめの踊り子さんとしてうかがっていた。なるほど、たしかに素晴らしい踊り子だった。
特に脱衣からのベットショーは絶品中の絶品であった。露出された乳頭に、性感帯としての感覚が宿っていることをこちらにトレースさせるような、しびれるような繊細な指の動きがある。直に触れるわけでも、凡庸に付近をなぞるわけでもないのに、裸の胸と宙を揺れる指が同じ視界に入ると、なぜかそう感じさせられる。しかし、そうした感覚は一部にとどまることなく、ぜんたいに見るだけでひんやりと滑らかに触られているような不思議な感覚に陥ってしまう。
また、ベットショーでは、かなり具体的に性交を描写するタイプの踊りがあるが、今回演じられた「花魁HR」*1もそうした演目だった。
口淫から体を重ねるように寝そべり、唇の端からハンパに(ペコちゃんのような)出して、床に顔を近づける。そして正常位から後背位に移行していくのだが、このそれぞれの動作はかなり生々しくある。しかし、リアリズムに徹するというわけではなく、実際、それぞれのポーズからポーズへの移行はなめらかで、いつの間にか起きている印象だった。身体が床に接しているとき、支点は手・肘・腰・膝など大きな関節各部位が関係しているはずなのに、ふしぎと大きく体を動かす印象がなかった...ポーズの移行はあたかも映画のように編集されている。
たとえば正常位から後背位に体勢を移すとき、尻を持ち上げた形に肘は立ててうつ伏せてから、いちど尻の方に大きく体重を移して、もういちど伸びをするようにして身体を伸ばす動きがあった。ここに現実の性行為には起きる必要がない動きがある(性器の挿入の強調とも読みうるけれども、そうしたニュアンスの動きはのちに起きていたはずだ、と思う)。こうした動きが、あたかも絶妙なカット割りとして機能していることはないだろうか。あるいは小津安二郎が人物を立たせる/座らせるときに行う、いわゆる「アクションつなぎ」のような、カメラ位置の変化が起こっているのでは...ということ。しかし、それも2回目のときにようやく感じたことなので、もう一度確かめる機会を待ちたい。

 

武藤つぐみ

GSM」は大きく「武藤くん」と書かれた大判のスケッチブックを背に、手にはなんらかの「力」を封じるためか厨二病の典型表現よろしく包帯が巻かれている、学ラン姿の武藤つぐみがマイムまじりに踊るシーンから始まる。深くかぶった制帽で目を隠す姿はマイケル・ジャクソンを想起させる。こうしたジェンダーを異にした表現じたいは珍しくない趣向ではあるが、この演目は徹底していた。
まず、一曲目を踊り終えると、後ろのスケッチブックを取って盆まできてあぐらがきにどかっと座ると、客を見渡してやおら似顔絵を描き出して、完成したものをモデルにプレゼントする。舞台からここまではっきりと客に干渉する芸は、かなり少ないのではないだろうか。観客はそのイメージを介して舞台上に上げられてすらいる。しかもそれは、一見して男性を演じる者から繰り出される。一連の出し物はジェンダーとストリップという芸能の構造が持つ非対称性を、手早く転倒させる。
しかし、そうした批評性の理が勝ちすぎることはなく、芸は具体的な動きにも宿る。脱衣が始まると、「力」を抑えていた手の包帯は、胸にもさらしとして巻かれていた事がわかる。それを巻き取ると、ズボンは勢いよく降ろされる。下着はボクサーブリーフ。パンツをひろげて中を覗き込んだかと思えば、前開きからにょきっと指を出してみせたりする。脱ぎきってしまっても、足首にボクサーパンツが引っかかっている。「厨二病」という自意識のこじれを、セクシャリティの揺らぎに重ねる武藤が体現する性のあり方は、知的であると同時にユーモラスで、かつシリアスでもある。
一転、ラストは流行り物の鬼滅ネタ。見せ場のポーズでは、ファリックな刀を観客の視線とぶつかるように鋭く差し向ける。鞘に収めた刀を床に立て捧げ持ったかと思えば、しなしなとすぐ横倒しになる。

身体的には、とにかく腰の柔らかい人で、バックベンドすると後頭部が尻に近づくくらい曲がったりする。ためらいなく反り返る動きが実に爽快だった。


観客への絡み方(学ランの上着を盆の面から振り回したりするのだけど、ほんとうに顔ギリギリなので、かなりスリリング)や注意の向け方は、ほとんどクラウニングともいえるそれで、既視感というか親近感もあった。

 

 

友坂麗

「Jumping」はこの日で都合三回鑑賞をしたことになったが、二回目はボロ泣き、三回目は泣きこそしないものの、やはり全身を持っていかれるような経験をした。
3曲目中頃に、先に履いていたブーツを脱ぎ、ヒールの靴に履き替えるシーンがある。左足はふつうに履くのだが、右足の靴を取るとき、目の前に置いて、うつぶせになって眺めて、ヒールに手をかけて、客席に目を向ける。この瞬間(確か)、赤い照明が舞台を埋める。フェードインなのかカットインなのか、覚えていない。正確には、照明が変わるより前に、友坂麗の何かが...何かとしかいいようのないそれが、空間のすべてをロックしてしまう。音楽の進行とも、まったく関係がない。いや、核心的な出来事に、うまく視線が向けられない。出来事は観客が把握できない(=困難な)タイミングで、生じている。
これは『イルミナ』の座談会でも、すこし別の文脈で例にされていて興味深かったのだが、友坂のある踊りには、柔道の技に掛かる感じがある。
柔道で圧倒的な上級者に技をかけられるとき、自分の身体が「投げ」の場に巻き込まれていく具体的な感覚がある。体重を「崩」されて、自立が乱れた身体が刹那に浮き、体を預ける重みを感じる前に、すでにして天地はひっくり返っているのだ。
けれども、この靴を巡る「瞬間」には、体重を崩された感じすらしない。手応えなしに、こちらの天地だけひっくり返ってる。
以降、友坂麗が何をしても、あるいはしなくても、そこに踊りが動き続けている。これにかんしては前回も書いたので繰り返さない。繰り返して話したいのだが。あ、いや、オープンショーのとき、曲の拍子をとる手が、気散じにパタつく猫のしっぽの動きそのもの*2で、実にすばらしいということだけ、取り急ぎ書き残しておく。

 


ところで、周年期間ということで、豪華な冊子をいただいた(しれっと初のポラ)。
膨大な演目リストを眺めていると「紅月 -あかつき-」の題が。これは...もしや...と思ってすかさず訊いて確認(2回目のポラ)すると、やはりその通りだとのこと。お気に入りの作品とおっしゃっていたので、再演の機会を逃さないようにしたい。

 

 

 アイドルの話

本題。
多様な背景を持った者たちが集まっているのだから、技巧が排されているわけでもないが、アイドルは「芸」の卓越では語りづらい*3芸能である。けれども、一部でよく言われるように「未熟さ」を愛でるに終始するものでもない。あるアイドルの観客はベタにステージの強度に打たれ、熱狂し、涙を流し、それぞれが何を見たのか語り合う。それでは、アイドルの観客は何を見ているのか。あえて言うならば、アイドルもまた、ステージ上で剥き出し=裸であり、観客はそれを目撃している。
アイドルが扇情的に、「疑似恋愛」的に情欲を掻き立てているという話などではない。歌も踊りも途上のまま、持たざるものがただ、あらん限りに力を尽くすこと、このことにおいてアイドルは裸であり続ける。
それは形には置き換えられない。しかし不可視の現れを感じるものたちが、「現場」で熱を伝えあって、あるいはそこから距離をおいて、バラバラな仕方で狂っていく。


もちろん、そうしたあり方のアイドルは少数派かもしれない。けれども、私がアイドルとその可能性に引き込まれたとするなら、不可視の現れを剥き出し=裸と語りたくなる、言いがたい感覚があったからだ。

 

手早く進もう。
実は、最も最初に手渡したかったものは、すでに失われている。「アイドル」は本当に脆い。手遅れになる前にまずは観に行って、「沼」に落ちるなり、自分の人生に関係ないか判断するなりすべきである。


www.youtube.com

 

この動画はすでに何度か貼っている。Aqbi Rec所属のBELLRING少女ハートによる、日本最大規模のフェスティバル「Tokyo Idol Festival」に出演した際のパフォーマンス映像だ。
ステージと客席が無法に乱れていくありようが(この撮影動画がアップロードされているという事自体も含めて!)、端的に収められている。17分付き合うのが億劫なら、12分40秒あたりから狂乱のクライマックスになる。

このグループは既に5年前に解散し、さらに紆余曲折を経てふたりはアイドル活動を引退している。
しかし、ひとりはSSW「ん・フェニ」として独立したが、もうふたりは変わらず「アイドル」である。有坂玲菜はレーレと名前を変え、同事務所の6人組サイケデリックトランス・アイドルグループ「MIGMA SHELTER」のメンバーとして、朝倉みずほは移籍後、唯一残ったオリジナルメンバー寿々木ここねとふたりで「SAKA-SAMA」として活動している。私が見る限り、ふたりは今でもステージの上で生の輝きを少しも減じることなく、多くの、また少ない観客を剥き出しのパフォーマンスで強く巻き込んでいる。
そして"黒い羽"を継いだグループは「NILKLY」として活動を再開したばかりだ。


こうして異なる世界の誰かを誘うのには理由がある。端的には文化の持続のためだが、アイドルの文化圏では、観客がゲームバランスを変えうる。数の問題ではない。特異な誰かが紛れ込むことで、驚くほど「現場」の空気は変る。こうしたダイナミズムは、外から見ていては絶対に分からない。
そして、うっかり入り込んだ"誰か"が自分ではないと、必ずしも言い切れない。好奇心で一度ライブを見にきただけなのに、いつの間にかそこに欠かせない観客の一人に変化した例は、いくらでもある。


ストリップとアイドルは似ているかもしれない。あるいは似ていないのかもしれない。
少なくとも、見てみなければ話は始まらない。
互いを行き来する風通しの良さだけ、ここにわずかながら確保しておきたい。

 

  

おわりに

私は今後もライヴハウスに行きつつ(今年はK-POPの勉強に振り切ったのでもっぱら在宅なのだけど)、おそらく劇場にも行くだろうし、ストリップについても書きたいことができればここに勝手に記録していだろうが、見聞記はひとまず終わりにする。

あまり読んでいる人のことは気にせず書いているけれど、今回はたくさんのストリップファンの方々にお目通しいただいた。門外漢の長々しい文章にも関わらず、好意的なご感想を嬉しく思います。

さいごに蛇足ながら、そして状況からなかなか難しいものの、自分自身もまた別の文化圏で、立場を違えて演者として活動している。ここにももちろん、数え切れない具体的な営みがあり、多様な表現がある。よければ、遊びに来てください。

*1:同日出演の赤西涼の演目に手を加えたものとのこと。

*2:保坂和志ではないが、この「猫」は比喩ではない。とかく意味を持たされすぎてしまう「猫」ではなく、猫の"あの"しっぽのパタつきが、人の手に宿って、友坂麗のオープンショーのリラックスした空気を陰に支えているのではないか、という話。

*3:ひとまず日本の非メジャーアイドルに話を絞る。韓国のように、そもそもダンスやラップスキルに優れた者たちが「アイドル」として活動することになる市場もあり、統一的に「アイドル」を語る困難が常にある