ある踊り子

持て余すほどの幸福に預かるとき、何も考えずにそれに浸り切るのでなく、それをどうにか誰かに分け与えられないかと思う。
その幸福の中身は、各々によって様々であるだろうが、私はある踊り子を介して得られた幸福を等分することはできないか、やはり考えてしまう。
ただ惚けたようにしてられないのは、やはりそれが私以外の誰かにとっても、同じように強い幸福を与える可能性を思うからだろう。すると結論は決まってくる。その幸福は、劇場にしかない。だから、人を劇場に差し向けなければいけない。どうすれば人は劇場に向かうのか? それがわかっていれば苦労はない。
試しにいったん視点を移そう。「私はなぜ劇場に向かったのか」。ひとまず、これには答えられる。

                 

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3連続で書いた見聞記以降、どのくらいのペースで観劇に行くか決めかねていた。
ストリップという芸能がもつ強度と特異性に惹かれつつ、私的な文脈からとりわけ「音楽と踊り」の関係が特に気になってはいた。振付によって楽曲を解釈するという点において、ストリップの踊りは、その形式性も手伝って、独特なものがある。手当たりしだいに観に行くこともできるけれど...さすがに許されない現実的な事情がいくつもある。
こうして、自分がストリップを視野に入れたきっかけになった武藤大祐さんが高く評価していた踊り子の名前が思いだされた。武藤さんによれば、この踊り子ほど構成力があり、音楽の扱いにも優れている人にはまだ出会っていないとのこと。なるほど、どんな演目がおすすめなのかだけでも聞いておこうと、教えを頂いた。
ある踊り子こと「宇佐美なつ」の名前が上がるのは、この文脈においてだった。


宇佐美なつの名前は『イルミナ』で見ていた。宇佐美の書いた文章も読み、ふとしたきっかけの観劇体験が高じて業界に飛び込んだというプロフィールも知っていた。珍しい背景への関心もあったし、文章に書かれていたことも気になっていた。
とはいえ、生まれながらの踊り子としかいいようのない友坂麗に打たれていたので、どこか懐疑的な気分もあった。一方で、武藤さんがあれほど言うなら...という思いもあり、結果、気になってしまったので、演目について情報を頂いた翌朝、突発的に渋谷に向かった。観劇ペースも許されない事情もへったくれもない。
つくづく思うが、自分にとって一番強い行動原理は「確認」である。大きい出来事では、海外のフロアがどうなってるのか「確認」したくてBABYMETALのEUツアーに参加した。渋谷など、話にならない。他に誰が出るのかもよくしらないまま、二週間ぶりの道頓堀劇場に向かった。

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そこで見たものには、動揺させられた。面白い、とか、美しい、とかでなく、動揺。
動揺のまま、混み合うポラはスルーして、ロビーで武藤さんにメッセージを送りつける。いまログを見ると「凄すぎました!!!!」と「!」が4つもある。
動揺の由来は私的に過ぎて伝わるとも思えない。端的にいえば、同じパフォーマーとして心からの敗北、爽快そのものの敗北を覚えた。その爽快さは熱になって––ほとんど悪癖のようになっている––勢いのままに感想を連続でツイートした。言葉を留めておく余裕はまったくなかった。劇場に向かったのは、あくまでも「確認」の意味のはずだったが、つまるところ「予感」だったのではないかと、今は思う。


私が劇場に向かった理由は、大まかにはこうした話。人にはそれぞれの必然性があり、その必然性が噛み合う限りで行動に変化する。私にあった必然性の説明は、相変わらず人を差し向ける理由には足らない。

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では、宇佐美なつとは、どんな踊り子なのか、どんなふうに優れているパフォーマーなのかを話さないとならない。

宇佐美が、あまたの踊り子、パフォーマーと一線を画しているとするなら。その特質は簡単に指摘できる。宇佐美のずば抜けた能力は、抜群の「耳の良さ」である。
「耳の良さ」とは楽曲を楽曲足らしめているひとつひとつの音を拾い上げる細やかさと、それらひとつひとつの音が織りなす曲の流れを見極める力(耳の話に目の比喩は不適当だが)のことだ。
その耳の良さは、当然、振付を介して感受される。踊り手が聴いている音が、振付という視覚情報に変換されるわけだ。


振付には、スタイルというものがある。私が今までに見た3作品にかんして言うなら、宇佐美の振付はアイドルのダンスが下地にあるスタイルだった。
アイドルのダンスとはなにか。手振りを中心とした、当て振りを多く含むダンスだ、とひとまず言っておく。アイドルのダンスには、あまり高級なイメージはないかもしれない。いや、はっきり言ってしまえば、低級なダンスではないかという疑いさえ向けられる。技術的に熟達していなくても習得でき、観客も容易に反復可能なダンス...「アイドルのダンス」の実際がそうしたものかどうか、ここでは問わない。また、問の立て方もふさわしくない。いずれにせよ問題は、宇佐美のダンスには、どこか凡庸な香りが漂っていることなのだ。


凡庸さとはなんだろうか。端的には平凡で、取り柄がないこと。見るべきものがない、ということを指す。ところで、見るべきものがないという判断はどこで働くのか。
何気なく顔を向けた電車の車窓から、こんなが風景が見えたとする。狭苦しく肩を寄せて居並ぶ家々と、経年を感じる低層アパート。剥き出しの階段は錆び付いている。遠くには建築中のタワーマンション。目を落とせば整備も行き届かない歩道の隅からは雑草が茂って、その横に犬を連れた老人がゆっくり歩いて、自転車に乗った子供が軽快に追い抜く...おそらく、特に胸が浮き立つ光景ではない。ありきたりで、どんな色形の建物があったか、子供や老人の顔がどうだったかなど、車窓の彼方に思い出せもしない。そんな風景を私たちは実際に何度も見てきただろう。
ただ、そうして「何度も見た」と思う心性は、しばしば、ただの先入観と見分けがつかないのではないだろうか。家々の意匠を見逃し、生活の多様さにも想像を働かせず、草の名も犬の種類も知らない。「ただの風景」に塗り込めてしまうのは、私たちがそれについてあえて考えずに済むものと思い込んでいるからにすぎない。
先入観とは、かように予断のことである。予断とは、現実に即していない判断のことである。あるいは、現実に向き合う手間を諦めてしまった思考のことである。凡庸さは、対象を誠実に眺めることを捨ててしまった、現実に即していない我々の判断の結果に現れるものではないだろうか。

われわれの多くは宇佐美ほど耳が良くない。目に頼りすぎていると——裸体を巡る視覚的なショーにも関わらず——宇佐美がなぜそうした動きを行っているのか、意味を掴みそこねるかもしれない。私たちは、他ならない私たち自身の凡庸さによって、そのダンスがどこかで見たような「アイドルのダンス」だと、凡庸なダンスだと、思いこんでしまうかもしれない。
宇佐美が振付を介して証明する耳の良さは、楽曲という現実の細かさに分け入るデリケートさだ。楽曲に鳴り響く無数の音は、あとから恣意的に付け加えられたものではなく、あらかじめ先に存在している。それをひとつずつ着実に拾い上げていくこと。宇佐美の振付は、この事実と対応している。その限りにおいて、いかに宇佐美のダンスが凡庸さと踵を接しているかにみえても、宇佐美自身に凡庸さは全くない。

しかし、一方で宇佐美の振付には「当て振り」が頻出する。「当て振り」とは、当の楽曲の歌詞が指示するイメージに対応する。
たとえば「泳ぐ」という歌詞があるとする。それに応じて、振付で、水をかくような動きがあてられてるとする。すいすいと平泳ぎのようにするかもしれないし、クロールを模した形になるかもしれない。重要なのは、そこでは、動作の正確さは問われないということだ。ここでは「泳ぐ」ことにある具体性、水の抵抗に応じる筋肉その他組織の仔細な再現があるわけではない。ここでは"だいたい"で「泳ぐ」ことが伝われば充分なのだ。
つまり宇佐美の振付にはその持ち前の聴力で細やかな現実(=楽曲)に分け入りつつ、同時にざっくりとした現実(=当て振り)が混ざり込むことを排除しない。宇佐美の踊りには、細やかさと大雑把さとを、一枚岩でない綜合的な「現実」として広く取り込む力が働いているのではないだろうか。
宇佐美の振付において凡庸さが感じられるとして、それは完全な誤りではない。凡庸さは、現実のひとつのありかたを受け入れる、可能性のあらわれでもある。だいたいのことは、だいたいで動いている。一方で、そのだいたいのありようを受け入れる繊細さがある。宇佐美は予断の残り香を濃厚に纏いつつ、微細な現実に向かって踊る。

 

けれども、まだ「ストリップ」は始まっていない。 

 

宇佐美の踊りは、前半から後半にかけ、大きく展開する。すなわち、脱衣が始まれば、空気は変わる。それが上半身から始まるにせよ下半身から始まるにせよ、脱衣の時間には芸のすべてが注ぎ込まれているかにもみえる。宇佐美の脱衣には、われわれが裸体を眼差す欲望の視線をアクロバットに飛び越えるような、あるいは綱渡るようなスリルを、絶対に欠くことがない。また、裸体があらわになってもなお、どこかに緊張を残している。それは当然、切れることない音楽の聴取への集中も変わらず続いているからでもあるが、惜しみなく与えつつも観客との関係に線を引き続ける感触がある。あるいは、互いの関係に線を引き直す感触が。

 

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ストリップとは当然、女性の裸体を眼差す芸能のことである。男性が脱衣する芸があるにせよ、現在の多くのストリップではそうではない。
なぜ女性を眼差すのか。言うまでもなく、快楽が引き出せるからだ。その快楽は性的であり、多数派に準じるなら、それは男性にとっての性的な快楽だ。
性的な快楽は、他者を必要とする。しかし、基本的な合意をがとれた関係を前提としても、性の場で互いが均等にずっと対称的な関係を築けるわけではない。SMのようにまで偏ったものを想像するまでもなく、バランスの不均衡それ自体に快楽が生じることは当たり前でもあるだろう。わたしたちは性をめぐるやりとりにおいて、平等の基準を探り合う。
けれども、性をめぐるやりとりは、常にバランスを取り合うわけではない。ともすれば非対称な関係に傾きすぎてしまう。むしろ、その非対称性は社会においては前提としてスタートすらしている。
たとえば一般に、性器を名指すことは社会的に退けられている。しかし、しばしばその習わしは破綻する。問題は、この習わしの破綻が、多く男性によって行われることである。男性には、性器を名指すことの禁止を破る権利が過分に与えられている。このささいな禁止の侵犯は僅かずつではあっても快楽を備給する。非対称性そのものを性的に啜り上げる公然とした後ろめたさがそこにあるだろう。

                  

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私は、宇佐美がポラの時間に客とやりとりをする中で、直截に性器及び性器の部位の名称について口にする瞬間が、とてつもなく好きだ。
私は同性異性問わず、性器の俗称を口にすることも、性的なことがら一般について話すのも苦手だが、宇佐美の振る舞いに、快いものを感じる。
これは女性による、一般社会で男性だけが持っている踏み越えの権利の奪取が起きていて、それが痛快なのかというと、必ずしもそうではない、と感じる。宇佐美は逆張りとして"あえてそう言って見せてる"わけではないはずだ。この感覚がどういう根拠に基づくことなのか、私にもまだ分かっていない。
その場が、男たちの視線が快楽を求めて漂う場であることは、前提のままである。事態はとくに何も変わっていない。しかし、いつの間にか、ほんの瞬間に価値の転倒も生じている。性器をとりまく、実に保守的な欲望の場は、ふとした瞬間にずらされている。あれほど人が執着し、本国においてはプレーンな表象すら避けられる対象となる性器の価値は、乗り越える以前に、さしあたっていったんどうでもよいものになる。宇佐美と(あるいはすべての踊り子たちと)性器をめぐってかすかに笑い合うとき、空気は確かに動いているかに感じる。私は触れ合うことなく、何かを可能にする希望だけ受け取っている。
でもそれは、劇場にいるすべての人にとってではない。あいかわらず性器を特別なものとして見たい欲望は残っているし、やはり一枚岩ではない。そのバラバラさを保ちつつ、岩肌を縫って線が引かれ直す。
    

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昨今の忌々しい"浄化作戦"の余波か、一部の劇場にではオープンショーには縛りがあった。踊り子たちは笑いながら困ったようにしていたが、ある回の宇佐美は、本来のそれと違う、素足の指を広げて、客に足を向けて見せて回って、ラストは司会のいれた茶々通りに、舞台の中央で鼻の穴を指で広げて帰っていった。
オープンショーという形式を即興的に利用して、パフォーマーの勘として、即座にこの一連の振る舞いが導き出されたことにいたく感動したし、とても楽しかった。私もようやくオープンショーの楽しさを掴みかけていたところだったが、宇佐美の足指オープンショーがこの時間の豊かさを決定的にしてくれたと思う。
裸になる、ということの内実は、その言葉ほど簡単なことではない。私たちは何かとそれを見たがるが、とくに見たいとは思わない足の指の間(フェティッシュがある人はたまらないかもしれないが、こちらの想像の埒外である)を見せられて笑っていることと、どう関係しあっているだろうか。

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本当は、宇佐美の芸の細部がどれほど豊かで、また、今後にどんな可能性を感じるかについて話がしたい。その衣装の使い方がいかに巧みか、本舞台からベットへと展開するドラマトゥルギーがどれほど大胆か、選曲の一貫性、曲間のコントロール、音楽の高まりを余すところなく捉えたポーズがどれだけ感動的か、下着の処理がどれほど完璧か、話したくて仕方がない。「Positive」のラスト、歌詞に合わせて両腕を開き、後ろへ向き直って飛ぶように踊る姿が、なぜあれほど感動的になるかについて、「黒煙」でのヘアアクセサリーの取り外しが、肌に触れずとも演出によって脱衣に特有のサスペンスを成立させていることについて、「Spring Vision」で暗転中に流れているだけの音楽が、どうしてこんなに胸を詰まらせるのかについて、考えたくて仕方がない。

 

私はこの文章を、「宇佐美なつを観に行け」という"動員"のつもりで書いてきたはずだった。それは幸福を分け与えるためのつもりだったが、むしろこうした悩ましさを共有したいからなのかもしれない。

 

いや、いっそ、誰かを拙く促すことなど、諦めてしまえばいいのかもしれないとすら思い始める。もっとも必要なのは、宇佐美もまた他の誰かから受け取ったはずのストリップの幸福が、私へとまた分け与えられている喜びに湯浴みするように、少なくともその心においてくらいは、裸になってみせることかもしれない。

 

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私は、宇佐美なつを見てくれといいつつ、最初からいっこうに核心に届きそうもない蛇行を繰り返した気がする。たどり着くも気なかったのかもしれないと、今は思う。あれこれと喋っていても、その実、宇佐美の芸が死ぬほど好きだということを、頭からおしまいまで言い換えながら飽きずに繰り返しているだけに過ぎなかったのではないか。
まだそのことについて充分に話す術を持っていない、漫然と移り変わる日々を刺し貫いてしまう、あの決定的な脱衣の瞬間の強度に、私は何度も連れ戻されている。そして、その堂々巡りのようすは、おそらくほとんど呪いか、あるいは恋と見分けがつかない。

 

恋が人を多弁にする不滅の歴史に少しも違うことなく、不毛な高鳴りが無闇に響くだけのようなこれは、結局のところ、出来の悪いラブレターでしかなかったのかもしれない。