ストリップのきろく 2021年 7月

※7/19体裁・タイトル等変更

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

7月2日(金) [渋谷道頓堀劇場]


美月春(1-4)
愛菜(1-4)
浅葱アゲハ(1-4)
黒井ひとみ(1-4)
六花ましろ(1-4)


朝からすごい雨。それでも劇場に入れば当然お客さんはいる。めずらしくど真ん中で観てみることに。
後半は更に前へ。久々に二列目なんて距離で観たけど、やはり自分には"良くみえすぎる"感じがするので、初見はやはり少し離れようかなという確認ができた。同時に、この道劇の近さでもう一度、誰それの何を観たいものだなあと考えたり...

先週の栗橋では初出しの新作だけしか観られなかった、黒井さんの別の演目を観るのを主な目的にしつつ、よく名前をお見かけする踊り子さんが多いので、あとストリップが観たいので、来た。
美月春さん。たまたまそういう方にめぐり合っていないだけなのか、めずらしく胸が豊かな方で、偶数回の演目でバッと胸を露わにすると、はっきり胸に揺れが起きて、それがなんとも格好いい。ちょっと微妙な話題というか、扱いがうまくできないところだが、ふつうのダンスで想定外に動きが出てしまい、かつそこに不要な意味が生じてしまいやすい部位だけに、こういう胸の動きが強みに変えられるのも、ストリップのよさだと思った。袖に処理したTシャツが見つからないとか、かぶりのご年配の方が熟睡してるとか、アクシデンタルな出来事へのリアクションに慣れがあって信頼感。
愛菜さんは2演目とも選曲に個性があり、おもしろい。偶数回演目では、衣装選びも合っていたし、白い肌にヴァーガンディーのシースルーガウンが映えて、それだけで持つような感じも。
浅葱アゲハさんは、2演目共にエアリアルのシーンが。しかし奇数回演目の浴衣姿での性交シーンがよかった。仰向けになりながら、浴衣をはだけきるわけではない程度に、しかしガッと前を開ける動きで、演目のギアが変わるような感じ。
黒井さん。新作がおどろくほどブラッシュアップされている。ギミック類が削られて、ディティールがいくつか増やされていた。数でいえばそれほど多くはない変更が、演目全体の印象を全く変えるという現象を久々に体験。ベッドでは、ティアラについたイミテーションの宝石のチープな輝きがなぜか感動的。ストリップにおける、光を反射するボディチャームの強さとはなんなのだろう。
「Black Lily」「エスケープ」共にマジのマジで傑作じゃん...といったんラフに処理しておかないと、またずっと考えたくなってしまうようなすばらしい演目。「Black Lily」では思わず泣いてしまう。ストリップをはじめて観る人に勧めたいパフォーマンスが増えた。「ストリップ」というジャンルの中で何が可能なのか、黒井さんの演目に端的に表されている。

六花ましろさんは周年作「鯨」が美しい。ことにベッドでのポーズが美しく、ここでも泣きそうになる。ネガティブな事柄でなければ(ネガティブな話をすることに臆しているというより、それなりの理由・芸がない限り、こうした場でそれをしても、たいてい書き手の"見巧者"的なポジションを示威するパフォーマンスにしかならない)見えたもの、感じたものを書くようにしているので、しかしこうしてエクスキューズをつけないとまだ書けないのだけど、六花さんは驚くほど脚がすらっと綺麗で、脚を伸ばすポーズ全般に、他の人では感じたことのない涼やかさを覚えた。

...いまだに「脚がすらっと綺麗」ということすらスムーズに書けないのはどうなのだろうか。。

 

7月4日(日) [渋谷道頓堀劇場]

美月春(2-3)
愛菜(2-3)
浅葱アゲハ(2-3)
黒井ひとみ(1-3)
六花ましろ(1-3)

 

黒井ひとみさんをもう一度観たくなって、再訪。
午前中にアイドル現場で久々に会ったオタクが急遽、一緒に来ることに。他にも友人(オタク)がさらに初見の友人(オタク×3)を伴って観劇に。それぞれ楽しんだようす。
この日は六花さんの周年イベントもあり、満員。それだけに美月春さんのアゲ系の新作「板の/上の/魔物」が大ウケ。ご本人もあきらかにノリノリであったし、トリプル・ダブルの進行も手伝って、直後のOPではチップが乱れ舞う。
それにしても、早いビート、早いラップでも盆が回っていれば、へたに身じろぎせずいたほうが、よほど音楽的な官能が高まるというストリップならではの効果はうらやましい限り。"動き"を作るのは体ばかりではない。
浅葱さんは3回目で初見の「ダンボ」を。舞台奥から手前に向かってティシューを広げると、狭い舞台にさすがに視覚的効果が高い。ストリップではしばしば衣服ではない布が使われるけれど、それぞれ効果の高さに目を見張る。どくんごの背景幕を思い出したりもする。
六花さんの「鯨」ではまた、サビでポーズを取るたび、全身に鳥肌が走る。ポーズは、なんでこんなに感動的なのだろう。と、いちいち考える気を失う地点まで何度も引き戻される。思考と共存できない、外来種的官能の強さ。
黒井さん「Black Lily」はやはり傑作の類いと確信。トルソーは同性愛の想像的なパートナーでなく、トルソーがそのまま性愛の対象であるような、よりもっと広く倒錯的な世界すら肯定する懐の広さがある。それがラストの楽曲によっていっさいの衒いなしに、言祝がれる。
身振り手振りよりもはるかに踊っているのは黒井さんの絶妙な表情。顔を大きく崩しても品があるし、"プク顔"のかわいらしさはアイドルも顔負けであり、「エスケープ」で母親役を演じれば所帯感も出せてしまう。

黒井さん曰く"ツイ廃"とのことで、ポラに行くと「ジャグリングすごかったよ」などと言われる。どこまでひとのツイッターを見てるのでしょうか。少なくとも、その真下にあったはずの某踊り子さんのコース告知のRTも見ているということである。いや、別にいいんですが...

 

7月9日(金)[池袋ミカド劇場]

玉(1,4)
海野雪妃(1,4)
eye(1,4)
望月きらら(1-4)
川越ゆい(1,3) 

 

雨。劇場内はほどほどの混み合い方。
武藤さんが初見さんを伴って来る。今日は結構混んでますねと立ち話していると、今日は混んでないほうだよと突然、近くの客が言う。そうなんだ。
今回はゆったりモードで外出多めに、お目当ての望月さんを軸に観劇。望月さんは4個出しでその都度に多様な演目の方向性を見せてくれるが、「望月きらら」が持つ「踊り子/芸人」という中心が強固で、アイドル曲でも、浴衣着の夏演目でも、スーツスタイルで決めたレビュー的なショースタイルでも、コントでも、何をやっても成立してしまう。

そのどれをも貫いているのが度外れな"エロ"なのだが、望月さんのエロはある意味今までの誰とも似ていない。むしろ分かりやすぎるくらいに局部に攻め入ったり官能的な仕草をしてみせたりするのだけど、なにか過剰さがあって、エロさにある湿度が乾ききったあとに残る即物性すら感じてしまう。
それは、ボディラインの見せ方や衣装の大見得を切るがごとき扱いや、小道具全般に対する感性がことごとくシャープな形、あるいは画を作っていて、そのエッジが際立つから、観ていても感覚が同期する以前でカットアウトされるようなところから起きているのかと思う。
たとえば「歯科助手の浅川さん」では、電動歯ブラシを使って、「蝉」では団扇を使ってあれこれ(あれこれ)するのだけど、動きの遷移が多くて、感覚を添わせる前に、視覚的な鋭さに切り込まれる。既存の語彙で名指すなら「卑猥」としかいいようのないムーブなのだけど。

また、望月さんはとにかく観客を「見る」。望月さんは「見る」ことで、視線の相互作用に巻き込まれることを受け入れている。シリアスなベッド中、観客のちょっとした行動で吹き出したりしているのには、びっくりした(まあ確かに笑っても仕方ないようなことではあったが...)。もちろん、ごく一部の観客しか気づいていない程度で、演技の進行も破綻しない。けれどそもそも、シリアスな演技中に、何か観客に動きがあってもふつうは演技を優先してスルーしてしまうし、そこで視線のコミュニケーションは取らない。自分が視線を向けることで観客に変化を与えることは当然やるにしても、自分も観客から影響を被ることをここまで自然に受け入れている人はなかなかいないのではないだろうか。
いっけんフレンドリーに視線を合わせにいっているように見えても、その実、いっこうに変わる気がない身体というのがある。それはそれで覚悟のあり方だろうけど、望月さんの融通無礙を知ったあとにどの程度信頼できるものなのか、少なくともかすかに疑いは抱かざるを得なくなる。

それにしてもOPもポラも本当にひどくて、ずっと笑わされてしまった。

 

7月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-3)
箱館エリィ(1-3)
るあん(1-4)
星野結子(1,2,4)
宇佐美なつ(1-4)

 

観に行く予定の日に別用が入ってしまい、待ちきれず初日に。友人ふたりを誘って行く。あとから、たまたまもうひとりが合流。引き寄せられるオタクたち。

この記録は、たいてい観劇の翌日に書き溜めているのだけど、この文字を打ち込んでる段階では、「書く」という行為に、ぐっと固い抵抗を感じる。
それは、宇佐美さんの周年作があまりにも挑戦的で、また、こちらの心身をかなり削ってくる演目だったからだ。いま、ものすごく肩が凝っている。

先に、その他の踊り子さんで印象的だった方について。

箱館エリィさんの奇数回演目は、ベタの強さ。プロレス/筋肉推しの、いい意味でバカでしょうもない演目なのだけど、誰しもが知る"あの曲"の強さを思い知る。ラスト、掛け声とともに暗転するのも、間が抜けててなんともいい。

もうひとり、るあんさんが素晴らしかった。踊りそのものが巧みなのはもちろんだが、ポーズにフォーエイトくらいたっぷり使う余裕は見もの。起動から静止までじつにじっくりと音楽を支え続ける。たぶん、ストリップではじめて自然な手拍子の発生を聞いたかもしれない。
OPもBPMの速い曲で、かなりゆったり間を使っていた。チップをくれた観客に対するリアクションもひとつひとつ丁寧でおもしろい。


さて、宇佐美さん。
名演と聞いていた「Bubble」は、初回ぜんぜん入ってこなくて、軽く落ち込む。いつも通り振付の妙は感じられるのに、さっぱりチューニングを合わせられなかった。
3回目は身体がほぐれたのもあるのか、一転してグイグイ入ってくる。手数の多さがひとつひとつ着実にグルーヴの形成に寄与していく。立ってノりながら観るのに切り替えたのも手伝ったかもしれない。思わずチップを差し出す。

周年作。のっけからウエディングドレス姿で白いブーケを持った出立ち。選曲から明らかだけど、どう考えてもその晴れやかさは転倒することが目に見えている。その祝賀の表象として「結婚」が選ばれるとき、そんなものをストレートに肯定する作家ではないという確信がある。では、どう転ばせるのか。

結論からいえば、このめでたい周年作は、ベッドでのおよそ8分にわたる、ガチンコの「オナベ」で締め括られる。「オナベ」とは言うまでもなく自慰行為を模した振付である。それは多く(おそらくは)男性を想起するドラマの中で官能的に演じられる。行為の直接性もあいまって、ストリップのなかでも際立って"風俗"的な側面を担っているだろう。

自分はこの「オナベ」について、初見以降は別に興味を引くことがなかったし、それを形式的に演じることに、いくらか冷めた目もあった。けれども、この周年作では、その尺の長さ、迫真性、身振りのリアリティ、しかし踊りであることを忘れない様式化のバランスで、異様な、異様にも程がある緊張感を持続させる。ストリップが風営法以降に芸の洗練に向かい、結果的には部分的な無毒化を受け入れたことで生きながらえたとするなら、ほとんどそうした歴史をひっくり返すほどに猥褻で、他人の性行為を眼前にすることの恐ろしさすら感じてしまう。

また、選曲された歌詞との対照によるなら、スタートに示された、ある2人の関係を法的に保証する「結婚」という制度に潜むロマンティックラヴイデオロギーを叩き落とすようですらある。歌詞の中で成就しているはずの関係の祝言はセックスでなく、オナニーによる、ひとりだけの快楽の表現になり、ラヴソングはどこか上滑っていく。行為が続く中、トラックのストリングスが甘く皮肉っぽく響き続ける。

同時にこの「私とあなた」を歌う歌詞は「ファンとパフォーマー」の関係になぞらえて読むこともできる。友人でも恋人でもないけれど、私とあなたが、何かの偶然で代え難い関係を紡ぐことの歌として聞こえてくるとき、目の前ではその偶然を最上のオカズとして舞台上で快楽を貪るような、他ならない唯一のあなたの姿と、ただ呆然と見守るしかない無数の私(たち)とが存在する。あらためて思い出しておくなら、この演目がなされているのは、多くファンが集う「宇佐美なつ デビュー2周年記念興行」である。
それをどう見ればいいだろうか。さわることも声をかけることもできず、ただただ見守るしかないでいる私(たち)。ほとんど性器そのもののようなピンクの照明に照らされる身体は、露悪と悲痛のギリギリで、衆人環視のなかでどこまでもひとり孤独を勝ち取ろうとするようにして厳しく悶え続ける。あるいは、尋常な愛し方の加減が分からない、ひとりの人間が剥き出しに晒されている。

周年の楽天的なめでたさは退いて、ほとんどアンチ・周年作になっているこの演目に賭けられたものの重さに反して、ポラになると、手がパンパンになるから腱鞘炎になるかも〜!と明るく話してくれるので(本当に体力的にもたいへんそうなのでお大事に...)気が紛れるが、帰り道に最後まで残っていた友人と「疲れた」「削られる」と連発してしまう。しかし、ふたりともまた観に行くことは決まっているのだった。

 

7月13日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-2)
箱館エリィ(1-2) 
るあん(1-2) 
星野結子(1-2) 
宇佐美なつ(1-2)

 

ふと、宇佐美さんを見るとき誰かと一緒のことが多くて、あまりひとりで見れていないなと気づき、じゃあ今日行くかと決めた。突発行動しかしていない。
場内さすがのゆったりした塩梅で、センター三列目に構える。映画や演劇ではまず避ける位置だけど、平面も奥行きも取れるので、案外いい。

 

箱館さんの奇数回演目はあいかわらず変。楽しい。
このとき、客席にいた男性が理想的なウケ方をしていて、ついそちらを何度も見てしまった。笑い顔がじつにチャーミングで、それと舞台を交互に見ているうち、自分が今舞台に立ってるような錯覚に陥る。あんなお客さんがいたら、絶対ノってしまう。

 

宇佐美さん。
「Bubble」バカ最高。体に入りまくる。ダンスという、音楽を介した身体間の同期は、振付による意想外な音楽解釈=部分的非同期が生じることで、埋めがたい他者性があらわになる。このズレ、あるいは剥離こそが、より強い官能。
振付の押韻的な形態・フレーズの反復がM1,M2を繋いで、深く、そして太いグルーヴを練り上げていく。終わったら即、もう一度観たくなる。無理ですか。

周年作。ラストに気を取られていた一昨日とちがって、M2,M3の良さをしみじみ感じる。それにしても、宇佐美さんの選曲における歌詞の比重は相当。踊りを見て、メロディやリズムも体感しながら、同時に歌詞の意味も取ろうとするチャンネルが同時並行で動いてしまうので、一回では見切れる感じがしない。から、こうして来てしまう。言い訳か、いや、そんなことは...

 

場内、ゆったりながらカップルも二組いて女性も観ていたのだけど、ラストのオナベのハードさを見守る姿を見ていると、必ずしもスッとは受け取れない表現へ立ち会ってること自体への感動が起きてしまう。しかしそれも同時並行的なことだった。宇佐美さんのパフォーマンス中の表情を観ていると、なにか強い感情移入が起きて、ものすごく引っ張られてしまい、涙が出てしまう。とはいえこのくらいなら、と思っていたのだけど、ラストの立ち姿があまりに美しくて、堪えきれないものがせり上がってしまう。それでも抑えたほうだと思う。皆泣いてなさそうなので、怖がらせてもなんですし...(昔、あるダンスの公演で、終演の暗転後にいきなり大声で嗚咽しだしたお客さんがいてびっくりしたことがあった。私も変わらない...)
こうしたディティールがなぜそんなにも刺してくるのか、ということは必ずしも説明可能ではないのだけど、片手に持たれたヨレたパンツが絶妙の鍵でもあって、あれが捨てられてるのと、ちゃんと持たれているのとでは、まったく違う出来事なのではないかと感じた。

演目がもつ強さ、パフォーマンスの強さはもちろん揺るぎないものだと思いつつ、宇佐美さんに関してはちょっと強く肩入れして観てしまっているから、持っていかれがちなのかもしれない。


ポラのとき(不明に泣いているのでバタバタさせてしまった)、他の人の感想を訊いてみたらば、わりと率直に興奮したという人たちもいるらしく、なるほどなあと思った。

自分はぜんぜんエロに対して感度が違うというか低いというか、それがふつうに興奮したりそそられるものだったりする可能性を、ほとんど考えられていない。そういう趣味がなさすぎるので不適当なのかもしれないけれど、オナベ中は「寝取られ」のような、そこにいる(肉体がある)のに、そこにいない(心がここにない)感じというか、ややネガティブな分離感を感じたりはする(からこそ、前回のような印象に繋がってる)。
当然、「ストリップはエロでなく芸術」なんて思うはずもないけど、ストリップからエロを感じる具体性はすごーく低い。Aセクシャルだとか、そういうことでもない。

あるいは、ダンスそのものや劇的構造から、強い情動なり興奮を引っ張ってこれる、ということを性的な体験のバリエーションとして理解したほうがいいのかもしれない。以前もツイートしたことがあるが、音楽を聴くということの官能は、ストリップを見ることで、もともとがセクシャルなものだと断言されるような感覚になるし、自分は自分で官能を非性器的にガンガン感じまくってる、ということなのだろう、か?

このやり取りで、「そういう感想(自分のような込み入った感想と率直な興奮の報告が同列に)もあるのがストリップのいいところだと思う」と宇佐美さんは言ったけれど、ほんとうにそのとおりだと思う。

 

7月16日(金)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-2)
箱館エリィ(1-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

朝からうきうきで道劇へ。3回目ともなれば飽きてもよさそうだけど、今日は武藤さんに加え『イルミナ』編集のうさぎいぬさんもいらっしゃるとのことで、宇佐美さんも含め自分を「ストリップに叩き落とした」原因の3名が一堂に会することで、ことに楽しみだった。
前半は中央3列目下手寄りから、後半空いたところで更に下手奥へ移動。
こうやって同じ週に通い続けることで、やはりいろいろなことが見えてくる。演目のみならず、それぞれのコンディションや、客席の空気によって変わるライブ感、また自分自身の受け取りの変化等々。いまはコロナ関係なしに旅を休んでいる、どくんご以来の感覚。

変とかおもしろいと言い続けてる箱館エリィさん「炎のファイター」は、いよいよキレも増してきている。
これは演目のおもしろさばかりでなく、箱館さんの裸のよさが際立ってもいる。実際に筋肉質であるというかっこうよさばかりでなく、じつに堂々とした裸で、ユーモアを支えきれる強い裸という印象。あの誰もが知る有名曲でポーズのLを作るとき、ほんとうに爽快で、同時に笑えてしまう。

宇佐美さんに関しては、もういちいち書くことがないのでは、ということはまったくなくて、毎回何かしら発見がある。
そもそも「Bubble」なんて、何回観たって飽きるはずがないすっ飛ばし方。お手製のプレイリストを聴き込んで(訊けば教えていただけるのだけど、自分で探す労くらい取らないと、というへんな気持ちが芽生えはじめた)、どの音に何の動きが当てられているのかを確かめるように見る。そんなふうにしたからといって、観察的に身体が引っ込んでしまうわけではなく、ぐいぐい入り込んでしまう。"振りコピ"をしたくなる気持ちになる。
宇佐美さんの選曲は、自分の趣味とまったく違っていて、その曲を聴いても、いっこうに動きが立ち上がってこない種類の曲ばかりといってもいい。だからかえって、思いもよらない気づきが与えられるし、宇佐美さんに見えている動きの線が、曲を介してこちらにも理解できるようになる。また、繊細に音を拾うだけでなく、無理に拾いきらず、ある程度は手数で間を埋めてしまう押し引きがやはり巧み。初見のときにも書いたけど、宇佐美さんのダンスは超絶スキルのゲーマーのプレイを見てるような気分にもなる。コース取りが的確かつ大胆で、それを見てるだけで、とにかく気持ちよくなれる。

周年作は、見るたび前半のよさがしみじみと深まっていく。とくに4回目は踊りの力加減が心地よく、小さい音がはっとするほど鮮やかに耳に入ってくる。その積み重ねだけで、涙が出てしまう。
ベッドは、かなり見慣れてきて、その振付としての再現性の高さに驚いていたりする。だからといって、演技っぽいとか嘘くさいということでもないし、リアリティを押し付けられている感じもない。

大前提として、宇佐美さんの踊りが好きだから何回も観に行っているわけだけど、必ずしもその「好き」の同質を反復したいわけではなく、どちらかというと自分の体を使って人体実験にかけているニュアンスのほうが強い。
たとえば周年作も、初見では手に力が入っていたのがわかったし、2回目ではより強く全身凝ってしまうほど力み、1日空けての3回目は、慣れや環境も手伝って逆にリラックスしたために"入りまくって"泣いてしまったりする。それを見ることによる身体の反応は毎回異なっているし、この異なりを探しに行っている。
これは単なる観客のコンディションの問題としてだけ済ませられることではなく、どうやっても見通すことができない大きな作品に対して、その都度ちょっとずつ角度を変えて接し直すような、地味な作業を試しているということ。

宇佐美さんの踊りを見るとき、最近はより表情にフォーカスしていることに気づく。基本的にそれすらも振付の一部である宇佐美さんのくるくる変わる表情がオナベに捧げられるとき、固く閉じた眼と半ばに開く口をずっと維持し続ける。長いつけまつ毛が鋭く宙に立つ。
その顔からエロさより悲しげなものを見てしまうのはこちらの投影だけなのかなんなのか、5回観ても全然分からない。投影だとして、どうして悲しげなものを見てしまう自分がいるのか、分からない。そして、全然分からない気持ちを維持し続けることでしか、演目との距離は測れない。
しかし、どうでもいいことだけど、独りよがりな行為を指して「あれはオナニーだ」と言うのが、品がなくて昔からとても嫌いだったのだけど、こういうパフォーマンスを観てしまうと、品がどうこうすらぶっ飛ばして、そもそもそんな事を言うやつは、オナニーに対して本気の人間を観たことがないだけに過ぎない、と胸を張って言えるようになる。



慣れてきたとはいえ、パフォーマンスが終わって暗転から明転してもスッと現実の時間に戻れないでいる。この演目に関しては「観ている」というか「立ち会っている」気持ちにさせられるし、パフォーマンスとしてあまりにもまっとうすぎて、ふだんの曖昧で雑な自分を立て直すのに時間がかかる。
そんな気持ちになっているところに、外を歩こうものなら一撃で逮捕されそうな衣装でカラッと舞台に戻ってくる宇佐美さんを見ると「何なんだよ!」と理不尽な思いが湧いたりする。

 

7月17日(土) [横浜ロック座]

mico(1)
安田志穂(1,3)
友坂麗(1-4)
中条彩乃(1-3)
早乙女らぶ(1-2)

 

友坂さんを観に行く。梅雨明けの空が青々として、好きな野毛周辺の雰囲気もにわかに華やいでみえる。そういえば横浜ロック座の姿は記憶にある。
入ればかなり手狭な箱。バーに肘をついて観劇。

友坂さんは一発目から新作。LEDロープや電飾の付いた傘、ブラックライトで光る下着などを取り入れた前半で視覚的に攻めつつ、盆に乗ればいつもの、しかしいつみてもその都度に身体を捉えて離さないとてつもない踊り。指が鍵で、強烈なフォーカスが当てられたと思うとすでに意識が指先のゆらぎに連動して、身体もつられて動いてしまう。かなりわかりやすく「アゲる」曲にもかかわらず、ひたすら粘るように、溶け出すように立位から臥位へと遷移していく。魔術のような踊りが続くと、曲のサビが近づき、強すぎるくらいの"来る!"という先触れが起きると、あのためらいない振り切りで、ポーズを切る。信じられない、と毎回思う。
残り少ない装具をひとつひとつ外していくポーズ+ティーズのシークエンスでは、テンションのかかった身体と、力を失って脱落していくような下着類がコントラストを成して、異常な感動を催させる。最後、チョーカーを外して口に咥えて、片膝付きにあの視線を客席に向ける。ただそれだけ、それだけとしかいいようのないそれだけが、観る者の身体を砕いてしまう。
友坂さんの踊りを見ると、毎回信じられない、信じられないとパニックになってしまう。

2回目は「GTR」。この回はかなりキャラの立ったお客さんが目立っていて、かぶりの常連たちもそれに連動して、笑い多く和やか。友坂さんもだいぶつられて笑ってしまう、かなりラフな感触。それでも、あの指揮棒に早く差されたい、という気持ちになるラストの素晴らしさは当然あった。

この日、自分が最も信頼しているパフォーマーが観に来ていた。
初見からずっと友坂さんを見せたかっただけでなく、特に「GTR」が見せたかった演目なので、絶好のタイミング。袖から脚を突き出すオープニングで、「(見せたかったのは)これです」と小声で伝えると、「もうすでに面白そう」とのレスポンス。さすが!
ストリップ観劇経験もあり、すぐポラに並んでいただけでなく、周年作「弦月」も素敵すぎる、と漏らしていて、バッチリ届いたようす。新作だけ都合で観られなかったけれど、9月以降に見てもらえるのではないかと思う。

 

その他の方では、中条彩乃さんが印象的だった。踊りそのものもさることながら、ポラのときの明るさは、誰もが心をひらいてしまうようなポジティブさがあった。OPもポーズ込みで手数多く踊ってくれるし、裸から私服を着ていく「逆ストリップ」も、観客とのコミニュケーションが豊かで、学ぶことが多い踊り子さんだった。

 

帰る前、タイミングが合えば行ってみて、と声をかけていた友人が初ストで道劇に行き、とくに宇佐美さんが良かったという連絡が入る。これはうれしい...

 

7月18日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2,3)
箱館エリィ(2,3)
るあん(1-4)
星野結子(1-3)
宇佐美なつ(1-4)

 

友人たちを誘って。3回目前後あたりで3人来てくれる。うち1名は昨日のパフォーマー。どうせなら宇佐美さんも観たい、と言ってくれたので。更に1名は、昨日連絡をくれた友人。周年作は観られなかったというので、わざわざ。

 

この日はもともと、別な友人が来てくれることになり、それに合わせてダメ押しのもう一回...という観劇だったが、その友人は体調不良で大事をとってキャンセル、からの3名召喚という流れ。アテンドがメインといえばそうだけど、そろそろこちらも再見が怖くなってくるタイミング。
日参するのが目的ではないし、そうならないように通っているので、演目を見て何も感じられなくなったら本末転倒である。自分より通っている方はたくさんおられるとはいえ、そんなに何回も何回も観る人間を目指して演目を考えるわけではないだろうし、そんなことで慣れから退屈を感じたら、本当に最低。

が、結果的には杞憂であって、ちゃんと毎回面白いし、それだけじゃない新しい感覚が生じもする。
周年作は、前回も書いたけどもベッドでの振付の精度の高さに驚かされるし、それだけでなく、行為の生っぽさの違いが見えてくる。振付が見えてくるようになると、再現に収まらないライブ感にえぐられてしまう。しかも、行為の性質上なのか、ちょっとした違いが、予想外に大きな振り幅として感覚される。「胸が締め付けられる」というのはこれで、何回観ても、ほとんど毎回ちゃんと疲れる。
こんな強度のある演目なので、てっきりもう舞台にかからないと思いこんでいたら、今後のコースでも上演されるらしい。新参者がこう思うのは不遜にすぎるけど、これがあちこちで観られることになれば、不可避的にストリップの流れのなにかが変わっていくのかもしれない、というふうに思ってしまった。

 

この日印象的だったのは、初回の「Bubble」がなんともいえず好みのパフォーマンスだったこと。このくらいの湯加減の「Bubble」もそれはそれでいいなあと。ギア入りまくりの、燃やし尽くすような演技は絶対得難いし、それがすばらしいのは当たり前だけど、抜け感のある演技もまた魅力があるし、実際M1-2では何だかやたらにかわいくみえてしまう。メイクの変化があったり(そんなことに気づく自分に引いてしまう...)、そういう表面的な違いも影響はあるかもしれない。...たぶん、普段より若干おとなしめのメイクに変化してたと思うのだけど、となると、自分の内なる保守的な好みが観劇に影響していることになり、そのダサさのあまり消え入りたくなってしまう。
※ご本人から「どちらかといえば強めのメイクでした」と訂正入りました!ダサくなくてよかったですね! 

 

ストリップの感想では、芸の性質に従って、見えたものとか感じたものを極力隠さず伝える方針にしているから、かわいくみえたら「かわいかったですね」と伝えるのだけど、こちらが芸にしか関心のない機械かなんかと思われてるらしく、ひどく驚かれたあげく「かわいいとか思う感性あるの?」などと失礼極まりない応対をされる。ありますわ!
いくらなんでもおかしくて、1日通してことあるごとに思い出して笑ってしまった。

 

7月20日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2-4)
箱館エリィ(2-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

楽日。
実は前日、もういっそ7中は観まくってやろうかなとニューアートに行くつもりで地下鉄に乗りこんだところで、体調や生活の崩れを予感的に察して「あ、やめたほうがいいな」という判断が働いて、帰ってきてしまった。突発参加もあれば突発中止もある。
なんで、楽日をどうするかは翌日の感じ次第だったわけだが、行ってもよさそうな雰囲気があり、出かける。頭から見通すつもりでいたが、あれこれしていて遅れてしまう。

センター三列目中央に座る。
偶数回演目だったるあんさんの「海月」が1回目から行われる。これ、とてもシャープな演目で完成度の高いことに初見から好感があったが、この回みょうにフィットして、ダンスもひときわ素晴らしく感じられた。
客観的な判断ではないが、自分にとって、この演目はここまで感じ入る可能性がある演目だったのだなということが分かる。
OPで、あの指をくるくるして息を吹きかける仕草を受ける。やられる側になると結構間が長くて、照れずに耐えることが難しい。

1回目の「Bubble」。今週に限ったことではないが、再見に際しては、ギリギリまで見方を決めておくようなことはせず、明転して動きだしてから、こちらの構えを調整することにしていた。
今回は、いつもノってしまいながら観てるのをとどめて、わざと身体を動かさないようにして、背もたれに肘をつきながら眺めていた。が、とにかく身体がむずむずしてくる...ノることで発散される感覚が、出口を失って体内を迷走して、あちこちをつつきだすような事が起きる。
「Bubble」は、M1のBPMが速く、振りの手数も多いが、表情の変化も秒単位で起きるから、その表情の変化を律儀に追うと同期が追いつかず、自分の現在地を見失いかける。顔はやはり、表情の意味を追いかける作業が加わるからだろうか。べつにそれぞれの表情に感情表現としての意味があるわけではなく、表情のハイスピードな変化それ自体のスラップスティックな効果があるだけ、ではあるのだが。

宇佐美さんを見るまで、表情はそのとき自ずから発生するものがあればよい、と思っていた(アクターズ・スタジオの「メソッド」演技への反発)が、現実に自分が感じることは、そういう理念的な前提を裏切っていく(むしろハリウッド黄金期の俳優たちの、ただ単にそうでしかない断言的な演技の再来)。またK-POPでは「表情管理」という、いささか下品な語彙があるが、そんなことは宇佐美なつをまず見てから言えと言いたくなる。そしてそれは、表情による内面の記号的な処理ではなく、紋切り型の表情にも関わらず、音楽や振付、また裸体との関係によって、多義的に開かれて機能するありようを見せてくれる。

ところでこれらの感想は、本人がどこまで自覚的かということとはまったく無関係で、だから、自分が「分かっている」ということを意味していない。表情の変化は素朴に「かわいい」ものでもあるし(実際、おとといはそう書いた)、あくまでも自分の中にある「分からなさ」に向けて、溝に橋渡すように、バカみたいに文字を費やしている、ということ。

3回目の「Bubble」は途中で、ああこれがしばらく見納めなんだと気づいてから、シンプルに堪能。とにかくクソたまらん、クソ最高と思う。

 

周年作は、1人で見るとリラックスしてるからか、また泣いてしまう。「何回目やねん!」と言われるが、何回見たって美しいものは美しいし、それだけの反応を保ってられるうちは、何度でも泣いてやるからな、と訳の分からない挑戦心を抱く。

とくに隠したわけではなく、明転してしまうと別の感情に切り替わってしまうから言いそびれてしまったことだけど、オナベ中は、心からのガチ恋みたいな感じになってしまう。もしかしたら、過去の失恋を思い出してる、という話を聞いたことで、自分の経験もどこかで照らし合わせてしまってるからかもしれない。あるいは、そもそも感じている宇佐美さんへの好感が、マックスに引き上げられるからなのかもしれない。だがなぜ人の性行為(の演技)を見るとそんなに強い感情が湧き出てくるのかは分からないままで、いっぽうで「性行為は美しい」という短絡はぜったいに違っていると感じる。演目は単純な美化にとどまっていない。
そして、ストリングスがガーンと鳴り響いてくる音楽的効果のベタっぷりに、ぜんぜん嫌な感じがしないのが、ずっと不思議でもある。あんなの、もし映画でやられたら殺意すら覚えるはずなのに。

一点だけ、ラストに後ろを向いて歩み去るところだけ、ベッドでの振付とライブ感がせめぎ合う緊張感から外れて、一気にふつうの「振付」に振り切ってしまっているように感じつつあるのは、演目を一貫した物語として読む気が無いせいで何かを見落としてるからなのか、それとも観すぎたせいの無いものねだりなのか、どうなんでしょうか?(エアリプをするな) 
それは余韻としての時間でもあるはずだけど、余韻を演者が用意してやらなくても、各々が暗転のなかで勝手に感じ入るような突き放しを、勝手にこの演目に求めてしまっている、というのは大いにあるだろう。
 

・・・


ところで、周年作を観た影響もたぶん手伝って、「ストリップとエロ」というより「ストリップとセックス」まで進んで考えたほうがいいんだろうなと思いはじめている。エロ(ティシズム)という、渇きや欲望の生起でなく、セックス=性/性行為という、所与のどうしようもなさのこと、他者との協同のことを、衒いなくストレートに与えられるので、アイドルでは不十分にしか向き合えなかったテーマに、真っ向から考えられる機会をもらっている気がする。

 

もっとミクロには、この7中は、ふだんなら自分が仕事現場で繰り返していたはずの、他人の同じ演技を何度も観る、という日常の回復にも思えた。誰かがそこで、日々の繰り返してとしてパフォーマンスしていることを、コロナ以降にはじめてちゃんと受け止め直すことができた。だからこれは宇佐美さんだけでなく、他の踊り子の皆さんにも感謝しています。そして演技だけでなく、お客さんとの関係も含めた、いろいろなものが、劇場の中にある。これもまた、自分が取り戻したいと思うことの一つに間違いない。

そういうことが感じられる、道劇という場所自体もどんどん好きになってきたのだけど、でもまあ、ミカドでもそう思ったし、宇佐美さんを観た場所が好きになっていっているだけかもしれない。
じゃあ蕨もそうなるのか?

 

7月24日(土)[渋谷道頓堀劇場]

KAERA (2)
坂上友香 (2)
有沢りさ(2)
虹歩 (2)
愛野いづみ(2)

 

アイドル現場の帰り、回数券割引につられて。
こういう勘は何に根拠があるのか、入場した途端の空気感に、うーむこれは...と思うと概ねそのとおり。勉強になりました。

 

有沢さんの表情がよい。
顔というのはつくづく不思議で、特に何を交わしたわけでもなく信頼に値する顔つきというのがある。逆にいうと顔つきに不信感があると、芸だけでない部分もたいていは残念なもので、つらい。

 

宇佐美さんも、初めて見た瞬間から、「あ、これは」と信頼できる顔つきだった。当然友坂さんにしても、あの目であるから、ぜんぜん段階の違う人なんだということはパッとわかる。
そして、それは当たり前の前提であって、それ自体を褒めても仕方ないことだけど、おふたりともどれだけストリップのことを考え、どれだけ工夫と鍛錬を重ねたのだろうか、ということに思いを巡らせて耐えるような時間があった。

 

わ、蕨...