日記 20210725

ストリップのスケジュールと制作のスケジュールを照合。朝から焦る。

冷房がないとやってられないが、冷房に当たり続けるのもやってられない体調になる。スロースタートで読書をはじめる。


一章でパトリス・ルコントの映画に即して「話すこと」が取り上げられていたベルサーニの本は、二章に差し掛かると男性同性愛者同士のベア・バッキング(避妊具なしの肛門性交)の話題に移る。こちらの話題はどうしても当事者性がないので、「話すこと」のほうに頭が引っ張られる。


おそらく自分の一番強い欲求のひとつが他人と話すこと、それも一対一で話すことである。人と会って話すという行為がとにかく好きだ。話すことができない相手とは人間関係を構築できないし、話す声色やリズム感が合わないと、ひどく疲れてしまう。


会って話して、別れれば何を話したのかまったく覚えていない、ということがしばしば、どころかほとんど常にある。それは読書もまた変わらない。本棚に詰まった本のそれぞれに何が書かれていたかどうかなんて、ほとんど覚えていない。それでも読むし、人とも話す。


ベルサーニの本に書かれている「話すこと」は別にこういう話ではないのだが。


ところでこの日記は、オフラインで韓国語で数ヶ月継続していたものが、オンラインで日本語に変化したものでもある。
もちろんこんなに長い文の韓国語がすらすら書けるわけもないから、小学生の日記程度のものを継続していた。さっさと韓国語に戻るべきなのだが、すでに書いたように、ちょっと今は戻りがたい。


劇場に通ってすばらしい踊りを見て、なごやかな場内の空気を味わい、外に出てひとり、あるいは誰かと帰り路につくとき、まあこのまんまなんかの間違いで死んでもそれほど後悔はないなと考えている。
同時に、自分にできることがまだありそうで、どうやら楽しむだけでは足りなさそうだ、と思う部分が生を支えている。
言っておくけど、べつに抑鬱的な気分になっているわけではない。


文章を書くだとか、パフォーマンスを制作するだとか、もしくは『勉強の哲学』にならえば何かを学ぶこと(制作も同じことだ)は、その質にもよるが、基本的には自己破壊的な側面がある。常にちょっとずつ死んで、ちょっとずつ生まれ直すプロセスの繰り返し。


ストリップ文化との出会いは、その破壊的なプロセスを一気に進めるものでもあった。ストリップは面白いだけでなく、明確に体に負荷をかけているし、自ら強く負荷をかけに行ってもいる。
おそらく1~2年かけて、ずいぶん変わっていけると踏んでいる。変わりたい、ということでなく、すでに変わり始めている自分に適した輪郭を得る、という感じだ。それには外国語もまた役立つはず、なのだが。


頭の中の出来事を書く日は、ろくでもない。