ストリップのきろく 2021年8月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

文字数が膨れすぎているので別のかたちも勘案中...

 

 

 

8月5日(木) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (1)
Kuu (1)
KAERA(1-2)
瀬能優 (1-3)
宇佐美なつ (1-3)

 

聞きしに勝る狭さ。狭いっていうか、ヘンな雰囲気。
雑居ビルの階段を登り、受付を越してまた階段。右手の入口のドア(木の、押しても引いても開くようなカウンターとかについてそうな構造に近いやつ)を開けると、左手に花道と、その先端に長方形の盆が目に入る。驚くのは、それを囲む15席前後の客席とほとんど同じ高さということ。本舞台は三方鏡。広さは一間半程度しかないのではないか。出ハケは中央奥。黒い幕一枚で仕切られている。天井も低く、背の高い踊り子さんだったらヒールは履けないだろう、というほど。
それにしても、人と人がこんなに近づきながら「触れない」ことを前提にしている環境が他に思いつかない。

このご時世なもんで、今日は出入りを多くする。セルフ換気。

大ベテランにお見受けする夕樹さんの踊りが、年月の積み重ねによる経済化がみえて、面白い。ゆるいわけでもなく、最小限の手数と、何より顔さえ作れていれば常に決まる、というワザ。日本人なら誰しもが知ってるだろうというような大ベタな選曲も、ストリップならではの強度になる。
タッチショーもある。断るほうが恥ずかしい雰囲気。

瀬野さんの1回目のベッドが記憶に残る。花道のふちギリギリまで攻めると、むしろ客席に緊張がある。眼下に触れることのできない肉体があるという不思議さ。

宇佐美さんは「うそつき」「サマーチュール(新作)」「ユキちゃん」全部初見で至福。
「うそつき」は麦わら帽子っぽいハットにガーリーなフィッシュテールのワンピース(「サマーチュール」と混同してるかもしれない)。そこにキツネの耳と尻尾がついたキャラ。聞くのを忘れてたけど、ベルトも毛足のついたもので、尻尾はそこに装着してる感じ?
このキャラでどういうふうに展開していくのかなーと見守ってると、M3(たぶん。あやふや)の途中でハケて、何も変わらない様子で戻ってくるが、ハットを取ると、耳が消えていて、さらに尻を撫でると、尻尾もなくなってるという見せ方。これがふしぎと妙にエロ。何やっても頭いいなーと感心してしまう。
あまり選曲とチューニング合わせられずだったけど、ポーズベッドは相変わらず最高。宇佐美さんの選曲は間違いなく抜群のセンスだが、個人的な趣味とはすれ違うことが多くて、それゆえにノり損なったり、逆にその後すごく好きになったり、いろいろある。

「ユキちゃん」は実質的なデビュー作。人気もある演目で見るのが楽しみだったけど、これが作家としてのデビューって、腹据わってんな!という第一印象。2年経った蓄積もあるにせよ、脱ぎの見せ場もオナベも、元からやってたんすか?という。しかしデビューから小道具でコンドームとか使うんすかね。

曲で歌われる「ユキちゃん」を演じてるようで、何か違う誰かが「ユキちゃん」について歌って(演じて)いるようにも見える。またしかし、後半セーラー服から一転して白いドレス(下着とチョーカーは黒)で、歌われていたはずの「ユキちゃん」から離れてる時のほうが「ユキちゃん」そのもののようでもあり、アイデンティティが役柄の隙間を泳いで揺らぎ続ける。

とはいえ、要素が多くて、ストレートにピークを目指して進んでいく構成とは演技バランスがまったく違うだろうし、パフォーマンスするのは難しいだろうなとも思う。

個人的な白眉は新作の「サマーチュール」。"チュール"がM1の曲名と掛かってて、また2周年作とも選曲に繋がりがあって、遊び心。フルーツ柄の衣装はいかにも夏演目。

M3から水着姿での脱ぎがはじまるのだが、蕨仕様なのかとにかく最前の客に絡む。この視線のやり取りと焦らすような感じはむしろオーソドックスな手つきなのに、宇佐美さんが仕掛けると作品的な攻めにもみえる。
自分が見始めたタイミングが特にそうだっただけなのかもしれないが「黒煙」「Spring Vision」「Positive」「Bubble」いずれにしても、きわめて再現性・完成度が高いパッケージになっていて、あまり偶発的な要素は入る余地がなく、堅牢な構成力に唸るのみ、という感触がある。
それが、観客へ介入することで構成の枠組みがふっと緩まるようで、またその緩みにこそエロさが滲んでくる。結局のところ、エロさとは他者性の受容でもあるが、宇佐美さんが客の視線という現象を舞台上に顕在化させる(宇佐美さんが客に媚態をもって仕掛けることで、宇佐美さんを「見る」客の視線が摘出される)ことを介して、それを行っているのが新鮮。今までの演目で見る/見られるの関係は、舞台/パフォーマンスという形式の周りであくまでも抽象的に展開していたように思えるが、具体的な観客の存在にアプローチしているのは、比較的珍しい(過去に例があったか知らないので推測)はず。とはいえ、イニシアチブは常に宇佐美さんのもとに保たれているし、他者が招く偶発性でなく、偶発性が生じる予感のようなものがぴりぴりと伝わってくることに新味があったのだろう。

メロウなトラックで上の水着を外すとき、今まで見てきた宇佐美なつの中でもっともダイレクトなエロさを感じる。誘惑的な積立も相まって、かなりセクシャルな「体」という感じ。つい思い出してしまったが、あらきまいさんのOPのときみたいな感じもあった...
こういうと変だけど、何十回も見たはずの裸が、まったく真新しいものに見える。

ポーズベッドはそれまでの夏!爽やか!でも夜は少しエロ!みたいな流れをぶっちぎって、突然ドラムンベースみたいなトラック。この選曲センスが本当にすごい。
ただ、脱ぎにあった繊細なエロさに比べて、爽快なポーズの連打で押されると、ちょっとだけバランスが崩れてるようにも感じた。が、再見まで保留。相変わらず初見では細部まで取りこぼしなく見ることができないし記憶も定かでないので。

これはもし7中で連続してみてたら、宇佐美さんの印象がまた変わっていたかもしれない。3演目ともまったく違った表現の攻めがあり、作家/パフォーマーとしての幅広さを一度に見せられたことになる。他のどこの業界にこんな才能のある人がいるんだろう。
いやー、想定されてたはずの、道劇のサイズで早く見たい...

「盛れる」劇場とのことだったけど、間近で裸を見てると、(本当に今さら)こんなにきれいな体なんだなと素朴な感想が出てくる。というか、3ヶ月とはいえ通いこんで観てると、また自分の目や感覚が変わってきていることに気づく。単にかわいくみえたり、裸の美しさに見惚れたり、エロさが感じられたり、原初的な感覚に遡って開かれる。こういうことが、他のパフォーマンスやジャンルで起きたことは、あまり思いつかない。

時々もうさ、宇佐美さんだけ観てりゃいいよね...というふうになりかけるが、あまりそういうスタンスになるべきでない。好きな人やものこそ、他と対照してナンボであるから、変わらず色々な踊り子さんを観ていきたい。が、繰り返して観たくなる誘惑に抗いがたいのも事実...これは自分のクセのようなものでもあると思う。


7中あと、完全にロスに入ってしまったことを軽く話したら、それ聞きたかった!と目を輝かせて満足げにされたのが何か悔しい。

 

8月9日(月) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (-)
Kuu (3)
KAERA(3)
瀬能優 (1,3)
宇佐美なつ (1-3)

 

今のところ蕨でしか出してない"ユーレイ"の演目があるとのことで。
前日にご本人にお伺いを立てたら、音響が思わしくなくて出す確率は低いと。そうかー、またの機会に楽しみにしておくか...

と、行くつもりはなかったはずの月曜。ウーンと迷って気づけば電車に。しかも間に合うかすごいギリギリ。。必死こいて乗り換えて5分縮めたのに、3分電車が遅延。いやしかし押し進行だろう...と楽観視したら、そのとおりであった。
「ユキちゃん」も「うそつき」も2回くらい観ておきたかったのと、道劇前に蕨サイズの「サマーチュール」ももう一度、あとなんだかんだ休日の蕨のようすを体験したく。評判通り濃い感じでいい塩梅。


1回目は「ユキちゃん」。衣装替えして以降の格好良さに打たれる。下着の脱衣も、立て膝の脚を押しやっての開脚も、そこからのポーズのシークエンスも、いちいちがカッコいい。なんなんだろうかこの人は、と、飽きずに思う。
この「カッコよさ」は演目に起因するものでもあり、自分が宇佐美さんというパフォーマーを統合的に処理して感じているものでもある。だから、観客全員がある程度均一に感じ得るはずの性質一般を越えて、宇佐美なつという固有性にコミットしている「私」が、その他さまざまな条件の絡みあった只中で光明のように感じ取っている「カッコよさ」であり、それはおそらく分配不能な事柄である。だからこそ、この「私」にとってなおさら重要な感覚なのだとも言える。


2回目「サマーチュール」。前回感じたM4でのポーズの違和感は払拭。爽快さの合間で、サスペンドされていた誘惑的なトーンを、ポーズとポーズの合間を泳ぐ(「泳ぐ」という比喩が前回に続いて出てきている)ように動かしている。
ポーズ中に衣類が完全に離脱してるのはもしかして珍しい?そこも、この演目、ひいては宇佐美さんのスタイルの反映であるかに思える。焦らしと開放が背中合わせで、互いを行き来するような、いつもの感触。


上の水着の脱衣、ひもをすーっと上に伸ばしていくところに強く宿る官能。ぞわぞわする。


3回目、瀬能さん。M1で、夕樹さんとコラボが。夕樹さんが完全に踊りこなしていてすごい。そしてこういう遊びは楽しいし、すでに懐かしくもある。フェス出たいですね...


3回目は"ユーレイのやつ"!
「うそつき」を観る気で待っていたら、本舞台の奥の幕からニュッと腕だけが現れる。三方の鏡に腕が増殖する。定番のヒュードロドロというSEからM1へ。全身を現すと衣装は白いワンピース。太めの黒いベルトがアクセント。暗色の照明が幽明を境にして踊る姿をおぼろにしかけるが、衣装と肌の白さが対比的に浮かんで美しい。
ベットになると、ここにいない誰か(我々には幽霊だけが可視化されているという反転、我々もまた半ば死んでいるかのよう)にむけて腕を伸ばして背中から抱こうとする振付がある。冒頭で提出された腕の主題がここでリフレインしつつも「出現」する腕が「消失」を表現する腕へと変化し、意味を揺らしてくる。見えない体を抱こうとする腕は対象をすり抜けて自分自身に纏つく。伸ばす腕は何かを求めつつ、一向に掴めるものがない。
宇佐美さんの「幽霊」はかように、ストリップにおける観客と演者の非-接触の渇きをパラフレーズする存在でもある。

この演目、あくまでも仮出しでM1以外の振付はほとんど即興的なものとのこと。だから、こうした読みは作家の作為を解すものではなく、あくまでも作家の直観を肯定的に前提したうえで、ひとつの解釈を作っているにすぎない。それは恣意的にならざるを得ない部分があるにせよ、即興=作為未然のもの、とだけ措定してしまうと、演目は空中分解してほとんど無意味なものになってしまう。仮止めされた演目が上演可能なように、それに対してさらに仮設的な解釈を与えることは、可能である。


最後、音響トラブルで音源を停止して、生歌で踊り切ることに。歌もうまい。余談だけど、宇佐美さんは声がいい。


観られないつもりのものが観れた嬉しさに、ついヘラヘラして俺のためにありがとうございますと軽口を叩いたら「全然そういうんじゃないんで」と窘められる。

 

8月11日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(1)

ささきさち(1)

石原さゆみ(1-3)

宇佐美なつ(1-4)

 


大きな予定が飛んで、また別件で午前中に渋谷にいる。これは行けてしまうのでは...と朝から考えて、行く。2日ぶり...

場内想像を遥かに超えた混雑ぶり。ゆったり観れる目算が崩壊して引いてしまう。2回で帰ろう、とこの時は思っていた。結果、ラストまでいてしまう。


6月以来のささきさちさん。前回もかなり印象的なパフォーマンスで、再見を楽しみにしていた。
ラメの入ったブルーが爽やかで夏らしい大きなドレスからはじまり、下に纏っていた光沢のある白い生地の布が、脱衣ごとに形を変えてシーンを作っていく、凝ったアイディア。
ラストのポーズベットで選曲のギアがガツッと変わり、前回の印象と違わぬエモーショナルな演技。この情動の出方がとても「アイドル」っぽい。


自分のルール上、一定の面白さを感じたらポラに行くようにしてるのだが、列形成が止まらず、ささき登山の様相に思わずまたの機会にと失礼してしまう。すごい人気。


石原さゆみさん。
1回目は男物のジャケットだけを羽織ってパフォーマンスするベットのアイディアになるほど、となる。でも、もっとエロティックになるかなと期待(?)するが、穏当に終わる。しかし2回目3回目と大掛かりな小道具が増え、かなり趣向を凝らした演目を作る作家性のある方と理解。踊りそのものも、とても良い。
とりわけ、2回目の映画ネタは冒頭から幕の開きでスタンダードサイズのスクリーンを模する凝りよう。ポーズはそれまでの演技との連続性をいったんカットした上で、カーテンコール的な高揚感のもと演じられる。
3回目はさらにすっとんだ「カレー」ネタ。真顔で大量のギャグがぶち込まれてどこまで本気なのか分からないほど。中盤以降は袖から巨大なナンが引きずり出され、盆を専有する。歌詞とも微妙にかかってる。ナンに座りながらスプーンを舐めると、スプーンがでかくなる。※こちらカン違い。照明の問題だったようストリップの奥深い世界。
おしとやかなルックスから、望月きららさん(望月さんがおしとやかでない、ということではないです。いや、どうだ?)ばりにしょうもないネタが連発するのだった。闇に光るカレー皿...


石原さんもとてつもない人気。OPで、かぶりの客の肩に足をかけて股間に引き寄せるワザに笑う。


宇佐美さん。
今回は具体的な感想を書くことがほとんどできない。

1回目の「サマーチュール」は、ステージの広さでM1からこんなに違って見えるのかと驚くけれど、何より初回からこんなにキレキレで踊る宇佐美さんを観たことがなかったかもしれない。振りのボキャブラリが大きく変化してるわけでもないのに、過去の演目と比べても、とりわけふっといグルーヴが作られる。この辺はまだまだ正気。

M2も、"花火"を客に促すくだりが、大きくとれた余白によって絶妙な画に。まだ正気、のはず。

M3、正気を失う。よく考えてみれば、今までの前後半で起きていたモードの変化が、今回は三段構え的に移り変わりが起きている。変身がいつもより一回多い。あと、蕨から衣装の脱ぎが一回増えている。
こうした変化の豊かさも、印象を深くするのに手伝っているかもしれない。
とにかく脱ぎがエロすぎる今回、ホットパンツの紐を伸ばすとき、男性器が(「を」どうこうするのでなく)そこにあるようなニュアンスを見てしまう。多重露光で重なるダブルイメージのような。

はじめて回転盆も善し悪しだなと思ったのは、世界一エロいブラの脱ぎが角度によってさっぱり見えないところ。2回とも見られなかった。すごいもったいない。見せてくれ、乳を出すところを。

この辺りでほとんどクラクラしてたけど、道劇音響であのM4からのモードチェンジを聴くと、本当にブチ切れそうなくらいアガってしまう。さまざまな感情や思いが体の底から迫り上がってきて、ポーズの素晴らしさ、体の美しさ、パフォーマーとしての芯の通り方、すべての肯定的な気持ちが渾然となって泣きそうになる。ひとつの強度が磁力を持ち、自分の何もかもを巻き込んでいく。
これも相性としかいいようがないのだけど、しかしどうしてみんなそんなに平然としてられるのか不思議な感じもする。あんなにもすごいものを見て?

どこかに寄りかからないと立てないほど溶けてしまい、同行していたスカーレットさんに何か話しかけないと、と思っても言葉が詰まって喋れなくなり、あまつさえ泣いてしまう。まさか既知の演目でこんなに食らってしまう予定はなかったし、過去トップクラスの身体反応になってしまう。

2回目、かなり見たかった香盤なのにこのあと何も見られる気がせず外に。外に出てもすぐ黙りこんでしまうし、体のあちこちがジンジンとしびれるような感じが残る。30分経ってもぼけーっとしてしまう。これ、なんだっけ...と個人史を探ると、どう考えても最上級に上手くいったセックスのあとのやつだと認めざるを得なくて、困ってしまう。


まあ、相手はプロだしと思ってその感想は伝えた。冷静に考えると、またとんでもないことを言っている。


「Positive」でも案の定堪えられず泣いたとか、「w-e(n)dding」で疲れた(ベットがいつになく生々しくて余計つかれた)とか、感想はいくらでもあるのだが、1回目の出来事が強すぎて、それさえ残しておけば自分にとっては充分。



よく現場でお見かけする方に声をかけて、ロビーであれこれ宇佐美さんの話をする。知り合いが少ないから、とても楽しい。好きな演目の話で「黒煙」が挙がる。自分が初めて観た演目なので、なぜかそれも嬉しい。いつかまた観たい。


そうして話していてなんとなく思ったけど、いや、ずっと思っていることだけど、こうして明らかに強すぎる愛着をもって、かつ平均から多く外れて感想を伝えたり書いたりしていて、負担にならないのか、それだけは気になってしまう。思いがけず誰かの強い愛着の対象になってしまうことは、必ずしもいいことではないし、いつまでもこんなテンションでいいのか...というのは考え込んでしまうことがある。


にもかかわらず、今日の一回目の感想は流されたくないなというエゴがすごく働いて、ラストのやりとりで覚えてるか訊いてみると「面倒くさいオタクが言いそうな感想でしょ、覚えてるよ」とあまりにも的の真ん中を射抜くコメントが返ってくる。面倒くさいオタク、本当にそれすぎる。あと、余計なものまで読まれていることが分かる。



ところで、宇佐美さんの表情がオーバーアクト気味では、と言及する感想をちらっとみかけた。実は、最初の頃自分も少しだけ似たようなことを感じることがあった。
宇佐美さんの表情はどれも印象強く、またそれがはっきりコントロールされて打ち出されてるのも分かるだけに、複数の演目をまたがって表れると、ある程度の均質化を免れない部分があるにはあると思う。けれども、それを否定的に乗り越えて成長することを望むのでなく、むしろその資質の批評的な展開が、本人のうちから自ずと説得的に提示されるとのだと、いつしか理解を修正していた。
たとえば「Bubble」のM1では遥かに予想を超える量のバリエーションとスピードが、ほとんど"顔芸"の域で作動しつつ、しかし下品さはどこにもない不思議なニュアンスを出すことに成功していたし、「w-e(n)dding」のベットでは圧倒的なリアリティを切実に訴えかける表情にもなっている。ある表情の表れが一義的な意味の押しつけになることは多々あるにせよ、宇佐美さんの表情がそうでしかないとは、ちょっと思えなくなった。
オーバーアクトだと思うのはわりと簡単なこと(ある種の規範を任意に適用すればよい)でもある。しかし、一見して過去の蓄積から対照して疑問に思うような表現でも、かなり可能性の余地があるのだ、と、宇佐美さんを観ていると思う。だって、あんなに退屈なはずのオナベがあんなことになるなんて、誰が想像できたというのか。

もちろん、宇佐美さんに肩入れしているから、チャリタブルに見すぎている、というところもある。けど別にどうしても擁護したいわけでもないし、疑問があれば書くし言ってるつもりでもある。まあでも基本的には、死ぬほど好きだ、と常に思っている。

 

8月13日(金)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(1,3)

悠木美雪(1,3)

ささきさち(1-3)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。


美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。
これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。


ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。
一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。
そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。
『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。


石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。
しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。


石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。


宇佐美さん。
この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。
しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。
自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。


「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。

この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...

さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。


「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。


...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...

 

8月15日(日)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(4)

悠木美雪(4)

ささきさち(1,3,4)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

雨の渋谷へ。遠征中の友人も来れるかも、なので待ち構えたが予定噛み合わず。ぜったいハマると踏んでる人なのだが...スカーレットさんも初回だけ観劇。

最初こそそれなりに混んでいたが、じょじょに人が抜け、2回目から座って観られる。しかも回を追うごとに盆へ近づく。ラストはなんだかんだ初の道劇かぶり席。下手端。


石原さゆみさん。
1回目が「盆カレー」。M4のバカさ加減に躊躇なく振り切れる胆力が芸人。カレー皿の上下にLEDライトを仕込んで光らせたうえ、スプーンで縁を叩いて手拍子を煽る、というシーンのどうしようもなさ。客はそりゃあ喜ぶ。自分はそれが近すぎて、かつ遠い、という感慨がある。あまりに同業者感。
シャレた志向性を持つことの凡庸さを思う。自分はこんなふうにベタに突っ切ることはぜったいできない。


この回、踊り子さんがお勉強にいらしていた。こういう、演者が舞台を観ている姿がとても好きなので、つい様子を伺いそうになるが、控える。


和装演目。コレに関してはすっかり好きになってしまった。選曲のほとんどにテレビやラジオを思わせるルーツがあり、「夜明け」「日本」という歌詞の主題よりその大メディアのダサさが勝ってくる。
だが、下世話に堕していかないのは、どこまでも冷めた石原さんの表情のおかげだろう。だが、ポーカーフェイスから、一拍おいてニッと微笑むのが見せ場。その呼吸には漫画やアニメでしかみたことのない非現実感がある。石原さんにはどこか現実離れした空気感が漂っている。


パーソナリティの特異さについ思いをめぐらせるが、娯楽作品としてここまでサービスでき、かつ構成や演出の端正さも備えてるという人が、そうそう思いつかない。ストリップに行くと、こういう水準のものに頻繁に何度も遭遇してしまう。


オープンショーの多幸感は今日も変わらない。ラスト回、チップをお渡しすると、例の腕を合わせる挨拶に参加する。見ているよりずっとヒットが強くて、長袖だったのに石原さんの骨がはっきり当たるのが分かるほどだった。

宇佐美さん。
1回目の「サマーチュール」。水着は3日目4回目から出された、上はM1のときのフルーツ柄で下が無地にヴィヴィッドなオレンジ色のもの。水着の形状が違うので上の脱ぎは前開きになる。いつものバージョンのほうが断然にいやらしいが、下はなんかこっちのバージョンのほうがエロい、気がする。さすがにこれは好みの問題でしかないか...
どれもこれも好きすぎて演目にランク付けすることに意味はないが、「サマーチュール」は相当好きだ。今までの演目には希薄な要素(「w-(e)ndding」は別として)に思えていた、エロの要素をはっきり感じられる演目が好きだと思うと、不思議な気もする。


「positive」は、毎回楽しそうでいい。いや、なんという自堕落な感想。。
けど、こんなに楽しそうに踊りを踊っている人を、じつはなかなか見ることができない。この演目で宇佐美さんのテンションの上下を感じたことは、たぶん一度もない。毎パフォーマンス、演目に求められているだろう踊ることの幸福感に接しているかにみえる。
ひとが嬉しそうにしているとき、思わずこちらも釣られて嬉しくなってしまうし、そこに音楽の高まりが加わることで、ほんとうに幸せでいても立ってもいられない気分になる。あんなに音楽の快楽と喜びを上手にキャッチできるダンサーは宇佐美さんをおいて他にいない。
たとえばボーカルがシンガロングするとき、相同して上に向かって伸び上がる脚があるが、一気に上げきるのでなく、客の視線を釣り針にひっかけるようにした"タメ"が確実にある。この絶妙さになんども唸ってしまう。あと泣く。


「w-(e)ndding」は、今回始めてオナベに心地いい感覚があった。といっても、なにか当事者性に巻き込まれるような切なさは絶対にありつつも、
それが緊張に向かうのでなく、不思議と湯船に使ってるような気持ちよさのまま観ることができた。これがなぜ感じられたか、なにが原因か、そういうことはたぶん突き詰めようがない。香盤の流れや客席の雰囲気、こちらのコンディション等々。合理的に言い得ない部分の出来事だが、経験の変質は間違いなく起きている。幅を知れることが大事。反復して観ることの醍醐味。


4回目の「サマーチュール」。思いがけずかぶりが空いてたので、どうせならと前に進んで一瞬後悔。これ、こんな位置で見たらヤバいのでは...
予想通り、こんなに近くで観るものではない。最前の距離では空間の余白がほぼなく、ダイレクトに体を見つめ続けることになる。舞台のフレーム感覚は完全に崩壊する。それだけでなく、この演目はバッチバチに客と視線を交わして遊ぶ演目だけに、自ずと参加意識も高まる。通常の鑑賞の姿勢が全然役に立たない、まったく違った体験。素朴にドキドキして、単純に照れ続けてしまう。

「サマーチュール」に関して、エロいエロいと言い続けてるけれど、既視感のあるエロさでもありつつ、やはり優れたストリップがそうであるように、未知のエロさを拓いている演目でもある。
まずもって、あんな水着の脱ぎ方ができる人間は世界にそうおらず、そもそもごく基本的なこととして、観られる裸を構築している段階で、それは現実の性関係の場とまた違った水準にある裸である。
が、そういうことをついすっとばして忘れかけてしまうのがパフォーマンスの強度。それでも食い下がるが、これは現実の経験に近しいところへ落とし込まれるのでない。自分の照れや緊張は、かつて経験したことのようで、やっぱりどっかで質を違えてる、と思う。やはり、互い(客席/舞台)で、理想のエロさを追い求める感じがある。
たとえば一方的な媚態の受け取りとして実際の強い性欲が喚起されるなら(もちろんそうした性欲は否定されていないが)、それは"生殺し"としての不満足感に繋がるけれど、観劇にはあきらかにすぎるほどの満足があり、昇華がある。
加えて、理念にとどまらない、性行為のシミュレーションが身体に生じてもいる。観終わってからしばらく経ったあと、自分の過剰な手の暖かさに気づく。初日の1回目ほどでないにせよ、こんなにも頻繁にセックスの後の状態がトレースされるダンスが存在するという事実が、おもしろすぎてしまう。非人称的なセックスがある。


M1で帽子を被せられる役になった。「(歌詞にかけて)「冷静じゃない」人いるわ、と思って」と。ここで"頭がおかしくなる"としょっちゅう書いてたせいだそう。ブログに感想を書くと帽子を被ることになる。

 

ロビーで石原さんのファンのおじさんたちが、使っていた曲や次の演目についてあれこれ話していてかわいかった。ほとんど石原さんしか観ていないお客さんもいたけど、ひとりの踊り子さんだけを観つづけるのも、それはそれで一途でなにか悪い気がしなかった。

 

8月18日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(-)

ささきさち(1)

美らかのん(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

 

制作の進捗が芳しかったので、つい渋谷に。
たぶん、道劇をカフェかバーかなにかと勘違いしている。

しかし今日は制作のあとなので、初心に帰ってひさびさ勉強モードで。
というか逆に、最近がいかにズブズブな溺れ具合だったかに気づいたりする。

ただそんな勉強モードも最初だけで、結局途中から気持ちよくなってふわふわしてしまう。「サマーチュール」がほんとうに好きだな俺は...それでも何か得ようと、直後のPC作業に向かう前に、ちょっと快感を切り離して粘る。

 

たぶんこれは宇佐美さんのクセみたいなものだと思っているのだが、演技中、不規則にではあるがしばしばビートに対して顔でヒットを打つような仕草がよく見られる。これがずっと気になっていた。その仕草はクセに見えつつも、ある効果を与えている手触りがある。

まず表面的には、絶えず動いているぶん、視覚的な単調さを免れる効果はある。同時に、その仕草が音楽と相同している限りにおいて、観客の意識を音楽のほうへとフォーカスさせ得る。ダンスの振付がそうした効果を担う本流ではあるのだが、手振りやステップが止まる時間...つまり衣装の調整や盆でリズムと遊離して脚を揺らすシーンなどにおいて、このヒットが「聴取のモード」を保持しつづける。
音楽への聴き取りの促しはしかし、別に宇佐美さんから観客へとそう強く求められているわけではない。ヒットはごく自然に表れる(とはいえアドリブとはまた違う)。だからこそ機能し得る。
この仕草は、それが厳密な構成の一部ではないからこそ、生な身体にいくぶん近い。構成という共有物を越えて、ほのかに香るがごとき"宇佐美さんの音楽の聴き取り"へと、パフォーマーがいまどのように音楽を聴いている/感じているかへと、ふと感覚を重ねるように同期的に伝わってくる。こうして意識は音楽へと向けられるものの、パフォーマーからも離れきらずに、第三の「音楽/体」の関係に、部分的ながら参入するような感じがある。

おそらく自分がこだわってるのは、おそらく宇佐美さんなら「あなたと私の物語」というところの「と」をつなぐものが、音楽でもある、という点。何より他のどんな踊り子さんを見てもこんなに音楽を感じることはないし、音楽を感じ合うことで「あなたと私」の関係の足場が築かれてる、という話を、宇佐美さんの感想で何回も繰り返した気がする。
まあ、ちょっとしたクセから穿ちすぎている気はするものの、ひとまず手がかりのようなものとして。

ところでデニムの脱ぎがどんどんエロく感じられるようになってきた(ご本人もこだわりはじめているとのこと)...あれは本当にすごい。それこそ「顔」がいろいろな表情を持つように、「尻」や「胸」も豊かな表情を持つということ。


「positive」は今日も幸せでした。今日は泣かないな、と確かめるように時間がすぎていくが、最後また泣いてる。爛漫たるダンスの歓びがいついかなるときでもステージに咲き乱れる。毎回言うけど、こんなものを見て平然としてるほうがおかしいんで!
しかしいっぺん「俺が見てる宇佐美なつ」を宇佐美さんに見てほしいくらいである。


本筋とは関係ないというか完全に余談だけども、自分はあるパフォーマーの信頼の基準に「他人のパフォーマンスを観るかどうか」というものを置いている。
これはほとんど絶対的で、他人のパフォーマンスを見ないやつは大抵そいつ自身の芸もぜんぜんダメで、優れた能力を持ってる人ほど他人のパフォーマンスをよく観ている(自分はといえば、すぐ判断してしまうので、時間の無駄を感じたら離脱することが多いが)。
それで今日ちょっとした会話のなかで、宇佐美さんも頻繁に「お勉強」をしていることが分かって、勝手にすごい嬉しくなる。もともとお客さんだから当たり前とはいえ、そらそうですよねーとなった。

単純に、またしても自分のなかで信頼が増してしまった...という話でした。

 

8月19日(木)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(2-4)

悠木美雪(3-4)

ささきさち(1-4)

美らかのん(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

ひとり楽日。
頭からぶっ通しで、とはいかないが2回目からはほぼ全通しで観られた。
場内もさすがに落ち着いてきて、前半なんかむしろまったりした感じも。とくに体調にも何も問題ないはずなのに、集中力切れるところ多くて残念な気に...3回目がはじまるまで1時間以上間が空いたので、それらしいものを飲んだり散歩したり、最後は呼吸を整えたりしてコンディションを戻す。

美月春さん。
とくに4回目の「truth」が爆上がりのパフォーマンス。スイッチが入ったときの美月さんはなにもかもかなぐり捨てるようなテンションで踊り切る。かといって自己陶酔的ではない。「漫画家」はとにかく脱ぎまでドラマを積み立てる。その「いつ脱ぐんだろう」という期待が、まさしく連載漫画の引っ張りのごとし。
いつも思うけど、オープンショーがとても好き。オープンショーはとにかく踊り子さんの人柄が見える時間だけど、美月さんは"オープン"する形式より、とにかく"踊る"ということを念頭にこの時間を過ごしているかにみえる。

ささきさちさん。
「海」のオナベ事後の時間の使い方は先に書いたけど、このオナベ事後にかかるときに入ってくる次の曲が、"まちがって曲出ししてしまった"ような感覚になる。本来もう少し遅れて入ってくるような曲が、ずれ込んで先回ってるような予定調和の崩し。細かい仕掛けをそこここに利かせていて、他の演目も気になる。
細かいといえば「ブランニューデイズ」の後半、片足の靴のストラップが外れているのに昨日気づいて、そのときはたまたまかと思って今日も見るとやはり外れている。細かい見せ方だなあと驚きつつ思っていたが、3回目を注意深く見ていたら、どうやら自然と(?)外れてしまうようだった。いくらなんでも手をかける動作に気づかないことはないはずで驚いていたが、こういうこともある...

宇佐美さん。
1,2回目、前述のようになんだか集中力がなくてうまく見られず...どちらももちろん面白いけど、いつもより届く部分が浅くて、始終変な感じになってしまう。2回目の「positive」なんて、いつも以上にキマっていたように見えるのに、めちゃくちゃくやしい。
横から見てると、振りの形がとれないぶん、ダンスの力の流れが具体的に見える。手を握り込む動作や、腕を広げて盆を周る動きに、猛烈に生き生きしたものが感じられる。

3回目「w-e(n)dding」は、今まで見たオナベとの差に気づかされる。
オナベを見てると、展開的にも動作的にも、え、急に?という違和感が勝ることが多い。大きい手の動きはサービスというか型のようなものなのだろうけど、シンプルに痛くないか...と思ってしまうし、やはり快楽を得るまで急展開すぎて、いまいちよくわからない。
一方で「w-e(n)dding」では、オナベの入りは実にゆっくりしているし、そしてあんなにハードな印象だったのに、よく見ると手の動きそのものはむしろ小ぶりだったりする。かわりに鋭角なまでの体位の遷移がいくつもあり、そのエッジの立たせ方が、あまたあるオナベと決定的に質を隔てているように思う。
また、前回書いた痙攣的な「ヒット」は、このオナベでそのまま音楽の聴き取りと性感とが未分の領域にあることを証明するように、増幅的に演じられている気がする。自分は音楽を聴くことには多分にセクシャルな要素があると思っているけれど、それがこうしてオナニーと直結しているかのようなあり方を見ると、あらためて深く感動させられる。

ラスト、「サマーチュール」。まさかのかぶりドセンが空いたので、図々しく入り込む。さすがに前回ほどではないけど、やはりかぶりは出来事の意味がまったく変わってしまう。
今回はセンターだから踊りの形の部分もある程度取れているけども、ベッドで手足を大きく振ると、ほんとうにこちらに当たってしまうギリギリのところを掠めるようで、それによる触覚的な感覚がずっと大きい。
現象として何というものなのかわからないが、触られてないのに指先を近づけられるだけで触覚が過剰に反応してくすぐったい感じになってしまうようなことが、ひたすら起きて、あきらかに性感に近づいている。ああ、風俗なんだなーとこれもあらためて思う。

とはいえ、単純に首も疲れるし、そうした触覚的な体験だけ追う気にはなかなかならない。かぶりはまあ機会があってもそんなにいいかなという気もありつつ、宇佐美さんの好きな演目でこれを体験できたのはラッキーとしかいいようがない。ご褒美(何の?)だと思うことにする。


今週というか今月、思ってもみないハイペースで通い続けてしまい、ちょっと反省する。体力や時間、金銭的に無理をしたことはないものの、なにかうまく言えないがうーんとなる。
むしろ毎回があまりにも楽しく特別であるために、劇場に取りさらわれていく気持ちにもなる。得られるものが多すぎるあまり、そこに浸りきっていたいと感じるし、事実浸りきるようにしたおかげで見えたこともたくさんある。が、見えなくなることもある。
また、こんなに肩入れしている人に一日おきに相手してもらえれば楽しいに決っているし、それが終われば当然さみしさもある。それでいいのかとちょっと悩む...

もっとカラッと、こうなりゃ皆勤だー!というふうにいければ逆にいいのだけど、なんかこう、久々にじめじめしてしまう。というか、根のじめじめした部分が浮いてきてしまった。ひたすら楽しかった一方で自省もある8月の頭と中だった。

 

...と、書いてから2時間たち、そういえばカラオケバージョンのオープンショーのこと書いてなかったなと。
お遊びといえばお遊びでしかないけど、この日のラストは宇佐美さんがマイク片手に歌いながらオープンショーをしていた。しかしまあその楽しそうなこと。客席も大ウケ。
この日は進行が押して時間も遅かったし、席も最後は決して大入りでなく、すこしさみしいくらいだったけど、こちらとしては少人数ならではの親密さのある時間だったと受け取っていた。満員の客席では出せない空気というのは、それがどこにせよ絶対あるし、ああいう時間を思うと、結局は幸せが勝る。

やっぱり栗橋楽しみだな〜!

 

8月27日(金) [浅草ロック座]『祭音 3rd』

早乙女らぶ(3-4)
みおり舞(3-4)
大見はるか(3-4)
中条彩乃(3-4)
宇野莉緒(3-4)
友坂麗(3-4)
川上奈々美(3-4)

 

初の浅草へ。生活圏だから数え切れないほど前を横切っているが、はじめて階段を登る。テケツの小ささはいずこも同じ、といった塩梅でも、ロビーにはステージ写真が壁一面に貼られ、物販もあり華やぎがある。奥には踊り子さんがそこに立ちもするというバーカウンターが。2回目の公演が終わった直後とあって周辺は賑わっていた。場内に入ると、とにかく...広い!あと天井高い!舞台でかい!要するに普通の「劇場」である。盆から2列目下手側の席へ。

 

まず個々人の舞台の印象は別として、この空間の余白のなかでなお、裸体が裸体としての強度を持ちうることに、素朴に感動はした。照明効果や移動盆があるにせよ「裸」の良さは今までの接近的な劇場経験と遜色ない。
とはいえ各人の場面を「景」と呼ぶ通り、それはもっぱら視覚的な"眺め"である部分が強く、あの狭い道劇での洗礼的な体験を経てストリップ観劇に入った身としては、あまりにも安全に過ぎると思う部分があった。
浅草以外の劇場を「ポラ館」とわざわざいうように、浅草では観客との交流はなく、ひたすら劇が進行し、中休憩をいれても100分程度で1公演が終わる。この圧倒的負荷の低さ。初めてストリップを観る人間がいるなら、浅草で間違いないのだろう。それでも私は道劇に誘うだろうが。
ごく近所にある浅草でなく(単純に入場料が高かったという理由)、渋谷で星愛美さんから始まり友坂麗さんで終わる香盤を観たのは、本当に運命だったのだと思う。

 

その友坂さんが群舞に混ざっていたり、危うげなキャラクターを演じていたり、剣舞を行っているのは、こう言ってはとても失礼だが、微笑ましく見てしまうところもあり。好きな踊り子さんが浅草に乗るのは「推しが連ドラに出るのを観るような感じ」と言ってくれた方がいたが、確かに。
ともあれ友坂さんが1人で踊りきる7景は、やはり盆に入ればほとんど舞踏。髪をかきあげれば空間すべてに魔術がかかったように、友坂さんの身体へと集中していく。
友坂さんの身体、特に腕には、いつも微妙に震えがあるようにみえる。意思的に"動かしている"のと、不随意的に"動いている"ことの合間にあるような不思議な質感があり、ときおりティッキングのようですらあるが、もちろんそんな技巧的な問題でもない。やはり「舞踏」的な、内在的な身体の力の現れなのだと思う。けれども、そうした微細な力の動きを追うことに終始するわけでなく、ポーズは誰よりも大胆にためらいなくなされる。それを見ることの充実に満たされて、言葉がなくなる。
また浅草観劇の最も大きな収穫はリボンさんの仕事の段違いな効果の高さへ蒙が啓かれたこと。後方からはスモークに紛れて発生源が見えない位置から、長いリボンが視野へフレームインし、一瞬で消え去る白いたなびきは踊り子を称える精霊めいている。それは優しげでも、スリリングでもある。
とりわけ友坂さんのラスト、本舞台でゆっくり客席へ手を振る美しい姿の前に、崩れかかる波のようにリボンが2度投げられる。あの美しさは、踊り子と客の協働という関係性を越えて、ひとつの演出的な前提にすら見えてしまう。

 

今回はストリップを観てるときには本当に例外的(普段はむしろデフォルトの)な文句モードが起動してしまったので、逆にもう1公演くらい観ていかないと...と思ったのだが、それは中条彩乃さんがいたおかげで、それほど難しい決断にはならなかった。
キャッツアイをモチーフにした前半は、中条さんのトレードマークである破顔が景の楽しさを支えている。そして中条さんには、あの親しみやすさに対して、異様にスター性を感じてしまう。仮にグループに紛れつつも全体から一際滲んでくるような好感を感じさせる資質をアイドル性と呼ぶとして、対してグループにおいて端的かつ明確に一対多のヒエラルキーを作ってしまうような資質をスター性と呼べるのだと思う。付言しておくなら、その他の景で悪目立ちするとかそういうことはひとつもなく、しかしご自身の景では紛れもなく「スター」に見えた。

 

驚くのは衣装替え以降の雰囲気の変化。紺色の上品な薄絹のドレスは、踊り子さんとしては珍しい部類に思える長身に映え、また表情は演技くささを感じないのに、さっきまでの笑顔からは伺いしれない艶やかさがある。
盆では悠々と音楽の間を泳ぐように動きつつ官能を高めていきながらも、確実絶対なタイミングを撃つようにドレスの前が開かれるとき、すでにうっすらと見えていたはずの「裸」がまったく新しいものとして顕在化する。加えて、脱衣のエロティシズムというよりか、むしろ「裸」をこそ最上のドレスとして纏ったような気品が、そこに存在している。
いかなる香盤でも絶対的な水準の違いがある友坂さんを常なる例外として、中条さんにこそ最も自分の期待する、かつ、それゆえにこんなにも観てしまいたくなる「ストリップ」の質感があったように思えた。個人演目をもっと拝見したい。

褒め殺しめいてしまうので違和感も書いておくと(まずそのベットの振付は振付師によるものなのかご本人によるものなのかわからないが)、自分の音楽的な感覚とポーズのタイミングに齟齬を感じたことだけ気にかかった。あえてジャストからずらして品を保っている、という見方もできるかのもしれないとは思った。

 

ようやくこなした宿題のような浅草観劇。だいたい自分は本当に育ちが悪いので、王道めいたものに強く反発心が起きやすく、1公演目は道劇へのホームシックばかりが刺激されていたが、2公演観てそうした態度がだいぶ軟化できてよかった。なにより、歩いてすぐ行ける劇場なのだから、楽しめる場所になったほうがいいに決っている。次回の『秘すれば花』も、一度くらいは...たぶん...(栗橋と大和の様子をうかがいながら)

 

8月31日(火)[渋谷道頓堀劇場]

永瀬ゆら(1-2)
るあん(1-2)
恋沼あお(1-2)
くるる(1)
金魚(1)

 

渋谷で稽古のあとに1回半だけ。
ひさびさに静かな道劇。1回目スタート時には10名ほど。2回目スタートの頃には倍くらいに。かぶりすら空いていたが、中央2列目上手端に。

 

この日は、るあんさんの新作がすばらしかった。
個人的にも聞き馴染みのある、ほとんど00年代邦ロック(?)のクラシックのひとつさえ呼べそうな曲を2曲使うベットが絶品中の絶品。前半、ポーズに向かうようで向かわない、ただしかし焦らしてるわけでもない特異な時間が、たっぷりとした余韻を抱えて過ぎていく。それがアッパーな次の曲に移ると、尺をがっつり使ったあのポーズの時間に。
るあんさんのポーズは本当にたくさんの時間を使うが、それは静止状態が長いということではなく、生命が変態する過程の充実のような持続があるということ。観客はついこらえきれず拍手を送るが、それを意に介さないようにして、身体は伸びつづける。この時間のたまらなさ...新作はそれが圧倒的なまでに気持ちよくて参ってしまった。7頭で観た六花ましろさんの『鯨』のベットに並んで、忘れがたいパフォーマンスになった。

OPの曲が変わっている。本編と揃えた音楽ジャンル。だがいつもと同様に、BPMが速いにもかかわらず構わずゆったり動く仕方は同じ。るあんさんは、OPの好きな踊り子さんでもある。

 

時間がなくて2回目が観られなかった金魚さんが気になる。
1回目は「ウミウシ」を主題にした演目。ベットではウミウシ(のぬいぐるみ)と交合。ディルドみたいなものがにゅっと出てきて交わるのだが、エロさはうすく「生殖」というニュアンス。それが良いとか悪いとかでなく、こんな感触もストリップにはあるのかという驚きがまずある。ところでウミウシ、雌雄同体だそう。また生殖器を使い捨てる特異な生物だとか...
本舞台の踊りもとても良くて、かなり面白いのだけど掴みかねた部分があり、次の機会を狙う...

 

かなり静かな場内で、どなたのポラも早々に終わる最近では珍しい進行だったが(フィナーレがあってびっくりしてしまった)、ある踊り子さんのポラの片付けのとき、ご年配の常連さんが何事か質問したのに「それ、昨日のポラコメに書いたよ!」というやり取りがあったのがおかしかった。ストリップ劇場という日常...