ストリップのきろく 2021年9月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

9月2日(木)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-2)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

悠木美雪(1)

黒崎優(1)

寒くて、雨。散歩がてら歩いていった前回のモチベーションはさすがになく、送迎を願う。ほんの数分で車が到着。仕事で現場の方に送迎していただくときの癖で助手席のドアを開けかけたが、いや客だしな...と考える間が一瞬あった。後部座席にはいりこむ。
さて、2回目の栗橋。場内は閑散。それはそうか。適当に2列目上手端にすわる。

全体的に制作の忙しさや気候やらで気持ちが凪いでいて、このまま宇佐美さんが楽しめるだろうか...という状態ではじまった「サマーチュール」は、終われば心拍が上がってるのが分かるくらいアガってしまう。
以前、体調最悪のまま友人のパフォーマンスを見たとき、終わったあとすっかり元気になっていたことを思い出す。元気になった、とは紋切り型の感想のひとつだが、事実そういうことがある。
盆に入ってから、ぺろっと舌出しがあった。めずらしい遊び。

「うそつき」は広いステージでやるのが久々とのこと。
前半、かなり薄いサウンドの曲で踊られるので、たとえば「サマーチュール」のM1の厚みと振付の手数の多さなどと比べると、ちょっと物足りない気持ちになる。
しかし、この演目のギミックであるキツネの耳と尻尾を外して以降は妙に色っぽい。ラストはバーンと曲も派手になってポーズベットに。結局ラストで全部持っていけてしまう。帽子を足にかけたポージングはなぜか感動的。

「サマーチュール」後のポラで、浮き輪をはめて「栗橋ビーチのみんな〜」と出てきたのが良かった。翌日になっても何かと思い出してしまう。ちょっとしたおもしろが似合う人でうらやましい。

 

9月4日(土)[横浜ロック座]

椎名ありす(3-4)

香山蘭(3-4)

早瀬ありす(3)

ゆきな(3)

星崎琴音(3)

 

仕事終わりの宿の近くにあったので...
6頭川崎以来の香山さんを目当てに。7中でSNAをパスしたので名高い「反戦歌」を見逃してしまい、さらに今年で出し納めということでご縁を逃した形。

 

新作「Mon amour」は、ある意味で豪速球のストレートを投げてくる演目。
まず選曲と歌手に強い物語があり、それだけで泣き出してはひれ伏してしまう人もいそうなくらいの超有名曲によって踊られる。
M1では装飾性を抑圧した黒いノースリープのワンピースで、即興を軸にひたすら上質なダンスを踊りつづける。時折スカーフを頭に巻くなどして、歌われる「母」が働く姿を模する。このときの集中力は異様で、そのまま演目が終わってしまうのではないかというほど。
M2は盆始まり。一転して白いドレスを纏った香山さんが横たわっている。セリフからはじまる曲は、おそらく世界の誰しもが知っている音楽のひとつであろう、恋の喜びと苦味を唄う歌。
だが、黒衣と白衣の対照がより直接に生と死を想起させ、ノーブルな白いドレスがどこか死装束めいて見えてくると、耐えない微笑みも手伝ってあらぬ方へこちらの気分が誘われる感触が強まってくる。M3では再び白い衣装を纏い直すが、基本的には前半の2曲でこの演目世界は完結していると言ってもいいように感じた。
そして何より、あまりの大ネタ遣いに、こちらの感覚がバグってくる。もしこれがストリップという芸能の場でない、ごく一般的なステージで踊られるなら、そのベタさ加減に耐え難いものすらあったのではないかと想像する。しかし実際の鑑賞経験は、そうした通俗性が忌避の対象になることなく、またその通俗性がそのままどこかへと振り切れて、何が何なのかよくわからない感覚になる。この踊りをどこにどのように位置づけて考えるべきか、まったく見えなくなってしまう。
「ストリップ」とはなんなのか、久しぶりにわからなくなる。

 

9月6日(月)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-3)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

武藤さんがこの日栗橋に行くという連絡が。昨日までの疲れもないので自分も行くことに。木曜ほどでないが、空いているのでかぶりに座れてしまう。


「サマーチュール」は前開き水着バージョン。そして、最前上手端だったので花火の促しをされる役。帽子も被ったし「サマーチュール」で客がやられること、コンプである...盆入りの舌出しは今回はなかった。

「うそつき」の耳と尻尾の消失にエロを感じるという話がうまく伝わらず、別に強く主張したいわけでもないのだけど、かすかにエロさが香ってくる感触をちょっと書いておく。

フェイクの耳と尻尾には、その身体を演目上の「キャラ」として記号化する機能がある。目の前にじっさいの腕や脚という肌が見えつつも、まずはその「狐」の役柄を優先して認識する働きがあるだろう。
これがストリップだと分かって見ている我々は、狐がいつか服を脱ぐということが予想できている。けれども「うそつき」では、狐が狐のまま脱衣することはない。狐は人間へと脱衣する。
袖にハケてから再び舞台に現れると、耳と尻尾は消失する。帽子を脱ぐとそこに耳はなく、尻を撫でると尻尾がない。ここで観客は記号的な役割としてのキャラから、具体的な肉体へとフォーカスを移すことになる。つまり、素朴な衣服の取り去りだけでなく、いわば意味の水準で"キャラからの脱衣を見る"ということ。
またその焦点変化の際、消えた耳をなぞるようにして髪を撫ぜて耳にかける仕草が出てくる。「うそつき」における裸の現れは、この"耳"に先行する。消えた記号的な耳と、現れる肉体の耳。あらかじめ性的な価値を帯びている胸や尻や性器ではなく、記号によって隠された"耳"という肉体が露わになることが、この演目における「ストリップ」の中心である。文脈の設計によって、肉体の価値は更新されて、それをエロさとして受け取ることが可能になる。

こんなに強く読み込まなくてもいいようなことなのだけど、まあ一応...

おもしろ登場シリーズに新作。なんかのおまけでもらったというベルトコンベアの寿司のおもちゃを持って「宇佐美寿司開店だよ!」と威勢よく現れる。何なんだ。
ポラのときもそれを使っていろいろしてたが、公序良俗に配慮して割愛。

友坂さん「結」「GTR」「弦月」の3個出し...どころか、どうやら今週毎日のように演目が変化しているらしい。

かぶりで見ると、あの代名詞的な視線をもろに受け止めることになる。こんなに他人と見つめ合うことはあるだろうかと考えてしまうが、そうせざるを得ない視線であり、そうすることが喜びであるような視線に、ただ見つめ返してしまう時間が何度も訪れた。
あの視線から、何か具体的な意味やメッセージを読み取ることはできず、そしてむしろ意味の無さこそが、あの視線の強さを支えている。
強さ、といっても一向に支配的ではなく、かといって無闇な優しさもない。「ただ見つめること」の究極がそこにある。

川崎・新宿・横浜と各劇場で観てきた「弦月」は、栗橋の舞台でいっそう魅力的だった。前景と後景を横断する紗幕は、物理的な条件の制約を受けて斜めに張られることで、かえって「布」の動きや質感が明瞭になる。また、左右に張られた劇場の鏡が、その景色をより複雑にする。

しかしなんといっても「GTR」。何度見ても奇跡のような演目。芸人が観客と向き合うということ、またそれがストリップという芸能において行われてることが、それをどこまでも高めている。

「ただ」の強度はこの演目にもある。ラスト、場内にいる者たちの"出席確認"を行い、指で人数を示すこと。たしかにこの場を共有した我々が「ただ」カウントされる。それだけの行為が無上の歓待になりうる。

 

友坂さんのポラ、今までとくに名乗ったこともなく、預けのポラ自体もしたことがなかったのでやり方を確認したら「裏に適当なお名前を書いてください、知ってますけど」と言われる。ダメ押しで「Twitterも知ってますよ」と...
インターネットの声量を控えるべき。

 

9月10日(金)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1)

萩尾のばら(1)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

楽日。久々の晴天。夏が戻ってきた。送迎の往路、マスク越しにも田んぼの匂いが立っているのが分かる。
先日道劇で宇佐美さんを見せた友人に友坂さんも見せたく、誘う。ちょうど休憩のタイミングで到着したので、しばしそのままベンチで話し込む。『GTA』の世界にありそうな場所だ、などということを放言する。

宇佐美さんについて、たまには限りなく短くして、言いたいことを圧縮してみる。

・「サマーチュール」世界一エロい。世界一最高。
・「うそつき」過去に見たことないような表情の豊かさ。パフォーマーとしての発展余地を見せつけるような回。
・「w-e(n)dding」オナベは、たとえば生き物の出産に立ち会うような、それをなしとげる様子をただ見守る、というような時間になりつつある。性=生の時間。

まだ何も形にならないが、ストを見ていて「時間」というものを考えることが増えつつある。ある現象ではなく、さまざまに移り流れる「時間」という幅について。

 

友坂さんも3個出し。が、この週は12個出しだったということがわかる。すさまじい。
今回とりわけ素晴らしいと思ったのは「Smile」の後半。袖から椅子を取り出して、束ねていた髪を解いて、ピンクのドレスに着替える。いってしまえばこれだけのことに4分近く時間を使い、けれどもそこには「踊り」としか呼ぶことができない身体の充実が満ちている。
椅子の上で身悶えるようにして下着を取り外すとき、身体部位の布置が組み変わり、あの豊かな黒髪を起点にして、靴・下着・陰毛・睫毛・眉毛たちが「黒」の系列として押韻をなすようにして、さらにドレスのピンクと対照してみえだすことが起きる。
続いて、極上のポップソング(自分の好きな曲だった)で、あの無二の舞踏が繰り広げられる。踊りを見る身体は同期に向かいつつもそれが叶わず、多方に感覚が散らばって身体を捻じ曲げようとする。それは快い掻痒感のような微妙な感覚と、引き絞られるような感覚を行き来する。
なにより、こうした踊りに友坂さんの支配的な意志や狙いが希薄で、だからこそどこまでも安心してその踊りに身を任せることができる。友坂さんは強く観客を「見る」パフォーマーでもあるが、自分が「見られる」ことに対しても、どこまでも自分を開いている。
ポーズを切るとき、ほんの瞬間、しかしはっきりと確実に客席へ顔を向けてから身体を反らしてみせたりすることがある。あの眼差しが正面からやってきたことに囚われてるうちに、ポーズ=全身へと視界が拡大される。踊り子が「見られる」ことを望むとき、友坂さんはその関係を曖昧にせず、まず自分から「見る」ことで「見る/見られる」の関係を直ちに構築する...

4つの演目を新たに見ることができ、ますます友坂さんの踊りに惹かれていく。そして不思議と、こちらを認識してもらえていると思うと、また見に行こうと思う動機ができてしまう。

 

せっかく圧縮して書いたのだけど、ふと「うそつき」の耳・尻尾の消失について思ったのは、自分がマジックをやっていたことで、ものが"消失"することの官能に敏感なことはあるかもしれないな、と気づいた。

自分は、全体の構成的必要とは必ずしも関係が薄い細部の官能性にこだわるほうだった。さらに、アイドルを見ているうちにキャンセルしていた官能性への視線が、ストリップを観ながら思い出していく作業のうちにいる、と考えている。

 

9月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

葵マコ(2-3)
栗鳥巣(2)
六花ましろ(2-3)
京はるな(2-3)
美月春(1-3)

午前に渋谷で用事があったこともあり、またチームショー「GIRLS」が気になったため2日続けての観劇へ。さすがに疲れたが、充実...


葵マコさん2回目の演目がとてつもなく素晴らしい。
冒頭からすべて服を脱ぎ捨てて踊るのだが、そうした脱ぎ去りが強調されるわけでもなく、表情や仕草の豊かさにあふれていて、ひたすら魅力的だった。忘れがたい演目がまた増えた。

栗鳥巣さんは芝居仕立ての「援交」もの。精液を見せる仕方も、またそれを繰り返しすることにも知性と芸の両立がある。

 

美月春さん・京はるなさんチームショー「GIRLS」。
女ギャング2人組で、美月さんがデニムのホットパンツにピンクのファージャケット、京さんがゴスロリ風のドレスにぬいぐるみを抱いたキャラ。凸凹感の設定にも先行するなんらかのジャンル物の記憶が響いているが、ようするにラス・メイヤー(未だに一本も見たことないが)的な美学を源流としたエロ×バイオレンスの系譜に属するもの。
冒頭の強奪シーン(あらかじめ京さんが客に札束を仕込ませている)に醸される芝居の空気は、大道芸というかマイム系のユニットにもありそうなそれで、めちゃくちゃ警戒してしまうが、酒を呷って盆で寝転ってる美月さんを京さんが脱衣させ、ペニバンを装着させてハードなセックスシーンに移る一連のシークエンスでは、コミカルな空気が行為のハードさへとシームレスに変化する(一般社会であれば表現とはいえ穏当にせざるを得ないシーンが省略されない)ことで、まさに「ストリップ」固有の可能性をみせつける。演者同士の準備されたパフォーマンスであり、それが張形とはいえ、行われているのは"まな板ショー"である。正常位で美月さんが腰を動かすことは演技でも何でもなく、実際の京さんとの性行為そのものであって、コントのワンシーンに収まりきらない強度がある。しかし、選曲の一貫性が当初のポップさを損なうことがないから、その後2人でポーズを切れば、ストリップそのもののカタルシスと、バディもののカタルシスをいいとこ取りしたような高揚感にあふれる。

とても面白いステージだったけれど、冒頭の空気感やセックスシーンなど、それ自体切り出すと素直に楽しいかどうか微妙なものも、ギリギリのラインで綱渡って面白さの方へ連れて行ってくれた、という感じもある。それは美月さんと京さんのビジュアルの作り込みや演技力にも支えられているだろうし、ストリップという芸能では何をやってもいい(アンモラルな、というか単純に作品表現の制限のなさ)ということへの迷いなさがあるのだろうと思った。

前後するが引退作の「Truth」で、自分が初めて見る"引退する踊り子"の姿と、それを見て泣いている観客の顔に、思いが募って自分もつられて泣いてしまいそうになる。
ごく短い間に何度か見たにすぎない踊り子さんでも、そこに集まるお客さんたち同士の、あるいは踊り子さんとの縦横の関係性は合間合間に伝わらざるを得ないし、様々な歴史がみえる。そうした様子を眺めながら、かつてはこの場所でひとりのお客さんとして見ていたはずの人の姿も不意に思い浮かべてしまう。それは単なるそれぞれへの思い入れや感情移入を越えた、この「場」に流れた時間が重なりとなって現在に畳み込まれるような、自分にはしばしばある——しかし常に特別な——体験でもある。



...ついで余談だが、翌日、数年ぶりに『喜劇特出しヒモ天国』を見なおしたあと、原芳市『ストリップのある街』の年表を手繰っていて、既知の劇場で行われた出来事のさまざまを読んでいるときも、そうした感覚に陥った。

9月14日(火)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1-2)
海野雪妃(1-2)
JUN(1-2)
萩尾のばら(1-2)
アキラ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

関東最遠の劇場。半蔵門線の両極(よりさらに奥)を2週で行き来するとは...
駅前に意味不明なまでに広く抜けた遊歩道があり新興の土地の姿を見たかと思えば、薄暗い横丁に飲み屋や弁当屋が集まっていたりするし、何よりストリップ劇場がある。独特の街。
階段を上がって入場。もぎりのお兄さんの後ろで放たれたドアの向こうに黒塗りの壁とスカスカに間引きされたパイプ椅子群が見える。たっぷりした空間と、天井には(正確に何というのかわからないが)屋根の形がそれとわかる屋根裏が見える。
盆の下手にはポールが設えられていて、本舞台と盆をつなぐ花道が、おそらく3mほどある。本舞台も余裕があり、誰かが、花道から区切って下手側のエリアを指して「わらミニの本舞台はこれくらい」と言っていた。たしかに。要するにわらミニ本舞台の3〜3.5倍ほどのサイズ感。


6人香盤で、これはさすがに抜けつつみようかしら...と考えていたけど、劇場の居心地もよくて、ベテランのお姐さん方の芸も味わい深く、通して2回きっちり見る。

とくにJUNさんの1回目、和装の夏演目は遊びがたくさんあり、すばらしかった。花道を足袋の滑りを活かしてスライディングすること2回、さらに着物姿でタットダンスまでこなすサービスぶり。ラストは筋肉アピール(?)で〆。
アキラさんの2回目は客いじりどころか投光いじりまでこなして、いかにもベテランの余裕だが、ポーズになるとカチッとギアを入れてここぞというキメを逃すことがない。OPではポールダンスの技もサラッと決めてしまう。
ポールといえば永瀬さんなのだが、今まで他人事に見えていたようなポールが、かぶりを越えて脚が旋回するのを見ると、さすがにスリリングでとても面白い。何より、注意を払いつつも回転速度に遠慮がなくてとても良かった。

 

宇佐美さん1回目は6月の初見以来2回目(宇佐美さんの演目で1回しか見たことないのはこれと蕨の「ユーレイ(仮)」だけ)の「黒煙」。
赤と黒コントラストが鮮やかな衣装。本舞台では赤いコートを纏ったまま、いつもの笑顔でなしに、睥睨するような冷淡な顔つきで、近作に比べればずっと少ない手数で踊る。自分が見てきた中では異例な部類に入る、ストレートなロックサウンドが2曲続くが、サウンドの密度に対して振りが少なめだと、「サマーチュール」のゴージャスさに慣れた目に、こんな感じだったかな?と探るような思い出そうとするような引き気味の位置で見てしまうこともあったが、M3でモードチェンジが起こり、メロウで音数少なめの楽曲での脱衣がはじまると、不思議なほどズルズルと引っ張られていく。
M3からM4(めずらしくクロスフェード使ってた気がする、あいまい)はシームレスに移行する。前後定かでないけど、脚を泳がせながら花道を旋回していくベット入り、泣けてしまうほど官能的で鳥肌が立つ。そして胸を晒す動作が、ぱっと服を捨てるようで、「サマーチュール」のねばりと好対照。脇道にそれるけど、たぶん今までみた踊り子さんのなかで胸を見せる仕草にエロさを感じたのは宇佐美さんとあらきまいさん(のOP)だけ。じわっと脳がしびれるような感じになる。こんなにエロい演目だったのかという発見もある。
脱ぎが完了して、ポーズに入ると、もう言葉にならない。スワンに入る前、両手を開いて指を交互に合わせて、下から上から順に指折って拳を固めるその動きに涙腺が危うくなる。宇佐美さんはポーズを切る前に、強烈に印象的な指折りが入ることがある。
立ち上がり、花道を逆に本舞台へ戻るとき、脱ぎ捨てられた衣服を残してゆく。その後ろ姿の美しさに、心を徹底的に深く刺し貫かれる。

あまりにも素晴らしく、自分にとって複雑な様々を喚起しすぎてしまい、これを見て喜んでいるだけでいいのかと、人生を省みてしまう...6月の初見のときから何も変わっていない。そして、あまりに刺さり方が深いときこそ、大した感想が出てこず、そのことにまた妙な自己嫌悪が起きたりする。


休憩の間、雨が降ってるのに何も持たずあてなく外をぶらぶらしてしまう。
駅前の広い遊歩道に行き当たると、野良なのかなんなのかよく分からない猫が、リードも首輪もなしに、おじさんの後ろを勇ましい顔で付いて歩いていた。

 

9月17日(金)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1,3-4)
海野雪妃(1,3-4)
JUN(1-4)
萩尾のばら(1-4)
アキラ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

今週は1回にとどめてもいいかなと考えてたくらい遠い・時間を食うというネガティブ要素のある大和だったけど、香盤・劇場の雰囲気・「黒煙」・「サマーチュール」の見納めと行くための理由が圧倒的過半数だったので通ってしまう。結果、いちど昼食で抜けたものの11時から22時半まで劇場に。ヘタしたら家より長く居る。
あと、前回はつかれて2回目でふっと帰ってしまったのは、もしや少し気にされてたりするかなと思ってたらその通りだったので、まあ...


今週は永瀬さん・JUNさん・アキラさんの、熟達した芸の余裕がうれしい香盤。
永瀬さんは選曲に毎演目妙味があり、それだけでも楽しい。音楽がお好きな方なんだなというのがはっきりわかる。1,4回目の「あくび娘」は有名アニメのキャラがモチーフだが、壺からディルドが出てくると、それに翻弄されるようにしてオナベに。魔術的な男性器という演出とインド歌謡的BGMのマッチングは、エロとおもしろの中間でむしろ作家的個性の手触りが残る。それは立ち上がりの選曲がキュートな昭和アイドル歌謡(このへん明るくないので不適当な形容かもしれない。そして副次的に当時15歳の女性の歌声であることを検索で知る)に振られる感覚にもよるだろう。

JUNさんの1,4回目の祭り演目はベタに盛り上がる演目でもあるのに、あの一定したほのかな微笑みは崩されることなく、煽りなどなくとも「顔で踊っている」感じにもなる。
表情でアピールしてるわけではないし、またいわゆる踊り自体の良さもあるのに、その顔に惹きつけられてしまうのはなんなのか。ギュッと空間が集中して、客席がJUNさんを全員で眼差している、という感じがあり、濃密。もちろん寝ている人もいるのだが。
花笠を袖に処理するときスススッとすり足で袖幕に小走りして、その慣性を活かしてふっと笠を手放すときのニュアンスの上品さに驚く。投げるでも置くでもなく、運動の経済性に則った仕方。望月きららさんが「歯科助手の浅川さん」で投げ飛ばす眼鏡のライナー性の軌道に並ぶ名処理。

アキラさん。どんな演目でも図々しさがあり(褒め言葉です)、さすが。
相対的に、ひとつの現場で年長となると、役割のひとつとしてそうした図々しさが必要で、自然に備わってしまうことはあると思う。そして、それを楽しく思うのが若いものの特権でもあるだろう。他方で、抜群の身体コントロールで踊りきる姿からは新鮮さが失われることがなく、踊りが好きな方なのだなと思うに充分だった。
また、それがアキラさんの創意ではないにせよ、自分が次に試してみようと思うことへ大きなヒントがあった。いつやろうかな。

 

栗橋から拝見している萩尾のばらさん。2回目の「ハート」が今までにない感触で、飛躍のある変化を感じて良いステージだった。"新人さん"というバイアスから成長とか学びとか言えてしまうけれど、自覚的にか無自覚にか、自ずと違った局面に突入してしまうのがパフォーマンスというものだと思う。
こうした感想は自分の経験をベースに感じることではあるが、だがありえないような回数の本番を重ねる踊り子さんたちは、世界でも特異なパフォーマーであり、広義の同業とすら言えない部分が多分にある(それでも投影することはかなり多いけれど)。何より、ポラでのお客さんとのコミュニケーションまで「パフォーマンス」のワンセットでもあるし。

宇佐美さん。
「黒煙」はかなり落ち着いて観られた。あいかわらずディティールで記憶違いしているところの確認もとりつつ、M2でコートの前を開いてから裾を掴んで右に扇に開いて見せる動きの鋭利さと画の強さに感嘆したりする。
コート姿でタイトに固めた(表情もまた)スタイルとキャラクターは、コートの前を開いて黒のシースルーの服越しに赤色で強調された下着が見えてもなお気位の高さを崩すことがないようなのに、実際に肌が見えると"脱いだ"という感触がすごく高まる。ただ、そこにプライベートな時間として心を許したような"脱ぎ"があるわけでもなく、単純なオンとオフの問題には還元できない。あるキャラクターの多面性ということ。
脱ぐということやエロさについて、また「人」への理解の多面性の現れにいつも驚く。宇佐美さんが曲展開に応じて演じ分ける(恣意性はみえないが)「人」の見え方の違いは、ほんとうに凄いとしか言いようがない。

ところで、この人はどうしてこんなに「動き」というものを知ってるのだろうと思う。それは技巧云々でなく、ある運動が感じさせる快楽について、生得的かつ知的に知り尽くしているということ。
これは「サマーチュール」だけど、備え付けのポールに絡んでも、ポールを軸に腕を伸ばしてする大きい旋回だけにとどまらず、慣性を活かしながら軸を移し、自分も小さく回転するという段階を作っていて、それは楽曲が要請している解釈の結果でもあるだろうけど、どうするとより気持ちのよい動きになるかという思考が形をとって、そのまま舞台に現れている。そこに至るプロセスの速さは伺い知ることができないけれど、ステージに張り巡らされた感覚の広さ(意識の問題ではない)と感覚への迷いなさが、そのまま宇佐美さんのパフォーマンスを観る快楽の深さに重なっている。少なくとも、自分には。

「サマーチュール」ついに見納め。蕨にはじまり渋谷・栗橋・大和と4つの劇場で17回観ることができた。自分にとってもっとも印象的だったのは8中渋谷初日1回目のすさまじいキレっぷりで、あの経験は一生忘れないと思う。初のかぶりを経験したのも「サマーチュール」になった。
そして、夏演目なのに雨や寒い日の記憶と結びつくことが多い。ギラギラした日にも観てたと思うのだけど、こんなに気分が下がる日なのにブチ上げてもらえるなんて、というギャップが印象強いのかもしれない。
昨日のラストはぜんぜん意識せず「あ〜楽しかった」と感想を口にしてたらしく、まあ、無意識にそんなことが口について出るくらい楽しかったんだろう。
たまには個人的な感慨だけ。

 

感染対策とか経営問題とか、絶対に重要で考えなければいけないファクターをガン無視したエゴだけで言うなら、最終回にごく少ない限られた人数で観劇するストリップはどこまでも心地良い。これも毎度言ってることだが、とても幸せを感じる。


この日の前の夜、Twitterで栗橋のステージ写真が投稿された。
何言ってもエクスキューズになるので、単にきれいで気に入ったからiPhoneのロック画面にしてみようかなと試したらとてもよかったので設定した、はいいけど、それ別に本人に言わなくてもよくなかったか...というのだけある。

 

9月19日(日)[浅草ロック座]『秘すれば花 1st』

川越ゆい(1)
ののか(1)
椿りんね(1)
沙羅(1)
宮野ゆかな(1)
広瀬あいみ(1)
真白希実(1)

 

ほうぼう(といっても数人)から真白さんは見ろ、と言われていたので。
晴天の3連休中日にしても1回目はこんなものなのか、わりと落ち着いた場内。

 

今回はほんとうに何も書くことがない。
こちらの能に対する不案内さはともかく、ふだんなら気にならないようなオリエンタリズムが気になる程度には娯楽として見るべき積極的な何も受け取れず、ただ眺めているうちにふわっと時が過ぎた。

目当ての真白さんは一景の群舞でこそ際立った存在感があり期待したが、うーん、それほどまで特権的な評価を得ている理由は掴めなかった。

2景の襤褸めいた衣装から短冊状に垂れた布がエアリーでおもしろい動きを作っていたのは目をひいた。

 

今後はよほどのことがなければ浅草からは足が遠のいてしまいそうだ。

 

9月25日(土)[川崎ロック座]

麻宮ちなつ(1)
安田志穂(1)
空まこと(1-2)
雨宮衣織(1-2)
神野ひな(1-2)
矢沢ようこ(1-2)

 

真白さんに続いて宿題然として聳えていた矢沢さんを観にいく。
さっさと中に入ればいいのに、劇場の外にいる2匹の亀の懐っこさに目を奪われてしまう。かわいい。

 

雨宮さんの選曲でオッと思うなど。自分の好みの曲がでかい音で流れる面白み。
奇数回の演目には見どころも多く、LEDのランタンを使った光の色の変化など、意外な効果の高さにグッとくる。

 

矢沢さん。どちらもご自身が出演されていた映像作品に基づく演目だが、そうした外的な要素より、とにかくその顔と手の表情の豊かさだけでステージが成立してしまうという、これこそストリップでしかありえない(そしてなぜストリップだとありえてしまうのか不明な)ステージ。驚くべきことに、ポーズは1回しか切らない。どういうことなのか...
友坂さんの"何もしていない"という密度とは質が異なる。友坂さんは実際のところ、ただ立っていようとも、その髪の豊かさを含めたシルエットの視覚性や、より微細で視覚的な経験には落とし込みづらいような肉体のざわめきが感じられるのだが、矢沢さんのそれは、もっと心理的といえばいいだろうか。こちらの心を開いていく誘いかけのような。
「顔というより面(おもて)というような...」とはどこで誰が何に対して言った何なのかの一切を忘却しているが、矢沢さんのステージには顔を「顔」にするような、造形ではない現象としての起こりが、ずっと針を振り切った形でそこにある。かつて人はこうした現象をより身近に信じてこそ神仏の似姿を描き・刻んできただろうという想像がある。

 

劇場で知人と、ふとした流れからルーベンスの絵画のような裸体画は疲れてしまって苦手、という話をしていて、しかし我が身のストリップ初体験を思い返すと、裸体に疲労感を覚えるのはごく自然なことだったのかもしれないと気づいた。
男性の裸の話題ではあるが、都内某所でカプセルホテルに泊まる用があったとき、ロビーの奥が浴場でチェックイン即複数人の裸体を視認しつつ、酔客が泊まる場所でもあるからか、それぞれのブースに寝間着からはだけた裸体が居並んでいた図に疲れ切って、ここには2度と泊まらないと決めたことがあった。
そもそも自分は銭湯や大浴場のような場も苦手であるし、他者の裸体をなるべくなら見たくないと考えているフシがある。裸体はどこか、侵襲的な性格があるのではないかとすら思う。
だからこそ、自分はストリップを見ることにおいて、「脱ぐ」という行為の価値が高いのかもしれない。現れる裸体は脱ぐ行為によって文脈化され、剥き出しの侵襲性を回避する。ストリップにおいて脱ぎ去りとは、むしろ何かを纏いなおすことでもある。
欲望の再編成、と初見の際の記録にも書いていたが、観劇経験を重ねても、この視点は変わらずにあるように思った。