ストリップのきろく 2021年10月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

10月1日(金) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

松本なな(1)

山口桃華(1)

中条彩乃(1-3)

 

ストでは初遠征。単純に、仕事以外で旅に出るのは2年ぶり。はじめての福岡、でもある。
前泊していた博多から新幹線で小倉へ。開場時間の間際だったので、寄り道せず、駅すぐそばの劇場へ。すでに20人ほど並んでいる。地元の方の声を聞くには、平日としては異例の集客とのこと。
階段をのぼり、劇場へ入ると高低差の付いた座席が3列。床面に傾斜があるのではなく、座席自体をスチールの台座で持ち上げて高くしている。
盆回りに半円形のベンチがある。ただ、盆から花道が貫通していて出島のようなエリアが先端にある。このあとわかることなのだが、経年劣化なのか盆に傾斜があって、回転するとガタガタいう。ポーズ中、踊り子さんに震動がつたわっていて大変そうであった。
開演前にエロビデオが流されているタイプの劇場。時間がくるとスタッフさんがテレビを引っ込めて、録音のアナウンスが流れる。「如何に興奮なさってもタッチショー以外は決してお手を...」という文言のパンチ。ミラーボールがやや頼りなく回りだす。

 

栗鳥巣さん。自吊りのあと、有名なおまん画。客あしらいがさすが。花電車はしゃべりができないと持たないとabemaの番組でゆきみ愛さんがおっしゃってたような気がするが、まさに。

 

宇佐美さん。初乗りで気合い入れまくりなのか、緊張なのか、いつもとペースが全然違う。2回目の「bubble」では衣装を脱ぎ損なうハプニングで、イレギュラーな袖ハケも。とはいえ、動きのなかで処理していたし、初見の人なら通常の段取りにみえたのではというくらい早い判断に思えた。ミスに対するとっさの判断力にこそ、その人の力量は伺えると思うけれど、さすがでした。
3回目の「positive」でようやくいつものような雰囲気に。この劇場は照明がかっこうよく(かわりに音響がすこし残念でもったいない...)、いつもとちがった演目の姿が見られてよかった。そして立ち上がり、なんともいえない絶妙に美しい表情があった。
こういう、万人に共有物として開かれるわけでも、記録価値があるでもない、刹那の表情の良さを書いておくことには、ほとんど意味がない。それでも、その瞬間、自分にとってはとても重要で、たしかな経験として受け取ったということを、黙っていられない性分なのだとおもう。とてもきれいでした。
4回目「bubble」は曲カットで2曲目から。初遭遇だからこれがあの曲カットか!と新鮮だったけど、なるべく出くわしたくないですね...

 

しかし今日、場内とてつもなく暑く、すこし体調に響いてきたので中抜けを増やしてしまう。かわりに小倉の街をみられたのでよし。博多より圧倒的に気に入る。猫も多い。それにしてもテレクラってまだ存在してたんだな...

 

中条彩乃さん。「ターニングポイント」「ノンフィクション」「お嬢の事情」。もうひとつは体力的な問題であきらめる。おそらく上野綾さんから借りたという「DD」だったのだろう。
3作の中では「ターニングポイント」が面白く見られた。衣装と扇子の赤が非常にゴージャス。かなり明確な「赤」であって、あまりこういう彩度の印象が強い衣装は記憶にない。しかし「ターニングポイント」は、この赤さと共に思いだされる。そして、赤さの主張の強さに負けないスタイルの良さがある。
これは質の高低やジャンル間のヒエラルキーとはまったく無関係な話として、中条さんはそもそももっとメジャーなステージで踊っているようなタイプのダンサーのパーソナリティーに近いような気がする。それが、ストリップというマイナーなステージにあらわれたとき、場違いともいえる「陽」のオーラをガンガンに振りまいて場を異化していく。ポラからPプレからフィナーレの仕切りまで、「中条の間」でバキバキ割っていくような。中条さんのファンの方は、こういうところがたまらないのだろうなと想像する。
個人的には、トレードマークの笑顔よりもまして、ベッドでの艶っぽい静かな表情がひときわ美しく感じられた。

 

10月2日(土) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

松本なな(1,3)

山口桃華(1,3)

中条彩乃(1-3)

 

昨晩、大回りして宿に帰るとうっかりソープ街に行き当たった。朝にあらためて周囲を散策してみるとそれなりの規模感。「船場」という地名があったりと、往時というか歴史が偲ばれる。劇場周辺も歓楽街の香り濃く、そうした労働者や商人などが行き交う土地でもあったのだろう。そもそも門司港が近い。

 

宇佐美さん。1回目「positive」いよいよ本領発揮といった感あり。昨日も書いていたけれど、最近は何か、ほんとうにその瞬間しかないような特別な表情があって、これがあると、何度見た演目であっても、その度ごとに演目の最も核にあるようなものがむきだしになって迫ってくるような新鮮さを感じる。それはたぶん、宇佐美さんがこの演目に対していつまでも新鮮な感覚を失っていないからなのだと思う。

 

松本ななさん3回目のパンダの演目。ラストの選曲は、イントロが流れ出したとたんに会場の全員がピンとくるような有名な楽曲だが、しかしこれこんなにいい曲だったのかという塗替えがあった。

 

今日は劇場に常連さんや遠征組が目立つ。ロビーで談笑する人たちが固まっている。このようすに、自分の仕事場の光景を思い出してしまう。パフォーマーを介して、さまざまな人たちが集い、関係するきっかけにもなって、「場」が作られていく。
それはべつに必ずしも良いことだけでもなく、人間関係のうっとうしい部分や、ステージを楽しむという意味ではノイズになることもある要素もあるということ。ただ、そうした夾雑物が入り込むのが本来の「場」だろう。

 

そんなことを感じながらひとり劇場にいると、すこしものさみしい気分になってしまう。この1年半、ほとんどそうした場を作るファクターに関われていない自分はなんなのだろうと少し落ち込む。もちろん、自分の力を越えた出来事なのだから、どうしようもないのだが、奇跡的にそうした変わらない場所が維持されている劇場に、ときどき引け目を感じる瞬間があってしまった。

 

10月3日(日) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-2)

宇佐美なつ(1-3)

松本なな(1)

山口桃華(1)

中条彩乃(1-2)

 

朝から小倉の街をひたすらうろうろして、11時頃に博多から来た友人と合流。劇場そばの天ぷら屋で昼食をとってから、開場とともに入場。

 

ストリップに慣れない友人と見ていると、その感想が気になるだけでなく、たぶん、その新鮮な視線を想像的にトレースするようなことが少し起きる。それで「positive」のM1-M2で明るく可愛らしく踊っている姿を見ていてふと、あれ、この人本当にこのあと脱ぐの...?と思ってしまい、なぜか一瞬ドキドキしてしまう。もう100回くらい見てるのだが...

 

「黒煙」は、初見でそのグルーヴィーさにノリまくりで見たことを思い出すとともに、この4ヶ月ステージを観続けたことで開発された「エロさ」をキャッチするアンテナとの合わせ技で、陶然としてしまう。
大和での感想にも書いたことだけど、前半の睥睨するような冷たい視線のありようが、後半、にわかに意味を変えてこちらの官能をひたすら刺激するような眼になってくる。つまらない例えだが、「北風と太陽」のように、コートで身を固めた姿は観客にとっても防衛的に距離を計り合うような関係になるが、じょじょにその衣服が脱ぎさられていくことで、こちらも共に心の鎧を捨てていくような感触がある。
ただ、(これも何度も書いてるが)そうした先に、どこか厳しい一線が引かれているようでもあり、その「エロさ」は解消/融和の手前でそれこそ煙るように広がっていくばかりで晴れることがない。官能の高まりは頂点を目指して這いあがっていくが、その手前で、官能の高まりを与えてくれる対象が隠れてしまう。
一般的な倫理観のうえで、人は関係する内に互いの平衡を保とうとするが、それと同時に、誰かを振り回したり、あるいは逆に誰かに振り回されたいと思う非合理も抱えている。人間関係は信頼というファクターによって、フェアネスの振り幅を大きく更新する。ストリップという文化が持つ演者と観客の信頼関係を前提にしたうえで、「黒煙」はこの振り回し/振り回されの非合理、すなわちエロティシズムにがっつり踏み込んでいる。
自分は、あらゆる人間関係において対等を望んでいるけど、この演目を見てる瞬間、この演目を演じている宇佐美さんになら振り回されてもいい、と今回はっきり思ってしまった。これは、かなりな感覚だと思う...

 

中条彩乃さん「ノンフィクション」。この3日間でいちばん集中して見ることができた。特異な構成に慣れてきたのもあるが、着衣/脱衣の境界がスタートからあいまいに設定されているので、むしろ純粋にその踊りや表情を見ることができる。
とはいえ、そのあいまいさはキーポイントでもあるように思う。裸体を遮り、時には強調する複数の布=ヴェールの存在は、裸体が時に背負うことになる”真実性”を揺らす。揺らす、といっても知的な結構によってというより、それが単にありのまま=ノンフィクション的だという事実を忌憚なく見せている素直さに、こちらが身を正している、と言えるのかもしれない。私たちの身体は衣服を纏うものでもあり、纏わないものでもある、という両義性を行き来して踊る。それを思うと、逆行するような構成は、衣服を脱ぎ去っていくことで裸体の価値が不当に高まることを押さえている、とも考えられるかもしれない。

 

はじめて合ポラを撮ってみた。
並びのオーダーで順列をつけることに微妙に抵抗があるのと、しかし香盤順に並んでポーズを取ってもらうだけではつまらないし...というのを、これならいいかなとオーダーが思い浮かんだのでやってみることに。思った以上にお姐さん方の自然な表情が写っており、これこれ、これが写真よね...となった。
完全な余談にもほどがあるが、その写真に映ってるひとりの踊り子さんの表情が、普段はまったくそうでないのに、かつて好意をもっていた女性のそれにそっくりで、思いがけない副産物があるなどした。

 

今回もまた、ちょっとした踊り子さんの振る舞いに勉強になることが多かった。募金のときにまで客イジりを忘れなかったり、お客さんから渡されたものへの扱いや、またお客さんの振る舞いを制するのにトゲのない仕方で介入したり。
このうち、そうした振る舞いでもっとも勉強になったのは、やはり栗鳥巣さんだった。その演目の特殊さ以上に、きわめて常識的な感覚をもった方で、この方が劇場にいれば安心することが多いのだろうなと想像した。

 

10月15日(金)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(1-2)
MINAMI(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
水咲カレン(1-2)
望海あや(1-2)

 

タイル張のいかにも昭和然とした外観のビルに、ファサードの上部にせり出た装テントが可愛らしい。内壁は白色に統一されており、なにか異国ふう。階段を二階登るとロビーは天井がテント張のようにもなっている。
ドアを開くと一転して黒壁。高さを違えて三重になったスタンドの椅子が盆を囲む。...どこが動線か一瞬悩んだが、ようするに椅子の間をすり抜けるしかないのだった。体の大きい人が難儀している。

芝居がかったアナウンスのあと、照明が点灯。正直、小倉の仕事を見たあとでは見劣りがある。そもそものセッティングがチープというか、、また音響はここも厳しい。片方のチャンネルしかないので、左右に振り分けられている音の半分は消えることに。
今日もなぜか盛況だったらしく、3回目からは曲カット連発。進行の判断に不信感ある...スタッフさんもみな優しく、感染症対策もかなり気を配っているのだが、いろいろと察する。
一方で、うわさの外出禁止に関しては、案外つらさを感じなかったり。


宇佐美さん。
9頭以来だが、なぜか久々の感ある「w-e(n)dding」。すばらしかった。
同じことしか言えてないのだけど、最近の表情のよさは何なんだろうと思う。特にこの演目は渋谷で10何回と見たので、盆入りでは存在しない盆のせりあがりを頭で再現してしまうくらい流れが体に入ってる。ベッドも曲と姿勢の変化を追い切れるし、その点では既知のものを反復してるのだけど、ふとその予定調和がぐらっと揺れてしまう生っぽい仕草や表情がある。
それはどの程度狙って出してるものなのか分からないけど、いずれにせよ、4ヶ月前と今で、もっとも宇佐美さんのステージの印象を違える点になっている。そして、ライブ空間≒観客からの影響というより、自分自身への向き合いがうまくなされたとき、それが発動している感じにも見える。


思うけれど、ステージ"作品"としては、たとえば浅草のように、パフォーマンス後に客とのコミュニケーションが無いほうが、ずっと衝撃を保ってられる演目でもあるはずだ。
けど、直後にへんなポラ着(この日はピカチュウの顔が全面にプリントされた黄色い切れ込みの深い水着)で現れては雰囲気をぶっ壊してしまう俗っぽさ、掴みきれなさのほうが、よほど複雑なできごとだと思える。というか、そういうふうにされる世界の豊かさが、たぶんある。


最近、体力とは別にずっと調子が悪く、いっときは遠征を取り止めようかと考えたのだけど、行ける気がしたので行くことに。
いっこうに気分のベースが低調で、ずいぶんご心配をかけてしまう。しかし空元気でも変だし、ちょっとどうしようもないのだけど...反省。


10月16日(土)[DX東寺]

京はるな(1)
蜜マリア(1)
くるる(1)
友坂麗(1)

 

数年ぶりの京都それ自体にアガってしまう。最高の街...
もともと仙台でお店を営まれていて、京都へ移転されていた菓子店にもようやく行くことができた。ブラウニーのように濃厚なチョコレートクッキーを買う。そして、以前どこかでたまたま見かけてチェックしていた精肉店ビーフジャーキーもあわせてお土産に買う。彩りのかけらもない。


DX東寺は住宅街の中にいきなり現れる。居住まいの異様さは随一。
場内噂通り広い舞台・高い天井。ふつうの劇場であればそこまでのサイズではないのだが、いつもの「劇場」の狭さに慣れると広大にすら見える。


京はるなさん。先日の渋谷でも見た「サキュバス」。演目が始まると、なかなかの音量で音が流れる、のはいいが、ハイがきつくて耳が少し痛い。ローカットしまくりも残念だけど、たっぷりした音のデカさはうれしい。
照明効果は抜群。高い位置から入るブルーのかっこよさ。渋谷でのそれとはまた違ったドラマチックな見栄えで、もちろんパフォーマンスもあいまって「ストリップ見てるな〜!」という素朴な満足感に浸れた。


くるるさんも渋谷以来だが、今回の演目はそうとう素晴らしかった。
某三人組アイドル曲縛りのキラキラした演目かと思いきや、盆入りからの夢幻的なオナベにぞくぞくさせられる。何より、楽曲がまさかのオルゴールバージョンで、あんなどうしようもない音楽がこれほどパフォーマンスにマッチする可能性を少しも考えたことがなかったので、衝撃的でもある。フレーズがクレッシェンドしていくところと、それに応じるように手の動きがわずかに早まるようにみえるエロさ。いや、むしろ手の動きに応じて音のほうが高まっていくというふうにすらみえる凄さ。
曲が移っても、安易にポーズを切ったりせず、夢うつつの官能を残しながらゆらゆらと身悶えが続く。180°の縦開脚から続いてうつぶせにグラインドして髪を振り上げる動きを反復。ポーズらしいポーズはラストのL一回だけ。最高だった。


友坂麗さん。出てきたときから緋色の衣装が決まりまくっている。わずかに見える両手と両足の素肌が意味不明なまでに輝く。手の揺らぎが起きるだけで、なぜか早々に泣いてしまい、感情の動きとほとんど無関係にボロボロ泣き続けてしまう。M2冒頭の目潰しのバックライトがつくるシルエットが格好良すぎて卒倒しかける。
ベットでは、一枚の緋色の布にくるまっているところからスタート、ゆっくり身を動かしていくと、布が崩れ去るように床へ落ちていく。あの布の動き...ポロ、ポロと少しずつ剥がれるようでもあるし、羽化のようでもあるし、友坂さんの体から落ちる布は、いつも踊っている。
東寺の盆は回らないのに、友坂さんの踊りの密度が高すぎて、不在の円運動が錯覚されてしまう。意志とは無関係に何かが、視覚では捉えきれない海流のようなスケールで空間を巡っている。


それにしても、ラストの選曲、あれほど人口に膾炙した、なんだったら少しギャグっぽくすら響いてしまうポジティブさが、ごくごくベタにストレートに響いてしまうことへ、何度でも驚いてしまう。
くるるさんのときもそうだけど、ストリップは音楽の聴き直しが本当に何度も起きてしまう。

 

10月16日(土)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(3)
MINAMI(-)
宇佐美なつ(2-4)
水咲カレン(-)
望海あや(-)

 

東寺は押し進行で、もう1公演観るかどうかかなり迷う。そうこうしているうちにビンゴ大会がはじまり、その牧歌的な空気に浸っているうちに頭が切り替わり、かなり元気になってきたコンディションで宇佐美さんを観たいという気分になり、すばやく移動。2回目2番さんポラ中に到着して、完璧な回し...と惚れ惚れする。
そんなしょうもないことを書いておかないといけないくらいな日。

 

2回目「黒煙」M1カット。
3回目「bubble」M2-3カット。
4回目「w-e(n)dding」M2カット。

 

この日は、かねてからTwitterでやりとりのあったスト客の方とはじめてお会いする。もうわりきって会話に時間を費やして、それは素直にとてもいい時間だった。
踊り場で話し込んでいると、開け放った窓から雨粒が飛び込むほど強い雨脚になり、その奥からほとんどトライバルな金太鼓のリズムが響いてくる。濡れるのも構わず顔を外に出すと、狭い小路を山車が通ってゆく。太鼓のリズムは高まって止むことがない。雨の中それを見送る金髪のお姉さんが、クラブにいるようなノリで一心不乱に踊りまくっている。いい光景ですねと言い交わしているここがストリップ劇場であることを、つかの間忘れかけた。

 

10月17日(日)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(2)
MINAMI(1-2)
宇佐美なつ(1-2)
水咲カレン(2)
望海あや(-)

 

2回目「bubble」M1カット。
なんというか、自分でも意外なほど悲しい気分になってしまう。
ちょっとでも長い時間見たいからだとか、演目として完全なものを見て評価したいだとか、安くない金出してるんだからとか、ましてや遠征してるのにだとか、そういう事とは全く違っていて、もっと根本的な信用が毀損される感じを受けてしまう。
東京までの帰り道、ずっとこのことについて考えてしまった。結局、いたずらに悲しみが募るだけでどうしようもない。言い出すといろいろきりがないし、これについてはもう終わり。

 

1回目の「黒煙」。今回貴重なフルサイズであると共に、しばらく見られないかもしれないから、いつも以上に集中して見る事にした。

宇佐美さんの演目のそれぞれは、当然さまざまに色があって、色ごとに感じかたは違うものの「黒煙」は最もエロさの度合いが高い演目のような気がしつつある。「サマーチュール」もまた、多様なエロさのレイヤーを横断するようで、それがたまらなく好きなのだが、この演目のドラマトゥルギーはある種ストレートで、進行につれてどんどん官能が高まっていくような感触がある。


すでに何度も書いていてる前後半での視線の質の変化は、こちらに「見つめる」姿勢を準備する機能もあるように思う。
人は、人が見ているものを「見る」習性があり、それは「注意」の水準で反射的に生じるものだ。たとえばマジック一般では、そうした観客の「注意」の水準を操作して、ことを行うのが基本となる。だがここには―回りくどい言い回しだが―互いの関係が関係していない(もちろんそれ故のストラテジーと官能が豊かに存在する芸能だということは付け加えておく)。


他方「見つめる」という視線のあり方には、互いの関係が発生しているように思う。また気散じでない、深い没入がある。
宇佐美さんが前半から丹念に積み上げた観客に向ける視線は、いつしかこちらに転移して、鏡合わせのように視線を向け合うことになる。そのうえで、スローに弾む騎乗位のような姿勢で髪を逆撫でるように乱す仕草が、見つめ合う関係をほとんど性的な意味で許容してるかにすら感じる。
いま自分は、ステージ上の身体を見ているのか、その身体の動きである踊りを見ているのか、それともやはりこちらに向けられたままの視線を見ているのか、それぞれの区別が意味をなさない時間が流れ出し、とろけるような気分だけがリアルになっていく。こうして書くために思い出すだけでも、ぐっと気分はそちらに引っ張られてしまって少し頭がボーッとする...こうした甘美さは、即席に注意を引くことでは決して得られない、お互いの関係性が練り上げる真に贅沢な産物だと思う。

 

待ち時間、ロビー天井の不思議なテント張りの形を眺めていて、何か知ることがあるか建築家の友人にLINEして聞いてみた。結果、ふしぎだねえということにしかならなかったが、装飾テントというと昭和の歓楽街のイメージがあるという話になり、それから他劇の建築の特異さに広がり、文化そのものに対して言われるときは承服し難い「昭和の遺産」という文言が、建築自体にはハマってみえることに気付かされた。

 

10月18日(月)[池袋ミカド劇場

海野雪妃(-)
工藤リナ(2)
漆葉さら(2,4)
坂上友香(1-2)
黒井ひとみ(1-4)
望月きらら(1-4)

 

武藤さんいらっしゃるということで、別件に用事もあったので行くことに。さすがに疲れてこの週は諦めるつもりだったが...結論からいえば、望月きららさんを見た過ぎて最後まで居残ってしまう。

 

黒井ひとみさん。「えっちなあいどる」「飢餓海峡」「Black Lily」3個出し。
話に聞いていた「飢餓海峡」は芝居仕立てのストリップ。人形振りからはじめて、黒井さんの一人芝居が物語を進め、性交シーンをストリップ的な見せ場に据えているもの。
東北出身の自分にはどうしても引っかかってしまうイントネーションがあるし、率直に楽しめたかというと難しいのだが、ともすれば「踊り」に焦点化してしまう自分の目を「演劇」のほうにずらしてくれるという意味で、やはり黒井さんは特別な踊り子だと思う。
ストリップは服を脱ぐことだけがそのジャンルの本質であって、そこにどのようなジャンルが介在しようとよいわけで、演劇的なストリップの可能性を黒井さんやその他の踊り子さんが広げていくのに、好みの問題を越えて付き合っていきたい。まあ、ここで言っている「演劇」はずいぶん適当な言い方ではあるが...

 

その点「Black Lily」はストレートな傑作だと感じる。設定・衣装・小道具・選曲のどれもがビシッとハマっている。
略して「BL」とも表記されるこの演目が、同性愛の自由を言祝ぐ作品であることは言わずもがなだが、百合やBLといったジャンル的な想起がエンパワメントするヒューマニスティックな愛の自由を遥かに飛び去って、すべての性倒錯を開放するスケールを持っているとすら感じる。
それはビニールの無頭のトルソーが、見立てとして擬人的であると共に、ポーズベットのとき一緒にひょいと持ち上げられたりすることで、その軽さから単なる"もの"性が浮き彫りになり、擬人的な見立てがつかの間崩れてしまうことにもある。黒井さんが股間に舌を這わせるとき、それはあらゆるセクシャリティが対象であると共に、ビニールのトルソーそれ自体に欲望している可能性を考える。なぜなら「神様は何も禁止なんかしてない」のだから。この「何も」をこそ、文字通り受け取るべきではないだろうか。無限定の性の自由が、修道服の天国とボンデージの地獄の間に、高らかに肯定される。

 

望月きららさん。天才。
1回目「酔っ払っちゃった〜」は、小道具に酒が出てくる。すると当然、"酔ったから脱ぐ"という展開は即座に予想できてしまうわけだが、そうした予想は完全に的中しつつも、それに至るプロセスが記憶しきれないほどに豊か。あらゆる時間に「芸」の刻印が深々と刻まれていて、視線も客とのコミュニケーションも脱衣も、すべてに見どころがある。
何より驚かされるのは、重機が駆動するようなポーズの切り方。ただ脚が宙に伸びるのでなく、支える足が体全体を起こしつつ、しかし一度沈んでからまた持ち上げるような、多段階の運動を行う。あれは一体なんなのか。

 

3回目「Run the World」もM1から驚愕。黒と金を基調にしたド派手なヘッドドレスを装着しながら、ピンヒールブーツでガッツンガッツン踊り倒す。しかも、世界一有名な女性パフォーマーの音楽を使って...ギャグめいて本人は「スーパーボウルのハーフタイムショー」などと言うが、その"圧力"に関してほとんど見劣りしない。
きららさんは、小柄にも関わらず、信じられないほどヘヴィな質感のダンスをする。それは自身の胸の大きさやお尻の張りを完全に自覚的に武器にしていることにもよるだろう。かといって、線形の流麗さというか鋭角さもある。なにより踊る喜びがある。そして、その喜びがまた次の踊りを招いている。

 

きららさんについては、様々に考えられることが多い。
とりわけ、サービス精神が一秒たりとも休むことがないのに、「芸人」的なパーソナリティー特有の臭みが皆無なことだ。
自分は職業病的に、芸人の行為の"狙い"を敏感に感じてしまうし、それが感じられると一気にしらけてしまうこともあるのだが、きららさんが意識的に何かを仕掛けても、不遜な自信や慣れが本当に感じられず、けれども"天然"とかでもなく、これをなんといっていいものか非常にむずかしい。こんな人、なかなかいない。もはや天性の芸人肌と考えるほかない。

 

ミカド劇場はキャラの濃いお客さんが多い気がするけれど、この日は際立っていた。
そんな中、ちょいちょい落ち着きなく中座していた酔っ払ってるおじさんがきららさんのポラ中に戻ってきて、事あるごとに笑っていたのだが「笑ってるけど、さっきおらんかったよな!?」「ぴったりの演目やってたんやけど?」「いや、いませんでしよね!?」と絶妙の間で何度もイジり倒していた。あれは真似できない...

 

 

 

10月25日(月)[ライブシアター栗橋]

黒井ひとみ(1-3)

安田志穂(1-3)

蟹江りん(1-3)

ささきさち(1-3)

小宮山せりな(1-3)

 

ある程度の地の利もあるにせよ、栗橋に行くことになんの抵抗もなくなった自分に気づく。開館記念興行だけに、劇場の外にデカデカと花輪が並んでいた。場内も月曜ながら盛況。
栗橋の定位置になりつつある2列目上手端につく。ここだと盆より低い本舞台がちゃんと見える。

 

黒井ひとみさんは「エスケープ」「飢餓海峡」「Black Lily」3つ。
この日は黒井さんがトップだったので、1日のスタートに「エスケープ」を観ることに。贅沢なはじまり。

飢餓海峡」はミカドで観たよりずっと入り込めた。その時々のライブ感で演技も変わるとのことだったが、ぐっと抑制の効いた台詞回しだったのと、高輝度の栗橋の照明が時代がかった演出を後押ししていたように見えた。

 

今回はささきさちさんの演目が圧倒的に好みだった。
「デビュー作」は6月に一度だけ観ていて、その時はストリップ自体にも慣れていなかったせいかうまく受け取れてなかった部分と、おそらくはささきさん自身の変化も噛み合って、かなり印象を違えた。何より、王道アイドル曲からはじまるM1から妙に色っぽい。ささきさんの踊りは音の流れと共にドライヴするような振付でなく、動きの単位も短くポージングのように静止する間も含んだ余白の多いもの。しかし、その余白を満たしていくような音楽の聴こえ方がある。
ベットに進むと、そうした余白はさらに広がり、ほとんど何もしていないと言っていいほどで、動きの記憶もほとんどない。けれども確かに充実した時間が流れていた。痩躯の、裸体の飛び抜けた美しさもそれを支えている。
同時に、乱れた前髪の隙間からのぞく視線は柔らかく穏やかな雰囲気と違いずっと意志的で、イニシアチブを逃さない確かさも備えている。以前からささきさんのベットの「エモさ」が気にかかっていたけど、この視線の質感に拠るのかもしれない。

 

「スリーピーガール」がかなり素晴らしく、この日いちばん、あるいは今年を通して忘れがたい演目がまたまた増えたほどだった。
衣装替えでパジャマ姿になり、マイムによって寝支度をはじめ、盆入りではうつ伏せになり寝しなに漫画を読む様子を見せるだけ、という流れに。
この盆での様子が妙に充実感あり、このまま終わっても別に文句ないなと感じてしまう。特に積極的にエロさがあるわけでもないのに、なぜこの時間が持ってしまうのか。
電灯を消す効果音に続いてカットアウトの暗転。夢見心地のストリングスが入ってくると、明転してピンク色の照明の中で股間をまさぐりだし、じっくりとオナベがはじまる。
脱衣後のオナベはかなりハードかつ、リアリズム志向の演技。快感に閉じつつある太腿をはたく仕草に生々しさがある。


8中で観た「海」もそうだが、ささきさんのオナベでは音楽が行為に対してまったく非同期的で、快感や官能の高まりに対してほとんど情緒的・意味的なアシストをせず、さながら盆の回転のように、ただ単に機械的に流れているようなドライさがある。
しかし、2曲使いで行為に跨って流れるそれは当然、作家的な判断の結果であって、BGMが漫然と流れてるのとはまったく違う感触であることを強調しておく。
他の踊り子さんの演目でも、音楽とズレつつベットが行われることをことさら好んでいたが、「スリーピーガール」のオナベはそうしたシーンを自覚的に提示している"作品"として受け取ることができた。


最初のストリップの感想でも書いていたが、特にベットショーでは身体の動き・盆の動き・音楽という3つの要素がひとつの認識のフレームに収まりながらも、場合によってはそれらが分離的に感じられることがある。
同期系として単一に見るより、非同期系として複雑に要素が平行的に動いているように見るほうが、圧倒的にスリリングである。もうちょっとこの感覚について考えていきたい。

 

10月28日(木)[渋谷道頓堀劇場]

水咲カレン(1-4)
るあん(1-4)
石原さゆみ(1-4)
望月きらら(1-4)
六花ましろ(1-4)

 

久々の道劇に香るスモークが「ホーム」を思わせてしまう。

こんなに言いたいことの多い香盤もないが、望月きららさんの圧倒的な"優勝"の空気にすべてが持っていかれてしまう。何から何をどう言えばいいのか。そして、差異の問題を超えてここまでストリップに心底揺らされる可能性が残ってるとは(本当におこがましくも)、正直思っていなかったかもしれない。たぶん、まだまだ、これからも何度もこういうことがある。

 

るあんさん。アリスをモチーフにした奇数回の演目が職人の技が冴える工芸品のような演目で感嘆。ご本人のキャラクターとコンセプトの合致はもちろん、ベットで同じ曲のカバー/オリジナルという二曲を使うのも面白い。
そしてあの息の長いポーズは、細い糸を切れないように、しかしグッとテンションをかけ続けるようなスリルと繊細さがある。

 

石原さゆみさん。3個だし。3回目にクリスマスの演目を出していて爆笑する。早すぎる。
着る服を客に選ばせるシーンがあるのだが、させたいことの意図が明瞭な手つきで行われていて勉強になる。
CAの演目では、脱力した3カウントの指折りが何ともいえず目を引く。それが服の前を開いた後にも反復され、着衣と脱衣のシークエンスを段違いのままに繋いで、その接合の落差にグッとくる。
新作はほんとうにシンプルに踊りを見せるだけの演目。ジャズダンスから社交ダンスへ移行して、ベットショー。髪を解いてザッとかきあげる仕草。夏にあんな飛び道具的演目を繰り出してた人とは思えない。かといって、それが物足りないかというとそうでもなく、ほんとうに言い難い感覚がある。
こう言っては何だが、そして素人が技術の判断に踏み込む危険もあるのだが、石原さんはそれほど踊りやポーズが達者な踊り子ということでもないと思う。にも関わらず、見ているとどんどんその人が気になってクセになってくる感じ。
指パッチンのとんでもない脱力感はリズムも完全に無視しているし、そもそも音が鳴りようのない弱々しさで、どんな意識の持ちようだとそうなるのかさっぱり分からない。他方で、歌詞の「乾杯」にあわせて手首同士を打ち付けてグラスを模す振付は妙に鋭角だし、何をどう考えてるのかさっぱり読めない。
また立ち上がりでポーズのアンニュイさから解放的に笑顔で踊る様子は、プロのダンサーというより踊りが好きな女の子がたまたま流れてきた好きな曲で踊って見せてるような親しさがあり、それがまた妙に良い。
さゆみさん、見れば見たぶんだけ気になってくる。

 

望月きららさん。4個だし。先週も4個だしで、気合からして違う。
1回目の「シンドバット」は盆からはみ出るくらいのビニールボートに乗って、財宝をゲットしたりエキゾチックな美女に出会ったりする。
ベットで、財宝の箱を開けて宝飾品をザラザラと胸にかけるくだりの"わかってる"感じ...きららさんも、変な「演技(=意味)」ではなく、徹頭徹尾「運動」を追っている。そしてポーズがまたとんでもない。
ツイートでふと感想を漏らしたら、フォロワーの方から同意を頂いたのだが、きららさんのポーズは植物の成長を早送りにした映像のような躍動感がある。ぐーーーーっと伸び続けて、伸び切ってもまだ動きが有り余るような、生命そのものを圧縮したような運動。値千金。

2番目、春野いちじくさんのレンタル演目「ナース」に撃ち抜かれる。
ユーモアとエロと先鋭的な選曲センスが矛盾なく絡まりあって、演目の完成度という点で天才性を感じる。とてつもない。
キャスター付きのスツールを袖から出してヒールで踏みつけて押さえてから、本舞台中央から盆の面へと上体を乗せて子供のように滑っていくとき、舞台は一気に活気づいてしまう。いちじくさんがどう演じているかわからないが、まず目の前にいるのは小道具を扱わせたら第一級の名人であるきららさんであるから、単なるショボい椅子も生き生きとした命を持ち出す。
また、注射器から粘性の高い液体をとろーっと垂らすベットまでのシークエンスも、絶妙という他ない。ここの選曲が抜群。その"エロ"には既視感もあるし、注射器をファリックなイメージと重ねるクリシェなんて面白くもなんともないはずなのに、芸と演出の力だけで、完全に真新しい何かを作り上げてしまっている。あまりの格好良さに一時間くらい頭がこれに占有されてしまう。
ツイートで伏せた名前を出してしまうが、宇佐美さんをはじめて見たときに迫るインパクトがあった。影響関係があるのかどうかまったく知らないけれど、ある種の血族というか、知性とエロが矛盾なく同居しているあり方はここにもあるのかとショッキングでもあった。

3番目は花魁の演目。衣装の豪奢さ極まる。
ストーリー性のある演目は、どこかストーリーを"語る"手つきに作為が集中しがちな気もするが、きららさんはやはり細部の芸で見せてくれる。
ことに、恋仲の男からの手紙の扱いが多様で、たとえばラスト付近では縦に折られた手紙を男性器のように舐め回してから開いて、横に90度回転させてくわえると、視線を下方へと誘導し、簡潔ながら濃厚なオナニーがなされる。情緒で解決せず、常にこういうシャープな展開がある。

4番目新作「Madness」。暗転のまま幕が開くと中空にプラズマボールが光っている。明点すると魔女めいた装い。重めのドレスでこれはどう展開するのかと思うと、早々に身軽になって、身体の赴くままに踊りまくる10数分。肘までの手袋を口ではぐように脱ぎ捨てる仕草で、何かが弾けるように空気が変わり、壮大な選曲に一瞬たりとも負けないポーズベットの身体性で、ただただ空間を圧倒していく。
かといってポーズが乱打されることもなく、記憶では3〜4回程度だったと思う。では何が起きていたのか...というと思い出せない。

競技会では、「ああ、この人が優勝だな」という空気が会場を満たしていくことがままあるが、この「Madness」では、そうした圧倒の共有が客席全体にも満ちて、声にならない熱狂がそこまで迫り上がっているのを確実に感じた。
ただ踊るだけ、ただポーズを切るだけの、実にプリミティヴな構えで、この世で最上のパフォーマンスのひとつと思える充実をこちらに叩きつけてくる。

6結の栗橋で遭遇して以来、芸の巧みさと徹底されたド下ネタ演目でサービスし続ける天性の芸人という理解が、先週の「Run the world」と、この「Madness」でまた塗り替えられていく。

 

先日のミカドがあまりに素晴らしかったので友人たちを促した。
すると観劇に行った1人が、ラストの「反抗期」しか観られなかったものの満足したと連絡が来たので、冗談半分で明日も行きましょうと言ったら、本当に行って「Run the world」にも間に合ったと。
それから一週間経ち、道劇にも現れ、続けてその翌日も行って、ついに金銀銅杯への遠征を考え始めているらしい。人は、人の行動を簡単に変えてしまう。
また別の友人。8中道劇で初ストリップを経験して、今週再び石原さゆみさんに遭遇。今回は何か刺さるものがあったらしく、ポラに並んでいた。
それぞれ、自分が初めてストリップに誘った友人たちだが、それぞれがそれぞれに刺さるステージを見つけていて、勝手に喜ばしい思いになる。