これは追悼ではない

 

仙台、石巻、郡山、越谷、吉祥寺、横浜、大阪。記憶に不足がなければ七つの街で夜を明かした。それは、芝居がかかっていたテントの下を間借りして眠ったということだ。テントでは単なる木の板の上に置かれたウレタンのパネルが座布団で、眠るものにとってはマットレスとなる。掛ける毛布の類は多めに用意されてるそれを借りた。そんなところでたいして眠れるわけもない。目が覚めたというか眠れなかったというかの早朝、濃い霧に隠れた街を散歩したことがあった。
どくんごは、テント芝居をする劇団として鹿児島を拠点に春から秋にかけて日本を一周する形で各所で公演を行なっていた。建て込みからバラシまで、現地の受け入れの有志数人を除いては、自分たちだけでこなした。荷物を2台のトラックに積み込む手続きは鮮やかで、一部の隙なく何から何まで収まってしまう。作品は2流だが、積み込みは1流なんだよと、特に自虐でもなさそうに話したのが、主宰のどいのさんこと伊能夏生だった。2年の闘病を経て、昨日11月23日の朝、鬼籍に入ったと報せがあった。

私がはじめてどくんごに接したのは2012年。ツアータイトルは『太陽がいっぱい』。それまでの「犬」シリーズを終えて、新しいシリーズへと移行し始めたタイミングだったはずだ。確かこの年から背景幕を引幕にして、場面ごとに入れ替える演出をとっていた。幕には手描きの絵が描かれていて、大抵は演目と直接関係なさそうなものだった。それら背景幕がなくなり、大黒代わりの紗幕を引き払うと、借景として公演地の光景が途端に目の前に広がる。客の視線はその広がりの奥行きをこそ捉えるから、外使いも自ずと奥行きを優先したものになる。すなわち、舞台から外の奥の方へと歩み去っていくこと、あるいは、奥の方からこちらへと歩み寄ってくること。この場面の格好よさは、選曲も相まってとにかく抜群だった。
団員全員が外をランダムに歩いたり舞ったり何かしていたりする混沌としている状況の表現も毎回あった。この場合、照明によってエリアコントロールが発生して、それほど遠くまで視界が伸びることはなかった。単に広い舞台という感じで、それはそれで美しいと思いつつもあまり感心した記憶はない。
どくんごは別に完璧な劇団ではなかった。旅を始める春までの間に鹿児島で合宿をして、団員それぞれがそれぞれにやりたい演目を練って、場面転換や衣装替えなどの外在的な都合との調整も含めて条件をクリアしたものが本編に出される。このクオリティが旅の始めから100%であったことはなかった、のだと思う。少なくとも往路後半の仙台でそれが整いゆくこと、また仙台の口の辛い受け入れたちからのダメ出しを経て、ようやく本州を離れた北海道で一息つくと、どいのさんが話したことがあった。実際、仙台より手前の公演地越谷で見たとき、何をしたいんだかさっぱり分からんというシーンが複数あった。だがそれは、日々の調整で驚くほど見違えた出来栄えに変化する。こうした変化に客や受け入れの感想がどれほど作用したのかは知るべくもないが、それらの話は毎朝団員全員が集まった反省会によって全体に共有されているとも聞いた。
どくんごは、とにかく「話を聞く」劇団だった。かなり辛辣に批判しても、団員の誰かに嫌な顔をされたことは一度もない。これは団員の資質もあったろうけど、幾分はどいのさんの立てた方針でもあった気がしている。全国を旅して芝居をするにあたって、各地の受け入れの協力を得ることになり、自ずと受け入れの人間とコミュニケーションを取る機会が増え、芝居もそれに応じたものになってはきた、と、どいのさんが話したことがあった。
芝居に注力していたとはいえ、それは地道な生活と違いがなかった。毎夜の舞台はハレの日などと言うほどのこともなく、淡々たる日常と地続きで、ただ、その日常の輪郭がブレて異界を現出させるようで、どこか妖怪的であった。自分は旅がしたいんだよねと、どいのさんが話したことがあった。真面目にサラリーマンしたところで、カリフォルニアに家買って、そこのポーチでのんびり過ごせるような人生が手に入るわけじゃないでしょ、旅ならこうして芝居をしながらできる。だから旅をしている、というようなことを言った。特段「旅」に関心があるわけではない自分はその話に共感するわけではなかったけれど、芝居を日常から乖離した特権的な芸術として扱っているわけではないことは分かった。
震災のあと、「この日くらいは楽しもう」というコピーで宣伝しようとした公演地で、「ええ!この日だけなんですか!」と答えたと、どいのさんが話したことがあった。それには本当に共感した。毎日が楽しければいいし、退屈であったり苦痛があるなら、それは変えるべきである。少なくとも、そのような精神の向きようを手に入れるべきである。どくんごの芝居はそうした「毎日」の塗り替えだと思っていた。どくんごが競ってラディカルであろうとするとか、後ろ向きに安手の幻想を守ろうとすることは、私が見ていた限り一度もなかった。日々の究極的な無意味さを基礎に、単にひとつの生活として旅や芝居をしていたように見えていた。
テントの中でどいのさんと話しているとき、ここには無名のまま死んでいっただろう数多の旅芸人の霊が通るように感じる、と話したことがあった。そうしたことを誰かに話してみようと思ったのは、どいのさんがはじめてだったはずだ。どいのさんは肯定するでも否定するでもなく、へえ!ほんとですか!おもしろいですねえ!とデカい目を開いて笑いながら聞いていた。ほんとですか!はどいのさんの口癖だったと思う。
そして私がそんな話をしたのは、どくんごの芝居に落ちる死の影を感じていたのと、もっとリテラルに、すでに癌の発病を経験しているどいのさんの生が、いついかなるタイミングで閉じられるか分からないと、他の誰かより具体的に感じられたからだ、と思っている。会いたいと思う人にはその時に会っておくべきだ、ということをリアリティを持って感じたのはどいのさんが最初だったし、以降、そうした行動原理を第一に置き続けている。

そのどいのさんが、いよいよ亡くなってしまった。最後に話したのは2019年6月9日。大阪。芝居が全然ダメなんじゃないかといういつも通りの話を手短にしたくらいで、確かその日どいのさんは早々に寝てしまったのではなかったか。いや、自分が珍しく宿をとっていたから、そこに帰るために早くテントを離れたのだった。以降、これといった接点はなかった。2022年10月に鹿児島で芝居をやるという告知があったが、どいのさんが腸閉塞を併発したことによる結果、公演は叶わないまま終わった。もしこれが予定通り行われていたら、どくんごが旅を休んでいるうちに知り合った、どいのさんに会わせたい人が何人もいたから、連れて行きたかった。あのテントで話をしたい人たちが、何人もいる。無念の思いが強い、と公演中止を知らせるどいのさん自身の文に書いてある。私たちもその無念を引き取って生きるしかない。
遺体がまだこの世にあるうちに気が早いが、どいのさんもまた、無名の旅芸人の霊のひとつとして、宙に魂の一部を漂わせるだろう、と思っている。訊いたことはないが、歴史に名前を残すことに頓着する類の人間ではないと踏んでいる。幽霊にでもなるほうがよほど信じるに値するはずだ。
だからこれはどいのさんという人間への追悼ではなく、彼の霊を、この文をここまで読んできた/書いてきた、あなた/私へいくばくか取り憑かせることに向けられている。彼の磊落な声、見開いた目の大きさ、照明卓や照明をコントロールする手や指、欠けた歯で噛むパイプからのぼる煙のゆらめき、昼間に弾いていたバンジョーの遠くまで通る音。これらの記憶とその記述を依代にして、彼の霊が、日々を憂いて何かを変えたいと望むすべての人間の一部に混ざり、あなた/私の身体のなかで生きて、また死んでいくことになるだろう。