思いつきなしの思いつき (香水の話)

書きたい話、何かないかな〜……思いつくことは別にない。

そうね、最近、香水が気になっている。もともと「香り」というものに漠然とした興味はあった。きっかけになったのは、友人についていってシーシャを吸うようになったのが大きい、と思う。シーシャは「おいしい」と言ったりするので味覚にまつわる経験ではある。まずいシーシャというのはある。うまいシーシャもある。つまり「味」がある。くさいとかかぐわしいとかいうことは、まああるにせよ滅多には言わない。うまい、まずいで測られる。そうはいっても、咀嚼するでも嚥下するでもなく文字通り煙を口に含むだけだ。

だから、ここから「香り」というルートを見つけたのはわりと勝手な思いつきではあるのだが、それは別にいい。

朝吹真理子の、なんといったか、図書館で借りた瀟洒な装丁のエッセイ集を、いつだった? 多分、コロナに入って最初の年か翌年あたりに読んだ。そこで、六本木でアルゼンチンの香水メーカーのお店に行ったという話があって、そこではフレグランスメーカーの具体的な名前は出てこないのだけど、これはフエギアだ。それを調べた。

調べて、六本木はちょっと遠いから銀座にもあるらしい店に行ってみた。ググってみてほしいのだが(ChatGPTのおかげで死語になるかもらしい、まださわったことがない)、じつに美しくデザインされた店内で、それだけで期待は高まる。店員さんのユニフォームもモード系でかなりイケてる。クジャク、というブランドらしいことを最近知った。衣装に着てみたいなと思ったけどさすがのお値段なので、ご縁があれば。で、そう、フエギアでは香水瓶にフラスコがかぶせてあって、これにその香水が吹きつけてある。手にとって返すと、その香りがするのだ。

ここからは語彙がない。というか、そうした語彙の届かなさがいちばん惹きつける。
漠然とした「いい香り」のイメージってあるだろうけど、そうした「いい香り」のイメージは、じつのところ、かなりぼんやりしている。そう、イメージ。

「いい香り」、まあ石鹸の香り、としておこう。石鹸のいい香りがする。あるいは、何でもいい、何か好きな花の匂いでいい、そうした花のような香りがする、としよう。つまり、香りと香りを発する物質のイメージが問題なく結びつくということだ。
しかし、フエギアの香水は、そうした対になるイメージを与えることができない。感覚的な快はある。むしろ深くある。ただ、それがどう「いい香り」なのか、まったく言い表せない。店員さんのサジェストにより、いろいろと手がかりを得るが、それでもよく分からない。

聞いていると、それぞれの香水には物語がある、と教えてくれる。個別の物語には関心が薄いので忘れてしまうが、とにかく、ある。物語によって、複雑な香りの組成が霧散せずに仮止めされている。なるほど、と納得が訪れる。相変わらず自分はそれらの香りについて何かを言うことはできないが、ひとまず調香師の与えた足場を得られる。香水には物語があるのだ。

この物語は、イランイラン、サンダルウッド、ペチパー、ユーカリジャスミン、アルデハイド、イチジク、タバコ……なんでもいいが、そうした香料の合成によって還元的に、一義的に読まれる答えではないが、香料の合成がそれ自体ではなくイメージとして手に入れられることを望んでいるのだ、ということが分かる。「いい香り」という経験と「物語」という把握は、決定的ではないにせよ、ひとつの枠組みとして機能している。

香水には男性用・女性用というよくわからない使用対象の振り分けがあるが、これとてイメージの問題である。そんなものはないわけだが、イメージとしての存在までは否定しがたい。いま私がつけているDiptyqueのTEMPOという香水は、いちおう「男性」向けということらしいが、それを知らずにつけたとき、むしろ「女性」向けの香水なのかなと感じた。そうした想定のズレはどうでもよさそうだが、「男性」のイメージのゆらぎを与える。パブリックには「男性」というイメージが共有できて、私がひとりだけカンが鈍いということもありうるが、ともあれ私の「男性」イメージはこの香りによっていくらかゆらぐ。イメージが合成される。ジェンダーイメージは掴みどころのないものとして、香りのようなものとして、揮発的な、新たなイメージを纏いはじめる。

フエギアの話だった。
道後での公演を終えて、わりと息が抜けたので、ちょっと大きめの買い物をするかと、フエギアにもう一度行って、Paisajeという香水を買った。店員さんに細かく話を聞きながら試香していくうち、すっと入ってきたのがこの香りだった。「風景」という意味を持つ名のこの香水は、ジンジャー・ユーカリ・カルダモンを主に構成されているらしい。ぴりっとした香りが鼻の奥について、身体の輪郭がシャープになるような感じがする。さっきも使ったけど、香水は「纏う」と言うのだ。とはいえ、香水は点状に、手首や足首といった血流の多い箇所に吹き付けるから、香水がじっさいに全身を覆うわけではない。覆っているのは、やはりイメージなのだと思う。イメージを纏うのだ。曰く言いがたさを、自分に乗せる。そのぶんだけ、自分が複雑化して、同時に、有限化される。paisajeという外縁を手に入れる。

ただ、それは時間的構成を持っている。じょじょに香り立ちは推移して、時間ごとに特徴的に感じられる香りの成分は変化する。そして、やがて揮発しきって脱ぐことなしにそれが脱ぎ去られる。

それはすごく面白いのだ。一足飛びに、単なる感想に飛びついてしまうのは、経験を解いてパターンを把握できないからだ。面白い、でも何が?

この何が?が作動すると、関心が持続する。何が? どうして? 問いかけは、まだ問いかけとしてもぐずぐずで、粥状だ。

ともあれ、思いつきなしに書き出すと、こういう思いつきが出てくる。それでよい。