白雪・萩尾のばら周年週 あるいは「私」を問い続けることについて

※以下記事は演目の内容について詳細に触れています 

※2月2日脚注追加

 

 

 劇場をはじめて訪れたとき、眼の前で踊り、やがて裸体になっていく彼女たちの名前を知っていることはほとんどない。そこにあるのは肉体だけで、ときおり目を惹く舞台があるにすぎない。
 しかし、やがて馴染めば無名の彼女たちは固有の名を持つ個人であることがわかり、そのパーソナリティーを含んだ顔見知りになっていくこともある。私は「白雪」「萩尾のばら」と名乗るふたりを知っているし、ふたりもまた私のことを知っている。

 周年週。つまりそれぞれが名乗り、その名のもとで舞台に立つ最初の「週」を記念する1年に1回の祝いごとである。白雪と萩尾のばらはそれぞれ2022年1結・2021年1結、すなわち1年違いの1月21日にデビューをしたということだ。
 私はたまたま白雪のデビューステージに居合わせていた。形式を備えた「ストリップ」らしいステージだったかどうかは別として、恐れもなく破顔して踊る彼女の顔つきを忘れられない。客たちは彼女の来歴を想像し、今見たステージのクオリティや今後の行く末を勝手に話題にしていたのだった。
 そうして2年が経った。

 また萩尾のばら。彼女に関しては昨年も周年作の感想を残していた。個人的なエピソードはそこに書いたとおりで、2023年も時々ステージを観ていた。『ろーてく・ろまんてぃか』という夏頃に発表された新作は今までにないほど萩尾の身体性にフィットしていて、普段着の色気を描いていて素晴らしかった。多作と言っていい演目群が、自己イメージを更新しては「萩尾のばら」のステージやパーソナリティを豊かにしていた。そう思う。
 「私」が演目を作り、また演目が「私」を作っていく。
 
 3周年作になる『I am』はタイトルの通り「私」そのものが主題になっているようだ。昨年の『プロローグ』同様、しかしより語る主体=萩尾のばらに近い形での自己言及が予感される。私は……そのあとに何が「私」の内実を定義するものが置かれるだろう? またそれは選曲の歌詞などで理解の補助線が引かれるだろうか?
 ふたを開けてみれば、萩尾の3周年作はじつにストレートなダンスナンバーとして提示された。だからひとまず、萩尾自身が定義する「私」は踊る者だと言えるだろう。振付には何か意味ありげな身振り≒マイムが関わることはなく、ビートに乗せて、おそらくは過去最高密度の手数で攻め込んでくる。
 これは初日以降に変化を起こしているが、初出しのステージにおいては過去の振付語彙が散見された。とくに『ろーてく・ろまんてぃか』でひときわ印象的な両手の人差し指を口の端に差し込んでイー、と広げるようなキュートな振付が、『I am』でも現れていた*1。なるほど、私は踊る者であり、踊り=振付によって事後的に成り立つ私でもある。萩尾のばらの身体に紐づけられる特徴的な身振りは、ほとんど「萩尾のばら」を形づくるピースとして、あるいはアトリビュートとして、彼女を構成し、縁取っている。かといって、たとえば多くの者が知っているだろうマイケル・ジャクソンムーンウォーク股間に手を添えてバウンスする痙攣的なムーブのようなものでもない。
 だが萩尾のばらを形作っているだろう振付が萩尾のばらと密接にあるように読めてしまうのは、他ならぬ私自身が、萩尾のばらを萩尾のばらとしてそれなりの期間・回数を見てきたからに過ぎない。その動きは劇場でしか流通しておらず、イメージとして各メディアに繁茂することはない。そもそも私が『I am』という演目名を、ステージで演じられているダンスナンバーと紐づけ、それを読もうとすることできるのは、彼女のSNSでの投稿を読んでいるからだ。
 演目を読む手がかりは、彼女との関係があり、また関係の濃淡に支えられている。それらははじめて劇場に訪れた観客にはまったく与えられていないものである。さらに言えば、前前段落冒頭で言ったように「初日以降の変化」を、後日の再見によって確認できたということ、再見をうながすほど私が劇場に親しく、また萩尾に相当程度近く、くわえて演目に魅力と謎を感じているからだ。そもそも、知らない誰かが「私」を問い、「私」を語ったところで、誰が興味を持つというのだろう。
 それでも、自己言及と自己提示は確かになされている。「私は」と踊りによって語り、ステージ上では聞こえてこない声を出すことをやめてはいない。私にとって萩尾のばらは名もなき誰かではなく、女の裸を見せてくれる都合のよい客体でももちろんなく、たんなるサービスの一部のなかでなされたやり取りとは言え、互いに具体的な記憶を持つ関係がある。萩尾の「私は」という語り始めに耳を傾けるしかないし、聞き届けることが求められていると感じる。

 とはいえ、それはけっして深刻なものではない。至って軽快に、さながらミュージカルの場面のように萩尾は踊り続ける。しかし、 M1が終わり暗転とともに袖にハケたあと、英語による複数人の話し声が流れ出すM2。なかなか明転がかからないままに萩尾の再登場を待っていると、白地にピンストライプが引かれたツーピース(パフスリーブがひじょうにキュート)の衣装に着替えた萩尾が舞台に飛びしてくる。M1よりもずっと振りを詰め込んだパートに目を奪われていると、M2のラストに行く前に舞台は溶暗していく。その中でも萩尾は明かりが落ちていることなどに気づく様子もないと言わんばかりに踊り続けていく。
 そして曲中暗転は、じつに25小節以上に渡って続く。このM2。M1との連続性は衣装の変化によって断ち切られているし、長い不在は続くM3との連関も追いづらくしている。とはいえそれが瑕瑾に思えるかと言えばそうでもない。M3の"DIVA"によるゴージャスな選曲は演目を高揚感に包んでいく。だが、ミッシングリンクがあるという感覚も確かに残っている。「私は」という語りは、M2の独特な照明演出によって語り手と語りに距離をもたらしている。その間には「私」を編集する、もうひとりの見えざる「私」がそこに影を落としているかのように思える。
 高揚はストリップの尋常な形式に則っている。また、いつになく熱を帯びてときおり顔を歪ませるように情動に突き動かされる萩尾の顔つきも見える。舞台は強いバイブスをもって観客を引っ張り込む。
 私はとても生意気だ、と韓国語で言い募る立ち上がりは、萩尾のパーソナリティを知っていると、ほとんど真逆のことを言っているように思える。そのようにありたいという宣言なのか、それとも本当に私は生意気なんだと思っているのか、あるいは歌詞のことなんかよく知らずになんとなく好きで使っているのか、いずれにせよ萩尾のばらがどういう根拠でその曲を選んでいるのか、また暗転にしてもどういう意図があるのか、私は知らない。訊ねるつもりも今のところない。
 ただ、踊る者としての萩尾のばらが踊りによって「萩尾のばら」という存在を生き続けているように、わずかな時間でも観客と言葉をかわし合う、関係する者としても生きていることは間違いない。だが劇場を離れれば、お互いに生活の具体も分からない。どこに住んでいて、どのようにこれまで生きて、さらにいえば"本当の名前"もなんというのか知らない。私に見えているのは溶暗の中で踊る彼女の姿のようにぼやけたものでしかない。見誤りもあるだろう。早合点の勘違いもあるだろう。また、萩尾のばらも私を、あるいは逆光に佇む私たちの姿を、正確に見届けることはできていない。私はとても生意気だ。そうだろうか?私はそう思うが、私がそう思っていることを萩尾はどう思うだろうか。

 

 現時点でタイトルが発表されていない白雪の2周年作もまた、周年作の自己言及性のフレームの中で作られた演目である。そのように断言できるのは、明転に先行して前奏曲のように流れるM1と共に閉じられた幕が開くと、一幅の絵画のよう(活人画!)に立っている白雪/白雪姫の姿が目に飛び込んでくるからだ。ディズニー映画によって馴染みの、あの白雪姫の出で立ちがそこに再現されている。
 白雪は、ときおり客たちからそうも言われるように(またSNSのユーザーネームがそうであるように)白雪姫として「私」を位置づける。ただしそれはあまりにもパブリックイメージに準じた自作自演ではある。けれども、周到な白雪は観客へ差し出すバラやリンゴの他に、ちょうどリンゴと同じくらいの大きさの光るボールのようなものを手にしてもいる。M1のラスト、その発光体に口づけるような、あるいはかぶりつくような仕草をすると、音楽は劇的に高鳴り、白雪/白雪姫は袖へと消え去っていく。リンゴ。白雪姫の物語においてはまず「毒」であるその果物は、言うまでもなくキリスト教においては禁忌の表象として象徴付けられている。白雪はそうした毒と禁忌を発光体によって表象している。
 人工照明はストリップの前提である。かつて一条さゆりが蝋燭の火を光源として持ち込んだことはあれど、踊り子は自然光によって照らされることはほとんどありえない。言うまでもなく、裸体の提示は劇場というグレーゾーンによって成立しているからだ。
 白雪が「白雪」であるためには光を必要としている。だが光は毒/禁忌でもあった。私を照らすものは、私を蝕み/阻むものでもある。白雪は白雪というペルソナを演じ、それがゆえに「白雪」として生きられるにしても、そのパーソナリティにはこうしたアンビバレンツが内在しているのではないか。
 M3、全身を覆う白く薄いヴェールをかぶり、そのヴェールの中で先ほどの発光体を捧げるように持っているのが見える。下着はつけているものの、胸も含めすでにほとんどが裸体である*2。しかし目にはレースがあしらわれた目隠しをしており、夢遊的な足の運びでゆっくりと、光に導かれるようにして盆を目指して行く。照明も限りなく暗いブルーに包まれている。
 ヴェールを払うと、あらためて裸体が現れる。ストリップにおいては、すでに眼差しているはずの裸体も、薄衣ひとつあるかないか、あるいは「脱ぐ」という契機を挟むとまったく違ったものとして現れ直す。そしてタトゥー。デビューのときには(たしか)足に入っていただけのそれが、いまは腕や胸元など、複数に増えている。私はこの変化を知っている。どうしてか、この裸体の現れにタトゥーの存在がきわめて強く目に入ってくることに気づき、また、胸や局部といったいかにも「裸体」めいたものよりよほど生々しく白雪の身体を表しているように見えた。白雪は光に盲たまま、身体が衆目にさらされる。我々はその身体を見つめる。あたかも「白雪姫」というペルソナをも脱いだ、代えのない、まぎれもなく白雪と呼ばれるその人の固有の身体として、それを見る。ただ、同時に、光に照らされた限りにおいての身体でもある。見せる/見られる身体そのものが、「白雪」というタトゥーであるかのように、私は受け取る。
 そして繰り返される、年をとっても美しくなくなっても、私を愛してくれる?という歌声。私たちは、そう白雪自身から問いかけられているかのようだ。しかし、私は知ってる、あなたが愛してくれることをと、私たちの返答は待たずに信頼を投げかける。
 そうした先に、鳥の鳴き声が流れはじめてまるで目覚めたように目隠しを取り去り、発光体がその中に溶けいるように強く明るい照明が白雪を照らし出す。あなたは踊ることができる、人生を楽しむことができる、この踊り子≒私をあなたは見つけるんだと強く鼓舞するような歌に乗せて、光は毒であることを飲み込んだうえで、あたかも自分自身が光り輝くようにかつてはそう上手くはできなかったはずのポーズを、多彩に繰り出す。

 ストリップにおいて、あなた/私と呼び合う関係は固定的ではない。踊り子にとっての「あなた」は観客だが、観客にとっての「あなた」は踊り子であり、そうした立場の差は盆を中心とした劇場空間によって溶け合う。見るものもまた見られるものになる距離は、互いの呼び/呼ばれる位置を不確定に入れ替える。私は強い、そうした宣言が(歌の力を借りて)なされるとき、必ずしも踊り子の自己肯定をメタポジションから認識するだけではなく、それを聴く私もまたそうでありうるとエンパワメントされる。
 同様に、白雪があなたは踊れる、あなたの人生を生きろとと歌うことで、白雪はまだ見ぬ踊り子へ手を差し伸べているようにも思える。あなたにもできる。探し出せという誘いは、ごくストレートにストリップという営みが続いていくことに、希望の光を以て照らしているかのようだ。光は私を苛むこともあるかもしれない。しかし、私が光となってあなたを照らすこともできる。まったくストリップというものを知らずにこの世界にやってきた女王(クイーン)は、そのように言っている。これ以上に感動的な、そして周年という記名性の強い時間にふさわしい振る舞いがあるだろうか。

 ストリップとは何よりもまず、踊る芸能だと思う。そして、踊ることと、各々が各々にしかない肉体を謳歌することをこれ以上に祝福する場もない、と思う。同時に、踊り子はむき出しではいられない。社会的な掣肘があり、劇場の中で名乗る名前を新たに得る。
 踊り子は、踊る者であるとともに、演じる者でもある。萩尾のばらという名において、白雪という名において、彼女たちは「踊り子」という役を引き受ける。それぞれが務めるべき役割がなんであるかは、それぞれが「私」を問い続けることで更新されていく。「私」は……続く言葉は常に仮のものでしかない。

 私はふたりを知っていて、ふたりも私を知っているが、なにか実のあるやり取りばかりがあるわけではない。ごく短い時間の他愛のない会話ばかりが積み重なっている。それでも、私はふたりをまだ見ていて、これからも見たいと望んでいる。
 踊るとは、あるいは踊りを見るとは、ふたりが問い続ける「私」に続く仮の言葉を手繰り寄せることでもあり、声なき声を聞こうとする契機であり、私はその営みに、飽かず惹かれ続けている。

*1:途中でこの振付は一度なくなり、楽日にはまた復活していた

*2:私の誤認なのか楽日再見時には最初から下着の類はガーター以外着けられていなかった