近頃の活動など

いかに暑さにやられていたかを物語る空白をこえて、近況報告です!

 

9月は一般非公開ながら、空転軌道でふたつお仕事。ひとつはフルサイズのショーで、立川の小学校。感染症対策をとりつつ、2回に分けて少人数のお客さまにじっくり楽しんでいただきました。

年初からアップデートされたショーということで、まだまだご覧いただける機会が少ないのはもったいないのですが、しかるべきときに、ぜひ。

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(ひさびさの空転ということで、現場で写真撮るほどの頭が回っていなかった...)

 

そしてもうひとつは収録。

 

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しかもこんな感じで、衣装は初のタキシードバージョン!

銀座の真ん中にあるホールは、メインがクラシックということで、ベルが鳴ること響くこと。思わず楽しくなって、帰宅後もクラシックを聴いていました。

楽屋の近くにも、何組もの名演奏家が公演したらしい写真がたくさん。

 

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空転軌道、1月以来の活動でしたが、稽古を始めれば案外すんなりと復帰。なんだかんだ4年目ですものね。

主宰のコバトモ氏による「空転劇場」も配信で公演中。近々の配信もありますよ。豪華メンバー!

eplus.jp

 

 

そして個人の活動。時間は前後してオンラインレッスン動画を8月末日から2回目の配信中。専門的な技に進んでいて、ボリュームも増大。児童館からは、さっそく技の練習に励んでるらしいリアクションも届いています。

こちらは次回が最後。まあまあ、以後も各々のタイミングでアクセスしてもらえる教材になれば幸いです。

youtu.be

 

 

iPhoneからの更新だと貼り付けがうまくいかないかな?

後ほど直したあと(※9/20直しました)、明日以降にもろもろ別の(長くなる類の)記事も更新するつもりです。

 

 

 

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さいきん見たキレッキレの朝焼け。

 

5ヶ月ぶりのパフォーマンスと帰り道の話

じつに5ヶ月ぶりのパフォーマンスを終えました!

 
以前もホゴノプロフィスのメンバーとお世話になった、宮城県白石市「こじゅうろうキッズランド」にて。近くに(近くもないか)、大道芸界では有名な遠刈田温泉があるあたりです。遠刈田にも行きたかったなあ。

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となりに道の駅が新たに開業。ここぞとばかりにお買い得な野菜などを買って帰った。


感染予防対策により館内は完全な入替があり、合わせての3ステージ。職員の皆さんが毎回ていねいに消毒作業にあたられており、どの回も安心して楽しんでいただけたようにおもいます。終演後、観客の皆さまから暖かいご感想を都度いただいて幸甚。

 

スタッフの方々のいたれりつくせりのお気遣いに恐縮しつつ、加えて、ふと漏らされたご感想に、ああ忙しい中しっかりパフォーマンスをご覧いただけたのだなと思えるものがあり、復帰がこのイベントでほんとうによかったと思います。

 

 
 
 
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2020.08.15 #juggling #diabolo #ジャグリング #ディアボロ

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ここからは専門的な話題に移りますが、やはり15年のパフォーマンス歴のなかで5ヶ月間も人前に出ないのは初めてのことでした。前日はやや緊張感もあり、いざ本番を迎えたら柄にもなく感情的になることなどあるまいな、いやしかしと考えつついつも以上に忘れ物などを確かめていたが、蓋を開ければじつにいつもどおり。
うまく進行できていなければ、あるいは観客の方々の集中力がきれてくれば、その瞬間ごとに反省意識が働いてくること自体への意識が動く。体を動かしながら意識下でモニタリングが行われている感触が、パフォーマンスしながらすぐ浮かび上がってきます。ここは辛抱してもらわないと疲れてしまうな、そのためには導入をもう少し柔らかくして鑑賞のハードルを下げてもらって、そして説明を短くして...と次回のことへ2~3秒意識を向かわせるこの感じこそ、「いつもどおり」なのでした。

 

繰り返しになりますが、こうした「いつもどおり」は、環境によってぜんぜん負担が違うので、物理的な条件の良さ、観客の皆さんの反応、スタッフの皆さんの支えによる絶好の環境で「いつもどおり」がなされたことが、ありがたい限りなのです。こうしたお礼というのか感謝はどうしても定型のきらいがありますが、端的な事実です。

 

それにしても、自分で言うのもなんだが、喋らないし観客の方との接触もないし静かにも見られるし、わりと「今」向きなスタイルなのでは、と考えたり。
ええ、心当たりがあれば、どうぞお仕事をください。


 

などと強調修飾をしたところで帰り道のはなし。

 

 

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白石蔵王駅にて特産の(発光する)こけし。周囲にはなぜかたくさんのキャラ絵が。

 

 

ひと仕事の後、めったに飲まないお酒を飲みつつ、ガラガラの新幹線で見るリリスク配信のアーカイブ、最高だったな〜!

 

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すべてはタイミングとはいえ、ここにきてこんなにもきれいにハマり直すとは...オタクというのは何度でも1年生をやり直せるものなのですね...(いい言葉ふうのどうでもいい気づき)やはり、あの素晴らしいリモートライブのおかげです。

 

むこうもライブは5ヶ月ぶり。後半にかけて尻上がりに高まっていくテンションがメンバー間で作用し始めてグルーヴが深まってく生々しさ、思わず涙腺が刺激されます。ていうか泣いた。ノリにハマっていくことは、主体的な、あるいは意識的な選択でなく、我知らずそこに入り込んでしまう、入り込んでから気づいてしまう事柄だと、ありありとステージ上から見せてくれています。
そしてまた、観客もつい声を出してしまったり...これはダメなんだけど、ダメを超えてしまうその感じが感動的でもある。ダメなんだけど。

 

 

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終演後は最近では特におなじみの「インターネットサイン会」も。宮城とは比べ物にならないであろう暑さの中、すごいなあ...

でも、自分もまたひさびさにお客さんと立ち話をする「いつもどおり」が愉快で、皆さんもまたそういう「いつもどおり」を楽しんでおられたのかもしれません。

 

 

まあ、上の「インターネットサイン会」には、わたしも(珍しく)参加していますがね。(ライブ本編の動画を見ている時、友達から「コメント読まれてたよ!」というLINEが即飛んできた)

 

 

というわけで、とても楽しい一日でございました、という話でした。

次の仕事は...「レッツ!キッズジャグリングオンライン」第2回の配信です〜!

 

大人がみてももちろんOK。道具も100均でOK。むずかしいけど、むずかしいのを楽しめるようになれればOK!という内容でーす!

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lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3について

※7/31 敬称の統一等加筆修正

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は〜!痺れた!最高最高最高!!!!!

 

むちゃくちゃによかったリリスク3回目の配信の出だしは、前2回と同じ縦画面5分割のフレーム・イン・フレーム形式だけど、リモート収録のように見えて、こりゃ「いるな」という空気が濃厚に漂っていました。その勘ぐりはあっという間に答え合わせ。1曲目の「OK!」の「縛られ続けてたら死んじゃう!」というシャウトがアイロニカルにも響いていた1回目の配信に対し、今回はまさしくその「縛られ」を解くようにして、それぞれのフレームに5人が入り乱れていく。

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lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3」 02:58のスクショ

1回目の「OK!」が「大丈夫だよ!」という知らせと励ましに響くなら、今回の「OK!」は「もういいだろ!」とレギュレーションを"越境"していくかのようです。

 

事実そうした開放感は新曲「YABAINATSU」の衒いないパーティーチューンに連絡されます。hinakoさんがタオルを振り回しながらラップする「ふたりなんか企んでる/脱ぎ捨てたビーチサンダル/はしゃぎすぎるLike a サマーヌード/ヤバすぎるヤバダバドゥー」というラインの駄々っ子のような無二のフロウには、ひとつの影もありません。

 

続くセルフボースト・トラップ「HOMETENOBIRU」。しかしロゴデザインの芸の細かさ。OとEとNがびよびよに伸びている。「伸びる=上達する/出世する」ことだけでなく「ゆるさ」も含意されています。攻撃的なサウンドとリリックはこうしたユーモアにも支えられているし、マジとネタの塩梅の良さを加減しています。

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lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3 06:50付近のスクショ

 

一転、ゆるいBPMになり「Dance The Night Away feat. Kick a Show」のKicK a Showさんとの共演が終われば、間断なく新曲「Summer Trip」のロゴ。minanさんから「これが最後の曲だけど」とアナウンス。14分に満たないタイミングで締めくくりが告げられる、この切り上げの潔さ。か〜〜!粋の一言!この態度はあまりにシャレてて、本当に感激してしまう。

 

それにしても、"今"聴くにはあまりにもパンチラインだらけの「Summer Trip」のリリックのふしぎさを、どういったものかわかりません。5人がステージセンターに寄り合って、画面の向こうにいる我々に向けて問いかけているように見せる「そっちはどう?」のメッセージだけでなく、「戻れなくなろうよ、このサマーに」というリフレインの奇妙さ。私たちが入り込んでしまった世界の取り返しのつかなさを思うと、このあまりにも甘い誘いかけは–––おそらく本人たちは少しも意識していないからこそ–––どこか彼岸からの声のようにすら聴こえます。5人の歌に、ここではない"別の世界"の可能性に思いを馳せてしまうことは避けられず、しかしそれが不可能でしかない諦念に、私たちとアイドルの間にある、埋めがたい絶対的な距離が浮かび上がるかのようです。ただその距離には、少なくとも私には、もどかしさでなく、むしろ何かを回復しているようにすら感じられます。ここではないどこかへと縛られから放たれて歌い踊る誰かを見て、ここにいる私たちが活き活きとしてしまうこと、それは芸能の本懐ではないでしょうか。

 

 

それにしても、こんなにも時局を写したかのような歌詞をもったトラックが、昨年リリースされたアルバムに入る予定だったという、偶然のすごさ。

 

 

リリスクは、いい曲・配信技術の質・気の利いたビジュアルデザインといったクオリティに安心させるだけでなく、状況をフィクショナルに読み替えていくような、曰く言いがたい物語的な手触りも受け取れる配信シリーズを見せてくれました。息苦しさもなければ、やけくそでもなく、ひとつひとつ芯を捉えていった仕事。こうしたことが、世界のどこかでも同じように起きていたのかもしれないけれど、まずは、リリスクが...成し遂げたというのも野暮ったい、ただただ「アイドル」の仕事を見せてくれたことを、ここに筆圧も強く書き残しておきます。

 

アイドル批評誌『かいわい』はじまります!

久しぶりのお知らせ〜! パチパチパチパチ!

 

 

 

なんと、アイドルのことばかり話してたらアイドルの雑誌にお誘いいただきました。
お誘いいただいた、どころか、ガッツリと編集部です。なんでや。

 

オタクの友人は私がジャグラーと知らない人が多く、お客さんでは私がドルオタと知らない人も多いはずなので、ざーっと、もうざーっと沿革を整理します。

 

 

えーまず本業についてですが、中学卒業後、2003年からプロジャグラーとして仙台を中心に活動していました。2019年から東京に移住。いまはコロナさんのおかげで開店休業中。細かい経歴にご興味をもっていただけるならば、ホームページに略歴があります。

 

2010年、毛嫌いしていたはずのAKB48になんとなくハマり始め、在宅ではあるもののSKEなどの「支店」も含めてチェックしていました。ももクロもほんの少し見てましたかね。それが2013年ころまでだろうか。乃木坂はスルーしていて、しばらくアイドルからは離脱。

 

2015年、たまたまなにかの音楽情報サイトでBABYMETALのMVを見て、わりと曲がいいなと続けてみたソニスフィアのライブ動画で撃沈。その日から狂ったように動画を検索しては、既発のBlu-rayを揃え、年末に横アリへ遠征。翌2016年、どうしても海外の観客の空気を知りたくてベビメタEUツアーに単騎遠征。はるかドイツの地で、ライブで初の号泣、当時の家から5分のところに住んでいるオタクと出会うなどする。

 

2017年、現在のアイドルの潮流が気になって、色々見に行くことに。さくら学院やBiSHに始まり、ヤなことそっとミュートやギャングパレードを見に行くが、There There Theresと衝撃のご対面。渋谷Milkeywayで見たあと、そのあと興奮がひどくて一人で渋谷の街を終電がなくなるまで徘徊。いわゆる「楽曲派」的な、オルタナティヴ・ロックを中心とした音楽性のグループを、仕事にかこつけて、あるいは仕事のない日も遠征で現場体験する。同年よりMaison book girlの矢川葵さんが「推し」になる。

 

2018年、本業の方で行っていたオムニバスライブイベントに、3776さん、・・・・・・・・・さんをお招き。いわば「半ヲタ」となる。どういうイベントだったかは「タゴマル企画」をご覧あれ。

 

2020年、コロナ禍で仕事を失いぼんやりしていたところ、・・・・・・・・・さんとRay月日さんのオタクでありドゥルーズ研究をしていたscarlet222さんからDMがくる。同人誌を作るので、座談会に参加しませんかとのこと。いいですよと安請け合いしたら、編集にも参加することに。気づけば研究者やライター、作家に画家の方々に囲まれていた...

 

 

と、まあこんな感じでしょうか。

 

かんじんの雑誌の中身ですが、批評誌とはいうものの、そこまで硬い話はないと思われます。インディーズのアイドルはこの10年でとても豊かな文化として定着しつつあるという認識ですが、それを振り返る座談会は「界隈」での認識を外にも開く機会になっています。

また研究者の方や美術畑の方がアイドルとどう接近したかの話は、単純に人生の物語としても興味深いはずです。

 

さて私ですが、現在鋭意論考を執筆中です。こうしてブログでガタガタと書き散らしてきた後はまっっっったく違って、たいへんなプレッシャーです笑 訓練を受けてこなかった無防備さ、丸腰で戦場に向かう気分です。

 

おそらくあまり前例のない主題を、この機会にとばかりに空振ることを恐れずフルスイングしようと試みます。もちろん、趣味の問題ではなく、ライブパフォーマーのはしくれとして、自分自身の切実さに基づいた話が書き上げられればと思っております。

 

 

 

ということで、こちらの告知はまたあらためて。

そして本業の宣伝もすぐに続きま〜す!

『のぼる小寺さん』の感想

『のぼる小寺さん』を観てきました。

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若手俳優がたくさん出ていて、なおかつ恋愛が主題の学園モノとなると、やや腰が引けてしまうのですが、予告編の塩梅がよさそうなのと、京アニ山田尚子監督と何本も傑作をものした吉田玲子さんの脚本ということで、ゴーサイン。

ただ、予告編でも工藤さんの脚にクロースアップしてるショットがあるなど、うーんどうかなという不安もあったけれど、それも見事本編で回収してくれました。品を保ったまま100分間にわたって、物語にも風景にも頼り切ることなく、彼ら彼女らの視線をスリリングに追いかけてくれました。

 

実に慎ましいストーリーへ大きく関係してくるのは主に5人。惰性で卓球部を続けている近藤、カメラが好きだが友人にそれを大っぴらにはしない田崎、不登校気味でギャル風の倉田、ボルダリングにひたむきな小寺、シャイだが小寺に惹かれて同じ部に入った四条。共通しているのは全員が進路表を白紙で提出していることです。

 

彼ら彼女らは、それぞれの仕方で自分の欲望(性的欲望と自己実現の欲求が曖昧に混ざり合う)を取り扱いかねているが、例外的に小寺だけは、目の前の壁を登り続けることにに専心し、周囲の雑音もまったく耳に入らないようす。件の進路表も「クライマー」と書きつけて教師に現実との折り合いをたしなめられるも、「嘘を書くんですか?」と虚心に尋ね返して困らせるような、映画の中では、いわば超越的な存在です。

 

そんな小寺に、四人はそれぞれの形で引き寄せられます。すでに書いた通り、四条は小寺に薄らかな恋慕の情があり、田崎はついカメラで小寺を盗み撮り、近藤はひたすら小寺を窃視します。とくに近藤は、5人の中でもっとも自分の欲望の在り処が不確かで、小寺への視線は四条のような恋慕に近いようでいて、むしろ小寺のひたむきなボルダリングへの集中=欲望それ自体へのあこがれと混ざり合っているように思います。この近藤のはっきりしなさにとどまり続けることが、脚本・演出の品の良さでもありますが、田崎といえば、そうした近藤の欲望を先まわるかのようにして小寺の肢体にクロースアップした映像を見せようとしたりもします(予告編の視点は、田崎のメタ的な視点でもあったわけです)。しかし近藤はそれにのめり込むでもなく、目を背けるでもありません。(とはいえここのあたり、ちょっと記憶が定かでない。だいぶ自分の力が落ちてるなと感じるなど...)

思春期とは、あるいは人間一般は、自分の欲望の不確かさに耐えられず、しばしば手近な欲望にすり替えて結論づけようとするものです。ですから、近藤は四条に小寺との関係を聞き出そうとしたりもする。しかし、そのなかで四条は近藤がつねに小寺を見ていることを指摘し、そのうえで小寺への無理解を批判もします。
近藤の視線は、田崎によって形を与えられようとするが像を結びきらず、四条によって不徹底を責められたりもする。が、もちろん、田崎にしても四条にしても、そうして批判的な他者への視線をもっているからといって、自分の欲望に向き合えているわけではない。それぞれの不確かさが、小寺という謎に引き寄せられるのみです。

ですが、彼ら彼女らが小寺という謎=自分の欲望をどう扱うのか、映画はこの葛藤に深入りはしません。この呼吸もすばらしい。シーンが変われば、近藤はとつぜんのように卓球へ打ち込み始めるのです。それは小寺の視線が自分に折り返される(小寺に欲望される)、かっこいいところを見せたい、という期待ではなく、まず「小寺(のよう)になること」で欲望を昇華させはじめるのです。

 

ですが、別様ではあるけれども、小寺もまた不確かさを持っています。それは偶然出くわした倉田に、豆だらけの手を指摘され、倉田の手によってネイルアートを施されれば、自分の手の別な姿に新鮮な驚きを得たりする。他の4人に比べれば微かかもしれないけれど、たしかに小寺も他人に影響され、また誰かを眼差していることが、映画の後半に明らかになっていくのです。また、ふたりは独特な距離感で、三度目に会えばいつの間にか「さん」づけから「ちゃん」呼びに変化していたり、いやあ、こういう描き方のうまさよ!となりますよね。。

 

そうした視線の関係...といっても、その関係性は画面内でダイレクトに描かれきるというより、画面と画面の間で想像的に補完されるものであり、その手付きの繊細さが映画を複雑にしています。
ほかにも、サブキャラクターであるボルダリング部の先輩が、やたら1年生の事情に明るかったり(ふたりの先輩もじつにすばらしいキャラクターです)、近藤の腐れ縁的友人と、じつに微妙な関係の調停を行うシーンは、これぞ吉田節!(原作にあったらすみませんが...)とうならされますし、しばしば障害物をひょいと飛び越える小寺のアクション(担任がベランダに佇む小寺を呼びつけ、また小寺がベランダに戻るとき、2回も窓を飛び越えるのだけど、ここがすばらしい)の華やかさなどなど、豊かな細部がフィクションの強度を支えています。

 

 

また、これはいわゆるネタバレというやつですが、クライマックスでそれぞれが、小寺の応援を介して自分の欲望と向き合えたかに見えた直後、田崎と倉田の自己実現が、必ずしもスムーズに行くわけではなく、他人の視線と折り合いをつけていく行く先が代表的に描かれていることに、ふかく納得させられもします。安易な結論へ先走ることのなかった物語は、最後までその微妙さを手放そうとしません。それだけに、小寺と近藤が交わすベンチのシーンの緊張感(極端な被写界深度の浅さに背景は金色に歪んで、いっそ異世界でのやり取りにすら見える)を、われわれはどのようにして受け取るべきか、実はそれほど簡単なように思えなかったことが、なによりも、『のぼる小寺さん』を見逃せない作品足らしめている気がします。

 

 

いやはや、書いてると整理が追いつかなくて、映画を見る体力が落ちてることに嫌でも気付かされるし、まあそんなことより、もう一回くらい観たいなあとなってきますね。
ともあれ、ふだんなら怠惰から見逃してしまっただろう作品へ出会うきっかけをくれた「推し」と、その「推し」の「推し」である工藤遥さんへ、ささやかに感謝します。

 

NILKLY配信を見て その2

現在大別してA~Dを並行して作業していて、今日は作業Aに従事。6時間くらい動いて、ちょっとずつ掴めてきたところと、まったく分かってなかったことが分かってきて、ひとまず来週に持ち越し。なんてこれ、そろそろ告知が始まりますが...

 

で、その作業の前に(先に作業をしろ)NIKLYの有料生配信 『FIVE DRIFTERS LIVE』をアーカイブで見ました。やはりジェニシーさんがいるとゴージャスだな〜、とか曲のアレンジ色々変わった?とか思いつつ首を振って見てたら、そのままうっかり最後まで通してしまいました。しかたない、面白いから。しかたない。。

 

冗談はともかく、生配信時は寝る前の時間にスタートしたので、様子だけでもと思ったら楽屋(見慣れたコインロッカーの前だけど)の様子が。...これこれ!こういうことですよ。出番前から配信はスタートしてほしいんですよ、とまさに我が意を得たりで、しかも一台のカメラでそれを追い続けてるわけだから、これはどうステージに上るのか見届けねばと思いつつ歯など磨いていたけども、これがまた絶妙なタイミングでカメラがスイッチされたのは見逃しませんでした。楽屋からステージへのシームレスな移行に見えて、その実しっかりと切断があるのは、技術上進行上の必要もさることながら、パフォーマーのオンとオフの切替、まさしく場の空気が変わることに寄り添ったスタンスでもあるでしょう。

 

さて配信本編、りんご太郎さんの前後移動するカメラオペレーションは今回も健在。カウントに同期しつつ前後しているかに見えて、時々そのリズムが微妙に変化し、また曲が変わればそれに応じて前後移動のシークエンスも長短を変じます。
こうしたフレキシブルなスタンスの持ちようが、後半の「odyssey」などでは、ここはパフォーマンスの熱にノってもOKと言わんばかりに、前後だけでなく左右へもグイグイと動き出すことになり、ここぞというときはメンバーの顔とガッツリ対峙することも辞さないありかたにライヴ感がありました。

 

こういうカメラの動きを見ると思い出すのは、友人のオタクが撮っていたファンカムなのですが、フロアのテンションというか自分のテンションに忠実な画面の揺れ動きは、対象を正しく捉えるということの幅広さについて、いつも考えさせられます(ただ、この方は後に、意識的にしっかりした画作りに傾倒していくのですが)。

 

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こうしたアクビレックの生配信では、擬似的な臨場性だけが武器になるのでなく、がっちり視覚的にデザインされたパッケージを積極的に見せていくスタンスといえます。またそれが装飾的というより、ライブ感をどう映像に翻訳するかへ賭けられているようにも見えることも重要でしょう。これは、現在の音楽界の配信状況の中でも、わりと特異なあり方なのではないでしょうか。
そしてまた、アクビレックの配信チームは、素人目にも相当なクオリティを誇っているようにも見えます。(とくに、弛緩した画面とダイナミックな動きのある画面を瞬間的に采配する、ふたつの意味で無数の現場経験のあるらしいスイッチャー加賀さんの仕事ぶりは際立っています)実際、配信を見た観客の反応も絶賛といっていいものでしたし、繰り返すなら、もちろん私もとても楽しませてもらいました。

 

...ただ私は、評価が高まると、どこかで逆にも振りたくなる癖があるので、クオリティが高いことが即、すぐれた配信になるわけではないという話もしておきたくなってしまう。

 

ということで、こうした状況以前から、わりとカジュアルに生配信を行っていたアイドル、3776の存在を今いちど確認したいものです。ライブに限らず、旅先で、それもとくにティピカルな風景でもないどこかで、じつに絶妙なやり取りを見せてくれる井手さん・石田さんコンビ(あえてこう言ってしまいますが)の空気感。また、音響もごくミニマムなセットで行われていた全国行脚シリーズの配信も、たいてい固定カメラのみの簡易なものでした。一見するとロークオリティな弱い表現も、実は常に相対的なものでしかありません。3776においては、後のワンマンライブで「ダイナミズムへの誘い」というコンセプトへと、その弱さが回収されていった部分もあります。

 

ですから、アクビレックのハイクオリティな配信を楽しみ驚きつつ、そこから直ちに「ハイクオリティだから良い」という論理に流されきることなく、どこかひ弱ですらある配信にも、積極的なおもしろさが生まれうると期待したくなるのが、私にとってのアイドル文化であります。
ないものねだりというかわがままというか、そういうのも見たいなあ。たぶん、見てないだけであるんだとは思う。

 

 

あ、タイトル「その2」にしたけど、前は微妙に違うのよね。まったくどうでもいいし、いきなり最後に言うようなことでもない。

友人のこと

一昨日、7月14日の朝に20年付き合いのある友人が急逝。35歳。同じ日の午後いちばんに連絡があり、そこからは心当たりに連絡し通しでした。さっきまで仕事の連絡を取ってた人にも、数年ぶりに声を聞く人も、仕事中で電話に出られないと分かってるはずの人にも何度もリダイヤルしたり、もしかしたら、もう少し落ち着いてから連絡しても良かったかもしれないと、その日は考えていました。結局のところ、そんなに急いで伝えなければいけないと考えてるのは、おそらく、他ならない自分のためであるからです。

 

20年の付き合いのなか、特にここ数年は、彼にイベントごとのスタッフワークをお願いする機会が非常に多かった。仕事を辞め、時間に自由が効くのもあるし、頼めばふたつ返事で引き受けてくれる、ということにひたすら甘えていた自覚もあります。彼独特のノリというか優しさから「ジョリオ(古い付き合いの友人は私をこう呼びます)のお願いだから聞いてるんだよ。他だったら面倒くせえし」と言ってくれたこともある彼、しかし二人きりで出かけることもなかったし、こまめに連絡を取ることもなかった。

いつだか、いつものようにイベントの手伝いの合間、カレーにハマってるらしいので、近くのまあまあ美味しいカレー屋に一緒に行ったことを思い出します。彼はそこでいつも通り、様々なトピックを、あの切れ目ない喋り方で喋っていたような気もするし、それは別の時だったかもしれません。

 

こうして彼について書いているけど、彼はこういう文章を読まない気がしているし、自分がこういう書き物をしていることも知らなかった気がする。だから、彼に向けて書いてるわけではないし、ほんとうに自分が勝手に書いているだけです。

 

彼の急逝は、辛いとか悲しいという実感より、自分のパーツのどこかが、取り返しようもなく破壊された、という感触がいちばん近い。深く落ち込むのではなく、ただただ、時間の隙間ごとに彼の記憶が、領域を修復するかのように反復されます。それは、意識的な作業でなく、自動的に行われているようで、だから意識的には仕事にも戻ったし、家事もこなして、本を読んだりバラエティ番組を見たりも普通にしていました。ただ、思い出す作業はまだ止みません。

 

彼に向けて演劇的に語りかけてみたり、儀礼的に冥福を祈ったり、どれもできそうもない。もう一度同じことを言うと、くだらないニュースに腹を立ててるし、せっかく取り寄せて買った本がつまらなくて途中で投げたりしたし、寝る前にすこし眺めた配信のクオリティに触発されて何かを考えたりしている。至って普通にもしている。

 

この文章では「彼が死んでしまった自分」についてしか書くことができません。それを書く意味についての自問もあったけれど、プライベートのみならず、何度も仕事に協力してくれた友人について無言でいることのほうが私には不自然で、書く時期については早いかもしれないと思うものの、葬儀が終わったら、初七日があけたら、四十九日があけたら、と外在的な基準はそぐわず、繰り返すように、もっぱら私自身の尺度と必要で書いているだけです。あとから、尚早であったと不明を恥じるかもしれません。

 

ただ、これも個人的な経験から、誰かの死は、そこに関係していないまったくの他人によっても悼まれ得る、ということを強く経験しています。これを読む誰かがほんの瞬間、知らないであろう彼の死を頭に描くとしたら、それをかすかな免罪の手触りとして、ここに記します。