lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3について

※7/31 敬称の統一等加筆修正

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は〜!痺れた!最高最高最高!!!!!

 

むちゃくちゃによかったリリスク3回目の配信の出だしは、前2回と同じ縦画面5分割のフレーム・イン・フレーム形式だけど、リモート収録のように見えて、こりゃ「いるな」という空気が濃厚に漂っていました。その勘ぐりはあっという間に答え合わせ。1曲目の「OK!」の「縛られ続けてたら死んじゃう!」というシャウトがアイロニカルにも響いていた1回目の配信に対し、今回はまさしくその「縛られ」を解くようにして、それぞれのフレームに5人が入り乱れていく。

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lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3」 02:58のスクショ

1回目の「OK!」が「大丈夫だよ!」という知らせと励ましに響くなら、今回の「OK!」は「もういいだろ!」とレギュレーションを"越境"していくかのようです。

 

事実そうした開放感は新曲「YABAINATSU」の衒いないパーティーチューンに連絡されます。hinakoさんがタオルを振り回しながらラップする「ふたりなんか企んでる/脱ぎ捨てたビーチサンダル/はしゃぎすぎるLike a サマーヌード/ヤバすぎるヤバダバドゥー」というラインの駄々っ子のような無二のフロウには、ひとつの影もありません。

 

続くセルフボースト・トラップ「HOMETENOBIRU」。しかしロゴデザインの芸の細かさ。OとEとNがびよびよに伸びている。「伸びる=上達する/出世する」ことだけでなく「ゆるさ」も含意されています。攻撃的なサウンドとリリックはこうしたユーモアにも支えられているし、マジとネタの塩梅の良さを加減しています。

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lyrical school REMOTE FREE LIVE vol.3 06:50付近のスクショ

 

一転、ゆるいBPMになり「Dance The Night Away feat. Kick a Show」のKicK a Showさんとの共演が終われば、間断なく新曲「Summer Trip」のロゴ。minanさんから「これが最後の曲だけど」とアナウンス。14分に満たないタイミングで締めくくりが告げられる、この切り上げの潔さ。か〜〜!粋の一言!この態度はあまりにシャレてて、本当に感激してしまう。

 

それにしても、"今"聴くにはあまりにもパンチラインだらけの「Summer Trip」のリリックのふしぎさを、どういったものかわかりません。5人がステージセンターに寄り合って、画面の向こうにいる我々に向けて問いかけているように見せる「そっちはどう?」のメッセージだけでなく、「戻れなくなろうよ、このサマーに」というリフレインの奇妙さ。私たちが入り込んでしまった世界の取り返しのつかなさを思うと、このあまりにも甘い誘いかけは–––おそらく本人たちは少しも意識していないからこそ–––どこか彼岸からの声のようにすら聴こえます。5人の歌に、ここではない"別の世界"の可能性に思いを馳せてしまうことは避けられず、しかしそれが不可能でしかない諦念に、私たちとアイドルの間にある、埋めがたい絶対的な距離が浮かび上がるかのようです。ただその距離には、少なくとも私には、もどかしさでなく、むしろ何かを回復しているようにすら感じられます。ここではないどこかへと縛られから放たれて歌い踊る誰かを見て、ここにいる私たちが活き活きとしてしまうこと、それは芸能の本懐ではないでしょうか。

 

 

それにしても、こんなにも時局を写したかのような歌詞をもったトラックが、昨年リリースされたアルバムに入る予定だったという、偶然のすごさ。

 

 

リリスクは、いい曲・配信技術の質・気の利いたビジュアルデザインといったクオリティに安心させるだけでなく、状況をフィクショナルに読み替えていくような、曰く言いがたい物語的な手触りも受け取れる配信シリーズを見せてくれました。息苦しさもなければ、やけくそでもなく、ひとつひとつ芯を捉えていった仕事。こうしたことが、世界のどこかでも同じように起きていたのかもしれないけれど、まずは、リリスクが...成し遂げたというのも野暮ったい、ただただ「アイドル」の仕事を見せてくれたことを、ここに筆圧も強く書き残しておきます。

 

アイドル批評誌『かいわい』はじまります!

久しぶりのお知らせ〜! パチパチパチパチ!

 

 

 

なんと、アイドルのことばかり話してたらアイドルの雑誌にお誘いいただきました。
お誘いいただいた、どころか、ガッツリと編集部です。なんでや。

 

オタクの友人は私がジャグラーと知らない人が多く、お客さんでは私がドルオタと知らない人も多いはずなので、ざーっと、もうざーっと沿革を整理します。

 

 

えーまず本業についてですが、中学卒業後、2003年からプロジャグラーとして仙台を中心に活動していました。2019年から東京に移住。いまはコロナさんのおかげで開店休業中。細かい経歴にご興味をもっていただけるならば、ホームページに略歴があります。

 

2010年、毛嫌いしていたはずのAKB48になんとなくハマり始め、在宅ではあるもののSKEなどの「支店」も含めてチェックしていました。ももクロもほんの少し見てましたかね。それが2013年ころまでだろうか。乃木坂はスルーしていて、しばらくアイドルからは離脱。

 

2015年、たまたまなにかの音楽情報サイトでBABYMETALのMVを見て、わりと曲がいいなと続けてみたソニスフィアのライブ動画で撃沈。その日から狂ったように動画を検索しては、既発のBlu-rayを揃え、年末に横アリへ遠征。翌2016年、どうしても海外の観客の空気を知りたくてベビメタEUツアーに単騎遠征。はるかドイツの地で、ライブで初の号泣、当時の家から5分のところに住んでいるオタクと出会うなどする。

 

2017年、現在のアイドルの潮流が気になって、色々見に行くことに。さくら学院やBiSHに始まり、ヤなことそっとミュートやギャングパレードを見に行くが、There There Theresと衝撃のご対面。渋谷Milkeywayで見たあと、そのあと興奮がひどくて一人で渋谷の街を終電がなくなるまで徘徊。いわゆる「楽曲派」的な、オルタナティヴ・ロックを中心とした音楽性のグループを、仕事にかこつけて、あるいは仕事のない日も遠征で現場体験する。同年よりMaison book girlの矢川葵さんが「推し」になる。

 

2018年、本業の方で行っていたオムニバスライブイベントに、3776さん、・・・・・・・・・さんをお招き。いわば「半ヲタ」となる。どういうイベントだったかは「タゴマル企画」をご覧あれ。

 

2020年、コロナ禍で仕事を失いぼんやりしていたところ、・・・・・・・・・さんとRay月日さんのオタクでありドゥルーズ研究をしていたscarlet222さんからDMがくる。同人誌を作るので、座談会に参加しませんかとのこと。いいですよと安請け合いしたら、編集にも参加することに。気づけば研究者やライター、作家に画家の方々に囲まれていた...

 

 

と、まあこんな感じでしょうか。

 

かんじんの雑誌の中身ですが、批評誌とはいうものの、そこまで硬い話はないと思われます。インディーズのアイドルはこの10年でとても豊かな文化として定着しつつあるという認識ですが、それを振り返る座談会は「界隈」での認識を外にも開く機会になっています。

また研究者の方や美術畑の方がアイドルとどう接近したかの話は、単純に人生の物語としても興味深いはずです。

 

さて私ですが、現在鋭意論考を執筆中です。こうしてブログでガタガタと書き散らしてきた後はまっっっったく違って、たいへんなプレッシャーです笑 訓練を受けてこなかった無防備さ、丸腰で戦場に向かう気分です。

 

おそらくあまり前例のない主題を、この機会にとばかりに空振ることを恐れずフルスイングしようと試みます。もちろん、趣味の問題ではなく、ライブパフォーマーのはしくれとして、自分自身の切実さに基づいた話が書き上げられればと思っております。

 

 

 

ということで、こちらの告知はまたあらためて。

そして本業の宣伝もすぐに続きま〜す!

『のぼる小寺さん』の感想

『のぼる小寺さん』を観てきました。

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若手俳優がたくさん出ていて、なおかつ恋愛が主題の学園モノとなると、やや腰が引けてしまうのですが、予告編の塩梅がよさそうなのと、京アニ山田尚子監督と何本も傑作をものした吉田玲子さんの脚本ということで、ゴーサイン。

ただ、予告編でも工藤さんの脚にクロースアップしてるショットがあるなど、うーんどうかなという不安もあったけれど、それも見事本編で回収してくれました。品を保ったまま100分間にわたって、物語にも風景にも頼り切ることなく、彼ら彼女らの視線をスリリングに追いかけてくれました。

 

実に慎ましいストーリーへ大きく関係してくるのは主に5人。惰性で卓球部を続けている近藤、カメラが好きだが友人にそれを大っぴらにはしない田崎、不登校気味でギャル風の倉田、ボルダリングにひたむきな小寺、シャイだが小寺に惹かれて同じ部に入った四条。共通しているのは全員が進路表を白紙で提出していることです。

 

彼ら彼女らは、それぞれの仕方で自分の欲望(性的欲望と自己実現の欲求が曖昧に混ざり合う)を取り扱いかねているが、例外的に小寺だけは、目の前の壁を登り続けることにに専心し、周囲の雑音もまったく耳に入らないようす。件の進路表も「クライマー」と書きつけて教師に現実との折り合いをたしなめられるも、「嘘を書くんですか?」と虚心に尋ね返して困らせるような、映画の中では、いわば超越的な存在です。

 

そんな小寺に、四人はそれぞれの形で引き寄せられます。すでに書いた通り、四条は小寺に薄らかな恋慕の情があり、田崎はついカメラで小寺を盗み撮り、近藤はひたすら小寺を窃視します。とくに近藤は、5人の中でもっとも自分の欲望の在り処が不確かで、小寺への視線は四条のような恋慕に近いようでいて、むしろ小寺のひたむきなボルダリングへの集中=欲望それ自体へのあこがれと混ざり合っているように思います。この近藤のはっきりしなさにとどまり続けることが、脚本・演出の品の良さでもありますが、田崎といえば、そうした近藤の欲望を先まわるかのようにして小寺の肢体にクロースアップした映像を見せようとしたりもします(予告編の視点は、田崎のメタ的な視点でもあったわけです)。しかし近藤はそれにのめり込むでもなく、目を背けるでもありません。(とはいえここのあたり、ちょっと記憶が定かでない。だいぶ自分の力が落ちてるなと感じるなど...)

思春期とは、あるいは人間一般は、自分の欲望の不確かさに耐えられず、しばしば手近な欲望にすり替えて結論づけようとするものです。ですから、近藤は四条に小寺との関係を聞き出そうとしたりもする。しかし、そのなかで四条は近藤がつねに小寺を見ていることを指摘し、そのうえで小寺への無理解を批判もします。
近藤の視線は、田崎によって形を与えられようとするが像を結びきらず、四条によって不徹底を責められたりもする。が、もちろん、田崎にしても四条にしても、そうして批判的な他者への視線をもっているからといって、自分の欲望に向き合えているわけではない。それぞれの不確かさが、小寺という謎に引き寄せられるのみです。

ですが、彼ら彼女らが小寺という謎=自分の欲望をどう扱うのか、映画はこの葛藤に深入りはしません。この呼吸もすばらしい。シーンが変われば、近藤はとつぜんのように卓球へ打ち込み始めるのです。それは小寺の視線が自分に折り返される(小寺に欲望される)、かっこいいところを見せたい、という期待ではなく、まず「小寺(のよう)になること」で欲望を昇華させはじめるのです。

 

ですが、別様ではあるけれども、小寺もまた不確かさを持っています。それは偶然出くわした倉田に、豆だらけの手を指摘され、倉田の手によってネイルアートを施されれば、自分の手の別な姿に新鮮な驚きを得たりする。他の4人に比べれば微かかもしれないけれど、たしかに小寺も他人に影響され、また誰かを眼差していることが、映画の後半に明らかになっていくのです。また、ふたりは独特な距離感で、三度目に会えばいつの間にか「さん」づけから「ちゃん」呼びに変化していたり、いやあ、こういう描き方のうまさよ!となりますよね。。

 

そうした視線の関係...といっても、その関係性は画面内でダイレクトに描かれきるというより、画面と画面の間で想像的に補完されるものであり、その手付きの繊細さが映画を複雑にしています。
ほかにも、サブキャラクターであるボルダリング部の先輩が、やたら1年生の事情に明るかったり(ふたりの先輩もじつにすばらしいキャラクターです)、近藤の腐れ縁的友人と、じつに微妙な関係の調停を行うシーンは、これぞ吉田節!(原作にあったらすみませんが...)とうならされますし、しばしば障害物をひょいと飛び越える小寺のアクション(担任がベランダに佇む小寺を呼びつけ、また小寺がベランダに戻るとき、2回も窓を飛び越えるのだけど、ここがすばらしい)の華やかさなどなど、豊かな細部がフィクションの強度を支えています。

 

 

また、これはいわゆるネタバレというやつですが、クライマックスでそれぞれが、小寺の応援を介して自分の欲望と向き合えたかに見えた直後、田崎と倉田の自己実現が、必ずしもスムーズに行くわけではなく、他人の視線と折り合いをつけていく行く先が代表的に描かれていることに、ふかく納得させられもします。安易な結論へ先走ることのなかった物語は、最後までその微妙さを手放そうとしません。それだけに、小寺と近藤が交わすベンチのシーンの緊張感(極端な被写界深度の浅さに背景は金色に歪んで、いっそ異世界でのやり取りにすら見える)を、われわれはどのようにして受け取るべきか、実はそれほど簡単なように思えなかったことが、なによりも、『のぼる小寺さん』を見逃せない作品足らしめている気がします。

 

 

いやはや、書いてると整理が追いつかなくて、映画を見る体力が落ちてることに嫌でも気付かされるし、まあそんなことより、もう一回くらい観たいなあとなってきますね。
ともあれ、ふだんなら怠惰から見逃してしまっただろう作品へ出会うきっかけをくれた「推し」と、その「推し」の「推し」である工藤遥さんへ、ささやかに感謝します。

 

NILKLY配信を見て その2

現在大別してA~Dを並行して作業していて、今日は作業Aに従事。6時間くらい動いて、ちょっとずつ掴めてきたところと、まったく分かってなかったことが分かってきて、ひとまず来週に持ち越し。なんてこれ、そろそろ告知が始まりますが...

 

で、その作業の前に(先に作業をしろ)NIKLYの有料生配信 『FIVE DRIFTERS LIVE』をアーカイブで見ました。やはりジェニシーさんがいるとゴージャスだな〜、とか曲のアレンジ色々変わった?とか思いつつ首を振って見てたら、そのままうっかり最後まで通してしまいました。しかたない、面白いから。しかたない。。

 

冗談はともかく、生配信時は寝る前の時間にスタートしたので、様子だけでもと思ったら楽屋(見慣れたコインロッカーの前だけど)の様子が。...これこれ!こういうことですよ。出番前から配信はスタートしてほしいんですよ、とまさに我が意を得たりで、しかも一台のカメラでそれを追い続けてるわけだから、これはどうステージに上るのか見届けねばと思いつつ歯など磨いていたけども、これがまた絶妙なタイミングでカメラがスイッチされたのは見逃しませんでした。楽屋からステージへのシームレスな移行に見えて、その実しっかりと切断があるのは、技術上進行上の必要もさることながら、パフォーマーのオンとオフの切替、まさしく場の空気が変わることに寄り添ったスタンスでもあるでしょう。

 

さて配信本編、りんご太郎さんの前後移動するカメラオペレーションは今回も健在。カウントに同期しつつ前後しているかに見えて、時々そのリズムが微妙に変化し、また曲が変わればそれに応じて前後移動のシークエンスも長短を変じます。
こうしたフレキシブルなスタンスの持ちようが、後半の「odyssey」などでは、ここはパフォーマンスの熱にノってもOKと言わんばかりに、前後だけでなく左右へもグイグイと動き出すことになり、ここぞというときはメンバーの顔とガッツリ対峙することも辞さないありかたにライヴ感がありました。

 

こういうカメラの動きを見ると思い出すのは、友人のオタクが撮っていたファンカムなのですが、フロアのテンションというか自分のテンションに忠実な画面の揺れ動きは、対象を正しく捉えるということの幅広さについて、いつも考えさせられます(ただ、この方は後に、意識的にしっかりした画作りに傾倒していくのですが)。

 

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こうしたアクビレックの生配信では、擬似的な臨場性だけが武器になるのでなく、がっちり視覚的にデザインされたパッケージを積極的に見せていくスタンスといえます。またそれが装飾的というより、ライブ感をどう映像に翻訳するかへ賭けられているようにも見えることも重要でしょう。これは、現在の音楽界の配信状況の中でも、わりと特異なあり方なのではないでしょうか。
そしてまた、アクビレックの配信チームは、素人目にも相当なクオリティを誇っているようにも見えます。(とくに、弛緩した画面とダイナミックな動きのある画面を瞬間的に采配する、ふたつの意味で無数の現場経験のあるらしいスイッチャー加賀さんの仕事ぶりは際立っています)実際、配信を見た観客の反応も絶賛といっていいものでしたし、繰り返すなら、もちろん私もとても楽しませてもらいました。

 

...ただ私は、評価が高まると、どこかで逆にも振りたくなる癖があるので、クオリティが高いことが即、すぐれた配信になるわけではないという話もしておきたくなってしまう。

 

ということで、こうした状況以前から、わりとカジュアルに生配信を行っていたアイドル、3776の存在を今いちど確認したいものです。ライブに限らず、旅先で、それもとくにティピカルな風景でもないどこかで、じつに絶妙なやり取りを見せてくれる井手さん・石田さんコンビ(あえてこう言ってしまいますが)の空気感。また、音響もごくミニマムなセットで行われていた全国行脚シリーズの配信も、たいてい固定カメラのみの簡易なものでした。一見するとロークオリティな弱い表現も、実は常に相対的なものでしかありません。3776においては、後のワンマンライブで「ダイナミズムへの誘い」というコンセプトへと、その弱さが回収されていった部分もあります。

 

ですから、アクビレックのハイクオリティな配信を楽しみ驚きつつ、そこから直ちに「ハイクオリティだから良い」という論理に流されきることなく、どこかひ弱ですらある配信にも、積極的なおもしろさが生まれうると期待したくなるのが、私にとってのアイドル文化であります。
ないものねだりというかわがままというか、そういうのも見たいなあ。たぶん、見てないだけであるんだとは思う。

 

 

あ、タイトル「その2」にしたけど、前は微妙に違うのよね。まったくどうでもいいし、いきなり最後に言うようなことでもない。

友人のこと

一昨日、7月14日の朝に20年付き合いのある友人が急逝。35歳。同じ日の午後いちばんに連絡があり、そこからは心当たりに連絡し通しでした。さっきまで仕事の連絡を取ってた人にも、数年ぶりに声を聞く人も、仕事中で電話に出られないと分かってるはずの人にも何度もリダイヤルしたり、もしかしたら、もう少し落ち着いてから連絡しても良かったかもしれないと、その日は考えていました。結局のところ、そんなに急いで伝えなければいけないと考えてるのは、おそらく、他ならない自分のためであるからです。

 

20年の付き合いのなか、特にここ数年は、彼にイベントごとのスタッフワークをお願いする機会が非常に多かった。仕事を辞め、時間に自由が効くのもあるし、頼めばふたつ返事で引き受けてくれる、ということにひたすら甘えていた自覚もあります。彼独特のノリというか優しさから「ジョリオ(古い付き合いの友人は私をこう呼びます)のお願いだから聞いてるんだよ。他だったら面倒くせえし」と言ってくれたこともある彼、しかし二人きりで出かけることもなかったし、こまめに連絡を取ることもなかった。

いつだか、いつものようにイベントの手伝いの合間、カレーにハマってるらしいので、近くのまあまあ美味しいカレー屋に一緒に行ったことを思い出します。彼はそこでいつも通り、様々なトピックを、あの切れ目ない喋り方で喋っていたような気もするし、それは別の時だったかもしれません。

 

こうして彼について書いているけど、彼はこういう文章を読まない気がしているし、自分がこういう書き物をしていることも知らなかった気がする。だから、彼に向けて書いてるわけではないし、ほんとうに自分が勝手に書いているだけです。

 

彼の急逝は、辛いとか悲しいという実感より、自分のパーツのどこかが、取り返しようもなく破壊された、という感触がいちばん近い。深く落ち込むのではなく、ただただ、時間の隙間ごとに彼の記憶が、領域を修復するかのように反復されます。それは、意識的な作業でなく、自動的に行われているようで、だから意識的には仕事にも戻ったし、家事もこなして、本を読んだりバラエティ番組を見たりも普通にしていました。ただ、思い出す作業はまだ止みません。

 

彼に向けて演劇的に語りかけてみたり、儀礼的に冥福を祈ったり、どれもできそうもない。もう一度同じことを言うと、くだらないニュースに腹を立ててるし、せっかく取り寄せて買った本がつまらなくて途中で投げたりしたし、寝る前にすこし眺めた配信のクオリティに触発されて何かを考えたりしている。至って普通にもしている。

 

この文章では「彼が死んでしまった自分」についてしか書くことができません。それを書く意味についての自問もあったけれど、プライベートのみならず、何度も仕事に協力してくれた友人について無言でいることのほうが私には不自然で、書く時期については早いかもしれないと思うものの、葬儀が終わったら、初七日があけたら、四十九日があけたら、と外在的な基準はそぐわず、繰り返すように、もっぱら私自身の尺度と必要で書いているだけです。あとから、尚早であったと不明を恥じるかもしれません。

 

ただ、これも個人的な経験から、誰かの死は、そこに関係していないまったくの他人によっても悼まれ得る、ということを強く経験しています。これを読む誰かがほんの瞬間、知らないであろう彼の死を頭に描くとしたら、それをかすかな免罪の手触りとして、ここに記します。

6月に気になったものと上半期よかったもの

...ハッと気づくと1ヶ月近く時間が経っていました。日々が過ぎ去るのは早いですね...(ゲームをしているから)
パフォーマンス活動の報告は変わらずできそうにないのですが、動きがありそうなことはいくつかあり、追ってお知らせできれば。今日はこの1ヶ月で気になったものなど、それぞれ短く。

 

 

『『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊』
土曜にたまたま配信されていることを知り、途中から観覧。翌日も見逃したところだけ見ました。テキストについては途中までということもあり、よくわかっていない部分が多いのですが、配信のあり方についてはさすがのひとこと。すごいなーと思わされました。
どこかカフェやギャラリーのようなスペースの窓/壁際に据えられたテーブルのうえに、長方形と正方形の簡易スクリーンがフォトスタンドのようなものに貼られて、スタッフの手によって配置されます。謡と音楽の七尾旅人さんと内橋和久さんが冒頭から終わりまでテーブル上に映されていて、その他の出演者は出番が来るとスタッフが所定の位置に設置したり撤去したり。その手にスクリーンへ投影している映像が重なる瞬間も。
要するにミニチュア的にテーブル上で舞台を再現しているわけですが、画面内にはテーブル・スクリーン・スピーカー・スタンド照明・カレンダー(日付もグリッド)と矩形の連鎖があり、ご丁寧に木枠が鎖状に連結しているらしい飾りが吊るされて(おそらく元々スペースにあったものだろうか)揺れていたりするのに気付かされます。こうした矩形のフレームは、視聴上の画面とも重なりあいますし、プロセニアム舞台からの遊離=幽霊的な上演を想起させれられもします。そもそも「幽霊」とは認識のフレームの外側に生起するものでしょう。また、テーブルが接する窓は路面に面していて、ときおり通行人や車の姿が見えたり、上演前・転換中・終演後には近くの横断歩道のメロディ音が聞こえてきます。フレームの外、認識の外で飛び交う幽霊たち。能を模しつつ扱う主題がザハとその建築であり高速増殖炉もんじゅであったりするわけだから、そうした"降霊術"は必然的なものだったのでしょう。
くわえて録音もすばらしく、パッケージした映像を配信したほうがベターなのは、ほとんど固まってきている気がする。配信コンテンツは、そこに動員的な効果はあるにせよ、やたらな生配信の臨場性に頼らずしてやってほしい。

 

グランド・セフト・オートV

さいこうです。RDR2と違って、市民の命はスラップスティックな暴走運転に巻き込まれるギャグとして消費されます。その倫理性の乏しさも、そもそも異常者と狂人しかいないロス・サントスという街では切実な意味を持ちません。主人公たちの延命は誰かの絶命でしかないという底の抜けた倫理的徹底は、ゲームにおいて最も重要なアイテム(ゲームプレイ時間のほとんどは車を運転している)であり、同時に最もどうでもいいアイテム(すぐに壊れるしすぐに修復されるし、すぐに盗んで手に入れられる)である「車」に最も強大な敵を押し込んで、海に突き落とすことで実にそっけないクライマックスを迎えるのです。
憎たらしい奴らはそれなりに悲惨な死に様(まあそれもギャグなのですが)だったりするのだけど、このクライマックスに至るまでの殺人ミッションのいっそ作業的で淡々とした雰囲気こそ、GTA5の良さであり、かたやオンラインでとてつもなく荒れ放題になってるらしい一因なのではとおもったり。葛藤や煩悶が雲散霧消することで、ただ行為の快楽だけが残るような。
それにしても無駄口の軽妙さといい、ラストシーンといい、スタッフにタランティーノのファンが相当いるのか、あるいは今アウトローを描くときタランティーノは内面化されてしまっているのか、気になるところ。2本プレイしただけですがRockstarのゲーム、大好きですね。『L.A.ノワール2』を期待しています。

BLACKPINK「How You Like That?」とビヨンセ
ティザーが細かく何本も出てからのMV。ブルピンの曲は相変わらず楽しい。テレビ番組のパフォーマンスもアップされていましたが、メンバーたちがずいぶんイメチェンしている様子。日本のアイドルが同一性を確保するためなかなか髪型を変えないらしいのと好対照ではないでしょうか。
あいかわらずK-POPは横目でチラチラ確認する程度ですが、ブルピンはとくにビヨンセを参照してるらしいことに意識が向かざるを得ません。女性をエンパワメントするような歌詞と自律的で挑発的なメンバーのキャラ(たぶんオフショットではそれとのギャップが楽しまれたりするのでしょう)。久々になんとなく「Run The World(Girls)」のMVを見たけど、ビヨンセのすごいことは、圧倒的なリーダーシップを誇りながら、周りに居並ぶ女性たちにも溶け込むこと。オンリーワンでありワンオブゼムであるといえばいささか陳腐だけども、たとえばコーチェラでもピラミッド型のステージを見せつけて、ヒエラルキーは視覚的にも明らかなのに、そこに集められた彼女ら彼らと常に連帯がある感じ...なんなのでしょうね。

 

『デッド・ドント・ダイ』
自粛明け初の映画館ということで。金曜の夕方ということもあって、観客は一桁。仙台か?
ジャームッシュがゾンビものを撮るということでまったく期待していませんでしたが、その通りでした。昼間の警察署内の明暗が絶品中の絶品てなくらいです。メタ的なゾンビたちというネタがめちゃめちゃベタな資本主義批判に決着するので、それすらもメタな何かでないと、どう受け取ったらいいものかさっぱりわからない。ストレートに受け取るべきと言うなら、間に合ってますの一言になってしまう。でもジャームッシュってこういう人だっけか、とも思うし。まあいいか。

 

『Fiction』

ブクガのベスト盤。フラゲ日にタワレコに駆けつけて棚になかったのを店員さんにバックヤードから出してもらって購入。アキバ店の店員さん、とても親切でした。
新曲と再録が目当てだったけど、通して聞けばまあ全部いい曲。サクライさんの天才はメロディメーカーぶりにあると個人的には思ってますが、どうなんでしょうか。
そんなに好きでなかった「Snow irony」の再録がとてもいい。ボーカルの技術力の問題なのか、原曲にない疾走感のようなものが加えられている印象です。新曲はいっしゅん戸惑ったけど、いい曲です。

 

上半期ベスト

映画もライヴも当然ないので、音楽を中心に。あと冬はけっこう小説を読んでいたのでそれも。新作も旧作も特に関係なく。

 

[音楽]
GEZAN『狂』
16FLIP vs SEEDA『Roots & Buds(ReMastered)』
踊ってばかりの国『光の中に』
mei ehara『Ampersands』
lyrical school『OK!!!!!』
RAY『Pink』
クマリデパート『サクラになっちゃうよ!』
Moment Joon『Passport & Garcon』
Terrace Martin『Impedance』
Tentenko『Deep & Moistures』シリーズなど
von.E『Rehearsal 3』

 

あと宇多田ヒカル「誰にも言わない」が圧倒的ベストソングでした。

 

[小説]

マルカム・ラウリー『火山の下』

サミュエル・ベケット『モロイ』

吉田健一『東京の昔』

松浦理英子『最愛の子ども』

横田創『落としもの』

横田創『丘の上の動物園』

山下澄人『壁抜けの谷』

阿部和重シンセミア

 

[配信]

lyrical school『REMORT FREE LIVE vol.1,2』
cero『Contemporary http Cruise』
NILKLY『AQBISION♯3 NILKLY 1周年記念スペシャル』ダンスパート

NILKLY配信を見てのメモ

youtu.be

 AqbiRec所属のアイドルグループ「NILKLY」が結成一周年を記念した生配信を行いました。見たのはダンスパフォーマンスパートだけですが、ひさしぶりにアイドルの"ライヴ"の力強さに、素朴に感激しました。。

 

ところでこの配信、衣装ではなくレッスン着のようにラフな服装でパフォーマンスされているんですけど、衣装ではないからこそダンスの線がはっきりする部分もあって、それも興味深かったのです。以前、コンテンポラリーダンサーの勅使川原三郎さんも「練習風景」と題した動画で、ジャージ姿で踊っているのがかえって生々しく、妙に印象深くもあり。

 

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しかしそれより思い出すのはやはり、「ダンス・プラクティス」動画でしょう。普段カット割で映らない振付の全容が見られる機会として、またファンにとってはオフショット的のリラックス(してるにも関わらずキレキレだったりすることで技巧に惚れ直すなど)してる様子もたのしめる企画です。

 

www.youtube.comやはり三浦大知さん、すごいっすね。

 

 

で、NILKLYの配信ではさらに具体的に連想したものがあって、それがこちら。

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K-POPアーティスト「BLACKPINK」のダンス・プラクティス動画*1 です。うえの三浦さんの動画と違い、かつNILKLYと同様なのは、カメラが動くこと。タイトルにも"Moving"とあります。その動きは大胆な前進・後退をベースにしたカメラワーク。このカメラワークは、ほぼパフォーマンスの構造とは無関係に、カメラの動きだけ際立たせて、ともすれば単調になる1台のカメラによるフレームを揺らし続けて生々しさを失わないように務めているかのようです。

 

しかし自律的なカメラの動きは、カメラを操作するオペレーターに意識が向かざるを得ませんから、一見すると目障りに見えるときもあります。NILKLYの配信も、最初は少しカメラの動きが気になっていたのですが、気づくとカメラの動きを忘れてしまっているときがある。こうした没入感の高まりをふしぎに思いましたが、さきのBLACKPINKの動画と比べれば、すこしその理由がわかった気もします。

  

BLACKPINKのダンスプラクティス動画*2では、カメラはほとんどクロースアップを選びません。なぜならこの動画ではメンバーの振り、あるいはプロポーションこそがもっとも見せるべき対象であるからでしょう。とはいえ、固定のカメラだけでは味気なくもある。こう考えると、前進・後退するカメラの動きは、映すべき対象を捉えつつも、あくまでも画面を退屈なものにさせないためにある戦略であるといえます。



いっぽう、NILKLYの動画では時に振りやプロポーションの視認性を犠牲にしたクロースアップがしばしば訪れます。ごく単純に比較した結果から得られものを確認するなら、前者で優先されたものが犠牲にされることで、われわれが「アイドルのライヴで見ているもの」が浮かび上がります。それは小規模なライヴハウスの視界のシミュレートであり、かつ、われわれがアイドルの表情を重視している、という当たり前ではあるものの、なかなか映像で再構成しづらい要素です。


またクロースアップは、あらかじめ与えられている前進・後退のリズムのうちで半ば偶然的に発生する(かのようにみえる)のも見逃せません。こうしたリズムの存在によって、カメラがその表情へと寄り切ってわかりやすい意味へと落ち着かせようとするまえに、スッとそこから離れてしまう。常に微妙な距離が担保され、カメラは必ずしも、アイドルの表情がもたらすエモーショナルな見せ場に同期しきるわけではありません。しかし逆説的に言えば、この距離の押し引きがあるからこそ、視聴者はアイドルの表情との出会いを果たすのではないでしょうか。
今回の配信で使われた「ダンス・プラクティス」ふうのカメラワークは、単調さの回避以上に、機械的な反復運動によってメンバーのパフォーマンスを、より積極的に生々しく捉えることに成功している例でしょう。つまるところ、配信がライヴの次善手段ではなく、じゅうぶんにパフォーマンスの快楽を得られる手段として成立しているようにも思います。

 

 

と、だいたいこんなようなことを考えてましたら、ディレクターの田中さんが配信についてコメントしている動画が配信されました。現場至上主義に疑義を呈しています。「気持ちが乗っかる」という言い方で、映像も現場もそれぞれに変わりない面白みがある、という話です。

youtu.be

 

 

ごく個人的な話で結ぶと、映画が好きということもあるし、そもそもごく初期のジャグリング体験のほとんどが映像であったこともあり、生の現場だけがほんとうに素晴らしいのだ、とは思いきれないのが、この状況でまた浮かび上がってきています。パフォーマンスの経験にだけ限って言えば単に別なメディア、というだけです。映像ではわからないこともあれば、生ではわからないこともある。そういうだけでは面白くともなんともないので、いまは生ではわからないことを積極的に楽しみたいなあ、と、そんな具合でひとまず締め。

*1:とくにK-POPでよく見られるコンテンツです。K-POPファンの方のブログによれば、これが広まっているのは偶然の産物であるよう。https://ameblo.jp/kpopknowledge101/entry-12455993366.html

*2:とはいえ、今回改めて調べると、ほんとうにいろいろな形の映像があることがわかりました。単純にライヴ感を与えるだけではないさまざまなデザインの志向性が伺えます。簡単にリストにまとめたので、よければ。https://www.youtube.com/playlist?list=PLz4921MXpetCKs2LoNeLezgJOewZEisL7