ストリップ月例観劇記 2021年 6月

14歳から取り続けている映画の鑑賞記録を例外として、大したログがない。
図書館の貸出記録など、いま見直せばなるほどとおもうこともあったろうに、半端なものしかない。
つよく肩入れして見てきた「劇団どくんご」も初見の感想はどこにもなく、漠然たるインパクトだけが記憶にあるのみ。中途半端な在宅期をはさんで2015年に「現場」デビューしたアイドルも、特定のグループ以外はどこでいつ何を見たかの記録はない。

 

まあ、忘れようにも忘れられないことだけ記憶に残ってれば充分なのだが、せっかく初見からの感想を書いていたし、個人的なインパクトの大きさを考えると、今後起きるだろう自分の視点の移り変わりがあとから参照できることに意味を感じた。
ということで、Twitterとはべつに、まとまったストリップの月例記録を残すことにした。いずれ観劇頻度が減ったとして、それはそれでひとつの記録でもある。



5月17日(月) [渋谷道頓堀劇場] 1回
星愛美(1) - 愛あられ(1) - JUN(1) - 翔田真央(1) - 友坂麗(1)

初見。文フリ東京で『イルミナ』を購入後の翌日、いきおいで観劇。その流れは別記事にした。それにしても、人生初のストリップを日本トップクラスのベテランから洗礼を受けたことになる。ベッドショー(という呼称もまだ馴染まなかったが)では、どうしてか泣けてくるのに驚き。愛さんは本舞台の踊りが「よさこい」調で、どうしたものかとおもってみていると、ベッドで大きく転調。馴染み深い曲だったこともあり、これも不思議と持っていかれる感覚に。胸の周りにただようような指の置き方が印象深い。友坂さんの踊りには、声こそ出さないものの、ほとんど号泣。ただ立って、赤い照明を受けているだけなのに、場が"キマって"しまう。対して、ポーズの入り方は全身を投げ出すようで、そのたびに大きく涙が落ちる。
慣れないことで目の向けどころがさだまらないこともあったが、なぜか踊り子さんの表情を追ってしまう自分に気づく。どこを眼差しているのか分からない視線の束。かといって無表情だったり機械的であったりするわけでもない、特有の視線を記憶にとどめて、疲労困憊して帰宅。
今思えばもったいないが、もう一公演見るという発想がなかった。


 
6月4日(日) [川崎ロック座] 1-4回
沢村れいか(1-3) - 香山蘭(1-4) - 武藤つぐみ(1-4) - 友坂麗(1-4) - 小宮山せりな(1-3) - 赤西涼(1-3)

ひどい雨風のなか、11時頃に川崎着。入場時、マスクの種類などまでしっかり管理している。広々した劇場。盆にちかい、下手側の端に位置どる。個別に記憶に残った踊り子さんについてはこれも別記事がある。
記憶というか経験とはおもしろいもので、このとき3回目までうまく入ってこなかった小宮山さんのハキハキした動きを今はよく思い出す。よく汗が散る「健康的」な姿。演目で使った椅子の背にも汗の跡が残っている。
はじめて"リボンさん"を見る。キュッと引き戻されるリボンの動きと、それを素早く巻取り、次の投擲に備える仕事人のような顔つき。
この日はじめて、舞踊研究者の武藤大祐さんとお会いする。共通の話題である「どくんご」や、アイドル現場のこと、友坂さんの踊りはとにかくわけが分からない、などという話をする。

 
6月6日(日) [渋谷道頓堀劇場] 1-2回
ささきさち(1-2) - 漆葉さら(1-2) - 宇野莉緒(1-2) - 宇佐美なつ(1-2) - 鈴木千里(1)

「宇佐美なつを観た日」として刻まれてしまった道劇は、前回のガラガラ具合は何だったのかというほどの混雑。ずっと後方柵で立見。この日、かなり重要な連絡を並行して行っており、脳が慌ただしいことになる。
ともあれ、ささきさんの2回目の演目が記憶に残る。デビューから2作目とのこと。ベンチや花などの小道具を用いて、雨のSEなども使った、トータリティを考えた演目、なのだが、1回目にはまったく素振りも見えなかった、ベッドでのギラつきに自分がよく見知ったライブアイドルのパフォーマンスを想起させられる。今以て、もっとも生々しく感じた演技であるし、その楽曲をどうしても使わねばならない、と思わされる強い必然性を感じた。もう一度観たい。
宇佐美さんは「黒煙」が初見。とにかく何もかもが巧すぎてひっくり返る。2回目は「spring vision」。とにかく何もかもが巧すぎてもう一回ひっくり返る。この日以来、完全に頭がおかしくなる。またこのとき「ID」を見逃してしまい、すぐに後悔することになる。
のちに、自分と入れ替わりで道劇に来た武藤さんが、宇佐美さんに「なんか熱狂的な人きませんでした?」と言っていたことがわかる。

 

6月11日(金) [池袋ミカド劇場1-4回
山口百華(1-4) - JUN(1-4) - 浅井ひなみ(1-3) - 宇佐美なつ(1-4) - あらきまい(1-4)

頭がおかしくなったので、いっそしばらくクールダウンしようかと思ったのもつかの間、やはりと思い直して二度目の宇佐美さんを観に行くことに。朝からアホほど気分が浮き立っていた。劇場前でまた武藤さんと出くわす。挨拶もそこそこに「ヤバいですね」と言われる。ヤバい...この日、いわゆる「プンラス」を初経験。
開演前、本舞台にモニターが置かれていて、ソフトAV?のようなものが流されている。特に誰が目を向けているわけでもなく、なんともいえない空気。下手3列目端につくが、なにか見づらいので上手側に移動。
山口さんは笑顔がとにかく際立つ。語弊をおそれずあえて直截にいえば、明るい美人さんが踊っている、ということだけで舞台をもたせる力がある。なにかしきたりに基づくのかわからないが、フィナーレで他の人が出入りしやすいよう袖幕を持っていたり、人柄が伺えるような気に。
あらきまいさんは、ポラのときのやりとりが純度100%のアイドルのよう。女性ファンが多そう、とおもうと、やはり常連さんとお見受けする女性の方々がいらしていた。
宇佐美さんは「spring vision」と「positive」。後者は1曲目で大笑い。まさか!
思いがけず背景を共有する部分がわかり、ご縁というか必然性というか、深く納得してしまった。「positive」も、何もかも完璧としかいいようがなく、とにかくステージを見る幸福に打たれてしまい、白痴化してしまう。酒でも入ってるのかと思われたほうがいっそマシなほどで、あとから我が身を振り返って恐ろしくなるなど。
客の入り具合も塩梅よく、香盤も多彩で、ストリップ現場の良さを味わい尽くす。
また武藤さんだが、帰りがけに「ツイート期待してます」などと唆される。ならばと意気込んでるうち、地下鉄を大幅に乗り過ごす。銀座で降りる予定が、気づけば東高円寺などと言っている。

6月17日(木)[池袋ミカド劇場1-4回
山口桃華(4) - JUN(4) - 浅井ひなみ(3) - 宇佐美なつ(1-4) - あらきまい(1-4)

朝から雨。この日ははじめて(半ば強引に)友人を伴っていく。雨のド平日なのに満員。最後方上手側の柵に位置どる。
ほかの用事もあったので、少しゆったり目に入場していて、ほとんど宇佐美さんから観始める。1回目の「spring vision」が終わって明転すると、となりの友人から「推しメンかもしれん...」というつぶやきが漏れる。なにかに勝利した気分。
あらきさんが印象深い。この日、はじめて「体」の美しさをうまく受け取れた気がする。明確な扇情性が、気品と矛盾なく同居しているありかたに、脳が揺れる。オープンショーで客を見つめる視線が忘れがたい。
何回目かの合ポラで山口さんが変面の衣装で登場。ひとりだけ厚着に仮面をつけたよく分からない人が混ざっていて場内一同笑う。
宇佐美さんは、さすがにもう冷静に観られるだろう、いや、念には念を入れてと、相当不親切に構えてみてると、ことごとくそうした不純さをアンロックしていく。構築された芸が起動させる「踊りを見ることの喜び」を、秒単位で叩き込んでくる。ラストの「positive」では少し泣く。
ポラに並ぶのに財布から札を出すと友人から「流れがスムーズすぎて板についている」などと言われる。ポラを撮るのは3現場目だし、そもそもアイドルの特典会もめったに行かないというのに、なぜ。
言い残したことがあって、はじめて脱衣でもポラを撮ることになるが、まったく慣れないので本当にただ単にダメな人間になる。ちょっと込み入った感想も伝えたけど、うまくフェアネスを保てる気がしなくて少し自分に落ち込む。
JUNさんのムード歌謡的な曲で揃えられた演目に陶然。音楽の快楽を増幅してくれる踊り。


6月19日(日) [新宿ニューアート] 1-3回
秋月穂乃果(1-3) - 友坂麗(1-3) - 木葉ちひろ(1) - 小春(1) - 笠木いちか(1) - 赤西涼(1)

この日はストリップ初観劇の友人らを連れて行く。雨というのに大大大混雑。かぶりつきの席を譲って、一番うしろの壁にひっついて観劇。
トップの秋月さん。まさかのカオナシの扮装で現れ、初のストリップがトリッキーすぎる経験になったことを思って笑ってしまう。しかし、そのままポールを掴むと、ああこれは、とすぐ納得がいったので、幸福な出会いになるだろうと予感する。ベッドはエアリアルのティシューのような布を纏いつつの演技。選曲が趣味にバッチリだったのもあるが、相当に良い。そして、意外にも素直にまだ感じたことがない「綺麗だな」という素朴な感想を抱く。とても綺麗だった。加えて、3回目はなぜか舞台奥の鏡面を見せる演出が加わっていて、さらに良い景色に。
友坂さんは夏の演目「恋花火」。出てきた瞬間からまったく違う。ほとんど催眠にかかるように、体が揺れる。団扇の揺らぎは極端に遅く・小さく、存在しないはずの風が体の内に立って、自律を巻き込んでいく。気づくと泣いている。
女教師風の役を演じる「GTR」は、友坂さんという人間の広さというか、芸に身を投じる人としての、あまりの格の違いに愕然。ストリップという芸能を、一方的な鑑賞ではなく、協働として成立する場として理解しているから、そこに衒いなく我々を招き入れる。指し棒で会場の全員を指し示し、確実な「1人」としてそれぞれを受け止める。満足気にほほえみながら合計人数を大きな声でコールすると、目つぶしのライトがあたり、暗転へと移る刹那に友坂さんのシルエットが浮かぶ。その全身の輪郭と上がった口角のかたちを、たぶん私は生涯忘れることがない。
新人の笠木さん。衆人環視のもと新人さんのステージを見ることに、妙に居心地の悪い思いをする。人が「裸になる」という出来事を見るには、やはり大まかには「芸」と呼べるものが、間を取り持つ必要があるのだなと改めて思う。2作目以降、笠木さんを見る自分の視線がどう変化するだろうか。

ある踊り子

持て余すほどの幸福に預かるとき、何も考えずにそれに浸り切るのでなく、それをどうにか誰かに分け与えられないかと思う。
その幸福の中身は、各々によって様々であるだろうが、私はある踊り子を介して得られた幸福を等分することはできないか、やはり考えてしまう。
ただ惚けたようにしてられないのは、やはりそれが私以外の誰かにとっても、同じように強い幸福を与える可能性を思うからだろう。すると結論は決まってくる。その幸福は、劇場にしかない。だから、人を劇場に差し向けなければいけない。どうすれば人は劇場に向かうのか? それがわかっていれば苦労はない。
試しにいったん視点を移そう。「私はなぜ劇場に向かったのか」。ひとまず、これには答えられる。

                 

***

 

3連続で書いた見聞記以降、どのくらいのペースで観劇に行くか決めかねていた。
ストリップという芸能がもつ強度と特異性に惹かれつつ、私的な文脈からとりわけ「音楽と踊り」の関係が特に気になってはいた。振付によって楽曲を解釈するという点において、ストリップの踊りは、その形式性も手伝って、独特なものがある。手当たりしだいに観に行くこともできるけれど...さすがに許されない現実的な事情がいくつもある。
こうして、自分がストリップを視野に入れたきっかけになった武藤大祐さんが高く評価していた踊り子の名前が思いだされた。武藤さんによれば、この踊り子ほど構成力があり、音楽の扱いにも優れている人にはまだ出会っていないとのこと。なるほど、どんな演目がおすすめなのかだけでも聞いておこうと、教えを頂いた。
ある踊り子こと「宇佐美なつ」の名前が上がるのは、この文脈においてだった。


宇佐美なつの名前は『イルミナ』で見ていた。宇佐美の書いた文章も読み、ふとしたきっかけの観劇体験が高じて業界に飛び込んだというプロフィールも知っていた。珍しい背景への関心もあったし、文章に書かれていたことも気になっていた。
とはいえ、生まれながらの踊り子としかいいようのない友坂麗に打たれていたので、どこか懐疑的な気分もあった。一方で、武藤さんがあれほど言うなら...という思いもあり、結果、気になってしまったので、演目について情報を頂いた翌朝、突発的に渋谷に向かった。観劇ペースも許されない事情もへったくれもない。
つくづく思うが、自分にとって一番強い行動原理は「確認」である。大きい出来事では、海外のフロアがどうなってるのか「確認」したくてBABYMETALのEUツアーに参加した。渋谷など、話にならない。他に誰が出るのかもよくしらないまま、二週間ぶりの道頓堀劇場に向かった。

***

 

そこで見たものには、動揺させられた。面白い、とか、美しい、とかでなく、動揺。
動揺のまま、混み合うポラはスルーして、ロビーで武藤さんにメッセージを送りつける。いまログを見ると「凄すぎました!!!!」と「!」が4つもある。
動揺の由来は私的に過ぎて伝わるとも思えない。端的にいえば、同じパフォーマーとして心からの敗北、爽快そのものの敗北を覚えた。その爽快さは熱になって––ほとんど悪癖のようになっている––勢いのままに感想を連続でツイートした。言葉を留めておく余裕はまったくなかった。劇場に向かったのは、あくまでも「確認」の意味のはずだったが、つまるところ「予感」だったのではないかと、今は思う。


私が劇場に向かった理由は、大まかにはこうした話。人にはそれぞれの必然性があり、その必然性が噛み合う限りで行動に変化する。私にあった必然性の説明は、相変わらず人を差し向ける理由には足らない。

***

 

では、宇佐美なつとは、どんな踊り子なのか、どんなふうに優れているパフォーマーなのかを話さないとならない。

宇佐美が、あまたの踊り子、パフォーマーと一線を画しているとするなら。その特質は簡単に指摘できる。宇佐美のずば抜けた能力は、抜群の「耳の良さ」である。
「耳の良さ」とは楽曲を楽曲足らしめているひとつひとつの音を拾い上げる細やかさと、それらひとつひとつの音が織りなす曲の流れを見極める力(耳の話に目の比喩は不適当だが)のことだ。
その耳の良さは、当然、振付を介して感受される。踊り手が聴いている音が、振付という視覚情報に変換されるわけだ。


振付には、スタイルというものがある。私が今までに見た3作品にかんして言うなら、宇佐美の振付はアイドルのダンスが下地にあるスタイルだった。
アイドルのダンスとはなにか。手振りを中心とした、当て振りを多く含むダンスだ、とひとまず言っておく。アイドルのダンスには、あまり高級なイメージはないかもしれない。いや、はっきり言ってしまえば、低級なダンスではないかという疑いさえ向けられる。技術的に熟達していなくても習得でき、観客も容易に反復可能なダンス...「アイドルのダンス」の実際がそうしたものかどうか、ここでは問わない。また、問の立て方もふさわしくない。いずれにせよ問題は、宇佐美のダンスには、どこか凡庸な香りが漂っていることなのだ。


凡庸さとはなんだろうか。端的には平凡で、取り柄がないこと。見るべきものがない、ということを指す。ところで、見るべきものがないという判断はどこで働くのか。
何気なく顔を向けた電車の車窓から、こんなが風景が見えたとする。狭苦しく肩を寄せて居並ぶ家々と、経年を感じる低層アパート。剥き出しの階段は錆び付いている。遠くには建築中のタワーマンション。目を落とせば整備も行き届かない歩道の隅からは雑草が茂って、その横に犬を連れた老人がゆっくり歩いて、自転車に乗った子供が軽快に追い抜く...おそらく、特に胸が浮き立つ光景ではない。ありきたりで、どんな色形の建物があったか、子供や老人の顔がどうだったかなど、車窓の彼方に思い出せもしない。そんな風景を私たちは実際に何度も見てきただろう。
ただ、そうして「何度も見た」と思う心性は、しばしば、ただの先入観と見分けがつかないのではないだろうか。家々の意匠を見逃し、生活の多様さにも想像を働かせず、草の名も犬の種類も知らない。「ただの風景」に塗り込めてしまうのは、私たちがそれについてあえて考えずに済むものと思い込んでいるからにすぎない。
先入観とは、かように予断のことである。予断とは、現実に即していない判断のことである。あるいは、現実に向き合う手間を諦めてしまった思考のことである。凡庸さは、対象を誠実に眺めることを捨ててしまった、現実に即していない我々の判断の結果に現れるものではないだろうか。

われわれの多くは宇佐美ほど耳が良くない。目に頼りすぎていると——裸体を巡る視覚的なショーにも関わらず——宇佐美がなぜそうした動きを行っているのか、意味を掴みそこねるかもしれない。私たちは、他ならない私たち自身の凡庸さによって、そのダンスがどこかで見たような「アイドルのダンス」だと、凡庸なダンスだと、思いこんでしまうかもしれない。
宇佐美が振付を介して証明する耳の良さは、楽曲という現実の細かさに分け入るデリケートさだ。楽曲に鳴り響く無数の音は、あとから恣意的に付け加えられたものではなく、あらかじめ先に存在している。それをひとつずつ着実に拾い上げていくこと。宇佐美の振付は、この事実と対応している。その限りにおいて、いかに宇佐美のダンスが凡庸さと踵を接しているかにみえても、宇佐美自身に凡庸さは全くない。

しかし、一方で宇佐美の振付には「当て振り」が頻出する。「当て振り」とは、当の楽曲の歌詞が指示するイメージに対応する。
たとえば「泳ぐ」という歌詞があるとする。それに応じて、振付で、水をかくような動きがあてられてるとする。すいすいと平泳ぎのようにするかもしれないし、クロールを模した形になるかもしれない。重要なのは、そこでは、動作の正確さは問われないということだ。ここでは「泳ぐ」ことにある具体性、水の抵抗に応じる筋肉その他組織の仔細な再現があるわけではない。ここでは"だいたい"で「泳ぐ」ことが伝われば充分なのだ。
つまり宇佐美の振付にはその持ち前の聴力で細やかな現実(=楽曲)に分け入りつつ、同時にざっくりとした現実(=当て振り)が混ざり込むことを排除しない。宇佐美の踊りには、細やかさと大雑把さとを、一枚岩でない綜合的な「現実」として広く取り込む力が働いているのではないだろうか。
宇佐美の振付において凡庸さが感じられるとして、それは完全な誤りではない。凡庸さは、現実のひとつのありかたを受け入れる、可能性のあらわれでもある。だいたいのことは、だいたいで動いている。一方で、そのだいたいのありようを受け入れる繊細さがある。宇佐美は予断の残り香を濃厚に纏いつつ、微細な現実に向かって踊る。

 

けれども、まだ「ストリップ」は始まっていない。 

 

宇佐美の踊りは、前半から後半にかけ、大きく展開する。すなわち、脱衣が始まれば、空気は変わる。それが上半身から始まるにせよ下半身から始まるにせよ、脱衣の時間には芸のすべてが注ぎ込まれているかにもみえる。宇佐美の脱衣には、われわれが裸体を眼差す欲望の視線をアクロバットに飛び越えるような、あるいは綱渡るようなスリルを、絶対に欠くことがない。また、裸体があらわになってもなお、どこかに緊張を残している。それは当然、切れることない音楽の聴取への集中も変わらず続いているからでもあるが、惜しみなく与えつつも観客との関係に線を引き続ける感触がある。あるいは、互いの関係に線を引き直す感触が。

 

***


ストリップとは当然、女性の裸体を眼差す芸能のことである。男性が脱衣する芸があるにせよ、現在の多くのストリップではそうではない。
なぜ女性を眼差すのか。言うまでもなく、快楽が引き出せるからだ。その快楽は性的であり、多数派に準じるなら、それは男性にとっての性的な快楽だ。
性的な快楽は、他者を必要とする。しかし、基本的な合意をがとれた関係を前提としても、性の場で互いが均等にずっと対称的な関係を築けるわけではない。SMのようにまで偏ったものを想像するまでもなく、バランスの不均衡それ自体に快楽が生じることは当たり前でもあるだろう。わたしたちは性をめぐるやりとりにおいて、平等の基準を探り合う。
けれども、性をめぐるやりとりは、常にバランスを取り合うわけではない。ともすれば非対称な関係に傾きすぎてしまう。むしろ、その非対称性は社会においては前提としてスタートすらしている。
たとえば一般に、性器を名指すことは社会的に退けられている。しかし、しばしばその習わしは破綻する。問題は、この習わしの破綻が、多く男性によって行われることである。男性には、性器を名指すことの禁止を破る権利が過分に与えられている。このささいな禁止の侵犯は僅かずつではあっても快楽を備給する。非対称性そのものを性的に啜り上げる公然とした後ろめたさがそこにあるだろう。

                  

***

 

私は、宇佐美がポラの時間に客とやりとりをする中で、直截に性器及び性器の部位の名称について口にする瞬間が、とてつもなく好きだ。
私は同性異性問わず、性器の俗称を口にすることも、性的なことがら一般について話すのも苦手だが、宇佐美の振る舞いに、快いものを感じる。
これは女性による、一般社会で男性だけが持っている踏み越えの権利の奪取が起きていて、それが痛快なのかというと、必ずしもそうではない、と感じる。宇佐美は逆張りとして"あえてそう言って見せてる"わけではないはずだ。この感覚がどういう根拠に基づくことなのか、私にもまだ分かっていない。
その場が、男たちの視線が快楽を求めて漂う場であることは、前提のままである。事態はとくに何も変わっていない。しかし、いつの間にか、ほんの瞬間に価値の転倒も生じている。性器をとりまく、実に保守的な欲望の場は、ふとした瞬間にずらされている。あれほど人が執着し、本国においてはプレーンな表象すら避けられる対象となる性器の価値は、乗り越える以前に、さしあたっていったんどうでもよいものになる。宇佐美と(あるいはすべての踊り子たちと)性器をめぐってかすかに笑い合うとき、空気は確かに動いているかに感じる。私は触れ合うことなく、何かを可能にする希望だけ受け取っている。
でもそれは、劇場にいるすべての人にとってではない。あいかわらず性器を特別なものとして見たい欲望は残っているし、やはり一枚岩ではない。そのバラバラさを保ちつつ、岩肌を縫って線が引かれ直す。
    

***

 

昨今の忌々しい"浄化作戦"の余波か、一部の劇場にではオープンショーには縛りがあった。踊り子たちは笑いながら困ったようにしていたが、ある回の宇佐美は、本来のそれと違う、素足の指を広げて、客に足を向けて見せて回って、ラストは司会のいれた茶々通りに、舞台の中央で鼻の穴を指で広げて帰っていった。
オープンショーという形式を即興的に利用して、パフォーマーの勘として、即座にこの一連の振る舞いが導き出されたことにいたく感動したし、とても楽しかった。私もようやくオープンショーの楽しさを掴みかけていたところだったが、宇佐美の足指オープンショーがこの時間の豊かさを決定的にしてくれたと思う。
裸になる、ということの内実は、その言葉ほど簡単なことではない。私たちは何かとそれを見たがるが、とくに見たいとは思わない足の指の間(フェティッシュがある人はたまらないかもしれないが、こちらの想像の埒外である)を見せられて笑っていることと、どう関係しあっているだろうか。

***

 

本当は、宇佐美の芸の細部がどれほど豊かで、また、今後にどんな可能性を感じるかについて話がしたい。その衣装の使い方がいかに巧みか、本舞台からベットへと展開するドラマトゥルギーがどれほど大胆か、選曲の一貫性、曲間のコントロール、音楽の高まりを余すところなく捉えたポーズがどれだけ感動的か、下着の処理がどれほど完璧か、話したくて仕方がない。「Positive」のラスト、歌詞に合わせて両腕を開き、後ろへ向き直って飛ぶように踊る姿が、なぜあれほど感動的になるかについて、「黒煙」でのヘアアクセサリーの取り外しが、肌に触れずとも演出によって脱衣に特有のサスペンスを成立させていることについて、「Spring Vision」で暗転中に流れているだけの音楽が、どうしてこんなに胸を詰まらせるのかについて、考えたくて仕方がない。

 

私はこの文章を、「宇佐美なつを観に行け」という"動員"のつもりで書いてきたはずだった。それは幸福を分け与えるためのつもりだったが、むしろこうした悩ましさを共有したいからなのかもしれない。

 

いや、いっそ、誰かを拙く促すことなど、諦めてしまえばいいのかもしれないとすら思い始める。もっとも必要なのは、宇佐美もまた他の誰かから受け取ったはずのストリップの幸福が、私へとまた分け与えられている喜びに湯浴みするように、少なくともその心においてくらいは、裸になってみせることかもしれない。

 

***

私は、宇佐美なつを見てくれといいつつ、最初からいっこうに核心に届きそうもない蛇行を繰り返した気がする。たどり着くも気なかったのかもしれないと、今は思う。あれこれと喋っていても、その実、宇佐美の芸が死ぬほど好きだということを、頭からおしまいまで言い換えながら飽きずに繰り返しているだけに過ぎなかったのではないか。
まだそのことについて充分に話す術を持っていない、漫然と移り変わる日々を刺し貫いてしまう、あの決定的な脱衣の瞬間の強度に、私は何度も連れ戻されている。そして、その堂々巡りのようすは、おそらくほとんど呪いか、あるいは恋と見分けがつかない。

 

恋が人を多弁にする不滅の歴史に少しも違うことなく、不毛な高鳴りが無闇に響くだけのようなこれは、結局のところ、出来の悪いラブレターでしかなかったのかもしれない。

ストリップ見聞記(3)

正直に言えば、この記事まで出すことは、あらかじめ考えていた。
というのも、自分がアイドル文化に軸足を置きつつ、ストリップ文化へと片足を踏み込んだのだから、その逆、つまりストリップ文化に軸足のある人々へ、アイドル文化から差し出せるものを伝えたかった。
前回の更新時でストリップ再見の目処は立っていたので、観て再確認したものを含めて更新しようとしたのだが...劇場を再訪してみると、得るものが多くてほとんどプンラスとなった。

というわけで、そのことについて、先に書く。

 


ストリップ劇場再訪 

訪ねたのは川崎ロック座。
かつて「シネマ大道芸フェスティバル」に出演した思い出もある川崎。くしゃくしゃの競馬新聞を片手にした歯がなくて顔の真っ黒いおじさんに「がんばれよ!」と10円の投げ銭をもらった記憶がある。こういうおじさんに身銭を切ってもらうのは嬉しいものだ。

 

ロック座は川崎駅前から徒歩で10分かからないくらいの、裏道にある。早朝料金で割引を受け、入口で検温消毒。マスクの配布まであった。
前回の渋谷道頓堀劇場に比べると圧倒的に広くて天井も高く、ライヴハウス然としていたのが渋谷なら、川崎はいわゆる劇場のようなたたずまいである。青みのある黒い壁には大きく「Rock」の透かし文字...の脇に赤字で自慰厳禁の張紙。開演前にと用足しに行くと、男性用小便器は驚くほど位置が低くて、しかも赤外線センサーの機械のせいでなにも見えない。そのせいで的を外すことが絶えないのか、足元にペットシーツが敷いてあった...と、こうして不要な描写を重ねていると先に進めないので、特に書きたいことだけ書いてしまう。

 

香山蘭

あらかじめ『イルミナ』編集のうさぎいぬさんから、おすすめの踊り子さんとしてうかがっていた。なるほど、たしかに素晴らしい踊り子だった。
特に脱衣からのベットショーは絶品中の絶品であった。露出された乳頭に、性感帯としての感覚が宿っていることをこちらにトレースさせるような、しびれるような繊細な指の動きがある。直に触れるわけでも、凡庸に付近をなぞるわけでもないのに、裸の胸と宙を揺れる指が同じ視界に入ると、なぜかそう感じさせられる。しかし、そうした感覚は一部にとどまることなく、ぜんたいに見るだけでひんやりと滑らかに触られているような不思議な感覚に陥ってしまう。
また、ベットショーでは、かなり具体的に性交を描写するタイプの踊りがあるが、今回演じられた「花魁HR」*1もそうした演目だった。
口淫から体を重ねるように寝そべり、唇の端からハンパに(ペコちゃんのような)出して、床に顔を近づける。そして正常位から後背位に移行していくのだが、このそれぞれの動作はかなり生々しくある。しかし、リアリズムに徹するというわけではなく、実際、それぞれのポーズからポーズへの移行はなめらかで、いつの間にか起きている印象だった。身体が床に接しているとき、支点は手・肘・腰・膝など大きな関節各部位が関係しているはずなのに、ふしぎと大きく体を動かす印象がなかった...ポーズの移行はあたかも映画のように編集されている。
たとえば正常位から後背位に体勢を移すとき、尻を持ち上げた形に肘は立ててうつ伏せてから、いちど尻の方に大きく体重を移して、もういちど伸びをするようにして身体を伸ばす動きがあった。ここに現実の性行為には起きる必要がない動きがある(性器の挿入の強調とも読みうるけれども、そうしたニュアンスの動きはのちに起きていたはずだ、と思う)。こうした動きが、あたかも絶妙なカット割りとして機能していることはないだろうか。あるいは小津安二郎が人物を立たせる/座らせるときに行う、いわゆる「アクションつなぎ」のような、カメラ位置の変化が起こっているのでは...ということ。しかし、それも2回目のときにようやく感じたことなので、もう一度確かめる機会を待ちたい。

 

武藤つぐみ

GSM」は大きく「武藤くん」と書かれた大判のスケッチブックを背に、手にはなんらかの「力」を封じるためか厨二病の典型表現よろしく包帯が巻かれている、学ラン姿の武藤つぐみがマイムまじりに踊るシーンから始まる。深くかぶった制帽で目を隠す姿はマイケル・ジャクソンを想起させる。こうしたジェンダーを異にした表現じたいは珍しくない趣向ではあるが、この演目は徹底していた。
まず、一曲目を踊り終えると、後ろのスケッチブックを取って盆まできてあぐらがきにどかっと座ると、客を見渡してやおら似顔絵を描き出して、完成したものをモデルにプレゼントする。舞台からここまではっきりと客に干渉する芸は、かなり少ないのではないだろうか。観客はそのイメージを介して舞台上に上げられてすらいる。しかもそれは、一見して男性を演じる者から繰り出される。一連の出し物はジェンダーとストリップという芸能の構造が持つ非対称性を、手早く転倒させる。
しかし、そうした批評性の理が勝ちすぎることはなく、芸は具体的な動きにも宿る。脱衣が始まると、「力」を抑えていた手の包帯は、胸にもさらしとして巻かれていた事がわかる。それを巻き取ると、ズボンは勢いよく降ろされる。下着はボクサーブリーフ。パンツをひろげて中を覗き込んだかと思えば、前開きからにょきっと指を出してみせたりする。脱ぎきってしまっても、足首にボクサーパンツが引っかかっている。「厨二病」という自意識のこじれを、セクシャリティの揺らぎに重ねる武藤が体現する性のあり方は、知的であると同時にユーモラスで、かつシリアスでもある。
一転、ラストは流行り物の鬼滅ネタ。見せ場のポーズでは、ファリックな刀を観客の視線とぶつかるように鋭く差し向ける。鞘に収めた刀を床に立て捧げ持ったかと思えば、しなしなとすぐ横倒しになる。

身体的には、とにかく腰の柔らかい人で、バックベンドすると後頭部が尻に近づくくらい曲がったりする。ためらいなく反り返る動きが実に爽快だった。


観客への絡み方(学ランの上着を盆の面から振り回したりするのだけど、ほんとうに顔ギリギリなので、かなりスリリング)や注意の向け方は、ほとんどクラウニングともいえるそれで、既視感というか親近感もあった。

 

 

友坂麗

「Jumping」はこの日で都合三回鑑賞をしたことになったが、二回目はボロ泣き、三回目は泣きこそしないものの、やはり全身を持っていかれるような経験をした。
3曲目中頃に、先に履いていたブーツを脱ぎ、ヒールの靴に履き替えるシーンがある。左足はふつうに履くのだが、右足の靴を取るとき、目の前に置いて、うつぶせになって眺めて、ヒールに手をかけて、客席に目を向ける。この瞬間(確か)、赤い照明が舞台を埋める。フェードインなのかカットインなのか、覚えていない。正確には、照明が変わるより前に、友坂麗の何かが...何かとしかいいようのないそれが、空間のすべてをロックしてしまう。音楽の進行とも、まったく関係がない。いや、核心的な出来事に、うまく視線が向けられない。出来事は観客が把握できない(=困難な)タイミングで、生じている。
これは『イルミナ』の座談会でも、すこし別の文脈で例にされていて興味深かったのだが、友坂のある踊りには、柔道の技に掛かる感じがある。
柔道で圧倒的な上級者に技をかけられるとき、自分の身体が「投げ」の場に巻き込まれていく具体的な感覚がある。体重を「崩」されて、自立が乱れた身体が刹那に浮き、体を預ける重みを感じる前に、すでにして天地はひっくり返っているのだ。
けれども、この靴を巡る「瞬間」には、体重を崩された感じすらしない。手応えなしに、こちらの天地だけひっくり返ってる。
以降、友坂麗が何をしても、あるいはしなくても、そこに踊りが動き続けている。これにかんしては前回も書いたので繰り返さない。繰り返して話したいのだが。あ、いや、オープンショーのとき、曲の拍子をとる手が、気散じにパタつく猫のしっぽの動きそのもの*2で、実にすばらしいということだけ、取り急ぎ書き残しておく。

 


ところで、周年期間ということで、豪華な冊子をいただいた(しれっと初のポラ)。
膨大な演目リストを眺めていると「紅月 -あかつき-」の題が。これは...もしや...と思ってすかさず訊いて確認(2回目のポラ)すると、やはりその通りだとのこと。お気に入りの作品とおっしゃっていたので、再演の機会を逃さないようにしたい。

 

 

 アイドルの話

本題。
多様な背景を持った者たちが集まっているのだから、技巧が排されているわけでもないが、アイドルは「芸」の卓越では語りづらい*3芸能である。けれども、一部でよく言われるように「未熟さ」を愛でるに終始するものでもない。あるアイドルの観客はベタにステージの強度に打たれ、熱狂し、涙を流し、それぞれが何を見たのか語り合う。それでは、アイドルの観客は何を見ているのか。あえて言うならば、アイドルもまた、ステージ上で剥き出し=裸であり、観客はそれを目撃している。
アイドルが扇情的に、「疑似恋愛」的に情欲を掻き立てているという話などではない。歌も踊りも途上のまま、持たざるものがただ、あらん限りに力を尽くすこと、このことにおいてアイドルは裸であり続ける。
それは形には置き換えられない。しかし不可視の現れを感じるものたちが、「現場」で熱を伝えあって、あるいはそこから距離をおいて、バラバラな仕方で狂っていく。


もちろん、そうしたあり方のアイドルは少数派かもしれない。けれども、私がアイドルとその可能性に引き込まれたとするなら、不可視の現れを剥き出し=裸と語りたくなる、言いがたい感覚があったからだ。

 

手早く進もう。
実は、最も最初に手渡したかったものは、すでに失われている。「アイドル」は本当に脆い。手遅れになる前にまずは観に行って、「沼」に落ちるなり、自分の人生に関係ないか判断するなりすべきである。


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この動画はすでに何度か貼っている。Aqbi Rec所属のBELLRING少女ハートによる、日本最大規模のフェスティバル「Tokyo Idol Festival」に出演した際のパフォーマンス映像だ。
ステージと客席が無法に乱れていくありようが(この撮影動画がアップロードされているという事自体も含めて!)、端的に収められている。17分付き合うのが億劫なら、12分40秒あたりから狂乱のクライマックスになる。

このグループは既に5年前に解散し、さらに紆余曲折を経てふたりはアイドル活動を引退している。
しかし、ひとりはSSW「ん・フェニ」として独立したが、もうふたりは変わらず「アイドル」である。有坂玲菜はレーレと名前を変え、同事務所の6人組サイケデリックトランス・アイドルグループ「MIGMA SHELTER」のメンバーとして、朝倉みずほは移籍後、唯一残ったオリジナルメンバー寿々木ここねとふたりで「SAKA-SAMA」として活動している。私が見る限り、ふたりは今でもステージの上で生の輝きを少しも減じることなく、多くの、また少ない観客を剥き出しのパフォーマンスで強く巻き込んでいる。
そして"黒い羽"を継いだグループは「NILKLY」として活動を再開したばかりだ。


こうして異なる世界の誰かを誘うのには理由がある。端的には文化の持続のためだが、アイドルの文化圏では、観客がゲームバランスを変えうる。数の問題ではない。特異な誰かが紛れ込むことで、驚くほど「現場」の空気は変る。こうしたダイナミズムは、外から見ていては絶対に分からない。
そして、うっかり入り込んだ"誰か"が自分ではないと、必ずしも言い切れない。好奇心で一度ライブを見にきただけなのに、いつの間にかそこに欠かせない観客の一人に変化した例は、いくらでもある。


ストリップとアイドルは似ているかもしれない。あるいは似ていないのかもしれない。
少なくとも、見てみなければ話は始まらない。
互いを行き来する風通しの良さだけ、ここにわずかながら確保しておきたい。

 

  

おわりに

私は今後もライヴハウスに行きつつ(今年はK-POPの勉強に振り切ったのでもっぱら在宅なのだけど)、おそらく劇場にも行くだろうし、ストリップについても書きたいことができればここに勝手に記録していだろうが、見聞記はひとまず終わりにする。

あまり読んでいる人のことは気にせず書いているけれど、今回はたくさんのストリップファンの方々にお目通しいただいた。門外漢の長々しい文章にも関わらず、好意的なご感想を嬉しく思います。

さいごに蛇足ながら、そして状況からなかなか難しいものの、自分自身もまた別の文化圏で、立場を違えて演者として活動している。ここにももちろん、数え切れない具体的な営みがあり、多様な表現がある。よければ、遊びに来てください。

*1:同日出演の赤西涼の演目に手を加えたものとのこと。

*2:保坂和志ではないが、この「猫」は比喩ではない。とかく意味を持たされすぎてしまう「猫」ではなく、猫の"あの"しっぽのパタつきが、人の手に宿って、友坂麗のオープンショーのリラックスした空気を陰に支えているのではないか、という話。

*3:ひとまず日本の非メジャーアイドルに話を絞る。韓国のように、そもそもダンスやラップスキルに優れた者たちが「アイドル」として活動することになる市場もあり、統一的に「アイドル」を語る困難が常にある

中途半端な話

大きくは、単なる思い出話。

 

しかし、こうした思い出話をする資格を微妙に欠いていることについての話でもある。思い出話に資格も何もないだろうけど、自分はそう思っている。ではなぜ、ということになるが、その資格のなさを、そのまま書くことの資格に裏返してみたくなった。半端者としての思い出があっても、いいだろう。



 

先日、私が2017〜2019年のあいだ、最も熱心に通ったグループのひとつが無くなった。しかし私とこのグループの接点は2020年1月29日を最後の現場としたあと、一度の配信を例外として、途絶えてしまっていた。最後になったライブも、行っていない。おそらく、残された配信もこのまま見ることはない。
ごく少数の友人は知ることだが、私はこのグループのワンマンを観ると、何かしら文句を言わずにはいられない客だった。私事でどうしても行けなかった唯一の例外を除いて、毎回欠かさず参加していたが、その都度、心から楽しめることはほとんどなかった。これは、今だから捨て台詞めいて言ってるのでなく、毎回オープンな感想にしていた。私はあくまでも、ふだんの何気ないライブの、そのデザインと裏腹な泥臭さが好きで、ワンマンで凝らされる趣向や、謎解きめいたメッセージの出し方は、基本的に肌に合わなかった。それでも、今度こそはもしかしたら、観ないと何も分からないから、と通い続けた。けれど、昨年の最初の配信ライブを最後に、意識的に観ることを止めた。

 

特筆しなければならないのは、このグループには、私にとって初めての「推し」がいた。今も相変わらずよく分からない「推し」だけど、それでも「推し」と呼んでもいい唯一の人だった。そのパフォーマンスも、パーソナリティも、たしかに私をのめりこませてくれたし、幾人もの友人を作ってくれることになった。ただ、友人たちの熱意と誠意にはぜんぜん及ばないし、最初から最後まで、どこまでもハンパなオタクだった。それはそれでしょうがないことで、どうしようもないし、ハンパさを受け入れるしかなかった。

 

グループの活動から距離ができると同時に「推し」からも距離ができるようになった。社会状況が変わって、こちらの生活も変わり、関心の向き方も大きく変わってきた。これも仕方がない。それでも、活動終了の報せを聞けば...正確には報せを見てからしばらく時間が経てば、思い出すことが多い。グループに、決して前向きではない決断があったことを思えば胸は重い。最後の最後まで「現場」にいつづけた、面識があったりなかったりするオタクたちのツイートを見れば悲しくもなる。
結果から考えると、現在のようなシビアな時期に離れてしまったことは、自責の念に繋がりそうにもなる。ただ結局は広義の当事者しか分かりえないことに、どこまでいっても消費者でしかない自分は思い悩まないことにしている。薄情は薄情なりに、ハンパはハンパなりに覚悟がある。


半端な思い出話。
2017年の定期公演。意外なライブの良さと「推し」になるその人の姿に打たれて帰りの地下鉄を乗り過ごした日から始まった。フェスからリリイベを回すとき、メンバーたちと同じ電車で移動して気まずかった。知り合いの知り合いがブッキングした地元のイベントでやりづらそうなライブがあった。ロフトで人生初のチェキを撮って、緊張してどうでもいい会話しかできず落ち込んだことがあった。「推しかぶり」の年長の友人ができて、気に入らないオタクの悪口で笑いあったこと、現場で話したオタクと、別のアイドルの懐かしい話で盛り上がったこと、ランチェキを何万円分も引いたオタクが、打ち上げのときテーブルにずらっと並べて写真を撮ったことがあった。ごくごく間接的にではあるが、生誕祭の一端をのぞいたこと、「認知」に一喜一憂したこと、ネットでふざけていたこともあった。手紙を書こうとして結局は書かなかったこともある。素晴らしいライブがあって、ひどいライブがあった。あるバンドセットのライブは本当にひどかったのに、次のバンドセットのライブでは最高の姿を見せてくれたことがあった。一番熱心に感想を伝えた日だった。なぜか履いていた靴をほめられた。ラジオ初公開の音源を六本木ヒルズで聴いたこと、新譜を終電の山手線で聴いたこと、私事でバタついて半年ぶりに観に行ったら、「お久しぶりです!」と大きな声で推しに迎えてもらったこと、酒を飲みすぎたあとなんかに思わず感情が高まったこと、どこを見るでもないけど、深い集中を伺わせる視線を幾たびも見たこと、それを褒めようにもうまく伝わらないこと、今は思い出せないけどふとしたときに思い出すかもしれないことたちが、私の人生にとって無意味だとは、誰にも言えない。

 

このグループが今後どうなるのか、何もわからない。相変わらずオタクたちは残された手がかりから、何かを読み取ろうとしている。
「推し」にしても、別の形で活動があるのかもしれない、もう2度と人前に現れないのかもしれない、コロナ禍で取得したという資格を活かして市井の人として生きるのかもしれない、そのあと諦めきれず表舞台に帰ってくるのかもしれない、何もわからないし、別に知ろうともしていない。知らないようにしてるわけでもない。
最後のライブで、その人は声が震えていたという。私はそれを確かめようと思えば、今すぐにでも確かめられる。あるいは夏まで待てばソフト化された映像でも。観るかどうか分からない。震えていた声を想像すると、やすやすとは言葉にならない気持ちがある。でもそれは、勝手に想像しているからにすぎない。実際にそれを観ることと、何もかもが違う。

 

私はアイドルとオタクの関係をぜんぜん信じていない。恋人でも友達でもない「アイドルとオタク」の関係は、確かにある。でも、信じていない。だから関係は生じない。「アイドルとオタク」の関係は、その関係を信じる力自体が、関係を育てるのだろう。その意味では、恋人でも友達でも、同じことだ。

 

いつもそっけなく聞こえる「いつもありがとう」という言葉を、関西弁のイントネーションを伴って思い出す。それ以上はないし、それ以上を望ませようともしない態度が、私にはありがたかった。それだけで充分だったのだ。

 

 

 

ストリップ見聞記(2)

すべてのパフォーマンスを見終わって、道玄坂を下りながら、ストリップは(すくなくとも道頓堀劇場においては)、かなり形式性の強い芸能だということを理解した。なるほど、と声には出さなかったが、見てみてはじめて深く納得できることが、とにかく多かった。かわりに、体も頭もひどく疲れている。さっきまで見たものをほとんど自動的に反復しながら、乗客の少ない銀座線で帰るのだった。

そういうショースタイルもあるのかもしれないが、個々のショーに連続性は特にない。連続性はないものの、同じ形式の中で演じる踊り子ごとの個性を対照しやすいので、それぞれが印象に残りやすい。出演5人でひとり15〜20分の持ち時間というサイズもちょうどいい。ストリップの形式性は、ひとりがパフォーマンスを終えるたびごとに、こちらをリセットしてくれる。
これがインディーズのアイドルの対バンだと、持ち時間こそ近いものの、ひどいイベントになると一日中せまいライヴハウスの中で20組以上が五月雨式に出てきてガヤガヤやってるので、個々の印象もへったくれもない。そんな環境でそもそも全部見通すなどということができないし(ストリップでも観客の出入りはあったが)、主催側も想定していない。目当てを2,3あるいは1組だけ観て、「特典会」*1まで通路で時間を潰していたりするような客もめずらしくない。

出だしから余計なことまで書いたが、急に前回から大きく話をとばしたのは、この形式性にも理由がある。


初の観劇後、受け取ったものの多さに疲労困憊しつつも、形式がかっちりあるおかげで、記憶が混乱することはなかった。メインショーの演出の差、ポラショーの観客とのやり取り、オープンショーの空気感...記憶はこうした場面ごとにフォルダ分けされて定着した。こまかに記憶が整理されたのは、前回書いたように、自分がまずアイドルの「現場」的なものに関心があって、ある程度最初からアイドル文化と対比的に見ていたせいもあるだろう。だけど、私が疲労困憊するほど「持っていかれた」感覚には、やはり整理された表面的な記憶だけではたどり着けない。そしてこの日会った出来事を順に追うだけでも、核心を掴むにはスピードが足りない。帰りの地下鉄で、考えるというより再上映されるように、細部の感触がよみがえり続ける。
ゆえに今回は、ストリップに備わった形式性を手がかりにしつつ、それぞれのパフォーマーの個性をあえて見逃し、5組のステージを重ね合わせ、いくらか抽象化したうえで、ストリップに何を見たのか、その曰く言いがたい感覚をわずかでも文字に移し替えるように、ひとつのノートとして書く。

 

 

・・・

 


各人の出番は三部構成。
本舞台〜盆をつかったメインのショー、客が踊り子と写真を撮るポラショー、そしてそのあと盆で行われるオープンショー(知らないなりに語感で察していたが、その通りではあった)である。
本舞台を中心とする最初のシークエンスは、盆に至るまでを含めた番組の基調となることが多かったが、対照的なトーンで構成されていることもあった。ここは主に着衣の状態ではじめられるが、いずれ「脱ぐ」ことは分かっていても、「脱ぐ」という動詞の単純さには収まりきらない展開があった。たとえば「脱ぐ」に至る動機がストーリーのうちにある程度整合的に示されていることもあれば、形式的な芸能一般にある"そういうもの"性によって支えられていることもあった。"そういうもの"性は、落語で枕から噺の本題へ移行する時に急変化するようなモードを思い出せばいいだろう。前後が筋道を立てて合理的に連続するのでなく、やるからやる、脱ぐから脱ぐ、というだけの世界も、またある。いずれにせよ着衣の仕方は一様ではない。最初から下着だけつけていないこともあれば、着物姿で何枚も布をまとっていることもある訳で、そこから脱衣の仕方にも差が生まれる。この脱衣の仕方が芸と呼ばれるだろう。

しかしまた、「芸」と呼ぶことで、期待としての露出をじらして遅延させる巧みさのようなものを、漠然と想像するかもしれない。少なくとも私は、ストリップはなんとなくそういうものなのかと思っていた。もちろん、そうした芸もあるにはあるが、期待としての露出をあっさり裏切るようなあっけらかんとした脱衣もあるし、部分的な脱衣が、続く盆のシークエンスへと伏線的な効果を与える場合もある。ともあれ、盆のシークエンスに至る前には、暗転を伴った衣装替えがある。本舞台で一度脱いだとしても、盆のシークエンスではもう一度あらためて服が着られるのだ。ストリップでは、服は"何度も脱がれる"。かように、ストリップは期待としての露出を最終的な目的にしたものでなく、露出の仕方をアレンジするバリエーションの芸を見る。

けれども同時に、ストリップには特権的な中心がある。私たちの身体において、腕や脚や腹、あるいは胸さえも超えて、法的な禁止の対象という特権をしめるそれ*2をめぐる身体の編成が、ストリップという芸の核心であることは揺らがないだろう。単純な芸術性の称揚(=免罪)がストリップの評価にふさわしくないように思われるのは、この禁止を前提とした特権を維持していることにつきる。ストリップはやはり、無毒な芸能ではないだろう。

とくに盆のシークエンスでは、それをめぐってパフォーマンスが構成される。回転する舞台で見えたり見えなかったりするそれは、確実にこの時間の中心であり続ける。
観客は見えたり見えなかったりすることで、窃視に浸れるわけではない。見えるかどうかは偶然ではなく、踊り子が組織した視線の誘いによってコントロールされている。このコントロールを結果として発生させる運動の流れをこそ、踊りと呼べるだろうか。
見えたり見えなかったりさせることは、それがより扇情的であるから、と言えなくもない。そうした側面は、拭い去ることができないし、拭い去ろうともしていない。だが、踊りという運動に巻き込まれた視線が目的地への迂回を甘い遅延で満たすいっぽう、突然の着地が驚きによって期待を上書きして私を振り回すうちに、扇情性では片付かない震えが与えられる。これを端的に言葉にできればどれだけ楽かしらないが、言葉にならない場所で、踊りは踊られる。いや、その物言いは不正確だ。むしろ、特権的な中心をめぐる、いたってありきたりな私の欲望が、ストリップという踊りの中で再編成されること。私たちが内面化している、エロティシズム、あるいはエロ、官能、ポルノ、何と言ってもいいが、踊りはそれの特権を使って、それらの価値観を解体していく。そうした可能性を与えるのは、ストリップ=踊りがひとつの詩的言語だからだろう...
すこし筆がすべりすぎたきらいがあるが、先に進む。

ストリップを踊りとしてみるとき、特権的な中心をめぐる詩的言語としての身体の編成が、その他の踊りと表現の質を隔てている。観客は幾何学的な形態を鑑賞するのでなく、律動する身体に同期するのでもなく、踊りを介して中心をめぐる意味の組み換え・上書きへと参加する。ただ、そうはいっても身体運動であるから、やはり直接的にはその筋肉や骨がめまぐるしく作り出す動きに目を奪われている。形態的な美も、律動的な同期も、排除されているわけではない。総じて、踊り=運動を観る強い喜びがある。だがそうしたとき––たとえばオープンショーは特にそうだが––意味を持つ部位としては特権的なそれは、豊かに動くその他の部位と違って、ほとんどまったく動きがない唯一の場所でもあることが、際立ってくる。

踊りを観る喜びといいつつ私は、どうかすると踊り子の顔ばかり見ていた気もする。正確に言うと、その視線。極度に形式化された視線、まだ迷いのある視線、力みのない自然な視線、あるいは力強い状態が自然であるような視線、踊り子が何を見ているのかに誘われた。でも、オープンショーはどこまでいっても、踊り子が明快にイニシアチブを取った"見せる"時間である。踊り子と客。互いの視線はすれ違う。ひとりの客が、ぐっと身を乗り出してのぞきこむ。踊り子は指を使ってみる。踊り子がそこへ視線を以て促すようなことは、たぶん一度もなかった気がする。観客は、何を見るのか選ばねばならない時間でもある。私はどこを見たらいいのか迷ってしまった。けれども、誰しもが何を見ればいいかはっきりわかっている。だが目を向けた先に、動きはない。展開がない。なぜそれを見るのか。かといって、顔をあげてまじまじと見つめ合うこともできない。ごくプライヴェートな場で手触りとともに交わされるはずの交歓が舞台に持ち込まれるとき、舞台/客席に備わった非対称性は逆転するかに思える。見る私を、舞台から見られている。ただそれは不快でも退屈でもない。ショーを締めくくるにふさわしい確かな充実がある。
オープンショーとは何なのか、あまりにもそのままで、かえって何も分からない時間でもあった。


...もうひとつ、ストリップの音楽について、これもメモ程度に書いておきたい。


ストリップに使われる音楽は、ビートの明瞭なダンスミュージックもあれば、メロディの質感が優先された歌謡曲もある。ただ、そのどちらも、特に盆のシークエンスに至れば、音楽と身体運動との同期性はいったん棚上げにされているかに見えた。音楽的な効果が、踊りに随伴するという意味では、ほとんど放棄されていることもあった。盆という場では、あくまでも身体の特権的な中心があるからだろう。音楽もそれ以外の身体も、そこを巡って動いている。ただし、単純に奉仕するわけでもない。非同期的に、オートマティックに音楽は回り続けている。
菊地成孔『服はなぜ音楽を必要とするか?』では、パリコレのファッションショーで、しばしば歩行のリズムとは無関係な四つ打ちのダンスミュージックが選ばれていることを指摘している。この無関係さは「エレガンス」という概念に接続されているが、その"無関係の関係"は、雑誌連載という性格のゆえか、明確な結論に迫るには至っていなかったと記憶している。
ともあれ、ストリップにおいても、この衣服・歩行(身体運動)・音楽の関係のあり方を見直す大きな必要を感じた。

 


ここまで、具体的なパフォーマーの話を回避して進めてきたが、最後に、私がこの日もっとも強く印象に残った踊り子のことについても、やはり書いておく。

 


私がこの日見た踊り子全員には、つよく涙腺を刺激された。それがどうしてなのか、なかなか分からない。上にずらずらと書いてきたことは、その原因に迫るための、ひとまずの整理だ。
けれど、そんな整理への欲求も追いつかないほどだらだらと泣いてしまったのは友坂麗だけだった。盆の上に来てから、脱いだハイヒールの片方をセンターに据えて、這うような四つん這いで、そのハイヒールにふれたとき、場の空気はハイヒールに向かって吸い込まれていくように集中していく。脱衣に進んでも、ありきたりな官能表現は何もなく、身体の充実だけを見せられる。比較的律動の強い音楽から、瞬間、リズムへの囚われから抜け出すようにして体が動く。そのたびに、どうしても泣いてしまう。暗転が行われてもまだ涙が止まらなかった。たぶん、ストリップという芸能のもつ強度に打たれた部分を差し引いても、これほど凄いパフォーマーを、今まで何人観ただろうかと思う。その何が凄いのか、一回見ただけですらすら言えるなら世話はないし、こちらが言語に分節できる精度を遥かに超えた領域で踊りがあるのだから、仕方なく、ただただ泣くしかないのだ。

それでも何かを言おうとするなら、友坂麗はポーズの人だ、と言おう。ポーズといっても、それらしい形の均整を指すのではなく、急降下するようなスピードが内在したポーズなのだ。そのポーズは、いつも突然にあらわれる。ただ単に急に止まるわけではない。でも、気づいたらそれはすでにポーズだ。それは、びくともしないほど強固に動きっぱなしのポーズなのだ。たぶん...想像がつかないだろう。さらにあの、天井の梁に手をかけた姿のエレガンスと、髪を振り払うように仰け反る身体のためらいのなさ、にもかかわらず、柔和さを常に携えるバランス感覚...友坂麗をこの日観なかったなら、ストリップ再訪の機会は、いくらか遅くなったか、あるいは日々に紛れてずっと遠のいたかもしれない。

そのほうがよかったこともあるかもしれない。でも、見てしまったのだから、仕方がない。仕方がないと言い聞かせて、また劇場に行くだろう。

*1:ストリップにおけるポラショーはアイドル文化における「特典会」と似ているように見えた。しかしストリップのポラショーは、すべてのステージが終わってから行われる「終演後物販」、別の出演者のステージ中に行われる「並行物販」、ステージが始まる前に行われる「前物販」のどれにもあてはまらない、いわば「都度物販」のような形であったことがおもしろく思えた。

*2:直截にしたいところをなかば迂遠な書き方にしているのは新参者の軽率さで安易に権力へ言質をとられまいとするための配慮なのだが、ふつうに書いてあるところには書いてあるので、単に考えすぎかもしれない。

ストリップ見聞記 (1)

縁があってストリップを観に行くことにした。
といっても、誰に手をひかれるでもなく、ひとりで勝手に行ったのだが、これにはきっかけがある。

ひとつには『イルミナ』。ストリップについて書かれた同人誌である。この本を、ストリップを観る前日の文学フリマ東京で買って読んだ。つまり『イルミナ』を読んでから24時間も経たずに劇場へ向かったことになる。そうした行動に促すほど力強い本なのか、といわれれば、そうである、といえる。

ただ、これには私があらかじめアイドルへの関心と、さらにアイドルの「現場」へ強い興味があるという前提があった。『イルミナ』は私の関心領域と重なるようにアイドル文化の相似形をなぞっている部分が多く見え、また、その似姿だけでは追えないだろう差異を確認したくて、観に行くことにした。

もうひとつ。かねてから共通の知人もあり、同じ『劇団どくんご』の受け入れという立場にもある、舞踊研究者の武藤大祐さんが、ストリップについてのツイートを頻繁にされているのを眼にしていたのが大きい。常からダンスにまつわる様々なことを武藤さん経由で情報を得ている。埼玉で観たフラメンコダンサー、イスラエル・ガルバンも武藤さんから知ったような気がする。ガルバンのフラメンコも忘れがたいし、大道芸フェスティバルの打ち上げで、ガルバンと同じアパートに住んでいたというギタリストの方と話したことも、懐かしく思い出す。つくばの夜は、いい夜だった。

話の筋道をそらしたが、昨年オンラインでされていた武藤さんの舞踊学講義をしばらく聴講してもいた。僭越ながら、私のなかに武藤さんと近しい視点もあるかもしれないと思っていた。なので、ストリップも見れば得るものは多いのだろうなというあたりはついていたわけだ。このように、けっこう下準備は整っていた。思いつきの突発的な行動ではなく、たんに機が熟したということだったと思う。ストリップを観る必然性が生まれていた。必然性、というと大げさかもしれないけれど、しかし、結果から言えばそうでしかない経験だった。


文学フリマ東京からくたくたになって帰ってきた晩。気軽に読み始めた『イルミナ』を開いたまま机に伏せて、PCを起動させる。明日、ストリップ観てみよう。Google Chromeのアドレスバーに「ストリップ 浅草」と打ち込む。ホームページから香盤表を目で追うが、あいにく見覚えのある名前はない。料金。6,000円とある。なるほど。歩いていけるから浅草がいいのだが、絶賛開店休業中の身には少し重みのある数字ではある。河岸を変えて、真反対の渋谷を探る。ライヴハウスや映画館へ向かうのに何度も通った道玄坂のあそこに劇場があるのは分かっていた。料金。午前割4,000円。なるほど。香盤表には見覚えのある名前...この段階では頭に入っていなかったが、『イルミナ』で言及されていた踊り子さんがふたり出演されていた。新宿や池袋まで調べる必要は感じない、ここで決まりでいいだろう。大きくは金額、というきわめて無粋な理由を支えに、渋谷へ行くことにした。そして、渋谷に来た。

東急のジュンク堂で新刊を流し見して、『宗教社会学』は面白そうだけど読む時間がないな、とか、隣の棚に面陳してあった本で棋士のなんとかひふみさんがクリスチャンであることを知って、へ〜となったりとか、でも結局何も買わずに用便を済まし、がらっがらの1階をすり抜けて、東急のそばでビッグイシューが売られていたので、なんとなく、それも初めて買い、円山町を抜ける。途中、ホテルから出てくるカップルとぶつかりそうになりながら、はやめの昼食を取りにきたサラリーマンたちが中華料理屋の前に並んでいるのが見えるところまで来た。あ、ついたと思って左手の下り坂へ向かって折れると道頓堀劇場だ。
一段上がった入口の向こうに敷かれたふるめかしい赤いカーペットは遠目にも時代がかっていて、かつ淫靡に思える。淫靡さは人を惹きつけもするが、跳ね返しもする。繁華街のごく近くで育った身には、懐かしくもあり、同時に幼なごころに後ろめたいような気恥ずかしさも覚えたことを、こうした場所を通るといまだに思い出す。
とはいえ、さすがに恥ずかしいもなにもない歳なので、ためらいなく入店した。張り紙で顔の見えない受付から、窓越しにチケットを買う。さらに中へ入ろうとするときクロネコヤマトの配達とかちあわせてまごつくが、劇場の人にうながされて先行する。検温・消毒。バーカウンターが奥に見えたがスルーして左手の階段を地下に降りると、出演者のポスターやら何やらあるようだが、ともかく開け放ってあるドアを早々にくぐった。

こうも長々とわざわざ無関係なことも書いているのは、なんだかんだとずっと緊張していたからだ。行きつけない場所..."他現場"であることはもちろん、恥ずかしいもなにもないと言いつつ、行われる事柄と目の当たりにする事を思うと、さすがにどきどきする。ただ『イルミナ』にはさまっていた初心者への行き届いた案内が載った小冊子があったおかげで、よけいな緊張をすることがなくて助かった。場内はスマホの取り出し厳禁。大丈夫、本がある。本は時間も潰せれば、視線をそこに落としている限り、なにか余裕めいたものすら漂わせることができる。ところで14歳のころ、映画館の待合席でバタイユを読んでいたりしたのだが、さすがにわざとらしかった気がする。澁澤龍彦訳『エロティシズム』。何が書かれていたのか。今は手元にない。

場内は四方とも黒い壁。床は板張りで、とにかく狭い。ライヴハウスでいうとO-nestを三分の一くらいに縮めたくらいの広さ、と思った。壁の色と床の材質、後方が一段高くなってる形からの連想だろう。だがそんなことより、目の前にはあの特徴的な花道と出島である「盆」があり、それを半円形に囲む長椅子が四重に設えられている。シートは年期がはいってて、テープの補修が目立つ。先客として紳士ふたりがいて、ふたりとも下手の二列目・三列目に座っている。私は、なんでも下手側で観る癖があるので、彼らとほどちかい、下手最後方の端に席を取る。

座れば座ったで、バルト、リンギス、森崎東...と自分が引き出せる範囲のストリップに関係のある固有名がいたずらに頭を行き来する。ゆえあって読み返している『存在論的、郵便的』はほとんど頭に入ってこないし、だいたい、寒いんだけど!空調の風がずっと背中に当たり続けて、さすがにつらいので上手側に移動して、また森崎東、リンギス、バルト...とやっている。スピーカーからはうっすらとスティングが聞こえている。いや、ポリス時代だったか? シャザムすることもできないので、ただただ曲は流れ去って、しらないR&Bに変わる。気づけば客が増えていた。1,2,3...8人?全員男で、私がまぎれもなく最年少である。文庫を開いている人がいる。ビールの缶を開ける音が聞こえる。アサヒスーパードライの350ml缶。すでにうつらうつらしている人がいる。手紙か何かをていねいに折りたたんでいる人がいる。タンバリンの音が聞こえる。三味線の音が聞こえる。三味線を持った男がよいしょっと言いながら舞台に上がる。なるほど、前座さんがいるのか!

どう考えてもきつい現場だ。無愛想ではないけど、いわゆる演芸を楽しみに来たわけではない客。めずらしく精一杯笑ってみせたりした。演奏の合間に、時事ネタや小ネタ。コロナも怖いけど、今は何よりガサ入れにあったら怖いですね!というギャグが頭に残る。生まれてこの方、警察権力の介入を受けた記憶がない。初のストリップでガサに遭ったらウケるな。三味線を持った芸人は持ち時間の10分を過不足なくクリアして、よいしょっと言いながら降りていく。芸の間、ときどき、幕の向こうで足音が聞こえた。たぶん、裸足の音だろう。あるいは違うかもしれない。

芸人が退出したあとも、しかし、こんな場で、自分だったら前座で何ができるのだろうと考える。すぐ、楽しそうだな、と思ったけど、いやいや、それはいまこの場に好奇心を持って座っているからだろうと思い直す。でも、どうだろう。盆の上で何をしたら面白いかしばらく想像していると、女性のアナウンスが入って、完全暗転。
音楽が流れ出した。

 
(つづく)

booth.pm

だらしなくふらつく

youtu.be

ITZYの新曲が公開されて1週間が経ち、MVの再生回数は6800万回を超えている。
私はといえば4月30日13:00のプレミア公開から張り付いて見ていて、各番組のショーケースもほとんどチェックし、音源もヘビーローテーションしている。端的に、気に入っている。他方で、自分がK-POPに何を期待しているのか分からなくもなっている。

「마.피.아. In th Morning」がここまでベタなトラップになるとは想像していなかった。すでにトレンドともいえないほど標準的な作法になりつつあるミーゴスフロウもふんだんに取り入れられているような、ザ・トラップ。
しかしサビ前、メインボーカルのリアが入ってくれば、とたんにメロディアスな——ティザーで流されていた——フレーズが入り込んでくる。木に竹を接いだような、とはこれのことではないか。だいたいラップだって、こなれているかといえば、そうではないだろう。また根本的に(多くの指摘がある通り)、"今"トラップなの? という話にだって、なる。いささか無理を承知で擁護してみるなら、陳腐化したトラップは歌謡曲的(耳あたりの良いメロディ、くらいの意味で)に扱いうる、という解釈を示したことに...あるだろうか。通俗化ではない、むしろ先鋭性を骨抜きにしてしまうことのラディカルさ...本気でこう言えるかどうか、かなり心もとない。

だが、そうした一周まわったズレ感、ちょっと田舎くさいダサさが、そもそもJYPの良さである......そうは思った。また実際、そうだと思う。YGのBIGBANGやBLACKPINKのような、イケてる感じは、あまりない。ブランディングの方向が違う。
アイドルがファンの心を掴むありようをマフィアゲーム(日本でいうところの人狼ゲーム)になぞらえる、という趣向自体がかなり保守的かつ、いかにもどんくさくダサい(どうでもいいが、私は「ダサい」という言葉を使うたび、『あまちゃん』で、アイドルを目指すことを諦めてふてくされる橋本愛能年玲奈が向ける「だせぇくらいなんだ!」という言葉を思い出す)。ダサい、けれど、それがいい。

それでも拭い去れない違和感がある。ダサい、けれど、それがいい。どこかで聞いたような口ぶりだ。考えるまでもない。アイドルの「幼さ」「未熟さ」「フェイク感」を持ち上げる言説とほとんど見分けがつかない。これらは、日本のアイドル文化の文脈において、数多く、今でも繰り返されている。私の「마.피.아. In the morning」に対する感想は、これと何も変わらない。個人的な受容において、それが大きな問題かといえば、そんなことはないだろう。そんなことは、別にどうでもいいことだ。だが、K-POPを見ていて、私の受容の幅が変わっていないこと、そしてその変わらなさが結局、保守的なK-POP像(スキルフルで「完成度」が高い云々)との対立を強化してしまうことに、つまらなさを感じる。そう、いかにもつまらない。
K-POPは面白い。それはいくぶん日本のアイドルたちのようで、いくぶんはまったく違ったアイドルたちがいるからだ。これらの領域は画定できるものではない。それぞれがゆらぎつつ混ざり合う。混ざりようを追うことが、文化への参入だ。際の滲みをなぞり得る指が、現場に属していること。けれども、やはり自分はぜんぜん、「마.피.아. In the morning」の不十分さをネガティヴに判じうる眼を持っていない。これでいい、これがいいと思ってしまう。気づけば、単色の世界に属していることが分かる。

愛着の湧き始めたメンバーたちのパフォーマンスやインタビュー、Vliveを目を細めて眺める。まもなく寮を引っ越す彼女たちが、くじ引きで部屋割を決める。リュジンが一人部屋を勝ち取り、他方、もともと一人が好きなチェリョンが、生活ペースの合わないリュジンと同部屋にならなかったことに安堵する。そのやり取りは、リアのVliveに乱入したリュジンがスマホに録画した映像を見せることで確認される。そのあとリュジンはイェジのVliveにも顔を出す。他日、ユナはファンへの感謝を涙ながらに伝える。自分が納得できないことでも、自分楽しみさえすればファンも楽しんでくれる、そして1位も獲得できた、そのことに感謝しかないと言う。私はそれらを見る。作品というクールなフレームはガタガタ音を立てて、もはや建て付けが悪い。いっそ窓を開け放ってしまえばさわやかな風が通り抜ける。それを心地いいと思う。けれど、解決にはなっていない。作品の経験と人間的な魅力に陥落することの間で、だらしなくふらついている。ダサいのがいい、結局好きだからいい、それでいいのだ。それでいいのか?