プロフィール・出演情報など

ここは好きなことを好きなように書いている場所ですが、おもな活動を以下にまとめました。


【プロフィール】

結城敬介
1987年生まれ。宮城県出身
Japan Juggling Festival '03 Championshipにて銀賞獲得。
翌年にはMonochromeCircus『収穫祭』仙台公演にてゲストコーナーへ出演。それをきっかけに、ジャンルを越えたパフォーマーらと交流しながら、ステージや大道芸でジャグリングのパフォーマンスを続けている。現在は東京と仙台を拠点に活動中。
パフォーマンス活動のみならず、ジャグラーたちの交流イベント『WJDinTohoku』や、子供たちが主役となる『せんだいキッズジャグリングフェスティバル』を企画した。2014年からは異ジャンル並立をコンセプトにした『多夢多夢茶会』『あるばとろす』などのオムニバス公演を企画開催。2020年はアイドル批評誌『かいわい』の編集にも参加。
​ユニットとして「マヤマ」をミュージシャンの南部大地と結成。
またジャグラー小林智裕が主宰する「空転軌道」に参加している。

※より詳細なプロフィールはHPへどうぞ

 


【出演予定】

8月21-22日(土-日) こじゅうろうキッズランド

9月4-5日(土-日) 『フニオチル その2』※無観客配信公演

10月10日(日) Japan Juggling Festival 2021 ゲストステージ ※空転軌道として

11月6日(土) 都内某所 予定あり

11月14日(日) 深川美楽市大道芸

11月下旬 非公開イベント 予定あり

12月26日 『ミルオト』※空転軌道として

 

【配信】
ホゴノプロフィスの企画。仙台市市民文化事業団助成事業。

youtube.com

2021年版

youtu.be

 
『Cc Cc』
パフォーマンスユニット「マヤマ」の過去の記録映像と、コメンタリー、"自粛期間"に制作されたディスタンスアート的映像作品のパッケージ。

note.com

 

【その他】

タゴマル企画

企画団体。『多夢多夢茶会』『あるばとろす』等、異ジャンル並立オムニバスライヴを主催。デザイン活動も。

 

twitter.com

 

『アイドル批評誌 かいわい』
編集・寄稿・装丁(小野健宏と共作)。現在vol.1の販売は電子書籍版のみ。

kaiwai.booth.pm

京都旅行に行った

気づくとストリップのことしか書いてない...ので、京都旅行の話。

過日、家族の祝いを兼ねて京都旅行に行った。とくにこれといった目的のない旅は久々。街を歩き、食事をするだけ、である。宿も京都駅目の前でこりゃ便利、と思いきや、駅周辺にまともな飲食店が本当に少ない。
唯一、ラーメン屋の第一旭は超がつくほどの行列。早朝営業が売りの一つの店だが、朝ならいけんじゃねと甘く見ていたら夜より行列。さようなら。しかしなんと神保町に支店ができるとのこと。気が向いたら。

1日目は市街地を歩き回るだけでこれといった収穫もなし。唯一、シャレたような"カフェ"に入ったら、なめくさったような量のたいしたこともない味のケーキがひじょうな暴利をむさぼっていて呆れてしまう。が、それも旅のイベントと思えばまあ、ギリおもしろい。
夕食を祇園の「いづう」で。いかにも"祇園"といった店構えだがお値段も手頃。店内まったくの無音ですばらしい。飲食店からすべての無用なBGMを駆逐したい。
それにしても恐れ入るのは接客の丁重なこと。といっても無駄に格式張るのでなく、カジュアルで冗談など交えつつ、しかし見送りのときなど深々と頭を下げられていたりする。自分も広義の接客業といっていい部分もあり、勉強になった。人として扱われる、というのはどうしてかくも清々しいものなのか。

 

2日目は朝から嵯峨嵐山まで電車移動。京都駅の動線がだだっぴろく快適。
数年ぶりに会う、アメリカ人の友人(流暢な関西弁話者)と共に竹林や寺などを車で案内してもらう。彼のパートナーと娘さんも途中から合流。
自分のパフォーマンスのあと、僕もジャグリングをやってるんですと声をかけられたのが初対面。大学にジャグリングサークルもあるし、また海外の方はしばしば大学の研究員だったりするので、そうなのか訪ねたら、ふたりとも「無職です!」と明るく応えたのに、ああこの人達とは仲良くなれるなという勘の通り、長い付き合いが続いている。
娘さん(3歳)には初めて会った。ふたりの子供らしい、ごきげんで明るい子供でかわいらしかった。贈り物に小石をもらった。

今回の旅最大の収穫は庭園。
じつのところ、ジル・クレマン『動いている庭』を面白く読んだのをはじめ、なんとなくスペインのアパートなどにあるパティオに惹かれていたり、断片的ではあるが「庭園」という空間にひそかに関心があった。
彼の家にほどちかい竹林散策の途中、天龍寺へ横寄り。ここの庭園がとんでもなくおもしろい。最初は階段を登ってよくわからないまま進んで行ったのだが、開けたところの池に出て先程歩いてきたほうを眺めると、一気に意匠が了解された。
まず、植栽によって歩いてきた動線は完全に隠されている。このレイヤーが一番手前で、その奥にまたべつの山があり、そこからさらにもう一つ奥、嵐山を臨む形になる。池の端に立ってそちらを見上げると、こうした三層のレイヤードがあることが明瞭にわかる。当然このレイヤードは、自然の山を軸に、手前二層を構成しているものである。また、距離によって中景に霞がかかってその層の感覚を強めもする。
くわえて、池には出島のようなものがあり、この突き出しは山の方へと伸びている。こうした視線誘導が付与されているのは、現代の目による思い違いなのか、それともそうした作為は室町期にもあったのか、浅学にしてしらない。とはいえ、誤読であったとしても、そうしたダイナミズムが感じられる事自体は否定しきれない。
池の水は山の上の及川から引かれているらしい。この水流も庭に大きな動きを作っているが、それだけでなく、寺の本堂へ向かう渡り廊下と所々で交わったり、動線も多層化している。
こうした運動のレイヤードは、やがて植栽に舞う蝶の存在を介して、季節の花々へと思いを至らせた。つまり、「四季」と呼ばれる時間分節のフレームが、諸植物の変化にやはり複層的に内蔵されていること。この庭が、また別の時間フレーム(=春夏秋冬)によって、その姿を変えるだろうことが、イメージとして召喚される。今はここにないが、かつて、そしてこれからここ=庭で循環していくという、また別のスケールの運動を想像的に呼び足すのだ。

この庭園で完全に興奮してしまったので、予定外にガンガン寺巡りさせてもらう。見たのは愛宕寺・大覚寺龍安寺金閣寺龍安寺がやはり別格で、あまりにも有名な石庭は、その石の島のユニット群を一望できる視座が与えられず、常に視野の外にいくつかのユニットが漏れてしまう。またそれぞれのユニットの外周を刷毛で掃いたように同心円状に砂利が仮の囲いを作っているから、ひとつひとつの島がミクロコスモスを成すように感じられもして、個々に凝縮的にフォーカスが向きやすくもなっている。
まったく無知なのではじめて知ったが、来る客来る客「15個の石を全部見られる視点がないんだって!」と話している。へー。だがそれは、身体を使ってみれば、だいたいそういうことになっているというのは、感じられるようになっているはずだ。皆が皆ではないにせよ、そうした雑学的な前提の確認に時間を費やしているのを見ると、ひじょうにもったいない気がしてしまう。もちろん、一般的な読解や歴史的なコンテクストをほぼ無視している自分も、もったいない見方の一つではあるのだが。

 

最終日はふたたび街歩き。『たまこまーけっと』のロケ地でもある出町柳商店街をぷらぷら。以前も見たことあるのだが、たまこともち蔵の家が向かい合う通り(実際にそうした家はない)は、ちょっと感動的。ここで紙コップを投げあったわけだ...
目当てのうどん屋もふたばの大福もとてつもない行列で早々に訪店を放棄。アーケード端にあるいい感じの店でいい感じのご飯を食べる。店の前にたまことデラがいた。

そのまま祇園四条のほうへ再び移動。以前訪れたときもテーマパーク然とした陳腐さに辟易したが、花見小路は相変わらずどころか輪をかけて観光地化されている。ウブロとかラデュレとかが平然とある。また政権与党のポスターがそこここに張り出されており、まあそりゃそうだろと言う感じではあるのだが、共産党の強い土地だけに意外さもありつつ、花柳界がその"文化"をいかにして保ってきたかが察される。
とはいえ、政治権力と親しいならまだマシで、先斗町なんかはガワだけそれっぽくてほとんどフードビジネスやツーリズムという名の資本主義に蹂躙され尽くしているようですらあって、悲惨であった。
そんななか、たまたま入り込んだ宮川町はそれらと違ってシンとした空気が漂って、どこか閉域をなしている空気が強くあった。店前に掲示されている案内の類も実に楚々としていて、あるべき姿を保っているかに思える。この旅はじめての舞妓さんが通りすがり、常連らしい客と、おそらく非番の芸者さんが連れ立って歩き、準備中の店に入っては挨拶して回ったりしている。おきばりやす、という。
そして、この空気感は各所の風俗街、とりわけ飛田や吉原などにひじょうに近いものと思ったのだが、あとで調べるとまさしくそのとおり、遊郭街だったことが分かる。自分の勘も捨てたものでない。若衆歌舞伎が盛んな地域で、陰間もあったらしいが、驚くのは、けっこう最近まで近くには立ちんぼの男娼がいたらしい。自分が知らないだけで新宿などにもいるのだろうか。

締めくくりは東華菜館。ヴォーリズ建築のいかにも洋館といった佇まいに、日本最古の手動エレベーターが稼働している。4階に促される。
東京にもどこにあるのだろうかというゆったりした天井の高い空間で、鴨川のむこうにある南座を窓越しに眺めつつ、まずまずの味の料理を食べた。

 

こうした京都旅行の帰り道、建築家の友人といろいろとLINEをした。京都の寺や街の話をするうち、商業主義に簒奪された空間への批判や、建築をめぐる視座や公共空間のありかたなどなど、話題が広がって既にして旅の効用があった。翌日、よし本棚に眠らせている建築・庭園関係の本を読み直すぞと引っ張り出して、まずは中谷礼仁『近代建築史講義』を再読し始め、これは面白いと勢いづいたところで、宇佐美さんの「アンビバレント」を見てそれ以外すべての関心が水泡に帰した。

 

ストリップのきろく 2021年11月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

11月1日(月)[蕨ミニ劇場]

橋口美奈(-)
るあん(1,3)
Kuu(1,3)
山口桃華(1-3)
宇佐美なつ(1-3)

 

8頭以来の蕨。寝不足のせいで2度寝していたらトップに間に合わず。
1公演立ち見で通したらドッと疲れてしまい、2公演目も1時間ほど休んでしまう。
3公演目からようやく座って見ることができたが、相変わらずここの観劇体験は異様。ステージと客席という線引きの限界を超えていて、「人」の気配が濃厚になり、肌や髪がずっと具体的になる。触れる距離、などというが、比喩でなく触れ合う関係の距離感がそこにあるため、演目の作為などの知的な理解より、しばしば実感が勝ってしまう。

宇佐美さんの「デビュー作」。唯一、演目のすべてを振付師に委ねているもの。選曲にぐっと来てしまう。自分がパフォーマーとして見られる立場を引き受けることについて、M1から高らかに宣言してみせるパフォーマンスがあること、ごく個人的に(趣味こそ違えど)、同じ"アイドル"に親しかったことの両方があり、味わい深い。
デビュー以来、少しずつ足された動きはあるかもしれないが、それでも語彙と手数は明確に違っている。ただそのことによって、衣装替え以降は特に宇佐美さんの踊りの良さが存分に見られる。

ここでいう「踊りの良さ」はストリップを特徴づけるのものであると感じるのだが、ベットなどでゆっくりと泳ぐように腕を動かしていくことで生じる"質感"のようなものを特に指している。録音音楽が、構造や演奏とは別の水準にある「サウンド」でも語りうるように、踊りもまた「サウンド」的な質を持っているはずだが、それは感覚的要素が強く、ひじょうに言葉にしづらい。ともあれ、想像するに2年の習熟がそこにはあるだろうし、場を支えて弛緩することのない持続があった。
...この"ある"とか"ない"とかも、自分がそれを"ある"と言うことには何の迷いもないが、かといって何がどうそれを根拠付けるのかと問われれば、これもまた難しいことだ。

試しに、これを書いている今、目の前に空のグラスがあったので、それに右手でゆっくりとアプローチしてみた。グラスが与えるアフォーダンスに応答するように、できるだけゆっくり、手の向きを変えたり、触れたり、掴んだり、様々に条件を変えて動きを出そうとするが、その中で直感的にこれは違う、合ってない、できてないという判断が細かく下される。
その直感は何に応じてるのか自分自身でもさっぱり分からないが、間違っている(と強く感じさせる)アプローチというのは確実にある。むしろそうした主観的な抵抗がある動作がなされるとき、そのまま他者の目にも違和感として共有されてしまうような、間主観的なありようが、人間身体には備わっているのだと理解する。
逆に言えば踊る主体にとっての快が、違和感のフィルタによって濾されて、純度高く現れるとき、それをこそ私は「踊りの良さ」として受け取っているのかもしれない。

3回目の「アンビバレント」。明転して動き出した瞬間から1回目とは全然違ったものに見えてしまう。これ、これだよ! とひそかにブチ上がる。楽曲のひねったブレイクと太いグルーヴを、ヒップホップダンスのボキャブラリとは微妙に違った形で引き受けて軽やかに飛び越えていく。「サマーチュール」M1もそうだが、こうしたファンキーなノリのある曲で踊る宇佐美さんはほんとうに楽しそうで、それだけで嬉しくなってくる。

アンビバレント」には、自分が見た範囲では初のインタールードがある。衣装替えはハケきらず、袖に半分身体を隠す感じ(蕨の袖は舞台奥下手よりにあるので、背中を向ける形)で、座って行われる。ゆったりめのドレス。ベースの効いたインストトラックが終わると、クリーンなトーンのイントロが響く。このコントラストで空気が弾けるように変わるのがたまらない。
「positive」や「spring vision」のようにドラマティックには演出されていないが、確実に素晴らしいと思える脱ぎがこれにもあった、あっと声が出てしまうほど良かったのだが、意外なタイミングでそれが来たので、うまく思い出せないのがくやしい。ドレスをふわっと宙になびかせてから、花道にそっと広げておく。

ベットに入るとM5(!)。M1,M3のベース音を引き継ぐように、だがそれから少しズラすようにしたウッドベースの音が鳴り出す。
豊かな可能性を制限する私/あなたの視線が損なわせたところの「天才」だった自分へ向けて、凡庸さを引き受けさせてなおエンパワメントしていく曲の歌詞が、OPに使われる曲の歌詞にある「私は天才」と響き合うように聞こえてくる。「天才」とはM5の曲の理路において無限定の可能性のことだが、OP曲を参照するなら「私は」と自認したとたん、その天才性に縛られ始めることになる。だが、やっていくしかない。いや、そんな重々しい決意があるわけではない。
この演目が、「デビュー作」と対置されて初出しされたことの意味(あるいは効果)について考えたくなる。もしくは2年という時間の過ぎ方。おそらく、踊ることには喜びと苦しみがあり、ステージに立つことには無邪気さと計算があり、「私」には揺るぎない自信とどうしようもない恐れがある。そんな両義性自体を纏うような立ち上がりが「アンビバレント」には待っている。
ポーズベットから立ち上がると、花道に戻ってドレスを拾い上げる。それをさらに持ち上げてストンと袖を通すように前は開けたまま再び羽織って、満面の笑顔でタットダンスのような細かい手振りがなされる。本舞台のほうへ振り返り、裾を大きく手で翻すと、たっぷりとした生地が舞い上がって漂うように宙に広がり–––このゆったりしたドレスが選ばれる理由が分かった気になる–––最後のポーズが切られる。脱衣と裸体、ベットと立ち上がりの境界を揺らす、この一連の時間には、諦念というには溌剌にすぎて、決意というにはあまりに楽しげな魅力があふれている。

アンビバレント」の立ち上がりは「positve」のそれと比べても全く見劣りしないどころか、今後を思えばあの時間の豊かさを超えていくのではないかとも思う。
そうした想像の根拠は、私が感じている、圧倒的な幸福感の強度にしかない。誰とこれを分け合うことができるか知らないが、どうしたって涙が出てくる。

 

11月5日(金)[蕨ミニ劇場]

夕樹(1)
るあん(1-3)
Kuu(1-3)
山口桃華(1-3)
宇佐美なつ(1-3)

 

ほんとうは違う劇場に行こうかと考えていたが、あまりにも「アンビバレント」「デビュー作」を再見したくて通うことに。今回はちゃんと開演前に着いたので席にも座れた。

初の天板ショーに遭遇。なるほどこれが、といった感じなのだが、どこかふたりとも事務的というのか儀礼的というのか、生々しさよりもルーティンの風情があった。

山口桃華さん。先日の小倉といい6中のミカドからコンスタントに宇佐美さんと同じ香盤になるので、比較的よく見ている踊り子さんになった。
山口さんはいるだけで劇場を明るくしているし、おっとりした見た目からは想像もつかないほど機敏なユーモアセンスで客を飽きさせないやり取りがある。
2回目の「キャリアウーマン(?)」の演目で妙にハマった感じがあるというか、今まで感じたことのない熱があり、とてもいい回だった。そんなときも過剰にエモーショナルでなく、ずっと好感が持てる。

宇佐美さん。中日にして「アンビバレント」は乗りこなしもスムーズで、もうずっと素晴らしかった。ただそれだけに規模感が足りないのがありありと伝わる。広いミカドでこのポテンシャルが解放され、どんなことになるやら。
例によって細かな記憶の誤りを複数発見。なんだってストリップはこんなに覚えづらいのか...それでもメモは取りたくないので、身体で覚える式の見方は変えない。

2回目は「デビュー作」。このベットが本当に素晴らしい。スローバラードのM3に入ってからも、なかなか脱衣がはじまらず、ここぞというところで抜群の脱ぎを見せてくれる。ボーカルの感情がサビの高まりと同期するように切なく溢れるとき、衣服もこぼれるように体から開かれる。何度となく、もはや飽きるほど眺めたはずの胸が見えるそのとき、裸体はほとんど雪のように眩く、きらきらと輝きを放っているかのようにすら見える。ほとんどひとつの事件のように、「裸を見ること」が美しさを伴って現れる。それはなんて言葉にしがたく、しかし忘れがたくもある出来事なのだろう。「デビュー作」は、デビューという過去を参照させる演目ではなく、いつだって真新しい「デビューすること」の瑞々しさをこそパフォーマンスしてるかに見える。
ずっととろけそうな気分で、2回観て2回とも、ああ自分はこの人にいつ出会っても撃ち抜かれていたなと思ってしまった。

3回目の「アンビバレント」。あー、本当にいい。この演目も宇佐美なつも本当に本当にいい、という気持ちが駆け巡っていく。説明意欲も失うほど、たまらない気分にさせられる。ずいぶん自堕落な感想だけど、細かい話は前回したから...
が、ポラで賛否両論あると聞いて、なに?と反抗心が芽生えてしまう。そりゃ各人の好みにおいて自由な感想があってしかるべきだけど、こと質の高低ということならば、譲歩しがたいですね...とひじょうに面倒なオタクの側面が出てきた。詰屈した構成の楽曲を並べても減じないポップさと、ラストに直球なカタルシスを設計してそれらがひと繋がりになっていることへの驚きを軽く見ることはできない。構成に関する天才はこの演目でも間違いなく発揮されている。
くわえて前後半がねじれて関係しあってるような凝り方(どこまで意図的な作為かは措くとして)も見どころと思う。つまり、前半は曲のひねくれかたと違ってずっとふつうにキャッチーな踊りであり、最後はストレートに盛り上がる曲だが、どこか自己言及的で、それでも自分に閉じずにポジティブな方に印象を持ち上げるというのが"一周回った"かたちで表現がなされていると感じる。これはそれほど説得的でない話ではあるが。


ステージ外のあれこれでずいぶん楽しいイベントが多かったが、ほとんど書けない。蕨...
いつにもまして楽しげでかわいい宇佐美さんが見られるので、蕨はおすすめ、とも気楽に言えないのが蕨であり、それはそれだからいいことのような気もする。

帰りの電車で「ピンクサイドを歩け」のhideさんがお隣りに座っていたのでお声がけする。自分は劇場の客席とスト客さんのTwitterをわりと見ているので、どの方がどのアカウントなのか紐付いてしまう(キモい)能力が高めらしく、hideさんもわりと以前から存じ上げていたが、今回こういう機会があってはじめてお話することができた。
いろいろ話したのだが、自分だけがポラのときの振る舞いでイジられる謂れはないということはわかりました!

 

 

11月6日(土)[蕨ミニ劇場]

夕樹(-)
るあん(-)
Kuu(-)
山口桃華(-)
宇佐美なつ(3)

 

仕事が終わり、疲れたしあー帰ろと思っているうち、蕨に間に合ってしまうな...と気づいたら京浜東北線に。
いろいろ余録の楽しみはあったものの、やはり「デビュー作」をもう一度観ておきたいなあというのと、前日の楽しさが消えきらないのがあった。

「デビュー作」M3-4のベット、やはりとてつもなくよかった。
「脱ぐ」という要素をこんなにも高めているひとを宇佐美さんをおいて他に知らないのだが、それが全体の構成の中で際立って機能している"から"それに強い印象を受けてしまうという判断が働いているのはなんとなくわかる。つまり、抽象化された強度があるということ。ジャンル的な要請に対するアンサーと、社会において裸体が担う意味を上書きするような力を感じてしまうから、感動がある。
と同時に、いやあ、ええ体やなーというのはすごくある。たぶん蕨に通ってしまうのは、なんだかんだ体を間近に見られるからでもあると思う。どこがいいのか、あんまり具体的に書くのは未だこっ恥ずかしいのでスルーしてしまうけど...

それにしてもこの日の蕨はいつにもましてやかましく、宴会場のような空気になっていた。それぞれの劇場に帰属意識のある(?)お客さんはあれど、わらミニはそうした帰属意識のあるトライブがある筆頭ではないかと感じる。そして、そのトライブとキャラ立ちの濃い外部のお客さんが同居する場になると、ここにしかない空気がさらに強まる。
終演してそれらが蕨駅へ向かって散り散りになるとき、彼らがあんなに異様な空気を作っていた人たちだと通行人の誰が想像できるだろうかと不思議な気分になった。

 

11月9日(火)[新宿ニューアート]

広瀬あいみ(1-2)
友坂麗(1-2)
ののか(-)
麻倉ゆあ(-)
天瀬めるか(-)
原美織(-)

 

ふとTwitterを見たら友坂さんが「夕鶴」を出すとのことで、悩んだ末そこだけ観に行くことに。ほかは切羽詰まっている同人誌の作業に充てる。こんな日に限ってひどい雨。

1回目は「結証」。中国風の衣装をまとった友坂さんが横笛を構え、傘が脇に立てかけられている盆始まり。この画が信じられないほど決まっている。M1かなり長く踊っていて、尋常なストリップの時間感覚からすこし外れる。衣装替えのとき、下手に置いた傘の後ろに立って背中を向けて最初の衣装を脱ぐのだが、ストンと体から落ちる服にあっという声が出そうになる。友坂さんではしばしばあることだが、木の枝に積もった雪が重みに耐えかねて地面に落ちていくようなニュアンスで服が脱がれることがある。
ベットはある意味ではいつもどおりだが、こちらが慣れているだけで至芸のひとこと。そして、貴人のような姿の着衣からすべて脱ぎ去ったラスト、その堂々たる姿に裸体への恥じらいを持つ者を窘めるような気高さが溢れる。

2回目「夕鶴」。評判高く期待があったが、M1からあれ、という違和感があり、しかしベット入りすれば...と考えても違和感拭えず、まさか友坂さんでこんなことが...と思うのだが、最後までいっこうにチューニング合わずじまいに終わった。夏場でも見たことがないほど汗をかいている友坂さんのパフォーマンスに瑕瑾があったとは思えず、どこか「浅草っぽい演目だ」と感じたところにノれずじまいだった理由があるかもしれない。しかし、あまり深入りせず、再見のときまで判断は先送りしておく。
舞台中央奥に据えられた屏風と羽がメインのギミック。両手に持った羽を屏風の向こうに処理するとき、風を受けた羽が突如としてスローモーショーンで落ちていく。この"遅さ"の現れは、屏風のおかげですぐに羽の姿を隠し、本当に一瞬しか視認できない。ただ、その落ち行く間が、ポーズを切るときと同等の間のようでもあって、ひじょうに忘れがたい。

広瀬あいみさんの1回目の演目が良かった。ほんとうに端正でお手本のような進行。大きい羽根扇子が頭と終わりでしっかり視覚的に効果高く扱われて、鮮やかだった。

 

11月12日(金)[ミカド劇場]

アキラ(1-4)
山口桃華(1-4)
宇佐美なつ(1-4)
虹歩(1-3)
あらきまい(1-2)

 

開演1分前に到着。当然席は埋まってるので立ち見。

9中大和以来のアキラさん。立ち踊りとポーズが等価に扱われるようなスムースさ。とはいえ動きが流れて弱まることもなく、熟達の芸そのもの。偶数回演目のベットすばらしく、スムースな運動のうちにティーズが挟み込まれて脱衣を強く印象づける。またミカドの盆というかでべそのあしらいが巧みで、狭さのなかで整えようという気がなく、悠々はみ出して空間を活用していたのも見応えあった。
前も書いたけれど、ポラ中などずっといじりに徹する強めのお姉さんなのに、踊ってる間ほとんど絶えず浮かんでいる可憐な笑顔が踊ることの喜びを体現しているよう。
この日初ストリップだった友人がアキラさんにハマって、ポラも行っていた。その写真を見せてもらったら、これもまたすごいチャーミングな笑顔でとても良かった。

宇佐美さん「量産型と呼ばないで」。初見。
記号というか実際のキャラになりきって(?)踊るM1から、"量産型"的私服風衣装でこれぞ「宇佐美なつ」というバリバリに音を拾っていく振付が、しかもこの日は朝イチから決まりに決まっていた。
衣装替え以降、オナベからのポーズベット、なのだがM5まである展開の幅と、M5の自虐的(男性にとって)でもアイロニカル(それを演じる人にとって)でもある歌詞など、めずらしく理が勝ってる感触もあり、面白いけど"ウケる"演目じゃなさそうかなと感じたら、実際、比較的短い期間しか演じられなかったらしい。観られてよかった。
ラストの方で、ちょっとした居眠りの演技が入るのだけど、クサくなくてよかった。あと、私服風の衣装というのがレアで、かえってドキッとするものもある、が、ストンと下だけ降ろして、振り返ってお尻だけ見せて暗転、という脱ぎの見せ方がさすがのシャープさ。

アンビバレント」。広い舞台ではあるものの、盆は狭いしで大変そうに見えた。すばらしい演目であるにしても、演目の難しさを感じることも多々あり、なんというか初めて"応援"したいような気持ちにもなった。
制作というのは、クリアカットしたものを提示できる場合もあるし、複雑に絡まったものを部分的にほぐすようにして提示せざるを得ない場合もある。後者は前者に比べて見劣りを感じたり、不満を感じたりすることも起きやすい(制作者にしても観客にしても)けれど、キャリアの前後の必然性に基づいて、そうならざるを得ない(=毎回はクリアに提示できない)ことがあるはずだ。それは、なんというか、ものを作ることの醍醐味のようだし、アツいな〜とか思ってしまう。ストレートにアガる感じがないときも、それはそれで受け取れるものがある(という対象になってしまった)。

最近、タンバリンの音が耳に入ってくるようになった。一度、シャッグス顔負けのリズム感で会場を凍りつかせていたような人もいたが、手慣れた人のタンバリンのリズムは耳障りでないだけでなく、音量も手数もいい塩梅でキープしている。そしてなにより、音響的な効果というか、そういう参加意思そのものによって場を活気づけることがあるなと感じる。
ある程度の回数を聞いていればタンバさんの差異も掴めるようになるし、すると音量の加減から演目への理解の表れを受け取れるようになるから、「観ている」ことの生っぽさが、タンバリンの応援の仕方によって具体的に生じてくるような感覚があって、面白い。

 

11月13日(土)[渋谷道頓堀劇場]

eye(2)
緑アキ(2-3)
JUN(1-4)
玉(1)
友坂麗(1-4)

 

JUNさんがいつもどおりチャーミング。演目ごとにテンションが上下せず、表情も多く変化させないのに豊かな空気があって、居心地がいい。どうして一本調子に感じないのだろう。もちろん、細部に行き渡る芸の心のようなものが支えてる部分はあるにせよ。

友坂さん4個出し。「結証」「Jumping」「翔鳥」「neon party」。
なんといっても初見の5中以来になる道劇での「Jumping」。ポップソングで踊る、ということがあるとき、この友坂さんの踊りは極北に位置している。極遅のゆらぎがビートと全く対応せず、震えるような身体の運動が空間を不規則に刻んでいくと、どうしてか強く巻き込まれてしまう。オンビートでは出せないグルーヴのようなものですらなく、なんと言っていいか分からない。実際、舞踏の踊り手が比較的ダンサブルな音楽を選ぶことだってあるが、自分は友坂さんのように踊れている人を見たことがない。そもそも、キメるところはがっつり音を取ったりもするのだから、一律な方法論でもない。かといって自在に音の波を乗りこなしているとかでもなく、もう一度言うが、何と言っていいものかまったく分からない。
約半年ぶりに観た「Jumping」はそれでも"踊り慣れた"という印象があることに驚き。そうした慣れや硬さといった基準から離れているのが友坂さん、という感覚もあったが、やはりそんなこともないのだった。

この日、友坂さんのお客さんと少しお話する機会があり、友坂さんのお人柄についてエピソードを交換した。あんまり踊り子さんに対してそういう視線を持たないようにしてはいるものの、友坂さんはやはりパーソナルな部分でも相当に魅力的だということを確認した。

 

11月17日(水)[ミカド劇場]

アキラ(1-4)
山口桃華(1,3)
宇佐美なつ(1-4)
虹歩(1-3)
あらきまい(1)

朝からせっせと同人誌の作業をして、開演30分前に入場。
この日、武藤さんやhideさんにいつも話す常連の方など、宇佐美さんを追って見ている方々がとりわけ揃っている感じがあり、朝からそれぞれと話しているだけでずいぶん楽しむ。

アンビバレント」が1回目からたのしい。M1はどうしても乗り切れない振付に感じてしまうが、尻上がりに高揚感が増して、ベッドは宇佐美さん自身もかなり楽しんでいるようで最高。
初見の日から「Positive」と対比的に見ているけれど、あのくらいガンガンに楽しんで踊ってもらうといいと思うし、この日もその予感があって感じ入るものがある。朝から泣くのもどうかと思ってちょっとこらえる。

「量産型と呼ばないで」がすばらしかった。前回見たときもM1-2の乗りこなしっぷりが最高で、絶対外さないという安定感があっただけでなく、今回はラストのベッドで突き抜けていくようなカタルシスがあった。どうしてそれが発動するのか、いつもよりいいと感じられるステージのとき、音楽がいつもより鮮明に聞こえだすことがある。
この日宇佐美さんを観に来た友人と話して、この演目についてきれいな読みを提示された。徹頭徹尾憧れの人に気持ちが向いた女の子の話で、前半が量産型女子=バンギャであって、M5はそのまま素直に憧れの人(≒この曲の歌い手)に認められる物語と。言われればその通り。
が、女の子にあれこれ知識を教えようとする男の姿は戯画的にしか読めず、女の子としての立場に自己投影することは相当難しい...のと、どうみても「バカ」には見えない演じ手がいて、歌われるキャラとの乖離もある。

「黒煙」。9月以来あんなにもハマっていた演目に2回ともハマりきれず。2回目は座って舞台に近いところで、かなり意識的に集中して見ようとして、ようやくいつもの感じ方に近づける気がしたが。
コースごとの演目の選定はいつも工夫があって、今回のように突発的に追加されたことでバランス含めて違って見えることもあるのかもしれないし、やや平板な照明(とはいえ大阪のもっとひどい照明でもよく見えてはいたので、場内の明度のほうが大きいかもしれない)のせいかもしれないし、本人のパフォーマンスかもしれないし、そもそも自分のコンディションのせいかもしれない。

うーん、と悩んで、ポラ列に並んでるとき「今日の黒煙ちょっと違いましたよね?」と常連さんに確認して同意を得た。そうだよなーと安心したこともあって、けっこう細かいツッコミを入れてしまう。
ただ、その時々のパフォーマンスに対して、いちいち言葉で介入していくことが正しいかといえばそうでもない気がするし、イレギュラーとして流せばいいとも思う。そもそもこんなに繰り返し見る人間の話をまともに聞いてたら身がもたないわけで。とはいえ、集中と自閉には微妙だが決定的に差があるし、まあいいかと思って話す。そのことで、これは何か宇佐美さんに甘えてるのかなと感じたりもする。

 

11月19日(金)[ミカド劇場]

アキラ(1,4)
山口桃華(1,4)
宇佐美なつ(1,4)
虹歩(1,4)
あらきまい(3)

 

変則的な観劇。イレギュラーがおもしろくなりつつある。

「量産型と呼ばないで」。ベッドで犬のポーズをするところで「ワン!」という動きが足されて、それがかわいい。エロも創作できるように、当然かわいいも創作できる、のだけど、ストリップであんまりこういう「かわいい」を見たことがない気がする。けど、見慣れた人の演技だからそう感じるのかしら..."萌え"だった。

アンビバレント」。最高だった。
M1からずっと楽しそうで、本当にそれだけですべてがOKになっていく。この回は真正面から見ていて、当然目が合う頻度が高まるのはあるけど、なにか今リアルタイムで会話しているような感覚になってしまう。
勘違いであったとしても、そんなことに強くリアリティを感じるなんてことが初めてだし、妄想だとしても「今、(お互いに)楽しい」というメッセージを交換しあってるような体験の強烈さがあってしまった。
にわかに信じがたくもあり、でも、身体に残る幸福感がそれを否定しきれないでいる。なんでこんな時間が起きてしまうんだろう...

続いての虹歩さんまで拝見して帰った。新作M1の振付が格好よく、見惚れる。
ただ楽しんで1日が終わる。ほんとうにちょっとしたやり取りや、タイミング、そういうものが"この日"のために噛み合って万全になるような1日だった。

ストリップのきろく 2021年10月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

10月1日(金) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

松本なな(1)

山口桃華(1)

中条彩乃(1-3)

 

ストでは初遠征。単純に、仕事以外で旅に出るのは2年ぶり。はじめての福岡、でもある。
前泊していた博多から新幹線で小倉へ。開場時間の間際だったので、寄り道せず、駅すぐそばの劇場へ。すでに20人ほど並んでいる。地元の方の声を聞くには、平日としては異例の集客とのこと。
階段をのぼり、劇場へ入ると高低差の付いた座席が3列。床面に傾斜があるのではなく、座席自体をスチールの台座で持ち上げて高くしている。
盆回りに半円形のベンチがある。ただ、盆から花道が貫通していて出島のようなエリアが先端にある。このあとわかることなのだが、経年劣化なのか盆に傾斜があって、回転するとガタガタいう。ポーズ中、踊り子さんに震動がつたわっていて大変そうであった。
開演前にエロビデオが流されているタイプの劇場。時間がくるとスタッフさんがテレビを引っ込めて、録音のアナウンスが流れる。「如何に興奮なさってもタッチショー以外は決してお手を...」という文言のパンチ。ミラーボールがやや頼りなく回りだす。

 

栗鳥巣さん。自吊りのあと、有名なおまん画。客あしらいがさすが。花電車はしゃべりができないと持たないとabemaの番組でゆきみ愛さんがおっしゃってたような気がするが、まさに。

 

宇佐美さん。初乗りで気合い入れまくりなのか、緊張なのか、いつもとペースが全然違う。2回目の「bubble」では衣装を脱ぎ損なうハプニングで、イレギュラーな袖ハケも。とはいえ、動きのなかで処理していたし、初見の人なら通常の段取りにみえたのではというくらい早い判断に思えた。ミスに対するとっさの判断力にこそ、その人の力量は伺えると思うけれど、さすがでした。
3回目の「positive」でようやくいつものような雰囲気に。この劇場は照明がかっこうよく(かわりに音響がすこし残念でもったいない...)、いつもとちがった演目の姿が見られてよかった。そして立ち上がり、なんともいえない絶妙に美しい表情があった。
こういう、万人に共有物として開かれるわけでも、記録価値があるでもない、刹那の表情の良さを書いておくことには、ほとんど意味がない。それでも、その瞬間、自分にとってはとても重要で、たしかな経験として受け取ったということを、黙っていられない性分なのだとおもう。とてもきれいでした。
4回目「bubble」は曲カットで2曲目から。初遭遇だからこれがあの曲カットか!と新鮮だったけど、なるべく出くわしたくないですね...

 

しかし今日、場内とてつもなく暑く、すこし体調に響いてきたので中抜けを増やしてしまう。かわりに小倉の街をみられたのでよし。博多より圧倒的に気に入る。猫も多い。それにしてもテレクラってまだ存在してたんだな...

 

中条彩乃さん。「ターニングポイント」「ノンフィクション」「お嬢の事情」。もうひとつは体力的な問題であきらめる。おそらく上野綾さんから借りたという「DD」だったのだろう。
3作の中では「ターニングポイント」が面白く見られた。衣装と扇子の赤が非常にゴージャス。かなり明確な「赤」であって、あまりこういう彩度の印象が強い衣装は記憶にない。しかし「ターニングポイント」は、この赤さと共に思いだされる。そして、赤さの主張の強さに負けないスタイルの良さがある。
これは質の高低やジャンル間のヒエラルキーとはまったく無関係な話として、中条さんはそもそももっとメジャーなステージで踊っているようなタイプのダンサーのパーソナリティーに近いような気がする。それが、ストリップというマイナーなステージにあらわれたとき、場違いともいえる「陽」のオーラをガンガンに振りまいて場を異化していく。ポラからPプレからフィナーレの仕切りまで、「中条の間」でバキバキ割っていくような。中条さんのファンの方は、こういうところがたまらないのだろうなと想像する。
個人的には、トレードマークの笑顔よりもまして、ベッドでの艶っぽい静かな表情がひときわ美しく感じられた。

 

10月2日(土) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

松本なな(1,3)

山口桃華(1,3)

中条彩乃(1-3)

 

昨晩、大回りして宿に帰るとうっかりソープ街に行き当たった。朝にあらためて周囲を散策してみるとそれなりの規模感。「船場」という地名があったりと、往時というか歴史が偲ばれる。劇場周辺も歓楽街の香り濃く、そうした労働者や商人などが行き交う土地でもあったのだろう。そもそも門司港が近い。

 

宇佐美さん。1回目「positive」いよいよ本領発揮といった感あり。昨日も書いていたけれど、最近は何か、ほんとうにその瞬間しかないような特別な表情があって、これがあると、何度見た演目であっても、その度ごとに演目の最も核にあるようなものがむきだしになって迫ってくるような新鮮さを感じる。それはたぶん、宇佐美さんがこの演目に対していつまでも新鮮な感覚を失っていないからなのだと思う。

 

松本ななさん3回目のパンダの演目。ラストの選曲は、イントロが流れ出したとたんに会場の全員がピンとくるような有名な楽曲だが、しかしこれこんなにいい曲だったのかという塗替えがあった。

 

今日は劇場に常連さんや遠征組が目立つ。ロビーで談笑する人たちが固まっている。このようすに、自分の仕事場の光景を思い出してしまう。パフォーマーを介して、さまざまな人たちが集い、関係するきっかけにもなって、「場」が作られていく。
それはべつに必ずしも良いことだけでもなく、人間関係のうっとうしい部分や、ステージを楽しむという意味ではノイズになることもある要素もあるということ。ただ、そうした夾雑物が入り込むのが本来の「場」だろう。

 

そんなことを感じながらひとり劇場にいると、すこしものさみしい気分になってしまう。この1年半、ほとんどそうした場を作るファクターに関われていない自分はなんなのだろうと少し落ち込む。もちろん、自分の力を越えた出来事なのだから、どうしようもないのだが、奇跡的にそうした変わらない場所が維持されている劇場に、ときどき引け目を感じる瞬間があってしまった。

 

10月3日(日) [A級小倉劇場]

栗鳥巣(1-2)

宇佐美なつ(1-3)

松本なな(1)

山口桃華(1)

中条彩乃(1-2)

 

朝から小倉の街をひたすらうろうろして、11時頃に博多から来た友人と合流。劇場そばの天ぷら屋で昼食をとってから、開場とともに入場。

 

ストリップに慣れない友人と見ていると、その感想が気になるだけでなく、たぶん、その新鮮な視線を想像的にトレースするようなことが少し起きる。それで「positive」のM1-M2で明るく可愛らしく踊っている姿を見ていてふと、あれ、この人本当にこのあと脱ぐの...?と思ってしまい、なぜか一瞬ドキドキしてしまう。もう100回くらい見てるのだが...

 

「黒煙」は、初見でそのグルーヴィーさにノリまくりで見たことを思い出すとともに、この4ヶ月ステージを観続けたことで開発された「エロさ」をキャッチするアンテナとの合わせ技で、陶然としてしまう。
大和での感想にも書いたことだけど、前半の睥睨するような冷たい視線のありようが、後半、にわかに意味を変えてこちらの官能をひたすら刺激するような眼になってくる。つまらない例えだが、「北風と太陽」のように、コートで身を固めた姿は観客にとっても防衛的に距離を計り合うような関係になるが、じょじょにその衣服が脱ぎさられていくことで、こちらも共に心の鎧を捨てていくような感触がある。
ただ、(これも何度も書いてるが)そうした先に、どこか厳しい一線が引かれているようでもあり、その「エロさ」は解消/融和の手前でそれこそ煙るように広がっていくばかりで晴れることがない。官能の高まりは頂点を目指して這いあがっていくが、その手前で、官能の高まりを与えてくれる対象が隠れてしまう。
一般的な倫理観のうえで、人は関係する内に互いの平衡を保とうとするが、それと同時に、誰かを振り回したり、あるいは逆に誰かに振り回されたいと思う非合理も抱えている。人間関係は信頼というファクターによって、フェアネスの振り幅を大きく更新する。ストリップという文化が持つ演者と観客の信頼関係を前提にしたうえで、「黒煙」はこの振り回し/振り回されの非合理、すなわちエロティシズムにがっつり踏み込んでいる。
自分は、あらゆる人間関係において対等を望んでいるけど、この演目を見てる瞬間、この演目を演じている宇佐美さんになら振り回されてもいい、と今回はっきり思ってしまった。これは、かなりな感覚だと思う...

 

中条彩乃さん「ノンフィクション」。この3日間でいちばん集中して見ることができた。特異な構成に慣れてきたのもあるが、着衣/脱衣の境界がスタートからあいまいに設定されているので、むしろ純粋にその踊りや表情を見ることができる。
とはいえ、そのあいまいさはキーポイントでもあるように思う。裸体を遮り、時には強調する複数の布=ヴェールの存在は、裸体が時に背負うことになる”真実性”を揺らす。揺らす、といっても知的な結構によってというより、それが単にありのまま=ノンフィクション的だという事実を忌憚なく見せている素直さに、こちらが身を正している、と言えるのかもしれない。私たちの身体は衣服を纏うものでもあり、纏わないものでもある、という両義性を行き来して踊る。それを思うと、逆行するような構成は、衣服を脱ぎ去っていくことで裸体の価値が不当に高まることを押さえている、とも考えられるかもしれない。

 

はじめて合ポラを撮ってみた。
並びのオーダーで順列をつけることに微妙に抵抗があるのと、しかし香盤順に並んでポーズを取ってもらうだけではつまらないし...というのを、これならいいかなとオーダーが思い浮かんだのでやってみることに。思った以上にお姐さん方の自然な表情が写っており、これこれ、これが写真よね...となった。
完全な余談にもほどがあるが、その写真に映ってるひとりの踊り子さんの表情が、普段はまったくそうでないのに、かつて好意をもっていた女性のそれにそっくりで、思いがけない副産物があるなどした。

 

今回もまた、ちょっとした踊り子さんの振る舞いに勉強になることが多かった。募金のときにまで客イジりを忘れなかったり、お客さんから渡されたものへの扱いや、またお客さんの振る舞いを制するのにトゲのない仕方で介入したり。
このうち、そうした振る舞いでもっとも勉強になったのは、やはり栗鳥巣さんだった。その演目の特殊さ以上に、きわめて常識的な感覚をもった方で、この方が劇場にいれば安心することが多いのだろうなと想像した。

 

10月15日(金)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(1-2)
MINAMI(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
水咲カレン(1-2)
望海あや(1-2)

 

タイル張のいかにも昭和然とした外観のビルに、ファサードの上部にせり出た装テントが可愛らしい。内壁は白色に統一されており、なにか異国ふう。階段を二階登るとロビーは天井がテント張のようにもなっている。
ドアを開くと一転して黒壁。高さを違えて三重になったスタンドの椅子が盆を囲む。...どこが動線か一瞬悩んだが、ようするに椅子の間をすり抜けるしかないのだった。体の大きい人が難儀している。

芝居がかったアナウンスのあと、照明が点灯。正直、小倉の仕事を見たあとでは見劣りがある。そもそものセッティングがチープというか、、また音響はここも厳しい。片方のチャンネルしかないので、左右に振り分けられている音の半分は消えることに。
今日もなぜか盛況だったらしく、3回目からは曲カット連発。進行の判断に不信感ある...スタッフさんもみな優しく、感染症対策もかなり気を配っているのだが、いろいろと察する。
一方で、うわさの外出禁止に関しては、案外つらさを感じなかったり。


宇佐美さん。
9頭以来だが、なぜか久々の感ある「w-e(n)dding」。すばらしかった。
同じことしか言えてないのだけど、最近の表情のよさは何なんだろうと思う。特にこの演目は渋谷で10何回と見たので、盆入りでは存在しない盆のせりあがりを頭で再現してしまうくらい流れが体に入ってる。ベッドも曲と姿勢の変化を追い切れるし、その点では既知のものを反復してるのだけど、ふとその予定調和がぐらっと揺れてしまう生っぽい仕草や表情がある。
それはどの程度狙って出してるものなのか分からないけど、いずれにせよ、4ヶ月前と今で、もっとも宇佐美さんのステージの印象を違える点になっている。そして、ライブ空間≒観客からの影響というより、自分自身への向き合いがうまくなされたとき、それが発動している感じにも見える。


思うけれど、ステージ"作品"としては、たとえば浅草のように、パフォーマンス後に客とのコミュニケーションが無いほうが、ずっと衝撃を保ってられる演目でもあるはずだ。
けど、直後にへんなポラ着(この日はピカチュウの顔が全面にプリントされた黄色い切れ込みの深い水着)で現れては雰囲気をぶっ壊してしまう俗っぽさ、掴みきれなさのほうが、よほど複雑なできごとだと思える。というか、そういうふうにされる世界の豊かさが、たぶんある。


最近、体力とは別にずっと調子が悪く、いっときは遠征を取り止めようかと考えたのだけど、行ける気がしたので行くことに。
いっこうに気分のベースが低調で、ずいぶんご心配をかけてしまう。しかし空元気でも変だし、ちょっとどうしようもないのだけど...反省。


10月16日(土)[DX東寺]

京はるな(1)
蜜マリア(1)
くるる(1)
友坂麗(1)

 

数年ぶりの京都それ自体にアガってしまう。最高の街...
もともと仙台でお店を営まれていて、京都へ移転されていた菓子店にもようやく行くことができた。ブラウニーのように濃厚なチョコレートクッキーを買う。そして、以前どこかでたまたま見かけてチェックしていた精肉店ビーフジャーキーもあわせてお土産に買う。彩りのかけらもない。


DX東寺は住宅街の中にいきなり現れる。居住まいの異様さは随一。
場内噂通り広い舞台・高い天井。ふつうの劇場であればそこまでのサイズではないのだが、いつもの「劇場」の狭さに慣れると広大にすら見える。


京はるなさん。先日の渋谷でも見た「サキュバス」。演目が始まると、なかなかの音量で音が流れる、のはいいが、ハイがきつくて耳が少し痛い。ローカットしまくりも残念だけど、たっぷりした音のデカさはうれしい。
照明効果は抜群。高い位置から入るブルーのかっこよさ。渋谷でのそれとはまた違ったドラマチックな見栄えで、もちろんパフォーマンスもあいまって「ストリップ見てるな〜!」という素朴な満足感に浸れた。


くるるさんも渋谷以来だが、今回の演目はそうとう素晴らしかった。
某三人組アイドル曲縛りのキラキラした演目かと思いきや、盆入りからの夢幻的なオナベにぞくぞくさせられる。何より、楽曲がまさかのオルゴールバージョンで、あんなどうしようもない音楽がこれほどパフォーマンスにマッチする可能性を少しも考えたことがなかったので、衝撃的でもある。フレーズがクレッシェンドしていくところと、それに応じるように手の動きがわずかに早まるようにみえるエロさ。いや、むしろ手の動きに応じて音のほうが高まっていくというふうにすらみえる凄さ。
曲が移っても、安易にポーズを切ったりせず、夢うつつの官能を残しながらゆらゆらと身悶えが続く。180°の縦開脚から続いてうつぶせにグラインドして髪を振り上げる動きを反復。ポーズらしいポーズはラストのL一回だけ。最高だった。


友坂麗さん。出てきたときから緋色の衣装が決まりまくっている。わずかに見える両手と両足の素肌が意味不明なまでに輝く。手の揺らぎが起きるだけで、なぜか早々に泣いてしまい、感情の動きとほとんど無関係にボロボロ泣き続けてしまう。M2冒頭の目潰しのバックライトがつくるシルエットが格好良すぎて卒倒しかける。
ベットでは、一枚の緋色の布にくるまっているところからスタート、ゆっくり身を動かしていくと、布が崩れ去るように床へ落ちていく。あの布の動き...ポロ、ポロと少しずつ剥がれるようでもあるし、羽化のようでもあるし、友坂さんの体から落ちる布は、いつも踊っている。
東寺の盆は回らないのに、友坂さんの踊りの密度が高すぎて、不在の円運動が錯覚されてしまう。意志とは無関係に何かが、視覚では捉えきれない海流のようなスケールで空間を巡っている。


それにしても、ラストの選曲、あれほど人口に膾炙した、なんだったら少しギャグっぽくすら響いてしまうポジティブさが、ごくごくベタにストレートに響いてしまうことへ、何度でも驚いてしまう。
くるるさんのときもそうだけど、ストリップは音楽の聴き直しが本当に何度も起きてしまう。

 

10月16日(土)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(3)
MINAMI(-)
宇佐美なつ(2-4)
水咲カレン(-)
望海あや(-)

 

東寺は押し進行で、もう1公演観るかどうかかなり迷う。そうこうしているうちにビンゴ大会がはじまり、その牧歌的な空気に浸っているうちに頭が切り替わり、かなり元気になってきたコンディションで宇佐美さんを観たいという気分になり、すばやく移動。2回目2番さんポラ中に到着して、完璧な回し...と惚れ惚れする。
そんなしょうもないことを書いておかないといけないくらいな日。

 

2回目「黒煙」M1カット。
3回目「bubble」M2-3カット。
4回目「w-e(n)dding」M2カット。

 

この日は、かねてからTwitterでやりとりのあったスト客の方とはじめてお会いする。もうわりきって会話に時間を費やして、それは素直にとてもいい時間だった。
踊り場で話し込んでいると、開け放った窓から雨粒が飛び込むほど強い雨脚になり、その奥からほとんどトライバルな金太鼓のリズムが響いてくる。濡れるのも構わず顔を外に出すと、狭い小路を山車が通ってゆく。太鼓のリズムは高まって止むことがない。雨の中それを見送る金髪のお姉さんが、クラブにいるようなノリで一心不乱に踊りまくっている。いい光景ですねと言い交わしているここがストリップ劇場であることを、つかの間忘れかけた。

 

10月17日(日)[晃生ショー劇場]

神崎雪乃(2)
MINAMI(1-2)
宇佐美なつ(1-2)
水咲カレン(2)
望海あや(-)

 

2回目「bubble」M1カット。
なんというか、自分でも意外なほど悲しい気分になってしまう。
ちょっとでも長い時間見たいからだとか、演目として完全なものを見て評価したいだとか、安くない金出してるんだからとか、ましてや遠征してるのにだとか、そういう事とは全く違っていて、もっと根本的な信用が毀損される感じを受けてしまう。
東京までの帰り道、ずっとこのことについて考えてしまった。結局、いたずらに悲しみが募るだけでどうしようもない。言い出すといろいろきりがないし、これについてはもう終わり。

 

1回目の「黒煙」。今回貴重なフルサイズであると共に、しばらく見られないかもしれないから、いつも以上に集中して見る事にした。

宇佐美さんの演目のそれぞれは、当然さまざまに色があって、色ごとに感じかたは違うものの「黒煙」は最もエロさの度合いが高い演目のような気がしつつある。「サマーチュール」もまた、多様なエロさのレイヤーを横断するようで、それがたまらなく好きなのだが、この演目のドラマトゥルギーはある種ストレートで、進行につれてどんどん官能が高まっていくような感触がある。


すでに何度も書いていてる前後半での視線の質の変化は、こちらに「見つめる」姿勢を準備する機能もあるように思う。
人は、人が見ているものを「見る」習性があり、それは「注意」の水準で反射的に生じるものだ。たとえばマジック一般では、そうした観客の「注意」の水準を操作して、ことを行うのが基本となる。だがここには―回りくどい言い回しだが―互いの関係が関係していない(もちろんそれ故のストラテジーと官能が豊かに存在する芸能だということは付け加えておく)。


他方「見つめる」という視線のあり方には、互いの関係が発生しているように思う。また気散じでない、深い没入がある。
宇佐美さんが前半から丹念に積み上げた観客に向ける視線は、いつしかこちらに転移して、鏡合わせのように視線を向け合うことになる。そのうえで、スローに弾む騎乗位のような姿勢で髪を逆撫でるように乱す仕草が、見つめ合う関係をほとんど性的な意味で許容してるかにすら感じる。
いま自分は、ステージ上の身体を見ているのか、その身体の動きである踊りを見ているのか、それともやはりこちらに向けられたままの視線を見ているのか、それぞれの区別が意味をなさない時間が流れ出し、とろけるような気分だけがリアルになっていく。こうして書くために思い出すだけでも、ぐっと気分はそちらに引っ張られてしまって少し頭がボーッとする...こうした甘美さは、即席に注意を引くことでは決して得られない、お互いの関係性が練り上げる真に贅沢な産物だと思う。

 

待ち時間、ロビー天井の不思議なテント張りの形を眺めていて、何か知ることがあるか建築家の友人にLINEして聞いてみた。結果、ふしぎだねえということにしかならなかったが、装飾テントというと昭和の歓楽街のイメージがあるという話になり、それから他劇の建築の特異さに広がり、文化そのものに対して言われるときは承服し難い「昭和の遺産」という文言が、建築自体にはハマってみえることに気付かされた。

 

10月18日(月)[池袋ミカド劇場

海野雪妃(-)
工藤リナ(2)
漆葉さら(2,4)
坂上友香(1-2)
黒井ひとみ(1-4)
望月きらら(1-4)

 

武藤さんいらっしゃるということで、別件に用事もあったので行くことに。さすがに疲れてこの週は諦めるつもりだったが...結論からいえば、望月きららさんを見た過ぎて最後まで居残ってしまう。

 

黒井ひとみさん。「えっちなあいどる」「飢餓海峡」「Black Lily」3個出し。
話に聞いていた「飢餓海峡」は芝居仕立てのストリップ。人形振りからはじめて、黒井さんの一人芝居が物語を進め、性交シーンをストリップ的な見せ場に据えているもの。
東北出身の自分にはどうしても引っかかってしまうイントネーションがあるし、率直に楽しめたかというと難しいのだが、ともすれば「踊り」に焦点化してしまう自分の目を「演劇」のほうにずらしてくれるという意味で、やはり黒井さんは特別な踊り子だと思う。
ストリップは服を脱ぐことだけがそのジャンルの本質であって、そこにどのようなジャンルが介在しようとよいわけで、演劇的なストリップの可能性を黒井さんやその他の踊り子さんが広げていくのに、好みの問題を越えて付き合っていきたい。まあ、ここで言っている「演劇」はずいぶん適当な言い方ではあるが...

 

その点「Black Lily」はストレートな傑作だと感じる。設定・衣装・小道具・選曲のどれもがビシッとハマっている。
略して「BL」とも表記されるこの演目が、同性愛の自由を言祝ぐ作品であることは言わずもがなだが、百合やBLといったジャンル的な想起がエンパワメントするヒューマニスティックな愛の自由を遥かに飛び去って、すべての性倒錯を開放するスケールを持っているとすら感じる。
それはビニールの無頭のトルソーが、見立てとして擬人的であると共に、ポーズベットのとき一緒にひょいと持ち上げられたりすることで、その軽さから単なる"もの"性が浮き彫りになり、擬人的な見立てがつかの間崩れてしまうことにもある。黒井さんが股間に舌を這わせるとき、それはあらゆるセクシャリティが対象であると共に、ビニールのトルソーそれ自体に欲望している可能性を考える。なぜなら「神様は何も禁止なんかしてない」のだから。この「何も」をこそ、文字通り受け取るべきではないだろうか。無限定の性の自由が、修道服の天国とボンデージの地獄の間に、高らかに肯定される。

 

望月きららさん。天才。
1回目「酔っ払っちゃった〜」は、小道具に酒が出てくる。すると当然、"酔ったから脱ぐ"という展開は即座に予想できてしまうわけだが、そうした予想は完全に的中しつつも、それに至るプロセスが記憶しきれないほどに豊か。あらゆる時間に「芸」の刻印が深々と刻まれていて、視線も客とのコミュニケーションも脱衣も、すべてに見どころがある。
何より驚かされるのは、重機が駆動するようなポーズの切り方。ただ脚が宙に伸びるのでなく、支える足が体全体を起こしつつ、しかし一度沈んでからまた持ち上げるような、多段階の運動を行う。あれは一体なんなのか。

 

3回目「Run the World」もM1から驚愕。黒と金を基調にしたド派手なヘッドドレスを装着しながら、ピンヒールブーツでガッツンガッツン踊り倒す。しかも、世界一有名な女性パフォーマーの音楽を使って...ギャグめいて本人は「スーパーボウルのハーフタイムショー」などと言うが、その"圧力"に関してほとんど見劣りしない。
きららさんは、小柄にも関わらず、信じられないほどヘヴィな質感のダンスをする。それは自身の胸の大きさやお尻の張りを完全に自覚的に武器にしていることにもよるだろう。かといって、線形の流麗さというか鋭角さもある。なにより踊る喜びがある。そして、その喜びがまた次の踊りを招いている。

 

きららさんについては、様々に考えられることが多い。
とりわけ、サービス精神が一秒たりとも休むことがないのに、「芸人」的なパーソナリティー特有の臭みが皆無なことだ。
自分は職業病的に、芸人の行為の"狙い"を敏感に感じてしまうし、それが感じられると一気にしらけてしまうこともあるのだが、きららさんが意識的に何かを仕掛けても、不遜な自信や慣れが本当に感じられず、けれども"天然"とかでもなく、これをなんといっていいものか非常にむずかしい。こんな人、なかなかいない。もはや天性の芸人肌と考えるほかない。

 

ミカド劇場はキャラの濃いお客さんが多い気がするけれど、この日は際立っていた。
そんな中、ちょいちょい落ち着きなく中座していた酔っ払ってるおじさんがきららさんのポラ中に戻ってきて、事あるごとに笑っていたのだが「笑ってるけど、さっきおらんかったよな!?」「ぴったりの演目やってたんやけど?」「いや、いませんでしよね!?」と絶妙の間で何度もイジり倒していた。あれは真似できない...

 

 

 

10月25日(月)[ライブシアター栗橋]

黒井ひとみ(1-3)

安田志穂(1-3)

蟹江りん(1-3)

ささきさち(1-3)

小宮山せりな(1-3)

 

ある程度の地の利もあるにせよ、栗橋に行くことになんの抵抗もなくなった自分に気づく。開館記念興行だけに、劇場の外にデカデカと花輪が並んでいた。場内も月曜ながら盛況。
栗橋の定位置になりつつある2列目上手端につく。ここだと盆より低い本舞台がちゃんと見える。

 

黒井ひとみさんは「エスケープ」「飢餓海峡」「Black Lily」3つ。
この日は黒井さんがトップだったので、1日のスタートに「エスケープ」を観ることに。贅沢なはじまり。

飢餓海峡」はミカドで観たよりずっと入り込めた。その時々のライブ感で演技も変わるとのことだったが、ぐっと抑制の効いた台詞回しだったのと、高輝度の栗橋の照明が時代がかった演出を後押ししていたように見えた。

 

今回はささきさちさんの演目が圧倒的に好みだった。
「デビュー作」は6月に一度だけ観ていて、その時はストリップ自体にも慣れていなかったせいかうまく受け取れてなかった部分と、おそらくはささきさん自身の変化も噛み合って、かなり印象を違えた。何より、王道アイドル曲からはじまるM1から妙に色っぽい。ささきさんの踊りは音の流れと共にドライヴするような振付でなく、動きの単位も短くポージングのように静止する間も含んだ余白の多いもの。しかし、その余白を満たしていくような音楽の聴こえ方がある。
ベットに進むと、そうした余白はさらに広がり、ほとんど何もしていないと言っていいほどで、動きの記憶もほとんどない。けれども確かに充実した時間が流れていた。痩躯の、裸体の飛び抜けた美しさもそれを支えている。
同時に、乱れた前髪の隙間からのぞく視線は柔らかく穏やかな雰囲気と違いずっと意志的で、イニシアチブを逃さない確かさも備えている。以前からささきさんのベットの「エモさ」が気にかかっていたけど、この視線の質感に拠るのかもしれない。

 

「スリーピーガール」がかなり素晴らしく、この日いちばん、あるいは今年を通して忘れがたい演目がまたまた増えたほどだった。
衣装替えでパジャマ姿になり、マイムによって寝支度をはじめ、盆入りではうつ伏せになり寝しなに漫画を読む様子を見せるだけ、という流れに。
この盆での様子が妙に充実感あり、このまま終わっても別に文句ないなと感じてしまう。特に積極的にエロさがあるわけでもないのに、なぜこの時間が持ってしまうのか。
電灯を消す効果音に続いてカットアウトの暗転。夢見心地のストリングスが入ってくると、明転してピンク色の照明の中で股間をまさぐりだし、じっくりとオナベがはじまる。
脱衣後のオナベはかなりハードかつ、リアリズム志向の演技。快感に閉じつつある太腿をはたく仕草に生々しさがある。


8中で観た「海」もそうだが、ささきさんのオナベでは音楽が行為に対してまったく非同期的で、快感や官能の高まりに対してほとんど情緒的・意味的なアシストをせず、さながら盆の回転のように、ただ単に機械的に流れているようなドライさがある。
しかし、2曲使いで行為に跨って流れるそれは当然、作家的な判断の結果であって、BGMが漫然と流れてるのとはまったく違う感触であることを強調しておく。
他の踊り子さんの演目でも、音楽とズレつつベットが行われることをことさら好んでいたが、「スリーピーガール」のオナベはそうしたシーンを自覚的に提示している"作品"として受け取ることができた。


最初のストリップの感想でも書いていたが、特にベットショーでは身体の動き・盆の動き・音楽という3つの要素がひとつの認識のフレームに収まりながらも、場合によってはそれらが分離的に感じられることがある。
同期系として単一に見るより、非同期系として複雑に要素が平行的に動いているように見るほうが、圧倒的にスリリングである。もうちょっとこの感覚について考えていきたい。

 

10月28日(木)[渋谷道頓堀劇場]

水咲カレン(1-4)
るあん(1-4)
石原さゆみ(1-4)
望月きらら(1-4)
六花ましろ(1-4)

 

久々の道劇に香るスモークが「ホーム」を思わせてしまう。

こんなに言いたいことの多い香盤もないが、望月きららさんの圧倒的な"優勝"の空気にすべてが持っていかれてしまう。何から何をどう言えばいいのか。そして、差異の問題を超えてここまでストリップに心底揺らされる可能性が残ってるとは(本当におこがましくも)、正直思っていなかったかもしれない。たぶん、まだまだ、これからも何度もこういうことがある。

 

るあんさん。アリスをモチーフにした奇数回の演目が職人の技が冴える工芸品のような演目で感嘆。ご本人のキャラクターとコンセプトの合致はもちろん、ベットで同じ曲のカバー/オリジナルという二曲を使うのも面白い。
そしてあの息の長いポーズは、細い糸を切れないように、しかしグッとテンションをかけ続けるようなスリルと繊細さがある。

 

石原さゆみさん。3個だし。3回目にクリスマスの演目を出していて爆笑する。早すぎる。
着る服を客に選ばせるシーンがあるのだが、させたいことの意図が明瞭な手つきで行われていて勉強になる。
CAの演目では、脱力した3カウントの指折りが何ともいえず目を引く。それが服の前を開いた後にも反復され、着衣と脱衣のシークエンスを段違いのままに繋いで、その接合の落差にグッとくる。
新作はほんとうにシンプルに踊りを見せるだけの演目。ジャズダンスから社交ダンスへ移行して、ベットショー。髪を解いてザッとかきあげる仕草。夏にあんな飛び道具的演目を繰り出してた人とは思えない。かといって、それが物足りないかというとそうでもなく、ほんとうに言い難い感覚がある。
こう言っては何だが、そして素人が技術の判断に踏み込む危険もあるのだが、石原さんはそれほど踊りやポーズが達者な踊り子ということでもないと思う。にも関わらず、見ているとどんどんその人が気になってクセになってくる感じ。
指パッチンのとんでもない脱力感はリズムも完全に無視しているし、そもそも音が鳴りようのない弱々しさで、どんな意識の持ちようだとそうなるのかさっぱり分からない。他方で、歌詞の「乾杯」にあわせて手首同士を打ち付けてグラスを模す振付は妙に鋭角だし、何をどう考えてるのかさっぱり読めない。
また立ち上がりでポーズのアンニュイさから解放的に笑顔で踊る様子は、プロのダンサーというより踊りが好きな女の子がたまたま流れてきた好きな曲で踊って見せてるような親しさがあり、それがまた妙に良い。
さゆみさん、見れば見たぶんだけ気になってくる。

 

望月きららさん。4個だし。先週も4個だしで、気合からして違う。
1回目の「シンドバット」は盆からはみ出るくらいのビニールボートに乗って、財宝をゲットしたりエキゾチックな美女に出会ったりする。
ベットで、財宝の箱を開けて宝飾品をザラザラと胸にかけるくだりの"わかってる"感じ...きららさんも、変な「演技(=意味)」ではなく、徹頭徹尾「運動」を追っている。そしてポーズがまたとんでもない。
ツイートでふと感想を漏らしたら、フォロワーの方から同意を頂いたのだが、きららさんのポーズは植物の成長を早送りにした映像のような躍動感がある。ぐーーーーっと伸び続けて、伸び切ってもまだ動きが有り余るような、生命そのものを圧縮したような運動。値千金。

2番目、春野いちじくさんのレンタル演目「ナース」に撃ち抜かれる。
ユーモアとエロと先鋭的な選曲センスが矛盾なく絡まりあって、演目の完成度という点で天才性を感じる。とてつもない。
キャスター付きのスツールを袖から出してヒールで踏みつけて押さえてから、本舞台中央から盆の面へと上体を乗せて子供のように滑っていくとき、舞台は一気に活気づいてしまう。いちじくさんがどう演じているかわからないが、まず目の前にいるのは小道具を扱わせたら第一級の名人であるきららさんであるから、単なるショボい椅子も生き生きとした命を持ち出す。
また、注射器から粘性の高い液体をとろーっと垂らすベットまでのシークエンスも、絶妙という他ない。ここの選曲が抜群。その"エロ"には既視感もあるし、注射器をファリックなイメージと重ねるクリシェなんて面白くもなんともないはずなのに、芸と演出の力だけで、完全に真新しい何かを作り上げてしまっている。あまりの格好良さに一時間くらい頭がこれに占有されてしまう。
ツイートで伏せた名前を出してしまうが、宇佐美さんをはじめて見たときに迫るインパクトがあった。影響関係があるのかどうかまったく知らないけれど、ある種の血族というか、知性とエロが矛盾なく同居しているあり方はここにもあるのかとショッキングでもあった。

3番目は花魁の演目。衣装の豪奢さ極まる。
ストーリー性のある演目は、どこかストーリーを"語る"手つきに作為が集中しがちな気もするが、きららさんはやはり細部の芸で見せてくれる。
ことに、恋仲の男からの手紙の扱いが多様で、たとえばラスト付近では縦に折られた手紙を男性器のように舐め回してから開いて、横に90度回転させてくわえると、視線を下方へと誘導し、簡潔ながら濃厚なオナニーがなされる。情緒で解決せず、常にこういうシャープな展開がある。

4番目新作「Madness」。暗転のまま幕が開くと中空にプラズマボールが光っている。明点すると魔女めいた装い。重めのドレスでこれはどう展開するのかと思うと、早々に身軽になって、身体の赴くままに踊りまくる10数分。肘までの手袋を口ではぐように脱ぎ捨てる仕草で、何かが弾けるように空気が変わり、壮大な選曲に一瞬たりとも負けないポーズベットの身体性で、ただただ空間を圧倒していく。
かといってポーズが乱打されることもなく、記憶では3〜4回程度だったと思う。では何が起きていたのか...というと思い出せない。

競技会では、「ああ、この人が優勝だな」という空気が会場を満たしていくことがままあるが、この「Madness」では、そうした圧倒の共有が客席全体にも満ちて、声にならない熱狂がそこまで迫り上がっているのを確実に感じた。
ただ踊るだけ、ただポーズを切るだけの、実にプリミティヴな構えで、この世で最上のパフォーマンスのひとつと思える充実をこちらに叩きつけてくる。

6結の栗橋で遭遇して以来、芸の巧みさと徹底されたド下ネタ演目でサービスし続ける天性の芸人という理解が、先週の「Run the world」と、この「Madness」でまた塗り替えられていく。

 

先日のミカドがあまりに素晴らしかったので友人たちを促した。
すると観劇に行った1人が、ラストの「反抗期」しか観られなかったものの満足したと連絡が来たので、冗談半分で明日も行きましょうと言ったら、本当に行って「Run the world」にも間に合ったと。
それから一週間経ち、道劇にも現れ、続けてその翌日も行って、ついに金銀銅杯への遠征を考え始めているらしい。人は、人の行動を簡単に変えてしまう。
また別の友人。8中道劇で初ストリップを経験して、今週再び石原さゆみさんに遭遇。今回は何か刺さるものがあったらしく、ポラに並んでいた。
それぞれ、自分が初めてストリップに誘った友人たちだが、それぞれがそれぞれに刺さるステージを見つけていて、勝手に喜ばしい思いになる。

ストリップのきろく 2021年9月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

9月2日(木)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-2)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

悠木美雪(1)

黒崎優(1)

寒くて、雨。散歩がてら歩いていった前回のモチベーションはさすがになく、送迎を願う。ほんの数分で車が到着。仕事で現場の方に送迎していただくときの癖で助手席のドアを開けかけたが、いや客だしな...と考える間が一瞬あった。後部座席にはいりこむ。
さて、2回目の栗橋。場内は閑散。それはそうか。適当に2列目上手端にすわる。

全体的に制作の忙しさや気候やらで気持ちが凪いでいて、このまま宇佐美さんが楽しめるだろうか...という状態ではじまった「サマーチュール」は、終われば心拍が上がってるのが分かるくらいアガってしまう。
以前、体調最悪のまま友人のパフォーマンスを見たとき、終わったあとすっかり元気になっていたことを思い出す。元気になった、とは紋切り型の感想のひとつだが、事実そういうことがある。
盆に入ってから、ぺろっと舌出しがあった。めずらしい遊び。

「うそつき」は広いステージでやるのが久々とのこと。
前半、かなり薄いサウンドの曲で踊られるので、たとえば「サマーチュール」のM1の厚みと振付の手数の多さなどと比べると、ちょっと物足りない気持ちになる。
しかし、この演目のギミックであるキツネの耳と尻尾を外して以降は妙に色っぽい。ラストはバーンと曲も派手になってポーズベットに。結局ラストで全部持っていけてしまう。帽子を足にかけたポージングはなぜか感動的。

「サマーチュール」後のポラで、浮き輪をはめて「栗橋ビーチのみんな〜」と出てきたのが良かった。翌日になっても何かと思い出してしまう。ちょっとしたおもしろが似合う人でうらやましい。

 

9月4日(土)[横浜ロック座]

椎名ありす(3-4)

香山蘭(3-4)

早瀬ありす(3)

ゆきな(3)

星崎琴音(3)

 

仕事終わりの宿の近くにあったので...
6頭川崎以来の香山さんを目当てに。7中でSNAをパスしたので名高い「反戦歌」を見逃してしまい、さらに今年で出し納めということでご縁を逃した形。

 

新作「Mon amour」は、ある意味で豪速球のストレートを投げてくる演目。
まず選曲と歌手に強い物語があり、それだけで泣き出してはひれ伏してしまう人もいそうなくらいの超有名曲によって踊られる。
M1では装飾性を抑圧した黒いノースリープのワンピースで、即興を軸にひたすら上質なダンスを踊りつづける。時折スカーフを頭に巻くなどして、歌われる「母」が働く姿を模する。このときの集中力は異様で、そのまま演目が終わってしまうのではないかというほど。
M2は盆始まり。一転して白いドレスを纏った香山さんが横たわっている。セリフからはじまる曲は、おそらく世界の誰しもが知っている音楽のひとつであろう、恋の喜びと苦味を唄う歌。
だが、黒衣と白衣の対照がより直接に生と死を想起させ、ノーブルな白いドレスがどこか死装束めいて見えてくると、耐えない微笑みも手伝ってあらぬ方へこちらの気分が誘われる感触が強まってくる。M3では再び白い衣装を纏い直すが、基本的には前半の2曲でこの演目世界は完結していると言ってもいいように感じた。
そして何より、あまりの大ネタ遣いに、こちらの感覚がバグってくる。もしこれがストリップという芸能の場でない、ごく一般的なステージで踊られるなら、そのベタさ加減に耐え難いものすらあったのではないかと想像する。しかし実際の鑑賞経験は、そうした通俗性が忌避の対象になることなく、またその通俗性がそのままどこかへと振り切れて、何が何なのかよくわからない感覚になる。この踊りをどこにどのように位置づけて考えるべきか、まったく見えなくなってしまう。
「ストリップ」とはなんなのか、久しぶりにわからなくなる。

 

9月6日(月)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-3)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

武藤さんがこの日栗橋に行くという連絡が。昨日までの疲れもないので自分も行くことに。木曜ほどでないが、空いているのでかぶりに座れてしまう。


「サマーチュール」は前開き水着バージョン。そして、最前上手端だったので花火の促しをされる役。帽子も被ったし「サマーチュール」で客がやられること、コンプである...盆入りの舌出しは今回はなかった。

「うそつき」の耳と尻尾の消失にエロを感じるという話がうまく伝わらず、別に強く主張したいわけでもないのだけど、かすかにエロさが香ってくる感触をちょっと書いておく。

フェイクの耳と尻尾には、その身体を演目上の「キャラ」として記号化する機能がある。目の前にじっさいの腕や脚という肌が見えつつも、まずはその「狐」の役柄を優先して認識する働きがあるだろう。
これがストリップだと分かって見ている我々は、狐がいつか服を脱ぐということが予想できている。けれども「うそつき」では、狐が狐のまま脱衣することはない。狐は人間へと脱衣する。
袖にハケてから再び舞台に現れると、耳と尻尾は消失する。帽子を脱ぐとそこに耳はなく、尻を撫でると尻尾がない。ここで観客は記号的な役割としてのキャラから、具体的な肉体へとフォーカスを移すことになる。つまり、素朴な衣服の取り去りだけでなく、いわば意味の水準で"キャラからの脱衣を見る"ということ。
またその焦点変化の際、消えた耳をなぞるようにして髪を撫ぜて耳にかける仕草が出てくる。「うそつき」における裸の現れは、この"耳"に先行する。消えた記号的な耳と、現れる肉体の耳。あらかじめ性的な価値を帯びている胸や尻や性器ではなく、記号によって隠された"耳"という肉体が露わになることが、この演目における「ストリップ」の中心である。文脈の設計によって、肉体の価値は更新されて、それをエロさとして受け取ることが可能になる。

こんなに強く読み込まなくてもいいようなことなのだけど、まあ一応...

おもしろ登場シリーズに新作。なんかのおまけでもらったというベルトコンベアの寿司のおもちゃを持って「宇佐美寿司開店だよ!」と威勢よく現れる。何なんだ。
ポラのときもそれを使っていろいろしてたが、公序良俗に配慮して割愛。

友坂さん「結」「GTR」「弦月」の3個出し...どころか、どうやら今週毎日のように演目が変化しているらしい。

かぶりで見ると、あの代名詞的な視線をもろに受け止めることになる。こんなに他人と見つめ合うことはあるだろうかと考えてしまうが、そうせざるを得ない視線であり、そうすることが喜びであるような視線に、ただ見つめ返してしまう時間が何度も訪れた。
あの視線から、何か具体的な意味やメッセージを読み取ることはできず、そしてむしろ意味の無さこそが、あの視線の強さを支えている。
強さ、といっても一向に支配的ではなく、かといって無闇な優しさもない。「ただ見つめること」の究極がそこにある。

川崎・新宿・横浜と各劇場で観てきた「弦月」は、栗橋の舞台でいっそう魅力的だった。前景と後景を横断する紗幕は、物理的な条件の制約を受けて斜めに張られることで、かえって「布」の動きや質感が明瞭になる。また、左右に張られた劇場の鏡が、その景色をより複雑にする。

しかしなんといっても「GTR」。何度見ても奇跡のような演目。芸人が観客と向き合うということ、またそれがストリップという芸能において行われてることが、それをどこまでも高めている。

「ただ」の強度はこの演目にもある。ラスト、場内にいる者たちの"出席確認"を行い、指で人数を示すこと。たしかにこの場を共有した我々が「ただ」カウントされる。それだけの行為が無上の歓待になりうる。

 

友坂さんのポラ、今までとくに名乗ったこともなく、預けのポラ自体もしたことがなかったのでやり方を確認したら「裏に適当なお名前を書いてください、知ってますけど」と言われる。ダメ押しで「Twitterも知ってますよ」と...
インターネットの声量を控えるべき。

 

9月10日(金)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1)

萩尾のばら(1)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

楽日。久々の晴天。夏が戻ってきた。送迎の往路、マスク越しにも田んぼの匂いが立っているのが分かる。
先日道劇で宇佐美さんを見せた友人に友坂さんも見せたく、誘う。ちょうど休憩のタイミングで到着したので、しばしそのままベンチで話し込む。『GTA』の世界にありそうな場所だ、などということを放言する。

宇佐美さんについて、たまには限りなく短くして、言いたいことを圧縮してみる。

・「サマーチュール」世界一エロい。世界一最高。
・「うそつき」過去に見たことないような表情の豊かさ。パフォーマーとしての発展余地を見せつけるような回。
・「w-e(n)dding」オナベは、たとえば生き物の出産に立ち会うような、それをなしとげる様子をただ見守る、というような時間になりつつある。性=生の時間。

まだ何も形にならないが、ストを見ていて「時間」というものを考えることが増えつつある。ある現象ではなく、さまざまに移り流れる「時間」という幅について。

 

友坂さんも3個出し。が、この週は12個出しだったということがわかる。すさまじい。
今回とりわけ素晴らしいと思ったのは「Smile」の後半。袖から椅子を取り出して、束ねていた髪を解いて、ピンクのドレスに着替える。いってしまえばこれだけのことに4分近く時間を使い、けれどもそこには「踊り」としか呼ぶことができない身体の充実が満ちている。
椅子の上で身悶えるようにして下着を取り外すとき、身体部位の布置が組み変わり、あの豊かな黒髪を起点にして、靴・下着・陰毛・睫毛・眉毛たちが「黒」の系列として押韻をなすようにして、さらにドレスのピンクと対照してみえだすことが起きる。
続いて、極上のポップソング(自分の好きな曲だった)で、あの無二の舞踏が繰り広げられる。踊りを見る身体は同期に向かいつつもそれが叶わず、多方に感覚が散らばって身体を捻じ曲げようとする。それは快い掻痒感のような微妙な感覚と、引き絞られるような感覚を行き来する。
なにより、こうした踊りに友坂さんの支配的な意志や狙いが希薄で、だからこそどこまでも安心してその踊りに身を任せることができる。友坂さんは強く観客を「見る」パフォーマーでもあるが、自分が「見られる」ことに対しても、どこまでも自分を開いている。
ポーズを切るとき、ほんの瞬間、しかしはっきりと確実に客席へ顔を向けてから身体を反らしてみせたりすることがある。あの眼差しが正面からやってきたことに囚われてるうちに、ポーズ=全身へと視界が拡大される。踊り子が「見られる」ことを望むとき、友坂さんはその関係を曖昧にせず、まず自分から「見る」ことで「見る/見られる」の関係を直ちに構築する...

4つの演目を新たに見ることができ、ますます友坂さんの踊りに惹かれていく。そして不思議と、こちらを認識してもらえていると思うと、また見に行こうと思う動機ができてしまう。

 

せっかく圧縮して書いたのだけど、ふと「うそつき」の耳・尻尾の消失について思ったのは、自分がマジックをやっていたことで、ものが"消失"することの官能に敏感なことはあるかもしれないな、と気づいた。

自分は、全体の構成的必要とは必ずしも関係が薄い細部の官能性にこだわるほうだった。さらに、アイドルを見ているうちにキャンセルしていた官能性への視線が、ストリップを観ながら思い出していく作業のうちにいる、と考えている。

 

9月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

葵マコ(2-3)
栗鳥巣(2)
六花ましろ(2-3)
京はるな(2-3)
美月春(1-3)

午前に渋谷で用事があったこともあり、またチームショー「GIRLS」が気になったため2日続けての観劇へ。さすがに疲れたが、充実...


葵マコさん2回目の演目がとてつもなく素晴らしい。
冒頭からすべて服を脱ぎ捨てて踊るのだが、そうした脱ぎ去りが強調されるわけでもなく、表情や仕草の豊かさにあふれていて、ひたすら魅力的だった。忘れがたい演目がまた増えた。

栗鳥巣さんは芝居仕立ての「援交」もの。精液を見せる仕方も、またそれを繰り返しすることにも知性と芸の両立がある。

 

美月春さん・京はるなさんチームショー「GIRLS」。
女ギャング2人組で、美月さんがデニムのホットパンツにピンクのファージャケット、京さんがゴスロリ風のドレスにぬいぐるみを抱いたキャラ。凸凹感の設定にも先行するなんらかのジャンル物の記憶が響いているが、ようするにラス・メイヤー(未だに一本も見たことないが)的な美学を源流としたエロ×バイオレンスの系譜に属するもの。
冒頭の強奪シーン(あらかじめ京さんが客に札束を仕込ませている)に醸される芝居の空気は、大道芸というかマイム系のユニットにもありそうなそれで、めちゃくちゃ警戒してしまうが、酒を呷って盆で寝転ってる美月さんを京さんが脱衣させ、ペニバンを装着させてハードなセックスシーンに移る一連のシークエンスでは、コミカルな空気が行為のハードさへとシームレスに変化する(一般社会であれば表現とはいえ穏当にせざるを得ないシーンが省略されない)ことで、まさに「ストリップ」固有の可能性をみせつける。演者同士の準備されたパフォーマンスであり、それが張形とはいえ、行われているのは"まな板ショー"である。正常位で美月さんが腰を動かすことは演技でも何でもなく、実際の京さんとの性行為そのものであって、コントのワンシーンに収まりきらない強度がある。しかし、選曲の一貫性が当初のポップさを損なうことがないから、その後2人でポーズを切れば、ストリップそのもののカタルシスと、バディもののカタルシスをいいとこ取りしたような高揚感にあふれる。

とても面白いステージだったけれど、冒頭の空気感やセックスシーンなど、それ自体切り出すと素直に楽しいかどうか微妙なものも、ギリギリのラインで綱渡って面白さの方へ連れて行ってくれた、という感じもある。それは美月さんと京さんのビジュアルの作り込みや演技力にも支えられているだろうし、ストリップという芸能では何をやってもいい(アンモラルな、というか単純に作品表現の制限のなさ)ということへの迷いなさがあるのだろうと思った。

前後するが引退作の「Truth」で、自分が初めて見る"引退する踊り子"の姿と、それを見て泣いている観客の顔に、思いが募って自分もつられて泣いてしまいそうになる。
ごく短い間に何度か見たにすぎない踊り子さんでも、そこに集まるお客さんたち同士の、あるいは踊り子さんとの縦横の関係性は合間合間に伝わらざるを得ないし、様々な歴史がみえる。そうした様子を眺めながら、かつてはこの場所でひとりのお客さんとして見ていたはずの人の姿も不意に思い浮かべてしまう。それは単なるそれぞれへの思い入れや感情移入を越えた、この「場」に流れた時間が重なりとなって現在に畳み込まれるような、自分にはしばしばある——しかし常に特別な——体験でもある。



...ついで余談だが、翌日、数年ぶりに『喜劇特出しヒモ天国』を見なおしたあと、原芳市『ストリップのある街』の年表を手繰っていて、既知の劇場で行われた出来事のさまざまを読んでいるときも、そうした感覚に陥った。

9月14日(火)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1-2)
海野雪妃(1-2)
JUN(1-2)
萩尾のばら(1-2)
アキラ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

関東最遠の劇場。半蔵門線の両極(よりさらに奥)を2週で行き来するとは...
駅前に意味不明なまでに広く抜けた遊歩道があり新興の土地の姿を見たかと思えば、薄暗い横丁に飲み屋や弁当屋が集まっていたりするし、何よりストリップ劇場がある。独特の街。
階段を上がって入場。もぎりのお兄さんの後ろで放たれたドアの向こうに黒塗りの壁とスカスカに間引きされたパイプ椅子群が見える。たっぷりした空間と、天井には(正確に何というのかわからないが)屋根の形がそれとわかる屋根裏が見える。
盆の下手にはポールが設えられていて、本舞台と盆をつなぐ花道が、おそらく3mほどある。本舞台も余裕があり、誰かが、花道から区切って下手側のエリアを指して「わらミニの本舞台はこれくらい」と言っていた。たしかに。要するにわらミニ本舞台の3〜3.5倍ほどのサイズ感。


6人香盤で、これはさすがに抜けつつみようかしら...と考えていたけど、劇場の居心地もよくて、ベテランのお姐さん方の芸も味わい深く、通して2回きっちり見る。

とくにJUNさんの1回目、和装の夏演目は遊びがたくさんあり、すばらしかった。花道を足袋の滑りを活かしてスライディングすること2回、さらに着物姿でタットダンスまでこなすサービスぶり。ラストは筋肉アピール(?)で〆。
アキラさんの2回目は客いじりどころか投光いじりまでこなして、いかにもベテランの余裕だが、ポーズになるとカチッとギアを入れてここぞというキメを逃すことがない。OPではポールダンスの技もサラッと決めてしまう。
ポールといえば永瀬さんなのだが、今まで他人事に見えていたようなポールが、かぶりを越えて脚が旋回するのを見ると、さすがにスリリングでとても面白い。何より、注意を払いつつも回転速度に遠慮がなくてとても良かった。

 

宇佐美さん1回目は6月の初見以来2回目(宇佐美さんの演目で1回しか見たことないのはこれと蕨の「ユーレイ(仮)」だけ)の「黒煙」。
赤と黒コントラストが鮮やかな衣装。本舞台では赤いコートを纏ったまま、いつもの笑顔でなしに、睥睨するような冷淡な顔つきで、近作に比べればずっと少ない手数で踊る。自分が見てきた中では異例な部類に入る、ストレートなロックサウンドが2曲続くが、サウンドの密度に対して振りが少なめだと、「サマーチュール」のゴージャスさに慣れた目に、こんな感じだったかな?と探るような思い出そうとするような引き気味の位置で見てしまうこともあったが、M3でモードチェンジが起こり、メロウで音数少なめの楽曲での脱衣がはじまると、不思議なほどズルズルと引っ張られていく。
M3からM4(めずらしくクロスフェード使ってた気がする、あいまい)はシームレスに移行する。前後定かでないけど、脚を泳がせながら花道を旋回していくベット入り、泣けてしまうほど官能的で鳥肌が立つ。そして胸を晒す動作が、ぱっと服を捨てるようで、「サマーチュール」のねばりと好対照。脇道にそれるけど、たぶん今までみた踊り子さんのなかで胸を見せる仕草にエロさを感じたのは宇佐美さんとあらきまいさん(のOP)だけ。じわっと脳がしびれるような感じになる。こんなにエロい演目だったのかという発見もある。
脱ぎが完了して、ポーズに入ると、もう言葉にならない。スワンに入る前、両手を開いて指を交互に合わせて、下から上から順に指折って拳を固めるその動きに涙腺が危うくなる。宇佐美さんはポーズを切る前に、強烈に印象的な指折りが入ることがある。
立ち上がり、花道を逆に本舞台へ戻るとき、脱ぎ捨てられた衣服を残してゆく。その後ろ姿の美しさに、心を徹底的に深く刺し貫かれる。

あまりにも素晴らしく、自分にとって複雑な様々を喚起しすぎてしまい、これを見て喜んでいるだけでいいのかと、人生を省みてしまう...6月の初見のときから何も変わっていない。そして、あまりに刺さり方が深いときこそ、大した感想が出てこず、そのことにまた妙な自己嫌悪が起きたりする。


休憩の間、雨が降ってるのに何も持たずあてなく外をぶらぶらしてしまう。
駅前の広い遊歩道に行き当たると、野良なのかなんなのかよく分からない猫が、リードも首輪もなしに、おじさんの後ろを勇ましい顔で付いて歩いていた。

 

9月17日(金)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1,3-4)
海野雪妃(1,3-4)
JUN(1-4)
萩尾のばら(1-4)
アキラ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

今週は1回にとどめてもいいかなと考えてたくらい遠い・時間を食うというネガティブ要素のある大和だったけど、香盤・劇場の雰囲気・「黒煙」・「サマーチュール」の見納めと行くための理由が圧倒的過半数だったので通ってしまう。結果、いちど昼食で抜けたものの11時から22時半まで劇場に。ヘタしたら家より長く居る。
あと、前回はつかれて2回目でふっと帰ってしまったのは、もしや少し気にされてたりするかなと思ってたらその通りだったので、まあ...


今週は永瀬さん・JUNさん・アキラさんの、熟達した芸の余裕がうれしい香盤。
永瀬さんは選曲に毎演目妙味があり、それだけでも楽しい。音楽がお好きな方なんだなというのがはっきりわかる。1,4回目の「あくび娘」は有名アニメのキャラがモチーフだが、壺からディルドが出てくると、それに翻弄されるようにしてオナベに。魔術的な男性器という演出とインド歌謡的BGMのマッチングは、エロとおもしろの中間でむしろ作家的個性の手触りが残る。それは立ち上がりの選曲がキュートな昭和アイドル歌謡(このへん明るくないので不適当な形容かもしれない。そして副次的に当時15歳の女性の歌声であることを検索で知る)に振られる感覚にもよるだろう。

JUNさんの1,4回目の祭り演目はベタに盛り上がる演目でもあるのに、あの一定したほのかな微笑みは崩されることなく、煽りなどなくとも「顔で踊っている」感じにもなる。
表情でアピールしてるわけではないし、またいわゆる踊り自体の良さもあるのに、その顔に惹きつけられてしまうのはなんなのか。ギュッと空間が集中して、客席がJUNさんを全員で眼差している、という感じがあり、濃密。もちろん寝ている人もいるのだが。
花笠を袖に処理するときスススッとすり足で袖幕に小走りして、その慣性を活かしてふっと笠を手放すときのニュアンスの上品さに驚く。投げるでも置くでもなく、運動の経済性に則った仕方。望月きららさんが「歯科助手の浅川さん」で投げ飛ばす眼鏡のライナー性の軌道に並ぶ名処理。

アキラさん。どんな演目でも図々しさがあり(褒め言葉です)、さすが。
相対的に、ひとつの現場で年長となると、役割のひとつとしてそうした図々しさが必要で、自然に備わってしまうことはあると思う。そして、それを楽しく思うのが若いものの特権でもあるだろう。他方で、抜群の身体コントロールで踊りきる姿からは新鮮さが失われることがなく、踊りが好きな方なのだなと思うに充分だった。
また、それがアキラさんの創意ではないにせよ、自分が次に試してみようと思うことへ大きなヒントがあった。いつやろうかな。

 

栗橋から拝見している萩尾のばらさん。2回目の「ハート」が今までにない感触で、飛躍のある変化を感じて良いステージだった。"新人さん"というバイアスから成長とか学びとか言えてしまうけれど、自覚的にか無自覚にか、自ずと違った局面に突入してしまうのがパフォーマンスというものだと思う。
こうした感想は自分の経験をベースに感じることではあるが、だがありえないような回数の本番を重ねる踊り子さんたちは、世界でも特異なパフォーマーであり、広義の同業とすら言えない部分が多分にある(それでも投影することはかなり多いけれど)。何より、ポラでのお客さんとのコミュニケーションまで「パフォーマンス」のワンセットでもあるし。

宇佐美さん。
「黒煙」はかなり落ち着いて観られた。あいかわらずディティールで記憶違いしているところの確認もとりつつ、M2でコートの前を開いてから裾を掴んで右に扇に開いて見せる動きの鋭利さと画の強さに感嘆したりする。
コート姿でタイトに固めた(表情もまた)スタイルとキャラクターは、コートの前を開いて黒のシースルーの服越しに赤色で強調された下着が見えてもなお気位の高さを崩すことがないようなのに、実際に肌が見えると"脱いだ"という感触がすごく高まる。ただ、そこにプライベートな時間として心を許したような"脱ぎ"があるわけでもなく、単純なオンとオフの問題には還元できない。あるキャラクターの多面性ということ。
脱ぐということやエロさについて、また「人」への理解の多面性の現れにいつも驚く。宇佐美さんが曲展開に応じて演じ分ける(恣意性はみえないが)「人」の見え方の違いは、ほんとうに凄いとしか言いようがない。

ところで、この人はどうしてこんなに「動き」というものを知ってるのだろうと思う。それは技巧云々でなく、ある運動が感じさせる快楽について、生得的かつ知的に知り尽くしているということ。
これは「サマーチュール」だけど、備え付けのポールに絡んでも、ポールを軸に腕を伸ばしてする大きい旋回だけにとどまらず、慣性を活かしながら軸を移し、自分も小さく回転するという段階を作っていて、それは楽曲が要請している解釈の結果でもあるだろうけど、どうするとより気持ちのよい動きになるかという思考が形をとって、そのまま舞台に現れている。そこに至るプロセスの速さは伺い知ることができないけれど、ステージに張り巡らされた感覚の広さ(意識の問題ではない)と感覚への迷いなさが、そのまま宇佐美さんのパフォーマンスを観る快楽の深さに重なっている。少なくとも、自分には。

「サマーチュール」ついに見納め。蕨にはじまり渋谷・栗橋・大和と4つの劇場で17回観ることができた。自分にとってもっとも印象的だったのは8中渋谷初日1回目のすさまじいキレっぷりで、あの経験は一生忘れないと思う。初のかぶりを経験したのも「サマーチュール」になった。
そして、夏演目なのに雨や寒い日の記憶と結びつくことが多い。ギラギラした日にも観てたと思うのだけど、こんなに気分が下がる日なのにブチ上げてもらえるなんて、というギャップが印象強いのかもしれない。
昨日のラストはぜんぜん意識せず「あ〜楽しかった」と感想を口にしてたらしく、まあ、無意識にそんなことが口について出るくらい楽しかったんだろう。
たまには個人的な感慨だけ。

 

感染対策とか経営問題とか、絶対に重要で考えなければいけないファクターをガン無視したエゴだけで言うなら、最終回にごく少ない限られた人数で観劇するストリップはどこまでも心地良い。これも毎度言ってることだが、とても幸せを感じる。


この日の前の夜、Twitterで栗橋のステージ写真が投稿された。
何言ってもエクスキューズになるので、単にきれいで気に入ったからiPhoneのロック画面にしてみようかなと試したらとてもよかったので設定した、はいいけど、それ別に本人に言わなくてもよくなかったか...というのだけある。

 

9月19日(日)[浅草ロック座]『秘すれば花 1st』

川越ゆい(1)
ののか(1)
椿りんね(1)
沙羅(1)
宮野ゆかな(1)
広瀬あいみ(1)
真白希実(1)

 

ほうぼう(といっても数人)から真白さんは見ろ、と言われていたので。
晴天の3連休中日にしても1回目はこんなものなのか、わりと落ち着いた場内。

 

今回はほんとうに何も書くことがない。
こちらの能に対する不案内さはともかく、ふだんなら気にならないようなオリエンタリズムが気になる程度には娯楽として見るべき積極的な何も受け取れず、ただ眺めているうちにふわっと時が過ぎた。

目当ての真白さんは一景の群舞でこそ際立った存在感があり期待したが、うーん、それほどまで特権的な評価を得ている理由は掴めなかった。

2景の襤褸めいた衣装から短冊状に垂れた布がエアリーでおもしろい動きを作っていたのは目をひいた。

 

今後はよほどのことがなければ浅草からは足が遠のいてしまいそうだ。

 

9月25日(土)[川崎ロック座]

麻宮ちなつ(1)
安田志穂(1)
空まこと(1-2)
雨宮衣織(1-2)
神野ひな(1-2)
矢沢ようこ(1-2)

 

真白さんに続いて宿題然として聳えていた矢沢さんを観にいく。
さっさと中に入ればいいのに、劇場の外にいる2匹の亀の懐っこさに目を奪われてしまう。かわいい。

 

雨宮さんの選曲でオッと思うなど。自分の好みの曲がでかい音で流れる面白み。
奇数回の演目には見どころも多く、LEDのランタンを使った光の色の変化など、意外な効果の高さにグッとくる。

 

矢沢さん。どちらもご自身が出演されていた映像作品に基づく演目だが、そうした外的な要素より、とにかくその顔と手の表情の豊かさだけでステージが成立してしまうという、これこそストリップでしかありえない(そしてなぜストリップだとありえてしまうのか不明な)ステージ。驚くべきことに、ポーズは1回しか切らない。どういうことなのか...
友坂さんの"何もしていない"という密度とは質が異なる。友坂さんは実際のところ、ただ立っていようとも、その髪の豊かさを含めたシルエットの視覚性や、より微細で視覚的な経験には落とし込みづらいような肉体のざわめきが感じられるのだが、矢沢さんのそれは、もっと心理的といえばいいだろうか。こちらの心を開いていく誘いかけのような。
「顔というより面(おもて)というような...」とはどこで誰が何に対して言った何なのかの一切を忘却しているが、矢沢さんのステージには顔を「面(おもて)」にするような、造形ではない現象としての起こりが、ずっと針を振り切った形でそこにある。かつて人はこうした現象をより身近に信じてこそ神仏の似姿を描き・刻んできただろうという想像がある。

 

劇場で知人と、ふとした流れからルーベンスの絵画のような裸体画は疲れてしまって苦手、という話をしていて、しかし我が身のストリップ初体験を思い返すと、裸体に疲労感を覚えるのはごく自然なことだったのかもしれないと気づいた。
男性の裸の話題ではあるが、都内某所でカプセルホテルに泊まる用があったとき、ロビーの奥が浴場でチェックイン即複数人の裸体を視認しつつ、酔客が泊まる場所でもあるからか、それぞれのブースに寝間着からはだけた裸体が居並んでいた図に疲れ切って、ここには2度と泊まらないと決めたことがあった。
そもそも自分は銭湯や大浴場のような場も苦手であるし、他者の裸体をなるべくなら見たくないと考えているフシがある。裸体はどこか、侵襲的な性格があるのではないかとすら思う。
だからこそ、自分はストリップを見ることにおいて、「脱ぐ」という行為の価値が高いのかもしれない。現れる裸体は脱ぐ行為によって文脈化され、剥き出しの侵襲性を回避する。ストリップにおいて脱ぎ去りとは、むしろ何かを纏いなおすことでもある。
欲望の再編成、と初見の際の記録にも書いていたが、観劇経験を重ねても、この視点は変わらずにあるように思った。

パフォーマンスを終えて

その1回のために制作されるものという意味ではおそらく5年ぶりのソロパフォーマンスを終えた。率直な吐露として、今回はずいぶん苦労した。
本番を含めた出来不出来に関してはとうぜん、細々思うところはある。加えてそういえばと思い出したのはいくら本番が過ぎてもこれといった解放感などはなく、むしろ課題めいたものが片付けきれずに部屋の隅に積まれてる感覚が残ることだ。

ただ、面白かったのは、会場にいた知己のジャグラーからふしぎな感想をもらったことだ。具体的になんと言われたかは伏せる。それは私達の間でだけ意味を成す言葉のやり取りであるし、感想を発した本人にしてもそれがいったい何なのか、なぜそう感じたのか判然としていないから、ということもある。

この感想は、少なくとも自分の意識でしている範囲を超えていることについてだった。さらに言えば「作品」(自分のパフォーマンスは「作品」とあまり思ってないけども)が機能させるものでもないはずだった。
それでもそう感じられ、感想として共有されるとき、けっしてはっきりと意味が分節されているわけでない言葉が選ばれているのは、おそらく個人的な文脈もふくんだ密かな触発がなされたと思える。そうしたとき、パフォーマンスとしての役割は充分に果たせたと安心しもする。

演者と観客は、しばしば、あるいはほとんど常にどこかですれ違う。
意図の水準ではもちろん、こちらの無意識ですらなさそうな「何か」としか呼びようのない触発が、観客の内で勝手に生じる。それは良し悪しでなく、ただ生じてしまう。
この「生じ」に対して、パフォーマーはほとんど責任がないとも言えるが、それが起きたことを知り、分け合ったとき、こちらはずっと冷静でも、その「生じ」がわたしにも浸透してくる感じがある。言葉を媒介にしつつも、言葉未然の感覚の輪郭を互いに探るような時間が、ほんの短い間にもあり、実際こうして忘れがたい印象を与えもする。既にして、その「生じ」は観客だけのものではなく、お互いの謎としてそれぞれが引き受け直すことになりもする。
私は、言われたことを、ぼんやり頭に浮かべてみる。心当たりのない言葉をもてあそぶように、私の内に引き受ける。私はいくぶん私の観客になる、とさえ言える。


 

こちらの意図・意識している質を分け合うことができる喜びもある。それが具体的に何なのかは、これも伏せておくにしても、ストレートに伝わる感触は特別なものがある。

自分のパフォーマンスから、狭義のジャグリングの技巧の巧拙を読み取るだけでなく、微量ずつ存在する諸要素を、また各々の感度の高さに準じてキャッチしてもらえることがある。たとえばダンサーからダンス的なものを、ミュージシャンから音楽的なものを引き出してもらえると、単純な技巧への驚きを越えた私固有の質感が届いたのだなと了解できる。

今回はそうした固有性に関する感想を知人からもらうこともできた。くわえて、それは最大限私に好意的な観客の一部が時おり伝えてくれる類の感想であり、私が言われて最もうれしく感じるものでもある。
どうもはっきりせず、匂わせるような物言いになってしまうが、あまりそれを前提というか経験の指針にしかねないのもおかしいので、ぼかしておく。

 

パフォーマンスを制作・実演することは、単純に仕事であり、同時に喜びのひとつでもあり、それはある程度まで自己完結しているが、こちらの投げかけを誰かが捉えて、また投げ返してもらえることで、そうした完結性がにわかにゆらぐ。自己判断がくずれて、まあそれほど悪くないじゃないかと許せるような気分になる。

ことほど左様に、パフォーマンスの経験とは、パフォーマンスを媒介にした相互行為でもありうる。パフォーマンスの根拠はパフォーマーである私だが、その出来事は私だけのものではなくなる。あるいは「私」という領域が更新される。
「私」は身体や意識だけでなく「私」を見て、聞いて、感じる他者によっても作られている。舞台と客席で「私」たちは互いを見て、聞いて、感じ合っている。

この互いの"作られ"を豊かにすることがパフォーマンスの務めであり、喜びであるだろう。
そのことを、久しぶりに確認したのだった。

ストリップ劇場、愛の対象について

つい先日、武藤大祐さんとだらだら(210分間)ツイキャスでストリップの話をする配信をした。だれが見るのかと思いつつ、ある程度発言に責任を持つためにも公開していたら、アーカイブをご覧になった方からご感想のツイートをいただいたりした。いただいたりした、というか勝手に見つけのだが。

配信の後半では、武藤さんと自分の共通項である「どくんご」の話題が出てきていた。そして、ご感想のツイートでもどくんごとストリップの、劇場や旅にかんする共通性を挙げてくださっていた。
劇場という非日常空間が、そこに出演する者たちにとってはいたって日常的な生活の場であり、またその日常性が観客の非日常性に染み出しているかのようにも感じられる、という点で、寄席にも増してストリップ劇場はどくんごのテントにずっと近しい。
私がストリップを見るようになって3ヶ月、異様なほど急速にこの文化に入り込んでしまっているのは、ウェルギリウスめいた踊り子さんたちの手引が何よりの力とはいえ、そうした非日常と日常が見分けがたく絡み合った、ストリップ劇場という場の魅力によるものだろう。どくんごのテントもまた魅力的だが、ストリップ劇場にはどくんごのテントに希薄な、性の香りがある。

 
個人的な話題に踏み込むなら、自分は遠征先で夜の繁華街を散策する癖がある。大阪や名古屋の粘り強い客引きを鮮明に覚えているし、大宮や川崎に泊まればひっそりしたソープ街まで歩いてみる。近所でも、あまり用もないので機会は少ないが、わざわざ吉原を横切って目的地に向かうこともある。とくに個々の店に立ち寄るわけでもないが、なんとなくそうした地域を歩かずにはいられない。冷やかしといえば冷やかしで、褒められた動きはでないから、あまり書くべきではないのだが。
個人史として、仙台は国分町に限りなく近いところに育ち、家の周りに水商売の男女の姿を見ながら過ごしていた記憶も、こうした癖に響いているのかもしれない。いずれにせよ自分は性的な香りのする場所にシンパシーを感じている。そして、そのシンパシーの意味を自分はとても高く位置づけているが、ここでこれ以上書くつもりはないような事柄による理由も、もちろんある。

しかしながら、そうしたシンパシーには、いわゆる一方的な幻想が根強く張り付いてもいる。歓楽街に漂う特異な空気にどこか居心地のいい思いをすることには、そこにあるはずの個々の現実の程度の見積もりがない。ただイメージがあるだけだ。

    

 

どくんごは、自分たちの活動をしばしば「旅」と呼んできた。これは打ち上げの中でのおぼろな会話の記憶でしかないが、演出家のどいのさんは、自分たちはいかにして旅を実践するかであって、作品を作るかではない、というようなことを話していた気がする(そんなことは言っていない、と言われるかもしれない)。
いずれにせよ「上演」がなされるその100分に活動が収斂されていくのではなく、より広く、生活と移動のすべてに、どくんごの活動は賭けられていた。これは確信を持って思い出せるのだが、バラシの後のあまりにも見事な積み込みをみんなで眺めながら、どいのさんが、うちらが一番上手いのは積み込みだからと珍しく自慢気に話していた。

私がどくんごに対して純然たる客だったことは最初の1日だけで、翌日からは打ち上げでジャグリングをしたり、翌年は前夜祭や幕間の舞台に出たり、更に翌年からは受け入れとして制作の手伝いも行っていた。
だから、打ち上げの場で純然たる観客の人たちが、年に一度の祭りのようなものとしてどくんごに接しているのを、やや距離を持ってみていたこともある。私にとっても既にどくんごはいくらか日常的で、過ぎ去ってしまう感傷や、どくんご自体が自称しつつも「旅」というイメージからファンタジーのようなものが消費されていることに対する微妙な反感が入り混じってもいた。どうして芸人はしばしばひとの感傷を引き受けなければならないのか。むしろどくんごはそんな感傷からこそ遠い場ではないか、と考えていた。

 
自分は義務教育から早々にドロップアウトして高等教育も大学教育も受けずにここまできて、いわば「プロ」としての生活を20年近く続けたことになる。こういうと大層だけど、10代の頃なんて何ができるわけでも何をするわけでもなく、今もかわらずダラダラとやっているだけで、漠然と短くはない時間が過ぎただけだった。
時々こうした来歴を人に話すと、驚きとともに反応は2つに分かれる。ひとつはよく親が許しましたね、とか、言葉にしないまでも、そんなやつが実際にいるのかという、規範から逸脱していることへの驚き。もうひとつは、学校なんか行く必要ないよ!とか、夢のために生きていてすごい!という賛意。
どちらの反応にも慣れているので、どちらでもべつにどうでもいいといえばどうでもいいのだけど、どちらかといえば後者のほうが引っかかる、というか、認識に乖離はある。そこには、そう発言している人の何かが投影されていて、私の現実が見られていない、という感覚がある。私がこの職業をしているのは夢だったからでもないし、学校は嫌になることがあるから行かなかっただけで、あらためて他人にその意味を肯定してもらう必要もない。ただ、そう言われたからといって、今さらべつに腹が立つわけではない。

 

他方で、自分がストリップに向ける視線はどうだろう。
たぶん私は、思ってもみないほどにこの文化や場所を深く愛してしまっているし、そのとき、私が誰かに向けられるような幻想を投影していないとは、当然言い切れない。というか、しているだろう。ましてここが、自分がこだわってもいる「性」の場である限り、必定であると思う。

また、ストリップ劇場では、見る/見られるの関係が十全に機能し、日々そこへ見ることを愛する観客が集まり、その観客たちの高い集中力が舞台上に注がれる。舞台ではそれに淡々と、かつおそらく充実を感じながら応える仕事をこなす踊り子たちがいる。
私は自分の仕事をしながら、それをこそ求めていたことに、ここで気づかざるを得ない。私の仕事において、多くの場合観客の視線の存在は前提でなく、結果としてしか存在しない。職業的には当然のこの事柄について、いっこうにフィットしないところが強くあり続けたと思う。ストリップ劇場という場では、私の日々にあった欠落へと嵌るピースが揃い、一枚の絵が完成している。
日々更新される演目は、それを見てくれる観客 - 視線があることを知っているから可能なのであり、くわえて観客もまた、踊り子たちの肌に視線を向けてふざけあっているようで、踊り子が表現している/しようとしている固有の質を確かに受け取ってもいる。やたらな言葉にせずとも、"それ"がたしかに何度も起きていることを、わずか3ヶ月の間に何度も見ている気がする。

       

 

劇場に行くたび、深く幸せや感動を感じる。道玄坂を下りながら、気づけば無意識に鼻唄など歌っているとき、こんな自分がいたのかと驚かされたりする。そのことを友人たちに話せば、呆れつつも祝福があったりする。そんな出会いがなされることは、誰にもあることではないからと。
私をこんなふうにさせてくれるストリップ劇場という場には非日常な魔法があるが、退屈な日常もあるはずだ。いいこともあれば悪いこともある、単なる日々の繰り返し。これが混ざり合ってるのが劇場だった。ただ私にとっては、その混ざり合いから非日常的な側面を、あるいは日常すらひとつの幻想として汲み取っている部分がある。
この「私」というものがこの文化や場に入り込むとき、あまりにも多くの歴史や感情、立場までもが絡まり合っている。その絡まり合いをほぐすことなく一足飛びに「愛の対象」と呼んでいるストリップ劇場、ストリップ文化への幻想から「私」はどの程度逃れきることができるのだろうか。愛の対象からイメージという重責を取り払うこと、とバルトがどこかで書いていた気がする。

 

こう書いてきて、最後になにか決意があるわけでも何でもない。通えば、変わらず劇場にときめくような思いがあり、好きな踊りを見たなら幸福に打たれるに決っている。そうした経験に自分の幻想がフィルタのように張り付いていて、いっこうにふさわしい現実を見せてくれないままなのも変わらないだろう。しかしいつか、そうしたものも色褪せて、落ち着きをみせてくるに決まっている。


その時にあらためて出てくる言葉や足取りに期待がある。その言葉や足取りこそが、よりいっそう自分には本当らしいものになるだろう期待。それが、今はある。

ストリップのきろく 2021年8月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

文字数が膨れすぎているので別のかたちも勘案中...

 

 

 

8月5日(木) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (1)
Kuu (1)
KAERA(1-2)
瀬能優 (1-3)
宇佐美なつ (1-3)

 

聞きしに勝る狭さ。狭いっていうか、ヘンな雰囲気。
雑居ビルの階段を登り、受付を越してまた階段。右手の入口のドア(木の、押しても引いても開くようなカウンターとかについてそうな構造に近いやつ)を開けると、左手に花道と、その先端に長方形の盆が目に入る。驚くのは、それを囲む15席前後の客席とほとんど同じ高さということ。本舞台は三方鏡。広さは一間半程度しかないのではないか。出ハケは中央奥。黒い幕一枚で仕切られている。天井も低く、背の高い踊り子さんだったらヒールは履けないだろう、というほど。
それにしても、人と人がこんなに近づきながら「触れない」ことを前提にしている環境が他に思いつかない。

このご時世なもんで、今日は出入りを多くする。セルフ換気。

大ベテランにお見受けする夕樹さんの踊りが、年月の積み重ねによる経済化がみえて、面白い。ゆるいわけでもなく、最小限の手数と、何より顔さえ作れていれば常に決まる、というワザ。日本人なら誰しもが知ってるだろうというような大ベタな選曲も、ストリップならではの強度になる。
タッチショーもある。断るほうが恥ずかしい雰囲気。

瀬野さんの1回目のベッドが記憶に残る。花道のふちギリギリまで攻めると、むしろ客席に緊張がある。眼下に触れることのできない肉体があるという不思議さ。

宇佐美さんは「うそつき」「サマーチュール(新作)」「ユキちゃん」全部初見で至福。
「うそつき」は麦わら帽子っぽいハットにガーリーなフィッシュテールのワンピース(「サマーチュール」と混同してるかもしれない)。そこにキツネの耳と尻尾がついたキャラ。聞くのを忘れてたけど、ベルトも毛足のついたもので、尻尾はそこに装着してる感じ?
このキャラでどういうふうに展開していくのかなーと見守ってると、M3(たぶん。あやふや)の途中でハケて、何も変わらない様子で戻ってくるが、ハットを取ると、耳が消えていて、さらに尻を撫でると、尻尾もなくなってるという見せ方。これがふしぎと妙にエロ。何やっても頭いいなーと感心してしまう。
あまり選曲とチューニング合わせられずだったけど、ポーズベッドは相変わらず最高。宇佐美さんの選曲は間違いなく抜群のセンスだが、個人的な趣味とはすれ違うことが多くて、それゆえにノり損なったり、逆にその後すごく好きになったり、いろいろある。

「ユキちゃん」は実質的なデビュー作。人気もある演目で見るのが楽しみだったけど、これが作家としてのデビューって、腹据わってんな!という第一印象。2年経った蓄積もあるにせよ、脱ぎの見せ場もオナベも、元からやってたんすか?という。しかしデビューから小道具でコンドームとか使うんすかね。

曲で歌われる「ユキちゃん」を演じてるようで、何か違う誰かが「ユキちゃん」について歌って(演じて)いるようにも見える。またしかし、後半セーラー服から一転して白いドレス(下着とチョーカーは黒)で、歌われていたはずの「ユキちゃん」から離れてる時のほうが「ユキちゃん」そのもののようでもあり、アイデンティティが役柄の隙間を泳いで揺らぎ続ける。

とはいえ、要素が多くて、ストレートにピークを目指して進んでいく構成とは演技バランスがまったく違うだろうし、パフォーマンスするのは難しいだろうなとも思う。

個人的な白眉は新作の「サマーチュール」。"チュール"がM1の曲名と掛かってて、また2周年作とも選曲に繋がりがあって、遊び心。フルーツ柄の衣装はいかにも夏演目。

M3から水着姿での脱ぎがはじまるのだが、蕨仕様なのかとにかく最前の客に絡む。この視線のやり取りと焦らすような感じはむしろオーソドックスな手つきなのに、宇佐美さんが仕掛けると作品的な攻めにもみえる。
自分が見始めたタイミングが特にそうだっただけなのかもしれないが「黒煙」「Spring Vision」「Positive」「Bubble」いずれにしても、きわめて再現性・完成度が高いパッケージになっていて、あまり偶発的な要素は入る余地がなく、堅牢な構成力に唸るのみ、という感触がある。
それが、観客へ介入することで構成の枠組みがふっと緩まるようで、またその緩みにこそエロさが滲んでくる。結局のところ、エロさとは他者性の受容でもあるが、宇佐美さんが客の視線という現象を舞台上に顕在化させる(宇佐美さんが客に媚態をもって仕掛けることで、宇佐美さんを「見る」客の視線が摘出される)ことを介して、それを行っているのが新鮮。今までの演目で見る/見られるの関係は、舞台/パフォーマンスという形式の周りであくまでも抽象的に展開していたように思えるが、具体的な観客の存在にアプローチしているのは、比較的珍しい(過去に例があったか知らないので推測)はず。とはいえ、イニシアチブは常に宇佐美さんのもとに保たれているし、他者が招く偶発性でなく、偶発性が生じる予感のようなものがぴりぴりと伝わってくることに新味があったのだろう。

メロウなトラックで上の水着を外すとき、今まで見てきた宇佐美なつの中でもっともダイレクトなエロさを感じる。誘惑的な積立も相まって、かなりセクシャルな「体」という感じ。つい思い出してしまったが、あらきまいさんのOPのときみたいな感じもあった...
こういうと変だけど、何十回も見たはずの裸が、まったく真新しいものに見える。

ポーズベッドはそれまでの夏!爽やか!でも夜は少しエロ!みたいな流れをぶっちぎって、突然ドラムンベースみたいなトラック。この選曲センスが本当にすごい。
ただ、脱ぎにあった繊細なエロさに比べて、爽快なポーズの連打で押されると、ちょっとだけバランスが崩れてるようにも感じた。が、再見まで保留。相変わらず初見では細部まで取りこぼしなく見ることができないし記憶も定かでないので。

これはもし7中で連続してみてたら、宇佐美さんの印象がまた変わっていたかもしれない。3演目ともまったく違った表現の攻めがあり、作家/パフォーマーとしての幅広さを一度に見せられたことになる。他のどこの業界にこんな才能のある人がいるんだろう。
いやー、想定されてたはずの、道劇のサイズで早く見たい...

「盛れる」劇場とのことだったけど、間近で裸を見てると、(本当に今さら)こんなにきれいな体なんだなと素朴な感想が出てくる。というか、3ヶ月とはいえ通いこんで観てると、また自分の目や感覚が変わってきていることに気づく。単にかわいくみえたり、裸の美しさに見惚れたり、エロさが感じられたり、原初的な感覚に遡って開かれる。こういうことが、他のパフォーマンスやジャンルで起きたことは、あまり思いつかない。

時々もうさ、宇佐美さんだけ観てりゃいいよね...というふうになりかけるが、あまりそういうスタンスになるべきでない。好きな人やものこそ、他と対照してナンボであるから、変わらず色々な踊り子さんを観ていきたい。が、繰り返して観たくなる誘惑に抗いがたいのも事実...これは自分のクセのようなものでもあると思う。


7中あと、完全にロスに入ってしまったことを軽く話したら、それ聞きたかった!と目を輝かせて満足げにされたのが何か悔しい。

 

8月9日(月) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (-)
Kuu (3)
KAERA(3)
瀬能優 (1,3)
宇佐美なつ (1-3)

 

今のところ蕨でしか出してない"ユーレイ"の演目があるとのことで。
前日にご本人にお伺いを立てたら、音響が思わしくなくて出す確率は低いと。そうかー、またの機会に楽しみにしておくか...

と、行くつもりはなかったはずの月曜。ウーンと迷って気づけば電車に。しかも間に合うかすごいギリギリ。。必死こいて乗り換えて5分縮めたのに、3分電車が遅延。いやしかし押し進行だろう...と楽観視したら、そのとおりであった。
「ユキちゃん」も「うそつき」も2回くらい観ておきたかったのと、道劇前に蕨サイズの「サマーチュール」ももう一度、あとなんだかんだ休日の蕨のようすを体験したく。評判通り濃い感じでいい塩梅。


1回目は「ユキちゃん」。衣装替えして以降の格好良さに打たれる。下着の脱衣も、立て膝の脚を押しやっての開脚も、そこからのポーズのシークエンスも、いちいちがカッコいい。なんなんだろうかこの人は、と、飽きずに思う。
この「カッコよさ」は演目に起因するものでもあり、自分が宇佐美さんというパフォーマーを統合的に処理して感じているものでもある。だから、観客全員がある程度均一に感じ得るはずの性質一般を越えて、宇佐美なつという固有性にコミットしている「私」が、その他さまざまな条件の絡みあった只中で光明のように感じ取っている「カッコよさ」であり、それはおそらく分配不能な事柄である。だからこそ、この「私」にとってなおさら重要な感覚なのだとも言える。


2回目「サマーチュール」。前回感じたM4でのポーズの違和感は払拭。爽快さの合間で、サスペンドされていた誘惑的なトーンを、ポーズとポーズの合間を泳ぐ(「泳ぐ」という比喩が前回に続いて出てきている)ように動かしている。
ポーズ中に衣類が完全に離脱してるのはもしかして珍しい?そこも、この演目、ひいては宇佐美さんのスタイルの反映であるかに思える。焦らしと開放が背中合わせで、互いを行き来するような、いつもの感触。


上の水着の脱衣、ひもをすーっと上に伸ばしていくところに強く宿る官能。ぞわぞわする。


3回目、瀬能さん。M1で、夕樹さんとコラボが。夕樹さんが完全に踊りこなしていてすごい。そしてこういう遊びは楽しいし、すでに懐かしくもある。フェス出たいですね...


3回目は"ユーレイのやつ"!
「うそつき」を観る気で待っていたら、本舞台の奥の幕からニュッと腕だけが現れる。三方の鏡に腕が増殖する。定番のヒュードロドロというSEからM1へ。全身を現すと衣装は白いワンピース。太めの黒いベルトがアクセント。暗色の照明が幽明を境にして踊る姿をおぼろにしかけるが、衣装と肌の白さが対比的に浮かんで美しい。
ベットになると、ここにいない誰か(我々には幽霊だけが可視化されているという反転、我々もまた半ば死んでいるかのよう)にむけて腕を伸ばして背中から抱こうとする振付がある。冒頭で提出された腕の主題がここでリフレインしつつも「出現」する腕が「消失」を表現する腕へと変化し、意味を揺らしてくる。見えない体を抱こうとする腕は対象をすり抜けて自分自身に纏つく。伸ばす腕は何かを求めつつ、一向に掴めるものがない。
宇佐美さんの「幽霊」はかように、ストリップにおける観客と演者の非-接触の渇きをパラフレーズする存在でもある。

この演目、あくまでも仮出しでM1以外の振付はほとんど即興的なものとのこと。だから、こうした読みは作家の作為を解すものではなく、あくまでも作家の直観を肯定的に前提したうえで、ひとつの解釈を作っているにすぎない。それは恣意的にならざるを得ない部分があるにせよ、即興=作為未然のもの、とだけ措定してしまうと、演目は空中分解してほとんど無意味なものになってしまう。仮止めされた演目が上演可能なように、それに対してさらに仮設的な解釈を与えることは、可能である。


最後、音響トラブルで音源を停止して、生歌で踊り切ることに。歌もうまい。余談だけど、宇佐美さんは声がいい。


観られないつもりのものが観れた嬉しさに、ついヘラヘラして俺のためにありがとうございますと軽口を叩いたら「全然そういうんじゃないんで」と窘められる。

 

8月11日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(1)

ささきさち(1)

石原さゆみ(1-3)

宇佐美なつ(1-4)

 


大きな予定が飛んで、また別件で午前中に渋谷にいる。これは行けてしまうのでは...と朝から考えて、行く。2日ぶり...

場内想像を遥かに超えた混雑ぶり。ゆったり観れる目算が崩壊して引いてしまう。2回で帰ろう、とこの時は思っていた。結果、ラストまでいてしまう。


6月以来のささきさちさん。前回もかなり印象的なパフォーマンスで、再見を楽しみにしていた。
ラメの入ったブルーが爽やかで夏らしい大きなドレスからはじまり、下に纏っていた光沢のある白い生地の布が、脱衣ごとに形を変えてシーンを作っていく、凝ったアイディア。
ラストのポーズベットで選曲のギアがガツッと変わり、前回の印象と違わぬエモーショナルな演技。この情動の出方がとても「アイドル」っぽい。


自分のルール上、一定の面白さを感じたらポラに行くようにしてるのだが、列形成が止まらず、ささき登山の様相に思わずまたの機会にと失礼してしまう。すごい人気。


石原さゆみさん。
1回目は男物のジャケットだけを羽織ってパフォーマンスするベットのアイディアになるほど、となる。でも、もっとエロティックになるかなと期待(?)するが、穏当に終わる。しかし2回目3回目と大掛かりな小道具が増え、かなり趣向を凝らした演目を作る作家性のある方と理解。踊りそのものも、とても良い。
とりわけ、2回目の映画ネタは冒頭から幕の開きでスタンダードサイズのスクリーンを模する凝りよう。ポーズはそれまでの演技との連続性をいったんカットした上で、カーテンコール的な高揚感のもと演じられる。
3回目はさらにすっとんだ「カレー」ネタ。真顔で大量のギャグがぶち込まれてどこまで本気なのか分からないほど。中盤以降は袖から巨大なナンが引きずり出され、盆を専有する。歌詞とも微妙にかかってる。ナンに座りながらスプーンを舐めると、スプーンがでかくなる。※こちらカン違い。照明の問題だったようストリップの奥深い世界。
おしとやかなルックスから、望月きららさん(望月さんがおしとやかでない、ということではないです。いや、どうだ?)ばりにしょうもないネタが連発するのだった。闇に光るカレー皿...


石原さんもとてつもない人気。OPで、かぶりの客の肩に足をかけて股間に引き寄せるワザに笑う。


宇佐美さん。
今回は具体的な感想を書くことがほとんどできない。

1回目の「サマーチュール」は、ステージの広さでM1からこんなに違って見えるのかと驚くけれど、何より初回からこんなにキレキレで踊る宇佐美さんを観たことがなかったかもしれない。振りのボキャブラリが大きく変化してるわけでもないのに、過去の演目と比べても、とりわけふっといグルーヴが作られる。この辺はまだまだ正気。

M2も、"花火"を客に促すくだりが、大きくとれた余白によって絶妙な画に。まだ正気、のはず。

M3、正気を失う。よく考えてみれば、今までの前後半で起きていたモードの変化が、今回は三段構え的に移り変わりが起きている。変身がいつもより一回多い。あと、蕨から衣装の脱ぎが一回増えている。
こうした変化の豊かさも、印象を深くするのに手伝っているかもしれない。
とにかく脱ぎがエロすぎる今回、ホットパンツの紐を伸ばすとき、男性器が(「を」どうこうするのでなく)そこにあるようなニュアンスを見てしまう。多重露光で重なるダブルイメージのような。

はじめて回転盆も善し悪しだなと思ったのは、世界一エロいブラの脱ぎが角度によってさっぱり見えないところ。2回とも見られなかった。すごいもったいない。見せてくれ、乳を出すところを。

この辺りでほとんどクラクラしてたけど、道劇音響であのM4からのモードチェンジを聴くと、本当にブチ切れそうなくらいアガってしまう。さまざまな感情や思いが体の底から迫り上がってきて、ポーズの素晴らしさ、体の美しさ、パフォーマーとしての芯の通り方、すべての肯定的な気持ちが渾然となって泣きそうになる。ひとつの強度が磁力を持ち、自分の何もかもを巻き込んでいく。
これも相性としかいいようがないのだけど、しかしどうしてみんなそんなに平然としてられるのか不思議な感じもする。あんなにもすごいものを見て?

どこかに寄りかからないと立てないほど溶けてしまい、同行していたスカーレットさんに何か話しかけないと、と思っても言葉が詰まって喋れなくなり、あまつさえ泣いてしまう。まさか既知の演目でこんなに食らってしまう予定はなかったし、過去トップクラスの身体反応になってしまう。

2回目、かなり見たかった香盤なのにこのあと何も見られる気がせず外に。外に出てもすぐ黙りこんでしまうし、体のあちこちがジンジンとしびれるような感じが残る。30分経ってもぼけーっとしてしまう。これ、なんだっけ...と個人史を探ると、どう考えても最上級に上手くいったセックスのあとのやつだと認めざるを得なくて、困ってしまう。


まあ、相手はプロだしと思ってその感想は伝えた。冷静に考えると、またとんでもないことを言っている。


「Positive」でも案の定堪えられず泣いたとか、「w-e(n)dding」で疲れた(ベットがいつになく生々しくて余計つかれた)とか、感想はいくらでもあるのだが、1回目の出来事が強すぎて、それさえ残しておけば自分にとっては充分。



よく現場でお見かけする方に声をかけて、ロビーであれこれ宇佐美さんの話をする。知り合いが少ないから、とても楽しい。好きな演目の話で「黒煙」が挙がる。自分が初めて観た演目なので、なぜかそれも嬉しい。いつかまた観たい。


そうして話していてなんとなく思ったけど、いや、ずっと思っていることだけど、こうして明らかに強すぎる愛着をもって、かつ平均から多く外れて感想を伝えたり書いたりしていて、負担にならないのか、それだけは気になってしまう。思いがけず誰かの強い愛着の対象になってしまうことは、必ずしもいいことではないし、いつまでもこんなテンションでいいのか...というのは考え込んでしまうことがある。


にもかかわらず、今日の一回目の感想は流されたくないなというエゴがすごく働いて、ラストのやりとりで覚えてるか訊いてみると「面倒くさいオタクが言いそうな感想でしょ、覚えてるよ」とあまりにも的の真ん中を射抜くコメントが返ってくる。面倒くさいオタク、本当にそれすぎる。あと、余計なものまで読まれていることが分かる。



ところで、宇佐美さんの表情がオーバーアクト気味では、と言及する感想をちらっとみかけた。実は、最初の頃自分も少しだけ似たようなことを感じることがあった。
宇佐美さんの表情はどれも印象強く、またそれがはっきりコントロールされて打ち出されてるのも分かるだけに、複数の演目をまたがって表れると、ある程度の均質化を免れない部分があるにはあると思う。けれども、それを否定的に乗り越えて成長することを望むのでなく、むしろその資質の批評的な展開が、本人のうちから自ずと説得的に提示されるとのだと、いつしか理解を修正していた。
たとえば「Bubble」のM1では遥かに予想を超える量のバリエーションとスピードが、ほとんど"顔芸"の域で作動しつつ、しかし下品さはどこにもない不思議なニュアンスを出すことに成功していたし、「w-e(n)dding」のベットでは圧倒的なリアリティを切実に訴えかける表情にもなっている。ある表情の表れが一義的な意味の押しつけになることは多々あるにせよ、宇佐美さんの表情がそうでしかないとは、ちょっと思えなくなった。
オーバーアクトだと思うのはわりと簡単なこと(ある種の規範を任意に適用すればよい)でもある。しかし、一見して過去の蓄積から対照して疑問に思うような表現でも、かなり可能性の余地があるのだ、と、宇佐美さんを観ていると思う。だって、あんなに退屈なはずのオナベがあんなことになるなんて、誰が想像できたというのか。

もちろん、宇佐美さんに肩入れしているから、チャリタブルに見すぎている、というところもある。けど別にどうしても擁護したいわけでもないし、疑問があれば書くし言ってるつもりでもある。まあでも基本的には、死ぬほど好きだ、と常に思っている。

 

8月13日(金)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(1,3)

悠木美雪(1,3)

ささきさち(1-3)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。


美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。
これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。


ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。
一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。
そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。
『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。


石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。
しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。


石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。


宇佐美さん。
この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。
しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。
自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。


「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。

この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...

さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。


「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。


...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...

 

8月15日(日)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(4)

悠木美雪(4)

ささきさち(1,3,4)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

雨の渋谷へ。遠征中の友人も来れるかも、なので待ち構えたが予定噛み合わず。ぜったいハマると踏んでる人なのだが...スカーレットさんも初回だけ観劇。

最初こそそれなりに混んでいたが、じょじょに人が抜け、2回目から座って観られる。しかも回を追うごとに盆へ近づく。ラストはなんだかんだ初の道劇かぶり席。下手端。


石原さゆみさん。
1回目が「盆カレー」。M4のバカさ加減に躊躇なく振り切れる胆力が芸人。カレー皿の上下にLEDライトを仕込んで光らせたうえ、スプーンで縁を叩いて手拍子を煽る、というシーンのどうしようもなさ。客はそりゃあ喜ぶ。自分はそれが近すぎて、かつ遠い、という感慨がある。あまりに同業者感。
シャレた志向性を持つことの凡庸さを思う。自分はこんなふうにベタに突っ切ることはぜったいできない。


この回、踊り子さんがお勉強にいらしていた。こういう、演者が舞台を観ている姿がとても好きなので、つい様子を伺いそうになるが、控える。


和装演目。コレに関してはすっかり好きになってしまった。選曲のほとんどにテレビやラジオを思わせるルーツがあり、「夜明け」「日本」という歌詞の主題よりその大メディアのダサさが勝ってくる。
だが、下世話に堕していかないのは、どこまでも冷めた石原さんの表情のおかげだろう。だが、ポーカーフェイスから、一拍おいてニッと微笑むのが見せ場。その呼吸には漫画やアニメでしかみたことのない非現実感がある。石原さんにはどこか現実離れした空気感が漂っている。


パーソナリティの特異さについ思いをめぐらせるが、娯楽作品としてここまでサービスでき、かつ構成や演出の端正さも備えてるという人が、そうそう思いつかない。ストリップに行くと、こういう水準のものに頻繁に何度も遭遇してしまう。


オープンショーの多幸感は今日も変わらない。ラスト回、チップをお渡しすると、例の腕を合わせる挨拶に参加する。見ているよりずっとヒットが強くて、長袖だったのに石原さんの骨がはっきり当たるのが分かるほどだった。

宇佐美さん。
1回目の「サマーチュール」。水着は3日目4回目から出された、上はM1のときのフルーツ柄で下が無地にヴィヴィッドなオレンジ色のもの。水着の形状が違うので上の脱ぎは前開きになる。いつものバージョンのほうが断然にいやらしいが、下はなんかこっちのバージョンのほうがエロい、気がする。さすがにこれは好みの問題でしかないか...
どれもこれも好きすぎて演目にランク付けすることに意味はないが、「サマーチュール」は相当好きだ。今までの演目には希薄な要素(「w-(e)ndding」は別として)に思えていた、エロの要素をはっきり感じられる演目が好きだと思うと、不思議な気もする。


「positive」は、毎回楽しそうでいい。いや、なんという自堕落な感想。。
けど、こんなに楽しそうに踊りを踊っている人を、じつはなかなか見ることができない。この演目で宇佐美さんのテンションの上下を感じたことは、たぶん一度もない。毎パフォーマンス、演目に求められているだろう踊ることの幸福感に接しているかにみえる。
ひとが嬉しそうにしているとき、思わずこちらも釣られて嬉しくなってしまうし、そこに音楽の高まりが加わることで、ほんとうに幸せでいても立ってもいられない気分になる。あんなに音楽の快楽と喜びを上手にキャッチできるダンサーは宇佐美さんをおいて他にいない。
たとえばボーカルがシンガロングするとき、相同して上に向かって伸び上がる脚があるが、一気に上げきるのでなく、客の視線を釣り針にひっかけるようにした"タメ"が確実にある。この絶妙さになんども唸ってしまう。あと泣く。


「w-(e)ndding」は、今回始めてオナベに心地いい感覚があった。といっても、なにか当事者性に巻き込まれるような切なさは絶対にありつつも、
それが緊張に向かうのでなく、不思議と湯船に使ってるような気持ちよさのまま観ることができた。これがなぜ感じられたか、なにが原因か、そういうことはたぶん突き詰めようがない。香盤の流れや客席の雰囲気、こちらのコンディション等々。合理的に言い得ない部分の出来事だが、経験の変質は間違いなく起きている。幅を知れることが大事。反復して観ることの醍醐味。


4回目の「サマーチュール」。思いがけずかぶりが空いてたので、どうせならと前に進んで一瞬後悔。これ、こんな位置で見たらヤバいのでは...
予想通り、こんなに近くで観るものではない。最前の距離では空間の余白がほぼなく、ダイレクトに体を見つめ続けることになる。舞台のフレーム感覚は完全に崩壊する。それだけでなく、この演目はバッチバチに客と視線を交わして遊ぶ演目だけに、自ずと参加意識も高まる。通常の鑑賞の姿勢が全然役に立たない、まったく違った体験。素朴にドキドキして、単純に照れ続けてしまう。

「サマーチュール」に関して、エロいエロいと言い続けてるけれど、既視感のあるエロさでもありつつ、やはり優れたストリップがそうであるように、未知のエロさを拓いている演目でもある。
まずもって、あんな水着の脱ぎ方ができる人間は世界にそうおらず、そもそもごく基本的なこととして、観られる裸を構築している段階で、それは現実の性関係の場とまた違った水準にある裸である。
が、そういうことをついすっとばして忘れかけてしまうのがパフォーマンスの強度。それでも食い下がるが、これは現実の経験に近しいところへ落とし込まれるのでない。自分の照れや緊張は、かつて経験したことのようで、やっぱりどっかで質を違えてる、と思う。やはり、互い(客席/舞台)で、理想のエロさを追い求める感じがある。
たとえば一方的な媚態の受け取りとして実際の強い性欲が喚起されるなら(もちろんそうした性欲は否定されていないが)、それは"生殺し"としての不満足感に繋がるけれど、観劇にはあきらかにすぎるほどの満足があり、昇華がある。
加えて、理念にとどまらない、性行為のシミュレーションが身体に生じてもいる。観終わってからしばらく経ったあと、自分の過剰な手の暖かさに気づく。初日の1回目ほどでないにせよ、こんなにも頻繁にセックスの後の状態がトレースされるダンスが存在するという事実が、おもしろすぎてしまう。非人称的なセックスがある。


M1で帽子を被せられる役になった。「(歌詞にかけて)「冷静じゃない」人いるわ、と思って」と。ここで"頭がおかしくなる"としょっちゅう書いてたせいだそう。ブログに感想を書くと帽子を被ることになる。

 

ロビーで石原さんのファンのおじさんたちが、使っていた曲や次の演目についてあれこれ話していてかわいかった。ほとんど石原さんしか観ていないお客さんもいたけど、ひとりの踊り子さんだけを観つづけるのも、それはそれで一途でなにか悪い気がしなかった。

 

8月18日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(-)

ささきさち(1)

美らかのん(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

 

制作の進捗が芳しかったので、つい渋谷に。
たぶん、道劇をカフェかバーかなにかと勘違いしている。

しかし今日は制作のあとなので、初心に帰ってひさびさ勉強モードで。
というか逆に、最近がいかにズブズブな溺れ具合だったかに気づいたりする。

ただそんな勉強モードも最初だけで、結局途中から気持ちよくなってふわふわしてしまう。「サマーチュール」がほんとうに好きだな俺は...それでも何か得ようと、直後のPC作業に向かう前に、ちょっと快感を切り離して粘る。

 

たぶんこれは宇佐美さんのクセみたいなものだと思っているのだが、演技中、不規則にではあるがしばしばビートに対して顔でヒットを打つような仕草がよく見られる。これがずっと気になっていた。その仕草はクセに見えつつも、ある効果を与えている手触りがある。

まず表面的には、絶えず動いているぶん、視覚的な単調さを免れる効果はある。同時に、その仕草が音楽と相同している限りにおいて、観客の意識を音楽のほうへとフォーカスさせ得る。ダンスの振付がそうした効果を担う本流ではあるのだが、手振りやステップが止まる時間...つまり衣装の調整や盆でリズムと遊離して脚を揺らすシーンなどにおいて、このヒットが「聴取のモード」を保持しつづける。
音楽への聴き取りの促しはしかし、別に宇佐美さんから観客へとそう強く求められているわけではない。ヒットはごく自然に表れる(とはいえアドリブとはまた違う)。だからこそ機能し得る。
この仕草は、それが厳密な構成の一部ではないからこそ、生な身体にいくぶん近い。構成という共有物を越えて、ほのかに香るがごとき"宇佐美さんの音楽の聴き取り"へと、パフォーマーがいまどのように音楽を聴いている/感じているかへと、ふと感覚を重ねるように同期的に伝わってくる。こうして意識は音楽へと向けられるものの、パフォーマーからも離れきらずに、第三の「音楽/体」の関係に、部分的ながら参入するような感じがある。

おそらく自分がこだわってるのは、おそらく宇佐美さんなら「あなたと私の物語」というところの「と」をつなぐものが、音楽でもある、という点。何より他のどんな踊り子さんを見てもこんなに音楽を感じることはないし、音楽を感じ合うことで「あなたと私」の関係の足場が築かれてる、という話を、宇佐美さんの感想で何回も繰り返した気がする。
まあ、ちょっとしたクセから穿ちすぎている気はするものの、ひとまず手がかりのようなものとして。

ところでデニムの脱ぎがどんどんエロく感じられるようになってきた(ご本人もこだわりはじめているとのこと)...あれは本当にすごい。それこそ「顔」がいろいろな表情を持つように、「尻」や「胸」も豊かな表情を持つということ。


「positive」は今日も幸せでした。今日は泣かないな、と確かめるように時間がすぎていくが、最後また泣いてる。爛漫たるダンスの歓びがいついかなるときでもステージに咲き乱れる。毎回言うけど、こんなものを見て平然としてるほうがおかしいんで!
しかしいっぺん「俺が見てる宇佐美なつ」を宇佐美さんに見てほしいくらいである。


本筋とは関係ないというか完全に余談だけども、自分はあるパフォーマーの信頼の基準に「他人のパフォーマンスを観るかどうか」というものを置いている。
これはほとんど絶対的で、他人のパフォーマンスを見ないやつは大抵そいつ自身の芸もぜんぜんダメで、優れた能力を持ってる人ほど他人のパフォーマンスをよく観ている(自分はといえば、すぐ判断してしまうので、時間の無駄を感じたら離脱することが多いが)。
それで今日ちょっとした会話のなかで、宇佐美さんも頻繁に「お勉強」をしていることが分かって、勝手にすごい嬉しくなる。もともとお客さんだから当たり前とはいえ、そらそうですよねーとなった。

単純に、またしても自分のなかで信頼が増してしまった...という話でした。

 

8月19日(木)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(2-4)

悠木美雪(3-4)

ささきさち(1-4)

美らかのん(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

ひとり楽日。
頭からぶっ通しで、とはいかないが2回目からはほぼ全通しで観られた。
場内もさすがに落ち着いてきて、前半なんかむしろまったりした感じも。とくに体調にも何も問題ないはずなのに、集中力切れるところ多くて残念な気に...3回目がはじまるまで1時間以上間が空いたので、それらしいものを飲んだり散歩したり、最後は呼吸を整えたりしてコンディションを戻す。

美月春さん。
とくに4回目の「truth」が爆上がりのパフォーマンス。スイッチが入ったときの美月さんはなにもかもかなぐり捨てるようなテンションで踊り切る。かといって自己陶酔的ではない。「漫画家」はとにかく脱ぎまでドラマを積み立てる。その「いつ脱ぐんだろう」という期待が、まさしく連載漫画の引っ張りのごとし。
いつも思うけど、オープンショーがとても好き。オープンショーはとにかく踊り子さんの人柄が見える時間だけど、美月さんは"オープン"する形式より、とにかく"踊る"ということを念頭にこの時間を過ごしているかにみえる。

ささきさちさん。
「海」のオナベ事後の時間の使い方は先に書いたけど、このオナベ事後にかかるときに入ってくる次の曲が、"まちがって曲出ししてしまった"ような感覚になる。本来もう少し遅れて入ってくるような曲が、ずれ込んで先回ってるような予定調和の崩し。細かい仕掛けをそこここに利かせていて、他の演目も気になる。
細かいといえば「ブランニューデイズ」の後半、片足の靴のストラップが外れているのに昨日気づいて、そのときはたまたまかと思って今日も見るとやはり外れている。細かい見せ方だなあと驚きつつ思っていたが、3回目を注意深く見ていたら、どうやら自然と(?)外れてしまうようだった。いくらなんでも手をかける動作に気づかないことはないはずで驚いていたが、こういうこともある...

宇佐美さん。
1,2回目、前述のようになんだか集中力がなくてうまく見られず...どちらももちろん面白いけど、いつもより届く部分が浅くて、始終変な感じになってしまう。2回目の「positive」なんて、いつも以上にキマっていたように見えるのに、めちゃくちゃくやしい。
横から見てると、振りの形がとれないぶん、ダンスの力の流れが具体的に見える。手を握り込む動作や、腕を広げて盆を周る動きに、猛烈に生き生きしたものが感じられる。

3回目「w-e(n)dding」は、今まで見たオナベとの差に気づかされる。
オナベを見てると、展開的にも動作的にも、え、急に?という違和感が勝ることが多い。大きい手の動きはサービスというか型のようなものなのだろうけど、シンプルに痛くないか...と思ってしまうし、やはり快楽を得るまで急展開すぎて、いまいちよくわからない。
一方で「w-e(n)dding」では、オナベの入りは実にゆっくりしているし、そしてあんなにハードな印象だったのに、よく見ると手の動きそのものはむしろ小ぶりだったりする。かわりに鋭角なまでの体位の遷移がいくつもあり、そのエッジの立たせ方が、あまたあるオナベと決定的に質を隔てているように思う。
また、前回書いた痙攣的な「ヒット」は、このオナベでそのまま音楽の聴き取りと性感とが未分の領域にあることを証明するように、増幅的に演じられている気がする。自分は音楽を聴くことには多分にセクシャルな要素があると思っているけれど、それがこうしてオナニーと直結しているかのようなあり方を見ると、あらためて深く感動させられる。

ラスト、「サマーチュール」。まさかのかぶりドセンが空いたので、図々しく入り込む。さすがに前回ほどではないけど、やはりかぶりは出来事の意味がまったく変わってしまう。
今回はセンターだから踊りの形の部分もある程度取れているけども、ベッドで手足を大きく振ると、ほんとうにこちらに当たってしまうギリギリのところを掠めるようで、それによる触覚的な感覚がずっと大きい。
現象として何というものなのかわからないが、触られてないのに指先を近づけられるだけで触覚が過剰に反応してくすぐったい感じになってしまうようなことが、ひたすら起きて、あきらかに性感に近づいている。ああ、風俗なんだなーとこれもあらためて思う。

とはいえ、単純に首も疲れるし、そうした触覚的な体験だけ追う気にはなかなかならない。かぶりはまあ機会があってもそんなにいいかなという気もありつつ、宇佐美さんの好きな演目でこれを体験できたのはラッキーとしかいいようがない。ご褒美(何の?)だと思うことにする。


今週というか今月、思ってもみないハイペースで通い続けてしまい、ちょっと反省する。体力や時間、金銭的に無理をしたことはないものの、なにかうまく言えないがうーんとなる。
むしろ毎回があまりにも楽しく特別であるために、劇場に取りさらわれていく気持ちにもなる。得られるものが多すぎるあまり、そこに浸りきっていたいと感じるし、事実浸りきるようにしたおかげで見えたこともたくさんある。が、見えなくなることもある。
また、こんなに肩入れしている人に一日おきに相手してもらえれば楽しいに決っているし、それが終われば当然さみしさもある。それでいいのかとちょっと悩む...

もっとカラッと、こうなりゃ皆勤だー!というふうにいければ逆にいいのだけど、なんかこう、久々にじめじめしてしまう。というか、根のじめじめした部分が浮いてきてしまった。ひたすら楽しかった一方で自省もある8月の頭と中だった。

 

...と、書いてから2時間たち、そういえばカラオケバージョンのオープンショーのこと書いてなかったなと。
お遊びといえばお遊びでしかないけど、この日のラストは宇佐美さんがマイク片手に歌いながらオープンショーをしていた。しかしまあその楽しそうなこと。客席も大ウケ。
この日は進行が押して時間も遅かったし、席も最後は決して大入りでなく、すこしさみしいくらいだったけど、こちらとしては少人数ならではの親密さのある時間だったと受け取っていた。満員の客席では出せない空気というのは、それがどこにせよ絶対あるし、ああいう時間を思うと、結局は幸せが勝る。

やっぱり栗橋楽しみだな〜!

 

8月27日(金) [浅草ロック座]『祭音 3rd』

早乙女らぶ(3-4)
みおり舞(3-4)
大見はるか(3-4)
中条彩乃(3-4)
宇野莉緒(3-4)
友坂麗(3-4)
川上奈々美(3-4)

 

初の浅草へ。生活圏だから数え切れないほど前を横切っているが、はじめて階段を登る。テケツの小ささはいずこも同じ、といった塩梅でも、ロビーにはステージ写真が壁一面に貼られ、物販もあり華やぎがある。奥には踊り子さんがそこに立ちもするというバーカウンターが。2回目の公演が終わった直後とあって周辺は賑わっていた。場内に入ると、とにかく...広い!あと天井高い!舞台でかい!要するに普通の「劇場」である。盆から2列目下手側の席へ。

 

まず個々人の舞台の印象は別として、この空間の余白のなかでなお、裸体が裸体としての強度を持ちうることに、素朴に感動はした。照明効果や移動盆があるにせよ「裸」の良さは今までの接近的な劇場経験と遜色ない。
とはいえ各人の場面を「景」と呼ぶ通り、それはもっぱら視覚的な"眺め"である部分が強く、あの狭い道劇での洗礼的な体験を経てストリップ観劇に入った身としては、あまりにも安全に過ぎると思う部分があった。
浅草以外の劇場を「ポラ館」とわざわざいうように、浅草では観客との交流はなく、ひたすら劇が進行し、中休憩をいれても100分程度で1公演が終わる。この圧倒的負荷の低さ。初めてストリップを観る人間がいるなら、浅草で間違いないのだろう。それでも私は道劇に誘うだろうが。
ごく近所にある浅草でなく(単純に入場料が高かったという理由)、渋谷で星愛美さんから始まり友坂麗さんで終わる香盤を観たのは、本当に運命だったのだと思う。

 

その友坂さんが群舞に混ざっていたり、危うげなキャラクターを演じていたり、剣舞を行っているのは、こう言ってはとても失礼だが、微笑ましく見てしまうところもあり。好きな踊り子さんが浅草に乗るのは「推しが連ドラに出るのを観るような感じ」と言ってくれた方がいたが、確かに。
ともあれ友坂さんが1人で踊りきる7景は、やはり盆に入ればほとんど舞踏。髪をかきあげれば空間すべてに魔術がかかったように、友坂さんの身体へと集中していく。
友坂さんの身体、特に腕には、いつも微妙に震えがあるようにみえる。意思的に"動かしている"のと、不随意的に"動いている"ことの合間にあるような不思議な質感があり、ときおりティッキングのようですらあるが、もちろんそんな技巧的な問題でもない。やはり「舞踏」的な、内在的な身体の力の現れなのだと思う。けれども、そうした微細な力の動きを追うことに終始するわけでなく、ポーズは誰よりも大胆にためらいなくなされる。それを見ることの充実に満たされて、言葉がなくなる。
また浅草観劇の最も大きな収穫はリボンさんの仕事の段違いな効果の高さへ蒙が啓かれたこと。後方からはスモークに紛れて発生源が見えない位置から、長いリボンが視野へフレームインし、一瞬で消え去る白いたなびきは踊り子を称える精霊めいている。それは優しげでも、スリリングでもある。
とりわけ友坂さんのラスト、本舞台でゆっくり客席へ手を振る美しい姿の前に、崩れかかる波のようにリボンが2度投げられる。あの美しさは、踊り子と客の協働という関係性を越えて、ひとつの演出的な前提にすら見えてしまう。

 

今回はストリップを観てるときには本当に例外的(普段はむしろデフォルトの)な文句モードが起動してしまったので、逆にもう1公演くらい観ていかないと...と思ったのだが、それは中条彩乃さんがいたおかげで、それほど難しい決断にはならなかった。
キャッツアイをモチーフにした前半は、中条さんのトレードマークである破顔が景の楽しさを支えている。そして中条さんには、あの親しみやすさに対して、異様にスター性を感じてしまう。仮にグループに紛れつつも全体から一際滲んでくるような好感を感じさせる資質をアイドル性と呼ぶとして、対してグループにおいて端的かつ明確に一対多のヒエラルキーを作ってしまうような資質をスター性と呼べるのだと思う。付言しておくなら、その他の景で悪目立ちするとかそういうことはひとつもなく、しかしご自身の景では紛れもなく「スター」に見えた。

 

驚くのは衣装替え以降の雰囲気の変化。紺色の上品な薄絹のドレスは、踊り子さんとしては珍しい部類に思える長身に映え、また表情は演技くささを感じないのに、さっきまでの笑顔からは伺いしれない艶やかさがある。
盆では悠々と音楽の間を泳ぐように動きつつ官能を高めていきながらも、確実絶対なタイミングを撃つようにドレスの前が開かれるとき、すでにうっすらと見えていたはずの「裸」がまったく新しいものとして顕在化する。加えて、脱衣のエロティシズムというよりか、むしろ「裸」をこそ最上のドレスとして纏ったような気品が、そこに存在している。
いかなる香盤でも絶対的な水準の違いがある友坂さんを常なる例外として、中条さんにこそ最も自分の期待する、かつ、それゆえにこんなにも観てしまいたくなる「ストリップ」の質感があったように思えた。個人演目をもっと拝見したい。

褒め殺しめいてしまうので違和感も書いておくと(まずそのベットの振付は振付師によるものなのかご本人によるものなのかわからないが)、自分の音楽的な感覚とポーズのタイミングに齟齬を感じたことだけ気にかかった。あえてジャストからずらして品を保っている、という見方もできるかのもしれないとは思った。

 

ようやくこなした宿題のような浅草観劇。だいたい自分は本当に育ちが悪いので、王道めいたものに強く反発心が起きやすく、1公演目は道劇へのホームシックばかりが刺激されていたが、2公演観てそうした態度がだいぶ軟化できてよかった。なにより、歩いてすぐ行ける劇場なのだから、楽しめる場所になったほうがいいに決っている。次回の『秘すれば花』も、一度くらいは...たぶん...(栗橋と大和の様子をうかがいながら)

 

8月31日(火)[渋谷道頓堀劇場]

永瀬ゆら(1-2)
るあん(1-2)
恋沼あお(1-2)
くるる(1)
金魚(1)

 

渋谷で稽古のあとに1回半だけ。
ひさびさに静かな道劇。1回目スタート時には10名ほど。2回目スタートの頃には倍くらいに。かぶりすら空いていたが、中央2列目上手端に。

 

この日は、るあんさんの新作がすばらしかった。
個人的にも聞き馴染みのある、ほとんど00年代邦ロック(?)のクラシックのひとつさえ呼べそうな曲を2曲使うベットが絶品中の絶品。前半、ポーズに向かうようで向かわない、ただしかし焦らしてるわけでもない特異な時間が、たっぷりとした余韻を抱えて過ぎていく。それがアッパーな次の曲に移ると、尺をがっつり使ったあのポーズの時間に。
るあんさんのポーズは本当にたくさんの時間を使うが、それは静止状態が長いということではなく、生命が変態する過程の充実のような持続があるということ。観客はついこらえきれず拍手を送るが、それを意に介さないようにして、身体は伸びつづける。この時間のたまらなさ...新作はそれが圧倒的なまでに気持ちよくて参ってしまった。7頭で観た六花ましろさんの『鯨』のベットに並んで、忘れがたいパフォーマンスになった。

OPの曲が変わっている。本編と揃えた音楽ジャンル。だがいつもと同様に、BPMが速いにもかかわらず構わずゆったり動く仕方は同じ。るあんさんは、OPの好きな踊り子さんでもある。

 

時間がなくて2回目が観られなかった金魚さんが気になる。
1回目は「ウミウシ」を主題にした演目。ベットではウミウシ(のぬいぐるみ)と交合。ディルドみたいなものがにゅっと出てきて交わるのだが、エロさはうすく「生殖」というニュアンス。それが良いとか悪いとかでなく、こんな感触もストリップにはあるのかという驚きがまずある。ところでウミウシ、雌雄同体だそう。また生殖器を使い捨てる特異な生物だとか...
本舞台の踊りもとても良くて、かなり面白いのだけど掴みかねた部分があり、次の機会を狙う...

 

かなり静かな場内で、どなたのポラも早々に終わる最近では珍しい進行だったが(フィナーレがあってびっくりしてしまった)、ある踊り子さんのポラの片付けのとき、ご年配の常連さんが何事か質問したのに「それ、昨日のポラコメに書いたよ!」というやり取りがあったのがおかしかった。ストリップ劇場という日常...