白雪・萩尾のばら周年週 あるいは「私」を問い続けることについて

※以下記事は演目の内容について詳細に触れています 

※2月2日脚注追加

 

 

 劇場をはじめて訪れたとき、眼の前で踊り、やがて裸体になっていく彼女たちの名前を知っていることはほとんどない。そこにあるのは肉体だけで、ときおり目を惹く舞台があるにすぎない。
 しかし、やがて馴染めば無名の彼女たちは固有の名を持つ個人であることがわかり、そのパーソナリティーを含んだ顔見知りになっていくこともある。私は「白雪」「萩尾のばら」と名乗るふたりを知っているし、ふたりもまた私のことを知っている。

 周年週。つまりそれぞれが名乗り、その名のもとで舞台に立つ最初の「週」を記念する1年に1回の祝いごとである。白雪と萩尾のばらはそれぞれ2022年1結・2021年1結、すなわち1年違いの1月21日にデビューをしたということだ。
 私はたまたま白雪のデビューステージに居合わせていた。形式を備えた「ストリップ」らしいステージだったかどうかは別として、恐れもなく破顔して踊る彼女の顔つきを忘れられない。客たちは彼女の来歴を想像し、今見たステージのクオリティや今後の行く末を勝手に話題にしていたのだった。
 そうして2年が経った。

 また萩尾のばら。彼女に関しては昨年も周年作の感想を残していた。個人的なエピソードはそこに書いたとおりで、2023年も時々ステージを観ていた。『ろーてく・ろまんてぃか』という夏頃に発表された新作は今までにないほど萩尾の身体性にフィットしていて、普段着の色気を描いていて素晴らしかった。多作と言っていい演目群が、自己イメージを更新しては「萩尾のばら」のステージやパーソナリティを豊かにしていた。そう思う。
 「私」が演目を作り、また演目が「私」を作っていく。
 
 3周年作になる『I am』はタイトルの通り「私」そのものが主題になっているようだ。昨年の『プロローグ』同様、しかしより語る主体=萩尾のばらに近い形での自己言及が予感される。私は……そのあとに何が「私」の内実を定義するものが置かれるだろう? またそれは選曲の歌詞などで理解の補助線が引かれるだろうか?
 ふたを開けてみれば、萩尾の3周年作はじつにストレートなダンスナンバーとして提示された。だからひとまず、萩尾自身が定義する「私」は踊る者だと言えるだろう。振付には何か意味ありげな身振り≒マイムが関わることはなく、ビートに乗せて、おそらくは過去最高密度の手数で攻め込んでくる。
 これは初日以降に変化を起こしているが、初出しのステージにおいては過去の振付語彙が散見された。とくに『ろーてく・ろまんてぃか』でひときわ印象的な両手の人差し指を口の端に差し込んでイー、と広げるようなキュートな振付が、『I am』でも現れていた*1。なるほど、私は踊る者であり、踊り=振付によって事後的に成り立つ私でもある。萩尾のばらの身体に紐づけられる特徴的な身振りは、ほとんど「萩尾のばら」を形づくるピースとして、あるいはアトリビュートとして、彼女を構成し、縁取っている。かといって、たとえば多くの者が知っているだろうマイケル・ジャクソンムーンウォーク股間に手を添えてバウンスする痙攣的なムーブのようなものでもない。
 だが萩尾のばらを形作っているだろう振付が萩尾のばらと密接にあるように読めてしまうのは、他ならぬ私自身が、萩尾のばらを萩尾のばらとしてそれなりの期間・回数を見てきたからに過ぎない。その動きは劇場でしか流通しておらず、イメージとして各メディアに繁茂することはない。そもそも私が『I am』という演目名を、ステージで演じられているダンスナンバーと紐づけ、それを読もうとすることできるのは、彼女のSNSでの投稿を読んでいるからだ。
 演目を読む手がかりは、彼女との関係があり、また関係の濃淡に支えられている。それらははじめて劇場に訪れた観客にはまったく与えられていないものである。さらに言えば、前前段落冒頭で言ったように「初日以降の変化」を、後日の再見によって確認できたということ、再見をうながすほど私が劇場に親しく、また萩尾に相当程度近く、くわえて演目に魅力と謎を感じているからだ。そもそも、知らない誰かが「私」を問い、「私」を語ったところで、誰が興味を持つというのだろう。
 それでも、自己言及と自己提示は確かになされている。「私は」と踊りによって語り、ステージ上では聞こえてこない声を出すことをやめてはいない。私にとって萩尾のばらは名もなき誰かではなく、女の裸を見せてくれる都合のよい客体でももちろんなく、たんなるサービスの一部のなかでなされたやり取りとは言え、互いに具体的な記憶を持つ関係がある。萩尾の「私は」という語り始めに耳を傾けるしかないし、聞き届けることが求められていると感じる。

 とはいえ、それはけっして深刻なものではない。至って軽快に、さながらミュージカルの場面のように萩尾は踊り続ける。しかし、 M1が終わり暗転とともに袖にハケたあと、英語による複数人の話し声が流れ出すM2。なかなか明転がかからないままに萩尾の再登場を待っていると、白地にピンストライプが引かれたツーピース(パフスリーブがひじょうにキュート)の衣装に着替えた萩尾が舞台に飛びしてくる。M1よりもずっと振りを詰め込んだパートに目を奪われていると、M2のラストに行く前に舞台は溶暗していく。その中でも萩尾は明かりが落ちていることなどに気づく様子もないと言わんばかりに踊り続けていく。
 そして曲中暗転は、じつに25小節以上に渡って続く。このM2。M1との連続性は衣装の変化によって断ち切られているし、長い不在は続くM3との連関も追いづらくしている。とはいえそれが瑕瑾に思えるかと言えばそうでもない。M3の"DIVA"によるゴージャスな選曲は演目を高揚感に包んでいく。だが、ミッシングリンクがあるという感覚も確かに残っている。「私は」という語りは、M2の独特な照明演出によって語り手と語りに距離をもたらしている。その間には「私」を編集する、もうひとりの見えざる「私」がそこに影を落としているかのように思える。
 高揚はストリップの尋常な形式に則っている。また、いつになく熱を帯びてときおり顔を歪ませるように情動に突き動かされる萩尾の顔つきも見える。舞台は強いバイブスをもって観客を引っ張り込む。
 私はとても生意気だ、と韓国語で言い募る立ち上がりは、萩尾のパーソナリティを知っていると、ほとんど真逆のことを言っているように思える。そのようにありたいという宣言なのか、それとも本当に私は生意気なんだと思っているのか、あるいは歌詞のことなんかよく知らずになんとなく好きで使っているのか、いずれにせよ萩尾のばらがどういう根拠でその曲を選んでいるのか、また暗転にしてもどういう意図があるのか、私は知らない。訊ねるつもりも今のところない。
 ただ、踊る者としての萩尾のばらが踊りによって「萩尾のばら」という存在を生き続けているように、わずかな時間でも観客と言葉をかわし合う、関係する者としても生きていることは間違いない。だが劇場を離れれば、お互いに生活の具体も分からない。どこに住んでいて、どのようにこれまで生きて、さらにいえば"本当の名前"もなんというのか知らない。私に見えているのは溶暗の中で踊る彼女の姿のようにぼやけたものでしかない。見誤りもあるだろう。早合点の勘違いもあるだろう。また、萩尾のばらも私を、あるいは逆光に佇む私たちの姿を、正確に見届けることはできていない。私はとても生意気だ。そうだろうか?私はそう思うが、私がそう思っていることを萩尾はどう思うだろうか。

 

 現時点でタイトルが発表されていない白雪の2周年作もまた、周年作の自己言及性のフレームの中で作られた演目である。そのように断言できるのは、明転に先行して前奏曲のように流れるM1と共に閉じられた幕が開くと、一幅の絵画のよう(活人画!)に立っている白雪/白雪姫の姿が目に飛び込んでくるからだ。ディズニー映画によって馴染みの、あの白雪姫の出で立ちがそこに再現されている。
 白雪は、ときおり客たちからそうも言われるように(またSNSのユーザーネームがそうであるように)白雪姫として「私」を位置づける。ただしそれはあまりにもパブリックイメージに準じた自作自演ではある。けれども、周到な白雪は観客へ差し出すバラやリンゴの他に、ちょうどリンゴと同じくらいの大きさの光るボールのようなものを手にしてもいる。M1のラスト、その発光体に口づけるような、あるいはかぶりつくような仕草をすると、音楽は劇的に高鳴り、白雪/白雪姫は袖へと消え去っていく。リンゴ。白雪姫の物語においてはまず「毒」であるその果物は、言うまでもなくキリスト教においては禁忌の表象として象徴付けられている。白雪はそうした毒と禁忌を発光体によって表象している。
 人工照明はストリップの前提である。かつて一条さゆりが蝋燭の火を光源として持ち込んだことはあれど、踊り子は自然光によって照らされることはほとんどありえない。言うまでもなく、裸体の提示は劇場というグレーゾーンによって成立しているからだ。
 白雪が「白雪」であるためには光を必要としている。だが光は毒/禁忌でもあった。私を照らすものは、私を蝕み/阻むものでもある。白雪は白雪というペルソナを演じ、それがゆえに「白雪」として生きられるにしても、そのパーソナリティにはこうしたアンビバレンツが内在しているのではないか。
 M3、全身を覆う白く薄いヴェールをかぶり、そのヴェールの中で先ほどの発光体を捧げるように持っているのが見える。下着はつけているものの、胸も含めすでにほとんどが裸体である*2。しかし目にはレースがあしらわれた目隠しをしており、夢遊的な足の運びでゆっくりと、光に導かれるようにして盆を目指して行く。照明も限りなく暗いブルーに包まれている。
 ヴェールを払うと、あらためて裸体が現れる。ストリップにおいては、すでに眼差しているはずの裸体も、薄衣ひとつあるかないか、あるいは「脱ぐ」という契機を挟むとまったく違ったものとして現れ直す。そしてタトゥー。デビューのときには(たしか)足に入っていただけのそれが、いまは腕や胸元など、複数に増えている。私はこの変化を知っている。どうしてか、この裸体の現れにタトゥーの存在がきわめて強く目に入ってくることに気づき、また、胸や局部といったいかにも「裸体」めいたものよりよほど生々しく白雪の身体を表しているように見えた。白雪は光に盲たまま、身体が衆目にさらされる。我々はその身体を見つめる。あたかも「白雪姫」というペルソナをも脱いだ、代えのない、まぎれもなく白雪と呼ばれるその人の固有の身体として、それを見る。ただ、同時に、光に照らされた限りにおいての身体でもある。見せる/見られる身体そのものが、「白雪」というタトゥーであるかのように、私は受け取る。
 そして繰り返される、年をとっても美しくなくなっても、私を愛してくれる?という歌声。私たちは、そう白雪自身から問いかけられているかのようだ。しかし、私は知ってる、あなたが愛してくれることをと、私たちの返答は待たずに信頼を投げかける。
 そうした先に、鳥の鳴き声が流れはじめてまるで目覚めたように目隠しを取り去り、発光体がその中に溶けいるように強く明るい照明が白雪を照らし出す。あなたは踊ることができる、人生を楽しむことができる、この踊り子≒私をあなたは見つけるんだと強く鼓舞するような歌に乗せて、光は毒であることを飲み込んだうえで、あたかも自分自身が光り輝くようにかつてはそう上手くはできなかったはずのポーズを、多彩に繰り出す。

 ストリップにおいて、あなた/私と呼び合う関係は固定的ではない。踊り子にとっての「あなた」は観客だが、観客にとっての「あなた」は踊り子であり、そうした立場の差は盆を中心とした劇場空間によって溶け合う。見るものもまた見られるものになる距離は、互いの呼び/呼ばれる位置を不確定に入れ替える。私は強い、そうした宣言が(歌の力を借りて)なされるとき、必ずしも踊り子の自己肯定をメタポジションから認識するだけではなく、それを聴く私もまたそうでありうるとエンパワメントされる。
 同様に、白雪があなたは踊れる、あなたの人生を生きろとと歌うことで、白雪はまだ見ぬ踊り子へ手を差し伸べているようにも思える。あなたにもできる。探し出せという誘いは、ごくストレートにストリップという営みが続いていくことに、希望の光を以て照らしているかのようだ。光は私を苛むこともあるかもしれない。しかし、私が光となってあなたを照らすこともできる。まったくストリップというものを知らずにこの世界にやってきた女王(クイーン)は、そのように言っている。これ以上に感動的な、そして周年という記名性の強い時間にふさわしい振る舞いがあるだろうか。

 ストリップとは何よりもまず、踊る芸能だと思う。そして、踊ることと、各々が各々にしかない肉体を謳歌することをこれ以上に祝福する場もない、と思う。同時に、踊り子はむき出しではいられない。社会的な掣肘があり、劇場の中で名乗る名前を新たに得る。
 踊り子は、踊る者であるとともに、演じる者でもある。萩尾のばらという名において、白雪という名において、彼女たちは「踊り子」という役を引き受ける。それぞれが務めるべき役割がなんであるかは、それぞれが「私」を問い続けることで更新されていく。「私」は……続く言葉は常に仮のものでしかない。

 私はふたりを知っていて、ふたりも私を知っているが、なにか実のあるやり取りばかりがあるわけではない。ごく短い時間の他愛のない会話ばかりが積み重なっている。それでも、私はふたりをまだ見ていて、これからも見たいと望んでいる。
 踊るとは、あるいは踊りを見るとは、ふたりが問い続ける「私」に続く仮の言葉を手繰り寄せることでもあり、声なき声を聞こうとする契機であり、私はその営みに、飽かず惹かれ続けている。

*1:途中でこの振付は一度なくなり、楽日にはまた復活していた

*2:私の誤認なのか楽日再見時には最初から下着の類はガーター以外着けられていなかった

忘れがたいもの(結局はストリップの話)

 年末、なので記憶をたぐってあれこれと考えていたが、かわらず今年もストリップにまつわるよき記憶が身体を占めている。仕事にしたって、「ニュー道後ミュージック番外編」で劇場の舞台に立たせてもらったことは特別な経験であるし、『ab- ストリップのタイムライン』『ab-EX Re:メンズストリップ』という本を作ったのも今年の大きな出来事である。

 ストリップの何がそんなに、ということだが、劇場で知り合った友人知人も増えて、もはやそれは自明の前提になりつつある。こんなにいい場所はなかなかない。*1

 そんないい場所で、きわめつけにいいと思われる瞬間がある。それはもちろん、良いステージを観たときだ。良いステージとは何か。これももちろん、さまざまな基準がある。
 話は変わるけれど、ときどき読んでいる福尾匠の「日記」がある。つい先日の日記にはこう書いてあった。

 水炊きを火にかけているあいだ、適当に感想をつぶやきながらM-1を見た。システムより人間が見たいよな、とか、君は誰なのかと問われているんだと、思って舞台に立ってほしいな。せっかくウソつくんだから、とか。*2

 人間が見たい。近しいことは、わりと芸の世界では言われることと思う。最終的には芸ではなく人だから。そうした言い方。
 人が見えるということにかんして、ストリップはその機会が相当に与えられる場だと思う。裸体には人生が見える。そのような言い方もあるが、わたしは「人」とはもっと身も蓋もないものだとも思う。人生という過ぎ方の重みを乗せるには、踊り子さんはあまりにもからっとしている。拍子抜けがある。脱力がある。ままならなさ、というと葛藤を引き受ける「わたし」に悲哀があるが、劇場で見えるままならなさには、もっと、互いにしょうがないねと笑い合うような気楽さがある。
 
 ま、それはいい。

 9中道劇はある踊り子の引退週でもあった。その踊り子に続いて、萩尾のばらが演じた『ハート』はすばらしかった。必ずしも後輩の引退に際して演じられたわけでもないその演目──客席に向かって大きく手を振る振り付けもある──が、踊り子という職業を辞する彼女を見送る「礼」としてそれが機能し始める。どのくらいそのことをあらかじめ意識していたのかまったくわからないけれど、本来は観客に向けられているにすぎないはずの「演目」が、引退を見送る餞となる。ただ、ともにそこに居合わせ、演じられる踊りを見ることが別れの抱擁になる。
 ストリップの演目は、あるいはそこに流れている音楽は、じつに素朴なメッセージを持っていたりする。けれども、その素朴さに対してまっすぐに向き合うことがストリップでは(すくなくともわたしやわたしの友人たちは)可能になる。ひとまず「裸」のなせるわざだと言っておくくらいしか手はないが、誰かが誰かへ別れの礼を尽く(しているように感じられる)すことを、こんなにも真剣に切実に可能にすることに、打たれざるを得ない。どういうことなのだろうか。そうした素朴さに打たれる自分に何度でも戸惑う。そしてその戸惑いを嬉しく思う。

 7中道劇の4週年週でだけ演じられた宇佐美なつ『し-せい』もまた、誰かとの別れを描いていた。だがこれはもっと抽象的な──本人の言葉を借りれば「生前葬」のような──別れであった。『し-せい』では、べつに具象的に死が描かれるわけではない。ただ、それを想起させられる。見る/見られるという視線の交錯はストリップにおいて交歓へと位上げされる。また、見送る/見送られるの礼の世界に近づく。触れ合うことなく、ただ見る/見られることに徹するこの場において、そしてそれゆえにこそ、わたし(たち)は想像する。究極的には死ぬ/別れるべきわたし(たち)の、想像するしかない生の終わりを、仮想的にここに引き受ける。そうした想像をともにすることこそが美しいと思えるステージだった。
 
 なんだか別れの時間にばかり目が向いてしまっているが、劇場はぜんぜん陰気な場ではない。

 『し-せい』が出された「週年週」というものは、踊り子の記名性が際立つ時間でもある。だれそれのデビュー◯週年だと、アナウンスもされる。そうした時間だけに、「周年作」はどこか自己言及的な気配を纏うことも少なくない。そうした週年作でありながら、きわめて楽天的で脱力的な4週年作である蟹江りん『マジックショー』は忘れられない。名前を引き受ける重さはどこにもなく、魔法によって踊り子はキュートなうさぎへと変身してしまう。何の意味もないし、そもそもマジックにしたって超ベタな演出でもって記号的な「マジック」を演じるに過ぎない。その……語弊を恐れずに言うならアホさ加減。アホになれるという強さ、かわいさへの衒いない接近、こんな演目にはどうしたって演じるその人の魅力が不可欠で、そして間違いなく魅力的な人(うさぎなのだが)がそこにある。
 そして盟友(?)でもある、ささきさちの4週年作『showテラー』もまた、期せずして同型のテーマを扱っている。が、蟹江のそれよりも、楽天性へとたどる道のりは佶屈している。これは偏った見方かもしれないが、楽天性は所与のものではなく、自己への向き合いによって手に入れた成果として現れているように感じた。こんなにも楽しげに、歌を口ずさむようなささきさちを初めて見て、それゆえにこれが周年作ということの意味も際立ってくるように思えるのだ。いずれにしても、祝祭が演じられ、解放が描かれ、舞い散る偽物の紙幣は浮世のわずらわしさを塗り替えるようにくしゃくしゃなままあって、逃げ込むだけではない現実への窓が想像のうちに穿たれるようだった。

 望月きららという、間違いなく芸の天才と呼んでいい踊り子がいなくなった。1結道劇で観た『Pink』の至芸と言いたくなる踊りをたぶん、一生忘れない。もちろんこれだけではない。彼女のステージ、客あしらい、どれをとっても日本(暴論を恐れないなら世界)最高のものだった。シリアスと悪ふざけは区別なく同居して、ただの観客すら、望月きららにかかっては愛すべき「人」として舞台空間に巻き込まれる。こんなことができる人間がストリップ劇場にはいた(だが、かわらず今も小倉のショーパブで踊っている)。
 今年は何人もの踊り子が劇場を去ったが、何人もの踊り子が劇場に戻ってきた。正確に言えば昨年11中なのだが、花森沙知というすばらしい踊り子が復帰し、かつての観客の記憶に残って忘れがたいものであったらしい名作『肉体関係』を観ることができた。そして、何人もの新人がデビューした。
 なかでも、綿貫ちひろはとりわけ強い印象を残している。『デビュー作』の、じつにじつにシンプルながらその人の個性がはっきりと刻まれた、品のある踊りは、再見の機会となった12結道劇で音への確かで丁寧な同期にその品の根拠があるとつかめた。2作目である『エール』でもその丁寧さはそのままに、脱衣の鮮烈を演出し、高揚感のある立ち上がりに繋げてもいた。2022年1結デビューの白雪のステージを見て以降、どこか新人への期待は彼女のような存在が基準になってしまっていたけれど、まったくそうではない、想像もつかない仕方で新しい価値観は生まれると教えてもらった。

 そして、はじめてわたしがストリップに打たれた友坂麗による『ショータイム』には、ストリップがいつまでも変わらず、わたしにとって圧倒的であり続けることを見せつけられた。その人がかっこよすぎて涙が出るなんてことがあるだろうか。もちろんあるだろうけど、でも、こんなことがあるんだろうかと初めてのことのように思わされる。
 友坂麗の踊りがどうかっこいいのか、それに近づく手がかりはあまりに足りない。大きな謎であり、謎は魅力であり、大げさに言ってわたしがまだもうちょっと生きていたいと思ってしまうような、そうした希望としての謎である。

*1:先日以下の記事をアップした

劇場|ab-

*2:https://tfukuo.com/2023/12/25/231224/

素描_11結

 6:46という、普段からすればおそい地下鉄に乗って、だからだいたい7時くらいだったろうか、新橋駅で横須賀線に乗り換えようとすると、人でパンパンの列車が到着した。かたわらには大きい荷物を積んだキャリーカート。手慣れた様子で後ろ向きに乗り込む通勤客。立錐の余地もなく、つまり直方体のこの荷物など文字とおり収まるべくもないらしいことをホームで立ち尽くして眺めて、いや、眺めている場合ではなく、刹那にカートを倒して後続の車両に向かって小走りに移動する。ここもだめ、ここも、ここも、あいにくイヤホンなんぞで音楽を流しているので出発のベルも定かでない。どうにか押し込めそうな扉を見つけて遠慮なく乗り込む。扉脇のスペースも両サイド塞がって、所在なく真ん中あたりに立ち、居心地の悪いまま品川を過ぎ、武蔵小杉を過ぎ、横浜あたりでようやく収まるべき場所に人・荷物ともに収まる。思えば平日の通勤ラッシュにぶつかる形で出勤することなんてなかったのだ。東戸塚で降り、ピックアップされ、現場へ。朝のちいさなドタバタがすぎればのんびりかと思いきや休憩の間もなく2公演。一息つく頃には公園でランチピクニックとなった。池には無数のオナガガモが回遊している。鯉だっている。孫に話しかけるように鯉と会話する老人もいる。スーパーで買った塩パンに、からあげとアボカドをはさんだ。そして現場でいただいたブルボンのお菓子にマスカルポーネチーズをディップして食べて、山道のような遊歩道を歩いた。親父は登山家で、というから山登りが趣味なのかと思ったら、1970年代に南米のなんとかいう高い山を踏破するチームにいたのだとか。だから「岳」という名前なのだと教えてくれた。離れたところから写真を撮られる。曖昧に笑った。

 平岡直子・我妻俊樹『起きられない朝のための短歌入門』を読んだ。渡邉さんがおすすめしてくれたので、買うことにしたのだ。東京堂書店で。ついでに峯村敏明『彫刻の呼び声』も買った。こちらはまだ読んでいない。本屋で一冊だけ本を買うというのはどうしてむずかしいのだろう? 何度も言っている「あるある」だけど、本当だよねえと渡邉さんはうなずき、でも我慢しているからと一冊だけ本を買っていた。で、『起きられない朝のための短歌入門』は面白かった。歌人がどのように実作に向かっているかだけではなく、じっさいに歌をとりあげつつ、具体的・抽象的に会話していく。プロだからといって、何もかも判明なのではない。わからないものはわからないのだ。武藤さんとはじめて会ったとき、友坂さんの踊りは、あれはいったいどういうことなんですかと素朴に訊いてみたら「わかんないよねえ、なんなんだろうねえ」と言ってくれてホッとしたのを思い出す。わからないものはわからない。

 でもこれからは心の小便小僧の心の底という底が鏡張り 桜が咲いて

引用されている、瀬戸夏子さんの歌がかっこいい。

 宇佐美さん『星降る夜に見つけて』がひじょうにかっこよくなっている。上野仕様の省スペースバージョンということもあるだろうけど、サンタ人形の小道具が追加されて、それと踊ったりするのだ。ものを扱うのが本分だからか、センスのいいものの扱いにはグッと来る。
 クリスマスは好きだがクリスマス演目には特段惹かれないけれども、そこになんらかのイメージ操作があれば話は変わってくる。石原さゆみの『クリスマス』(初見のときは10結だった。こういうことができるさゆみさんに憧れる)のように、どこかウェットな日常にあるクリスマスの風景を描いてみせたり(だがこの演目の白眉は観客を使った衣装選択の手際の良さだ。あんなに明快なノンバーバルコミュニケーションをどこで学ぶのか)するなら、話は変わってくる。
 この『星降る夜に見つけて』も、「夢」からスタートしながら、立ち上がりではきわめて「現実」めいた夜明けへとたどりつく。雪は降らないし、高速道路や工場すら見えてくる。それはそれでロマンティシズムなのだが、そこに仮託するのではなく、現実=今ここ=劇場へと引き戻される感触がある。恋人たちのクリスマスは劇場でのひとときの華やぎへと奪還される。キラキラとしたアイドルソングでコーティングされつつも、それがどこで流れているのかということに、どこまでも自覚的であるように感じられる。というか、それがこの演目の見方なのだなと自分なりに納得があった。

 風邪を引いて伏せる。それほど大したことはないが、ずっとだるい。本を読もうにも手につかず、ふとやたらさわがしかった「セイレーン」の出てくる「島編」とかが完結したらしい『ちいかわ』を読んでみることにした。一日がかりで読み終えて、手元には無数のちいかわLINEスタンプが残り、あちこちのトークルームにそれらは拡散し、「ハァ?」と大声で叫ぶウサギがお気に入りになった。

素描_11中

 寒さに耐えかねて現場を抜け出して、最寄りのコンビニに行く。送られる車の窓から姿を認めていたファミマ。入店するなり、やきいもをすすめる、ボーカロイドのような声が延々とリピートしているのに気づく。焼きそばパンにファミチキとカロリーを摂って身体を温めにかかるが、ボーカロイドの声が気になる。やきいも〜ほかほか〜みたいな単純な売り文句を疲れ知らずに繰り返す。すごく短い間隔でリピートしている。店員は気にならないのだろうか。田舎というのに溢れかえりそうになっているゴミ箱にゴミを突っ込んで現場に戻る。真っ直ぐな道の向こうに山が見える。暮れかかって稜線は定かでない。小学校のとなりの建物ではなにかを練習しているような声が聞こえる。と、おもったらそれは現場から聞こえるマイクの声が建物の壁から跳ね返ってくるのだった。いや、そう思ったがやはり建物の中から聞こえるのだったか。現場に戻るとほどなく白い龍を引き連れた学生たちが現れ、そのあとすぐにキム・ウイシンさんの踊りが始まった。チマふうの長く赤いスカートを脱ぐとスパンコールのついたベリーダンスの衣装になる。髪を解くこと、衣装を変えることでおどろくほど違った人物になる。肌こそ露わにしないが、ストリップでずいぶん見慣れた現象だ。表層の変化が、本質的な変化に届くかのように見える。すべては表層に過ぎないと断じたところで、ことの新鮮さには、やはり届かない。それはひとつの純粋な驚きなのである。

 大和ミュージックでも、緑アキさんの『デビュー作』で驚きがあった。スパンコールの付いたビキニ姿のM1-2でチェアーと戯れるようにアクロバティックなポーズを決めるシークエンスがあったかと思えば、衣装替えでは真っ赤なドレスへと一気に変化する。色彩的にも衣服のスタイルとしても、衣装替えの前後でこのような大きいコントラストをもった演目をあまり知らない。ストリップには脱ぐことの驚きもあれば、纏うことの驚きもある。人は着替えることができる唯一の生き物だとエリック・ギルは言ったが、かように人が服を纏うことの豊かさをここまで見せてくれるジャンルも、やはりストリップだけのような気がする。

 靴が2足続けて壊れてしまった。すぐに買ったはいいが、壊れた靴を履いているとどうにもみじめな気分になる。あまり人目にはつかないのだからもっぱらみじめさは自分だけのものにとどまる。足元を見る、という慣用表現の由来を知らないが、人がふだん眼にしないところをつついてくることだということはきっと間違いないだろう。他方、海外の人にしばしば靴を褒められた記憶がある。本当に好ましい靴かどうかというより、やはりここにも目が届きづらい場所をあえて褒めるという機微が感じられた。着ているニットの首元の意匠に好ましいものを感じて褒めても、そっけない口ぶりで返した彼女の声をなんとなく覚えている。喧嘩していたのだった。

 ずっと頭痛が続いた。薬を飲んでもぶりかえし、身体も起ききらない。しかたないので静養に務めるが、やるべきことややりたいことはあるから手をつけてみる。週の半ばになってようやく頭痛は消えた。あらゆることが遅れて、ただでさえやりたくないようなことはどんどん後回しになって、痛みがむしろ現在を強調させる。未来への積立も過去の精算も退いて、臥せり続けるほどではないから、ただ毎日がある。疲れに疲れて、もう明日という日が来ること自体がめんどうくさいと口にして呆れられる。言ったそばから、思いがけずそのような過ぎ方を経験することになった。しばらくぶりに、回復を求めてしっかり休んだ。寒い日があって、雨の強い日があって、風の強い日があって、暖かな日がある。それだけを感じていく。偽物のスイカゲームをやる。偽物のスイカができた。

素描_11頭

 そこまで周到な方ではないにせよ、ひとつのミスもしくは勘違いが、いくらなんでも無残すぎるほどに1日の足場をことごとく崩すことがある。思えばそれは確かにスプレッドシートに書かれており、まさしく勘違いあるいは思い込みによって見落としており、それで、ああ、今日の帰宅はさらに2時間遅れるのかと気づき、また、その遅れた2時間のなかで物理的・心理的圧迫があり、なんとか乗り越えたその時間のあとも早速アイスコーヒーを忘れてきたなと気づいたのに、そして最寄りに帰れば開いてる店などごくわずかだということを知ってもいたのに帰り、案の定ろくでもない食事しかできずに、それでもコンビニで甘いものを買ってただちに口に入れて溜飲を下したというのに、その電話がかかってきて、もっと気づくべき忘れ物に気づかされ、さらには気づかなくていいのに終電に間に合うことに気づき、走り、かなりの勢いで走り、その忘れ物の件を解決して1日が終わった。こういう日は呪うべきなのに、もっぱら自分の迂闊さに起因したすべてであり、心理的圧迫もまた自分の来し方に要因があり、物理的圧迫もおそらくはそうであろうと一切を自らに帰責した末、逆にものすごく面白くなってきて、あらゆるところが通行止めまたは閉店した街を歩く。いっそ家に向かって3時間歩こうかとも思うが、その道はつまらないのを知っている。今年何度この街で夜を明かすのか。きっと皆寝ている、あるいは起きている。平和に、もしくは不穏に。TLですらそれは伺える。何度か、すでにもう忘れてしまった誰かの平和乃至不穏なつぶやきを指で引き下げる。更新はされない。

 

 思うように行かない。些細なことだとしても、尾を引いて調子を崩す。だが待てよ、その崩れに絡まって、寝乱れたベッドで1日の始まりをなるべく遅らせようとするようにだらだらとしていると、あれ案外楽しいなと思ったこともあった。もちろんこれはもののたとえで、実際は働いているのだが、そんなふうにダラついた結果、思うようにいかなさに委ねればいいんだなと身が軽くなることもある。諦めというほどでもなく、でもこれは構えの解除なのだと気づく。まったくしょうがないね、というのは東京の古い人たちの言い回しだろうか、たしなめるような、それでいて甘やかでもある口ぶり。顔もゆるんでいく。ままならなさを撫で、愛で、まあこんなもんだと受け入れる余裕は、しかし余裕のなさの底に手をついてようやく見つけられる。ただやっぱり余裕はないのだろう、そこで何がどうなってこの快さを感じているのか、後から追うことはできない。なんだかわからないが楽しかったと、その手触りだけ残っている。

 日も落ちて、もうこんなに遅い時間かと勘違いしたがまだ17時。片付けながら身振り手振りを交えて、最近の面白かったことを話す。笑いのなかに一抹のさみしさがある話。でもまあ、笑ったからいいのだ。

 

 鰻を食べた。関西風、というと蒸さずに焼いたものらしいが、それを食べた。炭火で焼かれた鰻は、それこそ香ばしいというくらいしか形容の言葉を持たないが、まさしく香ばしかった。うまい、のだろう。ところで、つきだしで「うざく」が出た。さる人がこれをむずかしい食べものだと言っていたが、たしかにむずかしい。鰻、きゅうり、それを酢で和える。いったい何を狙っているのだろう。まずいということは絶対にないのだが、どうしてこうなのだろうというのがわからない。酢の速さ、きゅうりの軽さ、そうした軽快さと鰻の何が調和しているのだろう。調和を探すべきではないのかもしれない。だとしたら、何を探すべきなのか。中国語と韓国語と英語が店内に行き交う。彼ら彼女らはうざくをどう食べたのか。そもそも鰻は彼ら彼女らにどれくらい親しいのだろう。私にしたって、鰻の味がわかるとは言えない。香ばしい、程度なのだ。その感覚を頼りに箸を動かす。脂質の味わいもある、タレの味わいもある、でも、何か像を結ばない。よくわからない。

 

 猫、老いたふうな猫が歩いている。目がよく見えてないのか、近づいても逃げる様子はなくて、触っても意に介さずそのまま歩き続ける。野良猫なので、毛が絡まっているから硬い手触りがある。猫は歩いている。付き添うように自分も歩く。触られても触られなくても何も変わらない猫。超然としていて、老いの無感覚というにはあまりに私と隔たっていて、畏れを感じる。それはそれでひとつの確かな生で、猫の生涯の厚みを感じる。15の犬みたいに、もうすぐいなくなる。七尾旅人がそう歌っている。15なのかどうなのかしらないが、もうすぐいなくなるだろう猫と、手と歩調において交わった。

素描_10結

 はらだ「わたしたちはバイプレーヤー」を読んだ。BLというジャンルがどのような結構をもったものなのか、自己言及的に描くすぐれた作品と思った。話題作となっていた売野機子『インターネット・ラヴ!』もまた、BLというジャンル、ひいては男性同性愛がどのような位置づけをとるべきであるかを間接的に描いていたように読んだ。彼らは悲劇──それこそはらだの『にいちゃん』のような陰惨な物語と対照的だ──とは無縁の、身に余るような幸運な恋愛を享受する。それは、半ばにはそうであってほしいという願いであるとともに、そうであるべきだという主張でもあったと思う。そんな都合のいい話は確かにないのだが、都合のよさ、または有り得なさは、その質をおそらくかつてとは違えている。男性同性愛という困難は、恋愛の困難それ自体に傾きつつある。恋愛は思うようには叶わない、だが、それは、恋愛だからにすぎない。区別はなくなっていくだろう。インターネットは、そうした境界のなさを描く場となっているだろう。性も言語も世代も国境も、彼らの恋の障壁には不十分であるように見える。他方、(もちろん作品発表の時期の違いは何よりも大きいだろう)「わたしたちはバイプレーヤー」は、恋愛の不可能性を、性差を、乗り越えがたいものとして引き受けることになる。ただし、同性愛当事者ではなく、異性愛当事者として。そしてそれは、読者が引き受ける、ということでもある。
 BLはフィクションだが、フィクションは現実を巻き込み、現実に位置する読者も巻き込み得る。これを啓蒙だとか教育だとか名指すには不適当だろうが、きっと消費物以上の意味/意義を持ち出すだろう。少なくとも私にとってはそうである。

 今週はほんとうに晴々とした天気が続いていた。久々にぽっかりと空いた時間に身を任せて、何をするでもない毎日が過ぎていく。母が『きのう何食べた?』のドラマを配信で見ている。ケンジとシロさんは、今ではありえないような食費で日々をやりくりしている。SEIYUでたまごが390円もしてびっくりしてしまった。390円もするたまごをどうして買わないといけないのか?だからといって、たまごのない毎日は想像しがたい。いや、それを想像し、現実に落とし込み、何かべつの仕方でタンパク質を補い、または味覚の慣れを再構成していく作業にリソースは割きたくない。たまごさえあれば、副菜はどうにかなる。野菜室に残っている適当な野菜とそれを炒める。ただし、野菜も高いのだ。50円、100円、落としてしまえばそれまでに過ぎない硬貨1、2枚ぶんの価格差に、現実という重みが伴っている。私は、硬貨をかつてより多く支払うことで、どう甘く見積もってもろくでもないというしかない現実にコミットする。保つべき日常を保つために、たまごとありあわせの野菜を炒め合わせるどうでもいい日常を維持するために、それを支払っている。
 晴天である。私はいつになく暇である。夜は久しぶりに母を伴って、近所のうどん屋でうどんを食べた。はじめて入ったうどん屋だった。この二階の窓からは参道をあるく人だかりが夕闇のなかにもはっきりと認められる。もぞもぞと、切れ目なく人は流れていく。
 雨が降ってきたらしい。
 資さんうどんとはだいぶ違うねと隣席の客が言った。九州から来たのだろう。うどんを食べ終わって外に出ると雨は止んでいたし、入店待ちの列ができていた。ちょっとの差だったねと母に言う。

 知らない町で知らない人たちの話をずいぶん聞いた。それぞれの時間が重なって交わる。手土産にと買ったマフィンは、思いがけず地元の店の支店であった。私のなかにまとまっていたそれの意味が上書きされていく。ランボーが言った、私とは一人の他者であるというあまりにも有名な言葉を、思えばずいぶん意識してきたし、それはいずれラカンなどの精神分析に親しむ素地を作ったはずだ。La Bonitaと名づけられた、ずいぶん甘い香りの香水をここ数日は気に入ってつけている。パッションフルーツのような香りを、ヴァニラがもったりと支えている。こんな香りを纏うイメージは、かつては全然なかった。甘い香りが私の輪郭を滲ませて、異なる私を作っていくかのようだ。知らない町で聞いた知らない人たちの話も、私に滲んでいく。滲みは私を構成する文字をいくらかぼかして、読み取れなくする。甘い香り、知らない世界、晴れた空に長過ぎる時間がゆるやかに私を変えていって、また私が、それをきわめて歓迎している。

素描_10中

 レモンミント。ミントは中東っぽい感じの?という、今までに重ねたやり取りを多分に含んだオーダーの、気のおけない、ざっくばらんな、しかしひとつの約束のような確実さを持った、そうした厚みのある短い会話。やってくるのは極上と言っていいシーシャである。予定はなかったのに、図書館からの帰り道にたまたまKさんからLINEが入ったから、ここにいる。今いるんですか?もうすぐ店の前を通るところですと返した数分後にはそのオーダー。店の一番奥のソファに腰掛ける。さっき来たばっかりだというKさんが吸っているシーシャをまずは少し分けてもらう。本当に驚くべきことに、どこまでもジューシーなメロンの味わいが煙に乗せられている。
 壁にかかったテレビではイスラエルパレスチナの戦争のニュースが、長い時間取り上げられている。画面中央のすこし左側で光が何度か瞬く。その映像が何回か反復される。おそらくは兵器の射出の瞬間である。手早く用意されたレモンミントのフレーバーを吐き出した煙であいまいに画面を隠す。そんな薄い煙幕を貫いて、瞬きは眼に刺さる。タランティーノイスラエル軍を表敬訪問したというツイートを、朝に見たのだった。軍人たちに囲まれたタランティーノはあの見慣れた笑顔でカメラを見つめている。タランティーノの妻がイスラエル人だとはじめて知った。いや、聞いたような気はしたが、あまりはっきり覚えていなかった。
 パレスチナ鵜飼哲『いくつもの砂漠、いくつもの夜』がたまたま手元にあった。ジュネの話が出てくる。そうジュネの大部な『恋する虜』をずっと読みあぐねているうち、ふたつの国は戦争状態に突入していった。もちろん、私がジュネを読むことと戦争が起きることにはなんの関係もない。ただそうした想像の貧しい結び目なしに、どのようにしてその戦争を受け止めればいいのか、という話である。もちろん、粛々と知るしかないわけだ。そんな決意もただただ貧しい。そんな自省もすべてが貧しい。とにかく人が夥しく殺されている。
 テレビは大谷翔平藤井聡太の活躍のニュースに変わっていった。大谷、ドレイクに気に入られた途端に怪我したらしいですよとここで話していた話題をKさんにも話した。ドレイクに気に入られるとよくないことが起こるという、ずいぶん失敬な話があるそうだ。そんな話を聞いた翌日に大谷は怪我したのだった。ドレイクはカナダ人だそうだ。はじめて知った。

 長い長い電話をした。ほとんど夜通しの電話は途切れることない話題を継いで、人と話す喜びを編み上げた。話し終えて、話しはじめる前には見えなかった何かがそこに生まれている。さまざまな喜びがある。知ることの、胸襟を開くことの、からかうことの、疑うことの……そうしたすべてが織り込まれた形。雨が降る夜、電話を続けるために腰掛けたベンチの目の前には植樹された私には名前も分からない木があって、いびつな枝ぶりをいたずらに眺めてはそれすらわけもなく好ましいと思う時間が流れた。雨脚は強まって、枝葉に守られていた乾いだ地面もやがて全部濡れてしまった。手すりで分割された小さいベンチの片方に雨が入り込んでくるから、より奥のほうへと席を移す。斑にベンチも濡れていく。ハンズフリーにしているから置きっぱなしにできるスマホの画面にも雨粒が並ぶ。それらも手前に引き寄せる。話し相手の声が一瞬途切れると、屋根を打つ雨音がイヤホンをしていない左耳に鮮やかになる。イヤホンをしている右側から、また声が聞こえはじめる。雨のことはすっかり忘れてしまう。
 気づけば今年はずいぶん人と話している。いつになく、というより、いつにも増して。そろそろモノのほうへも行かないとなと思う。

 それでも話をする機会が減るわけではない。Kの展示を見に行ったら、資材が転がっているがらんとした広い部屋に通されて、窓際に椅子を並べて、これも長いこと話した。外に見える趣味の良いタイル張りのビルはそのうち取り壊されるらしい。が、この物価高騰で解体の目処が立たなくなってしまって、しばらくはそのままなのだと言う。向こうから黒い黒い雲がやってくる。あっという間に部屋はうす暗くなって、お互いの顔に影を落とした。この日も雨が降った。構わずおしゃべりは続く。我々がいるこのビルも様変わりするらしい。吹上御所があるおかげで、銀座は気温が低いと知った。それはおしゃべりでなく、作品によって。それもまた作品フレームのうちに包含されている、窓の斜交いに設えられた、街を見下ろす真っ白な怪物の像。彼──と言っていいかわからないが──には雨樋の機能が与えられているとはじめて知った。これはインターネットで。

 夜通しの電話の後に長く眠って、目が覚めたら今日も雨が降っている。風に煽られてほとんど真横に雨粒が飛んでいる。でも天気予報の通り、それも午後には止んだ。