仙台日記

もちろん、コロナ禍がもたらした最大の好事である夜行バスの回避が3.11の回帰によって破られたとか、その(クソ狭い)車内から脱出したとおもえば、すぐネカフェの(クソ感じの悪い)店員から指示されたブースで丸まって無理に仮眠(クソみたいなアラームがずっとどこかで鳴っている)するだとかの不愉快さから書き出せばべつだが、仙台でとても楽しく現場を過ごしてきた。

現場は2日あるうち、初日が西公園から大橋を渡った先にある青葉の風テラス。翌日が松島海岸駅眼の前の松島離宮。どちらも震災後に建てられた建物だが、今回の大規模な余震で、施設のところどころにダメージを負っていたらしい。青葉の風テラスでは壁に幾筋も亀裂が走り、松島離宮では床のレンガが剥がれ、中庭一面に広がる池の水を一時的に抜いていた。現場で話すうち、それぞれの10年前が回想されることもあったが、そうした限定的な話題より、息つく間もないほどあわただしくなったり、急にエアポケットが生まれたりする、現場特有の時間の流れそのもののほうが体に残る。

青葉の風テラスは仕事で何度か来ている。ここの多目的スペースはしばしばイベントに使われている。一昨年は瀬戸内サーカスの公演があり、私もたまたまそれを見ることができた。ぜんたいに広く抜けた空間の半分には市内で有名なカフェの姉妹店も出店しており、地下鉄駅直結のアクセスもあってか、いつ来ても席はほとんど埋まっている。南方は全面の窓ガラスで、青葉山の木々の緑を映して見ばえがいい。

集合時間の9時を過ぎればメンバーが集まって会場も開き、続々1階から2階へとエレベーターで荷物を搬入する。仕掛けに差し障りを起こさないよう、マジシャン組のイリュージョンの道具にはさわらず、手に張り付くほどキンキンに冷えたトラスを運びこむ。設置してある施設のテーブルを一部は片付け、一部はそのまま客席に利用し、最前列には持ち込みのウレタンマットを浮島のようにして敷く。パフォーマンスエリアの上手と下手にスピーカースタンドを立て、高さを調節したらスピーカーを乗せ、ケーブルをLRともにスピーカーからミキサーへとつなぐ。下手の端ではさっきのトラスを5人がかりで組んでいる。だいたいの設営が済めば、楽屋でそれぞれの着替えや道具の準備をする。このとき、髭を剃り忘れて、出番の10分前に気づくことになる。

ここには、その名の通り、風通しのいいウッドデッキがある。デッキの東端からは広瀬川と、ちょうど地上に出てくる東西線の線路が縦横に交わるのが見え、奥には市街地もかすかに伺える。
ツイート用に写真を撮ろうとするが、しかしなかなか電車が来ない。せっかくだから電車が向かってくる姿を収めたいけれど、なにぶん東西線は本数が少ない。数分は粘るのに、さっぱり来ないから、一度あきらめて、休憩時間に再チャレンジして撮影した。とはいえ、曇り空でそれほどの画面にはならなかった。

とりあえず写真は撮れたので中に戻ると、いつも観に来てくれるお客さんたちが3人でお茶をしている。ずいぶん演技を褒められたので気をよくした。この日だけ、6年前のパフォーマンスをリメイクしたものをやった。練習しはじめて、まあすぐ形になるだろうと思ったら、結局沼にハマってずいぶん苦労することになった。それでも、お客さんの1人はよほど気に入ってくれたのか、配信も買ってくれるという。評判がよくて何よりだが、たぶん今後これを演じる機会はしばらくない。あっても、この日のまま演じることはないだろう。どちらの回も友人たちが観に来てくれて、ごく短い間雑談する。それぞれ変わらないようすだった。

終演後は、ようやくお気に入りの中華料理屋に行けた。ここは何を食べてもうまいが、レニラ炒めの臭みのなさは他に比べるところがない。もともと臭みが苦手でレバーは避けていたけれど、何かの折に食べて驚いて以来、定番化した。会計のとき、ずっと姿を見せなかったからか、5年以上通ってきてはじめて店員さんに声をかけられた。

この晩は疲れ切って10時半には寝てしまう。

翌日の松島離宮ははじめて行く。これも久々の仙石線で向かう。仙台駅でマジシャンの左近さんと一緒になる。車中あれこれ話して、共通の知り合いの奇行に話題が及んだ当たりですでに松島。しかし県外の観光客はしばしば誤解するらしいが、仙台から松島へ行くとじつは40分近くかかる。また、やはり電車の本数も多くない。行けば行ったで、運が悪ければ不愉快な殿様商売の店に当たることもあるが、さすがに今はそういう店は減ったのだろうか。
そういえば、最後に友人と松島に来たときは夏で、驚くほどのゲリラ豪雨に当たり、さんざんだった。今日は肌寒く曇っている。スピーカーを立てていると、ぽつぽつと小雨も来る。4人くらいで天気予報のアプリを見せ合い、開演時間あたりで雨雲が通るのを確認し合う。全員違うアプリを使っている。しかしそれらの予報は外れ、開演時間になれば太陽が差した。それからはずっとあたたかい。

1回目と2回目のあいだ、施設の方から昼食がふるまわれた。豚バラ肉のブロックにてりやきソースがかかったものと、やきそば、そして豚汁。さむい時期、現場ではよく豚汁をもらう。それも本当に久しぶりのことだ。
あたたかな日だったので、そのまま中庭の客席を借りて、みんなで食べる。時節に不似合いなバーベキューのような雰囲気ができる。
目の前にひくい山がある。この施設は、宮城県民には馴染み深い松島水族館の跡地で、しかし水族館があるうち、その山があることを知らなかった。近くでよく見なかったが、山の裾には洞窟のようなものがある。子供の頃、こういう穴ぐらを見るたび、あれは防空壕だったと言われて癖がついたのか、このときもそう思った。

昼食を先に終えたメンバーの何人かが山を登っている。衣装のままで登るから、ひとり派手な色が妙に目立つ。ベテランの案内人に先導されているような雰囲気がおかしい。
自分もそのあと登って、中腹あたりでジャグリングする。それを撮影係も兼任していたマジシャンの曾我さんが撮っていてくれている、と思うことにして何度かトライする。思いのほか木に絡まってうまくいかないが、なんとか成功して下山すると、さすがちゃんと押さえていてくれる。曽我さんのカメラで今の動画を見せてもらい、すこしパフォーマンスの話をする。自分のパフォーマンスは、動かないことを意識しているのか、と訊かれ、動かないというより、道具へ視線を集中させたうえで運動を作るため、体の動きが小さい時間がある、私のジャグリングのパフォーマンスは身体だけでも道具だけでもなく、その関係から運動が発生することに主眼がある、というような話を、こうして文章にするよりずっと解像度は低く説明した。

池の水がないから、浮島のような役割を果たすだろうエリアは、間が抜けた感じになっている。その浮島のいちばん大きい島に、なぜかみんな自然に集まって輪になってどうでもいい話をした。この人数はエレベーターだったら定員オーバーになるかね。ていうかエレベーターのブザーって聞いたことある?ああ、ありますよ、なんだったら、鳴りそうなときに狙って乗ることもあるし、とか、本当にどうでもいい会話を、傍から見たら何かを召喚しているかのような円形になって話していた。それをまたわざわざ曾我さんが高いところに登って写真を撮ってくれる。

2日とも、演技の合間にケント君へあれこれとアドバイスめいた話をした。でもアドバイス、というのは口幅ったい感じがする。特に求められてもいない話をするのは、自分がしたいからであって、そういう触発を促されるパフォーマンスへ、忌憚なくコメントした、という。しかしそれは立場的にもへんな「アドバイス」めいた空気は拭い去れない。みょうに気持ち悪いけれど、仕方ない。本筋の感覚は通じているはずで、そう思うからこそ、話す。
ちょっとこだわるが「アドバイス」というのは、おおく共通認識がとれているような事柄があり、その認識からズレていると判断できる事柄になされるもの、と思っている。ケント君のパフォーマンスは、そうした共通認識が立ち上がった以降の話で、立場によって意見を相違する領域のものだ。そうした相違にこそあえてつっこんでいくのが最もおもしろいことで、また言葉を変えれば批評的な営為だと思う。が、私がケント君にしたのは、批評というより、もっとローカルな信頼関係を前提にしたコメントだった。しかしそこには先に言ったキャリアや年齢といった縦軸の「立場」がやや干渉しているきらいがあって、それが気持ち悪い。かすかにでも権威性があるところ(権威がコメントの信頼を水増しするような)が効果を持ってしまいそうなことを、気にしつつ話した。同時に、そうした小さい権威性はむこうで勝手にキャンセルしてくれるはずなので、構わずズバズバ話した。
自分には、こういう対立する感覚がしばしば同時並行的に起こる。

終演後、しらないお客さんが声をかけてくれる。マジシャン組のお店に通っている方らしい。すごいね!あんなに高くあげて!うまいね!と。ありがたくお礼を伝える。こうした感想はしばしばいただく。だから同時に、すこしばかり物足りない思いもある。楽しんでもらって、また感想まで伝えてもらうことはありがたいが、それとは別に、うまい/すごいというラインしか応答されないのは、自分のやっていることに不安がよぎる。私たちがうまい/すごいのは、本当に当たり前のことで、たぶん相当な体調不良でも酩酊状態でも達成できることにすぎない。もちろん、何がしかの質は残しつつも、それを言葉にしようと思わないだけなのもわかる。ケント君のこともそうだけれど、一般的な感覚よりも遥かに強く、具体的なコメントを求め、与えようとする要求が高いのだと思う。ただ、くだんのお客さんは最後に、ほとんど振り返りつつ、誰に向けるでもないように、そしてきれいだったなあ!ともらして、それに救われる。

 

 

f:id:keisukeyuki:20210301092101j:plain

f:id:keisukeyuki:20210301092102j:plain

 

ハマることと抜けること そしてK-POP男性アイドルたち

たとえばいわゆる「アニメ声」に苦手意識や偏見があるとして、その障壁に阻まれてアニメが見られないとする。

けれども、話題になってるだとか、信頼の置ける筋が評価してるだとか、そうした理由でともかく...「まどマギ」なり「ユーフォ」なり「よりもい」なり、まあいったん見ていったとする。面白くて、あるいはピンとこなくても、見続けてみる。

すると、しばしばいつの間にか、苦手だった「アニメ声」が気にならなくなっていることがある。どころか、長ずれば、定型の焼き増しにしか思えなかった声優の演技の微細なニュアンスが掴めるようにさえなってくる。それで結局はアニメが見られるようになっている。

 

たとえ話にしたものの、これは他ならない自分自身の話で、いっときはアニメを集中的によく見ていた。
文化的に偏見がありながら、飛び込んでみればそれを改めることができた大きな経験のひとつである。

 

アイドルでも苦手なことや、偏見すらたくさんあったけれど、おやすみホログラムが好きになったあたりで–––当時のふたりは青髪と赤髪だった–––見慣れなくて抵抗があった原色系の髪色がどうでもいいものになったのに気づいた。今はそうした強い発色の髪色、あるいは微妙な染色の具合が、アイドル当人との意外なマリアージュを作るのを感嘆しもする。

 

何かに"ハマる"というのはハマる以前の偏見をもった体から"抜ける"ことでもある。

 

とはいえ偏見から抜けきることもない。
アイドルの話をした直後だけど、こうした偏見、もう少しライトに言って、いまだ関心の持ちづらいのが、男性アイドルでもある。

ジャニーズであれば、世代的にもSMAPのゴージャスさは今も変わらず特別であるし(はっきり言って、お家騒動のあとSMAPに番組で頭を下げさせたフジテレビおよびジャニーズ事務所は、日本の醜悪さを強く推し進めたとすら思っている。絶対にやってはいけないことだった)、嵐の曲や、タレントとして好きなメンバーもいるのだが、LDH(狭義にはアイドルではないだろうが)はまったく良さが掴みきれない*1し、「メン地下」に至ってはいまだに無知と無関心を貫いている。
男性アイドルはなんだかそこまでピンとこない、というのが正直なところである。別にピンとこないならこないでよさそうだけど、性別を限らない「アイドル」にも関わらず、自分が積極的に見ているのは女性アイドルのみ。これがちょっと気になっていた。

自分も結局は性愛の対象であるところの女性アイドルでないと、強い興味は持てないのだろうかと、長らく微妙なしこりがあった。言明しておくと、私にとって、意識的には、アイドルは性愛の対象ではない。むしろそうした性愛を否認している。
しかし、「推し」と呼べるようなアイドルに関しては、否認された性愛がねじれて現れていると思うし、そこまで否認してしまうと、何かおかしいとすら感じる。
かといって、結局はかわいいから好き、女の子が好きなんでしょ、という雑な話は全然ノれない。そう思ってる人は、そう思う自分のファンタジーを、なぜかアルコールのようにして共有したがるが。

 

で、結論から言ってしまえば、さいきんのK-POP渉猟の結果、難なく男性アイドルグループもベタに関心を持つことができるようになった。あっけないものだった。
そして、やはりというか何というか、最初に偏見を解いてくれるのは制作物=音楽/ダンスへの興味だったりする。思えば女性アイドルにしたって最初はそうだった。
あとは出会うタイミングと、出会ったあとに経験する量。言ってしまえばなんてことない話だけど、それが起きるまではもやもやするものである。

と、ここで終わればめでたしめでたしでいいのだが、混ぜっ返す。

ちょっと横よりするが、たしか國分功一郎ネトウヨを指して、めちゃくちゃ勉強して色んなことに詳しいのに、一向に認識が改まらない人たち、と話していたのを思い出す。とはいえ、昨今の陰謀論ばやりにしても、世界の見方が変わるということにおいては、当人たちの新鮮さはいかばかりだったかと思う。ネトウヨにしても陰謀論にしても、そうした自己のパラダイムシフトの新鮮さに酔い続けているのかもしれない。
個人的には、ネトウヨ陰謀論には、社会的に是正すべき点が多々あるにせよ、個別の、パーソナルでデリケートな問題が横たわっているとも思っている。また、私が見る限り、國分功一郎はそうした心性を持つ人間のパーソナリティに早いうちから具体的に向き合っていた人だ。

話を戻すと、自分にとって男性アイドルをベタに面白がれるようになったことは、性愛的な興味の限界を越えたという点で偏見を脱したのかもしれないが、それで性愛の対象が積極的に増えたわけでもなく、相変わらず女性アイドルには性愛的な否認があり、男性アイドルにもある。むしろ、男性同士がにこやかにボディタッチしてる様子を見ると、微笑ましさもありつつお腹いっぱいだなと思ったりもする。森茉莉の同性愛が主題の小説でも似たような感覚になったことを思い出したりする。それは、紛れもなく同性愛嫌悪の類だろう。
他方で、男女どちらに対しても見目麗しさへの関心は温存されている。ただし、それを即座にフェミニズムの成果あるいは常識に還元して解消する気もないが、わざわざ公言したり、無邪気に称揚したりする気もない。アイドルの形式において男性アイドルの表現をふつうに楽しめるようになったのはいいけど、実際、何が変わったのか分かったものでない。
いつかアイドルの割り切れなさ、スリリングさと遊んでるうちに、大きく何かを誤っていたとしっぺ返しがあるのかもしれない。それは知れば知るほど、彼の国のアイドル文化にも危うさがありふれているからではある。

それでも、アイドルが面白いと思うことをやめられないし、彼ら彼女らが広げてきた独自の領野があることは、誰にも否定できないはずだと信じている。

 

 

 

 

以下からは単に、知ってる人からすればひとつの新味もない、何それがよかったという話である。

 

www.youtube.com

 

ITZYからのTWICEからのStray Kidsで、J.Y.Parkの掌のうえで遊んでいる気がしてくるが。スキズはとにかくすばらしい。

 

www.youtube.com

 

前々回でも書いたリレーダンス動画があいかわらず好きで、なかでも、いや、これはすごい......陥落とはこのこと。過不足ない遊び心と、炸裂する笑顔の連鎖。笑顔って、こんなに人を惹きつけるのかと、それこそ何度もオタク三日目を繰り返し続けるような典型的な感想だけど、人を永遠の三日目に押し返すものこそがアイドルだ。

 

www.youtube.com

MONSTA Xにはジョホンがいる。

www.youtube.com


スキズたちとは対照的な、端的に「男性的」な居住まいと顔つきの良さに、初見から射抜かれてしまった。メンタルヘルスの問題で休養中らしいが、切に養生してほしいと思う。

 

www.youtube.com

EDMやトラップ隆盛のK-POPシーンのなか、こういうナンバーを繰り出してくるSEVENTEENには、それだけで嬉しくなる。「Left & Right」のゆるい感じも最高。

 

www.youtube.com

ちょっとたじろぐような耽美性のあるMVだが、コロナ禍を歌ってここまでアイドルソングとして完璧なものにしているのに驚く。コロナ禍によって夏を失い、永遠の冬を繰り返すような「私たち」は全世界的なものだが、他でもないアイドルである「私たち=TXT」がアイドル活動の"旬"を失い続けるという切実さに意味が折り返すと、「私たち」がやすやすと連帯できない距離がそこに生まれる。
もちろん、コロナ禍の美化、アイドルを儚さとして消費する構造の温存など、違和感もある。それでも、である。

 

www.youtube.com

BTSに関しては「花様年華」あたりから曲だけ好んで聴いていたものの、こうして改めて見ていくことで、彼らのアイドルとしての素晴らしさに開眼していくばかり。ちょっとした仕草が魅力的だし、自分が魅力的であることを隠さず見せてくれる。「SAVE ME」でRMのパートがはじまれば、椅子から立ち上がってノり出すメンバーたちのなんて美しいこと。

www.youtube.com

最近は「ON」の映像を探して今さらいちいち感激しながら見ている。いわゆるオタク特有の評価インフレが入っているが、半ばは本気で、BTS「ON」は男性アイドル表現のひとつの頂点ではないかと思う。もちろん、シエナ・ララウの振付に支えられながら。

 

こうした群舞は特にそうだが、一部のK-POPのパフォーマンスは自分にとって大好きだった番組「SYTYCD」を思い出させる。オーディションを勝ち抜いたダンサーたちにランダムで、様々なジャンルの振付師が振付たダンスパフォーマンスを行い、視聴者投票で勝ち抜いていく。基本的に前半は男女のペアで踊られるのだが、トップ4になると同性同士のペアダンスが出てきたり、開票回の番組冒頭ではグループダンスがあった。ちなみに邦題は「アメリカン・ダンスアイドル」。
K-POPのアイドルたちの多くは優れたダンサーであると同時に優れたシンガーであり優れたラッパーであり、そりゃ面白いよねとしか言いようがない。そういえば、K-POPのアイドルグループはしばしば、オーディション番組を勝ち抜いたメンバーたちで作られている。

 

しかし、たしかに素人目にもスキルフルなメンバーたちが活躍するK-POPのアイドルは、デビュー前にきびしいトレーニングを積む練習生システムもあり、日本のアイドルと比較して"完成度"が高いのかもしれない。それでも、そうした技術的なアドバンテージの結果でのみ、K-POPのアイドルたちが面白いわけではない。
そして、そんな"完成度"というものは、複数のグループを、メンバーをひとつずつ見ていこうと思えば、差異のニュアンスに溶けて消える。技術が優れているから、自分たちで楽曲を制作しているから、振り付けているからという「自律した主体性」への大雑把な評価自体が、いつまでも「アイドル」に呪いをかけ続けているのは日本も韓国も変わらない。
ラップやダンスに長じる彼ら彼女らは、韓国の音楽業界の構造上「アイドル」として活動を続けざるを得ないこともある。つまり、幸か不幸か、たまたま彼ら彼女らは「アイドル」であったりする。そこには相変わらず曰く言いがたいねじれがある。が、まだ何も分からないK-POPについて、ひどくつまらない"何ごとも単純ではない"という感覚しかない。

 

ということで、ちょっとずつでも理解を深めるべく、日本語の環境に頼っていては限界があるなということで、韓国語をぼちぼち勉強し始めた。本当に始めたばかりでハングルを読むのもおぼつかないが、歌番組のテロップでメンバーの名前が読めた時の快適さに心から感動している。

*1:おどろくべきことに、ちょうどこれを書いてる最中に知ったBALLISTICK BOYZがいい。遅ればせながら今後はチェックします。

www.youtube.com

大山エンリコイサム『夜光雲』を観てきた

観てきた。たいへん面白かった。

 

美術にも美術展にもリテラシーが足りず、へんに緊張して腰が重くなるのを、晴天の勢いも借りて、横浜まで1時間ちょっとかけて出かけた。遠いのも嫌なのだが。しかし横浜は好きなので、さきに横浜美術館で「トライアローグ」を眺めてから、神奈川県民ホールまでも歩いて移動した。
道中、有名な新興宗教施設の入口(通るたびになんとなく見てしまう)に「コロナ撲滅祈願」というような貼紙があって、たしかに祈願としておけば、実効性が先送りされるから、長引いたところで、かえって新規信者の獲得に繋がるのかもしれないと思った。祈願の連帯に巻き込むという。

で、会場。

感染追跡の情報登録をすると、順路は階下に促される。これもいつもだけど、順路というのが苦手で、べつに好き勝手に見たいというわけでなく、連続性があるのかと思うと個別の作品体験にくわえて、展示構成との関連も把握せねばという圧力を過剰に感じることがあるので、不得手だ。
しかし、地下に促されるというのは、知的な結構だけでなく、なにかもっとダイレクトな体感覚に訴えるようなものがあると思った。まだ階段を降りる前なのだが。

 

最初の作品は、長テーブルに敷かれた巻物のような作品。配布されていた資料によると83×586cmの大きさを持つ。それが、仕切りをまたいでふたつある。
言語・書体・時代を隔てた手紙類が切り取られちぎられ重ねられ、形ばかりでなく意味もまた「雲」のように不安定にゆれつつ連なったまとまりとなっている。中央付近には、署名か落款のように「QTS」がかかれている。
ところで「かく」というひらがなの表記は、作者の意図するところの多義性、「書く」「描く」「掻く」などが内包される文脈によるものらしいが、この《レタースケープ》と題された「雲」も、作品を眺めていると自然に「Clowd」とただちに英語に翻訳されつつ、それが日本語で「雑踏」を意味する文脈を引き出し、またネット上の保存システム「クラウド」のような文脈も連想させられることに気づく。作品自体にリテラルに存在する「文字」が「言葉」となって頭にしのびこんで浮遊するような感じ、といえばいいだろうか。そんなふうに連想が働きはじめた。

作品に用いられている手紙は、おそらくすでに用が済んだもの(送り先に届けられ、読まれ、なんらかの事情で手を離れた)であり、そうした意味では、いくぶん手紙の亡骸であり亡霊でもあるように思える。すると、雲-Clowd-雑踏とゆらぎつつ連想された人間の足音も、どこか遠いもののように思えてくる。事実、街から人が減って一年以上になる。いっぽう、こうした状況へ即座にレファレンスをもつように解釈するのは、どこか品のないことのように思いもする。そうした引き戻しが与えられるのは、作品の力かもしれない。

などと刺激されつつ、次のスペースに進むと《FFUGARATI》のコーナー。QTSのシリーズが片面の壁に間隔をおいて7点掛けられている。先の作品のベースが和紙であったことを思うと、書か水墨画のような連想も働く。それぞれ211.7×135×3cm。

そういえばこの数字は「縦または高さ、横または幅、厚みまたは奥行き」の順である。つまりさっきの《レタースケープ》は横長の作品ということになる。記憶では《レタースケープ》の端は巻かれて展開しきらず、その先があることがうかがわれる形だったはずだ。何が言いたいのかというと、作品の表面に多層的にコラージュされている手紙が雲のように無志向なゆらぎをもつ一方、支持体には巻物のように横軸に展開していく力も含まれているということだ。それはたしか絵巻物では時間軸に相当するはずだ。《レタースケープ》には、無志向的にゆらぐ雲のようにあいまいな漂いだけでなく、横に展開する時間がある。それだけでなく手紙の物質的劣化や書体の歴史性から想起される縦軸の時間もある。これらが力として錯綜しながら重なっている。ということかもしれない。
さらに何が言いたいのかというと、この作品から自分が読み取った力のようなものは、次なるQTSの展示コーナーでも、というか、作品が掛けられている背後の壁に、巻物がもっていた横の展開の反復を読み取った。あるいは、QTSのかかれたキャンパスが並ぶことで、壁がもうひとつの支持体として横軸の力を持ち始めるような。そうなれば7つのキャンパスは、そうした横の動線に縦の力を加えてリズムを作る、句点乃至読点のようなものにも見えてくる。むろん、キャンパスにかかれた個別の線の動きを追えば、そうした単純な作用だけでない、べつの力学が働く。けれども、壁に繁茂するような(実物は表参道のJINSでしか見たことがないが)QTSと違って、キャンバスの外を志向するような動きがあっても、フレーム内に静かに佇むような印象があった。
いずれにせよ静的な展示でなく、環境を巻き込んだインスタレーションのようなものとしても、このスペースが機能しているのではないかと思った。

こうして、順路が苦手だとか言いつつ(それが見当外れであったとしても)、すでに展示のグルーヴに飲まれている。たぶん、あとでこうやって何か書きたくなりそうだから、いちおう写真を撮っておいた。やましいことはないのだけど、こういうとき、職員の方々の視線が気になる。


うっかりさきに《Closs Section》の部屋に進んでしまう。順路としては、薄暗い地下とひかえめな白色の展示照明の明暗から放たれて、一面の窓から自然光の差すサンクンガーデンのわきに設えてある《スクエアプレッシャー》が先にあり、これが異音のような低音を出していたので、気づいて戻った。サウンドアーティストの大和田俊との共作らしい。ブーンという音とともに、「セスキ炭酸ナトリウム」というらしい細かいプラスチックみたいな粒が躍っている。またつまらない連想としてシャーレのなかで培養されているウイルスの動きのようなものを思った。作品から有意な引き出しができない、というより、外の天気のよさや、ここから外に出るとどこに繋がるのかという、関係ない気の散りがおきて、早々に先に進んだ。

一転して蛍光灯が影なく照らす通路には、黒い板「スタイロフォーム」というらしい建材が三体積まれている。200枚。この板の黒はエアロゾル塗料と墨で塗ったものだという。でこぼこに積まれた重なりが大樹の幹のようなうねりを持ついっぽう、熱線カッターで切断したという断面が露出している。自分で出した比喩から続けて換言するなら、数えられない年輪があらわになっている、というような。
配布されていた鑑賞の手引きによるなら「ライブペインティングなどで腕を振り抜いて即興的な線を引く行為と、両手に持ったハンドルで熱線カッターを上下に動かし、大量のスタイロフォームを切り落とす行為は、身体の次元で共通する感覚があ」ると。自分はエアロゾルスプレーで線を引いたことも熱線カッター(どんな形のものかも知らない)を持ったこともないので、その身体感覚にシミュレートして同期することは難しいが、視覚性だけでない水準の出来事が、簡素な展示に絶えず自覚的に連続しているようだ。

メインの展示スペースである第5展示室は《FFIGURATI (アンストレッチドキャンパス)》が5点並ぶ。並ぶ、といっても、吹き抜けに置かれ、掛けられ、吊るされるキャンパスは、名の通り木枠に貼られず、端など見るとを巻き上がっていたりもする。

ここには、QTSのパターンをもつ作品だけがあるわけではない。鑑賞者がおそらく最初に目にするのは単純な円のかかれた作品である。円は輪郭から黒い滴りを作って、記号的でない、それこそ具体的で身体的な痕跡を喚起するかにみえる。と同時に、近寄ってみると、それが円をかいた時のダイレクトな痕跡かというと、そうでもないらしい(勘違いかもしれないが)。つまり、かき足された滴りであり、シミュレートされた痕跡である。かくことに身体運動の痕跡は欠かせないが、この作品においては、かかれたものがかく運動にのみ還元されるわけではない。つまり、一元的な時間に引き戻されるわけではない。焦点をあわせる距離によって、時間は様々に浮かび上がる。
他にもよく見ると、近くの作品の床に墨のような黒い液体の痕が見える。場内はかなり暗いので見落としそうになったが、吊るされているキャンパスの下部に、キャンパスをはみだすような滴りが見える。それに促されて床を見ると、先の液体がある。ただ、その痕も、画面の滴りと対応しているものではないように見えた。というか、これも円の滴りと同じで、たんなる作業の反映でなく、一部はかきたされたものであるように見えた。

吹き抜けの階段を昇って展示を見下ろして、もう一度降りて見上げて、昇って、最初にいた一階に出る。例によって、出てからもうひとつ作品があることに気づいて、戻って《スノーノイズ》を見る。タブレットを使った作品だ。離れているとアナログテレビの砂嵐のように見えるが、近くに寄るとディスプレイにQTSのパターンが密集して高速で回っているのが分かる。なんらかのメディアで再生されているということでは《スクエアプレッシャー》(どうでもいいが、変換するとやはり「スクエアプッシャー」に直されてしまう)と、また細かいモチーフが間断なく運動している点でも、対応しているように思う。
しかし、《スクエアプレッシャー》が見下ろすような鑑賞形式だったのに対し、《スノーノイズ》は壁に設置されたiPadに正対する形だ。これは第2展示室《レタースケープ》と第3展示室《FFIGURATI》の鑑賞の形を反復するように重なるものだとも思った。それと知らずして、違うものを見ながら、身振りが繰り返されている。反復がさまざまな水準で韻を踏むように、またあえて外すように、しかけられている。

ところで、いま会場図を見ていて気づいたのは、地下の展示順路が中央の展示に向かって左回りに巻き込む形であることだ。それだけでなく最初に階段を下降して、再び一階に昇ってくることを考えると、鑑賞者は螺旋状に動かされている。視覚性だけでない身体感覚は、作品の中にだけでなく、作品をとりまく環境にも埋め込まれて、鑑賞者に作用している。 

その運動の最後に待つのが、第1展示室の《エアロミュラル》だ。壁の仕切りにわけられた(ここでも最初の展示スペースとの反復がある)まっしろな部屋がふたつあり、手前の部屋には一組の、奥の部屋には二組の小ぶりなスピーカーが部屋の隅々に置かれて、エアロゾルスプレーを吹き付け、また缶を鳴らす球の音が再生され続けている。つまり、見るものはない。サウンドインスタレーションがある。

QTSの線の長さは、持続するスプレー音の長さと対応する。シューーッと長い音が聞こえるとき、長い線がかかれている。シュッ、シュッ、と短い音であれば、短い線だ。そこから、ここにはない線の軌跡を想像するわけだが、あいにく、具体的な線の形はやはり、想像しようがない。どのような方向で、どのように絡みあっているのか、それは音からは再現できない。また、スペースで同時再生され複数に重なり合う音源からは、そうした想像的な再現の正確性はそもそも期待されていないとも思う。

仕切りをまたいでスペースを何度か行き来していると、いっぽうのスペースからは音源が確認できないことに気付かされる。しかし、音は聞こえてくる。そして、壁の向こうで再生される音から(タネを知っているのに引っかかるマジックのようだが)、そこに「かく身体」がいるのではないかという期待が生まれている。何もないのに、不可視の暗部が作られることで、別のフレームが喚起される。それは視覚ではない。音から遡行して線を想像することでもない。ここではないどこかで何かが起きていることの手触り–––それは制作することそのものの手触りかもしれない–––が生々しくも、雲のように発生している。


会場を出て、なにげなくTwitterを開くと、ちょうど大山エンリコイサムからRTされた来場者のツイートが目に入った。タイムスタンプを見ると、直近で1時間くらい前のものだった。それらが何個かTL上に表示される。このツイートをした人がさっきまでいた。ということを思うと、へんな感じだった。

 

そのままGoogleマップのアプリを開いて、駅の方向を確認するが、何年かぶりに中華街ものぞいてみるかと遠回りを決めた。中華街は驚くほど人がいなくて、手相見の誘いだけ熱心だった。月餅をおみやげに買って、関内駅に向かう。

駅前のスタジアムが工事中で、防音壁に何枚も「オリンピックの準備で大変ご迷惑をおかけてしています」と貼られてあって、他意もないのに別の含みを感じた。

 

 

f:id:keisukeyuki:20210120131129j:plain

f:id:keisukeyuki:20210120131246j:plain

f:id:keisukeyuki:20210120131555j:plain

f:id:keisukeyuki:20210120132011j:plain

 

yakouun.net

ITZYのリレー動画が面白い

年が明けてからというもの、何度も繰り返して見ている映像がある。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

特に断りも入れていないが、ひとつではなく、上のふたつ。

 

Twiceの「Eyes wide open」がなければ2020年の私的ベストK-POP音源だったITZYの二枚のミニアルバムから、それぞれ表題曲がパフォーマンスされているこの動画は、見て分かるように、スマートフォンの縦型の画面を想定した9:16のアスペクト比で、メンバーひとりひとりが順繰りに前へ出てワンフレーズずつ踊っていくのを繰り返す「リレー動画」という企画のもの(この企画を考えた人に心からの拍手をしたいくらい、好きだ)。
どうしてこれを何度も見ているかというと、楽しいからに尽きるのだが、何が楽しいのかと言われると、けっこう説明が難しい。

 

ここでついでにもうひとつ見てほしいのだけれど、ITZYの振付師であり、Twice,NiziUらJYPのアイドルだけでなくPSYからBLACKPINKまで担当する売れっ子Kiel TutinがBLACKPINK「How You Like That」をWSで踊る(ユニゾンが前提になっていてフレーズは違うが、一部のフレーズが制作段階で使われていた)映像がある。

 

www.youtube.com

 

前後するが、BLACKPINKの踊りを見てから見たほうが、よりおもしろい。

www.youtube.com

 

Kiel Tutin、ちょっと笑ってしまうほど踊りがうまい。
もちろん、素人なので、なにがどうと言う具体的な説明はできないし、いや、こんなのは別にそこまで大したことない、ということもあるかもしれない。
にしても、BLACKPINKに与えている振付が、段違いの明瞭さ(「ハッ」と息を引き込むような音でなされている両手を開くポーズが、KielとWS参加者で、どのように違っているのかを確かめるとおもしろい)で再現されているのは明らかで、くわえて異様な内股のフォーム、そしてそのコントロールなど、単純にあまり見たことがない。この動画もしつこく20〜30回くらいは見た。この話も、飽きることなく、様々な細部をねぶるようにして話していくこともできるが、問題は、というか気になるのは、あくまでも前出のITZYのほう。

Kielのダンスに関しては、すでに書いたように、「ダンス」としてその線や力の働きを追っていくことで、関心の在りどころを掴むことが、それなりに可能だ。
けれども、ITZYのリレーダンスでは(抜群の「ダンス」の精度を楽しみつつも)、そうした表層を追いかけるだけでは足りない、と感じる。自分は何を見ているのだろう、と思いつつ何度も見ている。
もちろん、何を見ているのか、端的に書いてしまうことはできる。たとえば縦一列のフォーメーションに対応された振付のアレンジだとか、振付の途中に挿入される、ちょっとしたポーズだとか、ユナ(「Not Shy」のトップで踊るメンバー)が、列からはみだして、あるいはメンバーが屈んだりすることで空いた隙間をとらえて、何度もカメラに顔を見せる......そう、こう書いてしまうと、ユナがカメラに向かって顔を見せていることで、何を見ているか、わからなくなっていることに気づく。ダンスパフォーマンスに含まれるさまざまな階層の、どこに位置づけられるものなのかが。

これもまた、とりあえずの簡単な結論を出してしまうこともできる。つまり、5人で踊られるパフォーマンスの総合的な空間乃至リズム(をカメラはフィックスで収めようとしている)からユナがひとり脱してしまうことで、空間乃至リズムの持つ方向を多方にブレさせ(ちょっとした仕草やポーズもこうしたベクトルに対応する)、予定調和ではない華やぎやかるい驚きが与えられる...などと。わかったようなわからないような。
ようするに、Kielのそれ自体大量の情報を含むようなダンスと、また違った階層の情報が一緒くたに混ざっているリレーダンス(これもまた言及したように、動画のスタイルもダンスと不可分である)とを重ね合わせて、重なりきらない剰余にあらわれる「アイドル」の姿に、いまだ飽きないのだな、ということでしかないかもしれない。

以前書いたけれど、「How You Like That」のダンスプラクティス動画では、LISAのダンスが絶品である。ダンスもだけど、表情、特に視線の使い方がとりわけすばらしいと思う。対して、Kielは、マスク姿であるからという側面はあるにしても、表情も視線もまったく使っていない。異様な身体のコントロールだけで、(逆説的だが)アニメのようなリアリティを表している。
寄り道して細部に入るなら、たとえば冒頭、深く落とした重心が、その深い重さに反してパキパキと内転する両膝によって霧散するのを、いっそう早くに振り払うような腕の速さにつられて持ち上がる左足がつくる瞬間のエアポケットと、全身を支える右足の強さ、に促されてやはり強く踏み込む左足による力の連鎖があり、他方で、腰というにはあまりに自在な回転に突き出し、双子のように近づきあう膝頭が結果的に形成する内股のそれらフォームが、ありきたりな「女性」像を引用しつつも、過剰さにおいて定型を崩してしまうような、その強度に宿っているリアリティに巻き込まれることが、彼のダンスを見る経験だと思う。

 

では、と、またITZYに話を戻すと、彼女たちがもっぱら「アイドル」の系において私を巻き込むとしたら、そうした力の働きとはなんなのか、やはりよく分からないままだ。分からない、というのは、ひとつには「形」に基づいた根拠の遡りがむずかしい、ということだ。ユナが列からはみ出て顔を見せたり、他のメンバーがちょっと振付以外のポーズをしたりするのを「形」の問題として考えていくと、無理が出ると思う。
すくなくとも、かわいいから、とか、尊いから、というのは、あるにしてもそんなにピンとこない。それにしても、かわいい、ということについて、充分に(というのは、しつこく、ということ)考えられた文章を、ほとんど知らない。かわいい、ということが人をひきつけてダンスや歌を見ることに招き入れるなら、そこに何があるのか、とても知りたい。かわいい、とは別にそういうことではない、ということもあるだろうし、それであればそれで気にはなる。かわいい、ということは、よく分からない。あるにしても、自明のことではない。当然、自分が括弧付きで書いた「アイドル」というものの内実が何なのかも、不十分なままだ。そんなに考えるようなことでもない、のかもしれないけど、面白いと思って見てるものが何なのか、言葉に置き換えられるならそうしたいというのが癖なので、ちょっと仕方ない。何か別の仕方があるのかもしれない。



年末からこうしてしばらくK-POP漬けで、MVも他愛なくダベっている動画もそれなりに見ていて、気づくとライブ映像はあまり見ていない。いいものに当たっていないのか、ツボを外してるのか、面白いと思うことがほとんどない。たいていダンスプラクティス動画よりも精度が下がって、リレー動画よりも華やぎに欠ける印象だ(状況が許すようになったら、ぜったい現場に行きたい)。

というので、久々に日本のアイドルのライブ映像を見ると、やっぱり面白い。当たり前だが、これは単純に比較して日本のアイドルを持ち上げたいわけでなく、「ライブ」によって感じられる、やはり根拠付けがむずかしい固有のリアリティが、日本の一部のアイドルグループにたくさんある、という話にひとまずしてしまう。

 

このとき、やはり以前書いた記事のことを思い出す。K-POPのダンスプラクティス動画に範をとりながら、徐々に違いをみせるカメラの動きから、日本のアイドルが主にライブで見せようとしている、あるいは観客が見ている"何か"が現れる。
ありていに言ってしまえば、それは「情動」だろう。だが、喜怒哀楽で単純に捌ききれる形式的な感情ではなく、情動に伴う、微妙な表情その他の筋肉の変化が、おそらくある(ダンスだけでなく、声帯にも影響があるだろう)。そして、それを見ている。コントロール埒外にある動きを、見尽くすのではなく、感覚的にキャッチする。Aqbirecの無観客配信であればカメラの押し引きに反映され、旧来であればオタクのMIXやコール、モッシュにフィードバックされる。それが「現場」となっていく、とするのはいささか我田引水のきらいがある(『かいわい』買ってください)けれど、いったんそうしておく。

 

 

もろもろいったんの落ち着きが出てきたので、今は結論も何もなくてもどうでもいいのだが、当然また、今年も何かとこういうことを書いていくと思う。

 

 

 

ちなみに、ですます調は廃止。一、二年前から思ってたけど、どうしても書きづらくてなー。

 

 

 

 

2020年のまとめ 観たもの聴いたもの編

毎年、その年に良かったものをずらずらっと並べるのが楽しみだったのですが、どうも今年はいまいち興が乗らず。趣向を変えて、各ジャンルひとつのものだけにしぼってから、話してみようかなと。そうしよう。

 

音楽

 

Twice 「Eyes wide open」

www.youtube.com

 

※1/3注を追記
今年はいよいよK-POPカルチャーを見ていくぞという条件が揃ったかなあという年にもなりました。BTS,NCT,ITZY,BLACKPINK,MAMAMOO,LOONA,aespa,Weki Meki......既知のグループも未知のグループも、次々に好みの音楽に行き当たりだしたのを最も大きい要素としつつ、リリスクのminanさんのバースデーライブでK-POPから「Feel Special」「Any song」「Dynamite」をバンドセットで聴けたのも現場の多幸感と相まって後押し、その流れでチェックしたTwiceの新譜が、かつてのキラキラしたポップさとは別のイメージで上書きされたのが決定打でした*1
貼付けた「I CAN'T STOP ME」の、いささか懐古趣味もあるサウンドも趣味ですが、「BRING IT BACK」のように大胆で、トレンドも抑えつつ、かつそうした目配せにとどまらない"K-POP"固有の手触りをおもわせるに充分な楽曲群が、ピアノバラードという個人的な鬼門をクリアした上で13曲も連続する幸福。聴き始めたのこそ今月ですが、今年のベストアルバムといっていいほどリピートしています。
ちなみに、これを聴くまではITZYの2枚のミニアルバムがベストで、グループダンスの精確さに関心の薄い私ですら目を引く精度と、一転して、まるで日本のアイドルのようにくだけた企画–––ポジションチェンジや衣装チェンジによるダンスプラクティス動画–––のグダグダ感も身近で、K-POPにおける"推しグループ"の様相です。

 

こうして楽曲/パフォーマンスから離れた側面にコミットできるようになると、いよいよという構えができてきます。しかし、現場はもちろん、しっかりコミュニティに属してないと見落とす様々が多すぎて何もわからないまま、修行時代は続きます。
K-POPとはなんなのか、というそれ自体外野だからこそ口にできてしまう目の粗い疑問は、たとえばブルピンのNETFLIXドキュメンタリー『Light Up The Sky』などを見ていても、違和感に重なって浮かび上がります。
K-POPは(日本のアイドル文化に深くコミットしている立場からすると特に)、どうしても優れた部分だけがピックアップされて語られがちにみえます。ゴシップめいた話題は論外としても、ひたすらハードなトレーニングを誰でもないものとして数年間続けた先に、ひとたびデビューすれば突如として世界中が自分たちを大スターとして認識してしまうこの光景には、かつては『ローマの休日』によって瞬く間に大スターになってしまった「オードリー・ヘップバーン」を生んだ時のような、むしろ"古さ"の回帰を見てしまいますし、ありていに言って恐ろしさに似たものも感じました。またそもそも、技巧の修練を徹底するその方法論が手放しで褒めそやされるような価値観へのコミットも、いったん距離をとりたいと思います。

これらは単純な批判ではなく、私自身の知識不足から判断留保しつつも、今後K-POPを見ていくときの寄す処となるような感覚の問題です。いつか、単なる勘違いだったなとすべてひっくり返しうる。文化とは、マクロに見てもミクロに見ても一面的にはなりえず、その多様さの混合体の縫い目を辿っていくことにしか、確かさは現れません。そのとき、やはり様々な言葉が必要になってくるでしょう。
だが、身を切って文化に関わっていない人間の「ひとまず」の理解は、さしあたって自分には必要ありません。同時に、首までズブズブに浸りきった人間の言葉だけがリアルなのかといえば、それもどうでしょう。

 

というとき、この大和田俊之さんの連載は非常に助けになりました。BTSアメリカで成功したことに生じている歴史性を、政治的/文化的要素を取りこぼすことなく描き出しています。

www.webchikuma.jp

 

どのくらい関心が続くのかちょっと分からないけれど、この年末年始は特にK-POPまわりを見てみようかなーというところでした。

 

映画

 

もう「映画を観ている」とは言えないほど低調が続いていますが、わすれがたい映画に出くわしてしまいました。



エリア・スレイマン『時の彼方へ』

www.youtube.com

 

10年越しに見ることができたスレイマンの映画は、オールタイム・フェイヴァリット級の作品でした。『D.I』もお気に入りの作品だっただけに、期待は随分高まっていたというのに、そんなハードルなどやすやす越えて、このまま映画が終わらないでほしいと思ったほどです。言葉少なな役者たちとは裏腹に、画面は運動にあふれて止みません。
予告編中にも映っている花火のシーンの美しさたるや、映画史に登録されてしかるべきものでしょう。ラストシーン、スレイマン本人の主観ショットとして繰り広げられる眼前に往来する人間たちの姿も、忘れ得ないものです。
パレスチナ出身の監督が父の半生を描くことで逃れがたい、彼の地の政治的な諸問題について、ほとんど何も知らない恥を忍びつつも、まず「映画」として酔ってしまう。


新作『天国にちがいない』も素晴らしく、年明けにはようやく全国で劇場公開もされます。大掛かりな無人のパリでのロケシーンと対照的な小鳥とのダンス(?)シーンは必見と言えます。

www.youtube.com

tengoku-chigainai.com

 

ここは思ったより言葉が続かないけども、映画はいまだに最も好きな自覚のあるジャンルです。しかるべきタイミングでまた向き合うだろうし、だけど、もしかしたらそういう時期はなかなか来ないのかもしれない。

 

 

近藤聡乃『A子さんの恋人』

www.kadokawa.co.jp

 

もっぱらこちらの頭の問題で、大変なので通読しないけどおもしろい、みたいな本と、通読したけど全部忘れた、みたいな本が山程あります。

 

そんななかで、唯一買っていた漫画『A子さんの恋人』が無事完結(いまの自宅に漫画は、この作品と『わたしは真悟』『放浪息子』くらいしかない。それらに並ぶくらい好きだということ)。さすがに5年の付き合いとなれば忘れがたく、印象も未だ鮮やかです。完璧な結末には落涙。。
一筋縄ではないタイトルであることをいちいち感じさせるストーリーは、美しく簡潔的確な線描に縁取られたキャラクターのドライな意地悪さと生々しい煩悶によって、快くもそればかりではない緊張感を保ち続けます。人に恋し、愛そうとするさまは滑稽で、その出来事の表面をスケートのようにして軽やかに滑っていくだけでも、それはそれで清々しい小品として私は好きだったはずですが、厚い氷を突き崩して、取り返しがつかないことを引き受ける切実さに迫った作品でした。あまり好まない言い回しですが、誠実さが支える表現の強度に、あらためて驚かされます。いや、ひどく抽象的な言い方をしてるのは、めずらしく「ネタバレ」を避けているからです。いわゆるショッキングなラスト、というわけではないけど、頭からもういちど読み返さずA太郎のことを書いてやれる気がしない笑ということでもあります。
A子さん、そしてその「恋人」であるA太郎と呼ばれる登場人物が、どのようにしてラストをむかえるのか、あるいはどのように作品を支えていたかを、ぜひ読んでいただきたいです。

 

恋愛を主題にしたコメディで、同じような切実さから逃げなかった作品として、古沢良太脚本の『デート』も思い出していました。

 

ライブ

 

BABYMETAL 「LEGEND - METAL GALAXY」幕張メッセ

f:id:keisukeyuki:20201231150521j:plain

 

書くのもむなしいような1年に思えるけれど、いやいや1月のベビメタは、5年間のベビメタ経験のなかでも指折り3本に入るものです。YUIMETAL不在のダークサイド期から、YUIMETALの正式な脱退発表という谷を越え、横アリでは元モーニング娘。鞘師里保が非公式に加入する驚きと新曲の連打(私がはじめてベビメタを見たのがこの横アリで、さらに同じように1曲目が新曲という、回帰ぶり)、なにより笑顔のSU-
METALという大歓喜のライブすら上回って、幕張のライブは素晴らしかった。

新作から未パフォーマンスの楽曲をやるのは、まあ予想通りとはいえ、やはり大大大歓喜。忘れられないのは、なんといってもラストの、2017年末、広島でやはりYUIMETAL不在で行われた以来の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、5人+東西の神バンド全員集合という蒲田行進曲のラストかというような大盤振る舞いの姿でパフォーマンスされたこと。ピアノイントロが流れ出した場内のざわめき、そして千々に乱れた興奮がまとまりなくそちこちで歓声や跳躍に還元される「現場」の熱。2014年来、毎年海外遠征に行ってゆうに通算100回はベビメタを見ている友人ですら、この日の特別さを話していたものです。

また、そうした興奮を支えていたのは、フルフラットでけっしてライブ向きではない幕張メッセのどこからでもステージを視認できる、なんていうものではない、背面すべてを覆う超巨大高解像度パネルと、その映像演出に触れないわけにはいきません。直後のEUツアーでもついにバックドロップを排してまで携行された高解像度パネルは、ベビメタのライブがいよいよ映像と分かちがたく、また能動的かつ積極的に映像/身体の共存を目指しはじめたことを示唆していました。

ことに、「Distortion」での、SU-METALの睥睨するような視線と観客を煽動する指先(かきまぜるようにして、フロアにサークルピットを生成する)がスローモーションのなかでディゾルヴする場面など、ほとんどリーフェンシュタールの映画のように危うげな強度まで感じるほどでした。

ベビメタのステージ上の身体は、多くの場合、会場の広さから直接視認することが難しい。我々観客は、BDや動画を介し、ベビメタの映像的身体を見ています。これが、リアルタイムで、ステージと並走的に発生していること。ベビメタのライブにあって映像は補助的な要素ではなく、まるごとライブ経験を担うファクターになりつつありました。このことを考えたくあるし、本当であれば1年かけて様々なライブで展開される部分であったと想像します。

 

映像と身体のテーマは、配信活況の状況で期せずして豊富に考えることになりました。なぜある配信がつまらなく、またある配信が面白いのか。映像/編集によって再編される身体/ライブのありかたには、望むと望まざるとに関わらず、来年もまた多く向き合わざるを得ないでしょう。 

 

おわりに

 

ということで、大まかには、いまだにアイドルを中心に関心がめぐっている1年には変わりなかったようです。

他にもビデオゲームをはじめて、触発されることがかなりあり、そういった話もなくはないけど、「アメリカン・ダンスアイドル」以降すっかり飽きてしまったオーディション形式の番組(なのでラストアイドルは一瞬も見たことがない)であるところの「虹プロ」をこの年末年始でぼちぼち見てみようということにしたので、残念、時間がありません。

 
言いたいことはだいたい言い終わりました。
それでは、よいお年を。

*1:もう一度あらためて過去の楽曲も聴かなきゃなあと『Twicetagram』に『TWICEcoaster LANE:1』『LANE:2』とさかのぼったらば、いやー全然いい。スルーしてたのは、こちらのタイミングが整ってなかったということに尽きます。もしくは、MVのきらびやかさが聴取を鈍らせてたところはあるかもしれない。

20201228

雑談です。

 

あまり触れない話題に「お笑い」があり、でもまあいいやと思って書くのですが、M-1はもちろんのこと、『爆笑オンエアバトル』も放送開始当初からVHS(!)に毎週録画していた程度には「お笑い」好きです。仙台で収録があったとき、ダイノジの大谷さんがテレビ局の外でファンに明るく対応していたのを覚えています。懐かしいな。あの頃は今のような嫌われキャラではなかった......
で、今年の私的ベストは空気階段霊媒師ネタ。比喩ではなく腹を抱えて笑ったのはいつぶりか。コントって、舞台の外の空間を感じることが少ないのだけど、降霊という設定で呼び込んだ広がり(とその絶妙な狭さ)に、びっくりさせられました。

 

ところで「これは漫才ではない」という話題がもりあがってたのかなんなのか、いちいち議論をフォローしてませんでしたけど、ともかくM-1後によく見かけました。どのジャンルでもよくある話で、新味はないです。どうでもいい。が、どうでもいいところを連想して話題は続きます。

 

今回はマヂカルラブリーのネタが、掛け合いでなく、ほとんどボケ側の一方的な進行によって漫才が展開するという構成が(次点のおいでやすこがも同型)、正統な「型」から外れてるぞ!と、一部のオーディエンスを刺激したということでした。たぶん。
この、ある型=フォームが漠然と広く共有されて、そこから逸脱するものが一部の神経を逆撫でること......似たようなやつをどこで見たのだっけと一瞬考えて、ああアイドルかと思い至りました。
いや、アイドルの場合は話が逆向きで、フォームの逸脱こそが称賛の条件になります。いわゆる、ほとんど呪いのように繰り返されている「これは(もはや)アイドルではない」。これが呪いなのは、フォームの逸脱が、すぐまた別のフォームに回収されることにあります。パンクとかロックとかアートとか。言ってしまえば結局は、規範意識のなせる物言いです。
私なんかは、規範意識を裏切っていくもの、あるいはせめて規範意識との緊張感を感じさせるものこそがおもしろいのですが、件のマヂカルラブリーのネタに関して言うなら、そのどちらも混ざりあったものだったとも思います。
 
ただ、そんな規範意識は、こうして一笑に付したところで消えることもないし、それはそれでリアリティのあるものです。「これは漫才ではない」「これは(もはや)アイドルではない」とは、ざっくり言って幻想ですが、弱いわけではない。だいたい、最近の世の中の困りごとは、こうした規範意識の行き過ぎ・こじれが起こしているものばかりではないでしょうか。

 

 

なにかと言えばリリスクの話ばっかりしてさすがに申し訳ないけど、いちいち面白いので仕方ありません。

 

リリスクのhimeさんがこう言っているのは、同じリリスクメンバーのrisanoさんが参加している、アイドルによるフリースタイルラップバトルの番組企画を受けてのツイートです。お父さんがヒップホップ好きで2pacを聴かされて育ち、自身もハードな日本語ラップのヘッズであるhimeさんは、ラッパーでありアイドルであることを一身に引き受けつつ、しかし時に葛藤がある。そこには先の規範意識のあらわれがあるでしょう。
むろんその規範意識は、himeさんが内面化しているというより、ヒップホップカルチャーとアイドルカルチャーに属するそれぞれのファンと、そのファンが持つ規範意識とのズレが重なり合っている、ということだとも思います。
けれども、himeさんはこの番組に参加しているでんぱ組.inc成瀬瑛美(=えいたそ)さんとバンドじゃないもん!MAXX NAKAYOSHIの恋汐りんご(=汐りん)さんのパフォーマンスを見て、アイドルである自分に誇りを持ったということです。


バトルでのえいたそや汐りんは、保守的な「アイドル」像をなぞるような、フリル付きのドレスやビビッドな原色使いのミニスカートといった古典的なイメージの衣装を身に着けていました。それこそステレオタイプなろ、誰が見ても明らかな「アイドル」の姿。
くわえて汐りんに至っては「汐りん語」という–––酒井法子に始まり小倉優子でとどめを刺したような–––固有の語彙をそのままにラップをしていました。もちろんフリースタイルとして巧みではないけれど、視聴者にも忘れがたい印象を残したはずです。この汐りんという「アイドル」のありようは、規範意識の徹底が元の規範を突き崩すようであり、やや慎重を欠く言い回しが許されるなら、いっそクィア的です。


強くラッパー的でありたいhimeさんが、どこまでもアイドルでしかない*1、アイドルに救われることは、感動的な出来事だと言って許されるでしょうか。少なくとも、自分は心動かされてしまいました。今はそれ以上に話を深めることができないけれど、後々まで覚えているエピソードになりそうです。

 

 

 

と、ここまで書いて思い出したのは、17歳当時の自分のことです。
とあるダンサーの方と知己を得て、その人にクラブのジャグリングを見せていたときのこと。ふいに「それ、ひとつだけではジャグリングできないんですか?」と訊かれて、私はやれやれといったふうに「ひとつだとジャグリングじゃなくなっちゃいますね」と答えました。対してその人は、差し出がましいようだけど、と前置きしつつ「ジャグリングにならなさそうなことを考えないといけないんじゃないですか?」というような事を言ってくれました。 要するに、私が内面化していた規範意識をあぶり出してくれたわけです。

 

まあそのときは、痛いところを突かれたような、しかし反発したいような(あんたはろくにジャグリングのことなんか知らんだろうという最低の驕りがあったり)気持ちになっただけでしたが、あとから思えば、非常に重要な進言をいただいたものです。また、相手がどう思うかは別として、切実だと思えば忌憚ない話をすることの必要も、そこで植え付けられていたかもしれません。後にその方とは疎遠になりましたけれど、エピソードはこちらの勝手で体に残っている。

 

 

と、そういうようなことを話したい年の瀬でございました。

 

*1:バンもんは「ポストアイドル」を標榜してはいるのですが

2020年のまとめ 仕事編

今年の仕事を振り返ってまとめておきます。

 

年始からの冬期はたたでさえきびしいというのに、しのび寄る疫病に目配せしつつの環境で大道芸の"修行"を耐えたものの、年度が改まる前に開店休業。
おかげでオンライン上でのなんだかんだが増えました。

 

さっそく5月には「マヤマ」で(宮本道人さんが言うところの)ディスタンス・アート的新作と、過去のアーカイヴを『Cc Cc』として販売スタート。
意識的なものですが、まあだいぶ地味です。とはいえ、コンセプト面ではかなり納得がいくまとまりになりました。買って!

note.com

 

ホゴノプロフィスからは、仙台文化事業団の助成事業として、ジャグリング入門動画を公開。7月末から3ヶ月連続「レッツ!キッズジャグリング・オンライン」として行いました。暑いなか自室で幕を立てたり照明つけたり、大がかりでしたわ。編集も今ふう(?)にしてみたり。

youtube.com

 

唯一の遠征というか帰省というか、白石はこじゅうろうキッズランドにて出演もあったのが8月。楽しかったですね〜。

 
 
 
View this post on Instagram
 
 
 

A post shared by 結城敬介 (@keisukeyuki87)

www.instagram.com

 

アイドル批評誌『かいわい vol.1』を10月に創刊。編集・装丁(タゴマル企画)・執筆と、いちばん働きました。無名の同人誌で100部以上の頒布は、なかなか快調と言っていいようです。
拙文では、昨今の道徳的規範から逸脱するような、アイドル文化の「現場」で生じるグレーゾーンのあり方を追いました。買って!

kaiwai.booth.pm

 

1,9,12月には空転軌道の劇場公演もありました。昨年から新パートが増えまして、さらにボリューミーに。10月は無観客生配信もありましたね。

 

 

さて、パフォーマンスの機会自体は言うまでもなく激減しましたが、なんだかんだ成果は出ているのでした。しかし例年だと、このあたりで来年分のスケジュールを更新する記事を固定にして更新するのだけど、現在は白紙です!!どうなるやらね〜。

 

いちいち悲壮感を醸すようでバカバカしいですが、こういう時期に支援していただいたり足を運んでいただいた方々には、本当にありがたく思います。
金銭的なサポート(死ぬほど重要です)はもとより、マスの小さなところでやりとりしてるぶん、おひとりおひとりのリアクションは相当に大きく受け取っております。

ニューノーマルだのウィズなんたらだの、ウイルスと共に瀰漫(端的な感染予防法の余剰で機能して)いるたわごとには一切与したくないので、お互い変わってしまってもなんとなくやっていけるが、そのうち今まで通り楽しみましょうという塩梅です。

 

 

 

時間があったぶん、見たり聴いたりはずいぶんはかどったので、こちらについてはまた別に更新したいですね。

 

ということで、めずらしい一年にお付き合いいただいたり、ご助力いただいた皆さま、あらためてありがとうございました。来年も、あるいは来年こそは、お目にかかりましょう。