プロフィール・出演情報など

ここは好きなことを好きなように書いている場所ですが、おもな活動を以下にまとめました。


【プロフィール】

結城敬介
1987年生まれ。宮城県出身
Japan Juggling Festival '03 Championshipにて銀賞獲得。
翌年にはMonochromeCircus『収穫祭』仙台公演にてゲストコーナーへ出演。それをきっかけに、ジャンルを越えたパフォーマーらと交流しながら、ステージや大道芸でジャグリングのパフォーマンスを続けている。現在は東京と仙台を拠点に活動中。
パフォーマンス活動のみならず、ジャグラーたちの交流イベント『WJDinTohoku』や、子供たちが主役となる『せんだいキッズジャグリングフェスティバル』を企画した。2014年からは異ジャンル並立をコンセプトにした『多夢多夢茶会』『あるばとろす』などのオムニバス公演を企画開催。2020年はアイドル批評誌『かいわい』の編集にも参加。
​ユニットとして「マヤマ」をミュージシャンの南部大地と結成。
またジャグラー小林智裕が主宰する「空転軌道」に参加している。

※より詳細なプロフィールはHPへどうぞ

 


【出演予定】

8月21-22日(土-日) こじゅうろうキッズランド

9月4-5日(土-日) 『フニオチル その2』※無観客配信公演

10月10日(日) Japan Juggling Festival 2021 ゲストステージ ※空転軌道として

11月6日(土) 都内某所 予定あり

11月下旬 非公開イベント 予定あり

12月下旬 予定あり

 

【配信】
ホゴノプロフィスの企画。仙台市市民文化事業団助成事業。

youtube.com

2021年版

youtu.be

 
『Cc Cc』
パフォーマンスユニット「マヤマ」の過去の記録映像と、コメンタリー、"自粛期間"に制作されたディスタンスアート的映像作品のパッケージ。

note.com

 

【その他】

タゴマル企画

企画団体。『多夢多夢茶会』『あるばとろす』等、異ジャンル並立オムニバスライヴを主催。デザイン活動も。

 

twitter.com

 

『アイドル批評誌 かいわい』
編集・寄稿・装丁(小野健宏と共作)。現在の販売は電子書籍版のみ。

kaiwai.booth.pm

ストリップのきろく 2021年9月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

 

 

9月2日(木)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-2)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

悠木美雪(1)

黒崎優(1)

寒くて、雨。散歩がてら歩いていった前回のモチベーションはさすがになく、送迎を願う。ほんの数分で車が到着。仕事で現場の方に送迎していただくときの癖で助手席のドアを開けかけたが、いや客だしな...と考える間が一瞬あった。後部座席にはいりこむ。
さて、2回目の栗橋。場内は閑散。それはそうか。適当に2列目上手端にすわる。

全体的に制作の忙しさや気候やらで気持ちが凪いでいて、このまま宇佐美さんが楽しめるだろうか...という状態ではじまった「サマーチュール」は、終われば心拍が上がってるのが分かるくらいアガってしまう。
以前、体調最悪のまま友人のパフォーマンスを見たとき、終わったあとすっかり元気になっていたことを思い出す。元気になった、とは紋切り型の感想のひとつだが、事実そういうことがある。
盆に入ってから、ぺろっと舌出しがあった。めずらしい遊び。

「うそつき」は広いステージでやるのが久々とのこと。
前半、かなり薄いサウンドの曲で踊られるので、たとえば「サマーチュール」のM1の厚みと振付の手数の多さなどと比べると、ちょっと物足りない気持ちになる。
しかし、この演目のギミックであるキツネの耳と尻尾を外して以降は妙に色っぽい。ラストはバーンと曲も派手になってポーズベットに。結局ラストで全部持っていけてしまう。帽子を足にかけたポージングはなぜか感動的。

「サマーチュール」後のポラで、浮き輪をはめて「栗橋ビーチのみんな〜」と出てきたのが良かった。翌日になっても何かと思い出してしまう。ちょっとしたおもしろが似合う人でうらやましい。

 

9月4日(土)[横浜ロック座]

椎名ありす(3-4)

香山蘭(3-4)

早瀬ありす(3)

ゆきな(3)

星崎琴音(3)

 

仕事終わりの宿の近くにあったので...
6頭川崎以来の香山さんを目当てに。7中でSNAをパスしたので名高い「反戦歌」を見逃してしまい、さらに今年で出し納めということでご縁を逃した形。

 

新作「Mon amour」は、ある意味で豪速球のストレートを投げてくる演目。
まず選曲と歌手に強い物語があり、それだけで泣き出してはひれ伏してしまう人もいそうなくらいの超有名曲によって踊られる。
M1では装飾性を抑圧した黒いノースリープのワンピースで、即興を軸にひたすら上質なダンスを踊りつづける。時折スカーフを頭に巻くなどして、歌われる「母」が働く姿を模する。このときの集中力は異様で、そのまま演目が終わってしまうのではないかというほど。
M2は盆始まり。一転して白いドレスを纏った香山さんが横たわっている。セリフからはじまる曲は、おそらく世界の誰しもが知っている音楽のひとつであろう、恋の喜びと苦味を唄う歌。
だが、黒衣と白衣の対照がより直接に生と死を想起させ、ノーブルな白いドレスがどこか死装束めいて見えてくると、耐えない微笑みも手伝ってあらぬ方へこちらの気分が誘われる感触が強まってくる。M3では再び白い衣装を纏い直すが、基本的には前半の2曲でこの演目世界は完結していると言ってもいいように感じた。
そして何より、あまりの大ネタ遣いに、こちらの感覚がバグってくる。もしこれがストリップという芸能の場でない、ごく一般的なステージで踊られるなら、そのベタさ加減に耐え難いものすらあったのではないかと想像する。しかし実際の鑑賞経験は、そうした通俗性が忌避の対象になることなく、またその通俗性がそのままどこかへと振り切れて、何が何なのかよくわからない感覚になる。この踊りをどこにどのように位置づけて考えるべきか、まったく見えなくなってしまう。
「ストリップ」とはなんなのか、久しぶりにわからなくなる。

 

9月6日(月)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1-3)

萩尾のばら(1-2)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

武藤さんがこの日栗橋に行くという連絡が。昨日までの疲れもないので自分も行くことに。木曜ほどでないが、空いているのでかぶりに座れてしまう。


「サマーチュール」は前開き水着バージョン。そして、最前上手端だったので花火の促しをされる役。帽子も被ったし「サマーチュール」で客がやられること、コンプである...盆入りの舌出しは今回はなかった。

「うそつき」の耳と尻尾の消失にエロを感じるという話がうまく伝わらず、別に強く主張したいわけでもないのだけど、かすかにエロさが香ってくる感触をちょっと書いておく。

フェイクの耳と尻尾には、その身体を演目上の「キャラ」として記号化する機能がある。目の前にじっさいの腕や脚という肌が見えつつも、まずはその「狐」の役柄を優先して認識する働きがあるだろう。
これがストリップだと分かって見ている我々は、狐がいつか服を脱ぐということが予想できている。けれども「うそつき」では、狐が狐のまま脱衣することはない。狐は人間へと脱衣する。
袖にハケてから再び舞台に現れると、耳と尻尾は消失する。帽子を脱ぐとそこに耳はなく、尻を撫でると尻尾がない。ここで観客は記号的な役割としてのキャラから、具体的な肉体へとフォーカスを移すことになる。つまり、素朴な衣服の取り去りだけでなく、いわば意味の水準で"キャラからの脱衣を見る"ということ。
またその焦点変化の際、消えた耳をなぞるようにして髪を撫ぜて耳にかける仕草が出てくる。「うそつき」における裸の現れは、この"耳"に先行する。消えた記号的な耳と、現れる肉体の耳。あらかじめ性的な価値を帯びている胸や尻や性器ではなく、記号によって隠された"耳"という肉体が露わになることが、この演目における「ストリップ」の中心である。文脈の設計によって、肉体の価値は更新されて、それをエロさとして受け取ることが可能になる。

こんなに強く読み込まなくてもいいようなことなのだけど、まあ一応...

おもしろ登場シリーズに新作。なんかのおまけでもらったというベルトコンベアの寿司のおもちゃを持って「宇佐美寿司開店だよ!」と威勢よく現れる。何なんだ。
ポラのときもそれを使っていろいろしてたが、公序良俗に配慮して割愛。

友坂さん「結」「GTR」「弦月」の3個出し...どころか、どうやら今週毎日のように演目が変化しているらしい。

かぶりで見ると、あの代名詞的な視線をもろに受け止めることになる。こんなに他人と見つめ合うことはあるだろうかと考えてしまうが、そうせざるを得ない視線であり、そうすることが喜びであるような視線に、ただ見つめ返してしまう時間が何度も訪れた。
あの視線から、何か具体的な意味やメッセージを読み取ることはできず、そしてむしろ意味の無さこそが、あの視線の強さを支えている。
強さ、といっても一向に支配的ではなく、かといって無闇な優しさもない。「ただ見つめること」の究極がそこにある。

川崎・新宿・横浜と各劇場で観てきた「弦月」は、栗橋の舞台でいっそう魅力的だった。前景と後景を横断する紗幕は、物理的な条件の制約を受けて斜めに張られることで、かえって「布」の動きや質感が明瞭になる。また、左右に張られた劇場の鏡が、その景色をより複雑にする。

しかしなんといっても「GTR」。何度見ても奇跡のような演目。芸人が観客と向き合うということ、またそれがストリップという芸能において行われてることが、それをどこまでも高めている。

「ただ」の強度はこの演目にもある。ラスト、場内にいる者たちの"出席確認"を行い、指で人数を示すこと。たしかにこの場を共有した我々が「ただ」カウントされる。それだけの行為が無上の歓待になりうる。

 

友坂さんのポラ、今までとくに名乗ったこともなく、預けのポラ自体もしたことがなかったのでやり方を確認したら「裏に適当なお名前を書いてください、知ってますけど」と言われる。ダメ押しで「Twitterも知ってますよ」と...
インターネットの声量を控えるべき。

 

9月10日(金)[ライブシアター栗橋]

海野雪妃(1)

萩尾のばら(1)

宇佐美なつ(1-3)

悠木美雪(1-3)

友坂麗(1-3)

 

楽日。久々の晴天。夏が戻ってきた。送迎の往路、マスク越しにも田んぼの匂いが立っているのが分かる。
先日道劇で宇佐美さんを見せた友人に友坂さんも見せたく、誘う。ちょうど休憩のタイミングで到着したので、しばしそのままベンチで話し込む。『GTA』の世界にありそうな場所だ、などということを放言する。

宇佐美さんについて、たまには限りなく短くして、言いたいことを圧縮してみる。

・「サマーチュール」世界一エロい。世界一最高。
・「うそつき」過去に見たことないような表情の豊かさ。パフォーマーとしての発展余地を見せつけるような回。
・「w-e(n)dding」オナベは、たとえば生き物の出産に立ち会うような、それをなしとげる様子をただ見守る、というような時間になりつつある。性=生の時間。

まだ何も形にならないが、ストを見ていて「時間」というものを考えることが増えつつある。ある現象ではなく、さまざまに移り流れる「時間」という幅について。

 

友坂さんも3個出し。が、この週は12個出しだったということがわかる。すさまじい。
今回とりわけ素晴らしいと思ったのは「Smile」の後半。袖から椅子を取り出して、束ねていた髪を解いて、ピンクのドレスに着替える。いってしまえばこれだけのことに4分近く時間を使い、けれどもそこには「踊り」としか呼ぶことができない身体の充実が満ちている。
椅子の上で身悶えるようにして下着を取り外すとき、身体部位の布置が組み変わり、あの豊かな黒髪を起点にして、靴・下着・陰毛・睫毛・眉毛たちが「黒」の系列として押韻をなすようにして、さらにドレスのピンクと対照してみえだすことが起きる。
続いて、極上のポップソング(自分の好きな曲だった)で、あの無二の舞踏が繰り広げられる。踊りを見る身体は同期に向かいつつもそれが叶わず、多方に感覚が散らばって身体を捻じ曲げようとする。それは快い掻痒感のような微妙な感覚と、引き絞られるような感覚を行き来する。
なにより、こうした踊りに友坂さんの支配的な意志や狙いが希薄で、だからこそどこまでも安心してその踊りに身を任せることができる。友坂さんは強く観客を「見る」パフォーマーでもあるが、自分が「見られる」ことに対しても、どこまでも自分を開いている。
ポーズを切るとき、ほんの瞬間、しかしはっきりと確実に客席へ顔を向けてから身体を反らしてみせたりすることがある。あの眼差しが正面からやってきたことに囚われてるうちに、ポーズ=全身へと視界が拡大される。踊り子が「見られる」ことを望むとき、友坂さんはその関係を曖昧にせず、まず自分から「見る」ことで「見る/見られる」の関係を直ちに構築する...

4つの演目を新たに見ることができ、ますます友坂さんの踊りに惹かれていく。そして不思議と、こちらを認識してもらえていると思うと、また見に行こうと思う動機ができてしまう。

 

せっかく圧縮して書いたのだけど、ふと「うそつき」の耳・尻尾の消失について思ったのは、自分がマジックをやっていたことで、ものが"消失"することの官能に敏感なことはあるかもしれないな、と気づいた。

自分は、全体の構成的必要とは必ずしも関係が薄い細部の官能性にこだわるほうだった。さらに、アイドルを見ているうちにキャンセルしていた官能性への視線が、ストリップを観ながら思い出していく作業のうちにいる、と考えている。

 

9月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

葵マコ(2-3)
栗鳥巣(2)
六花ましろ(2-3)
京はるな(2-3)
美月春(1-3)

午前に渋谷で用事があったこともあり、またチームショー「GIRLS」が気になったため2日続けての観劇へ。さすがに疲れたが、充実...


葵マコさん2回目の演目がとてつもなく素晴らしい。
冒頭からすべて服を脱ぎ捨てて踊るのだが、そうした脱ぎ去りが強調されるわけでもなく、表情や仕草の豊かさにあふれていて、ひたすら魅力的だった。忘れがたい演目がまた増えた。

栗鳥巣さんは芝居仕立ての「援交」もの。精液を見せる仕方も、またそれを繰り返しすることにも知性と芸の両立がある。

 

美月春さん・京はるなさんチームショー「GIRLS」。
女ギャング2人組で、美月さんがデニムのホットパンツにピンクのファージャケット、京さんがゴスロリ風のドレスにぬいぐるみを抱いたキャラ。凸凹感の設定にも先行するなんらかのジャンル物の記憶が響いているが、ようするにラス・メイヤー(未だに一本も見たことないが)的な美学を源流としたエロ×バイオレンスの系譜に属するもの。
冒頭の強奪シーン(あらかじめ京さんが客に札束を仕込ませている)に醸される芝居の空気は、大道芸というかマイム系のユニットにもありそうなそれで、めちゃくちゃ警戒してしまうが、酒を呷って盆で寝転ってる美月さんを京さんが脱衣させ、ペニバンを装着させてハードなセックスシーンに移る一連のシークエンスでは、コミカルな空気が行為のハードさへとシームレスに変化する(一般社会であれば表現とはいえ穏当にせざるを得ないシーンが省略されない)ことで、まさに「ストリップ」固有の可能性をみせつける。演者同士の準備されたパフォーマンスであり、それが張形とはいえ、行われているのは"まな板ショー"である。正常位で美月さんが腰を動かすことは演技でも何でもなく、実際の京さんとの性行為そのものであって、コントのワンシーンに収まりきらない強度がある。しかし、選曲の一貫性が当初のポップさを損なうことがないから、その後2人でポーズを切れば、ストリップそのもののカタルシスと、バディもののカタルシスをいいとこ取りしたような高揚感にあふれる。

とても面白いステージだったけれど、冒頭の空気感やセックスシーンなど、それ自体切り出すと素直に楽しいかどうか微妙なものも、ギリギリのラインで綱渡って面白さの方へ連れて行ってくれた、という感じもある。それは美月さんと京さんのビジュアルの作り込みや演技力にも支えられているだろうし、ストリップという芸能では何をやってもいい(アンモラルな、というか単純に作品表現の制限のなさ)ということへの迷いなさがあるのだろうと思った。

前後するが引退作の「Truth」で、自分が初めて見る"引退する踊り子"の姿と、それを見て泣いている観客の顔に、思いが募って自分もつられて泣いてしまいそうになる。
ごく短い間に何度か見たにすぎない踊り子さんでも、そこに集まるお客さんたち同士の、あるいは踊り子さんとの縦横の関係性は合間合間に伝わらざるを得ないし、様々な歴史がみえる。そうした様子を眺めながら、かつてはこの場所でひとりのお客さんとして見ていたはずの人の姿も不意に思い浮かべてしまう。それは単なるそれぞれへの思い入れや感情移入を越えた、この「場」に流れた時間が重なりとなって現在に畳み込まれるような、自分にはしばしばある——しかし常に特別な——体験でもある。



...ついで余談だが、翌日、数年ぶりに『喜劇特出しヒモ天国』を見なおしたあと、原芳市『ストリップのある街』の年表を手繰っていて、既知の劇場で行われた出来事のさまざまを読んでいるときも、そうした感覚に陥った。

9月14日(火)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1-2)
海野雪妃(1-2)
JUN(1-2)
萩尾のばら(1-2)
アキラ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

関東最遠の劇場。半蔵門線の両極(よりさらに奥)を2週で行き来するとは...
駅前に意味不明なまでに広く抜けた遊歩道があり新興の土地の姿を見たかと思えば、薄暗い横丁に飲み屋や弁当屋が集まっていたりするし、何よりストリップ劇場がある。独特の街。
階段を上がって入場。もぎりのお兄さんの後ろで放たれたドアの向こうに黒塗りの壁とスカスカに間引きされたパイプ椅子群が見える。たっぷりした空間と、天井には(正確に何というのかわからないが)屋根の形がそれとわかる屋根裏が見える。
盆の下手にはポールが設えられていて、本舞台と盆をつなぐ花道が、おそらく3mほどある。本舞台も余裕があり、誰かが、花道から区切って下手側のエリアを指して「わらミニの本舞台はこれくらい」と言っていた。たしかに。要するにわらミニ本舞台の3〜3.5倍ほどのサイズ感。


6人香盤で、これはさすがに抜けつつみようかしら...と考えていたけど、劇場の居心地もよくて、ベテランのお姐さん方の芸も味わい深く、通して2回きっちり見る。

とくにJUNさんの1回目、和装の夏演目は遊びがたくさんあり、すばらしかった。花道を足袋の滑りを活かしてスライディングすること2回、さらに着物姿でタットダンスまでこなすサービスぶり。ラストは筋肉アピール(?)で〆。
アキラさんの2回目は客いじりどころか投光いじりまでこなして、いかにもベテランの余裕だが、ポーズになるとカチッとギアを入れてここぞというキメを逃すことがない。OPではポールダンスの技もサラッと決めてしまう。
ポールといえば永瀬さんなのだが、今まで他人事に見えていたようなポールが、かぶりを越えて脚が旋回するのを見ると、さすがにスリリングでとても面白い。何より、注意を払いつつも回転速度に遠慮がなくてとても良かった。

 

宇佐美さん1回目は6月の初見以来2回目(宇佐美さんの演目で1回しか見たことないのはこれと蕨の「ユーレイ(仮)」だけ)の「黒煙」。
赤と黒コントラストが鮮やかな衣装。本舞台では赤いコートを纏ったまま、いつもの笑顔でなしに、睥睨するような冷淡な顔つきで、近作に比べればずっと少ない手数で踊る。自分が見てきた中では異例な部類に入る、ストレートなロックサウンドが2曲続くが、サウンドの密度に対して振りが少なめだと、「サマーチュール」のゴージャスさに慣れた目に、こんな感じだったかな?と探るような思い出そうとするような引き気味の位置で見てしまうこともあったが、M3でモードチェンジが起こり、メロウで音数少なめの楽曲での脱衣がはじまると、不思議なほどズルズルと引っ張られていく。
M3からM4(めずらしくクロスフェード使ってた気がする、あいまい)はシームレスに移行する。前後定かでないけど、脚を泳がせながら花道を旋回していくベット入り、泣けてしまうほど官能的で鳥肌が立つ。そして胸を晒す動作が、ぱっと服を捨てるようで、「サマーチュール」のねばりと好対照。脇道にそれるけど、たぶん今までみた踊り子さんのなかで胸を見せる仕草にエロさを感じたのは宇佐美さんとあらきまいさん(のOP)だけ。じわっと脳がしびれるような感じになる。こんなにエロい演目だったのかという発見もある。
脱ぎが完了して、ポーズに入ると、もう言葉にならない。スワンに入る前、両手を開いて指を交互に合わせて、下から上から順に指折って拳を固めるその動きに涙腺が危うくなる。宇佐美さんはポーズを切る前に、強烈に印象的な指折りが入ることがある。
立ち上がり、花道を逆に本舞台へ戻るとき、脱ぎ捨てられた衣服を残してゆく。その後ろ姿の美しさに、心を徹底的に深く刺し貫かれる。

あまりにも素晴らしく、自分にとって複雑な様々を喚起しすぎてしまい、これを見て喜んでいるだけでいいのかと、人生を省みてしまう...6月の初見のときから何も変わっていない。そして、あまりに刺さり方が深いときこそ、大した感想が出てこず、そのことにまた妙な自己嫌悪が起きたりする。


休憩の間、雨が降ってるのに何も持たずあてなく外をぶらぶらしてしまう。
駅前の広い遊歩道に行き当たると、野良なのかなんなのかよく分からない猫が、リードも首輪もなしに、おじさんの後ろを勇ましい顔で付いて歩いていた。

 

9月17日(金)[大和ミュージック]

永瀬ゆら(1,3-4)
海野雪妃(1,3-4)
JUN(1-4)
萩尾のばら(1-4)
アキラ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)

 

今週は1回にとどめてもいいかなと考えてたくらい遠い・時間を食うというネガティブ要素のある大和だったけど、香盤・劇場の雰囲気・「黒煙」・「サマーチュール」の見納めと行くための理由が圧倒的過半数だったので通ってしまう。結果、いちど昼食で抜けたものの11時から22時半まで劇場に。ヘタしたら家より長く居る。
あと、前回はつかれて2回目でふっと帰ってしまったのは、もしや少し気にされてたりするかなと思ってたらその通りだったので、まあ...


今週は永瀬さん・JUNさん・アキラさんの、熟達した芸の余裕がうれしい香盤。
永瀬さんは選曲に毎演目妙味があり、それだけでも楽しい。音楽がお好きな方なんだなというのがはっきりわかる。1,4回目の「あくび娘」は有名アニメのキャラがモチーフだが、壺からディルドが出てくると、それに翻弄されるようにしてオナベに。魔術的な男性器という演出とインド歌謡的BGMのマッチングは、エロとおもしろの中間でむしろ作家的個性の手触りが残る。それは立ち上がりの選曲がキュートな昭和アイドル歌謡(このへん明るくないので不適当な形容かもしれない。そして副次的に当時15歳の女性の歌声であることを検索で知る)に振られる感覚にもよるだろう。

JUNさんの1,4回目の祭り演目はベタに盛り上がる演目でもあるのに、あの一定したほのかな微笑みは崩されることなく、煽りなどなくとも「顔で踊っている」感じにもなる。
表情でアピールしてるわけではないし、またいわゆる踊り自体の良さもあるのに、その顔に惹きつけられてしまうのはなんなのか。ギュッと空間が集中して、客席がJUNさんを全員で眼差している、という感じがあり、濃密。もちろん寝ている人もいるのだが。
花笠を袖に処理するときスススッとすり足で袖幕に小走りして、その慣性を活かしてふっと笠を手放すときのニュアンスの上品さに驚く。投げるでも置くでもなく、運動の経済性に則った仕方。望月きららさんが「歯科助手の浅川さん」で投げ飛ばす眼鏡のライナー性の軌道に並ぶ名処理。

アキラさん。どんな演目でも図々しさがあり(褒め言葉です)、さすが。
相対的に、ひとつの現場で年長となると、役割のひとつとしてそうした図々しさが必要で、自然に備わってしまうことはあると思う。そして、それを楽しく思うのが若いものの特権でもあるだろう。他方で、抜群の身体コントロールで踊りきる姿からは新鮮さが失われることがなく、踊りが好きな方なのだなと思うに充分だった。
また、それがアキラさんの創意ではないにせよ、自分が次に試してみようと思うことへ大きなヒントがあった。いつやろうかな。

 

栗橋から拝見している萩尾のばらさん。2回目の「ハート」が今までにない感触で、飛躍のある変化を感じて良いステージだった。"新人さん"というバイアスから成長とか学びとか言えてしまうけれど、自覚的にか無自覚にか、自ずと違った局面に突入してしまうのがパフォーマンスというものだと思う。
こうした感想は自分の経験をベースに感じることではあるが、だがありえないような回数の本番を重ねる踊り子さんたちは、世界でも特異なパフォーマーであり、広義の同業とすら言えない部分が多分にある(それでも投影することはかなり多いけれど)。何より、ポラでのお客さんとのコミュニケーションまで「パフォーマンス」のワンセットでもあるし。

宇佐美さん。
「黒煙」はかなり落ち着いて観られた。あいかわらずディティールで記憶違いしているところの確認もとりつつ、M2でコートの前を開いてから裾を掴んで右に扇に開いて見せる動きの鋭利さと画の強さに感嘆したりする。
コート姿でタイトに固めた(表情もまた)スタイルとキャラクターは、コートの前を開いて黒のシースルーの服越しに赤色で強調された下着が見えてもなお気位の高さを崩すことがないようなのに、実際に肌が見えると"脱いだ"という感触がすごく高まる。ただ、そこにプライベートな時間として心を許したような"脱ぎ"があるわけでもなく、単純なオンとオフの問題には還元できない。あるキャラクターの多面性ということ。
脱ぐということやエロさについて、また「人」への理解の多面性の現れにいつも驚く。宇佐美さんが曲展開に応じて演じ分ける(恣意性はみえないが)「人」の見え方の違いは、ほんとうに凄いとしか言いようがない。

ところで、この人はどうしてこんなに「動き」というものを知ってるのだろうと思う。それは技巧云々でなく、ある運動が感じさせる快楽について、生得的かつ知的に知り尽くしているということ。
これは「サマーチュール」だけど、備え付けのポールに絡んでも、ポールを軸に腕を伸ばしてする大きい旋回だけにとどまらず、慣性を活かしながら軸を移し、自分も小さく回転するという段階を作っていて、それは楽曲が要請している解釈の結果でもあるだろうけど、どうするとより気持ちのよい動きになるかという思考が形をとって、そのまま舞台に現れている。そこに至るプロセスの速さは伺い知ることができないけれど、ステージに張り巡らされた感覚の広さ(意識の問題ではない)と感覚への迷いなさが、そのまま宇佐美さんのパフォーマンスを観る快楽の深さに重なっている。少なくとも、自分には。

「サマーチュール」ついに見納め。蕨にはじまり渋谷・栗橋・大和と4つの劇場で17回観ることができた。自分にとってもっとも印象的だったのは8中渋谷初日1回目のすさまじいキレっぷりで、あの経験は一生忘れないと思う。初のかぶりを経験したのも「サマーチュール」になった。
そして、夏演目なのに雨や寒い日の記憶と結びつくことが多い。ギラギラした日にも観てたと思うのだけど、こんなに気分が下がる日なのにブチ上げてもらえるなんて、というギャップが印象強いのかもしれない。
昨日のラストはぜんぜん意識せず「あ〜楽しかった」と感想を口にしてたらしく、まあ、無意識にそんなことが口について出るくらい楽しかったんだろう。
たまには個人的な感慨だけ。

 

感染対策とか経営問題とか、絶対に重要で考えなければいけないファクターをガン無視したエゴだけで言うなら、最終回にごく少ない限られた人数で観劇するストリップはどこまでも心地良い。これも毎度言ってることだが、とても幸せを感じる。


この日の前の夜、Twitterで栗橋のステージ写真が投稿された。
何言ってもエクスキューズになるので、単にきれいで気に入ったからiPhoneのロック画面にしてみようかなと試したらとてもよかったので設定した、はいいけど、それ別に本人に言わなくてもよくなかったか...というのだけある。

 

9月19日(日)[浅草ロック座]『秘すれば花 1st』

川越ゆい(1)
ののか(1)
椿りんね(1)
沙羅(1)
宮野ゆかな(1)
広瀬あいみ(1)
真白希実(1)

 

ほうぼう(といっても数人)から真白さんは見ろ、と言われていたので。
晴天の3連休中日にしても1回目はこんなものなのか、わりと落ち着いた場内。

 

今回はほんとうに何も書くことがない。
こちらの能に対する不案内さはともかく、ふだんなら気にならないようなオリエンタリズムが気になる程度には娯楽として見るべき積極的な何も受け取れず、ただ眺めているうちにふわっと時が過ぎた。

目当ての真白さんは一景の群舞でこそ際立った存在感があり期待したが、うーん、それほどまで特権的な評価を得ている理由は掴めなかった。

2景の襤褸めいた衣装から短冊状に垂れた布がエアリーでおもしろい動きを作っていたのは目をひいた。

 

今後はよほどのことがなければ浅草からは足が遠のいてしまいそうだ。

 

9月25日(土)[川崎ロック座]

麻宮ちなつ(1)
安田志穂(1)
空まこと(1-2)
雨宮衣織(1-2)
神野ひな(1-2)
矢沢ようこ(1-2)

 

真白さんに続いて宿題然として聳えていた矢沢さんを観にいく。
さっさと中に入ればいいのに、劇場の外にいる2匹の亀の懐っこさに目を奪われてしまう。かわいい。

 

雨宮さんの選曲でオッと思うなど。自分の好みの曲がでかい音で流れる面白み。
奇数回の演目には見どころも多く、LEDのランタンを使った光の色の変化など、意外な効果の高さにグッとくる。

 

矢沢さん。どちらもご自身が出演されていた映像作品に基づく演目だが、そうした外的な要素より、とにかくその顔と手の表情の豊かさだけでステージが成立してしまうという、これこそストリップでしかありえない(そしてなぜストリップだとありえてしまうのか不明な)ステージ。驚くべきことに、ポーズは1回しか切らない。どういうことなのか...
友坂さんの"何もしていない"という密度とは質が異なる。友坂さんは実際のところ、ただ立っていようとも、その髪の豊かさを含めたシルエットの視覚性や、より微細で視覚的な経験には落とし込みづらいような肉体のざわめきが感じられるのだが、矢沢さんのそれは、もっと心理的といえばいいだろうか。こちらの心を開いていく誘いかけのような。
「顔というより面(おもて)というような...」とはどこで誰が何に対して言った何なのかの一切を忘却しているが、矢沢さんのステージには顔を「顔」にするような、造形ではない現象としての起こりが、ずっと針を振り切った形でそこにある。かつて人はこうした現象をより身近に信じてこそ神仏の似姿を描き・刻んできただろうという想像がある。

 

劇場で知人と、ふとした流れからルーベンスの絵画のような裸体画は疲れてしまって苦手、という話をしていて、しかし我が身のストリップ初体験を思い返すと、裸体に疲労感を覚えるのはごく自然なことだったのかもしれないと気づいた。
男性の裸の話題ではあるが、都内某所でカプセルホテルに泊まる用があったとき、ロビーの奥が浴場でチェックイン即複数人の裸体を視認しつつ、酔客が泊まる場所でもあるからか、それぞれのブースに寝間着からはだけた裸体が居並んでいた図に疲れ切って、ここには2度と泊まらないと決めたことがあった。
そもそも自分は銭湯や大浴場のような場も苦手であるし、他者の裸体をなるべくなら見たくないと考えているフシがある。裸体はどこか、侵襲的な性格があるのではないかとすら思う。
だからこそ、自分はストリップを見ることにおいて、「脱ぐ」という行為の価値が高いのかもしれない。現れる裸体は脱ぐ行為によって文脈化され、剥き出しの侵襲性を回避する。ストリップにおいて脱ぎ去りとは、むしろ何かを纏いなおすことでもある。
欲望の再編成、と初見の際の記録にも書いていたが、観劇経験を重ねても、この視点は変わらずにあるように思った。

パフォーマンスを終えて

その1回のために制作されるものという意味ではおそらく5年ぶりのソロパフォーマンスを終えた。率直な吐露として、今回はずいぶん苦労した。
本番を含めた出来不出来に関してはとうぜん、細々思うところはある。加えてそういえばと思い出したのはいくら本番が過ぎてもこれといった解放感などはなく、むしろ課題めいたものが片付けきれずに部屋の隅に積まれてる感覚が残ることだ。

ただ、面白かったのは、会場にいた知己のジャグラーからふしぎな感想をもらったことだ。具体的になんと言われたかは伏せる。それは私達の間でだけ意味を成す言葉のやり取りであるし、感想を発した本人にしてもそれがいったい何なのか、なぜそう感じたのか判然としていないから、ということもある。

この感想は、少なくとも自分の意識でしている範囲を超えていることについてだった。さらに言えば「作品」(自分のパフォーマンスは「作品」とあまり思ってないけども)が機能させるものでもないはずだった。
それでもそう感じられ、感想として共有されるとき、けっしてはっきりと意味が分節されているわけでない言葉が選ばれているのは、おそらく個人的な文脈もふくんだ密かな触発がなされたと思える。そうしたとき、パフォーマンスとしての役割は充分に果たせたと安心しもする。

演者と観客は、しばしば、あるいはほとんど常にどこかですれ違う。
意図の水準ではもちろん、こちらの無意識ですらなさそうな「何か」としか呼びようのない触発が、観客の内で勝手に生じる。それは良し悪しでなく、ただ生じてしまう。
この「生じ」に対して、パフォーマーはほとんど責任がないとも言えるが、それが起きたことを知り、分け合ったとき、こちらはずっと冷静でも、その「生じ」がわたしにも浸透してくる感じがある。言葉を媒介にしつつも、言葉未然の感覚の輪郭を互いに探るような時間が、ほんの短い間にもあり、実際こうして忘れがたい印象を与えもする。既にして、その「生じ」は観客だけのものではなく、お互いの謎としてそれぞれが引き受け直すことになりもする。
私は、言われたことを、ぼんやり頭に浮かべてみる。心当たりのない言葉をもてあそぶように、私の内に引き受ける。私はいくぶん私の観客になる、とさえ言える。


 

こちらの意図・意識している質を分け合うことができる喜びもある。それが具体的に何なのかは、これも伏せておくにしても、ストレートに伝わる感触は特別なものがある。

自分のパフォーマンスから、狭義のジャグリングの技巧の巧拙を読み取るだけでなく、微量ずつ存在する諸要素を、また各々の感度の高さに準じてキャッチしてもらえることがある。たとえばダンサーからダンス的なものを、ミュージシャンから音楽的なものを引き出してもらえると、単純な技巧への驚きを越えた私固有の質感が届いたのだなと了解できる。

今回はそうした固有性に関する感想を知人からもらうこともできた。くわえて、それは最大限私に好意的な観客の一部が時おり伝えてくれる類の感想であり、私が言われて最もうれしく感じるものでもある。
どうもはっきりせず、匂わせるような物言いになってしまうが、あまりそれを前提というか経験の指針にしかねないのもおかしいので、ぼかしておく。

 

パフォーマンスを制作・実演することは、単純に仕事であり、同時に喜びのひとつでもあり、それはある程度まで自己完結しているが、こちらの投げかけを誰かが捉えて、また投げ返してもらえることで、そうした完結性がにわかにゆらぐ。自己判断がくずれて、まあそれほど悪くないじゃないかと許せるような気分になる。

ことほど左様に、パフォーマンスの経験とは、パフォーマンスを媒介にした相互行為でもありうる。パフォーマンスの根拠はパフォーマーである私だが、その出来事は私だけのものではなくなる。あるいは「私」という領域が更新される。
「私」は身体や意識だけでなく「私」を見て、聞いて、感じる他者によっても作られている。舞台と客席で「私」たちは互いを見て、聞いて、感じ合っている。

この互いの"作られ"を豊かにすることがパフォーマンスの務めであり、喜びであるだろう。
そのことを、久しぶりに確認したのだった。

ストリップ劇場、愛の対象について

つい先日、武藤大祐さんとだらだら(210分間)ツイキャスでストリップの話をする配信をした。だれが見るのかと思いつつ、ある程度発言に責任を持つためにも公開していたら、アーカイブをご覧になった方からご感想のツイートをいただいたりした。いただいたりした、というか勝手に見つけのだが。

配信の後半では、武藤さんと自分の共通項である「どくんご」の話題が出てきていた。そして、ご感想のツイートでもどくんごとストリップの、劇場や旅にかんする共通性を挙げてくださっていた。
劇場という非日常空間が、そこに出演する者たちにとってはいたって日常的な生活の場であり、またその日常性が観客の非日常性に染み出しているかのようにも感じられる、という点で、寄席にも増してストリップ劇場はどくんごのテントにずっと近しい。
私がストリップを見るようになって3ヶ月、異様なほど急速にこの文化に入り込んでしまっているのは、ウェルギリウスめいた踊り子さんたちの手引が何よりの力とはいえ、そうした非日常と日常が見分けがたく絡み合った、ストリップ劇場という場の魅力によるものだろう。どくんごのテントもまた魅力的だが、ストリップ劇場にはどくんごのテントに希薄な、性の香りがある。

 
個人的な話題に踏み込むなら、自分は遠征先で夜の繁華街を散策する癖がある。大阪や名古屋の粘り強い客引きを鮮明に覚えているし、大宮や川崎に泊まればひっそりしたソープ街まで歩いてみる。近所でも、あまり用もないので機会は少ないが、わざわざ吉原を横切って目的地に向かうこともある。とくに個々の店に立ち寄るわけでもないが、なんとなくそうした地域を歩かずにはいられない。冷やかしといえば冷やかしで、褒められた動きはでないから、あまり書くべきではないのだが。
個人史として、仙台は国分町に限りなく近いところに育ち、家の周りに水商売の男女の姿を見ながら過ごしていた記憶も、こうした癖に響いているのかもしれない。いずれにせよ自分は性的な香りのする場所にシンパシーを感じている。そして、そのシンパシーの意味を自分はとても高く位置づけているが、ここでこれ以上書くつもりはないような事柄による理由も、もちろんある。

しかしながら、そうしたシンパシーには、いわゆる一方的な幻想が根強く張り付いてもいる。歓楽街に漂う特異な空気にどこか居心地のいい思いをすることには、そこにあるはずの個々の現実の程度の見積もりがない。ただイメージがあるだけだ。

    

 

どくんごは、自分たちの活動をしばしば「旅」と呼んできた。これは打ち上げの中でのおぼろな会話の記憶でしかないが、演出家のどいのさんは、自分たちはいかにして旅を実践するかであって、作品を作るかではない、というようなことを話していた気がする(そんなことは言っていない、と言われるかもしれない)。
いずれにせよ「上演」がなされるその100分に活動が収斂されていくのではなく、より広く、生活と移動のすべてに、どくんごの活動は賭けられていた。これは確信を持って思い出せるのだが、バラシの後のあまりにも見事な積み込みをみんなで眺めながら、どいのさんが、うちらが一番上手いのは積み込みだからと珍しく自慢気に話していた。

私がどくんごに対して純然たる客だったことは最初の1日だけで、翌日からは打ち上げでジャグリングをしたり、翌年は前夜祭や幕間の舞台に出たり、更に翌年からは受け入れとして制作の手伝いも行っていた。
だから、打ち上げの場で純然たる観客の人たちが、年に一度の祭りのようなものとしてどくんごに接しているのを、やや距離を持ってみていたこともある。私にとっても既にどくんごはいくらか日常的で、過ぎ去ってしまう感傷や、どくんご自体が自称しつつも「旅」というイメージからファンタジーのようなものが消費されていることに対する微妙な反感が入り混じってもいた。どうして芸人はしばしばひとの感傷を引き受けなければならないのか。むしろどくんごはそんな感傷からこそ遠い場ではないか、と考えていた。

 
自分は義務教育から早々にドロップアウトして高等教育も大学教育も受けずにここまできて、いわば「プロ」としての生活を20年近く続けたことになる。こういうと大層だけど、10代の頃なんて何ができるわけでも何をするわけでもなく、今もかわらずダラダラとやっているだけで、漠然と短くはない時間が過ぎただけだった。
時々こうした来歴を人に話すと、驚きとともに反応は2つに分かれる。ひとつはよく親が許しましたね、とか、言葉にしないまでも、そんなやつが実際にいるのかという、規範から逸脱していることへの驚き。もうひとつは、学校なんか行く必要ないよ!とか、夢のために生きていてすごい!という賛意。
どちらの反応にも慣れているので、どちらでもべつにどうでもいいといえばどうでもいいのだけど、どちらかといえば後者のほうが引っかかる、というか、認識に乖離はある。そこには、そう発言している人の何かが投影されていて、私の現実が見られていない、という感覚がある。私がこの職業をしているのは夢だったからでもないし、学校は嫌になることがあるから行かなかっただけで、あらためて他人にその意味を肯定してもらう必要もない。ただ、そう言われたからといって、今さらべつに腹が立つわけではない。

 

他方で、自分がストリップに向ける視線はどうだろう。
たぶん私は、思ってもみないほどにこの文化や場所を深く愛してしまっているし、そのとき、私が誰かに向けられるような幻想を投影していないとは、当然言い切れない。というか、しているだろう。ましてここが、自分がこだわってもいる「性」の場である限り、必定であると思う。

また、ストリップ劇場では、見る/見られるの関係が十全に機能し、日々そこへ見ることを愛する観客が集まり、その観客たちの高い集中力が舞台上に注がれる。舞台ではそれに淡々と、かつおそらく充実を感じながら応える仕事をこなす踊り子たちがいる。
私は自分の仕事をしながら、それをこそ求めていたことに、ここで気づかざるを得ない。私の仕事において、多くの場合観客の視線の存在は前提でなく、結果としてしか存在しない。職業的には当然のこの事柄について、いっこうにフィットしないところが強くあり続けたと思う。ストリップ劇場という場では、私の日々にあった欠落へと嵌るピースが揃い、一枚の絵が完成している。
日々更新される演目は、それを見てくれる観客 - 視線があることを知っているから可能なのであり、くわえて観客もまた、踊り子たちの肌に視線を向けてふざけあっているようで、踊り子が表現している/しようとしている固有の質を確かに受け取ってもいる。やたらな言葉にせずとも、"それ"がたしかに何度も起きていることを、わずか3ヶ月の間に何度も見ている気がする。

       

 

劇場に行くたび、深く幸せや感動を感じる。道玄坂を下りながら、気づけば無意識に鼻唄など歌っているとき、こんな自分がいたのかと驚かされたりする。そのことを友人たちに話せば、呆れつつも祝福があったりする。そんな出会いがなされることは、誰にもあることではないからと。
私をこんなふうにさせてくれるストリップ劇場という場には非日常な魔法があるが、退屈な日常もあるはずだ。いいこともあれば悪いこともある、単なる日々の繰り返し。これが混ざり合ってるのが劇場だった。ただ私にとっては、その混ざり合いから非日常的な側面を、あるいは日常すらひとつの幻想として汲み取っている部分がある。
この「私」というものがこの文化や場に入り込むとき、あまりにも多くの歴史や感情、立場までもが絡まり合っている。その絡まり合いをほぐすことなく一足飛びに「愛の対象」と呼んでいるストリップ劇場、ストリップ文化への幻想から「私」はどの程度逃れきることができるのだろうか。愛の対象からイメージという重責を取り払うこと、とバルトがどこかで書いていた気がする。

 

こう書いてきて、最後になにか決意があるわけでも何でもない。通えば、変わらず劇場にときめくような思いがあり、好きな踊りを見たなら幸福に打たれるに決っている。そうした経験に自分の幻想がフィルタのように張り付いていて、いっこうにふさわしい現実を見せてくれないままなのも変わらないだろう。しかしいつか、そうしたものも色褪せて、落ち着きをみせてくるに決まっている。


その時にあらためて出てくる言葉や足取りに期待がある。その言葉や足取りこそが、よりいっそう自分には本当らしいものになるだろう期待。それが、今はある。

ストリップのきろく 2021年8月

なかば私的な記録のため、それぞれ「ネタバレ」あり。
記録段階での新演目についても触れています。

文字数が膨れすぎているので別のかたちも勘案中...

 

 

 

8月5日(木) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (1)
Kuu (1)
KAERA(1-2)
瀬能優 (1-3)
宇佐美なつ (1-3)

 

聞きしに勝る狭さ。狭いっていうか、ヘンな雰囲気。
雑居ビルの階段を登り、受付を越してまた階段。右手の入口のドア(木の、押しても引いても開くようなカウンターとかについてそうな構造に近いやつ)を開けると、左手に花道と、その先端に長方形の盆が目に入る。驚くのは、それを囲む15席前後の客席とほとんど同じ高さということ。本舞台は三方鏡。広さは一間半程度しかないのではないか。出ハケは中央奥。黒い幕一枚で仕切られている。天井も低く、背の高い踊り子さんだったらヒールは履けないだろう、というほど。
それにしても、人と人がこんなに近づきながら「触れない」ことを前提にしている環境が他に思いつかない。

このご時世なもんで、今日は出入りを多くする。セルフ換気。

大ベテランにお見受けする夕樹さんの踊りが、年月の積み重ねによる経済化がみえて、面白い。ゆるいわけでもなく、最小限の手数と、何より顔さえ作れていれば常に決まる、というワザ。日本人なら誰しもが知ってるだろうというような大ベタな選曲も、ストリップならではの強度になる。
タッチショーもある。断るほうが恥ずかしい雰囲気。

瀬野さんの1回目のベッドが記憶に残る。花道のふちギリギリまで攻めると、むしろ客席に緊張がある。眼下に触れることのできない肉体があるという不思議さ。

宇佐美さんは「うそつき」「サマーチュール(新作)」「ユキちゃん」全部初見で至福。
「うそつき」は麦わら帽子っぽいハットにガーリーなフィッシュテールのワンピース(「サマーチュール」と混同してるかもしれない)。そこにキツネの耳と尻尾がついたキャラ。聞くのを忘れてたけど、ベルトも毛足のついたもので、尻尾はそこに装着してる感じ?
このキャラでどういうふうに展開していくのかなーと見守ってると、M3(たぶん。あやふや)の途中でハケて、何も変わらない様子で戻ってくるが、ハットを取ると、耳が消えていて、さらに尻を撫でると、尻尾もなくなってるという見せ方。これがふしぎと妙にエロ。何やっても頭いいなーと感心してしまう。
あまり選曲とチューニング合わせられずだったけど、ポーズベッドは相変わらず最高。宇佐美さんの選曲は間違いなく抜群のセンスだが、個人的な趣味とはすれ違うことが多くて、それゆえにノり損なったり、逆にその後すごく好きになったり、いろいろある。

「ユキちゃん」は実質的なデビュー作。人気もある演目で見るのが楽しみだったけど、これが作家としてのデビューって、腹据わってんな!という第一印象。2年経った蓄積もあるにせよ、脱ぎの見せ場もオナベも、元からやってたんすか?という。しかしデビューから小道具でコンドームとか使うんすかね。

曲で歌われる「ユキちゃん」を演じてるようで、何か違う誰かが「ユキちゃん」について歌って(演じて)いるようにも見える。またしかし、後半セーラー服から一転して白いドレス(下着とチョーカーは黒)で、歌われていたはずの「ユキちゃん」から離れてる時のほうが「ユキちゃん」そのもののようでもあり、アイデンティティが役柄の隙間を泳いで揺らぎ続ける。

とはいえ、要素が多くて、ストレートにピークを目指して進んでいく構成とは演技バランスがまったく違うだろうし、パフォーマンスするのは難しいだろうなとも思う。

個人的な白眉は新作の「サマーチュール」。"チュール"がM1の曲名と掛かってて、また2周年作とも選曲に繋がりがあって、遊び心。フルーツ柄の衣装はいかにも夏演目。

M3から水着姿での脱ぎがはじまるのだが、蕨仕様なのかとにかく最前の客に絡む。この視線のやり取りと焦らすような感じはむしろオーソドックスな手つきなのに、宇佐美さんが仕掛けると作品的な攻めにもみえる。
自分が見始めたタイミングが特にそうだっただけなのかもしれないが「黒煙」「Spring Vision」「Positive」「Bubble」いずれにしても、きわめて再現性・完成度が高いパッケージになっていて、あまり偶発的な要素は入る余地がなく、堅牢な構成力に唸るのみ、という感触がある。
それが、観客へ介入することで構成の枠組みがふっと緩まるようで、またその緩みにこそエロさが滲んでくる。結局のところ、エロさとは他者性の受容でもあるが、宇佐美さんが客の視線という現象を舞台上に顕在化させる(宇佐美さんが客に媚態をもって仕掛けることで、宇佐美さんを「見る」客の視線が摘出される)ことを介して、それを行っているのが新鮮。今までの演目で見る/見られるの関係は、舞台/パフォーマンスという形式の周りであくまでも抽象的に展開していたように思えるが、具体的な観客の存在にアプローチしているのは、比較的珍しい(過去に例があったか知らないので推測)はず。とはいえ、イニシアチブは常に宇佐美さんのもとに保たれているし、他者が招く偶発性でなく、偶発性が生じる予感のようなものがぴりぴりと伝わってくることに新味があったのだろう。

メロウなトラックで上の水着を外すとき、今まで見てきた宇佐美なつの中でもっともダイレクトなエロさを感じる。誘惑的な積立も相まって、かなりセクシャルな「体」という感じ。つい思い出してしまったが、あらきまいさんのOPのときみたいな感じもあった...
こういうと変だけど、何十回も見たはずの裸が、まったく真新しいものに見える。

ポーズベッドはそれまでの夏!爽やか!でも夜は少しエロ!みたいな流れをぶっちぎって、突然ドラムンベースみたいなトラック。この選曲センスが本当にすごい。
ただ、脱ぎにあった繊細なエロさに比べて、爽快なポーズの連打で押されると、ちょっとだけバランスが崩れてるようにも感じた。が、再見まで保留。相変わらず初見では細部まで取りこぼしなく見ることができないし記憶も定かでないので。

これはもし7中で連続してみてたら、宇佐美さんの印象がまた変わっていたかもしれない。3演目ともまったく違った表現の攻めがあり、作家/パフォーマーとしての幅広さを一度に見せられたことになる。他のどこの業界にこんな才能のある人がいるんだろう。
いやー、想定されてたはずの、道劇のサイズで早く見たい...

「盛れる」劇場とのことだったけど、間近で裸を見てると、(本当に今さら)こんなにきれいな体なんだなと素朴な感想が出てくる。というか、3ヶ月とはいえ通いこんで観てると、また自分の目や感覚が変わってきていることに気づく。単にかわいくみえたり、裸の美しさに見惚れたり、エロさが感じられたり、原初的な感覚に遡って開かれる。こういうことが、他のパフォーマンスやジャンルで起きたことは、あまり思いつかない。

時々もうさ、宇佐美さんだけ観てりゃいいよね...というふうになりかけるが、あまりそういうスタンスになるべきでない。好きな人やものこそ、他と対照してナンボであるから、変わらず色々な踊り子さんを観ていきたい。が、繰り返して観たくなる誘惑に抗いがたいのも事実...これは自分のクセのようなものでもあると思う。


7中あと、完全にロスに入ってしまったことを軽く話したら、それ聞きたかった!と目を輝かせて満足げにされたのが何か悔しい。

 

8月9日(月) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (-)
Kuu (3)
KAERA(3)
瀬能優 (1,3)
宇佐美なつ (1-3)

 

今のところ蕨でしか出してない"ユーレイ"の演目があるとのことで。
前日にご本人にお伺いを立てたら、音響が思わしくなくて出す確率は低いと。そうかー、またの機会に楽しみにしておくか...

と、行くつもりはなかったはずの月曜。ウーンと迷って気づけば電車に。しかも間に合うかすごいギリギリ。。必死こいて乗り換えて5分縮めたのに、3分電車が遅延。いやしかし押し進行だろう...と楽観視したら、そのとおりであった。
「ユキちゃん」も「うそつき」も2回くらい観ておきたかったのと、道劇前に蕨サイズの「サマーチュール」ももう一度、あとなんだかんだ休日の蕨のようすを体験したく。評判通り濃い感じでいい塩梅。


1回目は「ユキちゃん」。衣装替えして以降の格好良さに打たれる。下着の脱衣も、立て膝の脚を押しやっての開脚も、そこからのポーズのシークエンスも、いちいちがカッコいい。なんなんだろうかこの人は、と、飽きずに思う。
この「カッコよさ」は演目に起因するものでもあり、自分が宇佐美さんというパフォーマーを統合的に処理して感じているものでもある。だから、観客全員がある程度均一に感じ得るはずの性質一般を越えて、宇佐美なつという固有性にコミットしている「私」が、その他さまざまな条件の絡みあった只中で光明のように感じ取っている「カッコよさ」であり、それはおそらく分配不能な事柄である。だからこそ、この「私」にとってなおさら重要な感覚なのだとも言える。


2回目「サマーチュール」。前回感じたM4でのポーズの違和感は払拭。爽快さの合間で、サスペンドされていた誘惑的なトーンを、ポーズとポーズの合間を泳ぐ(「泳ぐ」という比喩が前回に続いて出てきている)ように動かしている。
ポーズ中に衣類が完全に離脱してるのはもしかして珍しい?そこも、この演目、ひいては宇佐美さんのスタイルの反映であるかに思える。焦らしと開放が背中合わせで、互いを行き来するような、いつもの感触。


上の水着の脱衣、ひもをすーっと上に伸ばしていくところに強く宿る官能。ぞわぞわする。


3回目、瀬能さん。M1で、夕樹さんとコラボが。夕樹さんが完全に踊りこなしていてすごい。そしてこういう遊びは楽しいし、すでに懐かしくもある。フェス出たいですね...


3回目は"ユーレイのやつ"!
「うそつき」を観る気で待っていたら、本舞台の奥の幕からニュッと腕だけが現れる。三方の鏡に腕が増殖する。定番のヒュードロドロというSEからM1へ。全身を現すと衣装は白いワンピース。太めの黒いベルトがアクセント。暗色の照明が幽明を境にして踊る姿をおぼろにしかけるが、衣装と肌の白さが対比的に浮かんで美しい。
ベットになると、ここにいない誰か(我々には幽霊だけが可視化されているという反転、我々もまた半ば死んでいるかのよう)にむけて腕を伸ばして背中から抱こうとする振付がある。冒頭で提出された腕の主題がここでリフレインしつつも「出現」する腕が「消失」を表現する腕へと変化し、意味を揺らしてくる。見えない体を抱こうとする腕は対象をすり抜けて自分自身に纏つく。伸ばす腕は何かを求めつつ、一向に掴めるものがない。
宇佐美さんの「幽霊」はかように、ストリップにおける観客と演者の非-接触の渇きをパラフレーズする存在でもある。

この演目、あくまでも仮出しでM1以外の振付はほとんど即興的なものとのこと。だから、こうした読みは作家の作為を解すものではなく、あくまでも作家の直観を肯定的に前提したうえで、ひとつの解釈を作っているにすぎない。それは恣意的にならざるを得ない部分があるにせよ、即興=作為未然のもの、とだけ措定してしまうと、演目は空中分解してほとんど無意味なものになってしまう。仮止めされた演目が上演可能なように、それに対してさらに仮設的な解釈を与えることは、可能である。


最後、音響トラブルで音源を停止して、生歌で踊り切ることに。歌もうまい。余談だけど、宇佐美さんは声がいい。


観られないつもりのものが観れた嬉しさに、ついヘラヘラして俺のためにありがとうございますと軽口を叩いたら「全然そういうんじゃないんで」と窘められる。

 

8月11日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(1)

ささきさち(1)

石原さゆみ(1-3)

宇佐美なつ(1-4)

 


大きな予定が飛んで、また別件で午前中に渋谷にいる。これは行けてしまうのでは...と朝から考えて、行く。2日ぶり...

場内想像を遥かに超えた混雑ぶり。ゆったり観れる目算が崩壊して引いてしまう。2回で帰ろう、とこの時は思っていた。結果、ラストまでいてしまう。


6月以来のささきさちさん。前回もかなり印象的なパフォーマンスで、再見を楽しみにしていた。
ラメの入ったブルーが爽やかで夏らしい大きなドレスからはじまり、下に纏っていた光沢のある白い生地の布が、脱衣ごとに形を変えてシーンを作っていく、凝ったアイディア。
ラストのポーズベットで選曲のギアがガツッと変わり、前回の印象と違わぬエモーショナルな演技。この情動の出方がとても「アイドル」っぽい。


自分のルール上、一定の面白さを感じたらポラに行くようにしてるのだが、列形成が止まらず、ささき登山の様相に思わずまたの機会にと失礼してしまう。すごい人気。


石原さゆみさん。
1回目は男物のジャケットだけを羽織ってパフォーマンスするベットのアイディアになるほど、となる。でも、もっとエロティックになるかなと期待(?)するが、穏当に終わる。しかし2回目3回目と大掛かりな小道具が増え、かなり趣向を凝らした演目を作る作家性のある方と理解。踊りそのものも、とても良い。
とりわけ、2回目の映画ネタは冒頭から幕の開きでスタンダードサイズのスクリーンを模する凝りよう。ポーズはそれまでの演技との連続性をいったんカットした上で、カーテンコール的な高揚感のもと演じられる。
3回目はさらにすっとんだ「カレー」ネタ。真顔で大量のギャグがぶち込まれてどこまで本気なのか分からないほど。中盤以降は袖から巨大なナンが引きずり出され、盆を専有する。歌詞とも微妙にかかってる。ナンに座りながらスプーンを舐めると、スプーンがでかくなる。※こちらカン違い。照明の問題だったようストリップの奥深い世界。
おしとやかなルックスから、望月きららさん(望月さんがおしとやかでない、ということではないです。いや、どうだ?)ばりにしょうもないネタが連発するのだった。闇に光るカレー皿...


石原さんもとてつもない人気。OPで、かぶりの客の肩に足をかけて股間に引き寄せるワザに笑う。


宇佐美さん。
今回は具体的な感想を書くことがほとんどできない。

1回目の「サマーチュール」は、ステージの広さでM1からこんなに違って見えるのかと驚くけれど、何より初回からこんなにキレキレで踊る宇佐美さんを観たことがなかったかもしれない。振りのボキャブラリが大きく変化してるわけでもないのに、過去の演目と比べても、とりわけふっといグルーヴが作られる。この辺はまだまだ正気。

M2も、"花火"を客に促すくだりが、大きくとれた余白によって絶妙な画に。まだ正気、のはず。

M3、正気を失う。よく考えてみれば、今までの前後半で起きていたモードの変化が、今回は三段構え的に移り変わりが起きている。変身がいつもより一回多い。あと、蕨から衣装の脱ぎが一回増えている。
こうした変化の豊かさも、印象を深くするのに手伝っているかもしれない。
とにかく脱ぎがエロすぎる今回、ホットパンツの紐を伸ばすとき、男性器が(「を」どうこうするのでなく)そこにあるようなニュアンスを見てしまう。多重露光で重なるダブルイメージのような。

はじめて回転盆も善し悪しだなと思ったのは、世界一エロいブラの脱ぎが角度によってさっぱり見えないところ。2回とも見られなかった。すごいもったいない。見せてくれ、乳を出すところを。

この辺りでほとんどクラクラしてたけど、道劇音響であのM4からのモードチェンジを聴くと、本当にブチ切れそうなくらいアガってしまう。さまざまな感情や思いが体の底から迫り上がってきて、ポーズの素晴らしさ、体の美しさ、パフォーマーとしての芯の通り方、すべての肯定的な気持ちが渾然となって泣きそうになる。ひとつの強度が磁力を持ち、自分の何もかもを巻き込んでいく。
これも相性としかいいようがないのだけど、しかしどうしてみんなそんなに平然としてられるのか不思議な感じもする。あんなにもすごいものを見て?

どこかに寄りかからないと立てないほど溶けてしまい、同行していたスカーレットさんに何か話しかけないと、と思っても言葉が詰まって喋れなくなり、あまつさえ泣いてしまう。まさか既知の演目でこんなに食らってしまう予定はなかったし、過去トップクラスの身体反応になってしまう。

2回目、かなり見たかった香盤なのにこのあと何も見られる気がせず外に。外に出てもすぐ黙りこんでしまうし、体のあちこちがジンジンとしびれるような感じが残る。30分経ってもぼけーっとしてしまう。これ、なんだっけ...と個人史を探ると、どう考えても最上級に上手くいったセックスのあとのやつだと認めざるを得なくて、困ってしまう。


まあ、相手はプロだしと思ってその感想は伝えた。冷静に考えると、またとんでもないことを言っている。


「Positive」でも案の定堪えられず泣いたとか、「w-e(n)dding」で疲れた(ベットがいつになく生々しくて余計つかれた)とか、感想はいくらでもあるのだが、1回目の出来事が強すぎて、それさえ残しておけば自分にとっては充分。



よく現場でお見かけする方に声をかけて、ロビーであれこれ宇佐美さんの話をする。知り合いが少ないから、とても楽しい。好きな演目の話で「黒煙」が挙がる。自分が初めて観た演目なので、なぜかそれも嬉しい。いつかまた観たい。


そうして話していてなんとなく思ったけど、いや、ずっと思っていることだけど、こうして明らかに強すぎる愛着をもって、かつ平均から多く外れて感想を伝えたり書いたりしていて、負担にならないのか、それだけは気になってしまう。思いがけず誰かの強い愛着の対象になってしまうことは、必ずしもいいことではないし、いつまでもこんなテンションでいいのか...というのは考え込んでしまうことがある。


にもかかわらず、今日の一回目の感想は流されたくないなというエゴがすごく働いて、ラストのやりとりで覚えてるか訊いてみると「面倒くさいオタクが言いそうな感想でしょ、覚えてるよ」とあまりにも的の真ん中を射抜くコメントが返ってくる。面倒くさいオタク、本当にそれすぎる。あと、余計なものまで読まれていることが分かる。



ところで、宇佐美さんの表情がオーバーアクト気味では、と言及する感想をちらっとみかけた。実は、最初の頃自分も少しだけ似たようなことを感じることがあった。
宇佐美さんの表情はどれも印象強く、またそれがはっきりコントロールされて打ち出されてるのも分かるだけに、複数の演目をまたがって表れると、ある程度の均質化を免れない部分があるにはあると思う。けれども、それを否定的に乗り越えて成長することを望むのでなく、むしろその資質の批評的な展開が、本人のうちから自ずと説得的に提示されるとのだと、いつしか理解を修正していた。
たとえば「Bubble」のM1では遥かに予想を超える量のバリエーションとスピードが、ほとんど"顔芸"の域で作動しつつ、しかし下品さはどこにもない不思議なニュアンスを出すことに成功していたし、「w-e(n)dding」のベットでは圧倒的なリアリティを切実に訴えかける表情にもなっている。ある表情の表れが一義的な意味の押しつけになることは多々あるにせよ、宇佐美さんの表情がそうでしかないとは、ちょっと思えなくなった。
オーバーアクトだと思うのはわりと簡単なこと(ある種の規範を任意に適用すればよい)でもある。しかし、一見して過去の蓄積から対照して疑問に思うような表現でも、かなり可能性の余地があるのだ、と、宇佐美さんを観ていると思う。だって、あんなに退屈なはずのオナベがあんなことになるなんて、誰が想像できたというのか。

もちろん、宇佐美さんに肩入れしているから、チャリタブルに見すぎている、というところもある。けど別にどうしても擁護したいわけでもないし、疑問があれば書くし言ってるつもりでもある。まあでも基本的には、死ぬほど好きだ、と常に思っている。

 

8月13日(金)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(1,3)

悠木美雪(1,3)

ささきさち(1-3)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。


美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。
これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。


ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。
一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。
そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。
『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。


石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。
しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。


石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。


宇佐美さん。
この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。
しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。
自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。


「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。

この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...

さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。


「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。


...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...

 

8月15日(日)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(4)

悠木美雪(4)

ささきさち(1,3,4)

石原さゆみ(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

雨の渋谷へ。遠征中の友人も来れるかも、なので待ち構えたが予定噛み合わず。ぜったいハマると踏んでる人なのだが...スカーレットさんも初回だけ観劇。

最初こそそれなりに混んでいたが、じょじょに人が抜け、2回目から座って観られる。しかも回を追うごとに盆へ近づく。ラストはなんだかんだ初の道劇かぶり席。下手端。


石原さゆみさん。
1回目が「盆カレー」。M4のバカさ加減に躊躇なく振り切れる胆力が芸人。カレー皿の上下にLEDライトを仕込んで光らせたうえ、スプーンで縁を叩いて手拍子を煽る、というシーンのどうしようもなさ。客はそりゃあ喜ぶ。自分はそれが近すぎて、かつ遠い、という感慨がある。あまりに同業者感。
シャレた志向性を持つことの凡庸さを思う。自分はこんなふうにベタに突っ切ることはぜったいできない。


この回、踊り子さんがお勉強にいらしていた。こういう、演者が舞台を観ている姿がとても好きなので、つい様子を伺いそうになるが、控える。


和装演目。コレに関してはすっかり好きになってしまった。選曲のほとんどにテレビやラジオを思わせるルーツがあり、「夜明け」「日本」という歌詞の主題よりその大メディアのダサさが勝ってくる。
だが、下世話に堕していかないのは、どこまでも冷めた石原さんの表情のおかげだろう。だが、ポーカーフェイスから、一拍おいてニッと微笑むのが見せ場。その呼吸には漫画やアニメでしかみたことのない非現実感がある。石原さんにはどこか現実離れした空気感が漂っている。


パーソナリティの特異さについ思いをめぐらせるが、娯楽作品としてここまでサービスでき、かつ構成や演出の端正さも備えてるという人が、そうそう思いつかない。ストリップに行くと、こういう水準のものに頻繁に何度も遭遇してしまう。


オープンショーの多幸感は今日も変わらない。ラスト回、チップをお渡しすると、例の腕を合わせる挨拶に参加する。見ているよりずっとヒットが強くて、長袖だったのに石原さんの骨がはっきり当たるのが分かるほどだった。

宇佐美さん。
1回目の「サマーチュール」。水着は3日目4回目から出された、上はM1のときのフルーツ柄で下が無地にヴィヴィッドなオレンジ色のもの。水着の形状が違うので上の脱ぎは前開きになる。いつものバージョンのほうが断然にいやらしいが、下はなんかこっちのバージョンのほうがエロい、気がする。さすがにこれは好みの問題でしかないか...
どれもこれも好きすぎて演目にランク付けすることに意味はないが、「サマーチュール」は相当好きだ。今までの演目には希薄な要素(「w-(e)ndding」は別として)に思えていた、エロの要素をはっきり感じられる演目が好きだと思うと、不思議な気もする。


「positive」は、毎回楽しそうでいい。いや、なんという自堕落な感想。。
けど、こんなに楽しそうに踊りを踊っている人を、じつはなかなか見ることができない。この演目で宇佐美さんのテンションの上下を感じたことは、たぶん一度もない。毎パフォーマンス、演目に求められているだろう踊ることの幸福感に接しているかにみえる。
ひとが嬉しそうにしているとき、思わずこちらも釣られて嬉しくなってしまうし、そこに音楽の高まりが加わることで、ほんとうに幸せでいても立ってもいられない気分になる。あんなに音楽の快楽と喜びを上手にキャッチできるダンサーは宇佐美さんをおいて他にいない。
たとえばボーカルがシンガロングするとき、相同して上に向かって伸び上がる脚があるが、一気に上げきるのでなく、客の視線を釣り針にひっかけるようにした"タメ"が確実にある。この絶妙さになんども唸ってしまう。あと泣く。


「w-(e)ndding」は、今回始めてオナベに心地いい感覚があった。といっても、なにか当事者性に巻き込まれるような切なさは絶対にありつつも、
それが緊張に向かうのでなく、不思議と湯船に使ってるような気持ちよさのまま観ることができた。これがなぜ感じられたか、なにが原因か、そういうことはたぶん突き詰めようがない。香盤の流れや客席の雰囲気、こちらのコンディション等々。合理的に言い得ない部分の出来事だが、経験の変質は間違いなく起きている。幅を知れることが大事。反復して観ることの醍醐味。


4回目の「サマーチュール」。思いがけずかぶりが空いてたので、どうせならと前に進んで一瞬後悔。これ、こんな位置で見たらヤバいのでは...
予想通り、こんなに近くで観るものではない。最前の距離では空間の余白がほぼなく、ダイレクトに体を見つめ続けることになる。舞台のフレーム感覚は完全に崩壊する。それだけでなく、この演目はバッチバチに客と視線を交わして遊ぶ演目だけに、自ずと参加意識も高まる。通常の鑑賞の姿勢が全然役に立たない、まったく違った体験。素朴にドキドキして、単純に照れ続けてしまう。

「サマーチュール」に関して、エロいエロいと言い続けてるけれど、既視感のあるエロさでもありつつ、やはり優れたストリップがそうであるように、未知のエロさを拓いている演目でもある。
まずもって、あんな水着の脱ぎ方ができる人間は世界にそうおらず、そもそもごく基本的なこととして、観られる裸を構築している段階で、それは現実の性関係の場とまた違った水準にある裸である。
が、そういうことをついすっとばして忘れかけてしまうのがパフォーマンスの強度。それでも食い下がるが、これは現実の経験に近しいところへ落とし込まれるのでない。自分の照れや緊張は、かつて経験したことのようで、やっぱりどっかで質を違えてる、と思う。やはり、互い(客席/舞台)で、理想のエロさを追い求める感じがある。
たとえば一方的な媚態の受け取りとして実際の強い性欲が喚起されるなら(もちろんそうした性欲は否定されていないが)、それは"生殺し"としての不満足感に繋がるけれど、観劇にはあきらかにすぎるほどの満足があり、昇華がある。
加えて、理念にとどまらない、性行為のシミュレーションが身体に生じてもいる。観終わってからしばらく経ったあと、自分の過剰な手の暖かさに気づく。初日の1回目ほどでないにせよ、こんなにも頻繁にセックスの後の状態がトレースされるダンスが存在するという事実が、おもしろすぎてしまう。非人称的なセックスがある。


M1で帽子を被せられる役になった。「(歌詞にかけて)「冷静じゃない」人いるわ、と思って」と。ここで"頭がおかしくなる"としょっちゅう書いてたせいだそう。ブログに感想を書くと帽子を被ることになる。

 

ロビーで石原さんのファンのおじさんたちが、使っていた曲や次の演目についてあれこれ話していてかわいかった。ほとんど石原さんしか観ていないお客さんもいたけど、ひとりの踊り子さんだけを観つづけるのも、それはそれで一途でなにか悪い気がしなかった。

 

8月18日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)

悠木美雪(-)

ささきさち(1)

美らかのん(1-2)

宇佐美なつ(1-2)

 

制作の進捗が芳しかったので、つい渋谷に。
たぶん、道劇をカフェかバーかなにかと勘違いしている。

しかし今日は制作のあとなので、初心に帰ってひさびさ勉強モードで。
というか逆に、最近がいかにズブズブな溺れ具合だったかに気づいたりする。

ただそんな勉強モードも最初だけで、結局途中から気持ちよくなってふわふわしてしまう。「サマーチュール」がほんとうに好きだな俺は...それでも何か得ようと、直後のPC作業に向かう前に、ちょっと快感を切り離して粘る。

 

たぶんこれは宇佐美さんのクセみたいなものだと思っているのだが、演技中、不規則にではあるがしばしばビートに対して顔でヒットを打つような仕草がよく見られる。これがずっと気になっていた。その仕草はクセに見えつつも、ある効果を与えている手触りがある。

まず表面的には、絶えず動いているぶん、視覚的な単調さを免れる効果はある。同時に、その仕草が音楽と相同している限りにおいて、観客の意識を音楽のほうへとフォーカスさせ得る。ダンスの振付がそうした効果を担う本流ではあるのだが、手振りやステップが止まる時間...つまり衣装の調整や盆でリズムと遊離して脚を揺らすシーンなどにおいて、このヒットが「聴取のモード」を保持しつづける。
音楽への聴き取りの促しはしかし、別に宇佐美さんから観客へとそう強く求められているわけではない。ヒットはごく自然に表れる(とはいえアドリブとはまた違う)。だからこそ機能し得る。
この仕草は、それが厳密な構成の一部ではないからこそ、生な身体にいくぶん近い。構成という共有物を越えて、ほのかに香るがごとき"宇佐美さんの音楽の聴き取り"へと、パフォーマーがいまどのように音楽を聴いている/感じているかへと、ふと感覚を重ねるように同期的に伝わってくる。こうして意識は音楽へと向けられるものの、パフォーマーからも離れきらずに、第三の「音楽/体」の関係に、部分的ながら参入するような感じがある。

おそらく自分がこだわってるのは、おそらく宇佐美さんなら「あなたと私の物語」というところの「と」をつなぐものが、音楽でもある、という点。何より他のどんな踊り子さんを見てもこんなに音楽を感じることはないし、音楽を感じ合うことで「あなたと私」の関係の足場が築かれてる、という話を、宇佐美さんの感想で何回も繰り返した気がする。
まあ、ちょっとしたクセから穿ちすぎている気はするものの、ひとまず手がかりのようなものとして。

ところでデニムの脱ぎがどんどんエロく感じられるようになってきた(ご本人もこだわりはじめているとのこと)...あれは本当にすごい。それこそ「顔」がいろいろな表情を持つように、「尻」や「胸」も豊かな表情を持つということ。


「positive」は今日も幸せでした。今日は泣かないな、と確かめるように時間がすぎていくが、最後また泣いてる。爛漫たるダンスの歓びがいついかなるときでもステージに咲き乱れる。毎回言うけど、こんなものを見て平然としてるほうがおかしいんで!
しかしいっぺん「俺が見てる宇佐美なつ」を宇佐美さんに見てほしいくらいである。


本筋とは関係ないというか完全に余談だけども、自分はあるパフォーマーの信頼の基準に「他人のパフォーマンスを観るかどうか」というものを置いている。
これはほとんど絶対的で、他人のパフォーマンスを見ないやつは大抵そいつ自身の芸もぜんぜんダメで、優れた能力を持ってる人ほど他人のパフォーマンスをよく観ている(自分はといえば、すぐ判断してしまうので、時間の無駄を感じたら離脱することが多いが)。
それで今日ちょっとした会話のなかで、宇佐美さんも頻繁に「お勉強」をしていることが分かって、勝手にすごい嬉しくなる。もともとお客さんだから当たり前とはいえ、そらそうですよねーとなった。

単純に、またしても自分のなかで信頼が増してしまった...という話でした。

 

8月19日(木)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(2-4)

悠木美雪(3-4)

ささきさち(1-4)

美らかのん(1-4)

宇佐美なつ(1-4)

 

ひとり楽日。
頭からぶっ通しで、とはいかないが2回目からはほぼ全通しで観られた。
場内もさすがに落ち着いてきて、前半なんかむしろまったりした感じも。とくに体調にも何も問題ないはずなのに、集中力切れるところ多くて残念な気に...3回目がはじまるまで1時間以上間が空いたので、それらしいものを飲んだり散歩したり、最後は呼吸を整えたりしてコンディションを戻す。

美月春さん。
とくに4回目の「truth」が爆上がりのパフォーマンス。スイッチが入ったときの美月さんはなにもかもかなぐり捨てるようなテンションで踊り切る。かといって自己陶酔的ではない。「漫画家」はとにかく脱ぎまでドラマを積み立てる。その「いつ脱ぐんだろう」という期待が、まさしく連載漫画の引っ張りのごとし。
いつも思うけど、オープンショーがとても好き。オープンショーはとにかく踊り子さんの人柄が見える時間だけど、美月さんは"オープン"する形式より、とにかく"踊る"ということを念頭にこの時間を過ごしているかにみえる。

ささきさちさん。
「海」のオナベ事後の時間の使い方は先に書いたけど、このオナベ事後にかかるときに入ってくる次の曲が、"まちがって曲出ししてしまった"ような感覚になる。本来もう少し遅れて入ってくるような曲が、ずれ込んで先回ってるような予定調和の崩し。細かい仕掛けをそこここに利かせていて、他の演目も気になる。
細かいといえば「ブランニューデイズ」の後半、片足の靴のストラップが外れているのに昨日気づいて、そのときはたまたまかと思って今日も見るとやはり外れている。細かい見せ方だなあと驚きつつ思っていたが、3回目を注意深く見ていたら、どうやら自然と(?)外れてしまうようだった。いくらなんでも手をかける動作に気づかないことはないはずで驚いていたが、こういうこともある...

宇佐美さん。
1,2回目、前述のようになんだか集中力がなくてうまく見られず...どちらももちろん面白いけど、いつもより届く部分が浅くて、始終変な感じになってしまう。2回目の「positive」なんて、いつも以上にキマっていたように見えるのに、めちゃくちゃくやしい。
横から見てると、振りの形がとれないぶん、ダンスの力の流れが具体的に見える。手を握り込む動作や、腕を広げて盆を周る動きに、猛烈に生き生きしたものが感じられる。

3回目「w-e(n)dding」は、今まで見たオナベとの差に気づかされる。
オナベを見てると、展開的にも動作的にも、え、急に?という違和感が勝ることが多い。大きい手の動きはサービスというか型のようなものなのだろうけど、シンプルに痛くないか...と思ってしまうし、やはり快楽を得るまで急展開すぎて、いまいちよくわからない。
一方で「w-e(n)dding」では、オナベの入りは実にゆっくりしているし、そしてあんなにハードな印象だったのに、よく見ると手の動きそのものはむしろ小ぶりだったりする。かわりに鋭角なまでの体位の遷移がいくつもあり、そのエッジの立たせ方が、あまたあるオナベと決定的に質を隔てているように思う。
また、前回書いた痙攣的な「ヒット」は、このオナベでそのまま音楽の聴き取りと性感とが未分の領域にあることを証明するように、増幅的に演じられている気がする。自分は音楽を聴くことには多分にセクシャルな要素があると思っているけれど、それがこうしてオナニーと直結しているかのようなあり方を見ると、あらためて深く感動させられる。

ラスト、「サマーチュール」。まさかのかぶりドセンが空いたので、図々しく入り込む。さすがに前回ほどではないけど、やはりかぶりは出来事の意味がまったく変わってしまう。
今回はセンターだから踊りの形の部分もある程度取れているけども、ベッドで手足を大きく振ると、ほんとうにこちらに当たってしまうギリギリのところを掠めるようで、それによる触覚的な感覚がずっと大きい。
現象として何というものなのかわからないが、触られてないのに指先を近づけられるだけで触覚が過剰に反応してくすぐったい感じになってしまうようなことが、ひたすら起きて、あきらかに性感に近づいている。ああ、風俗なんだなーとこれもあらためて思う。

とはいえ、単純に首も疲れるし、そうした触覚的な体験だけ追う気にはなかなかならない。かぶりはまあ機会があってもそんなにいいかなという気もありつつ、宇佐美さんの好きな演目でこれを体験できたのはラッキーとしかいいようがない。ご褒美(何の?)だと思うことにする。


今週というか今月、思ってもみないハイペースで通い続けてしまい、ちょっと反省する。体力や時間、金銭的に無理をしたことはないものの、なにかうまく言えないがうーんとなる。
むしろ毎回があまりにも楽しく特別であるために、劇場に取りさらわれていく気持ちにもなる。得られるものが多すぎるあまり、そこに浸りきっていたいと感じるし、事実浸りきるようにしたおかげで見えたこともたくさんある。が、見えなくなることもある。
また、こんなに肩入れしている人に一日おきに相手してもらえれば楽しいに決っているし、それが終われば当然さみしさもある。それでいいのかとちょっと悩む...

もっとカラッと、こうなりゃ皆勤だー!というふうにいければ逆にいいのだけど、なんかこう、久々にじめじめしてしまう。というか、根のじめじめした部分が浮いてきてしまった。ひたすら楽しかった一方で自省もある8月の頭と中だった。

 

...と、書いてから2時間たち、そういえばカラオケバージョンのオープンショーのこと書いてなかったなと。
お遊びといえばお遊びでしかないけど、この日のラストは宇佐美さんがマイク片手に歌いながらオープンショーをしていた。しかしまあその楽しそうなこと。客席も大ウケ。
この日は進行が押して時間も遅かったし、席も最後は決して大入りでなく、すこしさみしいくらいだったけど、こちらとしては少人数ならではの親密さのある時間だったと受け取っていた。満員の客席では出せない空気というのは、それがどこにせよ絶対あるし、ああいう時間を思うと、結局は幸せが勝る。

やっぱり栗橋楽しみだな〜!

 

8月27日(金) [浅草ロック座]『祭音 3rd』

早乙女らぶ(3-4)
みおり舞(3-4)
大見はるか(3-4)
中条彩乃(3-4)
宇野莉緒(3-4)
友坂麗(3-4)
川上奈々美(3-4)

 

初の浅草へ。生活圏だから数え切れないほど前を横切っているが、はじめて階段を登る。テケツの小ささはいずこも同じ、といった塩梅でも、ロビーにはステージ写真が壁一面に貼られ、物販もあり華やぎがある。奥には踊り子さんがそこに立ちもするというバーカウンターが。2回目の公演が終わった直後とあって周辺は賑わっていた。場内に入ると、とにかく...広い!あと天井高い!舞台でかい!要するに普通の「劇場」である。盆から2列目下手側の席へ。

 

まず個々人の舞台の印象は別として、この空間の余白のなかでなお、裸体が裸体としての強度を持ちうることに、素朴に感動はした。照明効果や移動盆があるにせよ「裸」の良さは今までの接近的な劇場経験と遜色ない。
とはいえ各人の場面を「景」と呼ぶ通り、それはもっぱら視覚的な"眺め"である部分が強く、あの狭い道劇での洗礼的な体験を経てストリップ観劇に入った身としては、あまりにも安全に過ぎると思う部分があった。
浅草以外の劇場を「ポラ館」とわざわざいうように、浅草では観客との交流はなく、ひたすら劇が進行し、中休憩をいれても100分程度で1公演が終わる。この圧倒的負荷の低さ。初めてストリップを観る人間がいるなら、浅草で間違いないのだろう。それでも私は道劇に誘うだろうが。
ごく近所にある浅草でなく(単純に入場料が高かったという理由)、渋谷で星愛美さんから始まり友坂麗さんで終わる香盤を観たのは、本当に運命だったのだと思う。

 

その友坂さんが群舞に混ざっていたり、危うげなキャラクターを演じていたり、剣舞を行っているのは、こう言ってはとても失礼だが、微笑ましく見てしまうところもあり。好きな踊り子さんが浅草に乗るのは「推しが連ドラに出るのを観るような感じ」と言ってくれた方がいたが、確かに。
ともあれ友坂さんが1人で踊りきる7景は、やはり盆に入ればほとんど舞踏。髪をかきあげれば空間すべてに魔術がかかったように、友坂さんの身体へと集中していく。
友坂さんの身体、特に腕には、いつも微妙に震えがあるようにみえる。意思的に"動かしている"のと、不随意的に"動いている"ことの合間にあるような不思議な質感があり、ときおりティッキングのようですらあるが、もちろんそんな技巧的な問題でもない。やはり「舞踏」的な、内在的な身体の力の現れなのだと思う。けれども、そうした微細な力の動きを追うことに終始するわけでなく、ポーズは誰よりも大胆にためらいなくなされる。それを見ることの充実に満たされて、言葉がなくなる。
また浅草観劇の最も大きな収穫はリボンさんの仕事の段違いな効果の高さへ蒙が啓かれたこと。後方からはスモークに紛れて発生源が見えない位置から、長いリボンが視野へフレームインし、一瞬で消え去る白いたなびきは踊り子を称える精霊めいている。それは優しげでも、スリリングでもある。
とりわけ友坂さんのラスト、本舞台でゆっくり客席へ手を振る美しい姿の前に、崩れかかる波のようにリボンが2度投げられる。あの美しさは、踊り子と客の協働という関係性を越えて、ひとつの演出的な前提にすら見えてしまう。

 

今回はストリップを観てるときには本当に例外的(普段はむしろデフォルトの)な文句モードが起動してしまったので、逆にもう1公演くらい観ていかないと...と思ったのだが、それは中条彩乃さんがいたおかげで、それほど難しい決断にはならなかった。
キャッツアイをモチーフにした前半は、中条さんのトレードマークである破顔が景の楽しさを支えている。そして中条さんには、あの親しみやすさに対して、異様にスター性を感じてしまう。仮にグループに紛れつつも全体から一際滲んでくるような好感を感じさせる資質をアイドル性と呼ぶとして、対してグループにおいて端的かつ明確に一対多のヒエラルキーを作ってしまうような資質をスター性と呼べるのだと思う。付言しておくなら、その他の景で悪目立ちするとかそういうことはひとつもなく、しかしご自身の景では紛れもなく「スター」に見えた。

 

驚くのは衣装替え以降の雰囲気の変化。紺色の上品な薄絹のドレスは、踊り子さんとしては珍しい部類に思える長身に映え、また表情は演技くささを感じないのに、さっきまでの笑顔からは伺いしれない艶やかさがある。
盆では悠々と音楽の間を泳ぐように動きつつ官能を高めていきながらも、確実絶対なタイミングを撃つようにドレスの前が開かれるとき、すでにうっすらと見えていたはずの「裸」がまったく新しいものとして顕在化する。加えて、脱衣のエロティシズムというよりか、むしろ「裸」をこそ最上のドレスとして纏ったような気品が、そこに存在している。
いかなる香盤でも絶対的な水準の違いがある友坂さんを常なる例外として、中条さんにこそ最も自分の期待する、かつ、それゆえにこんなにも観てしまいたくなる「ストリップ」の質感があったように思えた。個人演目をもっと拝見したい。

褒め殺しめいてしまうので違和感も書いておくと(まずそのベットの振付は振付師によるものなのかご本人によるものなのかわからないが)、自分の音楽的な感覚とポーズのタイミングに齟齬を感じたことだけ気にかかった。あえてジャストからずらして品を保っている、という見方もできるかのもしれないとは思った。

 

ようやくこなした宿題のような浅草観劇。だいたい自分は本当に育ちが悪いので、王道めいたものに強く反発心が起きやすく、1公演目は道劇へのホームシックばかりが刺激されていたが、2公演観てそうした態度がだいぶ軟化できてよかった。なにより、歩いてすぐ行ける劇場なのだから、楽しめる場所になったほうがいいに決っている。次回の『秘すれば花』も、一度くらいは...たぶん...(栗橋と大和の様子をうかがいながら)

 

8月31日(火)[渋谷道頓堀劇場]

永瀬ゆら(1-2)
るあん(1-2)
恋沼あお(1-2)
くるる(1)
金魚(1)

 

渋谷で稽古のあとに1回半だけ。
ひさびさに静かな道劇。1回目スタート時には10名ほど。2回目スタートの頃には倍くらいに。かぶりすら空いていたが、中央2列目上手端に。

 

この日は、るあんさんの新作がすばらしかった。
個人的にも聞き馴染みのある、ほとんど00年代邦ロック(?)のクラシックのひとつさえ呼べそうな曲を2曲使うベットが絶品中の絶品。前半、ポーズに向かうようで向かわない、ただしかし焦らしてるわけでもない特異な時間が、たっぷりとした余韻を抱えて過ぎていく。それがアッパーな次の曲に移ると、尺をがっつり使ったあのポーズの時間に。
るあんさんのポーズは本当にたくさんの時間を使うが、それは静止状態が長いということではなく、生命が変態する過程の充実のような持続があるということ。観客はついこらえきれず拍手を送るが、それを意に介さないようにして、身体は伸びつづける。この時間のたまらなさ...新作はそれが圧倒的なまでに気持ちよくて参ってしまった。7頭で観た六花ましろさんの『鯨』のベットに並んで、忘れがたいパフォーマンスになった。

OPの曲が変わっている。本編と揃えた音楽ジャンル。だがいつもと同様に、BPMが速いにもかかわらず構わずゆったり動く仕方は同じ。るあんさんは、OPの好きな踊り子さんでもある。

 

時間がなくて2回目が観られなかった金魚さんが気になる。
1回目は「ウミウシ」を主題にした演目。ベットではウミウシ(のぬいぐるみ)と交合。ディルドみたいなものがにゅっと出てきて交わるのだが、エロさはうすく「生殖」というニュアンス。それが良いとか悪いとかでなく、こんな感触もストリップにはあるのかという驚きがまずある。ところでウミウシ、雌雄同体だそう。また生殖器を使い捨てる特異な生物だとか...
本舞台の踊りもとても良くて、かなり面白いのだけど掴みかねた部分があり、次の機会を狙う...

 

かなり静かな場内で、どなたのポラも早々に終わる最近では珍しい進行だったが(フィナーレがあってびっくりしてしまった)、ある踊り子さんのポラの片付けのとき、ご年配の常連さんが何事か質問したのに「それ、昨日のポラコメに書いたよ!」というやり取りがあったのがおかしかった。ストリップ劇場という日常...

日記 20210727

今日は気圧のせいなのか何なのか眠気が強く、退勤後すぐ帰宅、仮眠。
起きてから選曲...ああでもないこうでもないといじりまわす。


散髪へ。済んだらすぐ帰宅するはずが雨。予定を変えて近くのデニーズで昼食・作業。手書きのメモでアイディアの整理。
考えていくと、どうもこれは1,2ヶ月でどうなるもんでもない作業かもしれん、という目算が立ちつつある。長年やろうとしてはほったらかしてたことに着手する、のかもしれない...いずれにせよタスクが重なっているので、ちょっと優先度を変えて作業しなくてはいけない。勇気ある先送り、ということにする。急いでもしかたない。1時間ほど韓国語。


連休が明けたからか、浅草には人がいなくなり、亀十にも誰も並んでいない。ほぼ無人の道をミストが冷やしている。


しかし帰宅してからも悪あがき。いや、できることはできるけど、マイナーチェンジでしかなく、やるなら大規模工事だよなあと思い直す。
過去のセットリストのフォルダを眺め、ここ数年だけでも、それなりにいろいろ試してきたもんだと宥めるように感心する。そういえばあのときは誰それに褒められたもんだ、と、ここで飴の一つもあげておかないと、自罰的なサイクルに入り込んでしまったりする。
制作の魔、あるいは単なる性分。


余っていたオクラと納豆を豆腐にかけ、あとは豚キムチをざっと作る。まともなキムチを買う癖がつくと、そのヤンニョムのおかげで豚キムチをいくぶん旨く作れるようになる。
生活上、だいたい2~3つくらいのことしか運営できないので、食はだいぶおろそかになっている。ストリップに行けば、1日の食事が1000カロリーを切っているような日もある。家でも、この1年ばっちりできていた食材の管理があやうくなる。


傷んだ半分のゴーヤを処分した。


制作の体勢に入ったら入ったで、ひとのプレイリストを聴いてうーん、巧すぎ...と唸っている。劇場の環境で同じ15分の持ち時間で争ったら、勝てる気がしない。30分とか、5分とかならあるいは、とあきらかに無駄なことを考えはじめたので別の作業にとりかかる。なのにHDDが不調。調べて手を尽くすが、根本的な解決にならない。


ニュースを見れば東京は不穏な気配。自分はともかく、親しい人たちのリスクを思ってしまう。
結局、複数人でマスク無しに居酒屋へ出入りしているような人たちの身に起こっていることではないか、という都合のいいことを考えてしまう。

日記 20210726

連休も明けてわずらわしい平日の朝、陽が昇るのを遅く感じる。
ずいぶん涼しげなので早めに出て、橋の上で風を浴びるなどする。


なにがどう働いて気分が切り替わるのかしらないが、とつぜんパリッとして、小泉義之の論集を読みながら出勤し、退勤後2時間韓国語をやる。


아침부터 누구가 체포 있었다
겨드랑이를 두 경관에 끼고 있고 질질 끌려 같은 경찰차 까지 연행 되고 있다
두 주일 만에 한국어의 공부를 재개 했다
어학이 지금 저에게는 중요애서 있은 것은 잘못 없다
그렇다고 하더라고 올해는 매미가 작은 같다
정취적에는 그만두고,해는 없으니까, 그것으로 됐다
이사해 첫 해는 여름에 2 마리도 집에 매미가 들아갔다 바퀴벌레는 4 마리
최악의 도시이다


思いつきの文章を韓国語にする勉強。


帰宅して仮眠後、制作。主に選曲なのだが、これが本当にしんどい。
選曲そのものはめちゃくちゃ好きなのだが、さすがに20年もやると擦り切れる部分もあり、またこれを30分という尺のなかで過不足なく機能する選曲にするという規範が、自分の自然な感覚と毎度齟齬を起こす。


これはストリップがしっくりきた原因の一つでもあるが、自分が肌感覚に沿ってパフォーマンスを作ると、たいてい15~18分前後になる。曲でいえば4~5曲。喋らず、音楽と共にパフォーマンスする。おおまかな構成的にはストリップとほとんど同じである。


しかし大道芸ではとくに、こうした決め打ちの構成はほとんど役に立たない。観客を集めて層を増やしていく、というのが求められるセオリーであるから、あらかじめ定まった時間の流れを経験してもらうわけではない。あくまでも関心を引き、そこに観客としてとどまらせるための段取りが優先される。もちろん例外はいくらでもあるし、自分がそれにどの程度則っていたかというと、留保はいる。


まあしかし次の現場は大道芸ではないから、責任を取れる範囲で新たなことをやってみるつもりである。
ちなみにこれは宇佐美以降(おかしな区分が生まれた)の制作でもあるけど、春先の緊急事態宣言で久々だった東京の仕事がすっ飛ぶまえに、なんとなく手をつけ始めていたものでもある。


食材の買い物ついでに図書館へ本を返却して、歩きながらパフォーマンスについて考える。


ハルカくんの声がけで突発的にかいわいのdiscordでボイスチャット。話題は左派リベラルの振る舞いへの疑義と宇佐美なつと今後の進行等々。


夕飯にお好み焼きを食べて、適当な思いつきを書きつけながら過去の映像やらリストにまとめてある映像やらを見返す。うーむ、とうなって閉店。