韓国旅行記(3)

 三日目にして曇り。拍子抜けするほど寒さはない。聖水駅へ向かう。
 清澄白河か蔵前かという、工場地域におしゃれなカフェや古着屋やらが入ってきた地域という。が、工場地域としての機能はぜんぜん現役で残っていて、何かを削るような荒々しい音はそこらじゅうで鳴っているのに、平然と現代的なカフェが何食わぬ顔であったりする。通りも、いかにもおしゃれに敏感そうな若者と、油で汚れたつなぎ姿のおっさんとが同居している。ちぐはぐだ。
 このちぐはぐさは、すでに日本、とくに東京から失われつつあるものではないかとも思った。もちろん、東京にも目を凝らせば、戦中戦後と現在を強引に繋いだようなアンバランスな空間はある。けれども、やはり、実感としては東京の街のほうがはるかに消費主義的な健忘に身を浸しているように思えるし、そしてまたソウル、あるいは韓国はそうした健忘を許さない二重の「戦中」という緊張の中を生きているだろうとも想像する。
 しかしそれでも、ソウルにも健忘の波は覆いかぶさるだろうし、すでにして多くのものが失われているはずだ。五年前の訪韓のときすでに、海雲台の飾り窓は万博に備えて〝浄化〟されていて、廃屋になっていたことを思い出す。今回ソウルで目の当たりにした過去と現在がちぐはぐなまま繋がる緊張感も、どこまで続くだろうか。
 
 どうやら最近オープンしたような雰囲気の店で昼食に冷麺を食べる。注文もタブレットなのでかんたんである。冷麺は黒っぽい平壌冷麺ふうで、スープは細かく砕かれた氷で覆われており、キンキンに冷えている。本格的な(?)平壌冷麺は味がしないとすら思うらしいが、これはそんなこともなかった。
 店主らしいおじさんが、店を出たかと思うと向かいにある野良の喫煙所で煙草を吸い出した。帰り際、仏頂面を崩してにこやかに見送ってくれる。

 案外あまり見るものがなかった聖水エリアから20分ほど歩いて、昨日行きそびれた漢江の公園を目指す。
 川沿いに至れば長い長いサイクリングロード、歩行ゾーンも走り抜ける人がいる。何キロ走れるのだろう。高架下には備え付け(!)のベンチプレスを上下させるおじさん、公園にはゲートボールをしているおばさんたち。対岸の高層ビル群を眺めて、PSYの「江南スタイル」はあの地域をベースにしているわけだなと思った。
 ソウルの公衆トイレはどこも比較的清潔だと思った。

 公園から住宅街を通り抜ける。シンと静まり返っている。赤いレンガ壁の戸建て。居住まいは日本のそれだというのに、見た目は微妙に異なっている。パラレルワールドのようだ、と思う。低層家屋が並ぶ向こうに、ツインタワー。
 無人コンビニがある。試しにチョコパイをひとつ買ってみる。ロッテではなく、オリオンというメーカー。新大久保かどこかで見たことのあるパッケージ。食べたらエンゼルパイのような、マシュマロが挟まっているタイプのものだった。
 
 住宅街から団地群へと変化する街のグラデーションを経て、車の往来も激しいスクデイック駅に着く。旅は三日目にして焦点を欠いたものになっていて、いったんダンキンドーナッツで休むことにした。江南サイドから漢江を眺めてみるか、それとも寺でも行ってみるかと地図を眺めるが、何も定まらない。
 窓の外に、まっすぐ伸びる通りが見える。ここを通ると聖水駅に戻るらしい。入りそびれた雑貨屋とかをあらためて眺めてみようということで決定。LCDCという、複合施設だ。
 高円寺にPKPという、個人的に少し縁のある韓国輸入雑貨店があり、じょじょにメジャー化する(?)韓国雑貨のテイストのなかでも、店主なつよさんのびみょうにヌケた味わいへの審美眼が行き届いた(店に入るとまず1993年の韓国万博のキャラ、クムドリとその関連グッズが鎮座している。すごくゆるいキャラ)セレクトが揃えられている。で、通り過ぎただけのLCDCにもう一度行こうと思ったのは、検索したらこのなつよさんのネット記事があったからだ。
 とりわけ気に入ったのはOIMUというブランドの雑貨。刺繍の施されたブックマーク(三角になっていて、ページのコーナーに差し込む形)や、韓国固有語の色の一覧を収録した本、その他にもマッチ箱、消しゴム……どれも気が利いているし細価格帯もちょうどいい。ひとつそこから選んで、世話になっている人の土産物とした。

 一度、宿に戻って夜はサムギョプサルとする。明洞には数が多すぎて当たりがつけられなかったし、どうせ観光客向けの店しか見つけられないだろうと早いうちに選択肢から切り捨てた。前日に食事をしたエリアから少し進んだ裏通りのほうによさそうなところがいくつか集まっているようなので、そこへ向かう。が、平日というのにとんでもない賑わい。候補としていた店も外に待ちの並びができている。どこもかしこもといった塩梅の盛況で、早々にサムギョプサルは断念。大通りにはテレビ取材を受けた旨を貼り出している店が何件か並び、そのうちのひとつの店のおばちゃんが、通りを挟んだ向かい側の我々にも呼び込みをかけてくる。すごいガッツだ。
 結局は前夜の店に再訪した。骨付きの豚の煮込んだやつと、またチヂミ。学習したのでそれ以上は頼まない。
 
 食事が終わればまたシーシャ屋。どちらに行こうか迷って、初日の店へ行くことにした。案内してくれた店員は変わっていて、対応もどこか心もとない。いざ注文となっても、あまり要領を得ない。あらかじめあると確認していたメーカーも、名前すら知らない様子。ちょっと不安になっていたら案の定、ずいぶんとまずいシーシャが出てきてしまった。しばらく吸っていると先日もいた女性店員が様子をうかがいに来て、大丈夫かと訊かれるが、細かいやり取りになるのも億劫なのでそのまま流した。でも、ぜんぜん大丈夫ではない。
 で、ここからどうするかである。韓国最終夜、このまま不満を覚えてあきらめて帰るか、昨日の店に移動するか。
 こうした選択肢が生まれた段階で、心はもう「昨日の店に移動する」に決まっているのだ。それで、さっさと移動した。
 
 三角地駅の地下鉄出口をあがって眼の前のビル。階段を上ってドアを開くと、昨日の青年が驚いたような顔で迎えてくれる。注文を済ませると、彼は日本語で「昨日はめっちゃ緊張してました」と言う。日本のシーシャにも親しいらしい彼が日本人にシーシャを出すことに緊張感があったということらしい。日本のシーシャカルチャーがすごく好きで、今まで3回日本に行ってて、僕のお気に入りの店は〇〇で、とはにかみながら英語で教えてくれる。それならと、自分の行きつけの店を教える。知らなかったようで、その場でインスタのアカウントを見せると、即座にフォロー。きっと彼はここに行くだろう。
 彼に名前を尋ねる。ジンです、と言う。結城です、と返す。よかったらと互いのインスタのアカウントも交換した。プロフィールから、自分の上げている動画を見て、驚いたようにしていたので、パフォーマーをやっていると言う。マジシャン ?と言うから、ジャグラーだ、と言う。ピンときてないようだったので저글링.と重ねると、伝わったようだ。動画を見ながらカウンターの方に戻っていくジンくんが우와〜と声を出していた。
 別れ際、또 뵙겠습니다.また会いましょうと私が言った。きっと私はまた彼に会うだろうし、それは日本でかもしれないし、韓国でかもしれない。

 終電ぎりぎり、地下鉄で明洞駅へ戻る。どうやら宿に帰るには、今までと違う道のほうが近いということが今さらわかった。
 夜道に人気はほとんどない。時々すれ違う人は、日本語を話している。
 大きなホテルの前にテントがあった。側面には英語・日本語・中国語で何か長々と文章が書いてあった。ホテルの不当解雇により職を失った者たちの抗議活動だということが分かる。我々の解雇により人員不足になったホテルのサービスが低下したと感じたら、我々を応援してくださるお気持ちがあれば、それを手紙に書いてホテルの箱に投函してくださいとある。文は、良い年末をお過ごしください、と結ばれていた。

 宿に着く。家族が、ホテルの前でタバコに火を付ける。茂みの柵の下に雑然と置かれている灰皿へ灰を落とす。夜でもそれほど寒くない。私たちが帰ったあと、ソウルは急激に冷え込むらしい。
 24時間稼働しているらしいバスが目の前の通りに次々とやってくる。
 韓国に、また来たいと思い始めている。

 

(了)

韓国旅行記(2)

 2日目の朝。ホテルの地下で朝食を出しているというので行ってみると、シリアルとパンがあった。従業員らしいにこやかなおじさんがいた。おじさんは何をするわけでもないけど、そこにずっとただいる。
 トーストを焼いてジャムを塗って食べる。日本のものよりも、小さい食パン。シリアルも少し食べた。
 
 DDPへと向かう。これもせっかくだから徒歩で。宿からは30分強。ビジネス街らしきビル群はすぐに終わって、低層の古い建物が並ぶ問屋街がはじまった。主に照明を扱っているらしい。
 遠回りになるが構わず横道にそれると、より雑多な事務所や、何ともつかないお店がぎゅうぎゅうに並ぶエリアに入り込む。なにやら機械の部品などを扱っているのだろうか。
 魚を釣り上げた写真が外に飾ってある店。店内には、その写真に写っているおじさんがいた。
 狭い道をバイクも車もひっきりなしに行き来する。車が一台、荷下ろしのためか堂々と道を塞いで駐車している。後続にはもう一台の車と、大きな荷物を荷台に載せたバイクが来る。時間がかかりそうととあきらめたのか、バイクはエンジンも切ってしまった。
 車は日本よりずっとひんぱんにクラクションを鳴らすが、あまり感情的なニュアンスを感じなかった。実のところはそんなことはなくて、すぐにイライラしているのかもしれないが。歩行者優先のムードはないのか、どこでも車はずいずいと入ってくるが、狭い道では日本よりも細かくハンドリングして避けてくれるような感じも受けた。

 東大門エリアに着くと、目当てのDDPが見えてくる。
 遠目に、宇宙船めいた銀色の建造物がうかがえる。いかにも現代建築然とした不定形なフォルムが周囲を圧倒するように存在している。いい加減に、とりあえず、写真を撮る。



 信号をわたって、建物が近づく。DDPと刻まれた門前(?)。ここから経験の質は一気に変わる。
 前方、まっすぐに伸びる動線を追うと、流線形の屋根はトンネルを作っていることが分かる。あるいは極端に分厚いアーチ。動線はトンネルを貫くように奥へと続いている。
 DDPの文字を手前に写真を映そうと横にずれると、奥へ巻き込むようにカーブしているのが分かる。いや、動線の直線上にいるときはその湾曲の意味がわからなかったのだ。巻き込みの曲線は、左手奥の別の流線へと視線を促す。ジグザグに登り降りする太い線。



 奥へと進むと、さきほどの巻き込みは回遊を誘う、あたかも先導者となって歩行者の手を引くような働きを生む。同時に、そうした促しは施設利用時のデザイン上の要請であるだけに留まらず、屋根と見えた、しかし今となってはそれが巨大な鯨のような全体として感受される構造物の物質的な厚みの変化を味わうことと共生している。銀色のそれは、ところどころ垂れるように、落ちかかるようにぶよぶよとしたものに思える、が、これも目を凝らすまでもなく、それぞれ大きさが異なる四角形のパネルが無数に貼り合わされた表面であることを認識する。メタリックでつめたい感覚が喚起される。そしてパネルはつるっとした表面のものと、細かい穴が穿たれた多孔のものとがパッチワークされている。これが機能上の必要によるものなのかは素人でわからないが、穴の空いたパネルはうっすらとその奥を透かしており、内/外をつなぐものでもあると感じた。
 さらに、動線は最初に起きたことと同様に、こちらのわずかな視点の変化によってダイナミックに風景を変える。線は重なり、見通しのいい奥行きは閉じられ、既知の空間を未知の空間かのように変えてしまう。おもしろくて、階段も10段ごとに振り返って光景の変化を確認する。
 このシークエンスは、そこにある身体でないと、見ることができない。
 
 内部に入ると、というか、まずもって内部に侵入する際の極端に斜めに設えられた自動ドアに圧倒させられる。その先の空間の広がりとのコントラストが面白くて動画を撮ろうとしてみるが、やはりどうやったってうまくいきそうになくて諦める。
 まずはカフェなのだが、こちらは外部と一転、鋭角なモチーフが目につく。床は平行四辺形のタイルがランダムに配置されている。黒色もグラデーションで2色。白く艶めかしいカウンターや椅子はいかにも設計者の意匠という感じだが、利用者が腰掛けるのはなんだか雑駁な椅子とテーブルだった。それと、店内BGMがJPOPのピアノインストバージョンばかりで閉口した。頼んだアイスティーもガムシロップを5個くらい入れたような甘さでびっくりする。

 次いでアートホールのむちゃくちゃな形の螺旋階段に笑ってしまう。やはり最近見た白井晟一松濤美術館の螺旋階段の楚々たる印象とはまったく違い、空間を圧する螺旋のボリュームと、他方で掻き傷のようにシャープな手すりのコントラストは不協和音的な印象すらある、が、不快さどころか官能もたしかにある。

 


 隣のスロープのほうに移れば、建物をゆったりとなめらかに登っていくことになる。鯨という生物的な印象のモチーフにこだわるなら、胎内的な落ち着きも感じさせる。また、こちらも螺旋形であることがすぐ分かる。ロープと階段は並行して──しかし異なるリズムで──巻き上げられていることに気づく。
 階段とのリズムの差。そう、リズム。目で線を追うこと、歩くこと、あるいは素材の質感を触覚的に感じ分けること。DDPは、土地の起伏というランドスケープをも取り込んでいる。建設途中に発掘されたという遺構によって、時間をも重ね書きしている。それらのバラバラなリズムが統合された空間の、あまりにも複雑なおもしろさ。
 何時間でもいられる、そう思ったし、予定を超えて2時間以上は滞在していた。

 
 せっかく旅に来たから、どこかでボールを投げている動画のひとつも撮ろうと道具を用意していた。外周をまわったところで、最初に通った道(橋だったことが分かる)が奥に見える、そして手前には鯨の腹の下に潜り込んでいくような広場につ続く、ゆったりしたスロープがある広場のところで撮影した。さむくて手がうまく動かないし、何をしているのだという気にもなったが、どうせならと数パターン撮った。思ったよりうまく撮れない。まあいいか。

 東大門から、またもと来た方向に戻っていく。ただし、北側のチョンギェ川のほうを通って。
 川沿いには細々とした店が並ぶ。主に古本屋、衣料品店。誰かが買いに来ることを歓迎しているわけではないというか、どうして商売が成り立っているのだろうと思いすらする(本を読んだら、夜になるとバイヤーが来るとあった)。
 地下鉄駅にはしばしばなんとかモールと名付けられた商店街があるのだが、これの多くは衣料品店で、どれも極端に安い。それだけにデザインや品質もいいとは思えず、実際、店員同士で雑談しているばかりで客がいるところはほとんど見かけなかった。
 日本にだってそんなところはいくらもあるわけだが、ソウルに関してはあまりに鷹揚ではないかと思ってしまう商売人たちの姿をよく見かけた。

 平壌冷麺の有名店に行くが、昼もずいぶん過ぎたというのに5組も待っているというから、さっさと諦めて適当なハンバーガー屋に入った。バーガーキングのような味。家族はチャジャンソースのハンバーガーを頼んでいた。
 トイレで用を足して、あとから写真を撮っておけばよかったなと後悔したのが水洗のボタンのデザイン。日本で「大/小」と文字で識別させるところ、大は大きい円形、小は小さい円形だけで処理していた(帰ってからよく見るとTOTOのものでボタンの大小で区別はしていた。形態的なデザインを意識せず文字を読んでしまっているということだ)。何の説明もなくても直感的に分かる。家族に話すと、別の場所では円の大きさは同じながら、中に描かれている水滴の絵の大きさで使い分けを促していたものもあったとのこと。

 DDPでだいぶ満足してしまったが、建築士の友人に勧められていたリウム美術館を見物に梨泰院のほうまで地下鉄で向かう。駅ではずいぶん日本語が聞こえるようになった。海外で日本語を聞くと、すごく損をした気分になってしまう。
 で、リウム美術館なのだが、やはりDDPで完全に飽和状態になってしまい、新鮮に受け取れるものはあまりなかった。むしろ、すぐ目の前にあるBORN TO STANDOUTという韓国発のフレグランスメーカーのフラッグシップ店を楽しむ。日本ではまだ限られた場所・機会でしか嗅げないので、ひととおり試香。SIN&PLEASUREと題されたものが好み。まあでも、買うほどではない。ハンドクリームもいいのだが、それほど乾燥肌でもないし使う機会が少ないなと見送り。完全なる冷やかしとして退店。
 柴犬とすれ違った。 
 家族の希望で坂を下り、漢江のほうへと向かう。だが、これが失敗。幹線道路で岸は遠くに阻まれ、橋の方を目指すも行き止まり。調べてわかったことなのだが、漢江に掛かる橋で歩いて渡れるようなものは皆無に等しいらしい。
 あきらめて南山駅から龍山駅へと向かう。

 龍山に向かう2号線地下鉄は、低層の古めかしい住宅街を車窓から伺わせる。どのくらい小さな駅なのだろうと思いきや、バカでかいので驚く。あとから、東京で言えば品川駅のような駅と見かけ得心する。
 ただここにも飾り窓があったと聞く。10年ほど前に一掃され、いまはすべて高層ビルになったそうだ。そうした歴史など知る由もない、ただただ韓国の発展の象徴だけがある。
 
 龍山に寄ったのはシーシャ屋である。最寄りは三角地駅なのだが、少し歩いて、また夕飯に先んじて、目当ての店に向かった。が、まだ開店には早い。
 戦争記念博物館があるが、ここには間に合わず。地図アプリを見ると、すぐ目の前にふしぎに青々とした記名のない空間が広がっている。米軍基地であるらしい。皇居外苑を含むほどの広大さとのこと。都会のど真ん中に、地図上の空虚として、米軍がいる。
 ごく小さなカフェでコーヒーを飲んで時間を潰す。40歳くらいの女性が1人で店に立っていて、別に不親切ということもないが、まったく英語を使ってくれないので、いやだからといってそんなに困るようなことはないのだが、とにかく何も聞き取れない。
 私の韓国語の能力だと、ネイティヴの彼ら彼女らが言っていることは、本当に何ひとつ分からないと言っていい。とくに店員はコミュニケーションというよりは、ルーティンで、慣習で発話するような、現地の人はあえて聞き取らずとも(日本の居酒屋に入店して「っしゃーせー」と聞こえても、それが「いらっしゃいませ」だと言っていることは状況と経験から分かるのと同じように)意味がわかる、そうしたものに関しては、とくに知識なしではまず聞き取れない。ファストフード店でなにやら訊かれてあいまいな顔をしているとHere? or To Go?と訊き直される。つまり店内で食べるのか?持ち帰りか?と。
 これはだから、おそらくは드시고 가세요? 가지고 가세요?と訊かれていた(はず)のだ。ただ、それがわかったとて、そしてたどたどしく韓国語で返したとして、次に来る韓国語はまた聞き取れないだろう。しかたないので英語でやり取りをすることになる。
 けれども、韓国語を学んだのだなという嬉しい実感を得られるシーンも多々あった。ここが何の店なのか、何を注意している張り紙なのか、おおよそは分かる。自分が異なる言葉を扱えている、その優越感。じつに初学者的な喜び。

 シーシャ屋。DAYOFF CLUBという。地図アプリで見た店内写真も品が良く、日本のシーシャ屋のイメージにも近かった。体格のしっかりした、まっすぐな目つきの青年が店員。前日と同様、簡単にメーカーについてなど質問。なんとなく彼なら任せられるだろうという直感が働く。
 最初にサービスのスナックなどを運んできてくれる。日本人ですか?と日本語で訊いてくる。そうです、と日本語で返す。店員は物静かに微笑む。シーシャ、よけいなギミックもなく、なめらかできれいな煙を作っている。あまり詳しいほうではないし、情報をあまり入れすぎないようにしているのだが、十分にうまいことはわかる。
 炭替えに来て、チェックし、いちど首を軽く傾げてもう一度炭の位置を調整した。
 退店のとき、아주 맛있습니다と告げると、照れくさそうに両手を胸に当て微笑んでいた。

 明洞へ戻り、友人たちへの土産物を仕入れる。ちいかわのグッズが気になる。グミの袋にランダムに入ったスマホグリップ。本にやたらめったら付箋を付けているうさぎのもの。どうするか、としばし手にとって見たが、買わずにおく。
 思えば、自分のために買った土産物は何ひとつないのだった。

 ホテル近くの店で食事。お腹が空いていたのでビビンパ、キムチチム、チヂミ、ケランマリと頼んだら、ひとつひとつの量は多いわおまけのキムチ類はおかわりを持ってこられるわで大変な思いをする。
 そういえばと気づき、持ち帰りを頼むことにした。この旅一番の長文である。남은 음식 포장 가는한가요?  
 が、カンの良い店主はこちらが남은 음식...と言ったくらいで포장! と言って、テキパキとチヂミとケランマリを詰めてくれた。 

韓国旅行記(1)

 韓国へ旅行に行った。
 毎年、家族の誕生祝で10月頃に旅行をするのが慣例になっているのだが、いろいろあって誕生日からは半年ほど遅れてこの時期となった。家族は海外に行ったことがないので、では手近でKPOPに親しみもある韓国がいいか、となった。
 自分はと言えば、仕事で釜山の海雲台という場所に5年前一度だけ行ったきりで、ソウルははじめて。わずかに韓国語を学んだり、付随して小説を読んだり新書レベルでおおまかな近現代史に目を通したことがあるくらいで、ほとんど韓国に対する知識もない。ので、いざ韓国行きのチケットを手配しても、なかなか目的地やすべきことが定まらず、旅の焦点を結ばないでいた。

 それが近頃、建築に関心がわいてきたこともあり、またつい最近に建築士の友人と都内の建築・都市再開発地域などをめぐったなかでザハ・ハディドの話題が出てきて、それならばソウルにもDDP(東大門デザインプラザ)があると気づき、そこを軸に街歩きや寺巡りなどをすればいいかと輪郭が定まってきた。食に関しては、日本のそれと大きく変わらないだろうと踏んで、行き当たりばったりでよいとした。
 並行して、宿を探した。昨今のトコジラミ騒ぎもあるので、また家族旅行でもあるので、高すぎず安すぎずのいい塩梅の場所を明洞にて発見、予約。大きく息を吐く。だが、この段階で明洞がソウルのどこに位置するのかも知らない。次いで、仁川空港からソウル駅への動線を確保。AREXの直通電車を事前に予約するといいと見たので、コネストから予約する。もちろん仁川からソウルへの距離感も知らない。約50分ほどの乗車時間とあるので、結構遠いのだろう。
 今度は地下鉄の行き来を便利にするらしいwow passという電子カードだが、どうせ歩き回るだろうと思い、これは作らないことにした。結果的にはずいぶん地下鉄の世話になったのだけど、それほど不便は感じなかった。そして端末を使うためのsimカード。esimもあったのだろうけど、なんとなくくせで物理simを購入。5日間毎日1GBまで使えて1000円ほど。
 事前の準備はこのくらいだろうか。だとしてもイチから雲をつかむように情報を探していくのはそれなりに疲れた。また、ひとりで勝手に旅するのとは違って、初海外の家族を連れて行くのだから、それなりに責任もある。くわえて渡韓の前週に松山へ行く用事も入れてしまい、旅続きの2月になった。そして確定申告作業である。行きつけのシーシャ屋にいつもより多く通い、気を紛らわせていた。そういえば韓国のシーシャはどうだろう?こちらも旅の予定に入れ込むことにした。

 5時台の都営浅草線に乗り、成田空港第一ターミナルへ。近頃の国内線はオンラインチェックインばかりだったので、パスポートチェックインはずいぶん久しい。カウンターに行かなければいけないのかと思ったら、端末に読み込ませればいいのだった。複数の航空会社から、今回の航空会社を選択する。ボーディングパスがペラペラの紙で出てくる。家族が早々に破いていた。
 これも知らなかったのだが、保安検査場は7:00にオープンするらしい。30分以上前だ。場所取りのアジア系外国人が先頭を陣取っている。
 とりあえずトイレに行くと、小便器の上のスペースにはコートが置かれていた。届けようにも誰もいないし、職員も見当たらなかった。ねぼけて忘れていたのだろうか。想像する。時差ボケで、あるいは早起きで、空港内が暑くてコートを脱いで、手に持って、それをトイレのスペースに置いて、用を足したらすっきりしてすべて忘れて出ていく。さすがにどこかでコートのことを思い出すだろう。取りに帰れるタイミングで、あるいは手遅れのタイミングで。旅の記憶として。

 つつがなくフライトを終えて仁川空港に到着すると、信じられないほど長いイミグレーションの列に圧倒された。
 つづら折りに並ぶ人、人、人。おそらく1時間以上並んだ。simカードの入れ替えもできない(あたりまえだが機内でやればよかったのだ)ので、空港のたよりないFree Wi-Fiで調べ物などをする。いちいち途切れる。
 パスポートチェックと指紋・顔写真登録を行い、一息つくヒマもなくAREXの乗り場を探す。それほど本数が多くないから、あまり乗り逃したくない。券売機でQRコードを読み込ませようとするが、あいまいな赤外線の所在が画面をうまく捉えてくれない。いらいらして手打ちで予約番号を入力。うまい具合に、残り5席と表示された直近の列車に乗り込むことができた。車窓を見る気にもならずスマホアクティベーションに勤しみ、また寝、たまたま渡韓の時期が重なった友人と連絡を取ったりしていると、ソウル駅に着いた。
 
 長大なエスカレーターを3回くらい登ると、開放的な駅舎に到達する。目先の出口を通ると、ソウルの勾配に富んだ街並みが目に入ってくる。低い山があって、その中腹くらいにビルが林立している。なんとなく、ソウルだ、と思う。
 喫煙所があったので、喫煙者の家族はそちらへ向かい、自分は家にあった小銭で飲み物を買う。そう、以前の旅の残りもあったが、時おり投げ銭に紛れ込んでいた500ウォン硬貨が何枚かあったので、それを使った。
 お茶を飲みつつ喫煙所を眺めていると、皆が痰を吐くのを確認する。これもあらかじめ聞いていたし、かつての渡韓でも目にしたような記憶があるが、そんなに痰が出るものだろうかというくらい皆吐く。日本の公衆マナー的にはあまりほめられた行いではないわけだが、そもそもそんなに痰を吐きたくなるものだろうかという疑問が先立つ。男性のほうが多いように思ったけど、女性も全然吐いていた。以降、これはソウルの風景として1日に何度も当たり前に見かけた。
 そして喫煙率もひじょうに高い。日本でいうと違法駐輪という感じだろうか、そのくらいの気軽さであちこちに野生の(?)喫煙所が生まれていた。これも男性が多かったように見受けられたが、女性もなかなかに喫煙していたし、ポイ捨てもふつうにあった。実際、ソウルの道端は吸い殻だらけである。
 大まかなソウルの印象のひとつに、20〜30年くらい前の日本の風景を幻視しているような感じがあった。たしかにこのくらい道は汚れていたし、ゴミは捨てられていた、はずだ。
 だから韓国は遅れているなどと言いたいのではなくて、ただ単に、そういう印象があるのだった。そもそも、ソウル市民が痰を吐こうがポイ捨てをしようが、それほど不快に思うこともない。自分の土地ではないからかもしれないが。

 ソウル駅を出ると、漠然と広い空間が現れる。階段を下って左に進むと辰野金吾ふうの、もっといえば東京駅丸の内駅舎の引き写しのような旧ソウル駅舎が目に入る。子弟たちが旧植民地に辰野様式の建築を残している。これはその有名なもののひとつだ。
 駅舎には進入禁止の囲いがあって、あまり近づけない。
 付近には、高齢の男女があてなくふらふらとしている様子だった。よく見ると住居らしき集積物がそこここにあったので、野宿者たちと合点する。さらに奥では炊き出しがなされていて、20~30人くらいの人たちが立ちながら食事をしていた。鳩にそれをあげている人もいた。鳩は日本と同じようなドバトだった。その鳩の群れをかいくぐって地下道に進んだ。
 明洞まで歩いていくうち、naverの地図アプリにマークしていたソウル図書館を通っていく。しかし休館日なので中には入れない。旧ソウル市庁舎であり、これも植民地時代の日本建築である由。館内は現代的に再デザインされているようだ。
 図書館前の広場では、どういったタイミングでなのか梨泰院の圧死事故の犠牲者たちを追悼するブースがあった。おそらくは可能な限り全員の遺影を並べ、悲痛なバラードとなんらかの取材映像をモニターで流し続けていた。
 GS25というコンビニで、NERDYのセットアップのジャージを着た、至って無愛想なお姉さんのレジ(なにかの書類が散乱していて商品を置く場所もなかった)からキンパとおにぎりを買って外で食べた。キンパは2800ウォンくらいだったと思う。ほとんど一食分を賄えるボリューム。味も全然いい。
 気づけばソウルには腰掛ける場所もゴミ箱も当たり前にあって助けられる。日本がおかしすぎるだけで、これは当たり前ではないかとあらためて思う。
 
 明洞に着くと一転、日本人と見るや日本語で化粧品や何かをしきりに勧めてくる。また、明洞の道では夜に向けて出店を準備するらしい。大きな四輪の屋台を引いている人が次々と狭い道を通っていく。ともあれ、やかましいしあまり自分には用のない場所だな、と思う。中国大使館前で換金を済ませる。大使館の前では法輪功の人間らしい男が座禅を組んでじっとしていた。
 イシューを違えても、こうした座り込みを、ソウルではしばしば見かけた。また、いちいちを読もうとしていなかったので訴えのそれぞれを理解はできなかったが、何かと横断幕を掲げる文化があるようだ。これはおそらく市民の訴えにとどまらず、公共施設らしい建物の門前にもよく見かけた。どうみてもそれのためにあるわけではなさそうな2本の柱にも半ば強引に結われて渡された横断幕もあった。
 さらに大雑把な印象を書き留めるなら、ソウルというのはとにかく文字に覆われた街だと思った。明洞のような観光地はともかく、すこし町外れに出ると、看板もドアも文字で埋め尽くされている。いくら読めるとはいえなじみの薄いハングルだから余計にそう感じるのだとしても、広告的な洗練よりずっと直截に、「文字」そのものが通りを浮遊している。
 話が横にそれたついでにもうひとつ印象を書いておくと、ソウルの広告で西洋人がモデルに使われているイメージが日本よりずっと少ないことにも気づいた。あるいは、日本にそうした西洋人のイメージが多すぎるのかもしれない。

 明洞の街中を通り過ぎると、これもマークしていた大聖堂が現れた。韓国最古のゴシック建築教会ということだそうだ。観光地ではあるのだが、今も変わらぬキリスト教徒たちの祈りの場である。マリア像に拝跪する者、長椅子に腰掛けつつロザリオを握って像へ顔を向ける老婆。教会のなかに入るとミサを待つらしい人たちがじっと椅子に腰掛けている。シスターは壁面のレリーフに向かって正対して目を閉じ祈りを捧げるようにして、それを壁に並ぶひとつずつに繰り返していた。あまりうろつくべきではないと判断して、すぐに辞去する。
 ヨーロッパでも都度に教会を見たけれど、イタリアの小さな教会に漂っていた濃厚な信仰の香りを忘れがたくいる。ここはソウルでも最も大きな教会のひとつなのだろうが、そうした濃密さがあった。そして濃密さは、この場に長々といるべきではないという緊張感と共にある。
 このときも、またソウル駅での野宿者たちに対してもそうだったけど、自分が観光客=よそものであることをたびたび意識させられる場面があった。つよくその土地に固有な雰囲気を作っている空間に出くわすと、それをおもしろく・興味深く思う。ただ、そうした興味を向けられているためにいるわけではない彼ら彼女ら──あるいは無機物にですら──に対して居心地の悪い思いをする。
 観光地は退屈だ。南山のタワーも、何度も目にしながらそこに行こうとは思わなかった。景福宮すら素通りした。漂白されているだろう空間に、スタンプラリーのようにして訪ねる意味がよくわからない。これは家族も価値観を同じくしている。かといって、ヴァナキュラーな存在へ、ことさらにおもしろがる視線を向けていればいいというものでもない。基本的なことだが、そうした緊張感は常に生々しくうまれる。
 ありていに言ってしまえば、我々もまた「観光客」として見返される視線に緊張しているのだろう。振る舞いや視線の馴染まなさはすぐにバレてしまう。空間に対して最低限の緊張感を持つこと。当たり前のことである。だが、その緊張感をもって興奮しても、しようとしてもいけない。当たり前のことだ。だが緊張感はあり、その心地よさもある。

 緊張感は、街の方でも失っていたりする。すくなくともそう感じる場所はある。
 ホテル(きわめて感じのいいフロント)にチェックインして荷物を置いてから、夕暮れにかけて北村へ向かった。韓屋という伝統的な様式の家が並ぶエリアだ。まあここも、観光スポットとして紹介されているのだから薄々そうだろうとは思っていたが、韓屋のリノベーションをして今っぽいカフェやらバーやらお土産屋やら、そういうもので商売をしている場所であった。ひとつひとつの趣味がおぞましいほど悪いということもなく、好意的に目に留まる店もあった。とはいえ、あまりに〝いい感じ〟過ぎはしないか。もう少し早い時間に訪ねて、もっとゆっくりまわれば印象も変わったかもしれないが、世界はどこに行っても同じ!という気分になる。
 早々に離れて、歩いて明洞の方へと戻っていく、どころか、ソウル駅に近い市庁駅まで歩く。
 
 先に韓国を旅行していた友人とスンドゥブ屋で合流する。家族も見知った古い友人なので3人で食事する。スンドゥブにはビビンパもついてくる。といっても米は釜炊きのそれで別にやってくる。まず店員が友人のものでデモンストレーションしてくれる。具材の入った大きな器に8割くらいのご飯を移して、念入りに混ぜてみせる。次いで、釜に残ったご飯には熱い烏龍茶をそそいで茶漬けにしろという。ほかにも韓国料理屋ではおなじみのキムチ等の付け合せがくる。これらすべて合わせて10000ウォン程度なのだから驚く。
 韓国料理。以前に釜山へ行ったときも強く感じたのだが、現地の料理は案外うすい味付けである。濃い色にはくどいほどの甘みや辛味を想像するのだが、逆に言えばそれを期待していると肩透かしにあう。実際、家族はそうだったようだ。先に言った烏龍茶漬けは、どう楽しむといいのかわからないほど味がなかった。いま思えば、付け合わせに来た、えごまの葉のキムチはこれに入れるのだったか?

 友人はチムジルバンというスーパー銭湯のような(友人曰く「スーパースーパー銭湯」)場所にハマったらしく、そこへ向かった。我々はシーシャ屋である。都内の異常なほどの多さに比べて、ソウルには限られたエリアにしかないようだ。実際、明洞からすぐに行ける場所には前もって当たりをつけていたこの一か所しかなかった。
 そもそも、ひとつひとつ地図アプリで店をチェックしていくと、ずいぶんギラギラした感じの店が多いのと、ユーザーの投稿した写真も酒のほうが多かったり、実態があまり見えない。とりあえず、向かう店にはクラシックなエジプシャン台を扱っているのが確認できたし、そこまで気に食わないこともあるまいと入店。ビルの5Fにあり、通りを一望できる窓と、半個室めいたスペースと、なにより絨毯敷で靴を脱いで、なんなら横になってシーシャを吸えるというすばらしい環境。ここまでの店は、都内にはほぼないと言っていいだろう。
 簡便なメニューしかないので、店員になんのメーカーを取り扱っているか尋ねる。一般的なものは揃っているようなので、自分の好みのアルファーヘルのオレンジを注文する。しばし待って到着。5cmくらいの厚みの正方形のアクリル板を設え、いらないのにLEDライトを点ける。台を置くとボトルが七色に光る。珍しいと思ったのは転倒防止のチェーンで台を留めること。窓際・壁際ならではだろう。シーシャ好きの友人たちに写真を撮って送る。2時間ほど過ごして、歩いて宿に戻る。日付が変わっても賑わう屋台、誰に贈るのかこれも露店の花屋、溜めに溜めた灰皿をぶちまけたのでもでもこうはならないだろうという量の吸い殻が散乱する休憩所。
 
 宿に戻る前、KMARTを覗いてお菓子でも買おうとしたが高いことにびっくり。ロッテのガーナが3000ウォンくらいだった。

白雪・萩尾のばら周年週 あるいは「私」を問い続けることについて

※以下記事は演目の内容について詳細に触れています 

※2月2日脚注追加

 

 

 劇場をはじめて訪れたとき、眼の前で踊り、やがて裸体になっていく彼女たちの名前を知っていることはほとんどない。そこにあるのは肉体だけで、ときおり目を惹く舞台があるにすぎない。
 しかし、やがて馴染めば無名の彼女たちは固有の名を持つ個人であることがわかり、そのパーソナリティーを含んだ顔見知りになっていくこともある。私は「白雪」「萩尾のばら」と名乗るふたりを知っているし、ふたりもまた私のことを知っている。

 周年週。つまりそれぞれが名乗り、その名のもとで舞台に立つ最初の「週」を記念する1年に1回の祝いごとである。白雪と萩尾のばらはそれぞれ2022年1結・2021年1結、すなわち1年違いの1月21日にデビューをしたということだ。
 私はたまたま白雪のデビューステージに居合わせていた。形式を備えた「ストリップ」らしいステージだったかどうかは別として、恐れもなく破顔して踊る彼女の顔つきを忘れられない。客たちは彼女の来歴を想像し、今見たステージのクオリティや今後の行く末を勝手に話題にしていたのだった。
 そうして2年が経った。

 また萩尾のばら。彼女に関しては昨年も周年作の感想を残していた。個人的なエピソードはそこに書いたとおりで、2023年も時々ステージを観ていた。『ろーてく・ろまんてぃか』という夏頃に発表された新作は今までにないほど萩尾の身体性にフィットしていて、普段着の色気を描いていて素晴らしかった。多作と言っていい演目群が、自己イメージを更新しては「萩尾のばら」のステージやパーソナリティを豊かにしていた。そう思う。
 「私」が演目を作り、また演目が「私」を作っていく。
 
 3周年作になる『I am』はタイトルの通り「私」そのものが主題になっているようだ。昨年の『プロローグ』同様、しかしより語る主体=萩尾のばらに近い形での自己言及が予感される。私は……そのあとに何が「私」の内実を定義するものが置かれるだろう? またそれは選曲の歌詞などで理解の補助線が引かれるだろうか?
 ふたを開けてみれば、萩尾の3周年作はじつにストレートなダンスナンバーとして提示された。だからひとまず、萩尾自身が定義する「私」は踊る者だと言えるだろう。振付には何か意味ありげな身振り≒マイムが関わることはなく、ビートに乗せて、おそらくは過去最高密度の手数で攻め込んでくる。
 これは初日以降に変化を起こしているが、初出しのステージにおいては過去の振付語彙が散見された。とくに『ろーてく・ろまんてぃか』でひときわ印象的な両手の人差し指を口の端に差し込んでイー、と広げるようなキュートな振付が、『I am』でも現れていた*1。なるほど、私は踊る者であり、踊り=振付によって事後的に成り立つ私でもある。萩尾のばらの身体に紐づけられる特徴的な身振りは、ほとんど「萩尾のばら」を形づくるピースとして、あるいはアトリビュートとして、彼女を構成し、縁取っている。かといって、たとえば多くの者が知っているだろうマイケル・ジャクソンムーンウォーク股間に手を添えてバウンスする痙攣的なムーブのようなものでもない。
 だが萩尾のばらを形作っているだろう振付が萩尾のばらと密接にあるように読めてしまうのは、他ならぬ私自身が、萩尾のばらを萩尾のばらとしてそれなりの期間・回数を見てきたからに過ぎない。その動きは劇場でしか流通しておらず、イメージとして各メディアに繁茂することはない。そもそも私が『I am』という演目名を、ステージで演じられているダンスナンバーと紐づけ、それを読もうとすることできるのは、彼女のSNSでの投稿を読んでいるからだ。
 演目を読む手がかりは、彼女との関係があり、また関係の濃淡に支えられている。それらははじめて劇場に訪れた観客にはまったく与えられていないものである。さらに言えば、前前段落冒頭で言ったように「初日以降の変化」を、後日の再見によって確認できたということ、再見をうながすほど私が劇場に親しく、また萩尾に相当程度近く、くわえて演目に魅力と謎を感じているからだ。そもそも、知らない誰かが「私」を問い、「私」を語ったところで、誰が興味を持つというのだろう。
 それでも、自己言及と自己提示は確かになされている。「私は」と踊りによって語り、ステージ上では聞こえてこない声を出すことをやめてはいない。私にとって萩尾のばらは名もなき誰かではなく、女の裸を見せてくれる都合のよい客体でももちろんなく、たんなるサービスの一部のなかでなされたやり取りとは言え、互いに具体的な記憶を持つ関係がある。萩尾の「私は」という語り始めに耳を傾けるしかないし、聞き届けることが求められていると感じる。

 とはいえ、それはけっして深刻なものではない。至って軽快に、さながらミュージカルの場面のように萩尾は踊り続ける。しかし、 M1が終わり暗転とともに袖にハケたあと、英語による複数人の話し声が流れ出すM2。なかなか明転がかからないままに萩尾の再登場を待っていると、白地にピンストライプが引かれたツーピース(パフスリーブがひじょうにキュート)の衣装に着替えた萩尾が舞台に飛びしてくる。M1よりもずっと振りを詰め込んだパートに目を奪われていると、M2のラストに行く前に舞台は溶暗していく。その中でも萩尾は明かりが落ちていることなどに気づく様子もないと言わんばかりに踊り続けていく。
 そして曲中暗転は、じつに25小節以上に渡って続く。このM2。M1との連続性は衣装の変化によって断ち切られているし、長い不在は続くM3との連関も追いづらくしている。とはいえそれが瑕瑾に思えるかと言えばそうでもない。M3の"DIVA"によるゴージャスな選曲は演目を高揚感に包んでいく。だが、ミッシングリンクがあるという感覚も確かに残っている。「私は」という語りは、M2の独特な照明演出によって語り手と語りに距離をもたらしている。その間には「私」を編集する、もうひとりの見えざる「私」がそこに影を落としているかのように思える。
 高揚はストリップの尋常な形式に則っている。また、いつになく熱を帯びてときおり顔を歪ませるように情動に突き動かされる萩尾の顔つきも見える。舞台は強いバイブスをもって観客を引っ張り込む。
 私はとても生意気だ、と韓国語で言い募る立ち上がりは、萩尾のパーソナリティを知っていると、ほとんど真逆のことを言っているように思える。そのようにありたいという宣言なのか、それとも本当に私は生意気なんだと思っているのか、あるいは歌詞のことなんかよく知らずになんとなく好きで使っているのか、いずれにせよ萩尾のばらがどういう根拠でその曲を選んでいるのか、また暗転にしてもどういう意図があるのか、私は知らない。訊ねるつもりも今のところない。
 ただ、踊る者としての萩尾のばらが踊りによって「萩尾のばら」という存在を生き続けているように、わずかな時間でも観客と言葉をかわし合う、関係する者としても生きていることは間違いない。だが劇場を離れれば、お互いに生活の具体も分からない。どこに住んでいて、どのようにこれまで生きて、さらにいえば"本当の名前"もなんというのか知らない。私に見えているのは溶暗の中で踊る彼女の姿のようにぼやけたものでしかない。見誤りもあるだろう。早合点の勘違いもあるだろう。また、萩尾のばらも私を、あるいは逆光に佇む私たちの姿を、正確に見届けることはできていない。私はとても生意気だ。そうだろうか?私はそう思うが、私がそう思っていることを萩尾はどう思うだろうか。

 

 現時点でタイトルが発表されていない白雪の2周年作もまた、周年作の自己言及性のフレームの中で作られた演目である。そのように断言できるのは、明転に先行して前奏曲のように流れるM1と共に閉じられた幕が開くと、一幅の絵画のよう(活人画!)に立っている白雪/白雪姫の姿が目に飛び込んでくるからだ。ディズニー映画によって馴染みの、あの白雪姫の出で立ちがそこに再現されている。
 白雪は、ときおり客たちからそうも言われるように(またSNSのユーザーネームがそうであるように)白雪姫として「私」を位置づける。ただしそれはあまりにもパブリックイメージに準じた自作自演ではある。けれども、周到な白雪は観客へ差し出すバラやリンゴの他に、ちょうどリンゴと同じくらいの大きさの光るボールのようなものを手にしてもいる。M1のラスト、その発光体に口づけるような、あるいはかぶりつくような仕草をすると、音楽は劇的に高鳴り、白雪/白雪姫は袖へと消え去っていく。リンゴ。白雪姫の物語においてはまず「毒」であるその果物は、言うまでもなくキリスト教においては禁忌の表象として象徴付けられている。白雪はそうした毒と禁忌を発光体によって表象している。
 人工照明はストリップの前提である。かつて一条さゆりが蝋燭の火を光源として持ち込んだことはあれど、踊り子は自然光によって照らされることはほとんどありえない。言うまでもなく、裸体の提示は劇場というグレーゾーンによって成立しているからだ。
 白雪が「白雪」であるためには光を必要としている。だが光は毒/禁忌でもあった。私を照らすものは、私を蝕み/阻むものでもある。白雪は白雪というペルソナを演じ、それがゆえに「白雪」として生きられるにしても、そのパーソナリティにはこうしたアンビバレンツが内在しているのではないか。
 M3、全身を覆う白く薄いヴェールをかぶり、そのヴェールの中で先ほどの発光体を捧げるように持っているのが見える。下着はつけているものの、胸も含めすでにほとんどが裸体である*2。しかし目にはレースがあしらわれた目隠しをしており、夢遊的な足の運びでゆっくりと、光に導かれるようにして盆を目指して行く。照明も限りなく暗いブルーに包まれている。
 ヴェールを払うと、あらためて裸体が現れる。ストリップにおいては、すでに眼差しているはずの裸体も、薄衣ひとつあるかないか、あるいは「脱ぐ」という契機を挟むとまったく違ったものとして現れ直す。そしてタトゥー。デビューのときには(たしか)足に入っていただけのそれが、いまは腕や胸元など、複数に増えている。私はこの変化を知っている。どうしてか、この裸体の現れにタトゥーの存在がきわめて強く目に入ってくることに気づき、また、胸や局部といったいかにも「裸体」めいたものよりよほど生々しく白雪の身体を表しているように見えた。白雪は光に盲たまま、身体が衆目にさらされる。我々はその身体を見つめる。あたかも「白雪姫」というペルソナをも脱いだ、代えのない、まぎれもなく白雪と呼ばれるその人の固有の身体として、それを見る。ただ、同時に、光に照らされた限りにおいての身体でもある。見せる/見られる身体そのものが、「白雪」というタトゥーであるかのように、私は受け取る。
 そして繰り返される、年をとっても美しくなくなっても、私を愛してくれる?という歌声。私たちは、そう白雪自身から問いかけられているかのようだ。しかし、私は知ってる、あなたが愛してくれることをと、私たちの返答は待たずに信頼を投げかける。
 そうした先に、鳥の鳴き声が流れはじめてまるで目覚めたように目隠しを取り去り、発光体がその中に溶けいるように強く明るい照明が白雪を照らし出す。あなたは踊ることができる、人生を楽しむことができる、この踊り子≒私をあなたは見つけるんだと強く鼓舞するような歌に乗せて、光は毒であることを飲み込んだうえで、あたかも自分自身が光り輝くようにかつてはそう上手くはできなかったはずのポーズを、多彩に繰り出す。

 ストリップにおいて、あなた/私と呼び合う関係は固定的ではない。踊り子にとっての「あなた」は観客だが、観客にとっての「あなた」は踊り子であり、そうした立場の差は盆を中心とした劇場空間によって溶け合う。見るものもまた見られるものになる距離は、互いの呼び/呼ばれる位置を不確定に入れ替える。私は強い、そうした宣言が(歌の力を借りて)なされるとき、必ずしも踊り子の自己肯定をメタポジションから認識するだけではなく、それを聴く私もまたそうでありうるとエンパワメントされる。
 同様に、白雪があなたは踊れる、あなたの人生を生きろとと歌うことで、白雪はまだ見ぬ踊り子へ手を差し伸べているようにも思える。あなたにもできる。探し出せという誘いは、ごくストレートにストリップという営みが続いていくことに、希望の光を以て照らしているかのようだ。光は私を苛むこともあるかもしれない。しかし、私が光となってあなたを照らすこともできる。まったくストリップというものを知らずにこの世界にやってきた女王(クイーン)は、そのように言っている。これ以上に感動的な、そして周年という記名性の強い時間にふさわしい振る舞いがあるだろうか。

 ストリップとは何よりもまず、踊る芸能だと思う。そして、踊ることと、各々が各々にしかない肉体を謳歌することをこれ以上に祝福する場もない、と思う。同時に、踊り子はむき出しではいられない。社会的な掣肘があり、劇場の中で名乗る名前を新たに得る。
 踊り子は、踊る者であるとともに、演じる者でもある。萩尾のばらという名において、白雪という名において、彼女たちは「踊り子」という役を引き受ける。それぞれが務めるべき役割がなんであるかは、それぞれが「私」を問い続けることで更新されていく。「私」は……続く言葉は常に仮のものでしかない。

 私はふたりを知っていて、ふたりも私を知っているが、なにか実のあるやり取りばかりがあるわけではない。ごく短い時間の他愛のない会話ばかりが積み重なっている。それでも、私はふたりをまだ見ていて、これからも見たいと望んでいる。
 踊るとは、あるいは踊りを見るとは、ふたりが問い続ける「私」に続く仮の言葉を手繰り寄せることでもあり、声なき声を聞こうとする契機であり、私はその営みに、飽かず惹かれ続けている。

*1:途中でこの振付は一度なくなり、楽日にはまた復活していた

*2:私の誤認なのか楽日再見時には最初から下着の類はガーター以外着けられていなかった

忘れがたいもの(結局はストリップの話)

 年末、なので記憶をたぐってあれこれと考えていたが、かわらず今年もストリップにまつわるよき記憶が身体を占めている。仕事にしたって、「ニュー道後ミュージック番外編」で劇場の舞台に立たせてもらったことは特別な経験であるし、『ab- ストリップのタイムライン』『ab-EX Re:メンズストリップ』という本を作ったのも今年の大きな出来事である。

 ストリップの何がそんなに、ということだが、劇場で知り合った友人知人も増えて、もはやそれは自明の前提になりつつある。こんなにいい場所はなかなかない。*1

 そんないい場所で、きわめつけにいいと思われる瞬間がある。それはもちろん、良いステージを観たときだ。良いステージとは何か。これももちろん、さまざまな基準がある。
 話は変わるけれど、ときどき読んでいる福尾匠の「日記」がある。つい先日の日記にはこう書いてあった。

 水炊きを火にかけているあいだ、適当に感想をつぶやきながらM-1を見た。システムより人間が見たいよな、とか、君は誰なのかと問われているんだと、思って舞台に立ってほしいな。せっかくウソつくんだから、とか。*2

 人間が見たい。近しいことは、わりと芸の世界では言われることと思う。最終的には芸ではなく人だから。そうした言い方。
 人が見えるということにかんして、ストリップはその機会が相当に与えられる場だと思う。裸体には人生が見える。そのような言い方もあるが、わたしは「人」とはもっと身も蓋もないものだとも思う。人生という過ぎ方の重みを乗せるには、踊り子さんはあまりにもからっとしている。拍子抜けがある。脱力がある。ままならなさ、というと葛藤を引き受ける「わたし」に悲哀があるが、劇場で見えるままならなさには、もっと、互いにしょうがないねと笑い合うような気楽さがある。
 
 ま、それはいい。

 9中道劇はある踊り子の引退週でもあった。その踊り子に続いて、萩尾のばらが演じた『ハート』はすばらしかった。必ずしも後輩の引退に際して演じられたわけでもないその演目──客席に向かって大きく手を振る振り付けもある──が、踊り子という職業を辞する彼女を見送る「礼」としてそれが機能し始める。どのくらいそのことをあらかじめ意識していたのかまったくわからないけれど、本来は観客に向けられているにすぎないはずの「演目」が、引退を見送る餞となる。ただ、ともにそこに居合わせ、演じられる踊りを見ることが別れの抱擁になる。
 ストリップの演目は、あるいはそこに流れている音楽は、じつに素朴なメッセージを持っていたりする。けれども、その素朴さに対してまっすぐに向き合うことがストリップでは(すくなくともわたしやわたしの友人たちは)可能になる。ひとまず「裸」のなせるわざだと言っておくくらいしか手はないが、誰かが誰かへ別れの礼を尽く(しているように感じられる)すことを、こんなにも真剣に切実に可能にすることに、打たれざるを得ない。どういうことなのだろうか。そうした素朴さに打たれる自分に何度でも戸惑う。そしてその戸惑いを嬉しく思う。

 7中道劇の4週年週でだけ演じられた宇佐美なつ『し-せい』もまた、誰かとの別れを描いていた。だがこれはもっと抽象的な──本人の言葉を借りれば「生前葬」のような──別れであった。『し-せい』では、べつに具象的に死が描かれるわけではない。ただ、それを想起させられる。見る/見られるという視線の交錯はストリップにおいて交歓へと位上げされる。また、見送る/見送られるの礼の世界に近づく。触れ合うことなく、ただ見る/見られることに徹するこの場において、そしてそれゆえにこそ、わたし(たち)は想像する。究極的には死ぬ/別れるべきわたし(たち)の、想像するしかない生の終わりを、仮想的にここに引き受ける。そうした想像をともにすることこそが美しいと思えるステージだった。
 
 なんだか別れの時間にばかり目が向いてしまっているが、劇場はぜんぜん陰気な場ではない。

 『し-せい』が出された「週年週」というものは、踊り子の記名性が際立つ時間でもある。だれそれのデビュー◯週年だと、アナウンスもされる。そうした時間だけに、「周年作」はどこか自己言及的な気配を纏うことも少なくない。そうした週年作でありながら、きわめて楽天的で脱力的な4週年作である蟹江りん『マジックショー』は忘れられない。名前を引き受ける重さはどこにもなく、魔法によって踊り子はキュートなうさぎへと変身してしまう。何の意味もないし、そもそもマジックにしたって超ベタな演出でもって記号的な「マジック」を演じるに過ぎない。その……語弊を恐れずに言うならアホさ加減。アホになれるという強さ、かわいさへの衒いない接近、こんな演目にはどうしたって演じるその人の魅力が不可欠で、そして間違いなく魅力的な人(うさぎなのだが)がそこにある。
 そして盟友(?)でもある、ささきさちの4週年作『showテラー』もまた、期せずして同型のテーマを扱っている。が、蟹江のそれよりも、楽天性へとたどる道のりは佶屈している。これは偏った見方かもしれないが、楽天性は所与のものではなく、自己への向き合いによって手に入れた成果として現れているように感じた。こんなにも楽しげに、歌を口ずさむようなささきさちを初めて見て、それゆえにこれが周年作ということの意味も際立ってくるように思えるのだ。いずれにしても、祝祭が演じられ、解放が描かれ、舞い散る偽物の紙幣は浮世のわずらわしさを塗り替えるようにくしゃくしゃなままあって、逃げ込むだけではない現実への窓が想像のうちに穿たれるようだった。

 望月きららという、間違いなく芸の天才と呼んでいい踊り子がいなくなった。1結道劇で観た『Pink』の至芸と言いたくなる踊りをたぶん、一生忘れない。もちろんこれだけではない。彼女のステージ、客あしらい、どれをとっても日本(暴論を恐れないなら世界)最高のものだった。シリアスと悪ふざけは区別なく同居して、ただの観客すら、望月きららにかかっては愛すべき「人」として舞台空間に巻き込まれる。こんなことができる人間がストリップ劇場にはいた(だが、かわらず今も小倉のショーパブで踊っている)。
 今年は何人もの踊り子が劇場を去ったが、何人もの踊り子が劇場に戻ってきた。正確に言えば昨年11中なのだが、花森沙知というすばらしい踊り子が復帰し、かつての観客の記憶に残って忘れがたいものであったらしい名作『肉体関係』を観ることができた。そして、何人もの新人がデビューした。
 なかでも、綿貫ちひろはとりわけ強い印象を残している。『デビュー作』の、じつにじつにシンプルながらその人の個性がはっきりと刻まれた、品のある踊りは、再見の機会となった12結道劇で音への確かで丁寧な同期にその品の根拠があるとつかめた。2作目である『エール』でもその丁寧さはそのままに、脱衣の鮮烈を演出し、高揚感のある立ち上がりに繋げてもいた。2022年1結デビューの白雪のステージを見て以降、どこか新人への期待は彼女のような存在が基準になってしまっていたけれど、まったくそうではない、想像もつかない仕方で新しい価値観は生まれると教えてもらった。

 そして、はじめてわたしがストリップに打たれた友坂麗による『ショータイム』には、ストリップがいつまでも変わらず、わたしにとって圧倒的であり続けることを見せつけられた。その人がかっこよすぎて涙が出るなんてことがあるだろうか。もちろんあるだろうけど、でも、こんなことがあるんだろうかと初めてのことのように思わされる。
 友坂麗の踊りがどうかっこいいのか、それに近づく手がかりはあまりに足りない。大きな謎であり、謎は魅力であり、大げさに言ってわたしがまだもうちょっと生きていたいと思ってしまうような、そうした希望としての謎である。

*1:先日以下の記事をアップした

劇場|ab-

*2:https://tfukuo.com/2023/12/25/231224/

素描_11結

 6:46という、普段からすればおそい地下鉄に乗って、だからだいたい7時くらいだったろうか、新橋駅で横須賀線に乗り換えようとすると、人でパンパンの列車が到着した。かたわらには大きい荷物を積んだキャリーカート。手慣れた様子で後ろ向きに乗り込む通勤客。立錐の余地もなく、つまり直方体のこの荷物など文字とおり収まるべくもないらしいことをホームで立ち尽くして眺めて、いや、眺めている場合ではなく、刹那にカートを倒して後続の車両に向かって小走りに移動する。ここもだめ、ここも、ここも、あいにくイヤホンなんぞで音楽を流しているので出発のベルも定かでない。どうにか押し込めそうな扉を見つけて遠慮なく乗り込む。扉脇のスペースも両サイド塞がって、所在なく真ん中あたりに立ち、居心地の悪いまま品川を過ぎ、武蔵小杉を過ぎ、横浜あたりでようやく収まるべき場所に人・荷物ともに収まる。思えば平日の通勤ラッシュにぶつかる形で出勤することなんてなかったのだ。東戸塚で降り、ピックアップされ、現場へ。朝のちいさなドタバタがすぎればのんびりかと思いきや休憩の間もなく2公演。一息つく頃には公園でランチピクニックとなった。池には無数のオナガガモが回遊している。鯉だっている。孫に話しかけるように鯉と会話する老人もいる。スーパーで買った塩パンに、からあげとアボカドをはさんだ。そして現場でいただいたブルボンのお菓子にマスカルポーネチーズをディップして食べて、山道のような遊歩道を歩いた。親父は登山家で、というから山登りが趣味なのかと思ったら、1970年代に南米のなんとかいう高い山を踏破するチームにいたのだとか。だから「岳」という名前なのだと教えてくれた。離れたところから写真を撮られる。曖昧に笑った。

 平岡直子・我妻俊樹『起きられない朝のための短歌入門』を読んだ。渡邉さんがおすすめしてくれたので、買うことにしたのだ。東京堂書店で。ついでに峯村敏明『彫刻の呼び声』も買った。こちらはまだ読んでいない。本屋で一冊だけ本を買うというのはどうしてむずかしいのだろう? 何度も言っている「あるある」だけど、本当だよねえと渡邉さんはうなずき、でも我慢しているからと一冊だけ本を買っていた。で、『起きられない朝のための短歌入門』は面白かった。歌人がどのように実作に向かっているかだけではなく、じっさいに歌をとりあげつつ、具体的・抽象的に会話していく。プロだからといって、何もかも判明なのではない。わからないものはわからないのだ。武藤さんとはじめて会ったとき、友坂さんの踊りは、あれはいったいどういうことなんですかと素朴に訊いてみたら「わかんないよねえ、なんなんだろうねえ」と言ってくれてホッとしたのを思い出す。わからないものはわからない。

 でもこれからは心の小便小僧の心の底という底が鏡張り 桜が咲いて

引用されている、瀬戸夏子さんの歌がかっこいい。

 宇佐美さん『星降る夜に見つけて』がひじょうにかっこよくなっている。上野仕様の省スペースバージョンということもあるだろうけど、サンタ人形の小道具が追加されて、それと踊ったりするのだ。ものを扱うのが本分だからか、センスのいいものの扱いにはグッと来る。
 クリスマスは好きだがクリスマス演目には特段惹かれないけれども、そこになんらかのイメージ操作があれば話は変わってくる。石原さゆみの『クリスマス』(初見のときは10結だった。こういうことができるさゆみさんに憧れる)のように、どこかウェットな日常にあるクリスマスの風景を描いてみせたり(だがこの演目の白眉は観客を使った衣装選択の手際の良さだ。あんなに明快なノンバーバルコミュニケーションをどこで学ぶのか)するなら、話は変わってくる。
 この『星降る夜に見つけて』も、「夢」からスタートしながら、立ち上がりではきわめて「現実」めいた夜明けへとたどりつく。雪は降らないし、高速道路や工場すら見えてくる。それはそれでロマンティシズムなのだが、そこに仮託するのではなく、現実=今ここ=劇場へと引き戻される感触がある。恋人たちのクリスマスは劇場でのひとときの華やぎへと奪還される。キラキラとしたアイドルソングでコーティングされつつも、それがどこで流れているのかということに、どこまでも自覚的であるように感じられる。というか、それがこの演目の見方なのだなと自分なりに納得があった。

 風邪を引いて伏せる。それほど大したことはないが、ずっとだるい。本を読もうにも手につかず、ふとやたらさわがしかった「セイレーン」の出てくる「島編」とかが完結したらしい『ちいかわ』を読んでみることにした。一日がかりで読み終えて、手元には無数のちいかわLINEスタンプが残り、あちこちのトークルームにそれらは拡散し、「ハァ?」と大声で叫ぶウサギがお気に入りになった。

素描_11中

 寒さに耐えかねて現場を抜け出して、最寄りのコンビニに行く。送られる車の窓から姿を認めていたファミマ。入店するなり、やきいもをすすめる、ボーカロイドのような声が延々とリピートしているのに気づく。焼きそばパンにファミチキとカロリーを摂って身体を温めにかかるが、ボーカロイドの声が気になる。やきいも〜ほかほか〜みたいな単純な売り文句を疲れ知らずに繰り返す。すごく短い間隔でリピートしている。店員は気にならないのだろうか。田舎というのに溢れかえりそうになっているゴミ箱にゴミを突っ込んで現場に戻る。真っ直ぐな道の向こうに山が見える。暮れかかって稜線は定かでない。小学校のとなりの建物ではなにかを練習しているような声が聞こえる。と、おもったらそれは現場から聞こえるマイクの声が建物の壁から跳ね返ってくるのだった。いや、そう思ったがやはり建物の中から聞こえるのだったか。現場に戻るとほどなく白い龍を引き連れた学生たちが現れ、そのあとすぐにキム・ウイシンさんの踊りが始まった。チマふうの長く赤いスカートを脱ぐとスパンコールのついたベリーダンスの衣装になる。髪を解くこと、衣装を変えることでおどろくほど違った人物になる。肌こそ露わにしないが、ストリップでずいぶん見慣れた現象だ。表層の変化が、本質的な変化に届くかのように見える。すべては表層に過ぎないと断じたところで、ことの新鮮さには、やはり届かない。それはひとつの純粋な驚きなのである。

 大和ミュージックでも、緑アキさんの『デビュー作』で驚きがあった。スパンコールの付いたビキニ姿のM1-2でチェアーと戯れるようにアクロバティックなポーズを決めるシークエンスがあったかと思えば、衣装替えでは真っ赤なドレスへと一気に変化する。色彩的にも衣服のスタイルとしても、衣装替えの前後でこのような大きいコントラストをもった演目をあまり知らない。ストリップには脱ぐことの驚きもあれば、纏うことの驚きもある。人は着替えることができる唯一の生き物だとエリック・ギルは言ったが、かように人が服を纏うことの豊かさをここまで見せてくれるジャンルも、やはりストリップだけのような気がする。

 靴が2足続けて壊れてしまった。すぐに買ったはいいが、壊れた靴を履いているとどうにもみじめな気分になる。あまり人目にはつかないのだからもっぱらみじめさは自分だけのものにとどまる。足元を見る、という慣用表現の由来を知らないが、人がふだん眼にしないところをつついてくることだということはきっと間違いないだろう。他方、海外の人にしばしば靴を褒められた記憶がある。本当に好ましい靴かどうかというより、やはりここにも目が届きづらい場所をあえて褒めるという機微が感じられた。着ているニットの首元の意匠に好ましいものを感じて褒めても、そっけない口ぶりで返した彼女の声をなんとなく覚えている。喧嘩していたのだった。

 ずっと頭痛が続いた。薬を飲んでもぶりかえし、身体も起ききらない。しかたないので静養に務めるが、やるべきことややりたいことはあるから手をつけてみる。週の半ばになってようやく頭痛は消えた。あらゆることが遅れて、ただでさえやりたくないようなことはどんどん後回しになって、痛みがむしろ現在を強調させる。未来への積立も過去の精算も退いて、臥せり続けるほどではないから、ただ毎日がある。疲れに疲れて、もう明日という日が来ること自体がめんどうくさいと口にして呆れられる。言ったそばから、思いがけずそのような過ぎ方を経験することになった。しばらくぶりに、回復を求めてしっかり休んだ。寒い日があって、雨の強い日があって、風の強い日があって、暖かな日がある。それだけを感じていく。偽物のスイカゲームをやる。偽物のスイカができた。