忘れがたいもの(結局はストリップの話)

 年末、なので記憶をたぐってあれこれと考えていたが、かわらず今年もストリップにまつわるよき記憶が身体を占めている。仕事にしたって、「ニュー道後ミュージック番外編」で劇場の舞台に立たせてもらったことは特別な経験であるし、『ab- ストリップのタイムライン』『ab-EX Re:メンズストリップ』という本を作ったのも今年の大きな出来事である。

 ストリップの何がそんなに、ということだが、劇場で知り合った友人知人も増えて、もはやそれは自明の前提になりつつある。こんなにいい場所はなかなかない。*1

 そんないい場所で、きわめつけにいいと思われる瞬間がある。それはもちろん、良いステージを観たときだ。良いステージとは何か。これももちろん、さまざまな基準がある。
 話は変わるけれど、ときどき読んでいる福尾匠の「日記」がある。つい先日の日記にはこう書いてあった。

 水炊きを火にかけているあいだ、適当に感想をつぶやきながらM-1を見た。システムより人間が見たいよな、とか、君は誰なのかと問われているんだと、思って舞台に立ってほしいな。せっかくウソつくんだから、とか。*2

 人間が見たい。近しいことは、わりと芸の世界では言われることと思う。最終的には芸ではなく人だから。そうした言い方。
 人が見えるということにかんして、ストリップはその機会が相当に与えられる場だと思う。裸体には人生が見える。そのような言い方もあるが、わたしは「人」とはもっと身も蓋もないものだとも思う。人生という過ぎ方の重みを乗せるには、踊り子さんはあまりにもからっとしている。拍子抜けがある。脱力がある。ままならなさ、というと葛藤を引き受ける「わたし」に悲哀があるが、劇場で見えるままならなさには、もっと、互いにしょうがないねと笑い合うような気楽さがある。
 
 ま、それはいい。

 9中道劇はある踊り子の引退週でもあった。その踊り子に続いて、萩尾のばらが演じた『ハート』はすばらしかった。必ずしも後輩の引退に際して演じられたわけでもないその演目──客席に向かって大きく手を振る振り付けもある──が、踊り子という職業を辞する彼女を見送る「礼」としてそれが機能し始める。どのくらいそのことをあらかじめ意識していたのかまったくわからないけれど、本来は観客に向けられているにすぎないはずの「演目」が、引退を見送る餞となる。ただ、ともにそこに居合わせ、演じられる踊りを見ることが別れの抱擁になる。
 ストリップの演目は、あるいはそこに流れている音楽は、じつに素朴なメッセージを持っていたりする。けれども、その素朴さに対してまっすぐに向き合うことがストリップでは(すくなくともわたしやわたしの友人たちは)可能になる。ひとまず「裸」のなせるわざだと言っておくくらいしか手はないが、誰かが誰かへ別れの礼を尽く(しているように感じられる)すことを、こんなにも真剣に切実に可能にすることに、打たれざるを得ない。どういうことなのだろうか。そうした素朴さに打たれる自分に何度でも戸惑う。そしてその戸惑いを嬉しく思う。

 7中道劇の4週年週でだけ演じられた宇佐美なつ『し-せい』もまた、誰かとの別れを描いていた。だがこれはもっと抽象的な──本人の言葉を借りれば「生前葬」のような──別れであった。『し-せい』では、べつに具象的に死が描かれるわけではない。ただ、それを想起させられる。見る/見られるという視線の交錯はストリップにおいて交歓へと位上げされる。また、見送る/見送られるの礼の世界に近づく。触れ合うことなく、ただ見る/見られることに徹するこの場において、そしてそれゆえにこそ、わたし(たち)は想像する。究極的には死ぬ/別れるべきわたし(たち)の、想像するしかない生の終わりを、仮想的にここに引き受ける。そうした想像をともにすることこそが美しいと思えるステージだった。
 
 なんだか別れの時間にばかり目が向いてしまっているが、劇場はぜんぜん陰気な場ではない。

 『し-せい』が出された「週年週」というものは、踊り子の記名性が際立つ時間でもある。だれそれのデビュー◯週年だと、アナウンスもされる。そうした時間だけに、「周年作」はどこか自己言及的な気配を纏うことも少なくない。そうした週年作でありながら、きわめて楽天的で脱力的な4週年作である蟹江りん『マジックショー』は忘れられない。名前を引き受ける重さはどこにもなく、魔法によって踊り子はキュートなうさぎへと変身してしまう。何の意味もないし、そもそもマジックにしたって超ベタな演出でもって記号的な「マジック」を演じるに過ぎない。その……語弊を恐れずに言うならアホさ加減。アホになれるという強さ、かわいさへの衒いない接近、こんな演目にはどうしたって演じるその人の魅力が不可欠で、そして間違いなく魅力的な人(うさぎなのだが)がそこにある。
 そして盟友(?)でもある、ささきさちの4週年作『showテラー』もまた、期せずして同型のテーマを扱っている。が、蟹江のそれよりも、楽天性へとたどる道のりは佶屈している。これは偏った見方かもしれないが、楽天性は所与のものではなく、自己への向き合いによって手に入れた成果として現れているように感じた。こんなにも楽しげに、歌を口ずさむようなささきさちを初めて見て、それゆえにこれが周年作ということの意味も際立ってくるように思えるのだ。いずれにしても、祝祭が演じられ、解放が描かれ、舞い散る偽物の紙幣は浮世のわずらわしさを塗り替えるようにくしゃくしゃなままあって、逃げ込むだけではない現実への窓が想像のうちに穿たれるようだった。

 望月きららという、間違いなく芸の天才と呼んでいい踊り子がいなくなった。1結道劇で観た『Pink』の至芸と言いたくなる踊りをたぶん、一生忘れない。もちろんこれだけではない。彼女のステージ、客あしらい、どれをとっても日本(暴論を恐れないなら世界)最高のものだった。シリアスと悪ふざけは区別なく同居して、ただの観客すら、望月きららにかかっては愛すべき「人」として舞台空間に巻き込まれる。こんなことができる人間がストリップ劇場にはいた(だが、かわらず今も小倉のショーパブで踊っている)。
 今年は何人もの踊り子が劇場を去ったが、何人もの踊り子が劇場に戻ってきた。正確に言えば昨年11中なのだが、花森沙知というすばらしい踊り子が復帰し、かつての観客の記憶に残って忘れがたいものであったらしい名作『肉体関係』を観ることができた。そして、何人もの新人がデビューした。
 なかでも、綿貫ちひろはとりわけ強い印象を残している。『デビュー作』の、じつにじつにシンプルながらその人の個性がはっきりと刻まれた、品のある踊りは、再見の機会となった12結道劇で音への確かで丁寧な同期にその品の根拠があるとつかめた。2作目である『エール』でもその丁寧さはそのままに、脱衣の鮮烈を演出し、高揚感のある立ち上がりに繋げてもいた。2022年1結デビューの白雪のステージを見て以降、どこか新人への期待は彼女のような存在が基準になってしまっていたけれど、まったくそうではない、想像もつかない仕方で新しい価値観は生まれると教えてもらった。

 そして、はじめてわたしがストリップに打たれた友坂麗による『ショータイム』には、ストリップがいつまでも変わらず、わたしにとって圧倒的であり続けることを見せつけられた。その人がかっこよすぎて涙が出るなんてことがあるだろうか。もちろんあるだろうけど、でも、こんなことがあるんだろうかと初めてのことのように思わされる。
 友坂麗の踊りがどうかっこいいのか、それに近づく手がかりはあまりに足りない。大きな謎であり、謎は魅力であり、大げさに言ってわたしがまだもうちょっと生きていたいと思ってしまうような、そうした希望としての謎である。

*1:先日以下の記事をアップした

劇場|ab-

*2:https://tfukuo.com/2023/12/25/231224/