石原さゆみ『キッチン』 または祈りとしてのストリップ

※本記事は演目への詳細な言及を含みます

 

さゆみさんには–––と、つい親しげに呼びかけてしまうが–––きまじめな分析や批評の網目をひょうひょうとすり抜けていくような、とらえどころのなさがある。
さゆみさんこと踊り子の石原さゆみは、笑顔なのにふてぶてしくあったり、シリアスなのにユーモアが滲んでいたり、何気なくうつむけば艷やかに色気が香ったりする、無二の顔つきを持つ。パフォーマンスでも踊りが際立って巧みだとかそういうわけでもないのに、ここぞという瞬間は逃さずキメてしまう。かと思えば、やっぱりみすみす逃しているようなこともある。
さゆみさんに言葉は不似合いだが、何考えてるんだかさっぱりわからんという引っ掛かりが、ああだこうだと言ってみせたくなる。だが結局はあえなく空回る言葉たちがさゆみさんへ涼やかな風を送っていくにすぎないだろう。

それでも、2021年5頭に渋谷道頓堀劇場にて初出しされたさゆみさんの演目『キッチン』は、ある価値体系に則って上下を決定づける不束かさが似合わないストリップという文化において、こう言ってしまうことにためらいはあるが、やはり「傑作」と呼ぶにふさわしい。同時に、「傑作」と呼んでしまうことで、この演目がまとう慎ましさを損なうのではないかという恐れもある。
ともあれ『キッチン』は2022年5頭に再演、そして同年6頭にはデビュー1年に満たない後輩の天咲葵に貸し出され、なんと本家の倍以上の回数が演じられた*1

さゆみさんに言葉を向けることが無意味に思われる一方で、『キッチン』という演目は言葉を尽くすべき演目であるとも思う。
6頭の天咲さんのバージョンを記憶の補助線としつつも、5月2,5日の2回観ることができたわたしの『キッチン』の経験をもとに、印象も含めて詳細を残しておきたい。


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ストリップに不慣れな読者を想定して、簡単に確認しておこう。ストリップは形式性の強い芸能である。
本舞台での立ち踊りから、盆/でべそでのベッドショー≒臥位や座位でのポージング*2へと脱衣を伴いつつ移行する進行は、揺らぎを持ちつつも大枠としては共通している。差異化は衣装や選曲、そしてもちろん振付によってなされる。それぞれに意味性が強い場合もあれば、特に具体的なイメージを伴わない場合もある。

『キッチン』は、そうした意味ではひじょうに意味性の強い演目であり、演劇的といっていいほど舞台設定が明瞭にある。くわえて、この演目を特徴づけているのは本舞台奥に設えられた可動式の「キッチン」のセットである*3
「キッチン」は間口が1200mm程度のミニキッチンである。前面部には花柄がぽつんぽつんと数か所にあしらわれている。
上部には蛇口があり、左右には洗剤や酒瓶が並べられている。下部には戸付きの収納スペースがある。つまるところ"ごくふつうのキッチン"を想起すれば舞台上に置かれているセットとほとんど相違がない。また、自ずからそれが設えられている部屋のサイズが想起される。アパートもしくは団地のような広さ、だろう。この演目がときとして観客から「団地妻の演目」と称されていたことも、おそらくはこのキッチンのデザインにひとつの所以がある。
そしてまた、「キッチン」の上方に伸びる、四角窓を備えた壁がせり上がってもいる。この壁は演目に直接関わることがないが、キッチンが設えられている空間が、その想像上の空間の「行き止まり」であること、また話をすこし先取りするなら「行き詰まり」でもあることを、窓というわずかばかりの風通しは残しつつ表象している。

『キッチン』は夫婦生活を描く演目だと言える。
M1、"あいさつ"の掛け声とともに、時代がかった白頭巾に割烹着、下はもんぺ姿のさゆみさんが板付きの明転で現れる。爆音で流れだす楽曲は「母」がテーマのポップソングなのだが、男声歌唱であり、また異性装のキャラクターソングでもある。「母」ステレオタイプは時代とジェンダーとに微妙なズラしが与えられている。それは必ずしも戦略的なものではなく直感的な選択によるものとも思われるのだが、続くM2で衣装替えが行われてなお、女声歌唱による「夫」の語りである歌が選ばれるとき、ジェンダー交差によるズレはなお補強されることになる。こうした選曲の妙が、コミカルな前半部に効いている。

M2、髪を後ろでまとめ、白地に花柄のブラウスの裾をやはり白いエプロンを巻いたミントグリーンのスカートにしまいこみ、黄色いカーディガンを羽織った妻が部屋で掃除に洗濯、夫の送り出しを行う。
長箒を手にしたミュージカル調の振付が楽天的な空気を高めて、そのままの勢いで袖から取り出した洗濯カゴは大胆にひっくり返して衣類を床に放り出す。正座して、Tシャツ・ボクサーパンツ・白いワイシャツのそれぞれを雑に畳んで(この雑さがいかにもさゆみさん)いく。ワイシャツの襟首に顔を寄せれば落ちきらない臭いがあるのか、うすく顔をしかめたようにも見える。
衣類を畳み終わると、上手奥の椅子にかけられていたジャケットとネクタイ、黒い革の鞄を手にとって、かぶり=最前列の席に座る観客へと実際に着せ付けていく(といっても雑に)。踊り子の「夫」に見立てられるちょっとした観客サービスでもある。盆から本舞台へ帰っていくとき、手に残ったハンガーを指でくるくると倍テンで回しながらスキップして帰っていくのだが、ここのシーンのうきうきした様子がとてもいい。

演目はM3以降、転調を迎える。
夫を送り出した妻はキッチンに手をかけ、束の間佇む。アコースティックギターのリリカルな伴奏が、「普通の家庭」を歌う。
下の収納からウイスキーボトルとグラス、タバコと灰皿を取り出してそれらを手慣れた様子で嗜む。さゆみさんは客席にほとんど背を向けたまま、それらを嗜む顔がどのような顔つきなのか、ほとんど見せることがない。

このシークエンスでは、白いエプロンを一枚外すに過ぎないのだが、何かが露わになっている。
ストリップとはいわば「見えないものを見せる」芸能とも言える。そして裸になる、とは単に肌を露わにするだけでなく、心の内を明らかにする、という意味でも使われる。ただし、それは『キッチン』においては窃視でしかない。夫の不在のうちに酒と煙草を飲む姿を窃視することには、いかにも妻の内面を覗き見ているかのようだろう。ただし、覗き見る観客の大半が男性であることを自覚するとき、ここで見えているものは、我々にこそ見せていないものだと突き返すような強い巻き込みがある。
『キッチン』において真に脱がれ、露わになるものは"不可視そのもの"である。妻の心は夫の前では決して明らかになることがない。見ているようで、見えていない、そのこと自体が、今、見えている。
回転盆が静かにせり上がると、収納の扉を半開きにしたまま、さゆみさんがそこに向かって腰掛ける。具象的だったキッチンという場から離れ、抽象的などこでもない場所としての「盆」へと移行して部分的な脱衣が進む。自慰というにもあっさりした体の弄りがすむとそのまま眠りにつく。M4のイントロ。盆はゆっくり回り続けている。

『キッチン』のクライマックスにもまた、ポーズが切られる。
眠りから醒めて臥位から上体を起こし、サビが始まると四分円の円周をなぞるように、ゆっくりと脚が持ち上げられる。絶妙に押韻する歌詞に次いで「わたしたち」と歌われる。逃避を描くこの歌が連帯を告げる「わたしたち」に観客の男たちが含まれることはない。
夫婦生活の倦怠を伺わせるような喫煙や飲酒が妻の孤独を思わせ、そしてそれをことさらに訴えるようではなく、とうに何かを諦めてしまった孤独な人間の姿として観客に与えてきたさゆみさんは、描写の積み立ての先に、演じてきた役柄/役割を脱ぎ捨てるようにして、ストリップの形式性=盆/ポーズにその身体を委ねている。ここでは、特定の誰かではない、すべての妻たちへと捧げるような、儀礼としてのポーズがある。それはほとんど祈りと見分けがつかない。
祈りとは、言葉の尽き果て、もしくは言い尽くせない思いをその形式に預ける限りにおいて「私」の脱ぎ去りでもある。個性は求められず、論理的整合性のような証明も必要としない。それゆえに複雑な「私」を委ねられる。それだからこそ「わたしたち」は慰められるだろう。

たった4つ切られるに過ぎない静かなポーズは、ラストの4点ブリッジで、宙空に伸びた腕が「おわる」と歌われるその瞬間にくるりと手首を回転させてから閉じられる手によって、何かを確かに掴んだというよりは、やはり言いようのない諦めを認めて力なく締めくくられるようでもある。答えは特にないまま、夫の帰宅の気配に気づいた妻は慌てて身繕いを行い、酒や煙草を収納に押し込み、消臭スプレーをキッチンに吹き付ける。SEで鋭くドアチャイムが鳴る。しかし、収納の戸が半開きになっている。
夫を出迎えるため花道へ進み出るその瞬間、両手の人差し指で口角をぐっと押し上げてから、扉を開く。夫=かぶりの客からジャケットとかばんを回収して本舞台に戻り、また夫の方を振り返り笑顔を差し出しながら、後ろ足で半開きのドアを蹴り飛ばして閉じる。刹那に窃視できたかと思えた心のうちは、笑顔に引き裂かれてついに夫の前には明らかになりきらない。

最後、キッチンの前にまた立ったさゆみさんが、スカートをまくりあげて尻をみせながら、立てた人差し指を口元にあてる。この仕草は当然、劇空間内の「夫」に見せているわけではないだろう。ここで再びわれわれは、「見えないもの(=背後にあるもの)」それ自体を見せられていると解釈するしかない。
スカートをもとに整え、キッチンに置かれていた酒瓶とグラスをトレイに載せ、脚を一歩一歩クロスさせながら–––踊りながら–––盆前へと進み出て正座について酒瓶を夫の方へかたむけて、無言ながらも唇の動きから「おつかれさま」と発したらしいことが伺えたところで、照明が暗転して演目は終わる。

こうして演目を追っていくと、『キッチン』は妻の孤独を描いて夫の無理解を告発するような冷たい演目であるかのように思えてしまうこともあるだろう。
しかし、夫を送り出し、一人の時間を持ち、また夫を迎え入れる日々のサイクルは、たしかに孤独がありつつも「それなりに楽しくもある」瞬間も含んだものとして描かれてもいる。M2の楽観的なトーンは、必ずしも表面的な嘘とばかりは言えないだろう。日々の営みは強く否定もされていなければ、肯定もされていない。
どっちつかずの日々は、劇場の日常性とすら通底するかのようである。ストリップ劇場は優しく暖かである限り逃避の場でもありうるし、日々を何となく過ごすことの支えになる。同時に、それで何かが解決するわけでもなく、観客もそれぞれに孤独がある。孤独なものが互いの孤独を認め合うことが慰撫であるような世界がたしかにあり、『キッチン』はそれを演ずることによって示しているかに思える。
こうした射程の広さこそが『キッチン』を「傑作」と名指す誘惑に駆られる理由である。

 

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だが、こう力を込めて言ってみせたところで、「そうなんだ、ありがとう、すごいね」とあっさりかわしてしまう、さゆみさんの控えめな声がありありと想像できてしまう。とはいえ、『キッチン』という演目の美しさに二回とも涙した身として、長いマジレスを返さないのも、それはそれで私にとっては不実なことなのだと思った。

*1:石原さゆみは2014年12月21日に渋谷道頓堀劇場からデビューし、2017年6月10日に引退。その後2019年1月2日に復帰し、現在に至るまで限定的に劇場出演を行っている。
その出演サイクルは、通常10日間連続で同香盤に出演するところ、石原は同香盤の前半5日間のみ出演することが基本的な復帰後の活動スタイルになっている。
つまるところ、『キッチン』は2021年5頭の5日間(×4ステージ)と2022年5頭の5日間(×4ステージ)のうち1日1回を基本として上演されていたことから、現在まで都合10回の上演にとどまっている。反復再演を基本としているストリップにおいて、相当に少ない上演機会と言える

*2:ストリップの形式性を確かにしているもののひとつに、「ポーズベッド」がある。エル、スワン、シャチホコ、ブリッジなどと名指すことができる型に基づいた「ポーズ」が演目のクライマックスとして行われる。型はしかし厳密な同定をもたず、微妙な変形を伴う。だが、まったくの自由というわけでもない。

*3:こうしたセットは、ストリップにおいては相当に大掛かりな部類にあたる。演者間の転換に多くの時間が割けない進行の必要上、出ハケに時間を要するセットは避けられる傾向がある。また、踊り子は巡業公演が基本の業態ゆえに、演目に必要な大道具が増えれば増えるほど職務上のコストが掛かるわけで、そうした演目が制作される機会は多いとは言えない