素描_11結

 6:46という、普段からすればおそい地下鉄に乗って、だからだいたい7時くらいだったろうか、新橋駅で横須賀線に乗り換えようとすると、人でパンパンの列車が到着した。かたわらには大きい荷物を積んだキャリーカート。手慣れた様子で後ろ向きに乗り込む通勤客。立錐の余地もなく、つまり直方体のこの荷物など文字とおり収まるべくもないらしいことをホームで立ち尽くして眺めて、いや、眺めている場合ではなく、刹那にカートを倒して後続の車両に向かって小走りに移動する。ここもだめ、ここも、ここも、あいにくイヤホンなんぞで音楽を流しているので出発のベルも定かでない。どうにか押し込めそうな扉を見つけて遠慮なく乗り込む。扉脇のスペースも両サイド塞がって、所在なく真ん中あたりに立ち、居心地の悪いまま品川を過ぎ、武蔵小杉を過ぎ、横浜あたりでようやく収まるべき場所に人・荷物ともに収まる。思えば平日の通勤ラッシュにぶつかる形で出勤することなんてなかったのだ。東戸塚で降り、ピックアップされ、現場へ。朝のちいさなドタバタがすぎればのんびりかと思いきや休憩の間もなく2公演。一息つく頃には公園でランチピクニックとなった。池には無数のオナガガモが回遊している。鯉だっている。孫に話しかけるように鯉と会話する老人もいる。スーパーで買った塩パンに、からあげとアボカドをはさんだ。そして現場でいただいたブルボンのお菓子にマスカルポーネチーズをディップして食べて、山道のような遊歩道を歩いた。親父は登山家で、というから山登りが趣味なのかと思ったら、1970年代に南米のなんとかいう高い山を踏破するチームにいたのだとか。だから「岳」という名前なのだと教えてくれた。離れたところから写真を撮られる。曖昧に笑った。

 平岡直子・我妻俊樹『起きられない朝のための短歌入門』を読んだ。渡邉さんがおすすめしてくれたので、買うことにしたのだ。東京堂書店で。ついでに峯村敏明『彫刻の呼び声』も買った。こちらはまだ読んでいない。本屋で一冊だけ本を買うというのはどうしてむずかしいのだろう? 何度も言っている「あるある」だけど、本当だよねえと渡邉さんはうなずき、でも我慢しているからと一冊だけ本を買っていた。で、『起きられない朝のための短歌入門』は面白かった。歌人がどのように実作に向かっているかだけではなく、じっさいに歌をとりあげつつ、具体的・抽象的に会話していく。プロだからといって、何もかも判明なのではない。わからないものはわからないのだ。武藤さんとはじめて会ったとき、友坂さんの踊りは、あれはいったいどういうことなんですかと素朴に訊いてみたら「わかんないよねえ、なんなんだろうねえ」と言ってくれてホッとしたのを思い出す。わからないものはわからない。

 でもこれからは心の小便小僧の心の底という底が鏡張り 桜が咲いて

引用されている、瀬戸夏子さんの歌がかっこいい。

 宇佐美さん『星降る夜に見つけて』がひじょうにかっこよくなっている。上野仕様の省スペースバージョンということもあるだろうけど、サンタ人形の小道具が追加されて、それと踊ったりするのだ。ものを扱うのが本分だからか、センスのいいものの扱いにはグッと来る。
 クリスマスは好きだがクリスマス演目には特段惹かれないけれども、そこになんらかのイメージ操作があれば話は変わってくる。石原さゆみの『クリスマス』(初見のときは10結だった。こういうことができるさゆみさんに憧れる)のように、どこかウェットな日常にあるクリスマスの風景を描いてみせたり(だがこの演目の白眉は観客を使った衣装選択の手際の良さだ。あんなに明快なノンバーバルコミュニケーションをどこで学ぶのか)するなら、話は変わってくる。
 この『星降る夜に見つけて』も、「夢」からスタートしながら、立ち上がりではきわめて「現実」めいた夜明けへとたどりつく。雪は降らないし、高速道路や工場すら見えてくる。それはそれでロマンティシズムなのだが、そこに仮託するのではなく、現実=今ここ=劇場へと引き戻される感触がある。恋人たちのクリスマスは劇場でのひとときの華やぎへと奪還される。キラキラとしたアイドルソングでコーティングされつつも、それがどこで流れているのかということに、どこまでも自覚的であるように感じられる。というか、それがこの演目の見方なのだなと自分なりに納得があった。

 風邪を引いて伏せる。それほど大したことはないが、ずっとだるい。本を読もうにも手につかず、ふとやたらさわがしかった「セイレーン」の出てくる「島編」とかが完結したらしい『ちいかわ』を読んでみることにした。一日がかりで読み終えて、手元には無数のちいかわLINEスタンプが残り、あちこちのトークルームにそれらは拡散し、「ハァ?」と大声で叫ぶウサギがお気に入りになった。