素描_09中

 年々に伸びていく枝ぶり。木の下で仕事は行われる。杜の都と言ってみせるくらいには木々の多い土地で、これが当たり前と思っていると、今の住処のひらけていることに改めて異なる土地の異なりのありかたを知る。内見をしたのは3月10日で、時期が来れば花火なんかも見えますよとじつに手際よく仲介を果たしてくれた不動産屋のおじさんが言う。隅田川を渡り、松屋の上階の椅子で契約書の類を確認する。ひと心地ついた。転居は本当に面倒ごとの連続であった。フリーランスというのはこうも立場が弱いか。フリーランスで、と言うと、ああ、そうなるとおそらく大家さんはいい顔をしないでしょうね、そんなことが二度三度とあった。で、もう落ち着いたのだが、3月10日、東京大空襲の日かと気づいた。吾妻橋の袂には慰霊の石碑があり、今でも誰かが水で清めて手を合わせている。
 それで、枝ぶりに苦吟しつつも仕事は行われる。ときにはそれを意識させないものとして空間の地としてかいくぐり、ときにはそれを困ったようにしてみせるための障害の図として観客の意識に現す。いや、そうすんなりとはいかない。万事がコントロールできるわけがない。思いがけないタイミングで「枝大丈夫なの?」と大きい声でおじさんが言う。そのことはあとで触れますからといなしても、すぐにまた「枝、大丈夫かぁ?」と繰り返してくる。枝よりよほどおじさんのほうが空間にせり出している。パフォーマンス空間には、物理にとどまらないさまざまな出来事が好き勝手に生じる。じっさい、このおじさんはいつのまにかその場を離れてどこかに行ってしまった。おじさん、どこ行った?と言うと、誰かが、帰っちゃったよ!と教えてくれる。帰ったのかよ。枝を避けて技を成功させる。拍手が来る。次に進むべきシーンへと移行する。
 
 ひと息つく。汗がびっしょりと服にまとわりつく。椅子に腰掛けつつ、今の仕事をざっと頭で振り返ってみる。何か改めるようなところは……さしあたってはない。ばるぼら。ふと思う。椅子に腰掛けて、そう、ばるぼら、そのことを考える。酒瓶を持ちながら、うなだれるように上手に座り込む姿から演目は始まる。酒を煽って、長座体前屈のあんばいで体を倒し、また起こし……いや、不正確な想起かもしれない。ともあれ、腕の動き。散文的な酒を煽る演技から、音楽に応じた、わずかに装飾的な腕の繰り出しがある。ここで体も倒し込むのだったかもしれない。どちらにせよ見るべきは動作の質をまたぐその腕の動きだ。立ち上がり、踊りだすための、この局面を違和なく進める一手として、物理では測りがたいわずかな未来へと向かって腕は進む。表現とはつまるところこういう一手を忍ばせることができるかどうか、だとすら思う。汗が引いてきた。椅子に腰掛けている。当面立ち上がる必要はない。ばるぼら。いたるところに情報が詰め込まれている。服であれ、音楽であれ、振付であれ……それを照明が支える。森さんの投光では、盆をスポットで照らしていた。確かに渋い、が、心象風景のようではないかと思ったりもする。もっとぱーっと明るくても別にいいのではないかと思ったりもする。夢のある照明じゃなくていいんですよと鳥さんが小倉で投光さんに向かって言ったのが忘れられない。絵を描くのにね、夢のある照明じゃなくていいっすよと。夢のある照明という夢のない言い回しに笑ってしまう。夢のない照明でいい、ばるぼらは単にまどろむようにぐでんぐでんにのたうっているのだし。でも、別にそういう演技なのではない。思い出す。冒頭で、動作の質をまたぐ一手が忍ばされていたことを。ここでもまた、動きはどっちつかずに踊り、または単に動き、いったりきたりする。掴みどころがない。それこそ、ばるぼらそのものだなと思う。納得する。納得だけでもない。その動きの成りゆきを追うことには、思いがけない想念を呼び出したりする。

 盆もない、花道もない、それどころかステージもない。木々があり、偶然集った酒気帯びの、あるいは酒気帯びることのできない子供たちの、偶然的な居合わせに、空間の図と地がいったりきたりしていくなりゆきに、身を任せていく。そうは見えないだろう。一歩一歩先に、この私が手続きを進めていくように見えるだろう。でも、身を任せている。受け取っている。そうしたものだとして、頭で振り返ってみる。ばるぼら。思いがけない想念は、そのときの未知の未来において、今、こうして見ること/やることをまたいで頭の中にめばえてくる。重ね合わせて考えようとする。小さいスペースの中で。

 伸びた枝を備えた木、ではない、その隣りにあるのは金木犀だったのかと思う。べったりと湿気っぽく重苦しくて似つかわしくない空気に、秋めいた香りが鼻をくすぐって、でもそんなことよりさっさとシャワーを浴びたい私は香りのことなどもう忘れて、急いで宿に向かった。