素描_09頭

 浅草駅方面に歩く人群れの多い新仲見世通りを、仲見世の方へ向かって女の子がふたり、流れに逆らうかっこうでバタバタと走っていく。急いでいるわけでもなさそうで、タリーズを越えたあたりで走るのをやめる。アハハと笑いあっていた。笑っているふたりを追い越して、出勤する。

 ボボボ、とピンマイクに強風のノイズが乗る。浅草は風が強い。ハッ、ハッ、というマイクテストの声に、もう一度ボボッとノイズが乗る。その様子を見ていて、自分の回は風の強さは大丈夫だろうかと思う。それだけではない。肌に陽が刺さらないから、日陰になったから、どちらも暑さを感じない理由には足りない。全然暑い。9月に入っても暑い。つらい。翌日、そんな暑さが響いたのか、ずいぶんしんどいような気がした。帰るともう頭を使うようなことはできなくて、友人たちとLINEを繰り返して過ごす。LINEはときおり送信に不具合があって、メッセージの左脇に矢印が現れる。いったんアプリを終了して、もう一度起動させる。再送のコマンドで送り直すが、再び読み込みに手間取ることがしばしばある。送ったからといってどうでもいいメッセージ。だからといって削除するほどでもない。もう一度アプリを再起動する。

 劇場帰りのIと合流して、23時くらいからシーシャ屋で雑談する。常連らしい男の人がしきりに酒を頼み、大きい声で何事か言っている。どうせつまらないことだろう。構わずに話を続ける。炭替えに来た店員が、常連さんでして、騒がしくてすいませんと一言添える。いや、お気になさらずと返したはいいが、実は手強かったのはこちらのほうで、気を遣ったつもりか何かと話を振ってくるのだが、ことごとく面白くない。最終的に店の特典システムについてあれこれ求めてもいない説明を繰り広げ、それもシステムの中身がなんというかめっちゃ内輪ノリで、芯から心が冷え切った。Iの顔は見なかったが、まあ同じだろうと退店して即「2回目はないな」と言ったら、同意を得た。2度と来ないね。蔵前の宿まで歩いて送って行ったら、何年か前に泊まったことのある宿だった。
 あの日、浅草にはまだアンヂェラスがあって、そこに入った。もう閉店が決まっていたはずで、それなりに混み合っていたような記憶がある。『浅草紅団』とかを書いていた頃の川端康成が来ていたそうだ。いや、執筆時期とはズレがあるのかもしれない。まあいい。こちらはまだ続いているリスボンで、何を食べたのだったか、ともかく静かな店で好ましかった。そこで夕食にした。引っ越してからも何回か訪ねている。ここにもたぶん川端か、そうでなければ荷風も来ただろう。
 東京を歩くと文士にまつわる石碑がそこここにある。神楽坂から新宿へ向かう途中(何をしに行ったのだろう?)、泉鏡花の石碑があった。生家がこのへんだとか、そんなようなものだった気がする。
 川端康成永井荷風泉鏡花、懐かしい名前。それが地霊のようにそこここに、私の懐かしさとは全く無縁に刻まれている。懐かしさは恣意で、彼らはそれとは無関係に勝手にそこで生き・死んだわけだが、彼らの名前と私の歴史が、別の土地で生きた記憶が、私という恣意の糸で結ばれる。東京で生きるとは、こういう恣意のネットワークをでたらめに走らせることだ。
 神楽坂の袂、みんな、みんなとはIが来なくて訝しがっていたW、S、K、Nさんたちのみんなと駅まで歩いたあの日が記憶の最新だ。劇場の記録を見た帰りだ。飯田橋駅の地下で、ぼくは半蔵門線ですねと言いながら東西線のホームのほうへ降りていったKさん。こんなどうでもいいワンシーンを、自分以外の誰が覚えているのか?

 何の話だったか。

 身体を見つめることには意味がないから、その余白に無意味な連想がとめどなく流れ込んでくる。葵マコさんの『身体はいらない』を、どうやったら見たままの感覚ごと、記憶にとどめておけるのだろう。回る盆と溶け合って一体になったかのように動くマコさんを見ていると、これ以上の心地よさは考えられないなと思う。でも、そうした浸りには連想が混線的に乗っかってくる。なるべくそれを減らそうと努める。意味に置き換えなくていいのに、何かがひっきりなしにやってきてしまう。なるべくなら、ただ見ていたいというのに。
 これを何度も何度も見たいと思う。気に入った音楽を何度も再生するように、これを記憶に刻んで復元できればいいのに、記憶には余計なものがありすぎて全然叶わない。だから見るけど、大事な部分の多くはあっけなく霧散していく。あの濃密さは、あの高鳴りは、もはや追いきれない。あるいは、不躾な現在が感覚の記憶をさっさと追い抜いてしまう。どのようにしたら、より鮮明に身体に残しておけるのだろうか。
 M3のイントロ、アンプから出ているホワイトノイズのような音、エフェクターの類を操作するような音、断片的なハイハットのような音、が、交錯する。まるでそこに人がいるかのようだ。肉体が立ち上がってくるかのようだ。それらが、マコさんに重なっていくかのようだ。フィードバックノイズ。演奏が空間に傷跡を残すかのようだ。身体はいらない、と言いつつ、「身体」が、それ自体拭い去りがたい、生きることそのものの傷としてふたたび与えられる、かのようだ。でも悲哀も苦痛も、かといって享楽も幸福もない、かのようだ。踊りはあたかも、磯辺の無脊椎動物のような生命として、ただ浅い潮に揺られているものとして、無意味なものとして、ただ眺めるのを求めているかのようだった。そうした、関係のない関係を、舞台と客席で、記憶/忘却しながら紡いでいくかのようだった。