素描_08中

 Young Thugの「Punk」というアルバムを聴きはじめる。USのラッパーでは誰が好きか、という話の流れで開口一番にヤンサグの名前が出て、ほぉーと頷いてLil Uzi Vert とかJ Coleとか……と名前は並んだが、やっぱこのヤンサグの2021年ころに出たアルバムっすかね、「Punk」に感動して、と言われた。
 感動。使わない言葉だ。そのあとも、クラシックでは誰それの演奏には感動する。ホルストの「惑星」を聴くと感動する。感動、という言葉が続く。その人の言語感覚では「感動」がしっくりくるもので、こちらとしてもぜんぜん無理のないものに思えた。でも自分は使わないな、と思っていた。
 ところで今、「感動」をめぐる原稿を手直ししている。自分にはカギカッコに入れてようやく使える言葉だ。

 言葉をカギカッコに入れて使うことが多い。たとえば「推し」とか。
 カギカッコはその言葉との距離感だ。私はそれを書き/言うけれど、この書き/言う身体とは隔たりがあるものとして使う。こういう隔たりをいくつも、自分に纏わせている。身体には直接届かない言葉として、表面を滑っていく言葉として、傷を負うことなく使える安全カミソリとして、対象の産毛を剃り落としていくように、つるつるのコミュニケーションで間を持たせるため、カギカッコ付きの言葉はある。

 プライヴェートな領域だからぼかして書くけども、そのカギカッコなしの言葉を使う人のパートナーに向ける言葉が、じつにスウィートだった。べつにことさらに甘やかな言葉を投げかけるわけではないのに、その語調や、リズム感、間合いにいたわりや慈しみがあったように思えた。それは言葉というか、もはや身体の関わりそのもので、たとえばそれはヴェーベルンの弦楽曲のように、ごく短い音がふっと空気をかすめるような儚さにおいてダンスのようで、さらには最良のコンタクト・インプロヴィゼーションのようでもあった。ロマンチックにすぎる見立てだろうか。他者がやすやすと「愛」を名指すことはダサいと思っているのだが、そのような快さとしてふたりの他愛ないやり取りが耳に入った。

 またカギカッコがやってくる。ぎこちないものだ、と思う。

 ひとまず単純な記述においては裸になって舞台に歩み出るとしか描けない素朴な瞬間に、言いしれない震えを感じることがある。緑アキさんという、今年の12月を以て休業を宣言している若手の踊り子さんにそれを何度も感じた。
 ストリップは服を脱ぐことがジャンル表現の絶対の条件としてあるわけだが、その脱衣は単純な結果ではなく、踊り子さんそれぞれにおいて、またさらに演目ごとによって、その効果や現象の質を違えている。私たちはあまりにも低質な裸(のイメージ)を見慣れすぎてしまっていて、身体/裸体の可能性を忘れかけている。そうした可能性を目の当たりにさせるのがストリップである、と言える。
 緑さんが、すでに多くの衣服を取り去った状態からさらに椅子に腰掛けて、念入りに装身具まで取り去って、立ち上がり、最後の下着も取り払う。身体は下手のほうを向いたまま歩き、中央で正面を向く。両手を広げたかと思えば、花道へと足を踏み出し、そのまま盆と呼ばれる円形のステージへと進んでくる。
 人には、その以前と以後を分かちがたく隔ててしまう、決意や勇気や確信を宿らせる一歩を踏み出すことが、人生において確かにある。もちろんこれは比喩である。じっさいには何か──求婚でも退職でもいいけれど、自分を異なる状態へと連れ出す宣言であったりする。それを人生における重要な一歩ということは咎められまい。緑さんのステージには、思わずそうした一歩を連想してしまうような重みがある。慎重に言っておきたいのだが、それは裸になるということが覚悟を必要とするだとか、それだけのことではないし、また緑さんがそうした重みを表現しているということでもない。裸の、身体の可能性とは、思いがけずそうした重みの感触をこちらに生じさせてしまうような、想像的な重ね合わせが発生するということだ。描かれずして、そうした絵をふいに思い浮かべてしまうこと。
 このことを何と言えばいいか。まずは、感動するとしか言いようがないだろう。重ね合わせにおいて私が震えること、心が動くこと、それはカギカッコを取り去るべき、生のままの感動に他ならない。

 カギカッコを取り払ったのだから、あとはもう向き合うしかなくなる。横に滑らせれば血が出る研がれた剃刀として、私はそれを取り扱わなければいけない。感動する。私はその言葉を使わないなと思った。だがこうして使うべき局面はあり、扱いあぐねたとしてもそれはすでに手元にある。

 長々と話した。ラップのこと、仕事のこと、コミュニケーションをすること、それぞれの会話も心地よいキャッチボールとしてあるけれど、そうした往復はふいにボールの軌道を乱す風の到来を待っている。少なくとも私は。いや、待っていると言っても釣り糸を垂らすようにではなく、無意識の期待として、予感として、それをこそ待っていたのだと事後的に言うしかない仕方で待っている。
 彼のパートナーとの会話から、こちらの状況へと球は投げられる。あー、そうですねえと応え方をいくらか迷ったが、衒いのない言い方で返した。まあでもねえ、この人間性ですからねえ、なかなかねと自虐してみせたりもするが、なるべく屈託は少なく返すべきだなと思った。

 こうして書いている間にも「Punk」は、存外にメロウで抑制的なトーンの楽曲をスムースに連続させている。感動とまではいかないのだが、ヤンサグの、やや意外なアルバムとして受け止めている。彼が私にヤンサグの「Punk」を教えてくれたかわりに、私はキース・ジャレットハープシコードで弾いた「ゴルトベルク変奏曲」のアルバムを教えた。