問いと愛着

最近、こんな記事を書いた。

note.com

要するに、ストリップにも"現場"があって、"推し"がいて、そしてここが重要だけども、性をめぐる問い直しがたくさん生まれる場だ、ということを書いた。こういうのは個人的な視点ではなく、少なくない人が関心を持ちうるトリガーだと信じているのだが、そして、そういう関心の網にかかって足を運ぶ人は(自分のように)何度か劇場に通うことにも繋がると思っているのだが、どうだろうか。

で、こっちはちょっと個人的な関心にもとづいて何か書こうかなと思ってエディタを開いているのだけど、さて個人的な関心とは……と、手が止まるところがある。個人的な関心?

ふっと思い出すのは、今年の3月に池袋のミカド劇場で見た、ささきさちさんの『デート』という演目。舞台から凸状に飛び出たでべそという場所で、ささきさんが膝を抱えるようにして床に座り、その膝に顔を寝かせながら、音楽が流れるに任せてただ佇む時間がある。踊る、とか、脱ぐ、とかいう動作は特になくて、ただ……そう「ただ」そうしている。それを見ていると、かなりの音量でかかっているメロウなラヴソングがどんどん耳に流れ込んできて、こちらの感情をぐぐっと深いところから持ち上げてくる。これは他の演目なのだが、やはりささきさんには「ただ」立ち尽くすようなシーンがあって、そしてそれは演目を何度も上演するうちに現れたシーンでもあった。どうしてあのシーンを足すようになったんですかと本人に訊いたら、音楽を聴く時間を増やしたくてとの答えが返ってきた。パフォーマンス中に、何もせず音楽を聴く時間がある。

『デート』のシーンでも「音楽を聴」いているのかどうかは確かめていないが、たぶん、同じようにささきさんはあの時間で音楽を聴いているのだと思う。そして、自分たち観客も、ささきさんが聴いている音楽を聴いている。客席で聴いているのだが、舞台と客席の隔たりが消えて、まるで身体が重なるように、共に聴いている。「身体が重なる」とはかなり性的なたとえだけども、まさしくそのようにセクシャルな官能を伴って、音楽を聴く時間があるのだ。肌がぞわぞわして、撫でられるように心地よく、うっとりするほど気持ちがいい。何かのパフォーマンスを見るということにはいろんな効果が発生するだろうけど、楽しくなるとか気持ちよくなるとかそういう感覚的な効果において、ここまでの強さを与えるパフォーマンスはなかなかない。

音楽を聴くことには聴覚を必要としているわけだけど、同時に、スピーカーから流れてくる音は物理的な振動でもあって、それが微弱であったとしても、じかに皮膚に届くものであることは間違いない。ふだんその振動をはっきり意識できるのは、たとえばライヴハウスとかクラブとかの環境下だと思う。そこでは自分も多少は踊ったり身体を揺らしながら感じている。だから、そうした振動の質をいちいち感覚して深く味わうというよりか、音の震えは動きのなかに紛れている。でも、ささきさんのパフォーマンスを静かに座りながら(このときは混んでいたので立っていたけど)眺めていると、音楽が触覚的な経験でもあるのだということを繊細に意識させられるし、またそうした触覚的な感覚が、「身体を重」ねるイメージを呼び出している。

身体を見るというのは、身体を感じるということである。そして身体を見て身体を感じることに、音楽を聴くという要素が関係している。これがどういうことなのか……そう、"どういうことなのか"という問いかけがいちいち発生する。まず、自分自身に強い感覚の経験があって、それってなんでこんなことになるんだろうかという問いかけが生まれて、"なんで"を埋める答えを探そうとする。味わいを深く追ううちに、答えと問いが絡まりあってくる。

もちろんこうした問いかけのみに触発されるわけではない。

宇佐美なつさんの『positive』という、デビューして間もない頃から演じられている演目がある。この2年で何度も見た大好きな演目のひとつだが、2022年の10月を最後に半年ほど演じられずにいた。それが先ごろ、大和ミュージックでパフォーマンスされた。おどろいたのは、何百回と踊られてきたはずのこの演目に手が入れられて、かなり印象を変えていたことだ。そんな変化に気づけるのは呆れるほどこの演目を見ているからなのだが、変わったことには違いなく、変わった以上、印象が変わることもまた間違いない。

演目=作品はその都度にリアルタイムで演じられることで成立するのだし、また演者も時間を経るうちに様々に感覚や意識は変わるし、どんな変化が起きても不思議ではない。だから変化それ自体がどうというより、変化がとりわけ意味のあるものとして感じられる、自分とその演目の、もしくは宇佐美さんのステージを見ることの時間の流れそれ自体に強く触発される。2年かけて固まりつつあった『positive』と、『positive』を見たさまざまな記憶のイメージが、また動き出す。というより、ずっと動いていたのだが、都度に把握できるようなスケールではなかったのだ、ということが分かる。なんというのか、それってすごくリアルなのだ。

これはもう、ストリップがどうこうという問題を越えているが、個人的な関心といえばこれ以上の関心はないかもしれない。自分にとって、そういう変化の意味を感じることが、自分自身に強く働きかけていると感じる。

最初にリンクを貼ったnoteの記事で書いたことに自ら倣えば、宇佐美さんは自分にとっての"推し"と言っていい人かもしれない。かもしれない、というのは、その言葉を使うことに違和感があるからなのだが、内実はそういうことでいいだろうと思う。そして、そのような関わりを持ち続けること──それは意志を持って関わり続けるという判断の結果でもあるが、なかば以上に意志を超えて巻き込まれ続けることでもある過程のなかで、何度も見て愛着を持つ演目がダイナミックな変化を伴うことは、おおげさに言って"出会い直し"のような感覚がある。これは前も書いたことがあって、そしていまだにどこにあるか見つけられないのではっきりと引用できないのだが、ロラン・バルトが愛とは対象をイメージの重責から解放すること、というようなことを書いていた、はずだ。バルトのこの言葉は(自分の記憶通りそう言っていたとして)、対象への誠実さとは絶えざる"出会い直し"をすることなのだ、とは言い換えられないだろうか。それが対象であれ自分自身であれ、都度に変わっていくこととを感じ、見定め、またそこに関わり直そうと態度をあらためる。これ以上に個人的なことは、ないかもしれない。

よく、愛着のあるものについて書くのはむずかしいと言われる。もちろん、好きだとか感情が高ぶるとかそういうことを書きなぐるようにすることはできるけど、距離をとって、自分以外の人に意味があるようなことを書くのがむずかしいということだ。実際、後半の話はほとんどの人にとって意味を結べない無駄口だろう。かといって、ごく個人的なことが絶対に他人を触発させないとも、言えないと思う。ごく個人的なことが他人に流れ着いていくような、そういう風通しのよさを確保するような、そうしたあり方があるのではないか。ただそれは、「あってほしい」という願いと同義なのだが。