宇佐美なつ『し-せい』記

7月27日 若干の語句修正

 

 7月11日。朝からずっと緊張している。どうして他人のことにこんなに緊張しているのかわからない。道玄坂サンマルクカフェを出ると、緊張はいよいよ胃の痛みを感じるまでに高まってきた。暑すぎるからだろうか? というか、自分のことでもこんなには緊張しない。冷房で冷えすぎたか? 自分の緊張だったらどうにかしようもあるのだが、他人のことはどうしようもない。とりあえずそろそろ開演だから坂を登って劇場に入る。中に入ってもずっと落ち着かなくて、あんまりそわそわしているから友人たちに怪訝な顔をされた。
 とにかくこの日は、緊張していた。
 

 7月11日。渋谷道頓堀劇場2回目の公演、5番目。トリのステージ。宇佐美なつ『し-せい』初演。この演目は、今回の周年週でしか演じられないことが、あらかじめアナウンスされていた。繰り返し再演されることが基本のストリップにおいて、めずらしい例だと思う。1日2回を10日間。つまり20ステージだけ演じられる演目になるということだ。3周年作である『さん-せい』と合わせての上演。そして、『さん-せい/し-せい』という写真集が販売された。

 

 M1から追っていく。
 アンビエントなシンセに乗せられた、ささやくような女声ボーカルが浮遊するように響いているイントロが暗闇に流れ出して、舞台が明転する。すると、盆から本舞台のほうへと一歩を約2拍にゆだねて進んでいる宇佐美の後ろ姿が現れる。頭部からは膝下にまで伸びるクリーム色のうすいヴェールが垂れていて、その奥には白いドレスを纏っているらしい。
 イントロが終わるや振り返り、ダンスパートが始まる。まず目を引くのはシャープなシルエットのドレスの優美さ。首周りから肩を通って体の中央を足元まで覆う瀟洒なフリル。レースは装飾のない箇所でほのかに素肌を見せてもいる。くわえて、ドレスの下には黒いセットアップの下着を身に着けていることも覗える。
 さらに先のヴェールは、端を左右の小指にリング状のパーツで装着されているようで、手や腕を振り上げるとヴェールは動きに連動して軌跡を描き、旋風のようにせわしなく動き回る……。これが今回の試みのひとつだなと納得する。

 

 M2。一転、選曲は男声のラップになり、優美なドレスは早々に脱ぎ捨てられる。下手端での背中を向けながらの脱衣。ここは、演目内での特筆すべきシーンだと思う。ドレスを袖に投げて処理し、次いでヴェールを頭から取り外すと、さっきまで視界に入ってもいたはずの黒い下着が、たった一枚の薄い布を払っただけにも関わらず、その素材の光沢の感触とともに際立って鮮烈に浮かび上がってくる。ここがすごい。 
 どうしてだろう。そもそも、ヴェールのクリーム色、この色合いの衣装はめずらしいのではないか。原色やネオンカラーといった、いかにも高輝度の照明に映えるだろう色使いでなく、淡く、微妙な色。写真や映画で被写体をやわらかく写すために「紗をかける」、という技法があるけれども、それ以上に、この下着の現れを突出したものにみせるコントラストを演出する効果があったように思う。
 この下着の現れについて、ちょっとこだわりたい。
 当たり前のことだけども、「衣装を変えた姿」を見せるためには脱衣と着衣の二段階の手数が必要になる。言うまでもなく。これは舞台上で行うこともあれば、袖に引っ込んで着替えることもある。あるいは、大判の衣装(和服など)の下にまったく違った衣装を身に着けているパターンなども、しばしば見られる。だが、このシーンにおいての下着姿は、あらかじめ目に入っていたはずの下着が、ことさら際立って独立した「衣装」として現象することに特異性がある。そう、下着姿は裸体への過程にあるのでもなく、意志を持って選択された、自律した姿としてそこに提示されているかのようなのだ。
 下着の上にはシースルーのワイシャツが羽織られる。なるほど透け感のあるドレス/下着とシースルーのシャツ/下着のズレを伴った反復が構成されてもいる。ここはまあ、穿った見方でもあるか。
 M1に比べて踊りの手数はかなり控えめで、盆上に進めば膝をついて髪をまさぐったり、横向きに膝を抱えて客席の方へ視線を送ったりするだけの時間が流れていく。気づけば男声ラップのヴァースから、女声の明瞭な発声のメロディックなフックに移行している。このボーカルがまた、泣かせるような声だ。断片的に、歌詞が耳に飛び込んでくる。振り返らない、後悔、夢は醒めた、というようなワード。歌詞から演目の内容を解釈するのは、具体的な踊りを捨象することになってしまう危うさもあるけど、動きに伴って歌が強く耳に飛び込んでくるのもまた事実で、その経験の確かさを追ってしまう。

 
 この選曲、自分が好きなドラマのものだ。そのドラマの印象すら引っ張り出してきてしまう。べつに演目には関係ない。たぶん。歌詞が耳に飛び込んでくるように、記憶も引きずり出される。こういうことってストリップには本当によくある。よくある、では済まないのは、自分がひどく緊張していたからだ。演目が進むにつれ、もちろん緊張はゆっくり解けていく。安心もしている。この演目がいいものになっているだろう予感も生まれている。ハナから冷静ではないのだ。すでに涙腺がゆるみつつある。

 

 冒頭とは違った声の男声ラップが曲をアウトロへと引き継ぎ、立ち上がった宇佐美は、名残を惜しむように顔を正面に残しつつも本舞台のほうへ戻っていき、振り返りきって去っていく背中を隠すように再びの暗転。曲も終りを迎える。このM2はかなり短い。 
 

 ところで『し-せい』というタイトル。このタイトルは初日に先んじて、Twitterで公表されていた。準新作(TSUTAYAでしか聞かない言葉だ。もうそれも消えていく)の『H4U』がそうだったように、類推できる言葉はいくつも思い浮かぶ。死生・至誠・私性・雌性……きりがないが、こうした言葉を並べるほど、いずれとも言えるし、いずれとも言えない宙吊りの状態を招く。もちろん、どの熟語が"本当に対応する言葉なのか"謎解きする気にはならないし、それには意味がないとも思う。与えられているのは『し-せい』というひらがなであり、また、ここに複数の熟語が対応し得るという状況のみ。だから、このタイトルは「多義的に解しうる」ということそのものを理解すれば充分ではないか、と。 
 ただし、多義性というのはつまり「裸」もそうなわけで、ここに多様な意味が充填されていることは軽く見られないのではないか、とも思った。

 

 暗転したままM3が始まる。弦楽器を爪弾くような音や、テープが逆回転するような音や、それとは指呼しがたいノイズが乗った音の重なり。ドラムの音が入ると、舞台が明転。背中を向けたまま、膝を抱えてうずくまるような姿が現れる。衣服はすでに何も纏っていない。しかし、体の下に透明な生地の、おそらくはベッド着であるだろう衣装が敷かれているのも見える。幽き、とでも形容するのがよさそうなほど、はかなげにささやくボーカルが入ると、膝は立てたまま残し、ばたりと上体を仰向けに倒し、両手を宙に伸ばしての踊りが始まる。
 前半とは打って変わって、この曲の歌詞を判明に聞き取ることはほとんど不可能だ。具体的な言葉を拾い上げることができないから、動きが何かの意味を伴っているのか判断することが難しくなっている。そしてまた、ベッド着に袖が通されると、そのベッド着の特異なことにも気付く。透明な生地にいくつか大きな穴が空いていたり、あらぬところにふくらみがあったり、どう着るのが正解なのかまったく掴めないような、いっそアンフォルメルなとでも言ったほうがよさそうな衣装であるらしい。多義性。これかと思った。また、穴の周囲にはピンク色のフリルが苔状にあしらわれており、深海生物か秘境の植物か、どうにもこの世ならぬ雰囲気を漂わせている。
 本舞台で、フロアの左右へ身体を投げ出すように踊るシークエンス。曲の盛り上がりに応じて立ち上がると、何かから開放されたように回転し、盆上へと躍り出る。溜めた力をいびつに放出していくように、上体は横ざまに倒しながら捻りをくわえ、両手がY字に、じりじりと──やはり植物の成長を微速度撮影で捉えたような──伸ばされていく。M1では、ヴェールを使った踊りとはいえいつも通りの「宇佐美なつ」の文体だった。M3はまったく違った、たとえば舞踏的な力の配分とでも言えるだろうか、いずれにしても2拍ずつ曲を刻んだりするような曲との強い同期ではなく、いつもとは別様に音楽/踊りの関係を捉えなおそうと試みている。ここを「踊り」として見せるのは、"間の持たなさ"に苦吟してきたこれまでの振付歴の過程を思うと、とくにチャレンジングなパートだったはずだ。 
 最後は力尽きたように盆に伏せ、曲は終わる。

 

 毎回泣いていると友人のひとりが週の後半にもらした。めずらしく長期の休みを得た彼は、この週もっとも『し-せい』を見た観客になった。演目に泣いているにせよ、この週の楽しさにも泣いているのではと茶々を入れたりする。なんで泣くのか分からんねや、どこで泣くんやとまた別の友人が言う。分からんねんなとぶつぶつ言ってる。自分で考えたまえよと放置。あんたもそんなごっついのに、涙なんか流さへんような顔して。こちらにまで疑問は及び、いつまでも食い下がる。放置する。 
 確かに泣いた。ストリップを見ていて涙することはしょっちゅうある。そのように語る人もいくらもいる。でも、劇場で実際に涙を拭っている人はあまり見かけない。親しい友人たちはよく泣いている。でもまあ、初日の初演が終わったあと、友人にハグされながらおんおんと泣いているようなのは確かに自分くらいかもしれない。これを従業員のひとりに見られていて、楽屋話にもちこまれたようだ。すごいピュアなお客さんがいるんですねとある踊り子は答えて、しかしどうやらそれが自分だと知ったら「じゃあピュアじゃない!」と評価を訂正していた。ピュアかピュアでないかはそれぞれの見識に委ねるが、自分のその様子を見てもらい泣きした、という声もあった。この人が一番ピュアだと思う。

 

 M4。ピアノの音が流れ出し、甘い男声ボーカルが聞こえてくる。目覚めたように手をついて体を起こし、膝をつき、上体を実にゆっくりと、しかし確かに起こしていく。曲がサビに向かっていく気配と共に、この動きをポーズへの予感として受け取れるなら、クライマックスへの期待を高める動きとして充分に効果をもたらしている。そしてシンガロングするボーカルとともに体を持ち上げ、左脚を約30°に保持する。なんというポーズだったか? そして左手ではベッド着を垂直に引き上げている。

 

 聞き覚えのあるイントロから、ボーカルの声を聞いて、ああこの曲かと思った。ある意味直球のバラードで、すごく「ストリップらしい」立ち上がりでもある。そんな正統な手触りでポーズが切られれば、当然涙が出る。この立ち上がりについて、友人と感想をいくつか交換した。そこで気づいたことがあった。

 

 今回の演目で注目したいのは、顔の扱い。これだ。最初のポーズでは、形を維持しながら、頭はやや左方向に逸らされるようにして、若干うなだれるとでもいえるような形で保持されている。盆は回転しているから、その表情が完全に見えないわけではないにせよ、少なくともそのポーズをどのように受け取るべきかを補助する有意な表情は読み取れない。このこと。
 立ち上がりでのこうした顔の──とりわけ読むべきは表情なので頭の向きのことだとしても「顔」と統一するが──扱いはほとんど一貫している。スワンであれベッド着の持ち上げを伴って視線をそこに集めているし、エルに至っても、足先でベッド着をつまみ、それが盆外に垂れる光景を演出していて、顔を見せることが都度びみょうに避けられてもいるようなのだ。
 思い出してみるなら、この演目は冒頭から背中を向けて始まり、M2でも振り返った後ろ姿で暗転し、M3も背中を見せたままうずくまる姿から始まるという、顔が希薄になるような仕方で演目が進められていることにも気づける。しかし、顔の希薄さとはいったい何を意味しているのだろう。

 

 ここ1年ほどは特にそうだったと思うが、宇佐美はその表情で演目のエモーショナルな側面を増幅するようにしていたはずだった。『アンビバレント』や『サマーチュール』にある、目を閉じ、かたや叫ぶように口を開いて切られるダイナミックなポーズ。『H4U』での顔を覆う指の間からのぞくような悲しげな目つき。あるいは『ワンダーテイスト』でひとりの客をロックオンしてしゃぶるようにして見つめるときの顔つき、今日の言葉で「表情管理」とでも言えそうな表情の表れが、確実に演目の効果を底上げしていたはずだ。『し-せい』と組み合わせて同週奇数回に演じられていた3周年作『さん-せい』のラストでも、曲の歌詞に合わせたリップシンクをしてみせるほど、その演目が要請しているだろう情動の喚起の補助線として、顔を使うことを重視していた。

 

 これらを前提にすると、今作における「顔」の希薄さはやはり特異なものと思わざるを得なかった。

 

 片膝を着いたブリッジ(やはりその表情が掴めないポーズ)を最後に、ポーズのシークエンスは閉じられる。ベッド着から袖を抜いて、まるで抜殻/亡骸かのようにして腕に抱えたまま、それを静かに床に横たえる。そうして文字通り一糸まとわぬ姿のまま、盆のつらにほど近い場所で、正面をしばし見つめて立ち尽くす。ここでようやく観客は、あらためて顔をはっきりと眼差すことになる。だが、その顔はごく慎重に、その顔へと殺到する意味を抑え込むようなものに見える。そう、意味するものが何もないのではなく、特定の意味を選ぶことがないようにすべてを飲み込もうとする顔。 
 もちろん、そうした解釈は主観的なものに過ぎないと言われれば、確かに明瞭に反証する根拠は持っていないと言わなければいけない。「そう見える」ということから一歩も出てはいないのかもしれない。ただし、そこに有意で特権的なひとつの意味を与えるに足る根拠も、ないように思える。『し-せい』というタイトルが一義に確定できないように、溢れ出てくる意味が背後に控えている。そうでなければ、どうしてこうなっているのか?
 ラスト。冒頭のように、そして何度も繰り返してきたように背中を向けて本舞台の方へと歩み去っていく。ここでの溶暗は、盆から足を花道へ踏み出してすぐに始まり、ほぼもう一歩を踏み出そうとするかどうかというタイミングで、余韻を断ち切るように早々に暗転しきってしまう。ピアノの響きだけが暗闇にかすかに残っている。

 

 これは想像だが、『し-せい』は、この立ち上がりのイメージから考えられた演目なのではないかと思う。最後のような、多様に意味を纏うはずの裸体がまったくプレーンな状態(を意味するようなかたち)で現れることを目指し、ドレスや下着や、あるいは不思議な形の衣装が組み合わされたのではないか。そして、組み合わせの結果に思いがけず何か物語のようなものがおぼろげに浮かび上がり、しかし同時に、そのおぼろさを崩さぬように保ちながら構成されたのではないか。なぜなら──そして1度だけ特定の言葉へもたれかかることが許されるなら──そのようにしてしか語り得ない「私性」があるはずだからだ。
 ただしこれは、作家の意図を推測しているようで、そうではない。"作家の意図を推測するという形で自分の印象を整理している"のだ。繰り返すけども、ここでは答え合わせをしたいわけではなかった。
 

 これはひとつの記録だった。

 

 最後の暗転にピアノの音も溶けいって、舞台には何もなくなった。静かだ。1秒、2秒……どのくらいだったか。明転して、ようやく拍手が鳴った。今週めでたく4周年を迎えました、宇佐美なつの写真のコーナーですと投光室のマイクアナウンスが入っても、拍手は重なって鳴っていた。その演目がすばらしかったから鳴った拍手なのか、周年を祝福する拍手なのか、はじめての演目を演じるという時間に立ち会ったことへの拍手なのか、わからないし、わかるわけがない。ただ、暗転の間の静かさと明転のあと、のっぺりとした照明のもと舞台に残ったベッド着を前にしながら誰もいない舞台に送る拍手は美しいと思った。で、自分はといえば泣いていたのだった。けっこう恥ずかしいくらい泣いていたけど、まあいいかーと思って、べろべろに泣いていた。いい周年週がはじまるなと思った。そのあとの写真ではなんだか話が噛み合わず、結局最後は少しイラッとした。でもいい日だった。