37

37歳になった。
27歳になったとき、もう27歳だよと息を漏らしたことをなぜか覚えている。そこから10年も経ったわけだ。

母が37歳のとき、もう8歳になる子供=私を育てていた。私が8歳のとき、1995年。親子ともどもインフルエンザにかかって朦朧とした頭でテレビをつけたら阪神大震災のニュースが流れていて、そしてその朝は買い置きのラ王を食べたことを覚えている。
それからオウムサリン事件があった、Windows95が発売された、AIR MAX95が流行って「ナイキ狩り」があった、たまごっちが流行って、いや、これは翌年だ。これはおそろしいほどブームで、とうてい手に入るようなものではなかったが、母の知人がなぜかそれを手に入れ、そしてまた、すごく欲しがったわけだったでもなかったような自分の手元に転がり込んで、それで、おやじっちとかを育てたのだった。ロイヤルホストで、それに進化したのだ。ロイヤルホストによく行っていた。その店舗ももうなくて、たしかバーミヤンになっている。

ヨーヨーに始まって、ジャグリングをやるようになって、それでもう25年以上経っている。25年以上の付き合いがある友人たちが何人もいて、関係の密度は変わったが、自分の人生のフレームの中に彼ら彼女らが変わらずにいる。そして、さまざまな形で自分の人生のフレームから外れていった彼ら彼女らがいる。生きている人もいれば死んでいる人もいる。

私は生まれてから一度も父親に会ったことがなく、かつ、そのことについて何の感情もない。父は私の生の原因であり、母の人生の重要な部分を担った人間としてのみ意味があるに過ぎず、それは、はるかな遠景を表すのために塗りつけられた、ほとんどシミと見分けのつかないかすんだ絵の具のような存在である。
けれども、ごく最近まで一度もそう考えたことがなかったのだが、彼にとって私はそうではない可能性があるのだった。生まれてごくわずかな時期を除いて一度も会ったことのない息子が、父にとってどのような存在なのか知るべくもないけれど、私と同様とは限らないだろう。なにか思い巡らせることがあったのかもしれない。
ただそう考えたからといって、特に会いたいとも思わなければ、会いたくないとも思わない。
けれども、こうして時々ふと頭によぎるのだ。

こういうと陰気な話だが、私は別にいつ死んでもいいと思っていた。それは死にたいというわけでもなく、現在を楽しんでいないわけでもない。ただ、私が死ぬことが大きく人生に作用する人間は、母を除いては特にいないと思っていたということだ。
これもいつしか変わっていった。私は、多くの、ほんとうに多くの友人たちに恵まれていると思う。そうした私がそれなりに健康的に生き続けることは、友人たちが友人であることへ敬意を示すことでもあるし、果たすべき責任と考えるようになった。ようやく大人になった、ということだ。

私はこれから先、自分の子供を残すつもりは一切ない。これは10代の頃に決めたことでもある。だからおそらく私は、こうして私が母を思い出すように私を父として思い出す自分の子供を持たないまま死ぬだろう。だが、私のことを思い出す友人たちはいるだろう。思い出してほしいというわけではない。仕方なく、どうしようもなく、あるいは気まぐれに、私は思い出されてしまうだろう。
私は37歳のころの母を、70歳のころの祖母を、5歳のころの犬たちを、16歳のころの友人を、24歳のころの好きだった人を、とりとめもなく思い出している。

私が一番好きな映画のひとつ、エドワード・ヤンの『ヤンヤン  夏の想い出』。叔父の結婚式からはじまり、その結婚式から昏睡してしまう祖母の葬儀で終わるこの映画では、登場人物のほとんどが人生の(再)構築に失敗する。その構築の試みの多くは未来への期待と過去のやり直しのどちらをも折り畳んだものであり、小さな男の子のヤンヤンは、人生にそうした襞があることをまだ知らない。ヤンヤンには、大人たちの振る舞いの意味がわからないし、どうして祖母が目覚めないのかもわからない。ただひとり、身近な人達の背中をフィルムカメラで撮影することに熱中する。背中は自分では見えないだろうと言う。
そのヤンヤンが、映画の最後、葬儀で手紙を読む。いまの私は、このヤンヤンの手紙でどうしても泣いてしまう。その手紙は確か、このように結ばれる。間違っているかもしれない。まあいいだろう。
「ぼくもいつか歳を取って、ぼくの甥っ子にこう言うんだ"お前も歳を取ったね"と」

37歳は、歳を取ったと言う側だろうか、言われる側だろうか。たぶん、言われる側だろう。私は若いとは言えないが、誰かに歳を取ったねと言えるほどまだ老いてもいない。けれども、そう遠くない将来に、そうした襞と皺を背負った人間として生きることになるだろう。
ずいぶん白髪が増えてきたなと、めずらしく頼んで撮ってもらった写真を見て思った。